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2006年沖縄離島めぐりの旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 〜 公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅(その17)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

2006年沖縄離島めぐりの旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 〜 公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅(その17)

公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 【全100回】 公開日
(その1)総集編|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2020年1月31日
(その2)福島県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その3)青森県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年6月1日
(その4)東京都・埼玉県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その5)新島と御蔵島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年7月1日
(その6)奄美諸島と座間味島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年4月1日
(その7)中国山地の山奥に行きいよいよ残りひとつに|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年5月1日
(その8)小笠原で100%達成|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年9月16日
(その9)合併レースに追つけ追い越せ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年2月1日
(その10)格安切符の上手な使い方 三重県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年3月20日
(その11)四国誕生月紀行|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年1月26日
(その12)歴史の宝庫は地理の宝庫(岡山県備中・美作地方)|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年5月31日
(その13)青春18きっぷで合併の進む上越地方へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年8月20日
(その14)公共交通の終焉近し 島根県過疎地の旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年10月15日
(その15)熊本県の合併前後の市町村へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年11月7日
(その16)悪天候で予定通りには行かなかった大分県の市町村役場めぐり|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2005年12月19日
(その17)2006年沖縄離島めぐりの旅|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年3月8日
(その18)2006年青ヶ島訪問記|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年5月8日
(その19)2006年6月14日 一日でまわった東京23区|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月14日
(その20)2006年 道南から津軽・下北へ|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年6月26日
(その21)2006年11月西彼杵半島と島原半島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2006年11月20日
(その22)和歌山・三重|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年4月6日
(その23)トカラ列島と奄美群島|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2007年5月10日
(その24)北海道東部の旅 |公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 未公開

 離島の市町村役所・役場めぐりはなかなかむずかしい。既に行ったことのある佐渡や壱岐・対馬、五島のようにある程度大きな島でその中に複数の市町村があるところはまだ良いが、1島1村のようなところへ行くのは時間的に非効率なだけでなく、費用の面でも厳しいものがある。しかし行かないわけには行かないので、懸案のひとつだった沖縄の離島へのチャレンジをこの時期にすることにした。冬は海が荒れるだろうし夏は台風が来る、と思い春先の今頃がちょうど良いのではと思ったからだ。それでも船の欠航などに備え十分なゆとりが必要だし、状況に応じ臨機応変に対応しなければならない。だから今回の計画は今までとは少々異なる余裕を持ったものとし、それなりの心の準備をせざるを得なかった。また今回は「五万分の一地形図歩きつくし」に挑戦中のSさんに途中一部同行をお願いした。長い船旅は退屈だし心細かったからである。日程は8日間とし、この間南北大東島、伊是名島、伊平屋島、伊江島、渡嘉敷島、座間味島、粟国島の村役場と、沖縄本島の市町村の合計25件行くという計画だった。しかし渡嘉敷島、座間味島には行けなかった。

まずは近隣町村でウォーミング・アップ

 早朝6時40分羽田発の全日空991便は9時33分に那覇空港に到着、大東島へ行く貨客船の出発は夕方の5時なので、それまでの間に本島内南部の町村を路線バスでまわった。空港からモノレール(ゆいレール)で那覇バス・センターまで行き、そこからスタートした。沖縄本島には沖縄バス、琉球バス、東陽バスの3つのバス会社があるが、すべてのバス路線には固有の番号がついており、バス正面にその番号がわかりやすく表示されているので、路線そのものは複雑な経路を辿るものが多いが安心して乗れる。全路線を網羅した無料でもらえる時刻表の小冊子があり助かった。

 98年に行った玉城村以外の知念村、佐敷町、与那原町、大里村、南風原町に行ったが、今年1月1日に知念、佐敷町、大里が合併し人口41千人の南城市ができた。那覇市だけでなく周辺も人口過密地という感じでマンションなどの高層建築も多い。それらが個人の住宅やオフィスに混ざっていくつもの丘陵地を覆うように不規則に建っている様子は、私が住む川崎市北部の風景と変わらないが、それでもところどころ見かける沖縄独特のテラスを持ったコンクリート造りの家や、瓦屋根の古い民家などから首都圏ではなく沖縄にいるのだという気持ちにしてくれる。

貨客船 夜が明ければ大東島

 那覇市中心部の国際通りからもそう遠くない泊港は、離島航路のためのターミナルである。狭い出口で海につながるフラスコ型の池のような港内には夕方になると各離島からのフェリーがすべて帰港し、池の中に船がひしめくという感じになる。ターミナル・ビルは「とまりん」という名の地上60メートルのもので、多分沖縄の高層ビルのなかではトップ・クラスに入るものだろう。切符などを売っている各島の事務所や待合室のある1,2階部分にはショッピング街やレストランがあり、高層部はシティホテル、そしてオフィス部分には防衛施設庁が入っていた。Sさんとは2階ロビーで待ち合わせをした。故郷の大分県佐伯市で身内の法事に参加した後沖縄に来て久米、渡名喜、渡嘉敷島へ渡りそれぞれの五万分の一地形図を歩きつくしたとのこと、そして南北の大東島への同行となったのである。

