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父の会社が倒産、広島県福山市へ 〜 私の良き時代・昭和!(その18)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

父の会社が倒産、広島県福山市へ 〜 私の良き時代・昭和!(その18)

父の会社が倒産、広島県福山市へ

六年生も終わろうとする二学期だったか、父の製鉄会社が清算するということで、福山に転職することになり、家族も一緒に引っ越すことになった。

卒業前であり、友達との別れは辛かった。クラス全員でお別れ会を開いてくれたのがとてもうれしかった。教室には横断幕が掲げられていた。担任の渡辺先生は熱血教師で兄の担任も受け持っていた。先生の家には二~三度遊びにいったことがあるが、先生の家には卓球場の設備もあり、本当にびっくりした。先生は大学時代卓球をしていて、二階の部屋を改造し練習場にしていたのだ。先生のサーブとスマッシュは異次元のものに見えた。

  

昭和四三年の夏ごろに思い出の地と小学校を後にして広島県の福山市へ転居した。小学校は福山市立川口小学校だった。先ず父と小学校に転校の挨拶をしに行った。教頭先生から四角い顔でメガネをかけた白髪の男性を担任であると紹介された。この先生は言葉がとてもなまっており、何を言いっているのか全く理解できなかった。父も何度も繰り返し聞いていたようで、言葉には大変苦慮した。

大阪の小学校は私服であったが、ここは制服で黄色の帽子を着用した。この学校でも背は高いほうであった。

父が就職した会社は大手の鋼管会社で、社宅は全てが平屋の一戸建で六畳を中心とした三LDKの広さがあった。それも西洋風の新築である。大阪での暮らしから比較すれば天と地といっていい環境であった。私にしてみれば、それこそコペルニクス的大変換といってよい。とにかく綺麗で新築の新鮮な畳の匂いが印象的だった。

子供部屋は六畳で兄との共用二段ベットを購入し私は下で寝た。ここは空気も美味しく夜になると満天の星空が広がる。夜は静かで、「シーン」としている。特に自宅にトイレがあることが何よりうれしかった。

一歩社宅を出ると周辺は一面田んぼである。学校までは一直線の道、一キロほど歩いた突き当たりを左に二〇〇メートル程いったところである。真っ直ぐな田んぼの道は本当に遠く感じた。朝七時三〇分に社宅入口前に集合し地域の生徒も混じって集団で登校する。

体が大きいこともあって私はすぐ班長となった。田舎の小学校では先生自体がなまりのある広島弁で話す。初めは内容が理解できず困った。
ここでは「大変難しい」ことを「えれ~いたしいの~」、「変なこと」を「いなげなこと」、「先に帰るぞ」を「先にいぬるど」、「るな」を「いらうな」、大阪の先生は「お前らヤル気あんのか」というが、ここでは「おみゃ~らやるきあるんきゃ」と、なんか抜けたような響きとなる。いつも先生は「~いけん」「~いけんの~や」とよくいっていたのが印象に残っている。言葉の壁を超えるのには非常に苦労した。

 

嬉しいこともある。土曜日は三時間授業で一一時には終わった。私はこの学校でも結構人気があった。勉強は大阪に比べレベルは相当高いように感じた。

配属されたクラスにはいじめられている女の子がいた。彼女が近づいてくると 臭い、気持ち悪い、う肥(うこえ)がきたといって男子らは逃げたりしていた。田舎でもこんな意地悪をするのかと私は思った。一人に理由を聞くと、遠足に行った先で足を踏み外して、肥えたごに片足がつかり、足が肥まみれになったということだった。なにかよくある話だが、そんなことでいじめるとはけしからん。ということで、いじめられる場面では少なからず彼女を守った。

すると今度は、私が肥女と付き合っているということになり、学校中に広まってしまった。私は気にせず無視を決め込んだ。すると彼女が私に気遣ってお弁当を作ってきてくれた。

私はびっくりし断るのも傷つけることになり、照れくさかったが、貰って食べた。中身はサンドイッチだったと記憶しているのだがあまり正確にはおぼえてはいない。このいじめられていた女生徒は、髪は美しく結構可愛い子であった。

男子側からしてみれば彼女の気を引くために、からかい半分でちょっかいをかけていたのではないかと思われる。

この子を助けてからというものは他の女の子からも気に入られるようになった。

 

