著者プロフィール                

       
東京オリンピックと高校野球 〜 私の良き時代・昭和!(その10)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

東京オリンピックと高校野球 〜 私の良き時代・昭和!(その10)

東京オリンピックと高校野球

小学生の低学年(二年生だったか)のときに、父から「日本が世界の先進国の仲間入りを果たす記念する大会なのでしっかり見て脳裏に叩き込んでおけ」といわれ、子供心に意味がわからないままに東京オリンピックの入場行進を観たが、子供ながら感動してしまった。今も鮮明に記憶に残っている。特にあの聴いたこともない洗練されたファンファーレと行進曲の旋律は私の心に強烈に響いた。オリンピックの会場は歓喜と緊張に包まれた。そのエネルギーが画面を通じて伝わってきた。
柔道、体操、バレーボール、レスリング、そして、マラソン。中でも、バレーボールとお家芸の柔道、体操には目が釘付けとなった。柔道の無差別級ではオランダのヘーシンクが金メダルをとり、日本柔道界に衝撃を与えた。関係者はショックのあまり絶句して泣いていたことをおぼえている。
また、円谷(つぶらや)選手の銅メダルには心底感動した。外国人に比べ貧弱な日本人がそれもマラソンでメダルを獲得したのである。並大抵の努力では勝ち取ることなどできるわけがない。華やかな祝賀の裏には血のにじむような努力があったものと思う。
父の一言がなかったならば、ただ漠然と見過ごしていた、いや見ていなかったであろう。そうに違いない。
父や母の一言がいかに子供の人生を左右するか知る由もなかったが、今にして思えば、父の日常における一言一句が子供の人生を左右したといっても過言ではない。

オリンピックに合わせ、この年には東海道新幹線が開通、巷は次から次へと明るい話題で溢れかえった。成長期の元気な日本の姿がそこにあった。
新幹線は当然日本の最高技術の結晶といってもいい。東京と大阪がひかりで四時間、こだまで五時間、翌年にはひかりが三時間一〇分となり、大都市圏が日帰りできるという夢のようなことが現実のものとなった。この偉業が日本の経済と社会構造に大きな変革をもたらしたことは事実である。
私もいつかは家族旅行で乗ってみたいと強く思っていた。私にとっての新幹線は夢の乗り物であった。 
高校野球にも思い出が沢山ある。

昭和四〇年夏の大会に初出場で初優勝を飾った福岡県代表の三池工業。私が偶々(たまたま)生まれた大牟田市の高校でもあり応援に熱が入った。一戦一戦家族で応援し、決勝戦は甲子園で観戦し喉がかれるまで応援した。この学校は、前評判はあまり高くなく、一回戦敗退か一つ勝てばいいぐらいの思いで見ていた。しかし、上田投手ののらりくらりした投球術で勝ち抜き、瞬く間に決勝戦へと駒を進めたのだった。
波に乗るとはこういうことか、誰も止められない奇跡の連続、それも神がかり的でついに優勝したのであった。
人生にはこのような神秘的な流れ、気運というものが存在し、見えない力が人を、ある時はプラスに導き、ある時はマイナスへと足を引っ張る。人の運命とは本当に面白いものだ。
 子供の頃から春夏の高校野球大会が大好きで一発勝負の緊張感と、郷土の代表としての人情味溢れる応援など見るもの全てが大変心地よいものであった。
 昭和四四年の第五一回夏の高校野球選手権大会決勝では、青森の三沢高校と愛媛の松山商業高校の戦いを最初から最後までテレビで観戦した。白熱した手に汗握る展開が四時間も続いた。 結局、延長一八回〇対〇のまま再試合となった。緊迫感溢れる大会屈指の名勝負であったと思う。三沢高校の太田幸司投手の投球数は確か三〇〇球を越えたのではないかと記憶している。何せ手に汗握る凄い試合であった。
 両校優勝でも良かったように思う。翌日の再試合では太田はいきなり初回にホームランを打たれ結局四対二で松山商業が優勝した。一八回という死闘、かつ再試合という興奮の中で彼らとともに時間の共有ができたことを心から感謝したい。

話は突然飛ぶが、私が二七歳のときに桑田・清原KKコンビが甲子園で大活躍した後、二人は全日本高校野球選抜メンバーに選出された。この時日本で米国高校野球選抜との日米高校野球大会が組まれたことがあった。実をいうと、この米国選抜のなかに、母方の親類の子が選ばれていたのである。母の叔母は日系一世でハワイに移住していたがその孫が選抜メンバーに選ばれていたのだ。大阪での試合が終わった日の夜に彼が宿泊していた阪神ホテルに母とともに会いにいった。ロビーで会い抱擁したが、全く日本語が話せない。日本人の顔なのに英語しか話せない。私もあるだけの英語力で話をした。
桑田と清原の話も聞いた。桑田については、「彼は投手としての天性を持っている。打者の心理や投球術は超高校級であり素晴らしい。プロでも十分活躍できるのではないか」と彼は話した。清原については、「彼は高校のレベルを超えている。天才スラッガーだ」と興奮した様子で話してくれた。
持参した母からの手紙を両親に託してその日は別れた。その後、その年の年末にはハワイから電話があった。彼の両親が日本に来るので会ってほしいということだった。滞在する大阪市天王寺区のホテルに母とともに行き、ご両親とお会いした。ご両親も片言の日本語しか話せずほとんどが英語であった。でも垢抜けした洗練された老夫婦という感じで、大変印象の良い方であった。娘さんもおり、ノースウェスト航空の客室乗務員をしているとのことだった。家はオワフ島とのことで是非きてほしいといってくれた。
話は尽きず、別れにはお互い手を交わしながら涙を浮かべ別れをいつまでも惜しんだ。その後手紙でのやり取りは二~三年続いたが、それ以降は連絡が滞ってしまった。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日