著者プロフィール                

       
昭和三〇年代・幼稚園時代 〜 私の良き時代・昭和!(その6)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

昭和三〇年代・幼稚園時代 〜 私の良き時代・昭和!(その6)

昭和三〇年代・幼稚園時代

幼稚園は大阪の公立ではなく、母はなぜか地元でも有名な私立に入園させてくれた。生活は貧しくても私立に行かせてくれた。理由はわからないが幼稚園の教育方針がよかったからと後で聞いた。しかし本当の理由は、九州訛りがひどく、小学校に入るまでには大阪弁で話せるようにさせたかったのではと思う。

大阪に来た頃は、近所の子と遊ぶ時など訛りがひどく会話にならなかったのだ。

例えば「お兄ちゃんはいるの」を「あんしゃんなおらすと」、「うそをいうな」を「うだごつばいうな」、「お母さんは何処にいるの」を「お母さんな、どけおらすと」、「仲間に入れて」を「話にかてて」と大牟田弁で話すものだから大阪の子供たちは面食らってしまい、話が通じなかったが、そこは柔軟性のある子供たちである。直ぐ慣れてしまうから面白い。私も直ぐ大阪弁へ移行するのではなく、その後は過渡期の前段階として九州弁と大阪弁が混じった変てこな「九州・大阪弁」を話していたようだ。

当時、公立幼稚園の月謝は五〇〇円であった。これに対し、私立の月謝は八〇〇〇円。当家では兄と私が通っていたので月一万六〇〇〇円の出費となっていた。貧乏長屋に住んでいながらも、やせがまんをして、私立にいかせてくれた。心はいつも豊かにありたい、というのが母のモットーであったが、母のプライドは相当高かったものと思う。

人から貧乏と見られることを最も嫌がる母は生活の困窮や辛抱、それに苦労なんかは屁のカッパで、常に前向きな姿勢を崩さず、「くそ食らえ」という気持ちで頑張っていた。

この幼稚園での印象はあまりないが、教育水準は高く小学校低学年の勉強はしていたと後で気づいた。また強いてあげるなら格好のよい四角形の博士帽子とオシャレな制服、それにお昼に食べたメロンパンとチョコパン、加えて瓶入フルーツ牛乳やコーヒー牛乳が今も心に残っている。私は米や魚は大好きだが、菓子パンも大好きで今もその嗜好は変わっていない。多分幼稚園時代の食事の影響を受けていると思う。

戦後アメリカによるパン食中心の給食政策にまんまとやられてしまった世代であるといってもよい。子供時代の食事は人生を左右する。米と魚を中心とした日本の食文化を中心にした給食も真剣に考えなければならない。

しかし現在いかに豊かな国となったといっても、小学生一人分の給食費はたかがしれている。その低コストを考慮すると美味しい魚を出せないことは十分に理解はしている。けれども日本の食文化を後世に伝承していくには美味しい魚の味を幼児期から舌に覚えさせる必要がある。せめて旬といわれる時期には美味しい魚を食べさせてあげたいものだ。それができないという事なら、美味しさが失われることの無い、最新の急速冷凍技術(三年以上、長期間保存しても新鮮さは失われない)を駆使して大量に獲れた魚を保存しつつ調整し搬出していけば魚の相場を意識することはない。

「旬に食べるからこそ季節や自然の恵みを感じることができるのだ」といってみても、コストがそれを許さない以上、ここは目を瞑って柔軟に対応するしかない。一〇〇点満点のことができないのであれば六〇点主義に徹するしかない。

日本の漁業生産量が年々減少する中で、行政は漁業活性化の為、海外への水産物輸出を積極的に指導しているが、そのような実現不可能な夢物語ではなく、足元をしっかり見据えた、生鮮水産物資源の確保と管理、それに日本の子供たちに優先して魚を食べてもらうような指導と助成を率先して進めていかなければならないと思う。

またお箸をもって、ご飯と魚を上手によく嚙んで食べることは頭に刺激となり脳にもよいとされている。ご飯を口で咀嚼し、煮魚、焼き魚を箸でうまく食べることは、器用な日本人の真骨頂のはずである。

日本での箸の文化は古事記(七一二年)の須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲に降り立った時に河から箸が流れてきたという件に登場するのが文献としては初めだろうと記憶している。一六五〇〇年前には土器(大平山元一遺跡)を使い、一二六〇〇年前に漆を使用(鳥浜貝塚)し、漆製品は九〇〇〇年前から使用(垣ノ島遺跡)されているという一面をみても、土器の普及に伴い太古の縄文時代から箸が使われていたことも間違いないと考えられている。

