著者プロフィール                

       
ベルリンの壁その前後 〜 海外地理紀行(その3)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

ベルリンの壁その前後 〜 海外地理紀行(その3)

2003年11月、旅行に良い季節ではなかったがドイツへ行ってきた。ベルリンから鉄道でルール地方を経由してフランクフルトまで行った。ベルリンの壁が崩壊したのが1989年11月、翌年に東西ドイツが再統一された。実はまだ東西に分かれていた88年にベルリンに行っている。ハンブルグに住む友人に誘われてはじめてヨーロッパに行ったときである。以下2部に分け、88年当時の訪問と今回の訪問の記録を提示する。

第一部 1988のベルリン紀行

以下は海外鉄道研究会の機関紙「ペンデルツーク」1990年9月号に掲載されたものである。

西ベルリンは行政上は米英仏3国の管理下にあるが、実質的には西ドイツの一部であり、分割されたちは言え西ベルリンの部分だけでも人口187万人(1986年)を擁し、西ドイツ最大の都市である。しかし西ドイツ国内から西ベルリンに行くには飛行機、鉄道、バスおよび車を利用することになるが、いずれの方法にせよ東ドイツ内を通ることになる。鉄道には5つの経路があるが、そのひとつハンブルク・ベルリン間を利用する機会があったので、その体験を報告するとともに、ベルリン市内の国電とでもいうべきSバーンについて紹介したい。

ハンブルグ・ベルリン間には、1日に4往復の急行列車が走り、ハンブルク中央駅8時25分発の列車に乗った。7両編成で1等車と半室荷物車の2等車が各1両、他は2等車であった。1等車は6人一部屋のコンパートメントの並ぶものだった。

列車は大きなドーム屋根をもつ中央駅を発車すると、しばらくはハンブルグ市内のSバーンと並走する。車掌が乗車券のチェックに来ると、続いて出入国審査官が来たが、パスポートを持っていることだけを確認し、中も見ずにすぐ行ってしまった。30分ほどで国境の西ドイツ側の駅、ビュッヘンに着く。大都会のこんな近くに国境があるなんてとても信じられない。ここはハンザ都市であるリューベックから来る路線などと接続する交通の要衝でもある。この駅でキール始発の客車2両を増結した。キールは昔からドイツ最大の軍港として有名で、日本での横須賀とか佐世保に相当する都市であり、今でも港の他に造船産業も盛んである。戦前は首都ベルリンとの間で相当の交通量があったと想像されるが、今でも直通列車があるのはその名残か。西ドイツの国鉄であるDBの車掌はここで降り、東ドイツ国鉄(DR)の車掌と交代した。

ビュッヘンを出発するとすぐに小さな運河を渡り、間もなく国境となった。100~200メートル幅の緩衝地帯を挟んで東西両ドイツ側にそれぞれ金網のフェンスがあった。特に東側には灯台のような、或いは刑務所のそれのような監視塔がフェンスに沿って建ち並んでいた。初めて見る国境というものに感激するとともに興奮を覚えた。列車はゆっくりと緩衝地帯を通過すると暫くは線路の両側にも金網のフェンスが続いていた。まさかこのままベルリンまで続くのではないだろうと思っていると、間もなく東ドイツの最初の駅、シュバンハイデに到着した。駅と行っても近くに人家はほとんどなく、国境警備だけのための駅という感じがした。国境警備兵が随所に立ち、とにかくものものしい。写真が撮れるような雰囲気ではとてもなかった。

この駅で約10人の入出国係官、と思われるが或いは警察か兵隊かも知れないが、が乗り込んできた。彼らはこの後ベルリンまでのおよそ3時間の間、5~10分の間隔で2人一組で車内を巡回した。そのたびになんとも言えない鋭い目つきでコンパートメントの中をのぞいて行く。最初は珍しくもあり、良い思い出になると楽しんでもいたが、あまりにも度々になるとうんざりとして来るとともに、東西間の緊張の厳しさが肌で感じられ、観光気分でこんな所に来てしまって良かったのだろうかと、気分が少々滅入ってくる。

パスポートチェックには先ほどの係官がやってきて、今度は入念に顔写真を何度も見て、通貨ビザの紙をくれたが、パスポートにスタンプを押すことはなかった。なお西ドイツの入出国はどこも簡単で、パスポートにはスタンプは押してもらえない。従ってパスポート上では、成田を出たときの出国スタンプがあるだけで西ドイツに行ったという証拠は何も残らない。ベルリンからハンブルグへの帰路は飛行機を利用したが、このときももちろんスタンプはなく、貴重な体験の割には少し残念な気分がした。

