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地理的ー曲目解説 チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」 〜 海外地理紀行(その8)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

地理的ー曲目解説 チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」 〜 海外地理紀行(その8)

 チャイコフスキーが作曲した弦楽六重奏に「フィレンツェの思い出」という曲がある。1890年彼が50歳のときの作品だ。チャイコフスキーは、その翌年ニューヨークのカーネギーホールでの杮落しに招かれ、3年後の93年、53歳で交響曲第6番「悲愴」を作曲、ペテルブルクで自らの指揮で初演を行った数日後に、急にコレラに罹り亡くなっている。

 この曲は通常の弦楽四重奏に第2ヴィオラと第2チェロを追加したものだが、6人全員が主役といっても良いくらい、大変複雑な、演奏者にとってはさぞ大変だろうが聴く方にとってはとても楽しく、芸術的な価値も高い曲だと思う。チャイコフスキーは1880年代にはフィレンツェやパリ、ナポリなどに滞在していた。90年にサンクトペテルブルクの室内楽協会の名誉会員に選出され、これへの返礼として協会に献呈されたのがこの曲で「フィレンツェの思い出」という副題が添えられていた。

 チャイコフスキーには「イタリア奇想曲」という大編成オーケストラによる組曲があり、これは彼が現地で聞いた民謡などをもとにしていると言われ、南国の明るい雰囲気の漂う、まさにイタリアを思い出させる情景描写に富んだ曲で、名前と曲のイメージが一致する。しかし弦楽六重奏の方は、イタリアとかフィレンツェを連想させるようなところはなく、なぜこのような副題がついたのか不思議で、今迄演奏会で配られるプログラムの曲目解説でも、そのあたりの納得の行く説明は得られなかった。

 ところがイタリアの地図を見て、歴史を知ると、やや強引であるがこの曲が実はフィレンツェの地理や歴史を物語っていると解釈することができる。音楽の専門家や評論家からすると「とんでもない」解釈ということになるとは思うが、地理を趣味にする者としてこの曲の解説がしたくなった。

 実は私も、アマチュアの市民オーケストラでオーボエという楽器を吹いていたことがあり、このときにプログラムの曲目解説を書いたことが何度かあった。しかしそれらはいつも専門家の真似ごとで、型にはまったものばかりで、さらに言えばいつも時間に迫られCDなどの解説からの借用、いや盗用に近いものだった。だから一度くらい、自分の考えた曲目解説をしたいと思ったのである。

 フィレンツェはイタリア中部、ローマとミラノのちょうど中間くらいのところにある。トスカーナ州フィレンツェ県の州都であり県都である。人口は約35万、奈良市くらいだ。イタリアには、20の州の下に110の県がある。これとは別に欧州文化首都というEUが1985年から指定した都市があり、フィレンツェはギリシャのアテネに次いで2番目に指定された。毛織物業や金融業で栄え、中世から近世にかけてはトスカーナ大公国の中心として、一時はイタリア全土の中心にもなったこともある。

 そのフィレンツェに、私は2005年の2月に行っている。スイスから知人の運転する車で行き、安ホテルに2泊しただけでガイドもない全くの個人旅行だった。このときの私の「フィレンツェの思い出」も含め、演奏会のプログラムなどでは絶対に採用されない解説を試みた。この曲を聴き、ああ、そういう解釈もあるのかと思っていただける方があれば幸いである。なおフィレンツェというのはイタリア語で、英語ではフローレンスという。でも最近の旅行案内などではフィレンツェを使っているものが多いので、私もこれを使う。

第1楽章 ワルツ「メディチ家の夜会」

 譜面にはアレグロ・コン・スピリート(快活に速く)と書かれ、元気な第1主題と、穏やかな第2主題と展開部からなるソナタ形式というのが音楽の先生方の解釈である。前奏もなくいきなり4分の3拍子のテーマが現れ、これはワルツだと私は思う。

 この地方を支配していた大富豪のメディチ家では毎晩のように夜会が開かれていた。といってもそれは同家の最盛期であった15~6世紀のことで、その頃にはワルツではなく、バロック以前の古典音楽が流れていたのだろうが、チャイコフスキーはこれを19世紀に流行ったワルツに置き換えた。というのは、チャイコフスキーはワルツが好きで、3大バレー曲のほか、弦楽セレナードや交響曲第5番などで使っている。ワルツと言ってもウィーンで流行った優雅なものではなく、常に誰かが八分音符でキザミ(伴奏)をしている、後のショスタコービッチなどに繋がる、ロシア風ワルツと私が勝手に称しているものである。

