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公共交通の終焉近し 島根県過疎地の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 〜 公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅(その14)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

公共交通の終焉近し 島根県過疎地の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 〜 公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅(その14)

公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 【全100回】 公開日
(その1)総集編|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2020年1月31日
(その2)福島県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その3)青森県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年6月1日
(その4)東京都・埼玉県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その5)新島と御蔵島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年7月1日
(その6)奄美諸島と座間味島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年4月1日
(その7)中国山地の山奥に行きいよいよ残りひとつに|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年5月1日
(その8)小笠原で100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年9月16日
(その9)合併レースに追つけ追い越せ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年2月1日
(その10)格安切符の上手な使い方 三重県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年3月20日
(その11)四国誕生月紀行|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年1月26日
(その12)歴史の宝庫は地理の宝庫(岡山県備中・美作地方)|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年5月31日
(その13)青春18きっぷで合併の進む上越地方へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年8月20日
(その14)公共交通の終焉近し 島根県過疎地の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年10月15日
(その15)熊本県の合併前後の市町村へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年11月7日
(その16)悪天候で予定通りには行かなかった大分県の市町村役場めぐり|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年12月19日
(その17)2006年沖縄離島めぐりの旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年3月8日
(その18)2006年青ヶ島訪問記|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年5月8日
(その19)2006年6月14日 一日でまわった東京23区|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月14日
(その20)2006年 道南から津軽・下北へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月26日
(その21)2006年11月西彼杵半島と島原半島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年11月20日

 今回の合併特例法による島根県の市町村合併は今年(2005年)の10月1日ですべて終了し、市町村数が59から21へと3分の1近くに減少した。まさに合併先進県である。特に松江市が6町1村を、出雲市が1市4町を吸収した他、5町1村からなる雲南市ができるなど大形案件が多かった。私は島根県には6年前に今回合併のなかった隠岐の島前2町1村と松江、安来の2市に行っただけだった。だから今回は合併地域を中心になるべく多くまわりたかったが、山間部など交通の不便な場所が多く、効率の良いものではなかった。

厳しさを増す離島航路

 今回は隠岐島には渡らなかったが、隠岐への港として発展しようとした町が、それを断念した経緯を見た。米子空港から松江駅まではリムジンバスを利用した。このバスは中の海に浮かぶ江島と大根島を通る。最初の江島へは橋以外は、干拓のために造ったが途中でそれが取り止めになり堤防だけが残ったという、その海中の築堤上を走った。大根島と江島を合わせて八束町という独立した町だったが今年3月31日の合併で松江市の一部になった。その松江市八束支所にも行きたかったが、リムジンバスは庁舎前には留らず、松江駅前までノンストップだったので寄れなかった。

 6年ぶりの松江駅前は広場が整備されており、バス乗場がわかり易くなっていた。一畑交通の案内所で「パーフェクト・チケット」を購入する。2500円で2日間、一畑電車、バス、市営バスが乗り放題のほか23の観光施設で割引などの特典が得られるものである。

 早速これを使い、まず松江の真北、島根半島を越え日本海に面した旧島根町に行った。駅前からの一畑バスは役場から2キロほど手前の「マリンゲートしまね」が終点で、そこから役場など町の中心部へ行くにはさらに町営バスへの乗換えが必要だった。町営バスの料金は一律200円だが、松江市内からのバス乗継だと80円と割引になり「パーフェクト・チケット」でも同様だった。合併後6ヶ月と日が浅いせいかまだ町営バスの表示のまま走っていた。旧八雲町や八束町にもこのような自治体バスが走っており、従来からの松江市営バスも含め今後どのような形で統合されるのか興味が湧く。

