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人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 〜 私の良き時代・昭和!(その2)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 〜 私の良き時代・昭和!(その2)

人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ

昭和三十一年夏、未熟児、しかも、早産かつ仮死産で福岡県大牟田(おおむた)市で生まれた私は、信じられないが、突然息を吹きかえし蘇ったと母から聞いている。

その後、二~三歳頃だったか、自宅二階のベランダから落下したのだが、怪我ひとつなく助かったとも聞いている。「ほんなこて、二階から落ちたばってん、ねーごんなかった」と母はいっていた。運良く落ちた場所が砂地の山だったようだ。小さいときから不死身であったらしい。しかし五〇代の頃、首のレントゲン写真を撮った時に医者から「以前大きな怪我などはしていませんか」と問われたことがある。理由を聞くと「骨に相当古い傷が残っているので、幼少期の頃かもしれませんね」ということだった。その時は記憶もないのでそのまま受け流したが、もしかすると、この時の傷ではないかと後で思った。

では、まず当家の家族構成から紹介する。父(昭和五年生まれ)、父より七歳年上の母(大正一二年生まれ)、私より二歳年上の兄、そして私の四人家族である。
父は八人兄弟の次男で、当時はローカル客船の機関長をしていたようだ。母は、船乗りは大嫌いで、父には別の仕事に就くか、まだ若いのだから再度勉強をして違う職種で地道な新しい人生を歩むように勧めていたようであった。しかし、父は耳を傾けなかったという。

大牟田での暮らしはまずまずであった。私は四歳ぐらいの頃、近所の人気者であったらしく散髪屋さんに行っては当時ヒットしていた「潮来笠(いたこがさ)」を振りを交えて歌ってはお駄賃をもらっていたそうだ。八百屋や魚屋へ、私を連れていけば必ずおまけがつくので、母はいつも私の手を引き連れて買い物に行っていた。

私が、五~六歳の時に、九州から大阪に家族で引っ越した。既に大阪には父の兄弟や親戚縁者が働きに来ていた。

とりあえず父が事前に大阪で仕事を探し、落ち着いた時点で、私たち家族を呼び寄せたのであった。父の兄はもっと早くに大阪の大手鉄鋼メーカーに就職しており安定した生活基盤を築いていた。

引越しの日、福岡の大牟田駅には、通っていた幼稚園の園児三〇名程が見送りにきてくれた。黄色い声で別れを告げる「力君さようなら」の声が、いつまでもこだました。そして列車が見えなくなるまで手を振ってくれた。私は泣きじゃくって別れを惜しんだと母から聞いた。九州から大阪へ向かう夜行列車の中で、かすかに印象に残っていることがある。夜行列車に揺られながら大阪に向かう車中、車窓は夕闇から暗闇へと次第に変化して行くが、その暗闇の中から、時折街頭の明かりが車内に差し込む。その光が風呂敷と新聞紙を広げたフロアに腰を下ろした母の背中に当たるのをみて、子供心になんともいえない気持ちになったことを今でも微かながら覚えている。というより、小学校の高学年までたまにこの光景が夢に出てきたのである。

今思えば、全てを清算し、慣れ親しんだこの地を離れ、見知らぬ土地へ移るのだから、家族の将来のことなど、母の胸中は如何ばかりであったろう。
この引越しには母の実母も一緒についてきた。

夜行列車といっても一晩過ごすのは辛く非常に長く感じた。いや興奮して眠れなかったといったほうがいい。翌朝早く、ついに大阪駅に着いた。「おお~さか」「おお~さか」というアナウンスに「やっと着いた。ついに来てしまったな」という恐れにも似た感覚が母を包み込んだにちがいない。

大都会の表玄関である駅構内は広く縦横無尽に人々が慌ただしく行き交い、活気が満ち溢れていた。まずは父の兄弟から大歓迎を受けた。先に大阪に来ていた父の兄弟たちの出迎えを受けたのだ。「よくきたな」「よろしく」「助け合って頑張ろうな」「大阪は住みやすいぞ」と声をかけて激励してくれた。不安な第一歩だったが、身内の心からの歓迎は大きな励みとなった。

東京が武士の町なら、大阪は町人と庶民の町である。「人情味が溢れた住みやすい町だ」と聞かされていた。他府県者も一歩大阪に足を踏み入れた瞬間から大阪人となるそうで、それだけ、大阪には懐の深い抱擁力があるらしい。この独特といっていい気の抜けた大阪弁が大きな包容力となり、きっと楽しい生活が待っているに違いないと感じた。

到着した大阪駅の印象は、とても古びていて大都会の駅舎とは思えなかった。機関車の煙で薄汚れたような壁をしていた。しかし駅のコンコースは人の熱気で溢れていた。人々は意気揚々と行き来していた。

大都会の雑踏の中、右も左もわからない状況で迎えに来た車に乗り、約一時間、やっとの思いで引越し先の家にたどり着いた。どんな家だろうと子供ながらに楽しみにしていたのだが、その期待は一瞬にして裏切られ奈落の底へ沈むかのようであった。想像とはあまりにかけ離れた信じられない光景に頭が真っ白になるくらいに愕然としたのであった。

そこにあったのは築百年以上は経過しているように見えたあばら家であったのだ。屋根に押しつぶされそうな土塀と板張りの貧相な造りで、玄関の雨戸は廃材のような板で無造作に打ちつけられている。隙間だらけのぼろぼろ状態で光が漏れる納屋、いや馬小屋の小汚い腐った板張りの引き戸のそれであった。

それはそれは、ビックリするような古びた六軒長屋であったのだ。長屋全体が少し傾き歪んでいるようで、しかし長屋という構造だからこそお互いの家を支えあって崩れずに持ちこたえているような危ない家であった。

