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特別連載インタビュー

デビュー前後の思い出

──その後、恩田さんは1991年に第3回日本ファンタジーノベル大賞に応募した『六番目の小夜子』で小説家としてデビューなさいました。その前後の思い出を伺えますか。

 恩田:子どもの頃から「いつか作家になりたいな」とは思っていました。でも、いまとちがって当時は、若い人が作家としてデビューできる機会は新人賞に応募することしかなかった。なぜか作家はみな年寄りだという固定観念があり、もし自分が作家になるとしてもずっと年を取ってからの話で、若いうちからなれるものだとは思っていませんでした。

 ところが第1回日本ファンタジーノベル大賞で私より1歳年上なだけの酒見賢一さんが、『後宮小説』という傑作でデビューした。そのことにものすごい衝撃を受けたんです。そうか、別に若いうちから書いてもいいのか!と思って応募したのが『六番目の小夜子』という作品でした。

 ──当時はもう働いていらしたんですよね。

 恩田:はい。就職していちばん嬉しかったのはハードカバーの本が買えるようになったことで、就職後の1、2年はその年に出たミステリー小説はほとんど買って読んでいたんです。でもそのうちに第一次OA化の時代がやってきて、職場の仕組みがアナログからデジタルへの移行ですさまじく忙しくなった。そのせいで本を読む暇もなくなってしまい、身体まで壊してしまったんです。

 そのときに、この小説を書き始めました。最初はどこに発表するつもりもなくノートに書いていたのですが、第2回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を読んで、「私の考えるファンタジーはこれじゃないな」と思ったんです。「読者」としての自分は、よくある異世界もののような正統派のファンタジーではないものが読みたかったんです。じゃあ自分だったらどういうものにするだろう、と思って書き始めたのが『六番目の小夜子』でした。

 身体を壊したので勤めていた会社を辞めることになり、時間ができたのでひと月ぐらいで一気に書いて応募しました。締切が迫っていたせいか、かなり追い詰められていて、寝ると夢に「小夜子」が出てくるんですよ。「すいません。早く続き書きます」と登場人物に謝りながら書いていました(笑)。
 作品が出来上がったあとも、ノートに書いたものを原稿用紙に清書するため2晩くらい徹夜しました。それでも間に合わず、締切に間に合うよう先に半分だけ送り、残りは締切を過ぎてから送りました。失格にしないでくれたことに感謝しています。

 応募後、すぐに就職活動を始めました。まさかこの作品でデビューできるとは思っていなかったんです。いわゆる「記念受験」みたいなもので、作品を書き上げて応募しただけで気持ちがスッキリし、満足していたんです。

──応募作が本になることが決まったときはどんな気持ちでしたか。

 恩田:ファンタジーノベル大賞の最終候補になったという連絡がきたときは、もう再就職して人材派遣会社で働き始めていたので、賞に応募したことさえ忘れていて、とてもびっくりしました。

 連絡をくれた編集者の話によると、下読みをしてくれたのが私と同世代の人たちで、その評判がとてもよかったらしい。それで、たとえ大賞が受賞できなくても本にはします、と言ってくれたんです。自分の同世代に「こういうものが読みたい」と思ってくれる人がいたのは、やはり嬉しかったです。NHKでやっていた少年ドラマシリーズみたいな「ホラーっぽい学園もの」がみんな好きだったはずなのに、当時はそういう小説がそんなになかった。「こういうものが読みたい」という、「読者としての自分」の感覚は間違ってなかったな、と思ったことを覚えています。誰かの言葉で「作者は読者の成れの果て」というのがありますが、まさにそんな感じでしたね(笑)。

 恩田陸というペンネームは応募時につけたのですが、本が出ることが決まったときに「ペンネームを変えませんか」と言われたんです。他の名前を考えておいてくださいと言われ、いろいろ考えて別のペンネーム案を伝えたのですが、編集者の方に「なんだか恩田陸でもよいような気がしてきました」と言われて、結局そのままになりました。受賞に至らなかった作品が本になったわけですが、日本ファンタジーノベル大賞で候補まで残った作品で、私の他にもいろんな方がデビューしています。

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