バスに乗らずに、鉄道だけで行ける役場は全体の三分の一もないが、それらの役場へ行くにはいちいちバスの時刻を調べる必要はなく、余計なバス代もかけずに行ける。特に鉄道の周遊券やフリーキップを使うとかなり得をする。だから効率よく回れるし、行き易いはずだと思いたくなるが、実はそうとも限らない。役場によっては結構駅から遠いものがある。駅から片道2キロもあると、往復で4キロ歩くことになる。
きちんと統計をとったわけではないが、なぜか新潟県にはそのような役場が多い。今回は空白地だった新潟県の下越から中越を中心にまわったが、特に駅から遠いという役場が多かった。15,000円で4日間新幹線や特急にも乗り放題というJR東日本の「大人の休日切符」を使ったが、その有効期間に合わせなければならず前後スケジュールが詰まっている中をなんとかやりくりして出かけた。あと2カ所となった山形県から新潟県北部に入ることにした。

山形新幹線で米沢へ
東京6時12分発の山形新幹線「つばさ121号」は最新型のE3系2000番台、東北新幹線本線との並結のない単独の7連で、東京駅では長いホームの上野寄り片隅に遠慮しがちに停まっていた。走行性能は新幹線並み、車両限界は在来線並み、なんとなく中途半端な片側3人掛の新幹線型車両に比べて両側2列の座席配置は落ち着きがある。走行に余裕が感じられ、アコモデーションを含め、私は今の日本の鉄道車両の中でナンバーワンの車両だと思う。
米沢に定時着、市役所は市中心部の北方、駅から約2キロのところにあり、最上川の土手上を歩いて行った。次の列車までは2時間あったので、市内見物をした。市中心部にある米沢城址は上杉神社となっており、上杉景勝、直江兼続、さらには米沢藩中興の名君と言われている上杉鷹山の銅像があった。関ヶ原合戦後上杉家が移封されるまでは、米沢が伊達藩の本拠地だったそうで、伊達政宗が生まれたのも米沢城だったことを初めて知った。米沢盆地の最南端にあり、東北防衛上の要として最適な地だったのかも知れない。
さらに南に下ると山形大学工学部がある。私の父親が旧制米沢高等工業学校卒業で、いつだか校舎の写真を見せられたような覚えがある。本館というのが明治43年(1910年)に建てられた当時の近代建築で、それが今も残っている。ルネッサンス様式を基調とする木造2階建で、正面玄関から両翼に100メートル近くに及ぶ建物は、間近に見るとその大きさに圧倒された。大きな玄関ポーチの上部はベランダがあり、その両サイドには尖塔状の塔屋もあり、国の重要文化財にも指定されている。内装も漆喰塗りが主で、特に階段廻りや会議室の天井などの飾りに特色があるそうで、学校建築史上でも貴重なものだそうだ。あいにく外装を修復中で、最も特徴のあるそうな可なりの玄関部分が幌で覆われていた。修復工事が終わったらまた見に行きたいと思った。
ここまで来ると米沢駅よりも、米坂線の南米沢駅の方が近く、そこまで歩き列車を待った。米沢駅を出てから、6.5キロほどを歩いたことになる。米沢には、役場めぐりで何度も通過したり、乗り換えたりしたが市役所に行ってなかったのは駅から遠かったからということもある。余程の覚悟をもって行かなければならないと思っているうちに、結局山形県の最後から2番目となってしまった。時間があったおかげで父の母校も見ることができ、よく父が「なせば成る」と言っていたことを思い出すこともできた。


