著者プロフィール                

       
ジブラルタル紀行 〜 海外地理紀行(その1)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

ジブラルタル紀行 〜 海外地理紀行(その1)

2001年の夏は2週間の夏休みをとった。スイスのルツェルンで数日滞在した後、ジュネーブから夜行列車を乗継バルセロナ、グラナダで途中下車しながらスペインの鉄道最南端の駅、アルヘシラスに行き、そこからジブラルタルに向かった。

第1部がジブラルタルについて、第2部が帰路マラガからパリを経由してルツェルンまでの列車の旅紹介である。

第1部 ジブラルタル

徒歩で出入国

 アルハンブラ宮殿のあるグラナダからローカル線の気動車に乗ること4時間半、アルヘシラスに着いたのは17時43分、まだ真昼のような太陽だった。ヘラクレスの柱といわれたジブラルタル海峡に面した港町はアフリカのモロッコまで高速艇で1時間半程とのこと、そのためか黒人の姿がやたらに多かった。(写真1)

 これから目指す英領ジブラルタルまではバスで行く。ジブラルタルは南北4.5キロ、東西の一番広い所で1.5キロ程の砂州の先に出来た陸繋島でアルヘシラスからのバスが海岸に沿って走りだすと右手車窓に湾を挟んでその全容が見えてくる。津軽海峡線で函館に向かうときに木古内を過ぎたあたりから見る函館山と同じような光景だが、こちらの方がもっと極端に切り立った岩山で、平地に長方形の箱を置いたようでさえある。(写真2)

 40分ほどで着いたラ・リネアのバス・ターミナルから500メートルほど歩くと国境があり出入国のためのゲートがある。(写真3) その先の眼前にそそりたつ岩山の迫力には思わず圧倒されてしまい、またそのはるか後方にうっすらと見える山々はアフリカ大陸のはずで、思えば随分遠くへ来たものだとしばし感慨に浸る。

有料道路の料金所に似たようなゲートは自動車用と歩行者用のものがあり、歩行者用についてはスペインからの出国部分は全くの無人、英領への入国管理事務所に係官はいるがパスポートを見ようともせずどんどん進めという仕草をするのみ、実に簡単な出入国だった。ゲートを越えるとそこからは急にイギリス風となりロンドン名物の2階建のバスが待っている。(写真4) 通貨はジブラルタル・ポンドというのがあり本国のポンドに連動しているが、スペインのペセタも通用し120ペセタ(約80円)を支払って市内センターへ行く。バスは走り始めるとすぐ踏切を渡る。鉄道のではなく、飛行機の滑走路を横断する踏切であり、遮断機もついている。

 再び函館を例にすると、JRの函館駅と五稜郭駅の中間あたりに国境があり、すぐ南の砂州が一番狭くなったと思われる部分に函館本線と直角にクロスするように、半分は海を埋め立て滑走路が作られている。定期便がロンドンとの間に日に2本程度ありターミナルもあるが、軍用機も止まっていた。滑走路を挟んで7~80メートルが踏切で遮断される部分だが、バス以外の車やバイクの通過も多いし歩行者もゾロゾロと大勢が歩いている。踏切を遮断して飛行機が離着陸するシーンを見たかったが残念ながらそのチャンスにはめぐり合えなかった。(写真5)

いずこも同じ領土問題

 ジブラルタルはスペイン王位継承戦争(1702年-13年)で戦った英蘭連合の担保として取られ戦争終了とともにユトレヒト条約でイギリスの領土となった。その前はスペイン領土で更にレコンキスタ以前はイスラム系王国が支配していたが、地中海航路の重要拠点でありその地形からするとどの国が支配していようとこの付近で勢力を誇っていたその時々のいわば海賊の根城だったようだ。その後イギリスの海外植民地となって現在に到っているがスペインも機会ある毎に返還を求めている。尤もスペインも一方でいまだにアフリカ側の最北端、モロッコの一部セウタを占領しており、これもモロッコからの返還要求に応じようとしていないからお互い様ということになる。いずれにせよ領土問題というのは一度手に入れた側はよほどのことがない限り相手に返すなんてことはないようだ。