 メディチ家は、14世紀には銀行家として台頭し、政治にも進出し、フィレンツェの実質的な支配者として君臨するとともに、トスカーナ大公国の君主にまでなった。最盛期は日本の足利幕府が傾きはじめ、応仁の乱から戦国時代にいたる頃である。しかし大航海時代となり、スペインやポルトガルが勢力を伸ばすとともに相対的に力が低下し、18世紀末にはハプスブルク家に取って代わられた。

イタレアルネッサンスの中心がこのフィレンツェで、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ボッティチェリなど多数の科学者や芸術家が活躍したが、かれらをパトロンとして支援していたのがメディチ家だった。同家が使っていた宮殿などが今でも残っており、私は入っていないが中は豪華な広間がたくさんあると聞く。ひょっとしてチャイコフスキーはここに入って、かつての大舞踏会の光景を想像したのではないか、これをフィレンツェの第一印象として、ワルツのメロディが浮かんだのではないだろうか。

第2楽章 ウッフィーツィ美術館

 メディチ家がトスカーナ大公の地位にあった時代、行政機関の事務所として作られたのがウッフィーツィである。イタリア語で事務所という意味だそうで、英語のオフィスにあたる。後にイタリアルネッサンス絵画を収納展示した美術館となる。第2楽章は、この美術館内の絵画を見てまわる情景である。

 アダージョ・カンタービレ(ゆっくりと、歌うように)、第1ヴァイオリンがソプラノの女性、第1チェロがテノールの男性、恋人同士が名画を見て、そのすばらしさを称える会話をしながら長い回廊を進む。この美術館、世界的に有名でいつも混んでおり予約がないとなかなか入れない。私も予約していなかったし、長蛇の列だったので中には入っていない。回廊はアルノ川に架かるポンテヴェキオ(ヴェキオ橋)まで続いている。プッチニーのオペラ「ジャンニスキッキ」で歌われる有名なアリア「私のお父さん」の中で、娘が恋人との結婚を許してくれないなら私はポンテ・ヴェッキオからアルノ川に身投げしてしまうと歌う、その橋である。

 さて、三連符のピッチカートの伴奏に乗ってゆっくりと会話をしながら鑑賞を続ける2人だが、そのうち突然凄い絵に出くわしびっくりする。フォルテシモで全楽器がガンガンと奏でる。実は私にも絵を見てこのような思いをしたことがある。もう10年以上前のことだが、オランダのアムステルダムにある美術館ではなく博物館で、レンブラントの「夜警」を見たときのことだ。まず絵の大きさに驚き、その色鮮やかさも凄かったが、そこに描かれた大勢の人物の一人ひとりが夫々何かを思っているような表情をもっていた。あまりの凄さに心臓が止まったというと大げさだが、しばらくそこを動けなかった。この楽章のこの部分は、まさにそのような情景を思い起させる。

 2人とも暫し会話を忘れていると、他の客の一人、第1ヴィオラが話かけて来て、我に返る。コン・モート(早めのテンポで)と書かれた中間部は、暫し休憩場でアイスクリームを買って食べたり、トイレに行ったりしているようなものか。再度会話をしながら絵を見てまわり、他の客とも親しく話し、もう一度別の大作に驚き、そして「良かったね」と言いながら美術館を後にする。

第3楽章 オリエント貿易

 4つの楽章からなる交響曲や室内楽曲は、1楽章から順に「起・承・転・結」となっているのが普通で、第3楽章が「転」となりちょっと気分を変える。「ところで話はちがいますが」という感じである。ハイドン・モーツァルトの時代はメヌエット、ベートーヴェン以降はスケルッオ、さらにチャイコフスキーなどロシア系はワルツといった踊りの曲が良く使われている。ところがこの曲では第1楽章が舞曲であるワルツ使っているからか、「転」には違いないがおよそイタリアとは思えない異国情緒、オリエント風のメロディーではじまる。主部+トリオ(中間部)+主部となる「転楽章」の基本構成を踏襲しているのだが、主題がオリエント風、中間部がロシアのトレパック(コサックの踊り)である。