駅を発車すると両側のフェンスはなくなり、淡々とした平原の中を進んだ。自然の景観は西と変わらず、畑と牧草地と荒地が続き、所々に森が点在する。ほとんど山らしい山は見えず、どこまでも平原が続く。雨は降っていないが曇天であり、遠くの方は見えなかったが、晴天ならば地平線が見えたであろうか。自然の景観は連続的に変化するものだから、体制や思想が変わろうと当然ながら一変するものではない。

しかし先入観からか、家並みは西に比べるとかなり粗末に感じられる。途中町らしい町は、運転上の停車だろうが一度だけ停まったビッテンベルゲという所だけで、あとはいずれも農家風の家が点在するばかりだった。人の姿もたまにしか見かけなかった。車窓から見る農家風家屋は、所々剥げ落ちたレンガが黒ずみ、長い年月の風雪で窓の木枠も朽ち果て、庭にはアヒルと犬を飼い、リンゴの木の下でお爺さんが座っている、100年前も同じ光景ではなかったのかと思いたくなる。ドイツではないが「ペーターと狼」の舞台もこんなものかなと思ったりした。

ときどき通過する踏切でも、車はめったに見かけず、たまに見ても古い形式ばかりだった。アウトバーンも戦前からのものが東ドイツ内を走っているが、ベルリン近くになって一度だけ立体交差があったが、走っている車の数は、西のそれに比べてずっと少なかった。西ドイツから西ベルリンへは車でアウトバーンを通って行くこともできるので、走っている車の中には西側のものも多く、東側の車というのは本当に少ないのかも知れない。

ハンブルグに住む友人の話によれば、西ドイツのアウトバーンは速度制限がなく、時速200キロで飛ばす車があるが、東のアウトバーンには最高時速100キロの制限があり、道路の整備状況も悪く、案内標識や案内版も極端に少ないとのことである。列車は変化の少ない平野の中を淡々と走る。速度は100キロを超えていないようで、揺れはほとんど感じない。大半が複線で、一部には電化区間もあった。

ベルリンに近づくにつれ複線が複々線になったり、交差する線路が増えたり、大きな貨物ヤードがあったりして線路だけを見ている分には、大都会の近郊という感じがするが、周囲の景色はちっとも都会らしくない。いやかえって寂しくすらなってくる。東京で言えば、例えば中央線で立川から三鷹あたりまで来たのに、家がほとんど建っていないというのに等しい。

西ベルリンに入る直前、東ドイツ内最後の駅であるシュターケンで停車した。この駅も金網のフェンスで囲まれたものものしいものだったが、件の係員が下車し、西ドイツの要員と交代した。と同時に筆者だけでなく、車内全体に安堵感のようなものが広がった感じがした。大勢の乗客が窓から顔を出し、下車した係員たちを見送るとともに、列車が発車したあとも乗客の大半がほとんど最後まで顔を出したままだったのは、乗客の一人一人に期待や感慨や安堵感があったのだろう。東京駅に着く直前の新幹線の車内とはまるで違う雰囲気だった。

ベルリンでは市内を東西に分ける壁が有名で、壁というとこればかりが話題になるが、西ベルリンの外周も当然ながら壁で囲まれている。あたかも東京23区の西半分と三多摩が壁で仕切られているようなものである。なお西ベルリンの面積は、東京23区の80%くらいである。列車は高架線に登り、壁の上をまことにあっけなく超えて行った。

もちろん壁の手前、東ドイツ側には、100~200メートル手前に金網があり立ち入り禁止区域になっていた。そして壁を越えたとたんに、そこは住宅街で人や車の往来が多く、壁そのものも西側ではまるで民家の軒先の壁といったように感じられた。住宅街といえ緑が多く、東京の中央線で言えば三鷹から吉祥寺の間の高架線からの景色のようだった。壁ひとつ越えただけでまるで北海道のような荒涼とした風景が市街地に一変した様は、世界中で、ここだけではないだろうか。

西ベルリンに入ってからはSバーンの線路と並行する。ただし都心に近づく途中までは運行休止となっているので草ボウボウの線路と、廃屋化したプラットフォームが哀れである。郊外のスパンドゥ駅に停車し、10分ほどで西ベルリンの中央駅とでもいうべきツオー駅(動物園駅)に着いた。高架線上に長距離用のホームが2本4線、Sバーン用のホームが1本2線の駅だった。

