著者プロフィール                

       
プラハとバイロイト 〜 海外地理紀行(その4)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

プラハとバイロイト 〜 海外地理紀行(その4)

 2006年9月、滞在先のスイスからチェコのプラハへ行き、以前から家内の当地に住む友達に誘われてドイツのバイロイトに行った。そしてニュールンベルク、ミュンヘンとバイエルン州の都市に寄り道をしながらスイスのバーゼルまで鉄道で旅した。東欧圏という先入観があったせいか、チェコはかなり東の方へ行くという気分で向かったのだが、実はウィーンよりも西にあり、プラハ市内にいる限りドイツやオーストリアの古い町と何が違うのかという印象さえ受けた。しかし帰国してから地理や歴史を良く調べると、やはりそれなりの深さがあったのだということを知り、あれを見ておけば良かったなどと反省することが多々生じた。ということもあり、次ぎに又行く機会があればと思いながら訪問記をまとめて見た。これから同方面に行こうと考えている方々にも何がしかの参考になれば幸いである。

はじめての格安航空

 最近話題となっている格安航空(LCC:Low Cost Carrier)というものに初めて乗った。スイスのバーゼルからチェコのプラハまで約600キロ、東京から姫路くらいの距離だが片道41ユーロ(約6,200円)だった。イージージェットというヨーロッパではライアンエアーに次ぐ2番目に大きなLCCである。予約はインターネットと電話のみ、コストダウンを徹底させ空港のスタッフも最小限だ。ターミナル内の搭乗ゲートでは2名の女子職員がまず改札をし、その後乗客全員を椅子もないコーナーで待たせ、次に同じ職員が先導して機体下のタラップまで乗客を一群にして歩かせる。全員が揃ったところでタラップを昇り搭乗となるが座席指定はなく、勝手に好きな席に座る。

 機体はすべてエアバスA319で統一、150ほどの座席に100人くらいが乗っていた。男女2名ずつの乗務員が非常時の説明をし、離陸後はワゴンで飲物やスナックなどを有料販売する。乗客は心得ているようで誰も文句は言わない。約1時間後プラハのルズィニエ国際空港の滑走路に着地したときに機内で拍手が沸きあがったのは、乗客側にもある程度のリスクを覚悟していたのだろうか、それとも格安航空恒例の儀式なのか。

 バーゼルはドイツ、フランスと国境を接し、大型船舶もやって来るライン川畔の、内陸国スイス唯一の港町とも言える都市だ。人口は165千人、チューリッヒ、ジュネーブに次ぐ。空港はバーゼル・ミュールーズ・フライブルグ国際空港、又はユーロエアポートと呼ばれている。実際はフランス領内にあり、スイス国内からのバスはスイス専用の出入口の前に着き、フランスからのものとは行き来できない構造になっていると聞かされていたが、どうも厳密に区分されていないようだった。

 空港ターミナルの一角がイージージェト専用で、ほかにもヨーロッパ内各方面への、それもどちらかと言うと主要都市というのではなく地方都市への便がひっきりなしに発着していた。どの便も到着して客を降ろすと乗務員が機内掃除をして次の客を乗せる。着陸から離陸までの時間はわずか30分、機材の稼働率を高めている。チューリッヒやフランクフルトなどの主要空港と違い滑走路もすいているのですぐに飛び立てる。メインでない空港を拠点にしているところもLCCの特徴だ。

 最近アジアでもLCCが急速に台頭してきて、各社とも日本への参入を狙っていると聞く。しかし私は日本での普及はそう簡単ではないと思っている。建前はともかく実際にはさまざまな参入障壁があるということもあるが、もともと日本の地理的条件が格安航空に向いていないと思うからだ。日本は東京一極集中の傾向がますます強くなり、東京と結ばない路線に大きな需要が期待できない。だから都市が分散し、多数のルートの路線が要求される欧米や東南アジアとは異なる。東京に乗り入れたくとも成田も羽田もその余裕はなく乗り入れコストも高い。LCC向けの第三の空港を作ろうとしても、首都圏ではますます高コストのものになってしまう。日本は東京一極集中のメリットを享受する一方でコスト高になるものも多く抱えている。航空料金などがその典型で、これらが国際競争力強化を阻害しかねない。過度の一極集中が問い直されるときが、いずれやって来るだろう。