米坂線で小国から日本海へ 山形県100%達成
山形県最後の小国町に向かった。米坂線も東北地方を東西に横断する路線の一部だが、地形の関係からか大きなS字状の迂回がいくつかあり、速達性に劣る路線だ。かつては仙山線と米坂線を走り仙台と新潟を結ぶ急行や貨物列車が走っていたが、高速道路の伸展とともにその役割も失せ、完全なローカル線になってしまった。特に山形新幹線が標準軌化されてからは、奥羽本線への乗り入れも出来ず、離れ小島的でもある。この途中の川西町と飯豊町へは一昨年の2009年、米沢からこの線に乗り飯豊町のある羽前椿からまた米沢に戻っている。さらに最上川の谷間にある長井市や白鷹町には10年以上前に行っている。
羽前椿から山間に入りやがて峠を越えると日本海にそそぐ荒川の上流だ。小国はその荒川に開けた盆地にあり、地形的にも、経済文化的にも新潟県の一部と言っても良いと思うが、ここまで山形県である。かつての越後と羽前の国境をどのように決めたのかわからないが、このような例は栃木県の足尾などいくつかある。だからそう珍しいものではないが、地理的には面白い。羽前椿から小国までの間、列車は1日に6往復しかないが、この間停車した4つの駅での乗降はいずれもゼロだった。それでも列車には結構客が乗っており、観光や鉄道ファン風の人が多かったのは「大人の休日切符」利用者なのかも知れない。
小国町は人口8,500人ほどで、駅裏にはコバレントマテリアル(株)と日本重化学工業(株)の大きな工場がある。前者は元東芝セラミックスで今は外資の傘下にあるが、さらに荒川を下ると同社の私用発電所となっている赤芝ダムがあった。このような工場があると東京からのエンジニアなどの往来も多いと思うが、山形新幹線で米沢経由と上越新幹線での新潟経由のどちらも所要時間と費用で大差がない。大きな工場があるせいか、町中心部のショッピングセンターも結構賑わっており、人口の割には活気が感じられた。これで山形県100%を達成した。
さらに荒川に沿って下り、件の赤芝ダムなどを車窓から眺めているうちに新潟県に入り、周囲が開けてくると越後下関(しもせきと読む)、ここで下車し関川村役場に行った。ここは旧米沢街道の宿場町のまち並みを残しており、村役場の向かい側には、これも国の重要文化財である豪農の館「渡辺邸」があったが、ここも改修中で幌を被っていた。次の米坂線の列車は4時間後、先に出る1日4本の村上へ行く新潟交通のバスに乗った。


空白地域の村上とその周辺へ
村上の市役所も村上駅から2キロ近く離れていたが、近くのバス停で降りたので、歩く距離が助かった。かつての村上藩の城下町の面影を残そうとしているようで、市役所近くには商人町の街並みが復元されていた。市役所横には、皇太子妃の出身地という大きな案内板があった。小和田家の本籍地だそうだ。
村上駅まで歩き、県最北の町山北町に向かった。平成の合併で村上市の一部となったが、JR最寄り駅は府屋、特急「いなほ」でも約30分要した。特急にも乗れるので「おとなの休日切符」はありがたい。駅から徒歩5分ほどの支所に行き、各停列車で村上に戻った。羽越本線下りは村上駅を出ると間もなく直流から交流に変わる。そのせいかこの間の各停はすべて気動車だ。列車はほとんど日本海の海岸ギリギリを走る。明日行く粟島もずっと車中から見えていたが、夕日の逆光が強く良い写真が撮れなかった。しかし運よくサンセットは見ることができた。村上駅近くのビジネスホテルに泊ったが、周辺は学校や病院、工場跡地なのか広い駐車ばかりで、夕食を食べる店もなかなか見つけられなかった。


