著者プロフィール                

       
2019年暮の中国沿岸部旅行(上海航路と高速鉄道) 〜 海外地理紀行(その11)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

2019年暮の中国沿岸部旅行(上海航路と高速鉄道) 〜 海外地理紀行(その11)

 12月中旬から2週間、上海から福建省にかけて中国を旅行した。コロナが中国の武漢で発生したというニュースに接した、ちょうどそのころである。しかしこの時は、ローカルな話に過ぎないだろうと心配はしていなかったし、途中の行程でも、コロナを理由に何らかの制約を受けるようなことはなかった。

 香港を除く中国へは、上海及びその周辺へ2000年から6回行っている。そのうち最近の4回は、2014年から2020年までの7年間、蘇州市に赴任していた息子一家への訪問だった。その一家も今年(2021年)4月に日本に戻ったので、もう中国に行く機会はないかと思う。そこで最後の旅となりそうな2019年の旅を中心に、今の中国の状況についてまとめることにした。この20年間の中国の変貌には目を見張るものがあり、それこそ行く度ごとに驚かされたものだった。

 上海にはいろいろな行き方をしていたがいずれも飛行機だった。以前から一度は船で行って見たいと思っていたことが、最後になって実現した。また高速鉄道に9時間乗り続けるという体験もした。2年ぶりの中国は、キャッシュレス化がさらに進み、また交通マナーの向上をはじめとする治安や清潔さもさらに良くなったという感じがした。



憧れの上海航路

 日本から上海に行く船は、上海フェリー(株)の「蘇州号」と日中国際フェリー(株)の「新鑑真」がある。どちらも中国の企業であり、関西を昼頃に出て船内で2泊し、3日目の昼頃上海に到着する。前者が金曜日に大阪港を出て帰りは火曜日に上海を出る。後者が火曜日に出て土曜日に上海を出るが、1週ごとに日本側の港が大阪と神戸のどちらかになる。今回は前後の日程の都合で、後者の「新鑑真」に神戸港から乗船した。

 神戸ポートアイランドにあるホテルに前泊し、翌朝ポートターミナルに向かった。横浜の大さん橋のような突堤なのだが、横浜と違うところは、神戸にはこの先に日本最大の人工島であるポートアイランドがあり、そこへ行くための道路やポートライナーが走っていてその通路を兼ねていることだ。 高架上のポートライナーの駅を降りるとそこがターミナルの玄関口だが、そこはターミナルビルの3階で、新鑑真のチェックインはエスカレーターを降りて1階に行くよう案内が出ていた。多分大型クルーズ船のための施設なのだろう、やたらに広くどのフロアもガランとしていた。


 1階に降りると、日中フェリー社のチェックインカウンターがあり、その横に並べた机の前に6名の税関職員が立っていた。何か調べられるのかと思ったらそのまま進んで良いと言われた。その後中国人客が来るとパスポートを入念に調べていたりしたので日本人はフリーパスにしているようだ。さらにもう一つの机では検温担当者がいて、こちらはおでこに懐中電灯のようなものを当てられただけだったが、担当者は中国人のようで無言のゼスチャーで先に進めと指示された。

 出港1時間前の10時になると、出国手続を開始、日本人用のブースが2つあるものの通過者はポツンポツンと来るだけだ。長い通路を進んで乗船した。エントランスから螺旋階段を2フロア上ったところに予約した特別室があり、荷物は船員が運んでくれた。特別室はシャワーとトイレつき、ベッドが2つにソファーもありビジネスホテルよりは広い。アメニティグッズやお茶の用意もある。



 乗客は全部で30人もいなかったようだ。大きな船で定員は345人と書いてあったから1割も乗っていない。日本人は10人もいなかったと思う。特別室の神戸上海間船賃は2人で8万円だがキャンペーンとかで5.2万円だった。飛行機代やホテル2泊分を考えると高くない。この下のクラスだと1等が1人2.5万円、2等が2万円でどちらも2段ベッドだが多少居住性が違うようだ。なお2等には懐かしい雑魚寝部屋もあり離島行きなどで良く利用したものだ。なお特別室のさらに上には1人10万円の貴賓室というのが2室あった。船はフェリーになっているが、一般の人がマイカーを載せることはできない。