チェコ経済の奇跡

 高度は4~5千メートルといったところだろうか、機上から見えるのは森と畑と牧場のなかにときどき集落が現れる中部ヨーロッパの典型的な風景だ。どこが国境かわからない同じような光景が続くなかを飛ぶこと1時間弱、やがて高度を下げ左車窓にプラハ市内中心部で大きく屈曲するヴルタヴァ川を遠望すると間もなく着地、前述の拍手にはもちろん私も加わった。ルズィニエ国際空港はターミナル・ビルも最近増築したのか新しく大きなものだった。

 市内へはミニバスという10人乗り程度のレジャー車のような車で行った。ほぼ一直線の一般道を市街地に向け走り、途中からはパンタグラフの大きな路面電車も現れ併走する。百万都市というだけあって、住宅地はかなり郊外にまで広がっている。中心に近づくにつれ徐々に建物が増え市街化が進んで行く様は、千歳空港から札幌市内に向かう国道36号線を走るときの光景を思い出させる。他の客をそれぞれが希望する場所で降ろし、空港を出てから40分ほどの旧市街広場で降りた。インターネットで予約しておいたホテルに荷物を置き、すぐに市内散策に出た。15時頃だった。

 プラハは長いチェコの歴史の中で一貫して中心だった都市である。エルベ川の支流であるヴルタヴァ川が市内中心部を直角に折れるように流れている。モルダウというのがこの川のドイツ語名だ。2002年には記録的な豪雨で氾濫し、プラハをはじめ多くの都市が被害にあったという。  

 チェコは、1989年からの「ビロード革命」により共産党体制が崩壊し、さらに93年にはスロバキアとの分離で現在の共和国になった。2004年にはEUにも加盟したが未だユーロ導入にはいたっておらずチェコ・コルナ(Kc)が使われている。私が行ったときは1Kcが5.4円くらいだった。

 面積は北海道より少し狭い79千平方キロ、人口は1千万人少々、うちチェコ人が94%を占め他はスロバキア人、ドイツ人だ。もともとはカトリックの国だったが、今では60%近くが無信仰、2006年4月の在留邦人数は約1600人とのことである。(外務省HPより)言語は西スラブ語の一派であるチェコ語が公用語となっており、ポーランド語やスロバキア語との違いは方言の違いと言った程度のものだそうだ。

 古代にはケルト人、その後ゲルマン人の土地だったが6世紀頃からスラブ人が定住し、9世紀前半には大モラヴィア王国が建てられた。その後10世紀初のマジャール人侵入により東部、現在のスロバキアはハンガリーの支配下となり、西部、すなわち現在のチェコに相当するボヘミア、モラヴィア地方がボヘミア王国となった。ボヘミア王国は次第に強大になり国王は13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯にもなっている。この間カトリックが普及し、ドイツ人の植民も行われ、ドイツ化も進んだ。創業のプシェミスル家断絶後は、ドイツ人のルクセンブルク家による支配となりカレル1世が神聖ローマ皇帝に即位するなどボヘミア王国は全盛期を迎えた。

 その後は一時ハンガリー王国、そしてポーランド王国の支配を受けたりしたが、16世紀前半からはハプスブルク家のオーストリアの属領となった。わが国での戦国時代から明治にかけてである。産業革命の時代になるとこの地が石炭や鉄鉱石などの鉱物資源に恵まれていたこともあり、19世紀後半には中央ヨーロッパ有数の工業地帯となっていた。

 第1次世界大戦後のオーストリア・ハンガリー帝国崩壊に伴いチェコスロバキア共和国として独立したが第2次大戦ではドイツの勢力下になり、戦後はいわゆる東側、共産主義政権による「人民共和国」となった。しかしスターリン的抑圧に対する不満などから1968年の「プラハの春」事件など自由化・民主化の運動が起き89年の「ビロード革命」につながった。