粟島へ
2日目のメインは粟島だが、早朝のバスで北東郊外にある旧朝日村へ往復した。よく確かめずに10分前に出る同じ方面に行く別のバスに乗ってしまい、途中で気が付き役場まで3キロほど歩くことになってしまった。深い森の中、小径の先に庁舎が見えた時にはほっとした。帰りのバスに間に合ったからよかったものの注意力に欠けていた。
村上駅前に戻り、岩船港方面へ行くバスに乗った。県内では有数な規模を誇る瀬波温泉を通り、バスは岩船の市街地に入るが、港へは行かない。上大町というところで降り10分ほど歩いた。このシーズン粟島へは毎日フェリー1往復と高速船2往復があるが、台風の余波で高速船は終日欠航。当初計画はフェリーで行き、2時間ほど島に滞在し高速船で戻り、さらに4つの町村に行くことにしていたが不可能となり、2カ所だけにして、明朝残りの2つに行くことにした。
「あわしま」という名前のフェリーは626トン、乗客定員487人、15ノットで航行し所要時間は90分だ。フェリーなので自走式で車を積めるが、利用できるのは島民と島で業務のある者に限られ、一般観光客の車は載せられない。高速船が欠航なので、その分客が多いかと思ったら全体で100人もいなかった。ずっとデッキにいたが波高2.5メートルとの放送があり、結構揺れた。しかしスピードを落とした様子もなく5分程度の遅れだった。
粟島は粟島浦村に属する1島1村の島だ。東西4.4キロ、南北6.1キロ、面積9.9K㎡は東京都の台東区とほぼ同じくらいだ。2010年3月31日現在の住民基本台帳人口は345人で、全国で下から4番目、それよりも少ないのはいずれも東京都の離島村で、御蔵島、利島、青ヶ島だ。フェリーの定員よりも島民人口が少ないということは、何か事があれば全村民が1隻で避難できるということか。島の東側の内浦地区の港、粟島漁港に着岸した。集落は他には西側の釜谷しかない。この2つの集落を結ぶコミュニティバスが走っていた。
村役場は港に隣接しており、その横に東北電力の発電所があった。役場では観光客向けに自転車やリアカーの貸出をしていた。フェリーターミナルの2階にはレストランがあるが休業中、4~5軒あった飲食店のひとつに入ったが、たぬきうどん1杯850円というのは安くない。この島は地下水が豊富で水ききんになったことはない、小中併設校の生徒数は合わせて20人くらい、1964年の新潟地震の震源地はこの島の沖合で、島全体が1メートルくらい隆起したという話を店のおばさんから聞いた。フェリーターミナルの向かいに小さな池があり、そのなかに弁天岩という小山があったが、新潟地震前は海中の島だったと書いてあった。学校は鉄筋コンクリート3階建ての大きなもので、正門前には信号もあった。
港には欠航中の高速双胴船「awalineきらら」が停泊していた。岩船までの所要時間はおよそ55分でフェリーの半分までは行かないが料金は2倍だ。定員は170人、今年4月に就航したばかりの最新型だが、波には弱いのだろう。結局島には3時間半滞在した。帰りはもっと波が高く、船室でゴロ寝をしていたが起き上がると胸がむかついた。粟島漁港と岩船港は直線距離では約30キロ、これに対し本土側で最も近いのは羽越線の桑川駅付近で約20キロ、時間も燃費も節約できるのだから本土側の港を移した方が良いと思うのだが、歴史的経緯とか、既得権とかいったものがあるのだろうか。奥尻島のときも、江差か瀬棚からしか船が出ず、今のような車中心時代になったのだからもっと近いところにすれば良いのに、と思ったものである。
これで日本海側の離島町村は残り1つとなった。長崎県の的山大島(あづちおおしま)で、今は平戸市になっている。一昨年平戸港まできたが台風で行けなかった。長崎県でただひとつ残した役場であり、佐賀県も100%達成している。ここひとつのために大変な出費となるが行かないわけにも行かない。
岩船港から歩いて岩船町駅近くの旧神林村役場に行き、米坂線との分岐駅坂町で途中下車し、夕闇迫る旧荒川町役場に行き、さらに羽越本線で中条に行った。


