著者プロフィール                

       
私の両親 〜 私の良き時代・昭和!(その5)

森田 力

昭和31年 福岡県大牟田市生まれで大阪育ち。
平成29年 61歳で水産団体事務長を退職。
平成5年 産経新聞、私の正論(テーマ 皇太子殿下ご成婚に思う)で入選
平成22年 魚食普及功績者賞受賞(大日本水産会)
趣 味  読書、音楽鑑賞、ピアノ演奏、食文化探究、歴史・文化探究

私の両親 〜 私の良き時代・昭和!(その5)

私の両親

母は平成二十二年十一月十二日に突然口から涎(よだれ)をながしながら手がしびれると訴えたので救急車で近くの病院に搬送された。病名は脳梗塞だろうということだった。「自分は一〇〇歳まで頑張る。死んでなるものか」と直前まで豪語していた母であったが、病が突然襲ってきたのである。

総合病院での検査を進められたが、あいにく八七歳の高齢ということもあって救急ではなかなか受け入れてもらえる病院がなかった。その時母が小声で「孫(私の長男)の病院に行きたい」といったことから、急遽、孫が研修医として働いている医療センターに連絡した結果、受け入れてもらえる事となった。検査の結果、多発性脳梗塞と診断された。私はこの時初めて息子の白衣姿を見たのだが、凛々しく医者の雰囲気が漂っていたように感じ大変嬉しかった。

幸いにも母の病状は重いものではなく、医療スタッフからやさしく接してもらい有頂天となっていた。私の細君は実母のように思って週に三~四回母を見舞ってくれていた。最初のころは看護師さんから「○○先生のお母様ですか」とよくいわれていたようだ。母が気ままな振る舞いを少しでもすれば、息子の顔もあり私も細君ももうすこし上品にと促すこともあった。しかし息子がいたから入院できたということもあり、母は終始上機嫌であった。

三ヶ月後元気に退院し、老人介護施設に移ったが、翌年平成二三年九月一五日、父の誕生日の日に還らぬ人となった。父は昭和五七年(一九八二)七月に五三歳でなくなっていたが、このありえない巡り合わせに、天国にいる父の母への思いがそうさせたのではないかと感じた。

父が文化の環状線から下車して、もう三十五年以上になる。現在の車両は乗車する多様な価値観を持つ人たちで大混乱となっており、電車の外観は錆だらけとなっている。車内の乗客の生き方、態度、それに心構えはといえば、安逸な風潮に流され、機械的に快不快で物事を安易に判断してしまうという、いってみれば上滑りしている状況である。

伝統や文化は軽々しく議論の対象とはなりえないが、現代の世相や世論調査にあわせた国民の意志に沿ったものにすべきであるとする傲慢かつ知的・道徳的怠惰な識者は大勢いるし、この方便に読者もころっとだまされてしまっている。

日本人としての生き方の答えは究極のところ我々の内にあるが、その認識に乏しい。文化は常に求心的統一を浴するのであるが、飽食時代の我々個人は求心的統一を望まないらしい。

父は肝臓癌で亡くなった。健康診断で引っかかり、精密検査では家族が極秘裏に呼ばれた。そこで先生にいわれたのは余命三ヶ月、ということだった。原発性の肝臓癌が、拳大もあり、転移している可能性もあるとのことだった。先生の話を聞くと家族に衝撃が走り、私も頭が真っ白になった。先生に「余命三ヶ月ということですが、父は元気にしていますよ。再度調べてください」というと、先生は「例えばダムが決壊するのと同じなんです。ダムの下流からダムを見てもダムにどれほど水が溜まっているのかわからない。少ないかもしれないし満杯かもしれない。しかし下流からみたらいつものダムの景観です。病気も同じで、決壊するまで元気に見えるんです。お父さんの場合は決壊寸前であるということです。あと少しの時間で状況は一変します。お父さんはここまで悪化しているので、何かの症状や日常での変化があったはずですよ。そこを見逃されたのではないですか」

母は思い当たる節があるようで、その時に医者に見せればよかったと後悔していた。母は口頭で医者に行くように促したそうだが、父も極端な程医者嫌いであったため行かなかったという。

早速私は知り会いを通じてK大学病院に転院させた。父にはがん告知はせず、「治療に専念すれば家に戻れるよ」と励ました。

その当時としては最新の医療で治療したが、それがかえって父を苦しめる結果となってしまったことを今でも後悔している。入院当時年齢は五二歳と大変若かったことも癌の進行を促進させたようだ。

癌細胞に栄養を送る血管を詰めて癌を壊死(えし)させるアンギオグラフィー治療を行ったが、次から次へと癌に向かって新たな血管が生まれ伸びていく。若いがゆえにすぐ伸びるのである。

ある時血管を詰めた処置をした夜に、食道と胃の境界のところで血管の瘤が破れ吐血した。病院から緊急連絡があり駆けつけると、父の口から胃袋に風船を入れ膨れさせて瘤の出血を止める処置がされていたのだが、あの辛抱強い父が目に涙を浮かべて苦しがっていたことを忘れることはない。父は指で口のところを何度も指し示すのだ。「苦しいから取ってくれ」と訴えていることはわかったが、取ると出血するので我慢しようと励ました。そして三ヶ月後、病状も落ち着いたことから家に近い病院に転院した。実をいうと、これ以上大学病院では手の施しようは望めないとのことで命の終わりに臨み家の近くに転院することになったのである。

しかし予想を遥かに超え信じられない程元気に回復し自宅に戻ってきたのだ。通常の生活ができるほどに元気になり家族も驚いた。しかし蝋燭の最後の灯火というか、なくなる前の最後の元気な四ヶ月となった。人が亡くなる前には少し病状が回復しとても元気になると聞いていたが、正に現実のものとなった。