 19世紀には難攻不落の要塞としてその機能を強化するとともに、20世紀に入ると両世界大戦でのドイツの潜水艦に対抗するためのイギリスの海軍基地としてますますその重要性を増した。この時に石灰岩質の岩山

に出来ている天然の鍾乳洞や数キロにも及ぶ人工のトンネルが軍需工場や倉庫や病院として使われ、それらの跡が今では観光コースとなっている。
 戦後1967年国連の提案のもとで英西いずれに帰属すべきかを問う住民投票が行なわれたが、圧倒的多数の住民がイギリスを選び、それは多くの住民がイギリスの政府や海軍関係の仕事に従事していたからだそうだ。スペインのフランコ政権はこれに反発して国境を封鎖したためジブラルタルが文字通り陸の孤島になってしまったが1980年以降EC加盟をめざしたスペインが軟化し封鎖は解除された。その後も小さな紛争はあったようで、最近でも1999年に近海の漁業権をめぐって両国間で緊張が高まり、スペインが通関手続きやパスポートの審査時間を引延ばしたり、ジブラルタルの運転免許証を認めないなどの「いやがらせ」をしたそうだ。そういえば帰りに通った、すなわち英国領からスペインに戻った時に通ったスペイン側の入管事務所はやたらに広く、2~300人の人が並んで待つのに十分のスペースがあっから、今後もスペインとしては何かの折にはこの手を使うのだろう。

リトル香港?

 ジブラルタルは石灰石でできた標高約400メートルの岩山の西側海岸地帯に住宅やオフィスが密集している。中心街には500メートル程のメインストリートという名前の歩行者専用の道路があり両側にはみやげ物店やイギリス風のフィッシュ・アンド・チップの店やカフェーがギッシリと並んでいる。フリーポートとなっているのでほとんどのみやげ店ではスコッチ・ウイスキー、たばこ、香水、時計、カメラや電気製品などがショウウインドウを占めている。そこから海岸を埋め立てて造成した港に向かってオフィス街となっており商社や銀行などがある。メインストリートから反対に山の中腹にかけて住宅街がある。中心街を取り囲むように城壁や数箇所の城門も残っており、海に向けた黒塗りの大砲が所々に残っているのは観光地としての程よいアクセントとなっており植民地気分をおおいに醸し出してくれる。

 人口3万、総督のもと自治政府があり公用語は英語だが、かつての香港と同様住民の大半は中国人ならぬスペイン人でスペイン語も多く使われている。今日では軍事的な役割は全くと言っていいほどなく、自由貿易港として、また観光地として生き残りにかけているようで、市内中心部は買物客でごったがえしているがあまり遠くから来ている様子もなく、大半は安い商品を求めて来る近在のスペイン人のようである。先ほどの滑走路の踏切をぞろぞろと歩いていた人達はこのような買物客だと思う。

 本国に合わせてグリニッジ標準時を採用しているのかと思ったらスペインと同じ時間帯だった。経度上はロンドンよりも更に5度も西にありながら大陸時間で更に夏時間を採用しているので8月下旬のこの時期でも、朝は8時頃になって明るくなり、夜は9時を過ぎてようやく暗くなる。太陽が真南に来るのは午後の2時半頃である。なお緯度については北緯36度で日本では大宮のちょっと北あたりである。典型的な地中海性気候というのだろうか、晴天で真夏の太陽がギラギラと照りつけ帽子をかぶらずにはいられない。
 なお日本にジブラルタ生命という保険会社がありシンポルマークにこの岩山を用いているが、これは旧協栄生命の更正に際して支援を行った米国プルデンシャル社のものをそのまま使用しているものである。プ社は安定性と信頼性の象徴として創業以来「ジブラルタ・ロック」をシンボル・マークとして使用しているとのことだが同社がこの地と関係があるのかどうかはわからない。