胎内市と阿賀野市
中条では中条グランドホテルという、結婚式場もあるシティホテルに泊った。町役場の近くにあり、2食付きで8,400
円という「得々宿泊プラン」というのをネットで見つけた。前日中に黒川村から中条町へ歩きホテル入りし、翌朝は久々にホテル朝食を楽しんでから行動開始する予定だったが、高速船欠航で狂ってしまった。
5時45分にホテルを出た。特別プランなので本当は出来ないのだが、と言いながらホテルは朝食分を引いてくれた。05年9月に中条町と黒川村が合併し胎内市となった。お釈迦様か何かを連想しそうななんとも変な名前だが、この2つの町村の境界を流れている胎内川からとったという。ホテルが駅から1.3キロくらい離れており、胎内市役所となった旧中条町役場がさらに500メートルほど先にあった。
さらにそこから国道7号線旧道を3.5キロほど歩くと旧黒川村役場に着いた。村名を示す石票の後ろにわが国の石油発祥の地という石碑があり、天智天皇の時代に見つかった、原油が黒かったことから黒川村という名前になったことなどが書かれていた。そしてさらに2.7キロ歩くと中条の隣駅の平木田だ。ずっと歩き続け平木田駅に着いたのが7時ちょうどだった。この区間、ルートは決まっているが予約のあったときだけ運行するというデマンドタクシー型のコミュニティバスがあるが、マイルール上は公共交通とは認めたくない。
この後も、線路横にあるのだが駅からは1.5キロ離れた加治川村役場(現新発田市加治川庁舎)に行き、羽越本線の新発田・新津間のほぼ中間にある水原で下車、この近くでただひとつ残っていた笹神村へ向かった。04年4月に北蒲原郡の安田町、水原町、京ヶ瀬村、笹神村の4町村が合併して阿賀野市となり、旧水原町役場が市役所になった。水原は新潟から会津、郡山を通りいわきまで行く列島横断の国道49号線が通り、江戸時代には幕府直轄領となり代官所もあった。新潟に行くにはJRだと新津か新発田まわりになるが、国道を走り新潟市街に行くバスが急行を含め1時間に1~2本ある。
旧の水原町、安田町、京ヶ瀬村には10年ほど前の02年に来ている。新潟出張があった金曜日の夜新津に泊り周辺の役場めぐりをした。そのときは笹神村だけはバスがなく、駅から4~5キロなので後日運動靴で来ることに決めた。その後4町村が合併して阿賀野市となり、コミュニティバスも運行されるようになり、わかり易い時刻表が市のHPに掲載された。
笹神村という語感からは、鬱蒼とした竹藪か森の中にある、妖怪でも出て来そうな役場を想像していたが、阿賀野市笹神支所となった庁舎は、芝生に覆われた小高い丘の上に立つホテルか研究所のようで、陽光を浴び明るい感じだった。バスは建物の車寄せのようなところに停まった。水原駅前からは途中経路によって15~20分で行け、1乗車100円、10年待った甲斐があった。


政令指定都市新潟
新津まわりで新潟に出た。新潟駅の在来線駅は高架化工事を着手したようで、駅の前後は仮線ができていた。しかし駅部分は何も変わっていない。大体あんな狭いところでどうやって工事を進めるのか興味が湧く。時々進捗状況を見に来たいものだ。
新潟県100%達成の前に、まず県庁所在地新潟市の仕上げである。新潟市は2001年に黒埼町を、05年に新津市ほか12市町村を、そして05年に巻町を編入し、07年4月に浜松市とともに政令指定都市になった。人口は80万人少々だ。旧新潟市を含む15市町村に行かなければならないが、そのために今まで4回も来ている。
最初は89年のことで、当時走っていた新潟交通電車を旧県庁前で見た。歩道橋の上から撮ったと思われる写真が手許にあり、駅と電車の後方に新装なったばかりの市役所が写っている。ここにあった県庁が郊外に移転し、その跡地が市役所になった。駅名も県庁前から白山前に変わっていた。まだ本格的な役場めぐりなど考えてもいなかった頃のことで、後日記録を整理し、全国で12番目の訪問地としたものである。
その後は、毎週のように新潟出張があった時代もあったのだが、いつか行けると思っているうちに時間がたってしまった。新潟市の合併で面白いのは小さな規模の村がいくつかあったことで、これは多分昭和の合併をしなかったところが残っていたのだろう。政令指定都市として区制を敷いているが、とても1区を構成するには満たないところばかりで、複数の市町村からひとつの区になっているところもある。だからそれまでの役場は区役所になるのは良い方で区役所の出張所、すなわち2段階格下げとなったところも多い。出張所というと、平屋建て事務所程度を想像するが、旧役場時代に超豪華なものを建て、それがそのまま出張所になっているところもあり面白い。
このうち7カ所には一昨年2日間にわたって行っており、2カ所だけが残っていた。この2年の間に新潟交通バスの時刻表がHPですべて閲覧可能になった。前回は一部の路線しか閲覧できず、十分な計画が立てられず、現地で出たところ勝負という感もあった。もしそのときに全部のダイヤがわかっていれば、そこで終了していたかも知れない。
そんなこともあり、残りの2つへはかなり歩くことを覚悟していた。ところがHPを見たので、そのひとつ旧潟東村役場へは越後線の越後曽根からバスで簡単に行けた。一昨年旧西川町役場へ行くだけの目的で越後曽根に降りたのがもったいなかった。旧味方村役場へは、時間帯の関係で白根市中心部から往復5キロ歩くことになったが、これも一昨年わかっていればもっと楽に行けたはずだ。01年に完成の味方庁舎(南区役所味方出張所)は人口5千にも満たない村には桁はずれに豪華なものだった。