 船は片道14時間、那覇から北大東→南大東→北大東とまわり4日で1サイクルで那覇に戻る。次は南→北→南となり、これを交互に繰り返す。従って原則4日毎の出航で前月中旬に次月の運航予定日が発表される。これに対し飛行機はわずか1時間で毎日運行。しかし飛行機の方は、曜日によって順序が変わるが、南北両方の島にそれぞれ25分間だけ駐機し那覇に戻ってしまうので、役場に行ったり島内見物をするには両方の島に泊まらなければならない。船の場合は合計4日必要だが、初日は夕方17時までフリーだし、4日目の那覇到着は朝7時台だから前後の2日は有効に使える。飛行機の片道通常料金が21600円なのに対し船は4620円と四分の一以下、これには宿泊料も含まれているのだから日程面でも費用面でも船の方が断然有利だ。ということで大揺れを覚悟して船にしたのである。

 船は699トンの貨客船で客室は2段ベットが32人分と、定員10人の雑魚寝部屋がふたつ、このほかに誰がどのように使うのか知らないがビジネス・ホテルのツイン・ルームのような特別室が一部屋あった。2段ベットは寝台列車のそれに比べれば幅広でマットも柔らかく、長距離フェリーなどでは特別料金が必要な上級クラスになるところだろう。しかしこの船は、乗船券の購入順に下段、それから上段、そして雑魚寝部屋と順に割り当てられる。今回は乗客数14名だったから、全員がベットの下段だった。売店はなかったがカップ・ラーメンの自販機があった。しかし故障していてお湯が出ず魔法瓶が置いてあった。数名が座れるサロン風のコーナーがありテレビも放映されていた。衛星放送は洋上でもかなり鮮明だった。16時半頃に乗船、船は定刻の10分前くらいに出航した。夕食と明日の朝食は港近くのコンビニで買い込んでおいた。乗客のほか船のスタッフは13名だった。

 海上の揺れはかなり大きく、風も強くデッキに立ち続けることは困難だったがベットで横になっていればそれほどのことはない。19時頃弁当を食べ早々にベットへ。適度な揺れが心地よい眠りを誘い、普段よりもずっと長い時間寝ることができ、朝7時過ぎ、間もなく北大東島に到着するというアナウンスで目を覚ました。

 デッキに昇って見ると、隆起珊瑚の壁が続く平べったい島で、その1ヶ所だけ削られた野外舞台のような所にクレーン車などがいる。そして小型ボートが1艘、岸壁に近づく本船の外側に回り込み、船から投げたロープを浮ブイに懸ける。後で聞いた話だが、浮ブイの下には重さ100トンものコンクリート・ブロックが沈められていて、ここから船のロープを引っ張る役をしているとのことだった。防波堤がなく、強い波で船が埠頭に打ち付けられないよう、岸壁から3~4メートル離して停船させるため、このように反対側からも船を引っ張っている。そのようなスタッフを含め港では10人以上の男性が作業をしていた。

 私たちは先に南大東島に行くことにしているので、ここで下船する客を見送った。客は船の甲板に据えられたコンタナ大のケージ(鳥かご)に入り、クレーンで吊り上げられて陸上に降りる、この方式は世界中でここだけという話だった。その後いくつかのコンテナ、自動車、建築資材、更にガソリンの入ったタンクや発電用重油のドラム缶などを降ろすため1時間ほど停船し、南大東島に向った。両島の間は最も狭いところで14キロしか離れていないが、それでも1時間ほどかけ、同じように小型ボートによるロープ懸け、9時30分鳥かごに入れられ上陸した。クレーンはゆっくりとていねいに吊り上げ下げするのでスリルは感じない。エレベーターに乗っているようなもので、船に乗降する方式の中では客にとって最も楽な方法と言えるかも知れない。那覇で乗船してから17時間船上にいたことになる。

南大東島

 下船時に、低気圧が接近しているので船は今晩中に那覇に戻るかもしれない、そのためここでの荷扱い終了後北大東島に戻り今日中に貨物を積み込む、従って出航時間が繰り上がるので注意をするよう言われた。

当初は16時出航予定となっていたので5時間半くらい島内を散策できると思っていたが短くなるし、北の役場にも行けなくなるかも知れない。とにかく南の島内だけでもまわろうと、連絡先の電話番号をメモして集落のある方向に歩きはじめた。