駅前は市内隋一の繁華街であるとともに、大きな自然公園、ティアガルテンとその一部にある動物園に隣接している。駅は他のドイツの主要駅同様大きなドームに覆われており、地上から見上げるとドームの最上部はビルの7~8階分の田か高さだろうか、壮大である。列車はさらに数キロ先の東ベルリン内フリードリッヒ・シュトラッセまで行くが、大半の乗客とともにここで降りた。駅は長距離列車用ホーム1本がたまたま工事中で使えなかったこともあり、同じホームの反対側にはケルン行きの列車が停車しており、これの乗客も大勢いてホームはごった返していた。階段を降りコンコースに行くと、神戸や三宮、或いは近鉄の宇治市駅のような感じだった。日本のこれらの駅を造るときに、ドイツのそれを真似たのかも知れない。コンコースも人でごった返しており、特に黒人が多かった。

国電のようなSバーンは、戦前はベルリン市内や郊外を四通八達していたそうで、山手線のような環状線があり、それを貫く東西線と南北線が市の中央フリードリッヒ・シュトラッセで交差している様は、同じく網の目のように線路を張り巡らせている地下鉄(Uバーン)と合わせ随分交通の便の良い年であったことを偲ばせる。それが東西分割とともに路線がズタズタに切られてしまい、数々の変遷があったようだが結局西ベルリン内のSバーンは3路線だけになってしまった。なおSバーン、Uバーン、バスなどの西ベルリン市内の公共交通機関は現在はBVG(ベルリン交通公社)のもとで一元管理されており、共通のキップで利用できる。

ツォー駅からまず市の南西方向、ポツダムまで行っていたであろうS3に乗ってみた。ポツダムは壁の外なので現在のSバーンは壁の手前バンゼーまでしか行っていない。バンゼーは市の南西部に広がるバンゼー湖岸の町で、ここから湖岸のいくつかの集落を結ぶ定期船や観光船が出ている、観光地風のところである。

ここまでのSバーンはかなり車歴の古い感じの電車だが、内部は良く整備されていて、壁板も新しいものに張り替えられており気持ちがいい。第三軌条からの終電方式で、最新の日本では珍しい釣掛式モーターの甲高い音が懐かしい。この線を含めて幾つかの放射状の線があったが、いずれも環状線と交差しており、大部分の交差駅は秋葉原のような立体交差になっている。しかし乗換階段が封鎖していたり、垣間見る環状線のホームが朽ち果てていたりしてなんとも寂しい。

この線は壁を越えてフランクフルトやミュンヘンなどの西ドイツ主要都市に行く長距離列車用線路と複々線になっており、木々の多い市街地の中を走る。ベルリンもハンブルグ同様、街が森の中にあるという感じで、東京で言えば信濃町から千駄ヶ谷、代々木に至る光景に似たところが大半である。特にグルネバルト駅とニコラスゼー駅間は約8キロの間中間に駅はなく、森林の中を一直線に走るが、釣掛式モーターのオンオフを繰り返し高速疾走する様は、往年の京成電車の津田沼・成田間の走りぶりを彷彿させた。

西ベルリンから東ベルリンに行くのは思いのほか自由になったそうで、Sバーンも一部東ベルリン内を走る。今度はツオー駅から逆の終点のフリードリッヒ・シュトラッセ駅まで利用してみた。ツオーから3つほど駅に停まるとシュプレー川にさしかかる。この川がここでは東西の境になっており、せいぜい40~50メートルの鉄橋を渡った対岸の土手ともいう部分に壁が続いていた。電車は非常にあっけなく壁を越えて行く。それでも東側から西側に行くのは今でも非常に厳しく、亡命者の中にはこの川を泳いで渡るものがいるということが、最近読んだ日本の新聞にも載っていた。電車が壁を越えると例によって線路の両側が金網のフェンスに囲まれそのままフリードリッヒ・シュトラッセ駅に入った。