 役場は松江市役所島根支所になっていた。すぐ近くの加賀(かか)港からは超高速船レインボーによる隠岐への定期航路がある。松江市内からは最も短時間で隠岐に行けるコースだと思ったが、来年1月から廃止になることが地元の新聞に出ていた。利用者の低迷と隠岐汽船の経営悪化によるものらしい。人だけでなく貨物などを含めた輸送という面では従来からの境港や七類との航路を廃止するわけにも行かず、期待された新航路だったが数年も持たなかったようだ。隠岐汽船は1998年度には3.5億円の経常利益を出すなど地域の優良企業だったが、2002年度決算で1.1億円の経常赤字に転落した後、3.5期連続して経常赤字となり2004年度の赤字額は3.2億円に拡大した。さらに最近では原油高騰に伴う燃料費増も加わり、本年度の経常赤字は5億円に増える見通しとのことだ。経営悪化の主因は乗船客の大幅落ち込みで、98年度の年間62万人をピークに年々減少し04年度は53.7万人に減った。島民の利用のほか、観光やビジネス客も軒並み減っているほか、フェリー部門では車両の輸送が減り続けている。公共事業の削減に伴い、ダンプなど工事用車両の輸送量が減少しているのが大きいそうだ。

 戻りは時間があったので「マリンゲートしまね」まで歩いた。ここには2004年4月にオープンした多目的ホールなどのある町民会館のような建物があり、1階は地元の海産物をはじめとするお土産コーナー、2階は展望の良いレストランがあり昼食に入ってみた。海鮮丼など最低でも1050円したので高級レストランの部類、ということになるのだろうが味はたいしたことがなかった。なお前述の加賀港には「マリンプラザしまね(人と情報・文化の交流館)」という船のターミナルを兼ねた建物があったが、航路廃止後はどう使われるのだろうか。  
 この島根町には中国電力の島根原発もあり財政は裕福なはずだ。佐賀県の玄海町や福井県の高浜町、大飯町のように周辺の合併とは距離をおく原発城下町が多いなかで、松江市の合併に加わったということはどのような判断があったのだろうか。

西洋人に見せたい日本の風景 松江市内

 市の中心、県民会館前に戻り再びバスで旧鹿島町まで行き、帰りは小泉八雲邸の前で降りた。6年前家族と来た時に邸内の見学をしたり、堀川の遊覧船に乗ったりしたので、今回はこの辺りを散策した後松江城内に入り木立の中を歩いた。平日のせいか観光客は少なく静かで落ち着いた雰囲気だった。私は松江が日本のなかで多分最も日本らしい、日本文化を誇ることのできる都市のひとつだと思う。是非西洋人に見てもらいたい町だが、日本人もヨーロッパに観光旅行に行く前に見ておいた方が良いと思う。

 天守閣はパスし、近くに興雲閣という明治時代に建てられた白亜の木造洋館に寄った。明治天皇の御宿所とするために建設したもので、日露戦争のために天皇の行幸は実現しなかったが、ロシア宮殿を真似ようとしたものらしい。今は松江市教育委員会松江郷土館となっており、民俗資料・工芸品など郷土資料が展示されていた。たまたま「新松江市の歴史と文化」という企画展が行われており、新しい松江市を構成する8市町村の個々を紹介したコーナーがあった。それぞれの展示物は雑駁でたいしたものはなかったが、市町村合併の変遷などを表したパネルは面白かった。島根県では明治の大合併でそれまで942あった地方自治体が278の市町村になり、昭和の大合併で61になり、そして今回21になったことがわかった。

 建物は1、2階とも周囲に列柱廊を設け廻廊となっており、特に玄関ポーチ上の部屋は拝謁所を目的した応接室で、古いテーブルやソファーとともにお茶のサービスもあった。ここからは城内の木立越しに松江市内が見渡せ、しっとりとした落ち着いた雰囲気に浸ることができた。  

 県民会館前に戻り一畑バスで55分、木次線沿線の大東まで一気に行った。片道のバス代は990円なので「パーフェクト・チケット」の元が十分取れた。昨年11月にさらに山奥にある木次町など6町村と合併し雲南市となったところだが、今回は木次線キハで隣の加茂町との2町に行っただけで日没、時間切れとなり木次線と山陰線を乗り継ぎ松江に戻り市内のビジネスホテルに泊まった。素泊り4725円で、部屋は普通だったが無料の温泉大浴場があり得をした感じがした。