 南北どちらの島も火山島ではなく環礁が数回の隆起を経てできた珊瑚島だ。周囲が環状になった丘陵地で、島の中央部は窪んで盆地のようになっている。だから港からいったん坂を登り、下ったところが広い平原となっていてその一部に集落がかたまっている。車は滅多に走っていないが道路は歩道もあり椰子の並木の続く立派なもの、そんな道を辿ること2.5キロほどのところに村役場があった。島は東西5.8キロ、南北6.5キロの長方形に近く、面積30.6平方キロというのは東京の杉並区より少し狭いくらいだ。今年(2006年)2月末の住民基本台帳では人口1358人、637所帯とのこと。年平均気温は22.9度ということだが、この日は暑く30度近かったのではないだろうか、歩いているうちに大汗が出た。なお大東諸島は、周りを深さ2000メートルもある海に囲まれていて、煙突のてっぺんだけが海上に顔を出しているようなものだと聞いた。

 古来よりここに無人島があることは琉球人の間で知られていたが、琉球王朝の版図外にあり、沖縄県に所属したのは明治18年(1885年)沖縄県庁の探検によってからである。その後何度か開拓が試みられたがいずれも失敗に終わり、ようやく1900年になって八丈島出身者による本格的な開拓が始まった。その後製糖のため沖縄本島からの移住者も増えたが、そのような経緯からこの島の文化は琉球のものと伊豆諸島のものとが混ざったものになっているそうだ。1917年には全島が開拓を行っていた玉置商会に国から払い下げられ、さらに翌年東洋製糖へ売り渡されるなど、この島は民間会社の私有地として国の行政の及ばないところだった。村制施行がなされたのは占領下の昭和21年(1946年)のことだった。

 村役場は数年前に移転新築された現代風の建物だが、特に絶海の孤島にある役場といったイメージからはほど遠い、本州の地方の役場に見られるような何の変哲もないものだったし、向いにあった郵便局も同様だ。島の中央部には水の溜まったいくつかの池があるがいずれも塩分を含んでいて飲料水にはならない。だから多くの建物は雨水を溜めるタンクを備えているが、現在この島で使用する水の99%は海水淡水化プラントによるものだという。また電気は沖縄電力の内燃力発電所があり、8機の重油発電機で最大1000KVAの発電を行っているが、全島電化がされたのは1968年(昭和43年)のことで、それまでは個別の自家発電やランプによる生活だったという。

 いくつかあるうちのひとつの池のまわりを歩き商店などのある島の中心地区の食堂に入った。500円の昼食バイキングは品数も豊富で満足したが、工事関係者と思われる客が入れ替わりやって来て30人くらいいただろうか。島中の雨水を一箇所に溜めるダムを建設中で、その関係者が多いそうだ。一緒に食事をした島の人からいろいろと聞くことができた。

 この店から役場の港湾業務課に電話し船の出航は14時になったことを知った。今晩中に那覇に戻ることもあるので食品スーパーのような店で弁当を購入し、食堂のおばさんに港まで車で送ってもらったが、5分も走らないうちに港に着いた。製糖工場で使っていた砂糖キビ列車の展示車両を見たり、全国区としてその名が知られている南大東島気象台などにも行きたかったが残念だった。港では貨物の積み降ろしが続いていたが、発電用A重油のドラム缶などは100本以上あった。

北大東島

 出航後30分ほどして北大東島を目の前にして停船、なかなか動かない。風向きなどからどの港に着けるか検討中という。結局今朝と同じ西港に着くことになり、また鳥かごの人となって上陸した。那覇へ向けての出航は、乗船予定客の要望や低気圧の動きを見て今晩ではなくなったが、明日は何時になるかわからないので村内の防災無線放送を注意するよう言われた。予約していた民宿は港から徒歩5分くらいの近さだったが車で迎えに来てくれた。

 予定より早く、15時には北大東に着いたので、民宿に荷物を置いから島内を散策、村役場、発電所、製糖工場など2時間近く歩きまわった。下船した西港のすぐ横に燐鉱石貯蔵庫跡という煉瓦造りの廃墟があった。第一次大戦後燐鉱石の価格が上がり、この島で大量の燐鉱石を搬出、最盛期には出稼ぎ者も含め島の人口は4000人もあったそうだ。赤さびてボロボロになったトロッコのレールも残っていて、アクション映画の撮影に使えそうな風景だった。

 この島は面積13.5平方キロ、人口528人と面積、人口とも南大東島の三分の一強だが、南と同じように珊瑚環礁が隆起してできた島で、中央部は窪んでおり沼や湿地が散在していた。杉並区の隣の中野区より少し狭い。こちらにも製糖工場があり燐鉱石閉山後はサトウキビ農業が主要産業になっていて、大規模な機械化が南大東島同様こちらでもかなり進んでいるとのことだった。なお近年はじゃがいもとの輪作が行われており、これは土地にとって大変滋養のあることだそうだ。

