著者プロフィール                

       
2014年12月 プロヴァンス鉄道の旅 〜 海外地理紀行(その10)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会

2014年12月 プロヴァンス鉄道の旅 〜 海外地理紀行(その10)

海外地理紀行 【全15回】 公開日
(その1)ジブラルタル紀行|公開日は(旅行日(済)) 2001年8月1日
(その2)スイスルツェルン駅の一日|公開日は(旅行日(済)) 2003年3月1日
(その3)ベルリンの壁その前後|公開日は(旅行日(済)) 2003年11月1日
(その4)プラハとバイロイト|公開日は(旅行日(済)) 2006年9月4日
(その5)2009年の香港と広州|公開日は(旅行日(済)) 2009年3月11日
(その6)デンマークの2つの世界一|公開日は(旅行日(済)) 2010年2月1日
(その7)2014年10月 ミャンマーの旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年10月15日
(その8)地理的ー曲目解説 チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」|公開日は(旅行日(済)) 2005年2月1日
(その9)2015年10月インド鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) 2015年10月17日
(その10)2014年12月 プロヴァンス鉄道の旅|公開日は(旅行日(済)) 2014年12月1日
(その11)2019年暮の中国沿岸部旅行(上海航路と高速鉄道)|公開日は(旅行日(済)) 2019年12月1日
(その12)リフレッシュ休暇 カナダ東部への旅|公開日は(旅行日(済)) 1993年7月21日
(その13)2023年スペインの歴史を知った旅|公開日は(旅行日(済)) 2023年5月25日

 この年は喪中でもあったので、年末から正月にかけてスイスのルツェルンに住む娘の家で過ごした。その間に家内と娘と孫との4人でフランスのプロヴァンス地方へ行った。ルツェルンから2時間45分快速列車に乗り、スイス最西端、フランスと国境を接するジュネーブまで行き、ここからフランス南部への旅を始めた。

 フランスという国は、ドイツのような地方分権の進んだ国とは違い、日本と同じような中央集権でパリ一極集中、何事も縦割りで官僚的、停滞が続き勢いに欠く国なのでは、と何の根拠もなく勝手に思っていたのだが、行ってみて日本よりもかなり先を行っているような印象を受けた。

 フランスは面積では日本の1.7倍ほどだが、人口は約半分だ。ただしフランスでは今でも太平洋上の島々など世界各地に海外領土があり、これらを除いたコルシカ島を含むヨーロッパ本土だけだと日本の1.4倍弱だ。しかしこの海外領土があるおかげで、領海及び沿岸200海里の排他的経済水域(EEZ)を含む面積の広さでは、日本が世界の9位であるよりも上位の6位である。フランスは海洋国でもある。

 フランスには約100の県があるが、1964年に22の地域圏(région レジオン)にまとめられ、2016年にはさらに16地域圏に集約される。そのうちヨーロッパ本土内は12だそうだが、地方政府というようなものができ、かなり分権化されているようだ。地域圏の下には県があり、その下には市町村に相当するミューンがある。

 日本でも道州制の議論が、起きたり消えたりしているが、いつも県の組み合わせの話だけでその先が進まない。組み合わせよりも、地方政府の役割をきちんと決めることが先のはずだ。組み合わせなどその後で考えればよいことで、その点で統合を2段階に分けて進めたというフランスの進め方は賢明だったのではないだろうか。

 フランスの鉄道は日本とほぼ同じで約27千キロだそうだが、一部の例外を除いては線路や施設などのインフラ部分はフランス鉄道線路事業公社 (RFF) が保有し、列車の運行は国鉄(SNCF)が行うという上下分離となっている。これはEUで標準的な方式である。

 列車種別としてはフランスの新幹線とでもいうべきTGVがパリを中心に各方面に走っている。これは日本の新幹線の成功を見て始めたそうだが、高速走行可能な専用車両で多くは高速新線上を走る。ただし日本違うところは、在来線も線路幅が同じなので、相互の乗り入れを盛んに行っている。

 在来線を走るものとしては、フランス版インターシティともいうべきアンテルシテ(Intercités)などの他、地域輸送として地域圏急行列車(テー・ウー・エル、TER)がある。これは、原則として地域圏内のみを走るものだが前述の分権化に伴い、地域ごとに独特な運行方式をとっている。高速新線に乗り入れているものもある。この他にローカル列車が地域ごとに走っている。今回はTGVやTERに何回か乗車した。