 2005年の一人当たりGDPは11.7千米ドルと韓国と同じくらいだが経済成長率は年6%と堅調なようだ。チェコの音楽家から聞いた話だが、2000年頃1Kcが2.5円くらいだったのが2倍になってしまい、当時は良い仕事だった日本への出稼ぎが今はうまみがなくなったという。それだけチェコの国力が上がって来たということだろう。市場経済に移行し、後進地域だったスロバキアとの分離後は経済成長もプラスに転じるなど順調な成長を遂げ「チェコ経済の奇跡」とも呼ばれた。その後不振な年もあったが2000年以降はプラス成長となっている。特に欧州経済が低迷する中で、2005年の成長率6%というのは顕著である。それでも財政は赤字で、2004年5月にEU加盟を果たしたものの、ユーロ導入の条件をクリアするにはなお10年くらいはかかりそうとのことだ。なおEU加盟と同時に付加価値税率がEU基準に合わせるため5%から19%に引き上げられたそうだ。

観光で生きる千年の都プラハ

 プラハはこの間ずっとチェコの首都として、また中心都市としての位置づけは変わらなかった。また戦災にも合わなかったので歴史的な建造物が幾重にも重なるように残っている。古くは日本の平安後期から鎌倉時代に相当する11~13世紀のボヘミア王国前半の頃のロマネスク様式の聖堂や教会がある。

 その後室町時代にあたる14世紀には、ボヘミア王国の繁栄とともに当時のヨーロッパ最大の町になるとともに、ゴシック様式の建築物が多く建てられた。プラハ城内の中核となる聖ピート教会や旧市庁舎、カレル橋や橋門塔、火薬塔などがそうである。さらにハプスブルクの支配下になった16世紀にはイタリアから多くの建築家や建築労働者を招きルネッサンス様式の宮殿や新市庁舎が作られ、さらにその後にはバロック様式と続いた。

 「プラハの春音楽祭」のメイン会場となるドボルザーク・ホールがあるルドルフィヌムやスメタナ・ホールのあるプラハ市民会館、それに国立劇場などは18世紀後半からの古典主義、ロマン主義、アールヌーボーと続いた時代のものだ。プラハにはこれらの時代別の建物などがすべて重層的に残っていると言って良い。その意味では平安時代から始まって鎌倉や室町、安土桃山など各時代の建物が混在し、三条通りの赤レンガなど明治になってからの西洋建築も原型で残りアクセントを添えている京都と似ているとも言える。その京都とは姉妹都市関係にある。 1日目はカレル橋を渡り、小さなレストランで昼食兼夕食のような食事をした。ピルゼン・ビールが旨かった。さらにプラハ城に登り王宮前で衛兵交代の儀式などを見た。城から下がったところを走る路面電車は丘の上へ急坂を登って行く。旧市街広場に戻りまたピルゼン・ビールを飲む。乾燥した気候のせいか軽いピッチはのど越しに旨く、プラハにいる間はペットボトルの水代わりに多飲した。夜9時旧市庁舎のからくり時計を見ようと大勢の見物客と一緒に待ったがたいしたことはなかった。12時過ぎまで商店やレストランが開いていて賑やかだった。

 2日目は歩いてプラハ中央駅へ行き翌日のバイロイト行きの乗車券を購入した後、バーツラフ広場という大通り公園を通りカレル橋に出た。対岸の公園で行われていた写真展を見た後ケーブルカーで小地区と呼ばれるかつての要塞跡などを散策した。途中エッフェル塔を模したといわれる鉄塔があり高さは5~60メートルだったと思うが50Kc、約270円を払い螺旋階段を昇った。雲ひとつない好天だったので眺めは大変素晴らしく、プラハ市内だけでなくボヘミアの東西南北はもちろん、ことによるとウィーンやワルシャワまで見えるのではないかという錯覚を起こすほどだった。しかし塔は常に揺れていて、地震には縁のないところだとは聞いているもののあまり気持ちの良いものではなく長居はやめた。昇るときには気にならなかったが、下りるときは手すりなど簡単な作りだったので怖いという感じがした。