海の砦

 インターネットで探したホテルはメインストリートから路地を10メートル程入った所にあった。朝食つきで22.5ポンド(約4000円)と随分安かったが、バス・トイレは共用で窓は外に向けてではなく、内側の廊下に向けてしかなく、勿論空調もなく暑くて寝苦しかった。まだ明るい8時頃にチェックインしその後近くのレストランでビールとチップ・アンド・ポテトの夕食を取る。夕食後持参したPCをダイヤル回線で接続したかったのでインターネット・カフェなどへ行ってみたが自分のPCを接続するというサービスはなかった。もちろんホテルの部屋には電話もなかった。

 翌日はまずロープウェーで10分程の岩山に登った。(写真6) 展望台や砲台跡は、なるほど見晴らしが良く地中海を通行する船の動きが一望に見渡せ、ここから狙われた舟は簡単には逃げられないだろう、正に天然の難攻不落の要塞であることが改めて実感させられた。昨日下からでも見えたアフリカ大陸は晴天なのに大気の関係か今日は残念なことに見えない。また山の中腹にセント・マイケルの洞窟という大きな鍾乳洞があり多くの広場の中には1000人位の観客を収容できるコンサートホール風のものまであった。

 山から下りた後総督府の玄関真向かいのレストランで昼食を取っていたら、ちょうど正午になり直立不動だった衛兵の交代の儀式に出くわした。普通の軍服姿ではあるがバッキンガム宮殿のそれを真似たようなもので自治政府が観光客誘致のために行なっているのだろう。(写真7)

 この後は昨日の続きでPCが接続できそうな所を探そうと、ビジネス街にある通信会社に行ったりしたが出来る所は見つけられなかった。市内をブラブラした後バスで国境に戻り(バス停の名前はフロンティア)、例の滑走路の踏切を徒歩で往復したりした後、今度は広い待合室のあるスペイン入管事務所を通りラ・リネアに戻った。

赤字の特殊法人?

 それにしてもイギリスにとって現在のジブラルタルはどれほどの価値があるのだろうか。軍事的な意味がなくなった以上、本土から離れたこのような植民地はひとことで言ってお荷物なのではないだろうか。フリーポート化を行なっても人口がたかだか3万人であることや、後背地であるスペイン南部やアフリカ北部の経済力もたかが知れている。ヨーロッパの各国からわざわざここまで来る観光客も少なそうだ。どう考えても維持管理のためのコストがかさんでいるはずで、いうなれば赤字の特殊法人といったところだろうし、本国の財政再建が必要になった時などは真っ先に整理統合の対象になってもおかしくはないと思う。スペインに返してしまったほうが経済合理性にはかなうのだが、そこが領土問題のセンシティブなところ、かつての大英帝国のメンツからも海外植民地の返還などはよほどのことがない限り行なわないのだろう。あの構造改革を断行したサッチャー政権でさえフォークランド紛争でみせた意地のように、こと領土問題となると、それもかつて覇を競った同じ西洋人の隣国が相手となると経済合理性はどこかに行ってしまうのかも知れない。従ってこれからもスペインは事ある毎に返還を求めるだろうし、イギリスは簡単には応じないだろう。その度にスペイン側が入国の妨害をするだろうから、入管事務所の必要以上に大きな建物も無駄にはならないのかも知れない。

 ジブラルタルへの行き方だが、ロンドンのガトヴィク空港からBAが1日1往復で所要3時間、他にモナーク・クラウンという航空会社の便がロンドンのルートンという空港との間で1往復運航している。しかし1日もいれば充分で、わざわざそのためにロンドンから往復するのはもったいないので、スペイン南部を旅行したついでに寄る方がベターである。その場合は前述のアルヘシラスかマラガからバスということになるが、スペインの鉄道やバスの時間はあまりあてにならないから十分な余裕時間をもった計画が必要である。帰路はラ・リネアからマラガまでバスを利用したが、2時間50分の予定が道路渋滞で4時間30分もかかり、予定していた寝台列車に乗りそこねていまい、マラガで急遽ホテルを探すとともに全く予定外のコースで帰るはめになってしまった。