出雲平野と佐賀平野の類似性

 翌朝はビジネスホテルから徒歩10分の松江しんじ湖温泉駅から一畑電車に乗った。2002年1月に改築されたという駅は総ガラス張りで、ヨーロッパの最新の駅のようなデザインだった。電車は元南海電車の車両で、「1996年南海車両」と書かれた銘盤が貼ってあったがこれは新造の年ではなく、一畑に譲渡するために改造したときのものだろう。車両長も短く、窓のひとつひとつに座席灯のような照明がついていたので、高野山特急に使われていた車両なのかも知れない。このほかに元京王電車の車両で3扉を2扉に改造した車両も走っていたが、こちらには乗るチャンスはなかった。

 車窓から宍道湖の景色を楽しみながら雲州平田で降り、今年3月に出雲市と合併した平田市に寄った後出雲大社へ行った。駅近くの、ここも出雲市と合併し大社支所となっていたが、社の形を中途半端に真似たような格好の旧町役場に寄った後、本当の大社へ行った。学生時代の1965年に友達と来たことがあるのだがよく覚えていない。鳥居から400メートルほど続く松並木の参道の先に拝殿、さらにその奥に本殿がありいずれも大社造りという立派なもので、古来日本の文化を代表するものだ。ここも日本に興味をもつ西洋人には是非見せたい所だ。

 またここでは古代の本殿の話が面白い。それは平安時代頃のもので、高さ30メートルくらいの9本の柱の上に立つ空中神殿とでもいうべきものがあったという。地面から屋根までの高さは48メートル、長さ100メートルにも及ぶ階段で登ったという。その復元モデルが鳥居の手前の観光物産館にあった。実際に2000年になってから、平安後期の本殿を支えた巨大な柱の根元部分が境内から出土したので、このような規模のものがあったということは単なる言い伝えだけではないということのようだ。直径1メートル以上の丸太3本を束ねて1本の柱としており、そのレプリカが拝殿の裏に置いてあった。

 このようなものを当時造ることができたということは、その技術力に驚くが、それができたという経済力もすごい。私は考古学には弱いし神話の類には興味がないが、弥生時代から古墳時代にかけての出雲平野や安来平野を中心とする古代出雲の経済力や文化はかなり高度なものだったようで、強大な国があったようだ。

 その話を聞き、このあたりの風景を眺めていると古代この地方が、他と比べてかなり恵まれた自然条件だったのではないかと想像できる。広い平野は島根半島の山々によって日本海からの北風から守られ稲作などに適していただろうし、宍道湖や中海は汽水で魚介類に恵まれ、しかも楽に漁ができただろう。ふと佐賀平野のことを思い出した。背後に背振の山並みを持った広い平野と遠浅の有明海、吉野ヶ里遺跡も同じ頃のものではないのか。古代文化は良い自然条件のもとに発達する。そして出雲にはさらに製鉄もあった。大陸からの渡来人が、自分たちの故郷の方を向いている日本海沿岸で移住先を探し、そしてたどり着き定着したのがこの出雲ではなかったのだろうか、私の素人考古学である。  

 この地方で一大勢力を保っていた一族は、大和朝廷による統一、さらに律令制下のもとで宗教面を管理する役職である国造となり、その子孫が現在まで続いており、その後裔である千家氏と北島氏がそれぞれ出雲大社教、出雲教という宗教法人を主宰しているということも知った。それにしても佐賀にしても出雲にしても、かつては圧倒的に優れた経済のもと強大な力をもっていた地域が、現在のわが国の体制のもとではすっかり脇役に転じ佐賀県、島根県といずれも政令都市ひとつに満たない人口規模の小県になってしまったというのも、歴史のというだけでなく地理の必然でもあるようで面白い。

出雲そばにはありつけず

 大社の鳥居の前から出雲市役所近くまでバスに乗ったが、途中旧国鉄の大社駅跡を通った。1990年の大社線の廃止後も駅舎やホームが保存されている。神社風と洋式とをミックスさせたような木造建築だが、海外の日本公館などに取り入れたら良い建築様式だと思う。子供の頃東京駅で大社行き夜行急行を見たことを思い出す。しかしこの大社駅、出雲大社からは2キロ近く離れ、最寄駅としてはあまり便利ではなかったのかも知れない。

