著者プロフィール                

       
名古屋の中学校へ転校 〜 私の良き時代・昭和!(その20)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

名古屋の中学校へ転校 〜 私の良き時代・昭和!(その20)

 福山に引っ越してどたばたとしている内に数ヶ月が過ぎ小学校を卒業、J中学校に入学した。

 通学は自転車であったが、結構遠いと感じた。入学後一ヶ月も経つか経たないうちに今度は名古屋への引越しということになった。従ってこの中学校での思い出は全くといってよいほどないのである。ここへきてまた引っ越しということでバタバタとすることになり、自分の人生も親の生き方に翻弄されていくのではと思ったが受け入れるしかなかった。 

 引越しに至った要因は父の体調である。父はこの時まだ四〇歳には届いていなかったが、五〇歳以上のように老けて見えていた。それだけ私たち家族のために身を粉にして働いてくれていたのだ。母も体調を気遣い転職を勧めたのである。同様にお隣の同僚Mさん家族も転職を検討していた。両家が話し合って名古屋の製鋼所が給与条件も良いということで転職することになった。

 中学一年の一学期早々には、無事名古屋市港区に引っ越した。住居は中学校近くの二軒屋だった。お隣は遅れて引っ越してくるMさんのお宅だ。 名古屋市内の中学ということで生徒数も福山とは比べるべくもなく多く、朝礼ともなるとグラウンドから溢れんばかりの生徒で埋まった。私はこの当時、大阪弁と広島弁が入り乱れた言葉遣いをしていたようで、仲間から「変なイントネーションだな」とよくいわれていた。私は「名古屋弁の方がよほど変だ」と内心思っていた。都会の洗練された言葉ではなく、田舎独特のいい回しだなと感じた。

 名古屋では「じゃんけん」を「いんちゃん」、「無い事」を「そんな事あらすか」、「走ってしんどいこと」を「走ってえらいでかんわ」、「おまえと行こかー」を「おみゃ~といこにゃー」、「壊れる」を「こわけた」、「ずるい」を「こっすい」、「ばかなこというな」を「どえりゃあこというな」、「もう一度いってくれ」「まっぺんいってちょうだゃあ」などといい、外国へ来たような気分になる。福山と同じような独特な訛りギャップを感じた。

 担任からは「広島の教育は全国でもトップレベルなので期待しているよ」とプレッシャーをかけられたが、広島での実戦は半年もなく、買い被りもいいところだと卑屈になっていた。
ころころと学校を変わるので、担任の期待とは裏腹に、あまり勉強はできなかったように思う。私は体が大きく、野球が好きだったことから、野球部に入った。

 監督から「一度どんな玉を投げるか見てみたいので投げてみろ」といわれ思い切り投げたところ、
「おお、粗削りだが速い玉を投げるな」といって
「とりあえず控えのピッチャーをやれ」といわれた。
守備はファーストとなった。次にバッティングを見たいというので、ピッチャーをマウンドに立たせ一対一で実戦形式で行った。ここでもレフトに大飛球を打ち、「よくとぶな~、すごいな~」と監督をうならせた。
この中学校でも人気者で、放課後ともなると何人かの女生徒がいつも応援に来てくれていた。最初は先輩の応援にでもきているのかなと思っていたが実は私の応援ということを先輩に聞き、びっくりしたことがある。その子たちは三年生の女生徒だった。ここでも年上の女性から好かれていたのだ。

 当時は練習がきつくて女生徒の応援等には全く気がつかなかった。柔軟 ストレッチ、うさぎ跳び、ノックの嵐、ピッチング、連日猛特訓で、楽しかった野球もだんだんと苦痛となりいやになった。練習中は水分を一切取っては駄目といわれていたので、頭から水をかぶるしかなかった。ふらふらで意識はもうろうとなりとても苦しかった。

 ミスをするとバットのヘッドでコツンと叩かれる。ヘルメットの上からではない、ヘルメットを脱いで叩かれるのである。それが思ったよりずっと痛い。思わず痛いといって頭を撫でると、また殴られる。じっと辛抱するしかないのだ。

 ミスしたら叩かれるという思いがまたミスを誘う。後でわかったが、この中学の野球部は結構強い強豪チームであったと聞いた。なるほど練習が厳しいわけだ。とんでもない部へ入部したな、と思った。

