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リフレッシュ休暇 カナダ東部への旅 〜 海外地理紀行(その12)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

リフレッシュ休暇 カナダ東部への旅 〜 海外地理紀行(その12)

 1993年(平成5年)夏、勤続25年のご褒美として4週間の休暇と何がしかのお小遣いが勤務先から貰えた。今では信じられないくらい日本社会が、そして企業が史上空前の高度成長、というよりもバルブ景気に酔っていた頃のことである。会社のこの施策は、この数年前にでき、その後しばらくして徐々に縮小したと聞いているので、自分は良き時代に恵まれ余程ラッキーだったと思っている。

 これを利用しない手はないと、予てより北米の地理と歴史に興昧を持っていた私は、女房孝行を兼ね7月下旬から2週間のカナダ東部の旅に出た。あまり観光客の行かない所へ、なるべく費用もかけずにということから、パッケージ・ツアーではなく、個人旅行にした。なかなか事前準備ができず、乗物やホテルの大半は現地で探すことになった。おかげで思いがけない損や得をしたが、予想外の事に出くわしたりして世界や日本に対する認識を変えざるを得ないような、多くを考えさせてくれる旅になった。

 今から30年前のことであるが、当時のメモなどをもとにこの旅のレポートを作成することにした。当時はまだデジカメも普及しておらず、写真の質も良くないが、思いだせる範囲でまとめるとともに、現在の状況についても、わかる範囲で記すことにした。   (2022年3月記)

1.民族、宗教、文化の誇り       モントリオール

 旅はモントリオールから始めた。成田からトロントに行き、乗り換えた国内線がケベック州の上空にさしかかると、それまでの英語、フランス語の順だった機内アナウンスはフランス語が先になった。

 トロントの空港には、家内が2年前まで英会話を習っていたルイズ夫人がご主人と待っていた。今回の旅は家内が習った英語を使ってみたい、師匠だった夫人に会いたいという希望を取り入れたのだ。ご夫妻の車で郊外の家へ案内された。日本風に言えば棟割り長屋で100年以上前に建てられたというレンガ造りの家だが、一戸毎は日本の住宅展示場のモデル住宅のような広さと間取りを持ち、南北に庭もある。平均的な庶民の家だそうだ。日没が遅くいつまでも明るい芝生の上にテープルを出し、タ食をごちそうになった。

 ご夫妻は数年前、2年間日本にも住んだ知日家で、ご主人は大学教授で日本語の他中国語も話す。家内が英語を試したいように、ご主人も久し振りに日本語を話したいようだった。だから4人の会話は英語時々日本語だったが、ご夫妻間のみはフランス語で話していた。全部英語だとどこからが我々への質問なのか常に構えてなければならないが、英仏混在だと少なくとも英語の時だけ緊張すれば良いので疲れは大分減る。尤も家内と日本語で「ここは払わなくてもいいかな」などと話しても間かれていそうで若干不利な気がした。

 モントリオールはもともとフランス人の植民が行われていたケベック州の中心都市であり、今でもフランス文化の影響が濃く、「北米のパリ」とも言われている。セント・ローレンス川とオタワ川の合流点にある川中島が市の大部分で、面積は横浜市と同じくらい。大河を航行する大型船のターミナルとしても重要な河港でもある。郊外を含む訪問時の都市圏の人口は300万人と聞いていたが今では400万人だそうだ。1980年頃まではカナダ最大の都市だったが今はトロントに抜かれている。なおフランス語が使われている都市としては、当時はパリに次いで世界2位と言われていたが、最近ではかってベルギー領コンゴだったコンゴ民主共和国の首都キンサシャに抜かれ3位になったそうだ。

 寒冷な地域にあり、冬は最高気温でもー20度くらいにしかならないそうで、雪も多く、市の中心部は地下道が張り巡らされている。

 初日はご夫妻宅から車でホテルまで送ってもらい、翌日も又車で市内を案内してもらった。丘の上にそびえ立つ壮大なサン・ジョセフ教会へ行くと日曜日のミサの最中だった。数千人は入りそうな巨大なドームの豪華絢爛な祭壇で司祭が祈りをあげ、上の方からは時々パイプオルガンの音が聞こえて来る。司祭の声はマイクを通した適度なボリュームと残響効果とで心地よい音楽の響きのようだ。ミサの最中でも観光客は自由に出入するし、参列者も迷惑そうな様子を見せない。広い駐車場での警備員のテキパキとした交通整理や次から次へとエスカレーターで登ってくる観光客の出入りを見ていると、ミサもひとつの観光ショウのようなものではないかと、信仰心のない自分は不遜なことを考えてしまう。

 1940年代までは ケベック州で最も力があったのはカトリック教会だったそうで、市内一等地の天を仰ぐような教会と、そこに集まる信者や一般の人の群を見ていると、今もその力は衰えていないようだ。フランス語といいカトリックといい、我々には想像のつかない伝統を守る力を感じさせる。

 この日は天候にも恵まれオリンピック記念公園のタワーからは地平線まで見わたせる大平原や、海峡のようなセント・ローレンス川を目の当たりにして、あらためて島国と大陸国との違いを認識した。案内版などはフランス語のみの表示も多く苦労するが、成田で買ったフランス語会話集は役に立たない。それを見ながらこちらの言いたい事を言ったとしても、相手のいう事や表示が理解できないのだから意味がない。それよりも地下鉄の売店で買った『仏英単語集』というただ単語が1対1に並べてあるだけの小さな手帳の方がずっと役に立った。3カナダドルだったが、この旅行期間中1カナダドルは約85円だったので250円位ということになる。