 今回は一人旅だったがスペインという国は日本人の一人旅にはあまり向いていない。中高年の日本人を鴨とする連中が虎視眈々と我々を狙っており常にそれに対する注意を払っていなければならず、観光などもあまり気楽には出来ない。そんななかで2日間のスペイン南部の旅行からジブラルタルに入った時は英語が通じるということもあったがホットした気分になったのは事実である。アンダルシア地方を旅行するのならば、一時のオアシスとしてジブラルタルへ寄られることをお勧めしたい。

第2部 スペイン最南端からスイスヘ 2600キロ列車乗り続けの旅

 スペインの南端マラガからスイスのルツェルンまで、予定外の列車の乗り継ぎを行った。2600キロ、ほぼ鹿児島から札幌までの距離に相当し、実乗車時間23時間37分、乗り継ぎや待ち時間を含め32時間だった。ジブラルタルからの帰路はバスで110キロ先のマラガに行き、そこから夜行列車でバルセロナへ、更に昼行列車を乗り継ぎ途中グルノーブルに一泊しルツェルンに戻る予定だった。しかしマラガへのバスが大幅に遅れ予定していたスケジュールがすべて狂ってしまった。

 ラ・リネアからマラガへのバスは一日に4往復で所要2時間50分、17時15分発に乗れば20時5分にマラガに着き21時発の夜行寝台タルゴに乗れると思っていたがこれが甘かった。高速道路が全通しておらず中途半端に部分的に出来ていることが原因なのか自然渋滞の繰返しでマラガに着いたのは21時50分と1時間45分も遅れてしまった。

 予感がなくもなかった。往路ジュネーブからバルセロナまで乗った夜行寝台タルゴ「パブロカザルス」は1時間半の遅れ、バルセロナを1日見物した後グラナダまで乗った寝台タルゴも30分の遅れでいずれも特にどこかで予定外の長時間停車をしたというわけではなくいつの間にか遅れていた。しかしいずれの場合も次の列車までは1日から半日の見物時間というバッファーがあったので行程全体への影響はなかった。

荒野を駈ける暁の快速列車 マラガ 7:05 →コルドバ 9:24

 マラガ到着後探したホテルに泊まった翌8月31日、7時5分発バロセロナ行き急行列車にコルドバまで乗車。6日間のスイス・フランス・スペイン3カ国通用1等ユーレール・セレクトパスを持っているので1等に相当するプレフェレンテに乗るがすべて座席指定だったため車掌に頼み追加料金800ペセタ(約500円)でコルドバまでの空席に座る。発車前に駅の窓口で乗車できなかったタルゴの一等個室の不乗証明をもらおうとしたが全く話が通じず払い戻しも出来なくなってしまった。スペインの時間帯はイギリスよりも西に位置するのに大陸時間を採用しておりしかも夏時間なので8時ごろになってようやく窓外が明るくなる。褐色の台地の中をそれほどの起伏はないのに列車はこきざみにカーブをしながら走っている。はげ山にオリーブの木の植林が盛んに行なわれているが、幼木を等間隔に植えているので縦のすきまが大きく遠くから見るとバーコードのようだ。車内は片側1列の3列配置の座席でゆったりしており、車端の荷物置場がコインロッカーになっている。面白いのは車掌が自分の荷物をコインロッカーから出したり入れたりしている、専用の車掌室というものがないのだろうか。

指定席は取れたけれども・・・ コルドバ駅

 新しい行程をトーマス・クックで調べ、翌日の夕刻までにルツェルンに戻る必要があることからコルドバからマドリッド、パリ経由とすることにした。マドリッドまではAVEがほぼ1時間毎にあるが、マドリッドからパリまでの列車の予約が必要で、以下の3案を紙に書いてコルドバの窓口で時間の早いものからリクエストした。