 JR出雲市駅は98年に高架駅となった。駅前は広々としているが、正面のメインストリートで営業している店は少なく閑散としている。1キロくらい離れた市役所の近くに大型ショツピング・センターがあり、古くからの商店街が打撃を受けているのが良くわかる。首都圏では混雑する踏切が多く残っている一方で、地方のさして緊急を要しないようなところがどんどん高架化されて行く。地元の反対もなく景気浮揚としての公共工事の誘致にバブル期のありあまる予算がミートしたものだろうか。地方都市の真新しいコンクリート橋脚と砂塵を吹き上げるだだっ広い広場を見る度に、本当に必要な公共事業とは何なのか、ということを考えずにはいられない。真に必要なものを必要なところに作る、反対者に対する説得活動やマネーゲームを行おうとする者に対し断固たる対応をする、これが政府のするべき仕事ではないのか。

 出雲市駅前から南西の方向にある旧佐田町まで一畑バスで往復した。この町の中心地である須佐まで18.7キロは64年まで一畑鉄道立久恵線という鉄道があった。このバスはその鉄道路線に沿って走るもので、途中の立久恵峡では渓谷に沿う2本の道路がそれぞれ一方通行になっていた。なんとなくどちらかがかつての線路跡だったのではないかと思い、帰ってから調べて見るとやはりそうだった。復路の、出雲市方面行きの道路の方がカーブや勾配の感じで何となく鉄道路線跡のように思えたがそれが正しいかったようだ。

 40年前に友達と来たときにはこの鉄道は廃止直後だったのだが、その頃は廃止された鉄道などには興味がなく、それよりもそのときに食べた出雲そばの味が忘れられなかった。出雲大社の近くの店だったと思うが初めて食べた割子そばで、五段重ねでそれぞれに異なる薬味が入っていて好みの量のそばつゆをかけて食べる、実に旨かった。だから今回も出雲そばだけは食べようと佐田町から戻ってからの時間を余分に取っておいた。JRの駅前だから2~3軒のそば屋は当然あるだろうと思っていたら広場を挟んだ正面に1軒だけある。しかし定休日の札が掛かっていた。仕方がないので駅構内の食堂の出雲そば定食で我慢した。三段の割子にチラシ寿司のついたもので800円、薬味は共通のものを自分で入れるので却って手間である。味も特別のことはなく、すっかり興ざめてしまった。

 出雲についてはもう少し見たかったこともあるし、たたら製鉄についても調べたい。次にこの方面に来るときはもっと余裕を持ったスケジュールにしたい。そして旨いものを食べるときは、やはり友達か家族と一緒に、「美味しいね」と言いながら食べたい。そのためには市町村めぐりを終え、公共交通に制約されない自由な旅が出来る身分に早くなりたいなどと、他人が聞いたら何て贅沢な、というよりも馬鹿と言われそうな事を思ったりした。

 更にJRとバスを乗継ぎ、旧光陵町、旧多伎町の役場に行った。これで新しい出雲市となった全市町村には行くことができた。泊りは温泉のある温泉津にしたかったが明日早朝の三江線に乗るために江津まで行った。

江川に沿って歩く

 江津では駅近くの旅館に泊った。朝食なしの夕食つきで5000円、ビールが1本500円だった。江津は昨年10月隣接する桜江町を編入したがそれでも人口は28千人台と3万に満たない。江川河口にあり江戸時代は北前船の寄港や石見銀山からの積み出しなどで繁栄していたそうだ。今は瓦メーカー数十社が操業している他松下電器や日本製紙の工場があるが駅前などは静かというよりも寂しい。漁港もあるが、宿で出された魚は浜田漁港から来たものだという。宿の娘さんが東京に嫁いでいて、東京に行くには不便な所だが、最近は浜田からの夜行バスを専ら利用しているとのことだった。

 江津駅前から広島へ行くJRバスが4か月前に廃止になっていたことをここに来て知り、計画を大幅に変えなければならなくなった。それでもまず当初予定どおりの江津発6時12分の列車に乗り、旧桜江町役場のある川戸まで行った。着いたのが6時40分、その先に行く次の列車は13時22分だから、何と6時間42分の間列車がない。だからこの間江津から三江線に沿って走るJRバスに乗り、因原で乗り換え瑞穂町まで行くつもりでいたのだが、それができなくなった。ここで7時間近く待つ訳にもゆかないので因原まで対岸の国道261号を歩くことにした。