クラス、いや学年一の美女とされるT子さんは社宅の近くの大きな農家に住んでいたが、家も近所ということもあり、いつの間にか彼女と遊ぶようになった。口数が少なくおとなしいとてもやさしい子であった。

家は田圃のど真ん中にあり、とても大きな家であった。周り一面全てT子さんの家の土地とのことであった。晩秋にはこの広い田圃で友達とよく野球をした。また時には収穫後のわらが積んである上に二人でのぼり、雄大な空を見ながら、未来のことなどを語り合った。一〇年後二〇年後どうしてるのだろうか。二〇年後には、この場所で再会したいね等。二人で見たあの青い空と晩秋の雲は決して忘れることはない。

しかしあれから五〇年以上経過したが、あれ以来彼女との再会は実現できていない。幸せな生活をしていれば良いがと心から願っている。

彼女について一言触れておくと、ちょっと昔でいうなら南紗織を可愛くした子といってもいい。子供の記憶はあいまいで、彼女のご両親のことや、兄弟のことなど全く思い出す事ができない。

当時、彼女と友達でニコニコバスという路線バスに乗って福山駅まで行き、その足で福山城に行った事がある。なぜか石垣と緑しか記憶にない。気持ちが舞い上がっていたのではと思う。あとアイスクリームを食べたという記憶しかない。本当に楽しいひと時であった。

この頃、私自身勉強には自信があったが、福山の田舎小学校のレベルは高く、ついていけなかった。というより大阪の小学校では習っていないことだらけであった。生まれて初めて勉強ができないことへの自分の不甲斐なさを味わったのである。勉強の壁にぶち当たって悩んだ。大阪で習ったことがないので全く考察することもできない。しかし彼女が救ってくれた。彼女の大きな家の縁側南の和室で勉強をよく教えてくれたのだ。素朴な結構年老いたお母さんがお茶とお菓子を運んでくれた。勉強は理解している人物から習うのが一番だ。理路整然として明確に教えてくれた。今でも感謝している。

しかし彼女とのお付き合いは中学校入学と同時に遠のいてしまった。思春期ということもあるが、なぜか彼女と会うのが恥ずかしくなってしまったのである。

 

田舎での暮らしは都会とは違って、時間がゆっくりと過ぎていった。都会の子供とは違い、自然の中でのびのびと育っており、中には意地悪なやつはいるが、総合的に性格のまっすぐな子が多かったと思う。

しかし、ここでの暮らしもそんなに長くは続かなかった。

 

親父の仕事は某鉄鋼会社の溶鉱炉担当と聞いた。慣れない仕事に加え連日残業で体は疲労困憊していた。私自身も毎日、父の足や腰に二〇分程乗りマッサージをしていた。父は体重も激減でこのままでは倒れるというところまで体力が無くなってきていた。

そんななか、突然父が、「目が見えなくなってきた」と訴えた。溶鉱炉の仕事のため目の網膜が焼けてきているのではないかということだった。
そのとき、突然母が「あっ」といって取り出した薬があった。母の実家の家伝薬である「一服(いっぷく)ぐすり」というものを押し入れの引き出しから取り出し、母乳に混ぜ、目に浸すとよいと言いい出した。それは粉ぐすりで、母が物心つくとき(約九五年前)から実家では耳掻き一杯五銭で実際に売っていたらしい。眼病にきく効く薬らしく、「目の星が流れる」といっていた。

幸い社宅内に赤ちゃんを産んですぐの若奥さんがおり、杯(さかずき)に一杯ほどの乳を分けてもらった。母は粉を乳に入れよくかき混ぜて父の目に浸した。父は二時間程目を閉じ安静にしていた。父にしてみれば半信半疑で「効くわけがない」と内心思っていたに違いないが、年上の母はいい出したら一歩も引かない気性であることは理解していたので、従順に従うしかなかった。そして二時間後、目を開けるなり、父は大きな声をあげて「よく見える」といいだした。父にしてみれば藁をもつかむ思いであったろう。これは凄いくすりだと父は驚愕した。

母は誇らしげに「実家の秘伝薬なんだから効かないはずはない」と胸を張った。どんな薬か知らないが、母に聞いたところ、「今もあるよ。大事になおしてある」とのことだった。できればどこかの研究所でこの薬の成分を調べて欲しいと思ったが、母も亡くなり薬を調べることはとうとうできなかった。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日