 3日目は、徒歩や公共交通機関を使って市内観光をした後地下鉄と徒歩でご夫妻宅へ行った。地下鉄は4路線あり、1967年の万博、1976年のオリンピックに合わせて順次開業させたが、その後は力尽きたのか、末端部での若干の路線延長があった程度で、現在まで新しい路線は出来ていない。現在の総延長は60kmを超えている。

 この地下鉄でご夫妻の家に行ったらビックリされた。最寄りと思われる地下鉄駅から、地図では直線距離で数百メートルだったが、途中貨物線を横断するのに大きく迂回しなければならず、30分近く歩いた。地下鉄などで行くところではなかったらしい。

 また郊外鉄道にも乗ってみた。ホテル近くのカナダ太平洋鉄道(CPR)のウィンザー駅から郊外の終点ドリオンまでの40キロほどを往復した。面白かったのは初めて体験したギャラリーカーという客車で、これは北米の都市近郊では多いのだが、車両の中央通路部分が吹き抜けになっていて、2階席が両側に、テラスのようにある。1階は通路を挟んで2人掛けのクロスシートが両側にあるのに対し、2階はロングシートが一部と1人掛けのクロスシートが配置されている。これにより車掌は階段を使わなくても2階席にいる乗客の検札ができる。このような車両がディーゼル機関車を先頭に5両、ただし最後尾の車両は、運転台が設置された制御客車となっていて、帰路は運転手がここから後ろから押す機関車をリモートでコントロールするという、ヨーロッパで多いプッシュプル運転を行う。

 1日に10往復くらい運転されていたが、朝夕の通勤時間帯に偏り、日中は3~4時間に1本だった。朝乗った1往復は、郊外に行くときは回送列車のようでガラガラだったが、戻るときは通勤時間帯でほぼすべての座席が埋まった。制御客車の運転席の横には鉄道ファン専用とでもいうべき座席があり、ここで前方景色を楽しむことができた。

2.北米の古都     ケベック・シティ

 北米大陸にはコロンプス以前から北欧のバイキングがたびたび渡っていたらしいし、それよりもずっと以前から我々と同じアジア系のインディアンが住んでいた。今度の旅行でこのバイキングとかインディアンについて何か知りたいと思っていたらラプラドル・シティという町の名が目に留まった。多分この地方の古くからの中心で、そこには何かがあるだろうし、またそこに行くための鉄道が1週間に2本走っており、これにも乗りたかった。今回の旅行の日程は、実はこの鉄道の運行日を基準にして組立てたのである。

 この鉄道はモントリオールの北東800キロ、セント・ローレンス川の港町セチルという町を起点にしており、そこまではセント・ローレンス川の左岸ケベック・シティから右岸下流のリムスキーというところへ4時間ほどのバスで行き、そこから川を下る船に1昼夜かけて行くつもりでいた。しかしモントリオールで切符を買おうとしたら、船会社が倒産していたので、ケベック・シティからセチルまで飛行機で行くことにした。他の飛行機はいずれも日本で事前購入していたのだが、カナダ国内でこの区間のみを買うと、何の割り引きもない片道の普通料金なので実に高かった。航空券は事前に日本でまとめて買った方がずっと得だということも知った。でもそのおかげでケベック・シティに1泊し、市内観光ができた。

 ケベック・シティまで、「コリドー号」という列車に乗った。これは比較的大都市が点在しているカナダ東部、モントリオールからケベック州都のケベック・シティ、カナダ首都のオタワ、カナダ最大の都市トロント、さらには米国のナイアガラシティなどを結ぶ片道2~5時間程度のところを走る昼間の特急である。ビジネス客の利用も多く、各路線とも1日に数往復、最高速度が160キロ以上で、新幹線とまでは行かないが、日本のL特急といった感じの列車である。

 ケベック・シティまではおよそ300キロ、東京から名古屋くらいの感じだ。ディーゼル機関車が牽引する客車列車だが、日本の新幹線くらいの車幅に通路を挟んで2人ずつのシートが並ぶ、2等車でもゆったりしたものだった。モントリオール中央駅の地下ホームを7時00分に発車、ビジネスマン風の客が多かった。途中配られた朝食を食べ、メープル街道と言われている路線を、紅葉時ならもっと見事だろうなと思いながら景色を楽しんでいるうちに、3時間半ほどでケベック・シティに着いた。

 ケベック・シティはモントリオールに比べれば規模はずっと小さく、人口も50万人にも満たないが、歴史はずっと古く、ケベック州の州都でもある。北米では珍しい城郭都市であり、セント・ローレンス川から見あげる段丘上に城や要塞がある。市街中心部はこの60mほどの段丘上にあるが、鉄道駅は段丘下の、港と同じレベルの所にあり、しかも地下駅だった。段丘上に登るケーブルカーもあった。

 セント・ローレンス川のクルーズ船とセットになった観光バスによる3時間くらいのパックツアーがあり、それで市内観光をした。大型バスの運転手が、ハンドルを握ったままフランス語と英語でガイドをしていた。ケベック要塞やノートルダム大聖堂近くのル・シャンプランホテルという、一見宮殿のようなこの旅では最も贅沢だった思うホテルに泊まったが料金は憶えていない。

 翌日小型プロペラ機で飛ぶこと1時間20分、セチルに着いた。まだ昼前である。フランス語で7つの島という意味で風光明媚な所だがあいにくの雨で寒い。セント・ローレンス川左岸の港町で入口は2万人程度、ラブラドル半島内陸部から鉄道で運んできた鉄鉱石の積出港だった。港町だし一応ウォーター・フロントらしきところもあるが観光客なんて我々以外にいない。ここもケベック州なので商店やホテルでも英語が通じない。例の単語帳を見ながら魚屋のような店でカニやサーモンのパテ等を買い込みホテルに持ち帰り昼食にした。わずか10ドル足らずだったが、実に旨かった。