 船は定刻の11時より20分も早く出港した。中国各地を通りベトナムまで自転車で行くという若い日本人男女のペアがいて、それを見送る20人くらいの人がいただけで寂しい出港風景だった。小笠原など島中の人全部が来たのではないかと思うような賑やかな出港風景と比べると随分違う。

 約1時間後に明石海峡大橋、4時間後に備讃瀬戸大橋の下を通った。曇天で遠くは見えないが、それでも大小の島々の輪郭が見える。5時間後の16時30分ごろ、左舷にかつて市町村村役場巡りで船を乗り継いで行った魚島の集落の建物群が見えた。しまなみ海道の来島大橋をくぐったのはその1時間後だった。船の航行速度は21ノットとあったので、時速に換算すると約40Kmだから結構速い。これに潮の流れが加減されるのだが、山陽本線や予讃線のローカル列車で行くのと変わらないような気がした。

 船は朝食付きだがそれ以外は有料だ。昼は乗船前にコンビニで買っておいたおにぎりで済ませたが、夕食にはレストランに行ってみた。5~60人は入れそうで広く、メニューも中華料理中心で多彩だ。乗客の大半は自販機のカップラーメンなどで済ませているようで、レストランを利用しいているのは10人にも満たないようだったが、メニューにあるものは何でもできるという。1皿500円前後だったが美味しかった。客が少ないのにそれだけのメニューを賄える食材を積んでいるのだからたいしたものだ。なお船内の売店やレストラン、バーはすべて日本円で払うようになっている。また国際航路なので、アルコール税がかからず缶ビール350mlが150円、500mlが200円、缶ジュースよりも安い。そのほか船内にはPCの並ぶゲーム室、卓球室、麻雀室があり、時々覗いてみたが、いつ行っても誰も利用していなかった。



 早めに床についたが24時ころになって急に船が横揺れし始めた。関門海峡から玄界灘に入ったようだ。でもどちらかというとハンモックに揺られているようで心地よく、そのまま眠りについた。翌朝も横揺れは続いており、廊下や階段をふらつきながら階下のレストランに行き、粥と肉まんの朝食をとった。船の中心軸のあたりの席に座れば揺れは大きく感じられず結構食べられた。外は雨だったので午前中はデッキに出ることもなく部屋のベッドに横たわっていた。

 どこを航行しているかはスマホの地図で知ることができる。昼前に済州島の南10Kmくらいのところを通過した。この時だけは晴れ上がっていて海岸に面した市街地も良く見えた。意外に大きな島で端から端まで2時間要した。島に近いせいかこの間だけは海も比較的凪いでいて揺れも少なかった。それでも近くにいる小さな漁船はシーソーのように前後に大きく揺れている。

 かつての遣隋使や遣唐使の船は、この漁船くらいの大きさかそれ以下ではなかったのかと思う。もちろん海の荒れない季節を選んでの航海だったとは思うが、台風など海の気候は変わりやすい。当時の人たちの苦労は半端なものではなく、それでも行こうとした使命感や知識欲、勇気には感心させられる。

 済州島から離れるとまた揺れが激しくなってきて、部屋で寝ている以外にすることはなかった。酔い止めの薬が効いているためか、ベッドに横になると船の揺れが結構心地よくすぐに眠りに陥り、夕食の案内放送で目が覚めた。揺れの少ない席がわかったので、普通にビールで夕食をとり、そして何もすることがないのでまた早めに床に就いた。