 丘の上の修道院の庭にある市街が一望できるレストランで昼食兼夕食の食事、その後昨日は開門時間が過ぎ見ることのできなかった聖ピート教会の中などをゆっくりと見て、ルドルフィヌム前のドボルザークの銅像の写真を撮ったりして、夜は又旧市街に戻りみやげなどの買物をした。プラハの中心街はとにかく観光一色で生活感といったものが感じられず、それはオフィス・ビルやマンションなど現在建築の建物が全くなかったことからかも知れない。

 現在この国の主要産業は機械工業や化学工業だが、プラハを見ている限りでは観光業のみで潤っていると言っても過言ではない。どこに行っても大変な数の観光客だし、カレル橋など人混みでなかなか思うように進めないほどだった。殆どが外国からの観光客だと思うので、ここでの外貨獲得は相当なものだろう。

モーツァルトと国民楽派

 チェコを代表する音楽家というと我々日本人にはスメタナ、ドボルザーク、ヤナーチェックがすぐ頭に浮かぶが、プラハの人にとってはモーツァルトこそプラハの人だと思っているらしい。モーツァルトは35年という短い生涯の間にヨーロッパ各地への旅を続けていたが、プラハには晩年になって3度来ている。1787年31歳のとき、直前に発表したオペラ「フィガロの結婚」がウィーンではそれほどの人気を博さなかったのに対しプラハでは大変な評判を呼んだ。今の大ヒット曲と同じようなもので、当事は「もう飛ぶまいぞこの蝶々」などその中のいくつかのメロディーは町の流行歌になり、人々は口笛を吹いて歩いたという。

 封建時代の特権階級の悪習を糾すというこのオペラのテーマが、当事はまだ権勢華やかだったハプスブルクのお膝もとウィーンでは正面きって受け入れらかったものを、16世紀以降オーストリアの属領となったプラハの人々は、或いはウィーンへのうっぷん晴らしのようなもので受け入れたのかも知れない。モーツァルトは交響曲第38番ニ長調「プラハ」の交響曲もここで初演している。プラハで作曲したわけではなく、プラハをイメージしたものでもないが初演地の名前をとったものだ。

 さらに新しいオペラの注文を受けプラハで作曲し初演したのが「ドン・ジョバンニ」でこれも大成功、モーツァルトが留まって作曲した家も郊外に残っているそうだ。どちらかといえば不遇なことの多かったモーツァルトの生涯の中で、プラハは居心地の良かった場所だったのかも知れず、だからプラハの人々もモーツァルトを、スラブ人とドイツ人の違いがあろうと、自分達の仲間と思っていたのだろう。 一方スメタナはモーツォルトの死後33年目の1824年に生まれ、そのスメタナが17歳の1841年にドボルザークが生まれ、ドボルザークが13歳の1854年にヤナーチェックが生まれている。スメタナ以降がいわゆるチェコの国民楽派とかボヘミア楽派と言われている。「プラハの春音楽祭」の開幕コンサートは、スメタナの連作交響詩「わが祖国」が定番だし、期間中もドボルザークの交響曲が演奏されないことはまずない。プラハ中央駅での構内放送の出だしのチャイムは「モルダウ」の有名な一節だ。だから現在のチェコ全体としてはシンボルとして、或いは国民の誇りとしてこれらの作曲家が尊敬されていることは間違いないのだが、どうもプラハの中心部ではモーツァルトの方が目立つ。

 町中に貼られたポスターや辻々に立つ若者の配るビラは殆どがモーツァルトの音楽会のもの、と言っても大半は観光客を相手にした小さな劇場やレストランでオペラのさわりを歌手と小さなオーケストラとで聞かせるものだ。生誕250年で世界中のモーツァルト・ブームに便乗しているのではとか、手っ取り早く稼ぐには国民楽派よりもモーツァルト、ということもあるのかも知れないが、それだけ人気があるということは地元の人だけでなく多くの観光客もモーツァルトとプラハの縁を知らないわけではないのだろう。