さらにバスで加茂に出て信越本線に乗り、これもまた駅から結構歩く田上町役場に行き、東三条から弥彦線に乗り換え燕に行った。燕市役所だけは燕駅から100メートルくらいしか離れておらず、朝から3万5千歩も歩きヘトヘトだっただけに助かった。そして燕三条駅前のビジネスホテルに泊った。
燕三条から長岡近郊へ
最終日も朝6時にホテルを出た。燕三条駅前にはビジネスホテルや大型ショッピングセンターがあり、ホテル激戦区なのか料金も安かった。弥彦線が新幹線とクロスしているが、新花巻や新岩国に比べると新在接続は便利だ。新幹線ホーム下のコンコースからは、赤い鳥居に続く通路を進み簡易段を降りると弥彦線のホームだ。弥彦神社へ行く気分にさせるためだろうか。尤も乗継のハード面は良いが、ソフト面は要改善だ。ダイヤは殆ど乗継を考慮しておらず、ホームが近いだけに残念だ。東三条を通って加茂あたりまで行く新幹線接続シャトル電車を走らせたらどうだろうか。


その弥彦線を吉田で乗り換えまず出雲崎へ、平成の合併ではどことも合併せず単独として残った出雲崎町役場に行った。そして2駅吉田方へ戻って小島谷で下車、駅裏の旧和島町役場、現長岡市和島支所に行き、これで越後線沿線の役場を完了した。車窓からはもう稲刈りの済んだ田もあったが、一面の田ではなく野菜畑もかなり多かった。わが国有数の米どころでも畑作転換が進んでいるのだろう。
長岡市も平成の合併で10の市町村を編入し、人口は28万強だ。今までに旧の長岡市と栃尾市、寺泊町、川口町に行っただけで、今回は和島、与板、中之島の旧3町に行った。まだ残りは4ある。
小島谷からは長岡行き越後交通バスに乗り与板で下車した。与板支所の玄関には馬上の直江兼続像があり、初日の米沢神社を思いだした。この後は電車、徒歩、バスで三条市の一部となった旧栄町、さらに長岡市に編入された旧中之島町役場に行き長岡に戻った。


まだ14時を少し過ぎたところで、もう一カ所、長岡市に編入された旧三島町に十分行って帰れる。しかし今日はここまでとした。それは携帯に1通のメールが入ったからだ。明日10人で大学ゼミOB会の青森旅行に行く予定だったうちの1人が今朝ぎっくり腰になり不参加になるというものだった。
今日帰宅後明朝6時30分に家を出て青森に行き、浅虫温泉で一泊する。いろいろな事情からこんなきつい日程になってしまったが、21時過ぎに家に帰り溜まったメールなどを処理しようと思っていた。しかし友人のことを聞き、もう若くはないのだから無理はいかんと自らを戒め、行動で示すことにした。だからここで役場めぐりを終え、新幹線を早いものに繰り上げることにした。しかし2時間後まで東京方面はすべて満席、仕方なく自由席にしたがそれも長岡乗車時点で9割方席が埋まった。高崎からは大勢の立ち客も出た。震災により旅行が減ったと言われているが安心した。

家には18時ごろ着いたので、翌日の準備も余裕をもってできた。今回は22町村に行き、山形県は100%達成、新潟県は残り8とした。長岡市に編入された4町村を含め、小千谷市など比較的長岡周辺にまとまって残っている。だから今回早目に切り上げることもできたとも言える。
鉄道だけで行ける役場というのは結構歩かなければならないということを改めて悟った。しかも今回は、ただでさえ歩かなければならないところが多かったのに、市内観光をしたり、間違ったバスに乗ってしまったりして、結局4日間で10万4千歩も歩いてしまった。それでもまだ腰を痛めずに済んでいる。
これで累計3035とし、残り224となった。100%未達の都道府県数も23となり半数以下になった。そのうち福井、滋賀、長崎の3県は、あとひとつ行けば達成というビンゴである。