 駅前でめずらしくこの時間から開いていた店でアンパンとお茶を買い込んだ。6~7キロ進んだところで再度江川を渡り、石見川越駅で休憩し今度はほぼ三江線に沿った道を辿った。川戸から因原まで、時刻表に載っている営業キロは15.0キロとなっていたが、道路の方は大きく迂回していたり、対岸へ渡ったりしたので2キロくらい余計に歩いたような気がする。因原に着いたのが10時ちょうど、この間合計20分くらいの休憩を含め3時間20分要した。

合併には影響されない自治体バス

 昨年10月に広島県と境を接する旧羽須美村、瑞穂町、石見町の3町村が合併して邑南町が誕生した。このうち旧羽須美村役場には三江線の口羽駅から行けるが、残りの2町へは因原からのバスしかない。しかしこのバスは両方の町を通るものの、どちらも役場の近くには行かない。それでも本数が多ければ一度に両方に行けるのだが、今回はそうは行かなかった。

 バスは江川支流の井原川の谷を遡り、さらにそのまた支流の矢上川に沿っていったん旧岩見町の役場から500メートルくらい離れた矢上というところに寄り、同じ道を通って井原川の谷に引き返し、小さな峠を越え江川のもうひとつの支流出羽川流域の盆地に下る。国道上の「道の駅田所」という所が旧瑞穂町の役場に最も近く、ここから2キロという表示があった。町営バスはあるのだが接続はしていないので役場までは歩いて往復した。邑南町瑞穂支所という表示があった。

 町営バスについては役場のHPで見ることもできるが、道の駅にはさらにわかり易いチラシが置いてあった。ひょっとしてここから本庁舎となった旧石見町役場の方まで行く町営バスがあるのではと期待したが考えが甘かった。どの路線も基本的に旧の町村の中で終始しているからだ。合併をしたからと言っても通常は旧来の役場が以前と同じ住民サービスを続けるので、普通の人が他の役場に行く必要など生じない。だから役場間を結ぶ新規路線など必要ないのである。以前から買物や通院などで往来があったようなところでは、合併を機に一元化された組織のもとに路線や時刻の見直しなどがありメリットが期待されるだろうが、このような過疎地での合併ではその必要もない。だから私のような役場めぐりだけをする者にとっては不便でもそんな人は滅多にいないのだから、住民にとってはこれでいいのだろう。それでも懇切丁寧なチラシには良くわかってもらおうという役場の誠意のようなものが感じられ、久しぶりに嬉しく思った。

 道の駅田所から石見交通で再度本庁舎近くを通り、14時55分三江線の石見川本駅前で降り、後述するような経緯を経て、翌朝8時35分に再びこの駅頭に立った。そしてまた3時間バスを待ったが、最近ではめずらしい純喫茶といった感じの店があり、そこで時間をつぶしたりした。昨日と同じバスを今度は矢上で降り、新装なったばかりの邑南町役場(旧石見町役場)に行き、その対面にあったショッピングセンターの軽食店でうどんを食べ、昨日の1本前のバスで因原に戻った。2日にわたって同じ路線上の町へ、しかも同じバスで行くなどというのは役場めぐりでは初めての効率の悪い体験だった。もちろん泊まるところを変えれば良かったのだが、せっかく予約しておいた江川沿いの温泉宿をキャンセルしたくなかったこともある。だからJRバスの廃止を当地で知ってからの考えられるベストのリカバリー策だったと思うし、これも公共交通利用の楽しい思い出だと納得することにした。

回送列車に添乗したような三江線

 話は前後するが、前日のバスで石見川本駅前に戻ってから列車を待つ1時間余りの間に川本町役場に行った。ここは県の出先機関などもあるこの地方の行政の中心で、町の規模も大きい。またここだけはどことの合併にも加わらず独りわが道を行くようだ。そして三江線列車に口羽まで乗り邑南町となったもうひとつの旧羽須美村へ行った。キハ120型という小型ディーゼルカーの2両連結だったが、途中の粕淵から下校の高校生の他に大勢のゲートボール帰りのお年寄りが乗ってきて立ち客がでるほどの混雑になった。老人達は一部途中駅でも降りて行ったが、話の内容から広島県内からも大勢来ているようで、ゲートボールの大会でもあったようだ。JRもそれに合わせて今日だけ臨時に増結したのかも知れない。