ジュネーブからリヨンを経由しアヴィニョンへ

 ジュネーブの中央駅に相当するのはジュネーブ・コルナバン駅であり、この他にジュネーブ空港駅がある。国境の駅なので、1~5番線がスイス国鉄(SBB)用で、第3ホームの両側6,7番がフランス国鉄用である。地下通路からこのホームに行くには、途中入出国管理施設を通らなければならないが、係員はおらずフリーパスだった。

 このホームからリヨンに向かうTERに乗ったが25分ほど走ったベルガルド駅という駅で運行打ち切りとなった。娘も孫もドイツ語圏に住んでいるのでフランス語は良くわからない。この駅は、ジュネーブからリヨンに行く路線とパリに行く路線の分岐駅でTGVも停まる。扇形で両方向に分岐するホームの間に駅舎のある、外房線の大網のような駅である。

 案内表示で次にリヨンに行く列車は2時間後だということがわかったので、市内を歩いた。ローヌ川に支流のヴァルスリーヌ川が合流する地点にある谷底の町であるが、古くから交通の要衝だったようで、古い町並みが残る静かな佇まいの町だった。なおジュネーブからここベルガルトまでは、ローカルの各停電車が30分ごとに走っているところをみると、この町までは国境をまたぐがジュネーブの郊外とも言えるようだ。

 やっとリヨンに行くTERが来た。1時間半近くかけリヨン・パールデュー駅(Gare de Lyon-Part-Dieu)に着いた。リヨン市の人口は50万人ほどでバリ、マルセイユに続いてフランスでは3位だが、都市圏人口は179万でマルセイユのそれよりは多く、実質的にはフランス第2の都市と言える。

 パールデュー駅がリヨンの中央駅という位置づけだが、TGV線路は郊外を通り、駅としてはリヨン・サン=テグジュペリTGV駅(Gare de Saint-Exupéry TGV)である。この駅は市中心部からは20Kmくらい離れており、リヨン国際空港に隣接している。第2の都市ということで大阪に例えると、新大阪駅が伊丹空港の場所にあるようなものだ。しかし在来線への乗り入れが可能なのでのTGVの多くの列車は新大阪ではなく、大阪駅に直接乗り入れる。これはリヨンに限らずフランスのみならずドイツなどヨーロッパの大都市で多い。在来線と新幹線でレール幅が異なる日本では残念ながらできないことである。

 なお、リヨン駅という名前はリヨン市内にはなく、パリにあるターミナルのひとつとしてある。パリ市内でリヨン方面に行く列車の始発駅という意味であり、このような名前の付け方はモスクワにあるそうだ。

 リヨン・パールデュー駅はホームが6本、11番線まであり、それを結ぶ地下道には物販店や飲食店が並び大勢の人で混みあっていていた。

 25分ほど待ってTGVに乗り、アヴィニョンに向かった。2階建て10両編成のものが2本繋がった総定員1032名という大輸送力の列車だったが、車両もほぼ満席だった。パリを17時台に出てアビニヨンに20時台に着くという、最もラッシュ時だからなのか。それでも東海道新幹線のN700系16両編成の乗車定員は1,323名だそうだからこれには及ばない。またラッシュ時本数もパリ・リヨン間が1時間に3~4本なのに対し東海道は「のぞみ」だけで10本というから、輸送力も輸送量も日本の比ではない。

 10両編成といっても、編成の両端2両が動力車、すなわち電気機関車で中間の8両が付随客車であり、かつ連接台車構造である。いわゆる動力集中方式、すなわち客車列車方式であり、フランスは日本やドイツのような動力分散方式、すなわち電車方式に比べて高スピードが出しやすいと主張しているようだが、実際は甲乙つけがたいと思う。ただし客車方式の方が乗客にとって音が静かなことは間違いない。日本の新幹線のようなモーター音は全くせず、もちろんロングレールであることから高速走行していても全く静かである。

 フランスでは遅れることが普通なのか、この列車も10分くらい遅れて来たが、アヴィニョンまではノンストップで丁度1時間だった。所定では1時間10分なのでかなり飛ばしたようだ。アヴィニョンTGV駅(Gare d’Avignon TGV)に着いた。この駅も市中心部から離れているが、在来線のアヴィニョン中央駅との間は2キロほどの連絡線があり1時間に1本程度電車が走っている。