 3日目、早朝5時頃目を覚ますと、船は全く揺れていない。外は暗いが近くに見える明かりは陸地のもので、もう中国大陸に着いているようだった。昨夜23時に日本時間から中国時間に変えるとの船内放送があったので腕時計を1時間遅らせた。中国時間ではまだ4時だ。6時に再度目を覚ますと船は浦東空港のすぐ沖にいて離発着する飛行機が見えた。

 昨日と同じような朝食を食べ終わったころには船は揚子江に入っていたようだ。とにかく川幅が広いのでそれがわかったのはかなり進んでからだった。クリームコーヒーのような色の揚子江から支流の黄浦川に入る手前で半時間ほど停船し、ゆっくりと川に入った。まだ朝の8時である。たくさんの大小の船が往復する中、軍の施設や大小の工場群を両岸に見ながら船はゆっくりと進む。河口近くには3本の煙突から煙を大量に出している大きな石炭火力発電所があったが、少し上流にも大型発電所があり、こちらはLNGなのか煙はほとんど出ていなかった。

 そして林立するコンテナ荷役の大型クレーンを横目に国際客埠頭に着いた。上海の代表的観光スポットであるバンド(外灘)のすぐ手前、北外灘と呼ばれるエリアにあり、大型のペデストリアンデッキもあり楽に下船できるのかと思ったら、それは大型クルーズ船用のものらしく、急な階段を降りなければならなかった。そして数百メートル離れたところにあるターミナルビルまでバスに乗せられ、ここも閑散としたやたらに広いところで入国手続きを済ませた。麻薬探知犬の出迎えも受けた。

 国際客埠頭というのは、空港などに比べると市街中心の、東京で言えば竹芝桟橋か隅田川のクルーズ船の浅草乗場、といった感じのところにある。ターミナルビルを出ると、そこは繁華街で、目の前に銀行があったので、行員の助けを借りながらATMでVISAカードを使って500元(約8000円)を引き出し、タクシーで予約していておいたホテルに向かった。キャシュレス化の予想外の進展で心配していたタクシー乗車だったが、現金が使えた。タクシーは相変わらず安かった。30分近く走って700円くらいだった。

上海から蘇州へ

 旧フランス租界にあるホテルに一泊した翌朝、周辺を散策したのち高鐵(中国の新幹線)の上海駅ともいえる虹橋駅へタクシーで向かった。ここには国内線や近距離国際線用の虹橋飛行場が隣接しており、東京で言えば羽田空港敷地内に東京駅の新幹線ホームが移転してきたようなものだ。上海に来たのは6度目だが、高速道路を走るタクシーなど多くの車は、以前は我先にとクラクションを鳴らし続けていたのが、今は全く鳴らさず静かな、そして丁寧な運転になっていた。

 それ以外にもさらに進んでいることがあった。前回は高鐵に乗るのに、駅の切符販売窓口に並び、予めとっておいた予約番号とパスポートを見せ乗車券に交換したが、今回はその情報はサーバーのみで管理されており、改札口でパスポートをスキャンするだけで乗れた。中国人客は、スマホや自分で印刷したものをスキャンさせて乗っている。ヨーロッパで車掌が検札時にスキャンしているのと同じだ。日本でもJR東海がスマートEXという、パソコンで予約して改札口では交通系ICカードをタッチするだけで乗れる方法をはじめたが、それよりも進んでいるのではないだろうか、いやそれよりも日本では全国同じ仕組みになっていないことの方が問題だと思う。

 虹橋駅から高鐵に30分ほど乗って、上海から80Kmほどの蘇州へ、そして地下鉄を2線乗り継いで、蘇州楽園というところにある息子家族の住むマンションに行った。2年ぶりの蘇州だったがこの間に、地下鉄の新線(4号線)が開業して1号線、2号線と合わせ3線になっており、さらに3号線が開業準備中で、こちらは蘇州を離れた数日後に開業した。前回は52Kmだった地下鉄も2年間で150Kmになっていた。このほかにここ蘇州楽園を起点とするトラム1号線も、終点竜康路から太湖のほとりの西洋山というところまで延伸していたほか、新たに2号線も開業していた。