1.マドリッド(15:45)→アンダイエ(22:00)Talgo、アエンダイエ(23:15)→パリ(6:00) TGV

2.マドリッド(19:00)→パリ(8:27) Talgo Hotel

3.マドリッド(22:45)→アンダイエ(7:35)、アンダイエ(7:58)→パリ(13:35) TGV

 AVEの停車駅では英語が通じると言われていたがなんとか意思は通じたようで、1.については1等はすべて満席だが2等ならば席があるという。ユーレール・パスの1等の権利を捨てるのも惜しかったが、2.は寝台料金がまた加算されること、3.ではルツェルン着が深夜になってしまうこと、この先何があるかわからず少しでも早く、先まで行くことが必要と思いそれにした。なお実際の列車の時刻はトーマス・クックの最新号と微妙に違っていた。

AVEに喝采 コルドバ 10:42 → マドリッド 12:20

 コルドバ駅は近代的な駅でAVEに乗るには専用の改札口があり荷物のX線検査までさせられた。大平原の中を快走するAVEはおそらく時速300キロで走っているのだろうが、日本の新幹線とは大きく異なる平原の広がる光景の中ではあまりスピード感はない。また路盤がいいのか揺れも少なく車内も静かだ。日本の新幹線のような各車両にモーターのある電車ではなく、フランスのTGV同様両端が機関車で中間が客車ということからかも知れない。
 さえぎるものはないはずなのに何故かあまり直線というものがなく、おおきな弧を描いたカーブを右に左にと繰り返している。おかげで進行方向のずっと先の方から対向列車が来るのが見えたりして楽しい。

 AVEの線路にはTALGOも時速200キロで走っており、標準軌のAVEと広軌の在来線との間を直通させている。これは長年のスペイン独自の技術である軌間変換機能を生かしたもので、従来からの国際列車の直通よりも、国内のあらゆる方面との新在直通効果の方がずっと大きいのではと思う。この方式でコルドバやセビリアから先の各都市とを結ぶ列車を多数走らせている。

 ところでAVEは正にスペインを代表する列車でありながらなぜ第二の都市バルセロナまでを先に建設しなかったのか、日本人の感覚では東京と大阪のような二大都市を結ぶのが先だと思うのだが、ことによるとバルセロナはカタロニアの民族運動が盛んで自治意識の強い所なのであえてそういう所は後回しにしたのかも知れない。列車はノンストップでマドリッド・アトーチャ駅には5分の早着だった。いままで遅れるのが当たり前と思っていただけにさすが看板列車だけのことはあると感心する。

東京から上野まで その1 マドリッド市内

 大きくて近代的なアトーチャ駅構内のカフェテリアで昼食をとった後、チャマルティン駅まで国鉄(RENFF)の電車に乗る。東京駅から上野駅まで山手・京浜東北に乗るようなものだがこの区間は地下でかなり昔に造られたと思われる古いトンネルの中を進む。電車は新しいきれいなもので、車内にはベルリオーズの幻想交響曲が流れていた。ユーレール・パスでも乗れるはずだが、長距離列車とは別の自動化された改札方式になっており、ややこしくなるので別途自販機で切符を買う。120ペソ(約80円)であった。

遅れた上に遠回り? マドリッド 17:12 → アンダイエ 23:35

 次の列車は15時47分発で2時間近くあったが、市内を見物するには中途半端な時間だったのでコンコースのベンチで待つ。発車の30分前になって電光表示盤に発車ホームが表示されたのでホームに降りるとすでに列車が入線していた。一昔前の雑誌の写真で見たことのある丸みをもった旧式のタルゴでアンダイエ行きとビルバオ行きが各々10両程づつ、合計20両程の編成である。10両中プレフェレンテ(1等車)が1両とビュッフェが1両で他はすべてツーリスト(2等車)で座席はほぼ満席、大きな荷物を持った旅行者が多く、それと同数くらいの見送者がいてホームは大混雑である。