 14~15世紀ごろ北イタリアには「4大都市国家」、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァがあった。このうちフィレンツェとミラノが、どちらも製造業と北西ヨーロッパとの陸路貿易に従事していたのでずっとライバル関係にあった。ミラノが君主国家であったのに対し、フィレンツェは建前上は共和国だったが、実質的にはメディチ家が支配していた。1406年に、フィレンツェはミラノとの戦争に勝ってアルノ川が海に注ぐ斜塔で有名なピサを領地にした。アルノ川は、イタリア中部を流れており延長241キロ、北上川と同じくらいの長さである。これで舟運によるオリエント貿易が盛んになったのかも知れない。フィレンツェの毛織物製品は、ギリシャやトルコ、エジプトまで輸出されていたというから、河港から積み出していたのかも知れない。

 しかし、海上貿易を主に行っていたのはヴェネツィアとジェノヴァの方だった。イタリアを旅行中のチャイコフスキーはヴェネツィアかジェノヴァにも行き、そこで異国人をたくさん見て来て、フィレンツェと混同したのかも知れない。今はヨーロッパの大きな都市に行けばどこも中東や東洋人で溢れているが、当時はまだ珍しかったのだろう。どこかの埠頭で車座になって酒を飲みながら歌う異国人のメロディを聞いた、そうしたらそのイメージをとり上げたくなり、同時に祖国がなつかしくなり中間部に「コサックの踊り」をもつ曲が浮かんだ、ということかも知れない。

第4楽章 街の雑踏

 私が行った時のフィレンツェは世界中からの観光客でごった返していて、スリなどに気を付けなければならなかった。終楽章は、そんな街の風景を現わしている。恐らくチャイコフスキーも同じように感じたのではないだろうか。アレグロ・ヴィヴァーチェ(早く、明るく元気に)、2/4拍子、ニ短調。別にフィレンツェに限ったことではなく、ヨーロッパの大都市の雑踏、いや香港か新宿歌舞伎町だと言ってもいいくらいだ。

 そこに突然絶世の美女が現れる。そんなメロディに急変する。美女を追いかけて行くが途中で見失い、やがてあちこちで喧嘩が始まる。曲の方はフーガになる。フーガというのは、音楽の形式のひとつで対位法といわれるが、ひとつのメロディをいろいろと変形させ、かつタイミングをずらしながら、6つの楽器で複雑な掛け合いをする。怒鳴り合いを聞いているようなもので、演奏者にとっては大変難しい。皆が違うことをやっているので、今どこをやっているのかがわからなくなるともう演奏に加われなくなる。音楽界ではこれを落ちるというのだが、プロはさすがに落ちない。モーツァルトの41番ジュピターの第4楽章に有名なフーガがあり、私もかつて第2オーボエで参加したことがあったが、途中で落ちてしまいフーガが終わるまで復帰できなかった。

 そのような複雑なフーガも見失った美女が再び現れると皆一斉に彼女の方に向いたのか「セーの!」となって見事な合奏になる。そして雑踏を通り抜けているうちに、フィガロの結婚序曲かな?と思うようなメロディが出て来て曲は終了する。おそらく雑踏の具合はチャイコフスキーの時代も今とそれほど変わらなかったのではないだろうか。

 このように独自の、というか勝手な解釈を行ったのだが、このような名前にした真の理由は別にあったようだ。実はチャイコフスキーにはフォン・メック夫人というパトロンがいた。鉄道建設事業で大成功した夫に先立たれた未亡人で、14年間にわたって資金援助を続けるとともに、彼の旅行での鉄道やホテルの手配などを行った。夫人とチャイコフスキーとは手紙による文通が続き、写真などもお互いに交換しており、今のメル友のようなものだったが、なぜかお互いに絶対に会わないという約束をしていた。しかし一度だけ接近しており、それがフィレンツェだった。と言っても夫人が泊まるホテルのすぐ近くにチャイコフスキーの宿を手配しただけで直接会話はしていない。後から「あなたのお姿を拝見しました」とお互い手紙を交換していたそうである。変な話だ。

 そして1890年、チャイコフスキーが50歳のとき、夫人から破産寸前になったのでもう支援はできない、文通も止めるという手紙がきた。ちょうどこの頃、この弦楽六重奏を作曲していた。だからこの曲は、フォン・メック夫人に捧げる曲だと彼は考え、そしてフィレンツェでの中途半端な逢瀬を思い出し「フィレンツェの思い出」としたのではないだろうか。そのような解説は多分すでに他でなされており、私のオリジナルではないと思うが、こちらが真実かも知れない。

 しかし繰り返すが、地理歴史的なアプローチは全くの私の想像、というかこじつけである。音楽の専門家からはひんしゅくを買うこと間違いない。でも音楽もこのように考えると別の面白さが出てくる。単なる遊びにつきあっていただき恐縮である。