プラハの交通機関

 プラハの路面電車にはとうとう乗る機会がなかったが、市内を四通八達しており24時間営業でバスと共通の1回券や乗継券、1日券などがある。1回券が14Kc、1時間有効の乗継券が20Kc、1日券80Kcそれぞれを円換算すると75円、110円、430円くらいだからドイツやスイスの都市交通の半額以下である。

 地下鉄は3路線のうちの2路線に、それぞれ1駅区間だけだが乗車した。3日目、ホテルから中央駅まで、歩いても十分行ける距離だったがまずA線のムーステクからムゼウムへ、そこでC線に乗換え中央駅までの2区間、各々2分くらい乗車した。

 チェコ国鉄の駅としてはプラハには他に近距離路線用のマサリク駅があるが、今回は中央駅のみを利用した。駅舎はアールヌーボー風の風格のあるもので隣が国立オペラ劇場、さらにその隣に国立博物館がある。しかしカレル橋や旧市街広場などのある中心街と比べるといささか場末という感がしないでもなく、周辺の治安もあまり良くなさそうだ。段丘の途中にある駅なので乗客が多く出入りする正面からは高架駅に見える。地下鉄ホームから階段を昇ったところが1階で切符売り場や食堂、売店などがあり、エスカレーターで2階に上るとここも広いスペースで国外への切符を売る窓口がある。そして中央の通路を進むとそれがそのままホーム下の地下通路となり、両側の階段を上るとプラットホームという、日本では熱海や小樽といった感じか。プラットホームの上はドイツの主要駅のように大きなガラスのドーム屋根で覆われていたが、あまり手入れがされていないようで、それも含めて駅全体は暗く薄汚れた印象だった。

 チェコの鉄道は総延長約9500Km、そのうち約2800Kmが電化されている。現在運行速度を上げるための工事が各地で行なわれており、ベルリン、ウィーン、ブラチスラヴァ、ワルシャワ、ミュンヘン、リンツなどにつながる国際高速鉄道の整備が優先的に進められていると聞く。

 特にベルリンとウィーンを南北に結ぶちょうど半分の位置にあるのがプラハで、この南北の路線のチェコ国内部分が同国にとっての最も幹線と言える部分のようだ。チェコの鉄道網は19世紀後半にはほぼ今日の形になったそうだが、当事のハプスブルク家支配下での鉄道建設では、首都ウィーンと当時チェコの先進工業地帯とを結ぶ鉄道が最優先で作られたと聞く。

 ところでドボルザークが鉄道好きだったというのは結構知られている話だ。アメリカに行ってからはニューヨークのグランド・セントラル駅へ毎日のように出掛けては車両番号をメモするなど今日の鉄チャンまがいのことをしたり、弦楽四重奏曲「アメリカ」の終楽章は機関車の走行音を擬したものだという解説を読んだことがある。 ドボザークが生まれたのはプラハから北に30キロほどのネラホゼヴェスという小さな村だが、彼が4歳だった1845年にウィーンからプラハを経由してドレスデンへ行く鉄道が開通しこの村を通った。少年にとっては夢のような出来事で、一生の趣味になったのも頷ける。私もこの村に行って、家の近くを走る京成電車を毎日見に行っていた我が幼少期を振り返り、同じ鉄チャンながらその後大作曲家と凡庸な人生とに分けたものは何だったのかを考えて見れば良かったと思っている。

バイロイトへ

 プラハからは家内の友達の住むバイロイトへ行った。隣国ドイツのバイエルン州北部、チェコ国境からは50キロほどのリヒャルト・ワグナーの建てた祝祭劇場があることで、またそこで行われるバイロイト音楽祭で知られている町だ。ドイツの主要都市へは直通列車があるがバイロイトまで安く行こうとすると4つの列車を乗り継ぐ必要があった。

