著者プロフィール                

       
2014年10月 ミャンマーの旅 〜 海外地理紀行(その7)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

2014年10月 ミャンマーの旅 〜 海外地理紀行(その7)

 ミャンマーの鉄道を探るという4日間のパックツアーに参加した。このようなツアーの参加は初めてで、10人ほどの同好の士との実に楽しい日々を過ごしたが、鉄道だけでなく社会全体で、今でも世界にこんなところがあるのかという驚きの連続だった。一言で言えば、江戸と昭和と平成が混在しているという印象だ。だから特に交通の面で、今ならまだ有効な手を打つことによって、自動車の急増で混乱をきたしている他のアジア諸国とは違った、公共交通を主体とする理想的な近代化も可能なのかも知れないと思った。

 現地のガイドが、4~50歳代と思われる女性だったが、日本語が堪能なうえに広い分野の情報に精通していて多くの質問に明快に答えてくれた。多くはこのガイドからの情報をもとにしているが、この国について、主として公共交通を中心に述べてみたい。

江戸と昭和と平成が混在 ミャンマーという国

 ミャンマーは面積が日本の1.8倍、人口は6千万人を超えると言われていたが、最近の国政調査の速報で従来推計より1千万人以上少ない5100万人程度ということがわかった。外務省のHPによると、70%がビルマ族でその他が多くの少数民族、宗教は90%が仏教徒で他はキリスト教、イスラム教である。

 少数民族ではカレン族、カチン族など多くが分離独立や自治拡大を求めてビルマ族中心の中央政府と長年戦ってきた。現政権は各勢力と暫定的に停戦合意をしているものの、本格的な交渉はこれからだ。有力な少数民族はそれぞれが独立した軍隊を持ち、武装解除にも応じず、独自の解放区を維持し続けている。このために外国人旅行者には立ち入りに事前許可のいる地域、移動に制限のある地域があり、逆に全く無条件に立ち入りできるのは国土総面積の一部しかない。

 首都は2006年よりヤンゴンから約300キロ北方のネピドーに移転した。しかしそれまで首都だったヤンゴン(旧ラングーン)には最高裁判所があるほか、各国の大使館もいまだにヤンゴンにあり、大使館は出張所のようなものをネピドーに置いている。日本との時差は2時間30分という変な区切りだが、インドが3時間30分だということを知り頷けた。

 ミャンマー語は日本語や韓国語と同じように単語を「てにをは」のような助詞でつないで行き、語順も同じで、周辺のインドやタイとは異なる。顔つきは日本人に似ているし、日本人や韓国人と大昔の祖先は同じなのかも知れない。物売りなどもあまり貪欲な風には見えず、なんでも笑顔で応じ、危害を感ずるようなこともない。何となく本来の日本人気質に似ているようでもある。

 ミャンマー文字は、全体的に丸っこい形の絵のような33の表音文字からなり、0から9までの数字も算用数字を使わず独特の文字である。時刻表の時刻もこの文字で書かれているので、全くわからない。ようやく2年前から、自動車のナンバープレートだけは算用数字になったそうだ。

 女性だけでなく、多くの男もロンジーという巻きスカートを着用し、素足にゴム草履である。これは日本で言えば、男も女も着物姿が多かった時代のようなもので、ズボンに靴という習慣はまだ一般的ではないようだ。また多くの女性は頬に白い粉のようなものを塗っている。ただし男も女も上半身はTシャツや開襟シャツが多く、またそのような姿で携帯やスマホを使っている。

ミャンマーの歴史

 諸部族が割拠した時代を経て11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝ができ、その後いくつかの王朝が交代したが、1820年代からイギリスの統治下にあった。

 1937年イギリス連邦内の自治領となり、第二次大戦中日本軍の後押しでアウン・サン・スー・チー女史の父アウン・サン将軍率いるビルマ独立義勇軍によってビルマ国が建国されたが、正式にビルマ連邦として独立したのは48年で、このときにイギリス連邦から離脱した。

 しかし少数民族の反発や、国民党軍、共産党勢力との武力闘争を通じて国軍が徐々に力を増し、62年には軍事クーデターにより社会主義となり、中国共産党の影響下に入った。その後民主化要求により88年社会主義政権が崩壊、国軍が政権を掌握した。社会主義を放棄したものの、アウン・サン・スー・チー女史を拘束するなど民主化にはほど遠いとして米国やEUが対ミャンマー経済制裁を行った。しかし2010年になると総選挙で民政移管が実現し、女史の自宅軟禁も解かれ、欧米諸国も一部経済制裁を解除した。ざっと記すと以上だが、実際はその間にも紆余曲折があり、スー・チーさんなどはこの間に3回、合計約15年にわたって自宅軟禁されていた。さらに現行憲法でも国会議席の25%は軍人議員に割り当てられているなど、まだ国軍の広範な政治介入が認められている。