 自分1人のときは連絡電車に乗るのだが、家族連れで夜も遅かったので、タクシーで旧市内のホテルに向かった。15分、3,200円くらいだった。

アヴィニョンとその郊外

 アヴィニョンは、プロヴァンス・アルプ・コート・ダジュール地域圏の中にあるヴォクリューズ県の県庁所在地で人口は8万人ほどである。小さな町だが「アヴィニョンの橋の上で輪になって踊ろう」という童謡で知られている。またローマ法王が1309年から7代69年間にわたってここに滞在しておりその期間が実質的に「キリスト教の首都」だったこともある。旧市街は城壁で囲まれ、その正面入口の外側ともいうべきところにアヴィニョン中央駅がある。泊まったホテルは旧市街の中の迷路のような狭い道に面していた。一般車両乗り入れ禁止のポールが立っており、タクシーは専用カードを装置にかざすとポールが下がり進入した。

 翌朝は市内見物をした。まず法王の宮殿に行った。そこには古い大きな建物がいくつか並んでおり、大司教館は美術館となっていた。当時の建築が数多く残り、そのあたりの地区はアヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録されている。法王がいた間がアヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)と言われているが、つかまっていやいや行かされたのではなく、自分から行ったのになぜ捕囚と言われているのかわからない。また法王と教皇との違いもわからない。いつか勉強をしようと思っている。

 宮殿の裏にはローヌ河が流れている。そしてここに件の「アヴィニョンの橋」が架かっていた。架かっていたというのは過去の話で、今は川幅の五分の一くらいのところまで伸びている桟橋という感じだ。正式な名前は「サン・ベネゼ橋」と言い、12世紀後半に造られた22連アーチの石橋だったが、ローヌ川の度重なる氾濫により何度も橋が崩壊、そのたびに修復していたが17世紀にはそれも断念し、22あった橋脚のうち、現在は4つのみが残っている。また橋の幅も狭くとても「輪になって踊る」ことなどできない。今は観光用にお金を払って先端まで行くことができるが、ばかばかしい感じがして行かなかった。かなり老朽化しているようだが、観光客が歩ける程度の補修は今も続けているのだろう。

 なおローヌ河であるが、この橋が架かっている部分はかつての本流で、今はさらに郊外にある並行して流れている放水路の方が実質的な本流になっている。ライン河やドナウ河では、貨物船が続々と運行していたが、ローヌ河でもそれがあると思うのだが、少なくとも旧の方には全くなかった。

 さらに旧市内を歩き市庁舎前などにも行ったが、ヨーロッパの町ならばどこにでもあるような広場があり、別にお祭りでもないのにたくさんの模擬店が出ており賑わっていた。半日もあれば主要なところは歩いて回れる広さだった。

 せっかくプロヴァンスに来たので、画家ゴッホの住んでいたアルルに行き、アルルの跳ね橋の実物を見たいと思った。しかし案内所で聞くと、ゴッホが絵に描いた跳ね橋は今はない、鉄道では行けないといわれ、むしろ電車で行ける隣町のリル・シュル・ラ・ソルグ(L’Isle sur la Sorgue)へ行くことを勧められた。

 事情が良くわからないままにアヴィニョン中央駅から電車に乗ること30分弱、田舎の駅に降りたという感じで駅前は寂しい。線路を背に2~300メートル歩くと小川の向こうに市街地が広がっている。小川だと思ったのは直径1キロくらいの街を取り囲む濠だった。アヴィニョン同様旧市街は車1台通るのが難しいような狭い道が、石造りの建物の間を迷路のように入り組んでいたが、これも趣があった。

 この町はアンティークの町として有名で、それらのバザール、すなわち蚤の市が頻繁に開かれているそうだ。それを扱う大きな店やバザール会場は、濠の外の広大に広がるエリアにあった。濠を出ても、店などがどこまでも続いていて町の大きさを実感した。