 小さな博物館には、この地方の自然環境や考古学に関する展示や説明などがあった。しかしすべてフランス語のみ、例の単語帳では役に立たなかった。明日乗る列車の切符を買おうと駅まで歩いたが、当日でないと買えないことがわかった。夕食はホテル内のレストランで済ませた。

 それにしてもモントリオールといい、ケベック・シティといい、この州のフランス語政策は頑に思え、経済面では相当のマイナスではないだろうか。日本の企業をはじめカナダ全土でビジネスをしようとする企業や個人は、フランス語を強制されるよりは英語圏のトロントやバンクーバーなどを活動の拠点にしたいだろう。しかし官も民もそれに対抗する努力、すなわち英語を普及させようとしているようにも見えない。自分たちのアイデンテイティをずっと守り通して行くことの方が重要だとしているのかも知れない。

 それなら一時起きたような、独立に賛成かというと必ずしもそうでもない、多くの人々にとっては国家の形態なんてどうでもいい、ただ急激な変化をきらい先祖からの伝統をしっかり守って行く事の方が大切だとしているのかも知れない。フランス語圏に5日間滞在して感じたことである。しかしこれは訪問時の印象である。その後30年経ち、今はどうなのかはわからない。

3.ケベックの田舎町からラブラドル地方へ 週2便の列車に乗る

 翌日はラプラドル・シティまで11時間、列車に乗り続けた。この鉄道は、ケベックノースショア&ラブラドル鉄道(QNS&L)といい、ここから600Kmくらい北にあるシェファービルというところの鉄鉱山で産出される鉱石を運搬するために1950年代に開通したもので、カナダの鉄鉱石会社(IOC)の所有するものである。更に1960年頃、途中から分岐してラブラドル・シティまでの支線が開通している。これは隣接するワブシュというところにも鉱山が開発されたからである。その後80年代になって、鉱山の主力はシェファービルからワブシュに移り、こちらの方が実質的にメインになったそうだ。

 そしてその鉱石運搬列車の合間に、週2往復旅客列車を運行している。列車はディーゼル機関車が牽引し数両の荷物車や貨車に続いて10両くらいの客車が連なる長大なものだった。各車両とも1両に数人しか乗っていなかったが、乗客はいわゆる西欧系ではなく先住民という感じの人が多かった。ラブラドル・シティまでの420Kmの間、途中住民が定住しているところは1か所しかなく、その他に停車は何度かしたが、いずれも信号所とか保守基地で、鉄道関係者と思われる人が乗降していた。重量のある鉄鉱石を運ぶ線路なので路盤は強固にできているようで、またスピードもせいぜい60キロくらいと思われるので、揺れることは少なく快適だった。食堂車や車内販売はなく、セチル駅の売店で発車前にサンドイッチなどを買っておいた。

 雄大な渓谷や日本ならばすぐにリゾート地として開発されてしまいそうな大小の美しい湖が次々と車窓に現れるので退屈しない。車掌の話では 昨年の1 1月、数千頭のカリプーの大群が線路を越え南下するのに出くわし列車を止めたという。

 7時間ほどで、途中で唯一の集落があるというロスベイ・ジャンクションという駅に停まった。ここはシェファービルへ行く路線との分岐駅なのだが、ここで別の列車に乗り換えさせられた。その列車は貨車数量の他客車は1両のみ、それに全乗客が集まった。ほぼ全部の座席が埋まったが我々の隣には誰もこない。考えてみれば、我々だって日本でわざわざ外人の隣に座ろうなんてことはしない。ここでは我々が外人なのだ。ここは観光路線でなく生活路線だから、日本人なんか滅多に見ないので敬遠するのだろう。

 そこへ初老の男性が1人、ここに座っていいかとやって来た。かつてモントリオール近郊の大学で地理を教えていたという学者風の人でいろいろ話がはずんだ。ラプラドル地方の鉄鉱石の話、水力発電の話など私にとって興味のあることを詳しく話してくれたが、私のヒアリング力では十分理解できない。日本に関することも随分間かれ説明したがどれだけ理解してくれただろうか。家内の英語もこの手の話では全く助けにならない。

 この駅で2時間近く停車していたと思うが、動き出してから1時間くらいで終点のラプラドル・シティに着いた。駅はプラットフォームも屋根もなく、大きな倉庫の一部が事務所になっているだけの何とも寂しいところだった。予約していたホテルに向かおうとしたがタクシーもなく、1台だけあった公衆電話も故障していた。歩いて行こうと思っていたら、地理の先生が助けてくれ、乗客の中の地元の人が車で我々をホテルに送ってくれた。この間の状況はすべて家内の方が把握していた。内容は簡単でも正確に間いてないと寝食にありつけなくなるような話のときは家内の出番、さすがは元大学の先生だけあって相手を良くみていて、そういう話は私にはせず家内の方にした。

4.美しい鉱山都市       ラブラドル・シティ

 このラブラドル・シティは、6キロほど離れたワブシュという町とともに、鉄鉱石の採掘とそれをペレット化する工場のために無人の湖沼地帯に最近造られた町だ。この地域が世界的にも有数な鉄鉱石の埋蔵地帯であることは19世紀末から知られていたが、経済的にペイする搬出方法がなく放置されていた。そこに前述の通り1950年代になって鉄鉱石採掘とペレット化の工場をもつIOC(アイアン・オレ・オブ・カナだ)とワブシュ・オレの2社が設立され、それとともにこの2つの町と鉄道がつくられた。人口はラブラドル・シティが約9000千人、ワブシュが約2000人で、住民はどちらかの企業の従業員とその家族か、彼らを対象とした商業、サービス業、および公務員である。