 まず中央駅10時15分発のR672という国内の急行列車に乗りチェコ最西端の国境の町、ヘブへ向かった。機関車に客車8両、うち荷物車と1等車が各1両、残り6両が2等車だった。想像していたのとは逆方向に向かって列車は走り出した。すなわち市内の東側を迂回し、ヴルタヴァ川を渡った後南西の方向に向かった。途中プルゼニまではミュンヘンやニュールンベルクに行く国際列車も走る区間で複線電化だった。プルゼニはチェコ語だがドイツ語ではピルゼンという。例のビールで有名なところで日本の高崎市が姉妹都市だそうだが、駅に入る直前のいくつかの工場の裏を走るような何となく雑然とした光景が高崎駅のそれに似てなくもなかった。

 その先は単線非電化区間となったが、複線化工事を行っており、そのために徐行運転が続いたり、信号待ちなどで遅れが大きくなった。途中の駅は、戦後当時のままと言っても良いのではと思うほどで、駅舎はあるものの満足なプラットホームなどなく、地面から直接乗降するものばかりだった。

 終点のヘブ到着は20分の遅れで、プラハから3時間45分の乗車だった。プラットホームと屋根のある本格的な駅で、ここにはドイツからの列車も乗り入れていた。到着した列車が遅れたので駅や町の観察ができないままドイツの列車に乗った。

 ドイツの鉄道は近年上下分離が進み、地方単位の中小私鉄が従来のDBの線路上を走っているが、ここもフォクトラント鉄道(VBG)という私鉄だ。2両連結で低床型の新しいスマートな車両は東京の通勤ラッシュ並みの大変な混雑だった。そして数キロ走って国境を越える頃、身動きできないほどの混雑をかき分けるようにまずチェコの国境管理官が、続いてドイツの管理官が前方からやって来た。大半の客は顔なじみなのか無視をして私の所に来てパスポートの提示を求めたが、どちらの管理官もそれを手にしても一瞥しただけでスタンプも押さずに返してくれた。そしてその後を追いかけるように若い女性車掌が来て私の切符を入念に見て、バイロイトまでまだ2つの乗換が残っていたのだが、各駅での待ち時間や番線について何も見ずにスラスラと、丁寧な英語で教えてくれた。髪の長い清楚なお嬢さんという感じの良い車掌だった。 その後はドイツのローカル線を車掌に言われた通りに乗り継ぎバイロイト中央駅に辿り着くことができた。ホームに降り立つと、進行方向の丘の上に祝祭劇場が見えた。駅には、家内の友達と、ドイツ人のご主人が出迎えに来ていた。

バイロイトの地理と歴史

 バイロイトはバイエルン州を構成する7つの地方のひとつ、オーバーフランケン地方の中心都市で人口は7.5万人、地方行政の中心であることから公務員が多く、また州立の大学があり学生だけでも9000人いる。ライン川の支流マイン川の源流に近く、周辺は小高い丘に森や畑、牧草地などドイツではどこでも見られる風景が続く。主な産業としてビールの醸造工場がたくさんある。

 古くは独立した領邦だったが、ナポレオンに協力したバイエルン王国の拡張時に併合され今に至っている。18世紀中ごろ、この地を治めていたプロイセン王の分家に当たるバイロイト辺境伯にプロイセンのフリードリヒ大王の姉であるウィルヘルミーネが嫁いできたが、当時としては格落ちの嫁入りであった。彼女はこの辺境の地をベルリンやパリと同じような、当時のヨーロッパのトップレベルの町にしようと、新宮殿や離宮(エルミタージュ)、オペラ劇場を次々に建てた。特にオペラ劇場は贅を尽くした豪華なものだが、舞台奥行きが27メートルと19世紀末まではヨーロッパ最大だったという。