 両島ともお金の出し入れは郵便局と農協(JA)にあるATMで行え、宅配便の代理店などもあったから、テレビやインターネットによる通販もこういうところではかなり役に立っていそうだ。また村役場の向かい側に、これも立派な校舎の小中学校があったが、役場でもらった村政要覧によると2004年4月時点での小学校児童が54人、中学校生徒が22人で、中学校卒業後はほとんどが沖縄本島の高校に進学しているとのこと。そのまま戻ってこない子供が多いだろうから若者の流出は避けられないのだろう。

 泊まった民宿は二六荘といって、紀元2600年(1940年)に建てられたもの、なるほど古いものでかつ南国気分を十分に味わえる開放的なものだった。宿としては古いので建替えたいのだが、県が保存をするよう言っているそうだ。この民宿のほかこの島には3セクのホテルがあるが過剰設備で赤字続きとのこと。工事関係者が多く大広間という16畳くらいの部屋にSさんと入れられた。水不足の島なので、風呂はなくシャワーだけだった。

 50メートルほど離れたところに食堂や売店があり、その前には大きなガジュマルの木があった。夕食後ほろ酔い気分でその木陰のベンチに座っていると、心地よい風がマレーシアとかバリ島などにいるような気分にしてくれた。この民宿は先祖が八丈島からやってきたという浅沼さん一家がやっているもので、3人の子供も手伝っている。長男は東京の日体大を卒業した後この島に戻り、那覇に学校の先生をしている彼女がいるが、この島に呼ぶべきかどうか迷っていると話していたがなかなかの好青年だった。

 なお南大東島のはるか南に沖大東島、ラサ島とも言われている北大東島の約10分の1の面積の無人島がある。戦前は燐鉱石の産地として活気にあふれていたそうだが現在は米軍の射撃場として使われているとのこと。ラサ工業という会社の由来となった島だそうだ。

 翌朝船は14時、島の南にある江崎港から出航するということを防災放送で知った。島内については昨日中にほとんど回っているので、それまでの時間他の客と話たり読書をしたりして時間をつぶした。役場めぐりの旅では初めての訪問件数ゼロの日である。その江崎港まで民宿の長男が車で送ってくれたが船はいない。待つこと暫し、東の方からやってきた。風下である島の東側で待っていたようだ。昨日中に貨物の積み込みを終えていて客は我々を含む7人だけだったので「はしけ」を使っての乗船となった。ライフ・ジャケットを着せられ、地上に揚げられた例のロープをひっかけに行くボートに乗せられる。リックなどの荷物は全部一箇所にまとめられる。全員が乗り込むとボートはクレーンで海面に下ろされ、それから本船に向う。船横の一箇所扉の開かれた部分に横付けされると、波で上下するなか、ボートが最も上昇したタイミングでひとりづつ本船に飛び移る。先行の人を見ているとむずかしそうだが、中から船員が手を差し伸べてくれるので思ったよりは怖くはなかったが、まず他所では体験できないことだろう。

 船は再度南大東島に戻り、南側の亀池港に停泊し、カボチャやジャガイモをたくさん積み込み、数名の乗客を乗せ15時30分那覇に向け出航した。来るときよりも船の揺れは大きく感じたが、民宿で作ってくれたおにぎりを食べテレビを見ていたら眠くなってきて夜8時過ぎにベットに入ると心地よい揺れで眠りに入ってしまった。ときどき目を覚ますことを繰り返しているうちに朝の6時になりデッキに出て見ると沖縄本島の南端をかすめ、那覇空港の横を航行していた。まだ明けやらぬ陸地の電灯の光が点々と見えていた。7時20分、4日ぶりの泊港に下船した。

本島東海岸沿いに北上

 今日の宿泊予定地は本部半島先の伊江島だ。時間を有効に使うため本当西側の町村を順にまわった。Sさんとは途中で別れたり、またバッタリ会ったりを繰り返しながらそれぞれの目標に進んだ。バスの本数が多いので、途中下車しながら、また一部は歩いたりして北谷町、嘉手納町、読谷村、恩納村と順に進んだ。読谷村の村役場だけはかつての米軍基地の中央にあり、バスを降りてから砂糖キビ畑の中の滑走路跡の道を延々と歩いた。旧日本軍により造られた読谷飛行場が米軍の沖縄上陸と同時に占領され、返還後あえてこの飛行場跡に役場新庁舎を建設したということが書かれた碑があった。1997年に建てられた、東南アジアの政庁かと思わせるような巨大な、贅沢な感じの庁舎だった。人口3万8千人余りというから、市になってもおかしくない大きな村のようだ。

 これも南方の王宮を思わせる名護市役所に寄り、名護バス・センターへ行く。バス会社事務所や売店、食堂の感じがマレーシヤかインドネシアの現地人の集まる東南アジアのそれのような南国ムード漂うターミナルだった。ここから本部町役場近くまでバスに乗り本部港から伊江島に渡るフェリーに乗った。