 ここはインディアンどころか黒人も東洋人もいない、白人だけの町だった。しかも荒れてすさんだ鉱山町というのではなく、どの家もゆったりとして広い芝生に色とりどりの花を咲かせ理想的なニュータウンといった感じだ。女性は美人が多く、観光案内所の金髪のかわいいお嬢さんはこちらの地理オタク的な質問にも嫌な顔をせず親切に対応してくれ、どこからかファックスで最新の人口、産業、行政に関するメモを取り寄せてくれたりした。広い道路には人も車も少なく、初めて海外で、それも右側通行のレンタカーを運転したが、どこも自動車教習所のコースを走っているようなものだった。

 ラプラドル地方というのはニューファンドランド・ラプラドル州に属しており、日本全土から北海道を引いた位の面積で、全人口3万人がこの広大な地域に散らばって住んでいる。ここはセチルとは1時間、そして面白いことに州都セント・ジョンズのあるニューファンドランド島とは30分の時差がある。

 ニューファンドランド島との海峡が最も狭くなった辺りには、かつてバイキングが訪れたという証拠があるそうだが、ここよりも更に交通の便が悪く簡単には行けないところだ。バイキングにしろ、インディアンにしろ、旅行者の1~2日の滞在で調べられるようなものではないことが良く解った。天気は相変わらず悪くて寒い。それでも北緯53度という高緯度はいつまでも明かる<、無人の街路に灯がともったのは夜の10時を過ぎた頃だった。

 ここの鉱山は大規模な露天掘が行われているが、最近は世界経済の後退と南アなどからの低価格攻勢で苦戦を強いられており、IOCは8月上旬まで3週間の操業停止、またワブシュ・オレでもレイオフに関し会社と労組間で激しい攻防が行われていた。

 そのような経済情勢だからか、町では観光客の誘致に力を入れている。両町とも数多くの大小の湖にかこまれた小高い丘の上にあり、夏はピクニック、キャンプ、釣、冬はスキーのクロスカントリーの大会を行うなど観光やむレジャーには事欠かない。近くの小山に登ると町と湖と森とか見事に調和し絵のように美しい。とは言え行くにはあまりに遠く不便だ。前述の列車のほかには州都のセント・ジョンズとセチルからの飛行機があるが1日1~2便と少なく、モントリオール方面とは通年走行可能な完全舗装の道路が通じているが、隣町であるケベ ック州のベイコモーまでの800キロの間はまったく居住者がいないというのだから、車で行くにも覚悟がいる。

 ここから300キロ東にチャーチル・ホールズという1960年代から始まったダムと水力発電所の建設と同時に生まれた町があり、今では総出力500万キロワットという巨大な電力を長大な送電線でケベッマク州や東部沿岸諸州に供給しているという。

 そこから更に東に500キロのところにはこれも1941年になって建設された空軍基地とそれを中心とするハッピーバレー・グースベイの町がある。これらの最近になって建設された町の人口を合計すると2万人強、これだけでラブラドル地方全人口の3分の2以上となり、インディアンやエスキモーを含む残り僅かな人々が広大な土地に散らばって住んでいることになる。

 さらにもうひとつ、ラブラドル・シティから南西27キメロの所、州境を越えてケベック州になるのだが、ここにも鉄鉱石の町ファーモンがある。これも1974年につくられた新しい町で、強い北風を防ぐため町役場や学校、病院、商店、ホテルから個人の住宅まで含めた長さ1.5キロにもおよぶ5階建ての鉄筋コンクリートの連続した城壁のような建物と、それに囲まれた普通の民家とからなる20世紀の城郭都市とでもいえる大変面白い町だ。

 さらに不思議だったのは州の境で、カナダでは地図上の人為的に引いた直線が州境となっているところが多いが、ここでは例外的に複雑に入り組んだ境界線が引かれている。峠とか川などの自然の境界があるのかと思っていたら、地形的には何の変化もないところの道路上に州界の掲示板が立っているだけだった。しかしそこを越えたとたんに、それまで英語表示だった道路標識はフランス語になるなど、ケベック州のフランスご徹底ぶりが面白かった。

5.忘れられぬユニオンジャック    ニューファンドランド

 ラプラドル・シティに2泊してから州都セント・ジョンズに飛んだ。途中2ヶ所に寄航するので所要3時間、昼食も機内で出た。着いたときは豪雨と霧の中だった。空港で借りた慣れない車でヨタヨタと市内に向かった。ここでは始めてB&Bというものに泊まってみた。州内の宿泊についての立派なガイドプックがラプラドル・シティで手に入り、その中からダウンタウンに近く設備がよさそうな所を選び電話で予約した。2人で朝食付きで1泊75ドルだという。禁煙、ペット持ち込み不可とあったのも気にいった。

 ダウンタウンから100メートルと離れていない絵葉書になるような美しい並木道の屋敷街の中にそのB&Bはあった。古い石造の3階建、門から入り花と緑に覆われた前庭を通り玄関に入ると広いホールと階段、右手には応接室と20人は同時に食事が出来そうなダイニング、映画でみる西洋の屋敷そのままだ。2階が客用の部屋で広くはないがマントルピースも有り古い大きなベッドが置いてある。こんな部屋が4室、シャワー、トイレも部屋毎に付いている。上品そうな奥さんが一人で切り盛りしているが、嫁にいった娘が赤ん坊をつれて一寸寄ってみたという様子で来ていたりして、普通の家庭に来たような感じがした。