祝祭劇場とバイロイト音楽祭

 作曲家のリャルト・ワグナーがこの劇場に注目しここで自作の演奏などを行ったが、十分満足せずやがて自分のオペラのための専用劇場を作ることになる。それが町の郊外の丘に1879年に建てた祝祭劇場である。当時のバイエルン国王ルートリッヒ2世が全面的に支援したもので、この国王はノイシュバンシュタイン城など豪華な城を次々に建て王国の財政を破綻させたことで知られている。第1回の音楽祭にはルートヴィヒ2世の他プロイセンや、当時帝国だったブラジル皇帝などの国賓やリスト、ブルックナー、チャイコフスキーなどの音楽家などが集まり「ニーベルングの指環」が演奏されたそうだ。今日に続くバイロイト音楽祭の始まりである。

 私がこの祝祭劇場に行ったのは、今年(2006年)の音楽祭が終わった1週間後で実に閑散としていた。町の中心街から見ると北の町はずれにあるDB(ドイツ鉄道)のバイロイト駅からさらに北へ、1キロほどのまっすぐな並木道をゆるやかに登った先の丘の上にある。駅のホームからも見ることができる。意外に地味な、シンプルな感じの建物だ。この劇場が使われるのは音楽祭の行われる夏の約1ヶ月だけだ。音楽祭期間中は、公演は夕方4時に始まり、幕間の休憩は1時間くらい取る。観客はほとんど正装で、男性はタキシード、女性は派手なドレスがほとんどで日本人女性などは着物姿もいるという。このような格好で、市内のホテルから劇場まで、大半は歩いて行くそうだが、雨の日などは大変だろう。

普通でない変わった劇場

 劇場内部の見学ツアーがあり、有料で1人3ユーロだったが参加してみた。ドイツ語の説明だったので何を言っているのかは全くわからなかったが、それでも客席、オーケストラピット、舞台上を目にすることができ、他の多くの劇場との違いを知ることができた。

 まず1481席あるという客席だが、音楽はどの席に座っても同じように聞こえるという。縦の通路というものがなく、50席くらいの横一列の座席が30列くらい、ぎっしりと並んでいて、観客は自分の列に応じた左右廊下の入口からしか出入りすることができない。中央の人は早くに入って先に座っていないと、後から入るのは大変だろう。

 とにかく音響効果を最大に狙っているとのことで、オペラ劇場につきものの彫刻やシャンデリアなどは一切なく、空調設備もなく、床や壁や天井は木製、椅子も木製でつい最近までは薄いマットすらなかったという。不燃化でないとか、縦の通路がないなど日本では消防法に抵触するに違いない、日本では絶対に真似することのできない構造である。

 オーケストラピットは舞台の下にあり、客先からはオーケストラはもちろん指揮者の姿も見えない。通常の舞台上で演奏を行うオーケストラの並びとは反対に、後段に行くほど低くなっており、木管楽器は弦の一段下に、金管楽器はさらに下がるという具合に、山の上の頂上にいる指揮者を見上げるようにして演奏をする。さらに面白いのはコンサートマスターと第一ヴァイオリンの位置が普通のオーケストラとは逆に指揮者から見て右手にあることだ。124人が収容でき大編成のオーケストラの演奏が可能だが、これらもワグナーが考えた演奏効果をねらったもので、大音響が直接客席に届くのではなく、舞台上の歌手の声と程よくブレンドされるようにしたということだそうだ。

 これでは微妙な時間差もあり合わせるのが難しいのではと思ったが、演奏時には2人の合唱指揮者が左右の舞台袖の中段に登り、舞台下の正指揮者の動きをテレビモニターで見ながら舞台に向かって電光指揮棒を使って指揮をするそうだ。1回の公演に要するスタッフは演奏者やその他裏方を合わせ700人から900人にも及ぶという。さまざまな電子機器が使える現在でもそうなのだから、この劇場ができた当時はどうやっていたのだろうか。電気照明が初めて導入されたのは1888年だったという。回り舞台でないのは舞台下がオーケストラピットだから無理なのだろう。

