著者プロフィール                

       
長屋の生活 〜 私の良き時代・昭和!(その4)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

長屋の生活 〜 私の良き時代・昭和!(その4)

死への恐怖

この長屋での日常生活は、以下のようになる。

長屋前通路のほぼ中央に六軒長屋専用の簡易共同水道が一本ひかれていたが、そこで毎朝歯を磨き顔を洗った。家の前の通路は一面に石畳が敷かれており、夕食前になるといつも長屋の人たちが集まって野菜やお米などを洗いながらお喋りをしていた。本当の井戸端会議である。近所の冠婚葬祭の話はもとより健康や趣味に至るまで尽きることはない。

長屋の生命線ともいえる「チョロチョロ」の簡易水道は長屋の人たちに幸せを呼ぶ情報交流の場であったのだ。私も子供ながらにタライに洗濯物をいれ、洗濯板でゴシゴシと洗濯をしたが、ごくまれにだった。

夏になるとタライに水をいれスイカを冷やし、その場で切り分け近所の人も呼んで、皆で食べたのが楽しい思い出である。水浴びもよくした。
しかし母はこの中味のあまりない井戸端会議が嫌いなようで近所付き合いには一線を引いていたようだった。母は、共同水道を使用する時は人がいないかどうかこっそりと確認したうえで使っていた。

こういう生活が続くなか、母はついに自宅に水道をひくことを決意し、水道業者に工事を依頼し施工してもらった。そのときの工事費が約一〇万円だったらしい。びっくりしたのは長屋の連中である。

「貧乏長屋で大金払って自宅に水道をひいた」と近隣のもっぱらの噂となった。母に聞くとこの当時で預金とは別に常時約三〇~四〇万円の現金を持っていたらしい。

これがきっかけとなり、近所の連中が給料日前になると金を借りにくることが多くなった。母は金の貸し借りは嫌いな方で初めは断っていたが、しつこいくらいに毎日金を借りに来るので仕方なしに貸していたようだ。しかしこれが切っ掛けとなり、この長屋の新参者である母は皆から一目置かれる存在となり、その地位は上がっていったのはいうまでもない。

この長屋生活において最も苦労したのがトイレである。もはやトイレという綺麗な用語はここでは相応しくない、それほど荒れ放題というか、汚いというか、もはや掃除しても綺麗にはならない究極を凌駕した代物であったのだ。

長屋の便所はもちろん共同便所であり、長屋の南端から二〇メートル以上離れた屋外の土手の壁に沿って建っていた。建物は汚い馬小屋のようで汚れ放題である。電気は当然きていない。足を置くのも嫌な気持ち悪いほど汚いボットン便所なのである。夜中には蝋燭に火を灯すか、懐中電燈をもって用をたした。最初は怖くて怖くてたまらなかった。そういうこともあり、夜中によく家の裏の網戸を開け、下水路で用(小便)を足したほどである。

トイレの周りは真っ暗で「しーん」としている。静寂な音というべきか、その静寂の向こう側に恐ろしい気配を感じさせる静かさなのである。この静寂こそがより一層の恐怖を駆り立てる。大便用には常に便がへばり付いている。ボットン穴も真っ暗でその穴から手が忍び出てお尻を摑まれて持って行かれそうな想像をしてしまう。見ないようにとすればするほど気になって出るものも出ない。時折この穴から生ぬるい風が吹き上がってお尻を撫でる。蝋燭の明かりで壁に自分の影が映るのだが、その風で蝋燭が揺らぐと、自分自身の影も揺らぎ、その揺らぐ自分の影が魔女のように見えて無性に怖かった。

背後に幽霊がいそうで何回も振り返り確認した。突然穴から幽霊の顔や手が飛び出してくるのではとの恐怖感との戦いが続く。その恐怖のあまり、用を足す前に腹痛も収まり、出るものも出なくなる。気張って出そうとするが出ない。最近でもちょっとした緊張感(便所の隣に人が入るだけで)から出なくなることがよくある。子供の頃の体験はストレートにトラウマとなってしまうので怖いものがある。

夏のトイレというと暑さや蚊、ハエは当たり前、蚊に刺されないようにするのも一苦労で、暑さ対策としては団扇(うちわ)は必需品であった。特に大きく肥え太った糞ハエは、わが者顔で飛んでおり、額に汗しながらハエを追った。或時、寒い晩にて手を滑らして懐中電灯を穴に落としたことがある。忽ちにして便所は真っ暗で恐怖のどん底となる。目が闇に慣れるまで辛抱して、チリ紙を手さぐりで探し尻を拭いて出て行った。

その時の恐怖はすぐ抜け切れるものではなく、それからというもの、夜に便所に行くときは兄や父にいってついてきてもらうようにした。兄も嫌なようで、当分の間、殆ど父が用心棒としてついてきてくれた。今は遠い懐かしい思い出である。

長屋の人たちも貧乏ながら、私にとってはいい人たちだった。家の玄関も鍵はかかっておらず、自由に自分の家のように出入りしていた。隣人とのお付き合いでどれだけ助けられたかわからない。前のどぶ川で遊び服を汚し私が父から叱られている時も、私の「ごめんなさい。もうしません」という声や泣き声に反応して、二軒奥のS家のおばあさんが飛んできてくれ一緒に謝ってくれた。このおばあさんは妖怪の「砂かけばばあ」を少しぽっちゃりにした小柄な人で、白髪に髷を結い、ほとんど歯がなく、笑うと歯茎だけが見えるため、ついつい口元を見てしまうのである(入れ歯を外していたのかもしれない)。

母はこのおばあさんにも金を融通しており、そのこともあって時々おかずを持ってきてくれた。母は表向きは「ありがとう」といって満面の笑みでもらうのであるが、帰った後は迷惑そうな顔をして「どうしよう」といつもいっていた。わたしはおばあさんが持ってきたものを食べたことがない。

また、私の両親はご近所の夫婦喧嘩や兄弟喧嘩の仲裁に幾度、かり出されたかしれない。

当家は母が父より七歳も年上であり、名家の出身というプライドもあり、常に父を掌でコントロールしていたと思う。母の内面にはいつも「私をこんな襤褸家に住まわせてけしからん」という父に対する不満はあったが、不満をいっても現状が変わるわけではないので、愚痴を父に云うことはあまりなかった。

夫婦仲はよく、たまに口げんかをするが、いつも母の上から目線で父が操られていたといってもいい。

用水路をはさんだお隣にはDさんというおばあさんが一人で住んでいた。長屋の大家の親戚であったようだ

長屋のなかで大家の裏庭とこのDさん宅だけがつながっており、行き来していたと思う。やはり大家の親戚というだけあって、上品で気位が高く、しゃきしゃきしていた。母もこのおばあさんには貧乏人と見られたくなかったようで、常に意識して振る舞っていた。

南隣の家はHさんという母娘の二人暮らしであった。たまに親子で口論する女性特有の甲高い声が聞こえてきた。

建物が傾きかけた人情長屋ということもあり、柱の隙間からは隣の明かりが少し漏れてくる。ましてや喧嘩となると丸聞こえである。恥も外聞もない。今思うと近所の大きな声は仲裁に来てほしいという合図であったのではないか、と思えなくもない。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日