 ミャンマーは実際には鎖国をしていたわけではないがそう言われていたのは、欧米諸国からの経済制裁が続き、新技術や新産業の導入がなく、経済活動が長期にわたり停滞していたからだ。今回この目で見た町や農村の風景が、何か日本の一世代前という感じがしたのもそれ故だろう。なお日本は欧米諸国とは異なり経済制裁は行って来ず、その都度の政権を承認してきた。しかし世界情勢に敏感な民間企業からすれば、ミャンマーへの投資はリスクありとしていたのだろう、日本企業の進出も殆どなかった。 なおビルマをミャンマーと呼ぶようになったのは軍事政権下の1989年からで、同時に首都名もラングーンからヤンゴンに代わっている。

ヤンゴン市内と道路交通

 ラングーンという名前は、イギリス植民地時代にイギリスがそれまでのヤンゴンを変更したもので、もとの名前に戻ったのである。人口は約5百万で、ヤンゴン駅の南側からヤンゴン川の河港にかけての1キロくらいにダウンタウンが広がり、市役所の他商業施設が多く人で賑わっている。逆に駅の北側は広大な公園や湖があり、高級住宅や大学、各国の大使館などがあるが、最近はそちらにもどんどん人が住み着いている。

 道路の並木は立派だが、植民地時代からの古い建物のほか、社会主義時代に建てたと思われる画一的な鉄筋アパートも多く、それらがみな黒ずんで劣化しており一見スラムに見えるものが多い。いまだに停電も多く、定期的なゴミ収集も行われていないと聞く。

 ヤンゴンでは近年自動車が急速に増えて来た。と言っても小型車の半分くらいはタクシーだし、大小さまざまなバスがどれも客を満載させて走っていて、いわゆるマイカーというものがまだ少ないようだ。市内には首都高のような高速道路はなく、立体交差が3か所だけあると聞いた。また主要な交差点の信号は、点灯の変わる時間が長く、いつも信号を待つ車の長蛇の列ができる。するとすかさず水や菓子などの物売りが現れ、運転手も結構それを買っている。なおヤンゴン市内はオートバイ使用が禁止されており、これだけは他のアジアの大都市と違う。

 バスは殆どが日本の中古車である。右側通行のミャンマーでは左側にあった乗降口を塞いで右側に新たに乗降口を作っている。塞ぎ方は千差万別で、きちんと窓に改造したものから、扉を外して檻のように格子をはめただけのものなどさまざまだ。そしてどの車も恐ろしく古い。大半は日本時代の塗装を変えず、注意事項なども日本語で書かれたままだ。旧神奈中バスのものが特に多いようだったが、全国各地の中古バスのオンパレードと言った感じに次々とやって来るので、いつまで見ていても飽きない。

 これだけではない。小型トラックの荷台にテントを張って後部から乗り降りするバスもたくさん走っている。それらを含めて、どんなバスにでも車掌が必ず乗っていて、大声で乗客の呼び込みをする。売り上げに応じた歩合制だからだそうで、どのバスも無理に客を詰め込んでいる。市内には50程度の路線があり、大手のバス会社もあるが、1台でもバスを持っていればそれらの路線に参入できる。

 市街地を離れるともっと小型の、オートバイにリヤカーをくっつけただけのようなものもあり、そんな車でも車掌が必ずいて客を詰め込んでいる。1回の乗車は距離に関係なく200チャット、約20円だそうだが、ミャンマーには硬貨というものがなくすべてお札である。バスの出入口で札束を手に握っているだけの男が車掌で、制帽制服などもちろんなく、多くは例のロンジーにゴム草履姿である。 なお貸切りバスは、バス停を使わないので大半が左ドアのままであり、我々が利用したものも「西濃ライン」と書かれたままのものだった。ただし最近新たに導入する車は右ハンドルに限るとされたので、日本車は改造するか、日本に代わって韓国の中古車が増えるのかも知れない。

ミャンマーの鉄道

 ミャンマーにはイギリス植民地時代に建設された約5千キロの鉄道があり、すべてミャンマー国鉄が運営している。軌間1メートルのメーターゲージだが電化区間はひとつもない。車両工場で通訳を通して聞いた数字だが、現在稼働している車両は全国でもたった360両程度、そのうち約100両が日本からの中古車両だ。日本からは03年頃から累計で200両以上を導入しているが、もともと古い車両である上、保守部品などもないことなどから半数以上が使用できず、それらは工場の片隅などに放置されたままになっている。客車列車が多いが、日本の車両はすべて気動車である。