 お屋敷に泊まれるなんていい思い出になると悦に入っていたらアッ、猫が入ってきた。3匹もいて毛並は良さそうだが客の部屋に平気で入って来る。私は子供の頃から犬とか猫とかとどうも相性が悪く連中に会うとつい意識して構えてしまう。すると相手もそれがわかるのか余計なチョッカイを出して来る。猫と一緒に寝ることになるのかと考えただけで蔓欝になって来る。中でも1匹、私をからかっているような奴がいてドアを一寸開いただけで待ってましたとばかり部屋に飛びこんで来る。しばらくベットの下にもぐり込ん でこちらの様子を観察する。あとの2匹もこないとは限らないからドアを開け放しにするわけにも行かない。こちらがだんだん逆上して来ると身の危険を感じるのか外に出ようとするので又一寸ドアを開くとサッと飛び出して行く。宿を変えようと言ったが家内は面白がるばかり。3晩とも同じように飛び込んで来ては同じように逆上する。ペット禁止の意味が解かり、今後の宿探しに又一つの留意事項が加わった。

 シグナル・ヒルという小高い丘が港の入口にある。北米大陸の最東端、最もヨーロッパに近い所で、かつては要塞もあり1901年にマルコニーが始めてイギリスとの無線交信に成功した所でもある。最初の日は濃い霧で何も見えなかったが、宿から車で10分もしない所なので毎朝登ってみた。ずっと天気は悪かったが霧がなければ港や市内が一望の下に見渡せる。鉛色の空の下に広がる大西洋を眺めもうこの先はイギリスだと思うと随分遠い所に来たものだという感慨が湧いて来る。

 ここセント・ジョンズは実にイギリスの田舎町に似た所だ。ニューファンドランドは1949年に連邦に加わったカナダでは最も新しい州でそれ以前はイギリスの自治植民地だった。その前は独立国だったが財政危機から植民地になり、その後イギリスの植民地を続けるか、再び独立国になるか、カナダに加わるかの論争があり僅差で今の形になったという。現在でもここの住民はオタワよりもロンドンの方を向いているのかも知れない。州議事堂前には州の旗、カナダ国旗、ユニオンジャクが対等にはためいていた。イギリスを感じさせるのはそういう歴史を知ったこともあるが、家並みがイギリスの、特にスコットランドのそれに良く似ている事、町全体が静かで落ち着いて、活気というものが感じられない事などからである。めぼしい産業はなく決して裕福ではないと思うが人々の生活には何かゆとりが感じられ、金髪長身のいかにもアングロ・サ クソンといった風貌の人々が皆紳士的で、それは特に車の運転に現れている。多くの交差点では車同志が譲り合いをしているし、歩行者が道路を横断しようとして歩道の縁に立っただけで大抵の車は停止する。無茶な運転をしている車は皆無だから慣れないレンタカーでも恐ろしさを感じることは全くなかった。

 博物館ではラブラドル・シティで果たせなかったインディアンやバイキング、15世紀以後のヨーロッパからの入植者達の歴史に関する展示物や説明を見る事が出来た。博物館だけでなくセント・ジョンズの町全体に古い物がよく保存されている。それも意識的に保存しようとしているのではなく、ずっと長いこと手を掛けずにそのままの形で暮らしているので、何も変わっていないという方が正しいのかも知れない。そしてこれこそ今の日本では見ることの出来ないものだと思った。

 だが待てよ、昔と逆だなと思うと急におかしくなって来た。自分は子供の頃から外国へ行くのが夢で、その理由は高層建築とか自動車の洪水など進んだ技術、生活様式のような当時の日本になかった物に憧れていたからだっだ。だが今はこうして全く逆の物に感心している。私が始めて西洋に足を踏み入れたのは40歳を過ぎてからのことだったが、この逆転はいつ頃からだったのだろうか。

6.空の城       カンバイチャンス

 心を動かす小説というものは読者をその舞台に立っているような気分にさせるものだ。 私は以前から小説に感動するとその舞台に行きたくなり、国後島の見える根室標津や、長崎の出島に行ったりしたものだ。松本清張の『空の城』は私にとってそんな小説だった。ここニューファンドランドに作った石油精製所へ日本の総合商社である安宅産業が過剰融資し、同社が崩壊するひとつの原因になったという事実を基にした経済小説で、もちろん小説だから多少の脚色はあっただろうが、社会人になって10年目頃の、第一線の営業マンだった私は半ば羨望し、半ば身につまされながら読んだものである。NHKでも『ザ・商社』という連続ドラマで放映され故夏目雅子が出ていたのを覚えている。

 この製油所がセント・ジョンズから150キロ程北西のカンバイチャンスという所にある。今回の旅の直前、この小説を読み直してみた。今は無き作家のすぐれた作品は何度読んでも新鮮な感動を与えてくれたが、特に今回は貧しい荒涼の地と海、そこにそぐわない超近代的な設備の風景描写が現場主義の私をジッとさせてはくれず、終章では今は操業停止となり廃虚と化した、とあったのも余計に私を駆り立てた。

 午前中博物館にもう一度行った後、市内の本屋で地理、歴史の本を探す。いわゆる郷土コーナーというか、当地に関する出版物はどこの本屋でもまとまって置いてあるが、この製油所に関するものは探せなかった。

 セント・ジョンズの市役所の前がトランス・カナダ・ハィウエイの起点でカナダはここから始まると書いた標識があり、オタワとかトロントまでのキロ数とともに終点の太平洋岸ヴィクトリアまで7775キロと書いてある。実は三年前、私はヴィクトリアのこのハイウエィの終点に行っているのである。標識の前で撮った写真もあるがそこの標識もゼロ・マイルとなっており、起点となっていた。東西双方で起点を主張しあっている訳だが 私にとってはどちらでもいい、今回の旅行の数ある目的のひとつだったカナダの両端で写真を撮るということが実現出来たのだから。