 三江線は陰陽連絡のための鉄道として建設されたものだが、最後に開通したのは浜原から口羽までの29.6キロで1975年8月、わずか30年前のことである。そのせいか浜原を境に線路状態がまるで違う。江津から浜原までは曲線が多く、それもよく整備されていないせいか殆どが制限速度30キロでのろのろと走っていたのが、浜原からはカーブも緩く高架や長いトンネルの連続となる。トンネル内はロングレールになっていて時速90キロ近くを出して軽快に走った。

 口羽駅からは山裾に沿ってコの字型に続く集落を20分ほど歩いて旧村役場に行ったが、この役場と駅を短絡する道路トンネルが掘削中だった。誰が利用するのか、無駄な公共工事の典型のように見えてしまう。口羽から本日予約した潮(うしお)温泉のある潮駅まで戻った。列車には広島あたりからの帰りと思われる一組の中年男女だけが乗っており、その2人も明日朝行く予定の石見都賀で降りてしまい、乗客は私一人となり、潮で私が降りた後は空車のまま走り去って行った。

 潮温泉大和荘という、旧大和村と民間とで50%ずつ出資している第三セクターの施設が今日の宿で、駅から明かりのない真っ暗な道を5分ほど歩いた。温泉は塩分を含んだラジウム泉とのことだが、それほど熱くはなく、塩辛くもなかった。泊り客は少ないようだったが、温泉は近在の人達が入浴だけのために来ているようで賑わっていた。1泊2食8400円で部屋はツインでソファー・セットまである広いもの、夕食もなかなか豪華で普通の旅館で出される刺身、天ぷら、茶碗蒸しの3点セットの他に鮎の姿焼きや山菜料理、蕎麦にチラシ寿司と時間をかけてゆっくり楽しめるものだった。もともとの計画でこの付近を効率よく回るには、このあたりに泊る方法しかなく、インターネットで探したのがこの宿だったが、このような安くて快適な三セクの宿は他にもあるに違いない。

 翌朝はその旧大和村に行くために潮駅6時31分発の三好方面行き1番列車に石見都賀まで乗った。朝食代わりにおにぎり弁当を作ってもらった。この役場に昨日中に行けないこともなかったが、それでは完全に真っ暗闇の写真になってしまうのでこのように早朝にしたのである。列車は予想通り私以外の客は乗っていなかった。大和村は昨年10月に北隣の邑智町と合併し美郷町となった。人口は合併後でも6400人、前述の邑南町や川本町との交渉が不調に終わったのか中途半端な規模である。駅から15分程の支所となった美郷町役場大和事務所に行った後高架上の駅で江津方面に行く列車を待っていると、親に車で送ってもらっている高校生が次々とホームに上って来る。乗客の9割方は高校生で、三江線も今や完全に通学だけの路線になってしまったようだ。列車は浜原止りで、13分後の別の始発列車に接続しているが、高校生たちは全員が乗換え次駅の粕淵で半数が下車、残りは石見川本まで乗っていた。石見都賀からだと62分の長時間通学である。私も石見川本で降り、前述の通り旧石見町へ行くバスを3時間待ったのである。

 昨日から6度目の三江線には因原から乗り粕淵で下車、合併して美郷町役場本庁舎となった旧邑智町の建ったばかりと思われる豪華な役場に寄ってからバスで大田市へ向った。江川の谷から峠を越え日本海に出るバスは下校中の高校生で満員だったが、ほとんどが大田市内まで乗車していた。太田市からは山陰本線の各停列車で松江に戻った。当初予定では朝方に太田市に着いて、その後石見銀山の見物、仁摩町他太田と松江の間の3町に寄ることにしていたが実現できなかった。それらの町は幹線沿いなので比較的容易に行けそうなので、今回の件数は減ってしまったが、行きにくいところを先につぶすことができたので、まあ妥当な判断だったとは思っている。