エクス・アン・プロヴァンスからマルセイユへ

 2日目は地中海を見たくなりマルセイユに行くことにした。アヴィニョン中央駅からTGV駅まで電車で5分ほど乗り、TGVに20分ほど乗り、途中のエクス・アン・プロヴァンスTGV駅で降りた。市街地からは20キロくらい離れたところの駅だ。線路の下を直角に横切る高速道路があり、ここを走るバスに乗ること13分、エクス・アン・プロヴァンスのバスセンターで降りた。パリやヨーロッパ各地に行く長距離バスなども集まる大きなバスターミナルで、その近くにあった鉄道駅に比べ利用客の数も格段に多かった。

 エクス・アン・プロヴァンスも古くからの街だが、城郭はなかった。かつてのプロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄していた。画家セザンヌの出身地でもあり、現在は学術・芸術都市として観光の拠点となっているとともに、毎年夏のオペラ祭もマニアの間では良く知られている。花壇と噴水がやたらに多く、天気も良かったからかも知れないが、街中が明るく、輝いているように感じた。

 街中を歩き、市役所に寄ったり、食事をしたりして、再びバスでマルセイユに向かった。マルセイユへは鉄道でも30分少々で行け、大よそ20分間隔で出ているが、ショッピングセンターと併設されたバスターミナルから乗りたいという家族の希望からパスで行くことにした。

 30分でマルセイユ・サン・シャルル駅前に着いた。この駅は終端型で段丘上にあり、市街地は下の方にある。横浜で言えば、港が見える丘公園に終着地型の駅があるようなもので、市街地から見ると、石段を上った先の丘の上の教会、といった感じの駅だった。

 歩いて港へ行った。海に近づくと塩の匂いが濃い。以前地中海の塩分濃度は濃いということを聞いたことがあるが確かに、他所の海で感じたことがないくらい強い匂いだ。地中海を見るのは15年くらい前のジブラルタル以来だが、そのときにそれほど感じなかったのは、大西洋からの入口だったからだろうか。

 幕末1862年、福沢諭吉など第1回遣欧使節団(文久遣欧使節団)は品川からイギリスのむ軍艦で品川港を出て、長崎、香港、シンガポール、セイロン、イエメンを経てエジプトへ、スエズ運河はまだ出来ていなかったので列車でスエズ地峡を越え、アレクサンドリアからマルタを経て、4か月かけてマルセイユに上陸したそうだ。そして列車でヨーロッパ各地に行った。初めて見るヨーロッパを、当時の彼らはどう感じたのだろうか。自分もいつか、横浜からマルセイユまで船旅をしたいと思っているが、まず実現しないだろう。

 港は、特に祭の最中ではないと思うが、山下公園のような広い敷地のところに多数の模擬店や、観覧車などの遊戯施設があり、大勢の老若男女で賑わっていた。寿司が食べたくなり、娘がスマホで調べ、地下鉄1号線で港から2つ目のカステラーヌというところにある寿司屋に行った。「Kyo」という店で「京」ということなのだろう、日本人シェフによる店とあったが、日本人スタッフは見当たらなかった。カウンターもあったが、西洋レストラン風の50人以上は入る大きな寿司屋だった。カタコトで日本語を話す西洋人がいて、メニューにも日本語が書かれていて注文には困らなかったが、何を食べたか思いだせない。

 カステラーヌという地下鉄の駅では1号線と2号線が交差しており、帰りは2号線で3つ目のサン・シャルル駅まで乗った。地下駅から段丘上鉄道駅まではエレベーターがあった。マルセイユの地下鉄は2号線まであり、いずれもパリなどと同じ、日本では札幌で走っているものと同じゴムタイヤ方式である。なおこの他にトラムが2路線走っており、近々もう1路線開業するそうだ。このトラムは1960年代にフランス国内でトラム廃止が進んだなかでも、リールとともに残ったものである。しかしこちらに乗るチャンスはなかった。TGVはノンストップで35分、アヴィニョンに戻った。

アヌシー

 3日目は、スイスのレマン湖近くのアヌシーに行った。リヨンからローカル線で行くのだが、アヴィニョン中央駅からでTGVでバランスまで行き、そこで快速列車(TER)に乗り換えリヨン・パールデュー駅へ行き、さらにアヌシー行きの快速(TER)に乗り換えた。最初のTGVはリヨン・パールデュー駅には停車しなかったからだ。リヨンからのローカル線快速は、電気機関車(EL)が牽引する客車列車で、今では少なくなった6人用の個室が並ぶ、片側に通路のある車両だった2時間ほどでアヌシーに着いた。