 午後からはこの旅で最高の上天気になった。小説の通り、ハイウエィは荒涼とした原野に 一直線に際限なく続く。抜けるような青空のもと、数十キロ先まで見渡せるような所ばかり、起伏は結構あるが上り下りは数キロ単位だろう、それでも距離感が容易につかめないせいか望遠レンズから見ているようで、ジェットコースーターに乗っている感もある。前後はおろか対向車すらたまにしか出会わない道を延々と走るとやがて前方に煙が見えて来た。もっと近付くとそれは小高い丘の向う側にある高い一本の煙突から赤い炎を上げている製油所のそれである。廃虚ではない、操業しているではないか。

 小高い丘を越えると製油所入口の看板があり、左折して海に向かう道へ入った。舗装がはげたような砂利道をしばらく行くと左手に蒸留塔やら何やらゴチャゴチャとパイプが複雑に組み合わさった製抽施設が現れ、やがていくつもの白い大きな貯油タンクが見えてくると海につきあたった。この間ずっと金網のフェンスが数キロ続き、途中事務所らしきものはあったが全然人影がみえない。ここはプラセンシア湾という北緯50度近いところだが、不凍港の上に水深があるそうで大型のタンカーも停泊していた。リアス式海岸の入江にはタンカーと製油所があるのみで近くに人の住んでいる気配はない。海に突き出た桟橋のような所に車を止めしばし周囲を見渡した。

小説にはこの製油所がオープンしたとき、ここに大勢の招待客を乗せたクィーンエリザベスⅡ世号も停泊し、1万人にも及ぶ観衆のなかで行われた盛大な開所式の模様があざやかに描かれているが、とてもそんなことは想像できない。それにしても、製油所というのはなんて静かな所なんだろう。パイプの中を音もなく油が流れるからなのか、とにかく不気味な静けさで人の気配が感じられないのと合わせると、本当はここは廃虚ではないのかなと思ってしまう。想像していたような赤錆びて夏草に覆われた広大なプラントの放置で はなかったが、それでも『空の城』という表現が正にピッタリだった。

 ハイウェイに戻り別の側道を行くと隣の入江の小さな漁村に出る。コンビニのような店で飲み物などを買いしばらく休憩する。抜けるような青空の一隅を赤い炎と黒い煙とで焦がしているのが良く見える。大気汚染とか、公害とかをいう以前に、もしそれがなかったら本当に何もない、なんのより所もない無限の青空のみが残り、かえって不安になりそうで、この炎と煙がここにも人間社会があるのだという唯一の証拠のように思えてならなかった。

5.空振りばかりの一日    ハリファックス

 すべて予定通りに事が運ぶとは限らない。次はノバスコシア州の州都ハリファックスに飛んだ。大西洋に突き出た半島に囲まれた天然の良港で対岸のダートマスを含めた都市圏の人口は32万、久し振りに見る都会である。坂が多く、五稜郭のような星型の要塞が丘の上にあり、函館の姉妹都市だそうだが、たしかに通りの感じなどは函館山から元町にかけての風景に似てなくもない。ここも落ち着いた雰囲気の町で、人々の気風からもセント・ジョンズをただ大きくしたような感じともいえる。

 旅行案内所で宿を探した。B&Bは猫との対決など思いがけないリスクがあることを知ったので、ここではホテルにした。ホリデーインが1泊59ドルという特別料金を出しているのを紹介してもらった。ダートマス側で部屋からは港と対岸のハリファッスのウォーター・フロントやダウンタウンの高層ビルが手にとるように見える。対岸に渡るフェリーの乗り場にも近く随分お得感があった。

 ここから100キロほど北東、ノバスコシアの半島によって囲まれたファンディ湾の最奥部にトルローという人口1万程の町がある。ここでは地形の関係で潮汐の差が大きく、タイダル・ホアといって毎日引き潮から上げ潮にかわる瞬間川に向かって高さ数メートルの津波のような海水の奔流が見られるという。案内所でもらったパンフレットによると、明日は朝8時36 分と夜9時丁度がその時刻だと書いてあった。レンタカーにも自信がついたので、明朝早起きをして見に行った。パンフレットには上記時刻は自然現象であり風や温度等種々の条件で前後15分位の誤差はあるから、その分余裕を見て行くようにとの注意書きもあった。

 ニューファンドランドに比べれば周囲の木々に高さがあり、幾分か森の中を走っているという感じがするのと、起伏が少ないことを除けば同じように閑散としたハイウェイを飛ばすこと60分、案内にあった観潮スポットに8時15分に到着した。かなりの数の観光客が来ていたが皆ゾロゾロと帰ってくる。丁度今終わったところだったという。自然の気まぐれはほんの数分も待ってくれなかった。遠路はるばるやって来たのに、とがっかりしていたところ、めずらしく女子大生風の日本人が2人いたので聞くと、波はあることはあったがせいぜい数十センチでパンフレットにある数メートルは明らかに誇大広告だという。落とした財布の中身が思っていたよりも少額だったことが後からわかったような変な安心をする。

 すぐ近くにレストランがあり朝食を取り、みやげ物屋をみていたらタイダル・ボアの説明や写真の入った本があったので買った。家内は「見て来たような嘘が言えていいじゃない」と言う。奥尻島では地震、津波の災害で苦しんでいるというのに不謹慎だったのだろうか。

 トルローはきれいな町で陶磁器や絵画彫刻を売っている洒落た店がいくつもあり家内は大喜びだった。更に帰りは田舎道をゆっくり走っていたらめずらしく後続の車に追いつかれ、道を譲ろうと一寸道端に止まったらそこは花屋の前、広い花畑を持ち日本にはない珍しい花の種を沢山売っていたので家内はまたまた大喜びだった。どの家も沢山の花で飾られているのを見るとカナダでは花というのは大きな産業なのだろう。家内にとっては大いに収穫のあった遠出だった。