便利でわかり易い安来市のバス

 役場めぐりは一度にたくさん行くと事後の整理が難しくなるのでなるべく3泊4日以内にするようにしているが、今回はマイレージでの航空券が取れず4泊となり、しかも最終日は夕方早い時間帯のものだった。米子空港を16時の飛行機だったので松江周辺の残したところをまわることにした。

 まず駅前から南方へバスで25分ほどの八雲村に行った。多くの古墳が残り、奈良時代には国府や国分寺もあったという古代出雲の政治経済の中心地だったところで、「八雲立つ風土記の丘」として史跡群が保存されているところだ。

 また安来市には6年前に来ているが、昨年10月に安来市と合併した伯太町と広瀬町へも行った。ここでは市営のイエロー・バスというのが走っており、山陰線の安来だけでなく荒島や米子からも行くことができる。そのバスは1回200円で、500円の一日乗車券というのもあった。

 伯太町は44年まで米子とを結ぶ法勝寺鉄道が走っており、どちらかというと米子の経済圏なのかも知れない。また広瀬町も54年まで荒島からの鉄道が、廃止時には一畑電鉄の経営下だったが走っていた。だから今のバスはかつての鉄道路線を踏襲しつつ、現在の流動も考えて運転されており、伯太と広瀬とを結ぶ路線もあり、役場めぐりにも便利だった。また時刻表も大変わかりやすく、小型のマイクロ・バスだったが乗客が多く、この種のバスとしては成功している部類だと思った。運転手の印象も良かったこともあるが、私はこのバスには高い点数をあげたい。便利でわかり易いからだ。邑南町のものはわかり易いが私にとっては不便、逆に便利だがわかり難いというものには出合ったことがなく、不便でわかり難いというものばかりというのが今まで私が出会った過疎地の自治体バスだ。広瀬町は尼子氏が歴代本城とし山陰・山陽制覇の拠点だった富田城があったところだし、近くには日本一入場料が高いと言われ、それだけに期待ができそうな足立博物館もある。前述の出雲、八雲とも合わせて、今度は一人ではなく、レンタカーででもまわりたい所である。

役割は終わったか 過疎地の公共交通

 今回は5日間で28ヶ所行く予定だったが実績は24だった。それにしても三江線といい、バスといい、過疎地の公共交通の終焉近しという感がした。三江線については上下合わせて12本しか列車のない区間で、そのうちの6本に乗って同じところを行ったり来たりしたが、そのうち2本は乗客が私一人、私が乗らなければ回送車同然だった。

 保守も十分されていない朽ちかけた線路を空車同然の単行キハがごくたまに時速30キロでノロノロ走るというのは既に鉄道とは言えない。最後に開通した区間だけは近代的な線路で快適に走ったが、残りの区間を改良するには莫大な金がかかるし、それを行っても乗客が増える可能性はない。通学生だけが利用していると言っても過言ないが、それもバスで十分代替できる人数だ。鉄道ファンを自認する私にとって、鉄道のこのような状況を見ることは実に忍びない。しかし鉄道が本来持っている価値を発揮できているかどうかを考えると、好きとか嫌いとかの感傷的な気分に浸ることなく、ここでは鉄道の役割は終わったと認めざるを得ない。

 しかしバスに転換するにしてもそのバスもまた同じだ。JRバスの廃止に当たって反対運動があったのかどうかは知らないが、廃止後は局地的には自治体バスでの代替はあったものの大きな混乱はない。それ以前にどのバスも通学時間帯以外は乗客がゼロか、せいぜいいても2~3人である。路線バスは大きな病院には必ずといっていいほど寄って行くが、2~3年前までは多かったお年寄の通院利用も最近はほとんど見られず、これも病院が送迎バスを走らせているからなのかも知れない。これらを見ていると最早公共交通を維持するための最低の需要というものがないのではと思う。従来は公共交通が不便だからマイカーに移転する、それがさらに公共交通の経営を圧迫し料金値上げや本数削減でますます利用しにくくなるという悪循環があり、それでもそれならば打つ手もあるはずだと言われていた。しかし人口の減少はそれ以前のところまで来てしまっているようだ。 バス停で待っているお年寄りに話しを聞くと、バスに乗るのは病院通いにいつも車で送ってくれる家族の都合の悪いときだけだという。自分たちもたまにしか乗らないのだから、この程度の本数でもいいのだとのことだった。今や過疎地では公共交通は私交通をバックアップするものになってしまったのかも知れない。