伊江島

 伊江島は人口5千人そこそこだがフェリーは30分と本島に近いせいか観光客も含めフェリーは100人を超す乗客で賑わっていた。ホテルや民宿も多く、今回の旅で4日目ではじめて風呂に入ることができた。この島のライフラインである電気や水道は海底を通って本島から供給されている。面積22.7平方キロと品川区と丁度同じくらいの広さの島だが、島の中央やや東寄りにある標高172mあるという城山という小高い山の中腹まで上ると島全体が見渡せる。一面に砂糖キビ畑が広がっているようで、最近砂糖キビから代替燃料を作り出す工場が稼動したというテレビを見たことを思い出した。なんでも砂糖キビからバイオマスエタノールというものを抽出し、それをガソリンに3%混合し自動車用燃料として実際に使用するそうだが、たった3%というのは最初だけなのだろうか、いずれガソリンに置き換わるようなものまで作れるのならばいいが。

 滑走路までは見えなかったが、この島には沖縄国際海洋博が開催された1975年に造られた滑走路長1500mの飛行場があり那覇からの定期便もあったが現在は休止中、チャーター便が運航しているそうだ。沖縄はどこでもそうだったが、この島も戦争に巻き込まれ、日本軍は2000mの滑走路を2本持った当時東洋一と言われた飛行場を建設したものの、敗色濃厚となると米軍に占領されても使用できないようにせっかく完成した滑走路を破壊した。その後米軍に占領され、復帰後の現在も一部に米軍基地が残っている。

伊是名島

 伊江島に一泊した翌日は、本部港に戻り、本島の北西にある伊是名と伊平屋の2島へ行く。本部半島の本部港から見ると裏側にあたる運天港から行くのだが、南北に連なるこの二つの島へはそれぞれの村営フェリーが別々に運行しており周遊するということができない。だからまず伊是名に先に行き、運天港に戻り今度は伊平屋に行く、そうすると今日中に戻れる便はないので伊平屋に泊まり明朝戻る、という計画にした。

 問題は運天港への公共交通機関がないことだ。両島の案内チラシなどでは名護のバス・センターからタクシーに乗るように書いてあり2000円くらいだという。また一番近いと思われる路線バスは今帰仁村の役場などがある中曽根だが、ここからも3キロくらい、タクシーでも600円くらいする。私の役場めぐりにあたり、全国の市町村役所・役場へは必ず公共交通で行けるはずである、という仮説を立てそれを検証しながら続けているのだが、これも行けないというケースに当てはまる。

 本部港から今帰仁村役場まで行くバスに乗るとまたSさんが途中から乗ってきた。私は今帰仁村役場前で下車し役場の写真を撮り運天港まで45分ほど歩いて行ったが、Sさんはこの間をタクシーで行っている。丘を越えて最後は港に下りるアップダウンの道で日差しが出て暑くなってきた。Sさんが羨ましかったが私の方は自分で決めたルールだから仕方がない。港では伊是名行きと伊平屋行き船の接岸場所が3~400メートル離れていた。私は10時30分発の船で伊是名へ、Sさんは11時の船で伊平屋へ向う。私の船はSさんの船を横に見ながら定時に出航、お互いにデッキから手を振り合う。

 伊是名村と伊平屋村は沖縄県の最北端、東シナ海洋上に浮かぶ離島村で「伊平屋の七離れ」と呼ばれる7つの島からなり、北部2島が伊平屋村、南部5島が伊是名村となっている。人が住んでいるのは伊平屋の2島と伊是名の中心の1島のみ、面積は伊平屋が22平方Kmと品川区くらい、伊是名が15平方キロと目黒区くらいと伊平屋の方が広いが人口は前者が1547人に対し1841人と伊是名の方が約300人多い。(2005年3月末住民基本台帳)両島とも平野が多く地下水にも恵まれ古くから人が住んでいたが、特に伊是名島は1879年(明治12年)、廃藩置県により琉球藩が廃止され沖縄県となるまでの約410年余も続いた琉球第二王朝を開いた尚円王の出身地であるほか、第一王統の祖先も伊平屋に住んでいたそうで、琉球王朝発祥の地としての神聖の地として別格の扱いをうけていたという。
 その後は伊平屋村というひとつの村で役場は伊是名島にあったが、不便だということで昭和14年(1939年)に分村された。今回また合併寸前まで行ったが、伊是名村の住民投票で55%の反対があったのでご破算になったという。船は1時間弱で伊是名の仲田港に着岸、待合室やレストラン、売店などのある大きなターミナル・ビルができている。港から1キロくらい、立派な歩道と並木をもつ道路を歩き村役場や学校を見て港に戻りレストランで昼食、2時間後のフェリーで運天に戻った。来るときは晴れていて伊江島もはっきりと見えていたのに帰りは雲って全く見えず、特に伊江島から本部半島にかけては豪雨と思われるような真っ黒な雲が海面まで繋がっていた。果たして運天港に戻ると強い降りで伊平屋行きフェリーのターミナルまでの3~400メートルを走る間にズブ濡れになってしまった。