 蘇州夜曲や東洋のベニスなど観光都市として知られている蘇州市は、外資系の工場が多く急激に近代化した都市でもある。香川県よりも少し狭い面積の市だが人口は5百万を超え、ハイテク産業を誘致するためのニュータウンを郊外にいくつも建設しており、市の西部郊外が高新区(High technicalという意味だそうだ)であり、蘇州楽園がその中心のようだ。蘇州駅を東京駅とすると位置的には池袋あたりに相当するだろうか、新宿バスタよりも大きいバスセンターもあり中国各地への長距離バスが発着していた。周辺には後楽園のような都心型遊園地や、オフィスビル、ショッピングセンターがあり、日航ホテルもここにある。

蘇州から厦門へ

 蘇州に3泊し、厦門に向かった。利用したのは高鐵D3123列車で、南京を6:37に出て上海からはずっと海岸に沿って走ること14時間、1929キロ先の深圳に20:34に着く、評定速度143キロのものだ。中国の列車で一番速いのはGではじまる高速動車組列車で、最高時速が300~350Km/H、そしてDではじまるのが動車組列車といい、最高時速が160~250Km/Hでこれに蘇州から厦門北まで乗った。途中杭州までの間、上海虹橋を含め5つの駅に停車したがこのうち3つの駅で後続列車に追い抜かれ、そのうちの1駅では2本に追い抜かれるという「こだま」のような列車だった。

 杭州から先は、追い越されることはなかったが、寧波(ニンポウ)では10分停車するなど相変わらずゆったりした走りだった。ごく一部に在来線を改造したらしいところがあったがほとんどが高速新線で、こんな地方にまで良くこんな新線を建設したものだと思う。駅もすべて新築したもので、昔の駅舎を残しているところなどはひとつもないようだった。



 福建省に入ってからは入り組んだ海岸線に沿って走る。と言っても海岸線を忠実に辿るのではなく、直線の長いトンネルが続き、時々大きく入り込んだ入江や幅広い川を長い鉄橋で渡る。そのときはちょうど東海道新幹線の浜名湖あたりの風景に似ていて、広い水面とウナギの養殖場と思われるものが海側とは反対側の窓に見える。浜名湖と違うところは、その先の山の麓のようなところに30~40階建てくらいの高層マンションがずっと並んで見えていることだ。

 1842年、アヘン戦争終結後の南京条約で、香港がイギリスに割譲され、新たに上海、寧波、福州、厦門、広州の5港を開港した。それらの地には西洋人が居住した。そこには租界ができ、西洋的な建物などが建ち特異な発達を遂げた。今回の列車は広州を除きそれらの開港地を結んでいた。福州は福建省の省都で人口500万人、郊外を含めれば750万人で、高鐵も市街地をぐるりと取り囲むように走るので景色を期待していたら、ほとんどが丘陵内をトンネルで走り、街はずれの高鐵用に作った巨大な福州南駅に停まった。

 長いトンネルを抜ける度に、今度こそ田舎の鄙びた風景になるのかと期待していたが、どこまで行っても高層マンションが続いていた。10年くらい前、香港・広州間の広東省内の列車内から見た風景もそうだったが、中国の沿岸部では鉄道路線が続く限りマンションが見えないところはない、と言っても過言ではないようだ。人口14億の風景とはこういうものなのだろうか。

 泉州は、明の時代は、国を代表する貿易港で鄭和(ていわ)艦隊の大航海の拠点だったが1602年に震度7クラスの大地震に見舞われ壊滅的な被害を受け、その後貿易の中心は厦門に移ったそうだ。

厦門市について

 蘇州から8時間50分乗って厦門北駅に着いた。ガイドの王さんの出迎えを受け、専用のワゴン車でホテルに向かった。廈門市(英語: Xiamen)は、中国では省と同格の直轄市である北京、上海、天津、重慶の4市に次ぐ副省級市であり、深圳、大連、青島、寧波とともに省都ではない主要な市であり経済特区でもある。市長の格も省都である福州市よりも上とのことだ。