 逆に私の方は今日はついていない。帰りの道は後述のモントリオールヘ行く列車の線路にほぼ 平行しているので、この列車の走行写真を撮りたくなった。列車は1日1本だが、ハリファックスの出発時刻がわかっているから地図を見れば今いる場所の通過時刻はある程度見当がつく。家内をクルマで待たせ、2~300メートル歩いて、雨の中傘をさして、列車の全容が写せそうな大きくカープした場所で待ったが、いつまで待っても列車がこない。今日は週1日の走らない日だったかも知れないと思い諦めて車に戻りエンジンをかけた途端『ボーツ』という汽笛の音、傘もささずに走って行ったが間に合わず列車は走り去ってしまった。

  ずぶ濡れで車に戻り、道を間違えたりして市内に戻ったのは4時をまわっており、それから昼食を食べるなど、私にとっては空振りのお疲れ様の1日だった。

6.いつでも乗れるカナダの豪華長距離列車       アトランティク号

 そろそろ帰路だ。ハリファックスからは列車でモントリオールに戻った。13時にハリファックスを発車し一晩走って翌朝8時35分にモントリオール中央駅に着いた。この区間は2つのルートを通る列車が週に3日ずつ、交互に運行されている。ひとつは大西洋に沿って北上し、セント・ローレンス川にぶつかるとそのまま右岸に沿って走る行く「オーシャン号」、もうひとつは米国のメイン州内を横断して行く「アトランティク号」である。途中ニューブランズウィック州のモンクトンまでは同じルートを走る。なおニューブランズウィック州というのはカナダで唯一の英語とフンス語の両方を公用語いる州だそうだ。

 カナダの豪華長距離列車というと日本ではバンクーバーからロッキー山脈を越える「カナディアン号」が有名で、多くの パッケージ・ツアーにも組み込まれている。それだけに旅行シーズンになると切符を取るのがむずかしく、運良く乗れたとしても乗客は日本の団体客ばかり、外の景色はともかく車内は日本と変わらないそうだ。それに比べ同じ豪華長距離列車でもこちらの「アトランティク号」はすいているし他に日本人はいなかった。

 ハリファックス発車時は4分の1くらい、途中での乗車はあったものの終着時でも半分乗っていたかどうかだ。セクション席という寝台席を日本で買っておいたが こんなにすいていたのならカナダに来てから手配しても良かった。飛行機とは逆にその方がずっと安いことを知った。この席は日本の解放式A寝台と同じで日中は座席で、こちらの希望する時間に乗客係が寝台に作りかえてくれる。列車の最後尾にはドームと呼ばれる屋根の上に突き出た展望室がある他、列車後方の景色が見渡せる応接室風のサロンがあり、寝台の客はいつでも自由に使える。コーヒーやジュースも飲み放題だ。これも混んでいる時は適当に交代するのが礼儀だそうだが、とにかくすいているので昼間の時間の大半はここで過ごした。

 昨日写真を撮ろうとした地点を見たが、もっとずっといい撮影ポイントがたくさんあった。走行写真はまず乗ってからというのが撮鉄のイロハなのだろう。同じくカラ振りに終わったタイダル・ボアのトルローを過ぎるとしばらく川に沿って走る。干潮時で川底にわずかに水が流れていたが5~6メートルの高さにまで干潟が出来ている。潮汐差が大きいというのは本当のようだ。

 大きな山こそないが、列車は森林と、湖と、牧場を見ながら進む。ドームからの眺めは抜群で、12両の客車を牽引している2両の機関車がはるか前方で力行しているのが良く見える。豪華列車の旅をするならお勧めしたいコースだが、シーズン中なのにこんなにすいていたからだろうか、今ではこのルートは廃止され、北回りのオーシャン号だけが週3往復運行されている。

 編成の中ほどには食堂車があり、家内は鶏、私は帆立ての夕食をとった。ビールも含め、 税金、チップ込みで31ドルだったから高くはないし、結構味もいい。案内されたテープルではご主人が元鉄道員、奥さんが元教師という夫婦と相席になった。再婚同志だそうでそれぞれが4人とか5人とかの子連れだったので、孫まで含めると大変な大家族だという。今は厚生年金だけで悠々自適に暮らしており、こうやって時々旅行もしているという話から、この国では医療費を始め社会福祉が大変充実している、でも税金が高いという話になった。確かにこの国の税金は高い。日本の消贅税に相当するGSTという連邦の消費税が7%、この他にPSTという州単位の税があり石油で豊かなアルバータ州は無税だが、これといった産業のないニューファンドランド・ラプラドル州やノバスコシア州は12%も取られる。だから500円の食事をしても税金に95円、チップに75円位払うので670円位になってしまう。そのかわり所得税が安いのかと思ったらとんでもない、年収が1千万円位だと50%も取られるという。

  この鉄道もそうだが、社会福祉以外にもこの国には金がかかることが多過ぎると思う。 1時間おき位にしか町らしい町のない所に1日1本だけ列車が走っていたり、先日来のハイウェイにしても、無人の荒野に延々と延びており、土地代は安いかも知れないが維持費は莫大なはずだ。広い国土にくまなく治安維持や住民サービスを行う費用も大変で、日本でも過疎問題はあるが程度が違う。あまりに国土が広すぎる。そしてその割には少なすぎる人口で英仏2ヶ国語を公用語とするので、経済面だけでなく教育や文化面でも効率が悪い。更にインディアン等の先住民族への特別な対応も必要だろう。小さな政府が良いか大きな政府が良いかについてもカナダにおいては議論の余地はなく、大きな政府にならざるを得ないのだと思う。それからみると日本は単一民族、単一言語で程よい面積を持つ世界の中で極めて希な国なのだろう。