 私は結構速い球を投げるが、投球が安定せずノーコンで大変苦労した。緊張すれば特に定まらない。小学校時代のトラウマを引きずっていたのかもしれない。高めに浮きストライクが入らないのだ。

 矯正するのが大変であった。しかし、結構高めの球に打者が手を出してくれたので助かった。

 球種はストレートしかなく、カーブを覚えたが曲がらない。これが本当の小便カーブで練習しても曲がらないので辛かった。しかしこの抜けたカーブも球が速い分有効に使えた。

 まっすぐ一本で狙いをつけていた打者も戸惑ったようだ。

 練習する内にシュートを覚えた。自然にシュート回転する球である。これが投げられるようになって投球の幅が広がった。 中学一年といえば食べ盛りで一時間目が終わる頃になるとお腹がすき、昼までとても待てない。そこで休憩時間にこっそりとパンを食べていた。

 昼になると、ほとんどの生徒がお弁当だった。隣の男子生徒の弁当はいつも決まっていた。大きな弁当箱には白いご飯がぎっしり詰め込まれているだけ、おかずはまぐろのオイル漬けの缶詰一つだけである。この缶詰のメーカーが毎日変わるのである。至って簡単、手抜き弁当を超えた、何とも味気ない昼飯に驚いたが、母親にとってみれば助かるだろうなと感じた。その生徒の食いっぷりも凄い、最後は缶づめのオイルをごはんにかけて流しこんでしまうのである。合理的といえばそうだが、私には到底できそうにない。しかしそれがおいしそうに見えるから不思議だ。私のおかずである玉子焼きとよく交換で少し分けてもらったこともあった。

 私の母の玉子焼きは九州熊本の出身ということもあり甘い味付けであった。私もこれが玉子焼きの味だと思っていた。この中学校でも結構新鮮な味のようで私の食べる玉子焼きの人気は大変なものだった。

 弁当を持っていけない場合は売店にパンやおにぎり等を買いに行くが、それも戦争状態だった。少しでも出遅れようものなら、買うものがない。だから四時間目の授業が終わる五分前からスタートダッシュに備え、そわそわしてしまうのである。おいしいサンドウィッチを確保するため必死の戦いであった。

 全校生徒が集まるので二~三年生が来ていると遠慮気味になり、食べたいものがゲットできないときもあった。

 そんな時三年生の女生徒が分けてくれることがよくあった。やはり頼みは先輩女子生徒であった。  授業は社会が好きで、どうしてかわからないが社会の先生が私の目を見ながら授業をするようになった。そのため私も先生の目を見つめわかったような顔をしてうなずいたりしていた。この教科だけは負けるわけにはいかず、いつもクラストップの成績であった。時には見つめるあまり、よく先生は私を指名したが、実のところ見つめているだけで話の内容までは理解していなかったこともあり、答えられないときもあった。凄く恥ずかしい思いをしたことがある。それ以来先生の目を見るのを避けたが、たまに視線を送ると、やっぱり私を見つめているのがわかった。

「やっぱり私を見ている。まずい、どうしよう」と悩んだ。

 その光景が夢にまで出て来るようになった。

 学校にもそれぞれ学校のカラーというものがあるが、この学校は体育がとても厳しかった。
体育系のクラブも活発だったが、体育の授業は授業を越えていた、とのちに思った。体育の授業の終わりごろになるとほぼ全員の頭から湯気が出ている状態となる。男性も女性も変わらない。

 決して私は怠け者ではないが度を超えた体育の授業が苦痛でならなかった。なぜここまで体を苛めなければならないのか。先生はいつも立って笛を吹いているだけで、あまり体を動かさない。そして、口うるさい。ストレス解消のはけ口にでもされているのではないかとも思えるほどであった。

 日曜日には自宅の前で隣のMさんの長男(当時高校生)や兄とキャッチボールをよくした。そのときも自宅の前は畑であったが、その脇からカメラを下げた女生徒の姿を目撃したことがある。私の写真を撮りに来ていたのである。

 自宅にまで来るとは凄くびっくりしたが、勿論うれしくもあったので余計に投球に力が入った。 お隣さんは、夫婦の年齢差(Mさんは奥さんが一〇歳程下である)もあり、よくぶつかっていた。長男との意見の対立も相当なものであった。長男が高校を出ると家を出て働くといいだしたことで家族会儀を開いていた。

 その後、当家では大阪に引っ越すことになり、どういう結末となったかはわからない。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日