 市の中心部は本土から離れた厦門島にある。東西13Km、南北18Km、山手線内側の2倍くらいの面積の島で、本土からはいずれも長さ1~2キロの3本の橋と1本の海底トンネルで結ばれており、また鉄道と地下鉄もそれぞれの橋で結ばれている。厦門市全体の面積は厦門島の10倍くらいで総人口は約400万人、このうち約250万人が島内に住んでいる。日本人も最盛期には3000人くらい住んでいたが、今は1000人くらいとのことでこれらはガイドから聞いた数字である。ガイドの王さんは日本語も堪能で、歴史や地理に詳しく、年号などもスラスラ言えていた。台湾とほぼ同緯度なので暖かく、主要道路の歩道との境や中央分離帯はずっとブーゲンビリアの花壇が続きリッチな南国に来たという感じがした。

土楼見物

 翌日は、専用車で160キロほど内陸に入ったところにある土楼を見に行った。市中心部のホテル近くから都市高速道路に入ると、そのまま海上を渡る道路となり、間もなく料金所があり片側3車線の高速道路に入った。瀋海高速道路と言って、旧満州の遼寧省瀋陽と海南省海口を結ぶ全長3.7千キロのものだ。そして途中から一般道に入り乗車後2時間少々で茶畑の広がるなかの村落に着いた。厦門市に隣接する人口400万人の漳州(しょうしゅう)市の郊外華安県内で、近くに鉄道も走っていたが、今は貨物専用とのことだった。観光バスが多かったが、中国人観光客ばかりで、西洋人や日本人の姿はあまり見なかった。

 土楼とは、中国客家が集団生活するための共同住宅で福建省に多い。そこで見たものは、直径が50メートルくらいのドームのような円形のもので、中庭を共有する4階建てのアパートのようなものだ。200年くらい前に建ったもので、1番多い時で300人くらいが住んでいたが、今でも100人ほどが実際に生活していた。すべてが1組の夫婦から始まる大家族だそうだ。近くにこれよりも少し小規模なものがあったが、それは孫の一人が建て、その一族が住んでいるとのこと。生活の共同化と、集団での防衛の目的で造られているもので、ユネスコの世界遺産にも登録されている。福建省には、円形だけではなく方形のものも含めて2万近くの土楼があるとのことだった。

 なお客家とは、福建省、広東省、江西省の山岳地帯に住む漢民族の中の1グループで、古代に戦乱で追われた王朝の末裔と言われている。香港、台湾、東南アジアへ多くが移住し、華僑には客家出身者が多い。それぞれの地で著名な政治家や企業家になった者が多く、太平天国のリーダー洪秀全、孫文、鄧小平、海外ではシンガポール首相だったリー・クァンユー,台湾の李登輝も客家である。

鼓浪嶼(コロンス)島見物

 さらに翌日は鼓浪嶼(コロンス)島に渡った。直径1.5Kmくらいのほぼ円形の島で、厦門島とは1Kmくらいしか離れていない。かつて島全体が日本を含む西欧列強の共同租界となり、各国の領事館が置かれていた。また海外で財をなした華僑の別荘もあり、それらを含め西洋風の豪邸が並び、ここも世界遺産に登録されている。華僑の別荘跡の一つがピアノ博物館になっている。この島に渡る船は、観光客用のものと市民用のものがあり、乗下船する港もしっかりと分かれていた。

 岬に鄭成功(てい せいこう)の灯台のような巨大な石造が立っていた。 中国の海賊だったと言われている父と日本人の母を持ち九州平戸に生まれた軍人かつ政治家であり、明の末期、清に滅ぼされたときに最後まで抵抗した英雄として国姓爺とも呼ばれている。漢民族にとっては、孫文、蔣介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されているそうだ。