父も最期を予知したのか四~五日間にわたって私の家に泊まった。当初は日帰りの予定であったが、よほど居心地がよかったのか、自分から帰るとはいわず好きなようにすごしていたようだった。この間本当にあの闘病生活は何だったんだろうと思うほど、元気に回復していたのである。

当時私は二DKの賃貸マンションに住んでいた。父は「畳もやけてきたなあ」といって「賃貸なんだから家主に交渉すれば交換してくれる」と話し、家主の家まで出かけていった。しかし交渉どころか、けんもほろろに「今のところ予定がない」と断られたらしく、怒って戻ってきた。

また裏庭の掃除をしたり、子供の世話をしてくれたり、細君の買い物に付きあって、重い荷物を運んでくれたり、色々と動き回ってくれたようだ。細君との相性もいいようで本当の父のような接し方をしてくれた。

今思えば、あの最後の一ヶ月間、もっと孝行をしておけばよかったと今になって思う。その後、父は(自宅に?)帰ったあとすぐに倒れ、入院したのである。癌が首の骨に転移していたのだ。最近まで元気に過ごしていたのに、予想外の急変であった。

父は連日痛みとの戦いを続けていた。痛み緩和のためにモルヒネを投与された。意識が朦朧となっても体は痛みのためにクネクネと動いていた。入院後七日目に食道の静脈瘤が破裂、鼻と口から大量の血が出血している光景を目の当たりにした。その姿が痛ましく可哀想で見ているだけで何もできない自分を情けなく感じた。「先生静かに眠らせてやってください」と思わず口から出てしまった。癌の末期は壮絶であることは祖母の死で知っていたが、それを超える光景を目にし、ここまでして処置をする必要があるのだろうか、と却って現在の医療のあり方に疑問を持つようになった。本当にこんな生命至上主義の医療でいいんだろうか。

子供として、良かれと思いやってきた行為が、却って父につらい日々を課してしまったことに対して心から申し訳ない気持ちになった。

父は手当ての甲斐なく還らぬ人となった。安らかとはいいがたい、壮絶な最後であった。余命三ヶ月と宣告され、実際は七ヶ月目で亡くなった。親父の壮絶な癌との戦いは祖母の記憶とオーバーラップし、トラウマとなって蘇った。

父も色々と苦労をしてきた人で、波乱に満ちた五三年間の短い人生であった。

父との一番の思い出は、小学校の低学年の夏休みに父の故郷である鹿児島県揖宿(いぶすき)に遊びに行ったことである。父は根っからの薩摩隼人で実家では馬や牛が飼われており、私は親父に連れられ馬に乗って近辺を走った。初めて馬に乗ったが結構馬の背中が高くびっくりした。馬小屋の掃除も手伝ったが、馬はとてもおとなしく、私に打ち解けてくれたようだった。この時、馬の目は本当に愛くるしいと感じた。

色々と言及したが、かくいう私も、とうとう父の年齢を超えてしまった。本当に心から冥福を祈っている。「おとうさん、これまで本当にありがとう」という感謝の念とともに。

私は、平成二一年(二〇〇九年)、父の年齢に達した。

実は父の年齢を超えるのが少し怖かった、いや嬉しかった。これからも一日一日大切に生きていこうと思った。しかし考えてみると、実際五三年の人生はあまりにも短く感じられた。

自分が過ごしてきた人生を振り返ると、特にそのことがよく解る。この歳になると自分自身が心から愛おしくなる。人生をともに生きてきた自分の心と体に心から感謝している。

私の良き時代・昭和! 【全31回】 公開日
(その1)はじめに── 特別連載『私の良き時代・昭和!』 2019年6月28日
(その2)人生の始まり──~不死身の幼児期~大阪の襤褸(ぼろ)長屋へ 2019年7月17日
(その3)死への恐怖 2019年8月2日
(その4)長屋の生活 2019年9月6日
(その5)私の両親 2019年10月4日
(その6)昭和三〇年代・幼稚園時代 2019年11月1日
(その7)小学校時代 2019年12月6日
(その8)兄との思い出 2020年1月10日
(その9)小学校高学年 2020年2月7日
(その10)東京オリンピックと高校野球 2020年3月6日
(その11)苦慮した夏休みの課題 2020年4月3日
(その12)六年生への憧れと児童会 2020年5月1日
(その13)親戚との新年会と従兄弟の死 2020年5月29日
(その14)少年時代の淡い憧れ 2020年6月30日
(その15)父が父兄参観に出席 2020年7月31日
(その16)スポーツ大会と学芸会 2020年8月31日
(その17)現地を訪れ思い出に浸る 2020年9月30日
(その18)父の会社が倒産、広島県福山市へ 2020年10月30日
(その19)父の愛情と兄の友達 2020年11月30日
(その20)名古屋の中学校へ転校 2020年12月28日
(その21)大阪へ引っ越し 2021年1月29日
(その22)新しい中学での学校生活 2021年2月26日
(その23)流行った「ばび語会話」 2021年3月31日
(その24)万国博覧会 2021年4月30日
(その25)新校舎での生活 2021年5月28日
(その26)日本列島改造論と高校進学 2021年6月30日
(その27)高校生活、体育祭、体育の補講等 2021年7月30日
(その28)社会見学や文化祭など 2021年8月31日
(その29)昭和四〇年代の世相 2021年9月30日
(その30)日本の文化について 2021年10月29日
(その31)おわりに 2021年11月30日