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親戚との新年会と従兄弟の死 〜 私の良き時代・昭和!(その13)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

親戚との新年会と従兄弟の死 〜 私の良き時代・昭和!(その13)

親戚との新年会と従兄弟の死

 小学校時代の冬休み、特に私にはお正月は書き入れ時である。元旦は決まってお年玉目当てに父の兄の家に兄弟で挨拶に行った。ポチ袋には一〇〇円が入っていた。父とは性格の違う厳しい伯父さんだった。いつも父と母の欠点をついては嘆いていた。こちらとしては正月早々に両親の悪口(考えが浅いとか親戚を大事にしない、兄に敬意を払わない等々)に似た話の連続で空しかった。実は行きたくなかったのだが、お年玉の誘惑には勝てなかったのだ。

 正月の二日か三日には父の兄弟や従兄弟が集まり新年会を開くのが恒例となっていた。

会場は持ち回りであったが、当家は当然狭く除外されていた。子供も入れると一五人以上が新年会に集まる。それはそれは盛大な新年会である。

 しかし毎年最初はいい雰囲気で推移するが酒が入りだすと、どうしても口が災いしてトラブルが発生してしまう。例えば「子供なんて、特に女の子なんか何の役にも立たん」といい出せば「男の子なんか嫁ができればそれでしまいたい。それに引き替え女の子は結婚しても親の世話をしてくれる。愛情深いのは女の子だ」といい返す。学歴や職業についてや将来の考え方などあらゆることでいい合いをするのである。なぜ身内同士なのに仲良くできないのかと子供なりに思った。

 喧嘩は個人攻撃が多く、時には摑み合いに発展することもあった。この会を始めてから兄弟にも派閥ができるようになり、仲たがいの原因を作ることとなり、それ以来、気の会うもの同士で集まるようになり、この新年会は自然消滅となった。

 なぜ兄弟なのに仲良くできないのか。親しい中にも礼儀と寛容は必要で相手の立場に立った思いやりがなくては上手くいかない。どうして大人達は独善的で自己中心、俺が俺がの我を通すのか。子供心に大人の嫌らしい面に接し、やりきれなく不愉快で恥ずかしい思いがした。こういう大人にはなりたくないなと思った。

 商店街の川沿い近には母の実弟が住んでいた。弟は戦時中、近衛兵として皇居で勤務していたと聞いている。このおじさんの話では一〇〇倍の難関を通って合格したそうである。

 おじさんのところには私と一〇才以上離れた長男の従兄がおり、天才肌で大変面白い人だった。この人はいつも家でぶらぶらしていることが多く、よく家族で喧嘩をしていた。

 ある日、学校帰りに叔父さんの家を覗くと、この長男坊が昼食を食べようとしていた。「おー、よく来たな。上がれよ。俺は今から飯を食べる。お前も食べるか」と聞いてくるので「僕はいいです」と答えると、「そうか」といって用意をし食べようとする。よく見るとちゃぶ台には丼鉢に大盛りのごはんが置かれている。それに直接マヨネーズと醤油をブレンドしたものをかけて食べるのだ。「こうして食べるとうまいぞ」といって美味しそうに頰張っては嚙まずに飲み込んでいた。その食べっぷりがとてつもなく豪快でとにかく早い。口の回りにはご飯粒を付け「うまい」といって流し込んでいた。この人は大物になるなと思った。

 その後、この地域でもトップレベルの高校を卒業していた彼は、何を思ったか自衛隊に入隊、二年後、制服姿で我が家に遊びにきたではないか。以前と違い表情は精悍(せいかん)で眼もきりっとしていて体も逞しくなっていた。それはそれはびっくりするほどカッコよかった。

 彼の制服姿はとても男らしく凛々しくみえた。友達等も彼の後ろについて一緒に神社まで歩いた。このときは祝日で、玄関に掲揚された日の丸を見ると、彼は背筋を伸ばして敬礼をする。ついてきた子供たちも一緒に真似をして敬礼をする。何か見ていて清々しい気持ちのよい光景であった。

 礼儀正しく振る舞うことは人として最低限の行為であり、必要不可欠な行為であるといつも思う。この基本的な思いこそ文化の基盤だろうと思う。

 この豪快な従兄は事業を愛知県で起こし順調な人生を送っていたが、その後、交通事故に巻き込まれ、還らぬ人となった。単車で通勤中にトラックに巻き込まれ脳みそが飛び出たと聞いた。

 大手術の末、命は取りとめたので、私も家族でお見舞いに行ったが、そこには以前の元気な彼の姿はなかった。哀れとしかいいようのない姿がそこにあった。頭は異様に膨れ上がり、目は開いているが視点が定まらず、何かにおびえているようなしぐさをしていた。一言でいうと野生動物のように常に周りを警戒している表情で、何かの恐怖におののいているようだった。

 呼びかけても返事はなく、ただある一点を見つめているだけであった。彼は工事用のヘルメットを被ってはいたが顎ひもで固定しなければならないベルトを固定していなかったようなのである。素かぶりの状態が不幸を生むことになったのだ。

 その見舞いから半年もしない内に彼が亡くなったという一報がもたらされた。「人間の運命は本当にわからないものだな」とつくづく感じた。叔父さんよりその息子の方が先に逝去したので、告別式ではより多くの涙を誘った。叔父さんも大泣きで、この悲運を恨んだ。残された幼い子供と奥さんの姿を見る度に涙がとめどもなく流れた。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日