私たち家族はこの長屋の南から三軒目に落ち着いた。外観もお粗末なら、家の中も同様で、目を疑った。間取りは関西間(京間・本間ともいう)で二畳と三畳の和室二部屋、台所は一~二畳程度の土間であった。「え! ここが我が家!?」大阪で最初に住む希望に満ちて遥々(はるばる)九州からやってきた最初の家が崩れかけの家で、しかもボロボロの崩壊寸前、それに二部屋しかない現実に、ただ呆然とするしかなかった。この時(昭和三六年頃)の家賃は月二〇〇〇円、父の月給が三万円前後だったと記憶している。しかし、住めば都でそういう環境もすぐ慣れてしまうから恐ろしい。

長屋の前面には川幅二〇メートル程のどぶ川が流れており、その土手から二メートル程低い土地に長屋が建てられたこともあり、よく大きなどぶねずみが土間を徘徊していた。父が夕方からねずみ捕りの籠を仕掛けると翌日には肥え太った大きなネズミが籠に入っている。

父は私に、この籠を前のどぶ川に浸け、ネズミを処理するように指示して会社に出かけることもあった。私はそれが嫌で嫌でたまらなかった。ネズミを窒息死させるわけで、最後はネズミも苦しんで籠の中で暴れるのであるが、それを見るのがつらかった。時には川に逃がしたこともあった。ネズミはスイスイ川を横断し川向かいのアパートの排水溝から中へ逃げて行った。この光景を見た時は子供とはいえ、父の意に反して、どぶネズミを助けてしまったことで、何とも複雑な心持であった。

また大きく脂ぎったゴキブリに遭遇すると家の中は大騒ぎで戦闘状態となる。気持ち悪いが、はえ叩きや新聞紙を丸め、とことん追い回し仕留めるのである。ゴキブリも必死で逃げようとし、時には死んだふりをしてこちらがほっとした一瞬の隙に畳や戸棚の隙間に逃げ込んでしまう。

しかし慣れとは恐ろしいもので、最初は気持ちが悪く嫌だったが、日が過ぎるにしたがって、日々における生活の一部の条件反射的行動となってしまい、ネズミの運動会もゴキブリの出現も特別なことではなくなり、日常の光景として何も感じなくなっていく。人の環境に対する順応性は凄いと思った。

どんな環境下にあっても人間の適応能力は進化し続けるといってもいいだろう。人類が幾多の苦難を経て進化を遂げつつ、現在まで生き残っていることも頷ける。
時には掌(てのひら)サイズの蜘蛛が頭に落ちてくることもあった。これは将(まさ)に衝撃で、大変驚かされた。

天井裏では、ネズミの大運動会が日常茶飯に開催され、たまにヘビが獲物であるネズミを追いかけ「ざあざあ」と気持ちの悪い音を発する。ネズミも「チューチュー」と逃げるのに必死で、ネズミと蛇の生死を賭けたバトルは長時間続くこともある。

雨が降れば部屋のあちこちから雨漏りがするので数か所に洗面器をおいた。雨が降れば雨漏りの音楽会ということになる。夏には蚊帳(かや)をかけて寝たが、蚊帳の中に蚊が忍びこんでいることもあり、そうした夜は蚊との格闘で寝られなかったこともあった。真っ暗にして寝ようとすると「ブーン」という音が顔の上から聞こえる。イライラして電球をつけると、隠れるのか見つけ出せないのである。この繰り返しで寝不足となり、翌日の目覚めは悪く、眠たくて一日中すっきりしない。冬には隙間風の音で睡眠が頻繁に邪魔される。朝起きると顔や耳だけが非常に冷たくたっている。

このように古くて狭い間取りに一家四人と祖母の五人で暮らした。つまりひとり一畳の生活を余儀なくされたというわけである。玄関に近い部屋は両親、奥の部屋は兄と私と祖母が使った。最悪の住環境で狭い部屋であったが温かみのある、いい家庭であったと今は思っている。朝食と夕食は決まって二畳の部屋で母の手料理を食べた。毎回楽しい団欒であった。

祖母とは三~四年一諸に暮らした。私が小学三年か四年生の時に、明治生まれの祖母は六四歳でこの世を去った当時は不治の病とされた癌であった。

祖母は病気になると、母の実弟の家に帰ることになった。荷物の整理をしているとき、私は「行かんで」と泣いたらしい。祖母は既に死期を予見していたようで、母には時計や指輪、着物など、金目になるものは全て内緒でおいていったという。別れの日、祖母が私に「本当に世話になったね。親不孝をしてはだめだよ。立派な人間になってね」といって明るい笑顔で去っていった。厳しいが本当にやさしい人であった。

癌の末期症状は凄い状況で、壮絶といっていい。よく祖母の見舞いにいったが、祖母の苦しむ姿を見て子供ながらどうしようもできない自分に歯がゆさを感じた。人の苦しむのを見るのが辛かった。

祖母は末期癌に苦しみながら亡くなった。祖母の体は痩せ細り、そこにはあの元気な祖母の姿はなかった。重く苦しい闘病生活を象徴する骨と皮の骸骨と化した亡骸がそこにあった。見るにしのびず、涙が止まらなかった。

こういう痛ましい死に方だけはしたくない、祖母の末期は生きるための苦しみではない、死ぬための苦しみではないかとその時思った。祖母と過ごした晩年、一緒に暮らした四年間、私にとっても幸せな時間であったが、祖母にとっても充実したいい時間であったろうと思う。

私にとって、祖母との別れは辛く悲しい出来事のひとつであった。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日