地下鉄と中鉄

 島から戻り、専用車で華僑博物館や厦門大学に行った後、地下鉄に乗ってみた。島の最南端のコロンス島への市民用桟橋の近くから北上し、海を渡って本土側、厦門北駅の先まで行く1号線で、30.3Kmの間に24駅がある。中国でただひとつの海を渡る地下鉄を謳っていた。

 一応最南端の鎮海路という駅から海を渡った集美学村というところまで乗った。島内はずっと地下だったが、海上部分で橋を渡った。中鉄の橋のすぐ横を並行するような、1Km以上はあると思われる長い橋だった。海上はずっと浅瀬で、干潮時は歩いても渡れるのではないかと思ったほどだ。

 すぐに引き返し、ホテル最寄りの呂歴で下車したが、この駅は数日後に開業する2号線と交差する駅で、乗り換え通路など完全に出来上がっていた。この2号線は主として東西方向に走るもので、西の方で海底トンネルを経て本土まで行く。

 そして最終日には中鉄の厦門駅にも行ってみた。日本の新幹線に相当する「高鐵」に対し、在来線に相当する旧来の鉄道を中国では「中鉄」と呼んでいる。しかし日本と違ってどちらも軌道幅が同じなので、相互に乗り入れることができる。中鉄は長い橋を渡って厦門島の中心地域まで入っていたが、高鐵の駅は本土側の厦門東駅である。

 中鉄の厦門駅は、地下鉄とは接続していないが、最も近いと思われる湖浜中路駅から1Kmほど歩いたところにあった。大きな駅舎だったが、他の中国の駅同様乗車券がないと入場できず終端駅であるはずの構内を見ることはできなかった。それよりも駅前広場をまたぐ高架線があり、高架駅もあったがそれはBRT( bus rapid transitバス高速輸送システム)のもので、連接車を含むバスが頻繁に走っていた。市内をくまなく走る通常の路線バスとは違って、専用道や高速道路を走り、1号線から6号線までの6つの路線があり、空港や北厦門駅などに行くための快速サービスを担ってもいるようである。

おわりに

 最終日は厦門空港から成田へのANA機で帰国した。帰国後間もなく新型コロナウィルスが武漢で発生し、WHO(世界保健機関)が国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態であると宣言した。中国は武漢市への出入りを禁止し、市内の交通機関を全面停止するなどの非常措置を取り、それを他都市に広げるとともに、中国全土の交通を制限し始めた。だから中国の旅ができたのは本当にギリギリのところだった。

 中国では航空や鉄道を利用するときはもちろんだが、地下鉄も同様である。改札口に入る手前で必ずX線による手荷物チェックがある。現在の中国には約40の都市に地下鉄があり、駅数にすれば軽く千を超えるだろう。これだけの駅に、チェックのための設備と要員を常に張り付けているのだから、コロナによる都市封鎖とか旅行の制限などは簡単にできるはずだ。

 振り返って日本の場合、このような施策を行おうとしてもその是非について議論百出でなかなか決められないだろうし、封鎖するための設備も人員もないからここまではとてもできないだろう。

 冒頭にも述べたように、中国の近年の経済成長は驚くほどである。日本の新幹線が50年かけてやっと2.5千キロなのに、中国の高速鉄道は半分の25年間でその10倍の2.5万キロに達した。地下鉄も恐らく同様の期間と実績だろう。新幹線ひとつをとっても、その必要性の是非の議論に始まって土地収用に長い年月を要する日本に比べて、その期間がほとんどない中国とでは圧倒的に差がつくのは当然だろう。

 そのような現実から、効率とか非常時の対応などを考えると、今の中国のような体制のほうが、人権を重んじ万事自由で平等だが物事がなかなか進まない日本より良いという考えがあるだろう。でも本当にどちらが良いのかを判断するのは、非常に難しいことだと思う。                            

(2021.12.22記)