伊平屋島

 伊平屋のフェリーは30分後に出発、海が荒れてきたので明日は欠航になるかも知れないと言われたが、先に進むことにした。波高が4メートルを越えると欠航になるそうだ。向かい波を受け、500トンの船はかなり激しくピッチングをしながら、定時ならば80分で着くところを10分位余計に要した。伊平屋の港のターミナル・ビルも伊是名に負けず劣らず立派なものだった。こちらの役場は港のすぐ前にあり、写真を撮ってから7~800メートル離れた、電話で予約しておいた旅館まで歩いたが、海岸沿いの道は風が強く、沖縄に来てはじめて寒いと思った。

 翌朝、防災無線放送で本日のフェリーは終日欠航であることを知らされた。船がこないと新聞も来ない。丸一日島に閉じ込められるという、このあたりが島めぐりのリスクであり、また楽しさでもあるが、役場には昨日行っているので、一昨日に次ぐ訪問件数ゼロの日になってしまった。宿の話によると、このように船が欠航したときでも本島に行く方法がある、つまり伊平屋島の南隣の橋で繋がっている野甫島なら渡船があり10分で伊是名島に渡ることができ、そこから10人乗りくらいのチャーター機を飛ばし那覇まで行くことができるそうだ。客が何人集まるかで料金が変わるそうだが、そこまでする必要もなくもう一晩泊めてもらうことにした。

 こんな機会だから村役場に行って広報担当者か誰か適当な人と話しをしたいと思い宿の主人に話したら収入役を紹介してくれた。尤も後で知ったのだがこの宿の主人が村議会議長だった。実に控えめな朴訥とした亭主で、これならば私でも村会議長くらいは務まるかも知れないと思ったほどだった。収入役は私より2歳下の人で都立大学に学んだが3年の時に父親が亡くなり大学を中退して島に戻ったという。約1時間、合併が破談になった経緯や空港建設の計画などいろいろな話をしたが、このように自治体の特別職を正式にインタビューしたのは市町村めぐり1941件目にして初めてのことであり、なにかの時の役に立つかもしれないといつもの旅に1冊はリュックに入れている「地理が面白い」を贈呈してきた。以下収入役から聞いた話のいくつかである。

 両村で共用する飛行場の建設がいよいよ具体的になった。場所は伊平屋島と橋で繋がっている野甫島で、この機に野甫港と伊是名島内花港間の渡船を定期航路化するとのこと。フェリーは村営で15名の村職員でローテーションし運行している。船は13年リースで満了後の残存簿価は2千万円、1日のリース料が70万円ということは30億の船ということか。年間12日間のドッグ入りの時は伊是名の船を借り、このときは伊是名との周回航路を取るという。またこれとは別に高速フェリーの共同運航ということも計画にあるようで、両村は合併には至らなかったものの協調体制はかなり進んでいるようだ。いやそうでもしないととてもやって行けないのだろう。

 この島は離島にはめずらしく地下水が豊富で、我喜屋ダムという新ダムも完成し3000人分の水を賄えるという。電気は最近まで伊是名島に発電所があったが、今は本島からの海底ケーブルで送られているとのこと。収入役氏によれば、この島は人口3000人くらいが最も理想的ということだが、昭和30年(1955年)頃がピークで4千人いたが、1990年頃が1400人と底をつき、最近はまた少しずつ増えているそうだ。中学校までしかないこの島では、高校進学と同時に本人だけでなく家族ごと島外に出て行き戻らないケースも多いが、それでも島外からの移住もあり、最近も関西の電鉄会社を退職した人が家族でこの島に移住したいという問合せがあったという。

 役場を辞してから1時間千円という軽自動車のレンタカーを借り島内を回って見た。最北から橋を渡った南端の野甫島まで、島を一周するように走ったが道はどこも立派で快適だった。人口1500人のこの島に約1000台の車があり、ガソリン・スタンドは2軒あったが、どこにそんなに車があるのかと思うくらい、滅多に車に出会うことはなかった。いくつかの小山が南北に、適当に間隔をあけながら並んでいるが、その間の平野は豊かな感じがする。かつては沖縄県内でも米処と言われていたそうだが、その後は他の島同様砂糖キビ中心になったという。高さ33mという我喜屋ダムにも行ってみた。ダム湖の湖面に立ってみると大きくはないが、港に入る船からはいきなり高さ33m、堰堤の長さ145mという逆三角形の真新しいコンクリートの壁が見えるので随分大きな島に来たと思わせる。2時間で45キロ走り、ガソリン代は473円だった。