箸は食事を初めから終わりまで完結させる日本食になくてはならない道具である。こんな素晴らしい日本の食文化は他にはない。「いただきます」は命をいただきますということで、自然界における多くの犠牲の中で自分たちは生かされていることを知ってほしいものだ。「足るを知り」、自分の存在に感謝すること、それなくして人としての再生は無い。

幼少時の食生活は大事である。この時に食べたものが後々の食生活に大きな影響を与えてしまうわけで、これから父母になる方は心してかからなければならない。

私はパンも好きだが魚も好きであった。毎日、母が手料理を作ってくれた。母は毎日歩いて一〇分程度の商店街に買い物に行っていた。たまについていくが、そのとき食べたお肉屋さんのコロッケの味は今も心に残っている。熱々で、肉汁とじゃがいもの絶妙なコンビネーションがなんともいえない味であった。心に残る味とはこういうものである。

年末になると家族で服を買いに商店街に出かけるのが恒例となっていた。当時は「主婦の店」(後のダイエー)というのがあり、レジ方式で売り場は広く品揃えもよく、結構楽しい、何かわくわくする売り場だった。

その隣にイノシシ屋という洋服店があり、ここで家族の正月用品を買い求めるのであった。当時(昭和三六~三七年ごろ)で約一万円の買い物である。それこそ、両手では持ちきれないほどの荷物であった。歳末大安売りということで安かったが、そこから二割ほど値引き交渉をし購入する。値引き交渉は母が上手かった。

買い物をした後は近くの洋食屋さんで夕食を食べた。ここのオムライスやチキンライス、エビフライ、ハンバーグステーキなど今思えば素朴な家庭料理で大変おいしかった。この一年に一~二回の家族団らんのひと時がとても楽しみであった。家族で外食をするという楽しい時間を過ごせる貴重な幸せを感じるひと時であった。この時間がここで止まってほしいと、子供心に、そんな思いがしたものである。商店街はアーケードの全天候型で約一キロほどあったように思う子供の感覚なのでよくわからないが。

商店街は連日多くの客でにぎわっていた。お店もその店の目玉商品というかブランド化した商材が多くあったように思う。この商品なら○○商店、てんぷらは○○、野菜は○○、魚は○○、などそれぞれに魅力のある店づくりをしていた。市場のコミュニティの原点がここにあった。食べ方情報や世俗の情報など多義にわたって飛び交っていた。

例えば、何々さんのおばあさんが亡くなったとか、娘さんが結婚した、いや離婚した、子供が生まれた、どこそこの倅が学校に入った等々。いろいろな情報が聞けたようで、市民生活のコミュニティの基本が商店街にはあった。

風邪をひくと決まって商店街のアサダ薬局というところにお世話になった。母は薬についても結構詳しかった。女学校のころも理系が得意であったと聞いていた。

幼稚園の遠足は大阪府T市の滝谷不動だったと記憶している。これは最近になって当時の写真の背景を改めて見て確認できたのである。父と私とが写った写真で、父の髪の毛はふさふさで風になびいている。私の記憶には父の頭には毛が生えている記憶は皆無である。私は遠足で寺には行った覚えが微かにあるが、どこの寺かは全く記憶にない。しかし、妻の実家がこの寺の近くであり、彼女の母も毎月二八日の不動尊の日には必ず「滝谷のお不動さん」にお参りをしていたし、私も結婚後、ことあるごとに家内安全と、健康祈願、子供の合格祈願などのご祈祷をお願いするために、度々お参りしていたのである。

偶然見た幼稚園時代の写真が、こともあろうに、今お世話になっている滝谷のお不動さんで、また妻の家族もお世話になっている寺であるという関係を知り、不思議というか全くの偶然というか出会いの凄さを感じた。しかし人生とはそういうものかも知れない。出会う人は出会うべくして出会っている。いってみれば、この世界、奇跡の連続体のようなものではないか。

人は瞬時瞬時を自己犠牲と自己保身の狭間で生き、その瞬間を確実に過去に送ることしかできない。人生半ばを過ぎるとこれまですごした過去が長くなり、未来の時間が短くなる。無理な冒険もできず、保守的になってしまう。中村天風(一八七六~一九六八年)は「過去は及ばず未来は知れず」といった。過去のことはくよくよと後悔しても仕方がない。また、未来について考えてもどうにもならない。今一瞬一瞬を精一杯生きよというぐらいのことらしい。しかし、人として精一杯生きていくためには「人生如何に生くべきか」という哲学的思考を無視しては成り立たないのではないかとも思っている。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日