 線路の状態は恐ろしいほど悪く、これで良く列車を走らせているものだと感心する。だから速度も遅く、そのためか線路上を歩く人も多く、飛び乗り降りも多い。信号は自動化されていたが、踏切は警手が列車の来るかなり早くから閉めるので、車は長蛇の列である。ただし人は数メートル直前でも渡ってしまう。

 幹線はヤンゴンから首都のネピドーを通って第2の都市マンダレーまでの約600キロだが、最速の急行でも15時間かかる。ヤンゴンには東京の山手線よりも一回り大きい45.9キロの環状線があるが、これを一周する列車は3時間近くかかる。駅の上屋などはコンクリート造りが多いが、アパート群なとど同様かなり黒ずみ古さを感じさせる。施設面では恐らく植民地時代から何も変わっていないようだ。

 列車内では果物や菓子、弁当、飲物などの売り子がいるが、駅に停まるとさらに子供や女性の売り子が乗って来て、走り出すと飛び降りて行く。設備だけでなく文化的にも数世代前の鉄道という感じだが、複線用地がしっかり確保されているので、少し手を加えれば良い鉄道になると思う。

 中心となるのはヤンゴン駅だが、この駅も植民地時代から何も手を付けていないようだ。地平の、京都駅を一回り小さくしたような構造で、駅の正面入口は北、すなわち環状線の内部でここに立派な塔屋をもつ本屋がどっしりと構えている。南側、すなわち繁華街に向かう方は車輛工場があり出入り口はない。東京駅も1914年(大正3年)の開業当初は今の八重洲口はなく、その部分は地平のまま操車場などがあったそうだ。とにかく都心の一等地に広大なスペースがあるのだから、ここは近い将来大規模な駅ビルが建ち、繁華街になるのではないと思う。

 尤も利用者は今でもそんなに不便は感じていないようだ。列車が着くたびに、線路上をそれぞれが勝手に行きたい方向にゾロゾロと歩いているからだ。

ヤンゴンの環状線乗車

 環状線は東京の山手線を一回り大きくしたようなもので、空港もその中にある。北部は閑散とした農村地帯だが、南の部分はかなり人口稠密である。2日目と4日目に、バスでの送迎も含め、一部重複区間も含め外回り(時計まわり)に、4つの列車で一周した。鉄道は左側通行である。

 利用した列車は利用した順に、ディーゼル機関車の牽引する6両の通勤タイプの客車列車、長距離タイプの客車列車、つい最近まで千葉県の久留里線で走っていたディーゼルカー、もとJR西日本の特急ディーゼルカーだった。ロングシートで扉もないものから、ドアエンジン空調つきのもの、リクライニングシートのものまで、正に玉石混交だった。

 ヤンゴン駅を出ると、裏町といった感じのゴチャゴチャしたところの保守状況も劣悪な線路を、時速30キロくらいのスローペースでノロノロと走る。駅区間も短いが、駅での停車時間も短く、扉などないから走り始めてからの飛び乗りも多い。駅のホームだけでなく、時には線路間際まで、地べたで飲物や食べ物の店を広げたり、洗濯物を干していたりする。極め付けはダニィゴンという駅で、市場前の駅と聞いていたら、なんとホーム上まで店が続き、足の踏み場もないほどだった。

 この駅で支線を分岐するが、ここからの環状線は1日に8本と非常に少なくなる。ヤンゴンの市域からも外れ、周囲も水田や畑などが広がるのどかなところだ。でも山手線も明治に開通した頃の渋谷や池袋のあたりはこんな光景だったのかも知れない。だからいずれは高層マンションが林立するかも知れない。

 最後に乗車したのは空港滑走路の延長上にあるようなミンガラドン駅で、到着機が頭上をかすめて行った。ここから又本数が増え、集落も徐々に増えて来る。それとともに古びた集合住宅が連なり、ところどころ線路脇にビニール袋に入ったゴミが積まれたスラム街風のところも現れ、線路内の歩行者や、線路際まで広げている店などが、西側よりもさらに多いように感じられた。

 利用者はかなり多いように見えたが、JICA(国際協力機構)ミャンマー事務所のHPによると、環状線の平均運行速度も15Km/時と遅く、バスとの連携も不便なため、利用率は3%程度にとどまっているそうだ。同HPでは毎日280万人が公共交通を利用しているとあるので、環状線の利用者は10万人弱といったところか。電車化して多頻度運転を行えば今の10倍くらい、1日100万人くらいの輸送力にすることは十分可能だと思った。