本島北部から西海岸沿いに南下

 翌日は海も静まり定時運行となり2晩世話になった旅館を辞した。台風のないこの季節が一番いいのではないかと思って今回決めた沖縄行きだったが、この季節、特に旧暦の2月に当たる3月は「2月風回(ニンガチカジマーイと読む)」と言って、大陸の高気圧が発達して急に天候が変わったり強風になったりすることが多いという。では年間で最も天候が安定しているのはいつかと聞くと夏だという。夏は台風があるではないかと問うと、台風はかなり前から予測がつくので予め対応ができるとのことで、沖縄の人からすると台風の方が扱いやすいのかも知れない。フェリーでは那覇に出張する収入役氏とまた一緒になった。運天港にもマイ・カーが置いてありそれで那覇まで行くと言う。月に2~3回の出張があるので、この方が便利だとの話だった。

 運天港で伊礼氏と分かれ、来るときに見つけた近道を30分ほど歩き、その後は路線バスを乗り継ぎ本島の北部へ、大宜味村、国頭村、東村とまわり名護市内に戻った。人口100万を超える沖縄本島も名護市より北は平野が少なく人口も極端に少なくなり、今も人口が増え続けている沖縄県のなかでも典型的な過疎地という感があった。しかし海岸沿いの国道はどこまでも快適で、コバルトブルーに輝く珊瑚礁の海や白砂の海岸などを見ているとリッチな気分になって来るところが本土の過疎地との違いと言えるだろう。

 名護からは東海岸を走るバスを宜野座村、金武町で途中下車しながら那覇に戻った。所々米軍基地の横を通り、途中の石川、コザなど外国人の乗降の多いところではバス内も英語のアナウンスが流れていた。3日ぶりの泊港のトマリン横の沖縄海員会館に着いたのは夜8時30分を過ぎていた。

 沖縄海員会館は普通のビジネス・ホテルに遜色のない設備で海員ならば1泊3000円、一般は3500円というエコノミーなホテルでここに2泊する予定でいた。ところが伊平屋島で2泊してしまったためにここには最終日の1泊だけとなった。当初予定では最後の2日間は泊港を拠点に1日目は慶良間諸島の座間味村と渡嘉敷村へ行き2日目は粟国村に行こうと思っていたのだが、このような事態から慶良間諸島は次の機会とし、粟国島に往復し夜の便で東京に戻ることにした。

迷走する基地問題

 粟国への船の出港は9時55分なので、それまでの間件数稼ぎをするために宜野湾市と浦添市に行った。バスが頻繁に走っているので朝飯前に十分回ることができた。それぞれ人口が88千人、107千人と初日に回った那覇市東部と同じようにマンションなどの高層建築が密集する過密地帯という風景だった。そのなかでも普天間基地のある宜野湾市は基地を取り囲むように市街地が密集している。普天間基地の移設問題は全国的に注目されているが、確かにそこへ行ってみるとこれだけ多くの人が生活する場所として許容範囲を既に越えているということがわかる。代替地として名護市の辺野古地域のキャンプ・シュワープが候補になっており、昨日この横もバスで通ってきた。
 しかしこの基地問題、沖縄内でも意見の一致が見られていないし、それをまとめるような当事者能力が沖縄にはないように思えてくる。知事は移転先の名護市が受け入れるならばいいとしているが、名護市に対する説得は国にしろという。大臣と一市長が話し合いをするというのも変な話だが、名護市は辺野古の沖合に新設するならばいいが、環境団体などの反対に対してはそれを国が説得しろという。自分の身内のことに対して、ここまではやってやるから後はお前がやれという、意思決定を迫られた部長が、部下である何某課長を説得していただければいいですよ、と言っているようなもので二流のマネジメントのすることである。期限の迫られる民間企業とも違うようだ。沖縄の新聞を読んでも「どうするべきか」が書かれていないのは、誰も正解を見つけられないのが事実だとは思うが、リスクを持って意思決定をする人が誰もいないということなのだろう。戦後60年も経つと基地の影響が県民に深く浸透し、様々な利害関係が生じている、それほど難しい問題となっているということを感じた。

粟国島

 粟国島へのフェリーは2時間少々の航海だった。途中晴れてはいたが空気がそれほど澄んではいないようで、慶良間諸島の島影がかすかに霞んで見えた。随分大きな島がいくつもあるように見えた。粟国の港は 伊是名・伊平屋と違って古い小さなターミナルの建物があった。どこの離島でも同じような緩やかな坂道を1キロくらい進むと村役場があった。小さな古い建物で、丁度昼休みだったので屋内は電気を消して、職員が1人だけ留守番のようにカウンターの内側に座っていた。村政要覧をもらい昼食のできる店を教えてもらった。港の建物といい、役場といいこの島は今までに行った他の離島のような新しさとか場違いな派手さがない。忘れられた島というか、昔からのままですべてがひっそりと残っているという感じがした。