 化石燃料の有効利用とか環境汚染とか、更に言えば資源の有効利用と言う面からは公共交通こそがメインとなるべきで、それをバックアップするのが私交通だというそもそも論も過疎地では通用しなくなっているようだ。しかしそれは本当に正しいことなのだろうか。

 またこれは交通だけの問題ではなく、過疎地に住む人達が、先祖伝来の地を離れることなく今後も広く分散したまま住み続けることを望むのであれば、郵便とか電力などの公的サービスについても言えることだと思う。郵便についてはどこかある指定された場所まで自分で取りに行くとか、電力については自家発電にするなどの私的手段も考えなければならないときに来ているのではないのか。従来は公的サービスという大きな丼のなかで局地的には経済性を無視しても許されていたようなことが、これからは一地方だけでなく国全体の人口減に伴う経済規模の縮小からも不可能になる。

 過疎地では高齢者の一人住まいが多いことから、この議論は弱者切捨てということで批判されがちであるが、ここはもっと冷静に考える必要がある。それがいやだということならば、すなわち都会と同じような公的サービスを受けたいということであれば、受ける側としてはある程度の努力というか、それなりの対応が必要である。つまりそれぞれの地域内である程度の所帯が集まって生活をするというように変えて行く必要がある。

 都会の人間に地方の気持ちがわかるわけがないとか、小さな政府を目指すといいながら地方切捨てを進めているなどという地方の声をよく耳にするが、もうそんな情緒的なことを言っていられる段階ではない。誰だって先祖伝来の地を離れるのはいやだろうし、一人静かに暮らしたい人も多いとは思う。しかし世の中が変わって行くなかで、自分の生活基盤やパターンを変えずに今までと同じ便益を享受しようと思っても適うはずがない。

 市町村合併は、役場などの統廃合による行政のスリム化の面ばかりが言われているが、本来は住民側の生活パターンのスリム化だって必要なはずだ。過疎地の中での生活場所の再配置といったようなことが合併を機に語られなければならない。そのようにして自分達でできることを行った上で、公共交通などの公的サービスの改善を要求するのが筋ではないだろうか。そうすれば、例えばバス路線の効率的な再編成ができ、本来の公共交通に求められる経済性、利便性が復活する可能性だってあると思うのである。

 個人の価値観が尊重され、皆が自分の権利を主張する時代に、過疎地の全員がそれに同意することはむずかしいかも知れない。しかし本来人間が共同で社会生活をすることによって得られる便益があり、それを維持するためには個人の義務というものがあるはずだ。それも嫌だという人にとっては、電気や郵便などの公的サービスすら受けられなくなるかも知れないということをそろそろ言ってもいい時代ではないかとも思うのである。

 三江線に沿って約17キロの道を歩いたときにすれ違う人は殆どなく、むしろ電動椅子に乗ったお年寄りの方が多かったくらいだ。国道には立派な歩道が続いていたが誰が歩くのだろうか。通学の生徒すら親に車で駅やバス停まで送り迎えしてもらっている。地方の人は今や車ばかり利用して、歩くことも殆んどしていない。そしてその車も少ない。道路は立派だが、混雑など全くと言っていいほどない。今回に限らずもう随分過疎地を歩いている。国土の均衡ある発展のために過疎地の役割は重要であり、少ない人間で山林原野を維持しなければならないし、その守備範囲は物理的な面積を含めても大きいことはよくわかる。しかしそれでも過疎地は恵まれているうえに甘えていると感じる。いつも同じように感じるということは、やはり間違っていないのではないだろうかと思うのである。

公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 【全100回】 公開日
(その1)総集編|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2020年1月31日
(その2)福島県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その3)青森県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年6月1日
(その4)東京都・埼玉県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その5)新島と御蔵島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年7月1日
(その6)奄美諸島と座間味島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年4月1日
(その7)中国山地の山奥に行きいよいよ残りひとつに|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年5月1日
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(その21)2006年11月西彼杵半島と島原半島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年11月20日