長距離列車体験

 3日目はヤンゴンから60キロほど北東にある古都バゴーに、ヤンゴン駅朝6時発の急行列車で行った。マンダレーに22時30分に着く列車だ。東海道線に相当するミャンマー随一の幹線だが、ヤンゴン・マンダレー間はこの列車を含め1日に3往復しかなく、他の2本は夜行列車である。

 ディーゼル機関車が牽引する14両の客車の、最後尾から2両目の1等車に乗った。通路を挟んで1列と2列の席が並び、座席は回転式リクライニングで緑のカバーで覆われているが、手入れが悪くリクライニングしないものや回転が止まらないものなどがあった。2等車は4人ずつの木製ボックスシートだった。

 ヤンゴン駅発車後、環状線の二つ目のマ・ラウ・ゴンまでは路線別複々線だ。およそ30分後にトウチャウンカレー駅に停車するとその後はずっとどこまでも広がる水田の中だ。線路状況は相変わらず悪く、時速50キロくらいで走っているのだが、恐ろしいほどの縦揺れが続き、ホテルでもらったサンドイッチとバナナの朝食弁当を吐き出すのではないかと思うほどだった。

 丁度雨季が終わるころだが、途中激しいスコールに見舞われ、窓が閉まらずもたもたしていたら近くの席にいたミャンマー人が手際よく閉めてくれた。再び日が差し金色に光るパゴタがいくつか見え始めバゴーに到着した。1時間55分の乗車だった。

 バゴーは13~16世紀には王国の都でもあった古都で、寝仏や僧院などを見学した。さして広くはない市街地に、人がひしめき合って暮らしているという感じで、ヤンゴンでは禁止されているオートバイが実に多かった。特に面白いのはオートバイの後部にテントで覆ったリヤカーをつなげたようなバスが数多く走っていたことだ。いずれも10人も乗れそうにないのに車掌が1人でも多く載せようと頑張っていた。

 鉄道の旅のハイライトのひとつが、バゴー駅からのレールカー乗車で、1駅15分だけ乗った。トラックのエンジンを載せたような単車が、これも3両の単車を牽引する。1日に1往復しか走らないので立錐の余地がない超満員だった。1両目に乗り、観光客用にリザーブしてくれていたサイドシートのベンチに座ったが、外の景色を見るのもままならない。これも手入れの悪い線路を恐る恐るゆっくりと走った。次駅には貸切りバスが迎えに来ていた。ツアー旅行の便利なところである。

 バゴーからの帰りは臨時の特急列車で、元JRのキハ181だった。座席はすべて白いカバーで覆われ、車内は日本の特急そのものだったが、冷房が恐ろしく強くて寒い。ヤンゴンまでノンストップの予定だったが、理由はわからないが1時間遅れて来た上に、発車後も時々途中駅に停った。そんなときは後部車掌室に行くと、車掌はニコニコ笑っているだけなので、乗務員ドアから勝手に外に出て暖を取ることができた。そんな状態だったのでヤンゴン着は予定よりも2時間くらい遅れた。

おわりに

 ミャンマーから戻った数日後の日経新聞に、日本政府がミャンマーの幹線鉄道整備に200億円の円借款を供与し、商社やメーカーなど日本企業の連合体が鉄道改修工事の受注を目指しているという記事があった。(10月20日)ヤンゴン・マンダレー間の幹線の他に環状線の改修も計画していると聞く。また、出発前の10月1日付同新聞には、国内での銀行の営業免許を海外9銀行に与えたが日本の3大メガ銀行がいずれも含まれ、中国が1行、韓国、台湾は選に漏れたとあった。文化面や近代史の流れを見ると同国と日本は相性が良いのかも知れない。

 前述のJICAのHPによると、ヤンゴンの人口は2035年には900万人以上になるという。日本の主要産業である自動車業界にとっては有望な輸出先として重要視したいところだろが、鉄道システムの分野でも、有望なマーケットであり、ミャンマーも日本の技術や支援を期待しているに違いない。 経済の成長により中産階級が増えマイカーブームにならない今のうちに、鉄道やバスの公共交通インフラを充実させ、他のアジアの都市とは違った、真にモビリティマネージメントが奏功するような、スマートな都市になってもらいたいと思う。ヤンゴンでオートバイを禁止するというような政策を打てる国だ、公共交通の充実した国にする可能性はある。ミャンマー駅裏が近代化されるのかどうかも含め、数年後に再訪して確かめたいと思っている。