 この島は那覇の北西60キロにあり他の離島からも離れており属島もなく本当の孤島と言えるだろう。面積7.6平方キロというのは東京23区のなかで最小の中央区よりも狭い。人口は900人そこそこで隣の島と共同で何かをしようというわけにも行かないので公共投資もあまり進まなかったのだろう。サトウキビと漁業を中心とした静かな村だがここの自然塩は全国的に知られている。みやげに買って行こうと思い、昼食に入った食堂で製塩工場の場所を聞いたら島のはずれにあり、帰りの船に間に合うように歩いて行くのは無理なので店の車で連れて行ってくれるということになった。店主の弟と思われるお兄さんに乗せてもらったのは恐らく車検など何年もしたことがないようなかなり古い車でなぜか春日部ナンバー、車の由来についてお兄さんは口を濁していた。

 2~3キロ走った島の果てに沖縄海塩研究所という名前の製塩工場があった。10メートルくらいの高さのブロック建ての建物の中には天井から無数の細竹が逆さに吊るしてありその細竹を伝わるように上から海水を落としている。海水が枝から枝へと滴り落ちる間に、水分が蒸発され、何度も繰り返されるうちに塩分の濃い海水が作られる。1週間これを繰り返すことにより、海水に含まれる3.5%の塩分が20%前後に濃縮されるという説明があった。この後は平釜で煮る方法と、太陽の光だけで結晶化させる天日干しの2つの方法があるのだが、工場で買えたのは前者の方だけで、天日干しの方は仕掛かり中で売るものはないとのことだった。塩とにがりを買ったが、久しぶりに家内からも喜ばれるみやげだった。 

  食堂のお兄さんは空港と砂糖キビ工場の横を走り役場前まで送ってくれた。飛行機は那覇との間に9人乗りのアイランダーBN2が1日に3往復、25分で結んでいる。滑走路800メートルで作業用の小屋のようなターミナルをもつなんとも小さな空港だが、島の航空写真などを見るとこの島の中ではやたらに大きく見える。尤もこの島の面積は羽田空港の7割くらいしかないのだからそう見えるのも当然かも知れない。私は今回の旅は経済的なこともあってすべて船にしていたが、はじめて沖縄の離島空港というものを間近に見たことになる。一度くらい飛行機の利用も良いかなとも思ったが、やはり離島は船で、はるばるやって来たという感じが大切だと思い直した。砂糖キビ工場は通年の操業ではなく、操業中は季節労働者を島外から呼びよせているそうだ。その人達のための寮などもあるという。小さな島だがいろいろと人の動きはあるようだ。

 わずか2時間たらずの滞在だったが、今回の島巡りのなかでは一番コンパクトで、そして島内をくまなく見たのではないだろうか。そしてここが最も孤島性が高かったのではないだろうか。帰りの船でそんなことを考えた。写真もずいぶん撮ったのだが、何かの手違いでパソコンから消してしまったようで1枚も残っていない。だからいつか、もう一度行かなくてはならない。

 今回は沖縄本島周辺の6島に渡ったがそれらは全く性格の違う4つのグループに分けられると思う。訪問順に、まず南大東・北大東の2島だが、ここは沖縄文化が及んでいないといえそうだ。無理もない、明治以前は無人島だったのでもちろん琉球王国の版図外、最初に開拓したのは伊豆諸島の人たちだったからだ。

 伊江島は本島の一部といっても良いくらいで、名護や本部に通勤や通学をしている人も多い。そのうちに本島との間が架橋されるのではないだろうか。

 伊是名島と伊平屋島はどちらも適度な山と平野が広がりかつては水田も多かったようで、沖縄の中でも農業に恵まれたところの様だ。少なくともサトウキビしかできないということはないようだ。かつて琉球王国の発祥地だったことも頷ける。

 そして粟国島こそが、まさに絶海の孤島である。僚島もない。しかし国防面からはこのような島は重要であり手厚い保護が必要だ。

 那覇に戻り、国際通りをブラブラと歩き夜の便で帰京した。今回は予め船の欠航などを見込んで余裕をもつた8日間という長い旅だった。8日間で25件というのは1日で3件強というかつてない生産性の低さだった。しかし離島めぐりということではこの辺りが限界だろし、いろいろなことをゆっくりと見ながら考えられる、これが本来の旅のはずだと思った次第だ。今後も沖縄本島周辺の残りの島や先島諸島、奄美列島、伊豆諸島や小笠原などまだまだ課題が多い。

 那覇からの帰路の便、マイレージによる無料航空券とアップグレード券というサラリーマン時代の特権を行使できる最後のチャンスで、スーパージャンボの1A席だった。代議士のキャンセルでもあったのかも知れないが、もうこれからは上級クラスなどには乗れないのではと思いつつ、最後のエリート気分に浸ることができた。

公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅 【全100回】 公開日
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(その2)福島県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
(その3)青森県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年6月1日
(その4)東京都・埼玉県|公共交通による市町村役所・役場めぐりの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年4月1日
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