 尤もこの劇場はワグナーの、それもこの劇場用に作曲した「ニーベルングの指輪」などいわゆる楽劇といわれたもの以外は基本的には演奏されず、もちろん他の作曲家のオペラの演奏には全く向かないそうである。それでもこの音楽祭のために世界中から観客が集まり、切符は一部の招待客を除き、郵便による抽選で買えるそうだがそれに当たる確率やキャンセル待ちを考えると7年とか12年は待たなければならないというからたいしたものだ。 今はリヒャルト・ワグナーの孫にあたるウォルフガング・ワグナーが音楽祭の総監督になってすべてを仕切っている。この劇場は国や州や市から援助を受けつつもワグナー家の私有財産だったが1973年に公営化され「リヒャルト・ワグナー財団」が発足した。しかし総監督はワグナー家の当主による世襲が認められている。一度は観客として入ってみたい気はするものの、何年も待つほどの忍耐力もないし、着飾るものもないし、冷房のない中で何時間もじっと狭くて硬い席が耐えられないだろうと思うとまず実現しないだろう。

バイロイト市内めぐり

 市内にあるワグナーの住んでいた家、ヴァーンフリート館にも行って見た。ここもワグナー家からバイロイト市に寄贈され「リヒャルト・ワグナー博物館」として公開されている。波乱に富んだ生涯でヨーロッパの各地を転々とした彼が、再婚後の妻でありフランツ・リストの娘であったコジマと最後に住んだ家だ。前庭には彼のパトロンだったルードリッヒ2世の胸像があり、建物裏には旅行中にヴェニスで客死したワグナーの墓もあった。この墓はこの家を建てたときから準備していたものだそうだ。写真や直筆の譜面や文章などが多く展示されていたが、私には祝祭劇場のオーケストラピットの模型が面白かった。


 その他にもバイロイトには数々の見所があった。前述のウィルヘルムミーナの作ったオペラ座や新宮殿なども見事だが、郊外の離宮(エルミタージュ)も面白い。幾何学模様の広くて美しい庭園とバロック風の宮殿、大きな池にさまざまの形の噴水があり、夕方の5時に一斉に放水するのを見ることができた。

 一方このバイロイトにはビールの工場がたくさんある。現在ビールの醸造所は全ドイツで1268あるがそのうち約半数の641がバイエルン州にありさらにそのうちの202が上フランケン地方にある。だからこの地は世界一ビール醸造の集積地であるとのことだった。そのなかのひとつの工場がビール博物館を併設していた。世界最大のビール博物館としてギネスブックにも載っているそうだが、ここの説明もドイツ語だったのでまったくわからなかった。ツアーは無料だったが、最後に出されたビールが有料で日本のビール工場見学と違ってしっかりしていた。

 バイロイト大学は市の南郊外に広いキャンパスをもっている戦後にできたドイツでは比較的新しい、バイエルン州立の大学である。ドイツの大学の中でもドイツ語教育の研究では指導的な地位にあるそうだ。この町に日本人が20人くらい住んでいるそうだが、大半は研究員などこの大学の関係者だということだった。 市街地の中央にある市庁舎は予想に反して近代的な高層ビルで、いつ建てられたかは調べられなかったが築2~30年といったところだろう。空襲にも合わず古い町並みのなかで唯一とも言ってもいい、全く町並みにそぐわないもので、建て直しをしようという意見が何度も出るが、財政難でなかなか進まないとのことだった。旧庁舎の方は今はレストランになっていた。この店の前がバスターミナルになっていて、ここから前述のエルミタージュに行くバスが出ている。旧市街の中心部はバスなどの公共交通や指定された以外の車は乗り入れ禁止になっていた。

 バイロイトに2泊し、最終日には車で約80キロ南のニュールンベルクまでご主人の運転するベンツ送ってもらった。5分も走ると田園と牧場が続く風景になり、さらにアウトバーンに入ると時速150キロ走行になったが、少ない車と周囲の風景からとてもそんなスピードで走っているようには思えなかった。

 ニュールンベルクでナチスの党大会の行われた会場や鉄道博物館を見学した後、開業直後の高速鉄道を走る特急(ICE)でミュンヘンに行き2泊、鉄道でスイスに戻った。