 アヌシーは、ヨーロッパ内で透明度では1位と言われるアヌシー湖の湖畔の町で、湖に通じる運河が街中に張り巡らされ「フランスのベニス」と呼ばれることもあるそうだが、本物のベニスを知らないので何とも評価できない。また標高も448メートルとあり、避暑地にもなっているそうだ。いずれにせよ観光地であることには間違いなく、中世の街並みが続き、歩行者専用の狭い通りには観光客の姿が多かった。哲学者のジャン=ジャック・ルソーが暮らしていた町だそうだ。 一方、フランスではどこの都市にもあるような巨大なショッピングセンターがここにもあり、駅の近くのセンターで1万円くらいのリュックサックを買った。日本の地方都市のショッピングセンターは、車がないとなかなか行きにくい郊外に多いが、フランスの場合は、市中心部から歩いてもたいしたことのない、市街地の中にあることが多いようだ

 最終日は、午前中は湖畔を散策し、鉄道でジュネーブに戻ろうと思ったら、フランス国鉄がストを行っており、バスで戻った。ジュネーブまでは直線距離では30kmくらいで、国境はスイスより数kmほどのところにあるが、いつ国境を通過したのかわからなかった。また乗車に際してもパスポートチェックはなかった。

 そしてジュネーブから快速列車で2時間45分、ルツェルンに戻った。

フランスの交通政策とトラム

 フランスでは19世紀後半から大都市を中心にトラム(路面電車)が多く走っていたが、自動車の普及などから1930年代にはリールやマルセイユなどの一部の都市を除き廃止した。日本も戦後の高度成長が始まり自動車の台数が急激に和えた60年代に多くの都市で路面電車を廃止した。その後日本でそれを復活したのはほぼ皆無だが、フランスでは80年代から次世代型路面電車(ライトレール)という形で多くの都市で復活している。これは同国の交通政策による。

 フランスは1982年に交通基本法(LOTI)を制定した。これは国民に交通権、すなわち自由に行きたいところに、不便を被らずに行くことができる権利があるということが明文化され、そのためには政府はそれを保証する義務があるとされたものである。そして分権化の進んだ地方自治体に公共交通を優先する都市交通計画策定の義務が課せられた。冒頭に述べた地域圏による地方分権と連携しているのである。

 これにより地域圏が独自に、鉄道においてはTERの運行、バス路線の見直しなどを行い、中規模以上の都市ではスマートな次世代型路面電車(ライトレール)の開業を行った。現在は添付の30の都市で運行しており、今後開業予定の都市もあると聞く。

 一方日本においては、2013年12月に交通政策基本法が制定されたが、ここには交通権・移動権についすての表記はなく、地方自治体に都市交通計画策定の義務付けも行っていない。これの制定にあたっては、フランス並みの交通権を盛り込むべきとの意見もあったが、権利とすると必ず公の側の義務が生じるので一部の関係者から猛烈な反対があったと聞く。そもそも今の日本で地域政府といえるものは県、または市町村しかなく、それらが大小さまざま、実力もまちまちなので、一律にそのような義務を課すことはむずかしく、このようなことは道州制になるまで不可能だろう。

日本の交通基本法では、

・公共交通ネットワークの維持・発展を通じた地域の活性化、

・国際的人流・物流・観光を通じた国際競争力の強化、

・交通に関する防災・減災対策や多重性・代替性の向上による巨大災害への備え

・少子高齢化の進展を踏まえたバリアフリー化をはじめとする交通の利便性向上

・以上の取り組みを効果的に推進するための情報通信の高度化

などを謳っているが、公に義務が課せられていないのであれば単なる精神論のような気がする。

 フランスに行ってみて、そしていろいろと調べてみて、フランスは日本に比べてはるかに先を行っていることがわかった。中央集権ではなく地方分権が進んでいる。でもそこにもって行くまでには、おそらく大勢の既得権者などによる猛烈な反対があっただろうし、それを説得したり押し切ったりしたのだろう。交通基本法制定(LOTI)も同じだったのだろう。

 仕組みを大きく変えようとすると必ず反対意見が出る。最近の日本は何をするにも、それを恐れて先に進まない。政治や行政の貧困が言われているがそれだけではないはずだ。国民ももっと賢くならなければならない。

海外地理紀行 【全15回】 公開日
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