 小さな客車に乗り発車を待つが定刻になっても発車しない。最初は発車時間を過ぎてもノロノロと乗り込んで来る客があったりして、また例によってスペイン方式なのかと思っていたがそれにしても長いし、そのうちに電源が切れたらしくクーラーと車内灯が消え、しばらくするとまた復旧した。すでに30分以上経過しており、客も車外に出はじめたので筆者もホームに降り前方を見ると機関車がない。筆者が乗ったのが20号車でその前にもう1両客車がありその前は電源車となっている。電源車はビューゲルで架線から電気を取っている。周囲の話しの雰囲気では機関車の故障で修理に行ったか代替機が来るらしいがいつになるのかわからないとのことのようだが、乗客も特にあせっている様には見えない。1時間を過ぎる頃となるとアンダィエでの接続が心配になって来た。フランスの列車がはたしてスペインの列車の遅れを待ってくれるのだろうか、またホテルを探さなければならないのか、そうなるとまた余計な出費になるし明日夕方までには帰れなくなる、等々心配になってきた。他にも乗り継ぎ客がいるらしく、駅員にさかんに「パリ、パリ」と言っている人たちがいたので英語がわかりそうな若い女性に「私もパリまで行きたいのだが」と話しかけると、アンダィエでRENFFがホテルを準備するか、臨時の夜行バスを出すかも知れないと言っているとのことだった。

 そうしているうちにやっと機関車が来た。最初のものと同じものかどうかは分からない。連結するとき電源車はビューゲルを下ろす。先ほど電源が落ちたのはこれだったのか、連結後電源車が再びビューゲルを上げるのを見届けて車内に入るとようやく発車した。1時間25分の遅れでこのままだとアンダィエでのTGVには間に合わない。

 発車後列車は間もなく東南アジアで良く見かけるバラック建築が密集するスラム街のような所を通り、その後は良く手入れされた森林公園のような所を延々と進む。人口300万のマドリッドの郊外にしては不思議なことに住宅街やマンション群というものがほとんど見られない。そのうちに90度近いカーブを左右に繰り返しながら渓谷に沿って山中に入って行く。渓谷といっても日本のそれのような狭隘なものではなく北米大陸にあるような雄大なものだ。進行方向左側の席なのに午後の太陽がまともに照りつけることがなく逆に影になったりするのでどうやら列車は北には進んでいないようだ。発車後30分後くらいに少し大きめの町を通過したときにエル・エスコリアルという駅名が読めたが、チャマルティン駅の(i)で入手したスペイン全土の地図によればなんとマドリッドの真西にある町だった。

 地図ではマドリッドから真北に伸びている線路があり、トーマス・クックによればこの列車はその途中のアランダという町に停まることになっているが、その後も列車は山岳地を右に左にカーブを繰返しながら西へと進んでいる。約1時間後にマドリッド西方120キロのアビラを通過、ここから列車は北に向きを変えるとともに周囲は一面の平野となる。スペインの平原はコルドバの南方、コルドバからマドリッドまで、そしてマドリッドの北方と3種のものを見てきたがそれぞれ植生が異なる。おおまかに言うと最初は褐色の禿山の続く大地、次が牧場などの多い草原、そしてここからが麦やとうもろこしの畑地である。

 列車はかって16~17世紀の頃はスペインの首都だったというバリャドリッドも通過、北東に向きを変えブルゴスではじめて停車する。10世紀頃のカスティリア王国の首都だったところでマドリッドの真北、直線距離にして150キロ程なのに四角形の3辺を通ってきたようなものなので鉄道での距離は370キロ、3時間20分を要した。直結する路線は線路状況が余程悪いのか、それとも工事か何かで一時的に不通だったのだろうか。

夕食はビュッフェ車でサンドイッチとコーヒーにしたが、ナッツを買い席に戻りジブラルタルの免税店で買ったスコッチを傾ける。更に1時間走ってミリンダ・デ・エブロへ、ここでビルバオ行きを分割しバスク地方に入る。21時25分でやっと暗くなる。ここまでの間降車する客は少なく、降車してもまた代わりの新しい客が乗って来るので客数は減らない。しかしバスク地方に入ると最初に停車した首都のビトリアやアルトサスでどんどん降りはじめ、サン・セバスチャンに着いたときは残りは20%くらいになっていた。乗客の大半はバスク人だったのだろうか。バスク地方に入ってから通過する町々はいずれも煌々と明るく街灯が灯り、大きな自動車工場の看板も明るく何かとても裕福な感じがした。製鉄の町ビルバオも近く、この近辺はスペインの先進工業地帯なのだろう、サン・セバスチャン周辺では30分毎にローカル電車が走っているようなことがトーマス・クックに書かれていた。ナローゲージ・サービスとあったがどういうことかは確かめられなかった。