 老夫婦と別れ家内も寝台に入り、1人で最後尾のサロンでくつろいでいると車掌がやってきて外に出る扉に小さな紙で封印をした。これから米国内を走るのでその間乗降禁止にするからだという。運転上の都合で時々停車はするものの、米国内で客扱いはしない。スコッチの水割りを片手にこの旅行で見聞きした数々の事を思い起こし、そろそろこの旅も終わりに近づいたなと思っているうちに、アルコールの酔いと連日の疲れかソファーで居眠りをしてしまった。ふと気がつくともう誰もいなくなったサロンからは米国内の真っ暗な闇が後ろへ後ろへと飛んで行くのが見えるだけだった。

 部屋に戻りベッドで目を覚ますといつの間にかカナダ国内に入っていた。モントリオールの手前でセント・ローレンス川に架かる長い鉄橋を渡る。ビクトリア橋という長さ3キロほどの橋で鉄道線路と道路が橋脚を共用している。ペルリ来日6年後の1859年(安政5年)完成というから驚く。完成時は世界最長だったそうだ。

 面白いのは、橋の途中から迂回用のバイパス橋があることで、後年になって追加されたそうだが、船舶の通行用に橋の一部を跳ね上げるときに、どちらかのルートが通行可能とするためだそうだ。ロビー車のサロンから、橋の途中の分岐部分の写真を撮っておいた。

 橋を渡ると市街地で、すぐに地下に入り中央駅に着いた。10日ぶりのモントリオールだった。

7.カナダはやはり新世界の先進主要国     トロント

 モントリオールからは飛行機で昼頃トロントに着いた。カナダに来てから連絡をとった音楽家のロン君に会い、市内を案内してもらった。彼は以前邦楽の勉強に来日していたことがあり、アルバイトで来ていた英会話教室で知り合ったのである。律儀者のロン君は、はるばる日本から来た客に半日でトロントのすべてを見せようと、しかも私の市電やバスにも乗りたいという希望も適えようと、母校のトロント大学、博物館、ウオーターフロント、中華街などを彼の長い足で、この大都会のペースに合わせるように早足で 案内してくれた。夜は彼の両親も出てきて日本料理屋で夕食をごちそうになった。トロントには日本料理の店が42軒もあるという。

 ここは大都会で、昨日までのモントリオールを含むカナダは、保守的、紳士的、親切だが活気に乏しいなどであったが、それがカナダのすべてでない事がここに来て良く分かった。アレグロ・ビバーチェでフォルティシモで不協和音で変拍子の曲そのままに、世界中のあらゆる 民族が都会の雑踏と喧躁の中、それぞれ勝手に忙しそうに動きまわっている。トロントに来なかったらカナダの一面しか見なかったことになる。人は解放的でチャンスの有りそうな所に集まるものだ。その意味からもモントリオールとは差がついて行くのではないだろうか。

 東京も最近国際都市と言われるようになったがまるで違う。確かに東京には世界の情報が集まってはいるが、朝のラッシュの電車の中はおそらく99%は日本人だろうし、その中の大半は日本語しか話さないだろう。それに対しここでは違った色の肌、毛髪、 目の人たちが地下鉄やバスの中で、どれが主流ということなしに混在し、いろいろな言葉が飛び交っている。こういうのを本当の国際都市というのだろう。

 またトラムに乗っていると、いつの間にか乗客は中国人ばかりとなり、周囲の街並みのなかの標識などはすべて中国語だけで書かれているところを通った。郊外に大きな中国人コミュニティーができているようだった。

 米国に行った時にも感じたのだが、やはりここは未だに新世界なのだろう。もともとインディアンしかいなかった所に、15世紀以降大量のヨーロッパ人が渡来し、あたかもヨーロッパ人の土地になったような時代が続いた。しかしその後も他の地域、とりわけアジアからの渡来が続き、最近では特に中国系が経済面で枢要な地位を占めているという。 このペースで行けばいずれはヨーロッパ人が多数派だったという時代が終わるのかも知れない。新世界というのはどうやらヨーロッパ人だけのものではなく、地球上の全人類に与えられたもののようだ。そしてそこでの雑多で混沌としているエネルギッシュな雰囲気がこれからもずっと続くのだろう。

 昨日までのカナダは、まるでフランスであり、イギリスだった。やがてはトロント的なものがカナダ全体に及び、どこへ行っても新世界を感じるようになるのだろうか。数百年後はともかく、私は当分そんなことはないと思っている。それはこの国があまりにも広いからである。人間の社会活動や経済活動を行う範囲には、どんなに交通機関が発達しようと距離的な限度がある筈だ。だからその限度を越えた外側では他に影響されずに、あるいは他から取り残されてといった方が正確なのかも知れないが、いつまでもしっかりと自分達の伝統を守り通して行くことが出来るのではないだろうか。広くなかった為に全国画ー的になってしまった日本とは大違いで、それぞれの地域が互いに影響されることなくユニークさを保つことが出来る。これが現在のカナダの特徴であり面白さだろう。

 トロントに一泊し帰国の途についた。家内の英語力というよりは勘により随分助けられ、なんとか無事に終わった2週間の旅だった。旅行中に集めた本、地図、資料の類は積み上げると50センチもの高さになった。それらを見ていると随分見落としていたり、せっかく近くに行きながら気が付かなかったというようなものが次から次へと出てきて、もう一度行かずにはいられないという心境になって来る。

 しかしその後,今日に至るまでカナダには行っていない。今行ったら随分違っているかも知れない。でもこの時の印象が強烈であり、これはこのまま残しておきたいとも思うのである。