人気の夜行新幹線 アンダイエ 23:40 → パリ 6:00

 国境の町イルンに停車し、更に乗客が減り、5分ほど走ってフランスのアンダイエ(Hendaye)に到着した。この間市街地は途切れることなく何処が国境なのかわからなかったし、途中に直通タルゴのための軌間変換装置があったのだろうがそれも見逃がしてしまった。到着したのは23時45分で発車時間を30分も過ぎていたのにTGVは待っていてくれた。国境であり軌間が異なることから新庄駅の新幹線から在来線に乗り継ぐように、乗って来た列車の先頭方向に向かい、係官が誰もいない検問所を通りその先にTGVが待っていた。列車2本分プラス通関スペースという、おそろしく長いプラットフォームである。

 TGVはすぐに発車した。コルドバでの予約では2等車になっていたが1等には誰も乗っていない。もうこんな時間なのだから誰も乗ってこないだろうし、ユーレール・パスの当然の権利だからと4人用のコンパートメントの席にふんぞり返っていると10分程走った後停車したサンジーンデルツで数人が、更に10分後停車のビアリーツでも乗って来るという状態で全席がふさがりそうになって来た。2等の自分の本来の席に戻ると、途中のデッキやラウンジカーには指定席をもっていないと思われる乗客が大勢いる。その後バイヨンヌ、ダクスとこまめに停車、ここでタルブからの列車と併結となりここからパリまではノンストップとなるがいつのまにか満席である。コルドバで指定をとっておいて良かったとつくづく思うとともに、ヨーロッパ内の座席予約のネットワーク機能に改めて感心する。それにしても途中の駅での多くの乗客や併結の列車を待たせてまで、よくスペイン側列車の遅れに対応してくれたものだ。多少国内を犠牲にしてでも国際関係を重視しているのだろうか。

 そうゆったりとした座席でもないし大きな黒人が隣に座っていたが連日の疲れからか結構良く眠れ、途中ボルドーとツールーズで停車したとき以外は何も覚えていない。まだ暗いなか列車が減速し始めるともうパリ・モンパルナス駅の長いホームに差しかかっており時計を見ると6時だった。夜行のTGVだけあって余裕のあるダイヤだったのだろうし、だからスペインの遅れを待ってくれたのだろう。それにしても夜行列車にこんなに需要があるとは、日本の新幹線も参考にしたらどうだろうか。

東京から上野まで その2 パリ市内

 パリからスイスへはジュネーブ、又はローザンヌ、又はベルンへ直行するTGVがあるがいずれも予約が必要なうえまた1等が満席では面白くないので在来線でバーゼルへ行くことにした。パリ東駅7時33分発があるので地下鉄で東駅まで行くことにし、両替店もまだ閉じていたのでクレジット・カードの自動両替機で100フラン下ろす。フランス語がまったく出来ないので有人改札口で「イースト・ステーション」と言ったら4フランの切符とつり銭をくれた。たいした距離でもないのにやたらと駅が多く、駅間の距離よりもホームのほうが長いのではと思いたくなるような地下鉄4号線で東駅へ行く。

シャンパーニュの森と野原  パリ 7:33 → バーゼル 13:17

 売店で朝食用にパンと飲料水を買いやっと念願の1等車に乗る。指定となっている席にはそれを示す小さなカードが貼ってあるのでそれ以外の席に座る。小雨の朝のパリ東駅を発車、しばらくは近郊電車との複々線が続くがそれが終わると非電化となり線路は単線になったり複線になったりする。沿線に大きな都市もないので幹線という感じではないがそれでも線路の状態は悪くないようで、小高い丘を越え浅い谷を渡り牧場や畑を見ながらシャンパーニュ地方の野山を快適に走る。フランスは農業の国だということが実感できる光景である。また鉄道とつかずはなれず運河があり、勾配にさしかかると連続する閘門が見えたりして楽しい。

 心地よい1等の座席にふんぞりかえり退屈しないうちに5時間、TGVなど多くの車両が横たわる大きな車両工場のあるベルフォーに停まり、更にアルザス地方南部の工業都市ミュールーズに着く。ストラスブールへの快速列車も多く運転されている活気のある町で10分停車した後バーゼルへ向う。アルザスはかつてドイツ領だったこともありこの辺りはドイツ語も通じるらしい。写真で何度も見たことのあるホーム上に国境の遮断機のあるバーゼル駅に定時到着する。(写真11)無人の出入国管理の部屋を通り駅コンコースヘ、余ったペセタとフラン札をスイスフランに変えようとしたが両替所は延々長蛇の列だったのであきらめ、35分後のルツェルン経由キアソ行きICに乗車する。

乗客本位の鉄道王国スイス バーゼル 13:52 → ルツェルン 15:05

 スイスの鉄道は国鉄・私鉄を問わず接続を重視したダイヤが良く整備されている。主要路線を中心に枝線に及ぶまで殆どが1時間ヘッドとなっており接続駅での乗り継ぎがスムーズに出来る。フランスのようなパリ1点集中型と異なり、同規模クラスの都市が点在するスイスでは東西及び南北の複数の幹線を中心としたネットワークがおそらく長い年月にわたる試行錯誤や施設の改善により形成されたのだろう。車両の速度向上や駅設備の改善などのハードウエアだけでなく運行方式というソフトウエアまで含めたこの方式はJR九州やJR四国、近鉄などと同じ考え方のようで親しみが湧く。ドイツ国境のバーゼルからイタリア国境のチアソまでもそのようなネットワークを形成する幹線のひとつで、1時間ヘッドの列車のうち何本かはドイツやイタリアに直行する。最終コースも1等車に乗ること1時間13分、風向明媚な森と牧場と湖を見ながら15時5分にドーム屋根に覆われた終端型のルツェルン駅に到着。昨日の朝7時5分にマラガを出発してから32時間の列車乗り継ぎの旅だった。

 それにしても随分余計な出費になってしまった。予約済みの列車やホテル代金はすべて支払うことになり、ユーレール・パスの1等の権利は大半を放棄し、地中海の景色を見ながら帰ろうと準備し買い揃えていた地図も必要なくなった。しかし仮にマラガで予定通り夜行列車に乗れたとしてもスペインのことだからその後どこかで遅れが出、かえってとんでもない混乱に陥ったかも知れない。そう考えると結果オーライとも思えるし、中年の日本人がひとりで海外の鉄道旅行を行うにはそのくらいの覚悟が必要だったのかも知れない。

 国境越えはどこもそれを全く意識することなく簡単なものだった。パスポートを求められたのはパリからバーゼルへの列車で車掌にユーレール・パスを見せた時だけで、国境通過時には全く必要なかった。それでも出入国のための設備はアンダイエにもバーゼルにも残っていた。これらは最早無用の長物でいずれ撤去されるのではと思ったりしたが、これを書いているときに米国でのテロが発生した。こんなことが起きるとまた各国は国境警備を厳重化するだろうし、そうなればこれらの設備も有用になる。ちょっとした国際情勢の変化で足止めを食うようなことはこれからもあるだろう。スペインでは日本人を対象に金をせびるためにしつこく言い寄って来る連中の排除にも気を遣った。海外の鉄道旅行はわが国とは違った景観を楽しませてくれるし、ビュッフェや食堂者などわが国では最近では味わうことのできない列車そのものに乗ることの楽しみを堪能させてくれるが、所詮は外国でありリスクの伴うものである。今回は結果的にはたまたま上手くいったが、現下の国際情勢・社会情勢のもとでは海外の一人旅はそれなりの時間と金の心の余裕をもって、そして最低限の現地語を知ったうえで行わなければならない、これが筆者の今回の海外鉄道体験での総括である。