この駅もツオー駅に似ていてホーム3本で大きなドーム屋根に覆われている。ここは西側のSバーンの終点であるとともに、東側のSバーンの始発駅でもあり、それぞれのホームは線路を挟んで並列しているが厳重に隔離されている。間に鉄板のフェンスがあるので、お互いに見ることすらできない。例えば新橋の駅で山手線と京浜東北線北行のホームが東側のホームで、外回りと南行のホームが西側のホームであり、その間が鉄板で隔離されているようなものだ。東海道線のホームに相当する長距離列車用のホームもあり、西ドイツ各地に行く列車と、ベルリンを貫通してポーランドやソ連に向かう国際列車が使用しているが、ここも西側エリアとなっている。警戒が厳しくドーム屋根の内側に見張り台のようなものがあり、兵隊が監視している。

この駅は前述の通り南北に市内を貫通するS2とも交差しており、かつての市内交通の要衝であった。S2は北部のフロウナウと南部のリヒテンデーレを結んでいるが、市の中心部フリードリッヒ・シュトラッセ駅の前後数駅は地下になっており、その部分は東側のエリアである。だからフリードリッヒ・シュトラッセ駅以外の駅は使用できないように入口が封鎖されており、電車も停まらずに通過する。再び新橋に例えると、地下鉄銀座線に相当する場所がS2のホームである。さらにこの駅には西側の地下鉄U6も乗り入れており、これは都営地下鉄浅草線といったところか。これら3線の相互間の行き来は自由にできるが、駅外は東ベルリンなので、外に出るには国境の検問所を通らなければならない。

その検問所だが、まず西側の出国手続きがあり、これは簡単に通れた。そして高架下のコンコースのようなところに並ばされ東側の入国手続きを待った。かなり待たされたが、四畳半くらいの広さの個室に通され、入念に顔写真をチェックされた。そして通過料として5マルク(約170円)を徴収されるとともに、強制的に西ドイツの通貨25マルクを東ドイツマルクに換金させられた。実勢は1:4くらいだそうだが、ここでは1:1で換金させられる。東から西に戻るときは残金は換金してもらえないので食事をするなりお土産を買うなりして使わなければならない。東ドイツの外貨獲得策のひとつのようだ。このように金を払い、夜の24時までに戻るという条件で、西側の人はビザなしで東に入れるのである。

国境通過に時間がかかり電車を降りてから1時間近くかけてやっと外に出ることができた。そこは正に社会主義の国、東ドイツである。思ったよりも街並みは美しく豊かな感じだった。南に500メートルくらい歩くと、かつてのベルリン随一の目抜き通りであるウンター・デン・リンデンにぶつかる。これを西に500メートルくらい行くとブランデンブルグ門があり、これを東側から見たが、門の先はすぐ高い塀で塞がれていた。そして今度はウンター・デン・リンデンを戻るとともにさらに東に2キロほど、現在の東ベルリンの中心街であるアレキサンダー・プラッツまで歩いた。途中博物館や大学の古い建物が見事に復旧されており、美しい菩提樹の並木とともに、西ベルリンの繁華街のともすれば喧噪に比べて落ち着いた雰囲気であった。来るときの列車から見た貧しさは、ここではほとんど感じさせなかったが、考えてみればここはこの国で外国に顔を向けた最も豊かな場所なのかも知れない。もっと時間があれば郊外まで足を伸ばし、東側の素顔を見てみたいところだった。

東ベルリンにもSバーンやUバーンが走っていて、アレキサンダー・プラッツ駅からフリードリッヒ・シュトラッセ駅までSバーンに乗ってみた。電車は西のそれと全く同じような形をしていたが、西よりもはるかに頻繁に、3~5分間隔で走っていた。紙が不足しているのか、路線図とかパンフレットの類が何もなく、切符の買い方や電車の乗り方などがわからない。旧型の切符の販売機では1種類の切符しか買えず、それもどこまで行けるのかどこにも書いてない。とうとう最後までわからないまま持ち合わせのコインを入れて把手のようなものをガチャンと下げると、わら半紙のような紙質の悪い切符が出てきた。西と同じ方式で改札口というものはなく、切符の有無に関係なく電車には乗れた。電車は、なんとなく黒ずんだビルの間の高架線を走り、マルクス・エンゲルス・プラッツなどいかにも共産圏らしい名前の駅に停まり、やはりここは東側なのだという実感が湧いてきた。

フリードリッヒ・シュトラッセ駅に戻り再び検問所を通るが、今度は速かった。西側のSバーンに乗るための切符の自販機はアレキサンダー・プラッツ駅のそれと同型のものであり、出てきた切符も紙質の悪い同じようなものだった。この駅の設備一式を含む資産は東側のものであり、そこに西側のSバーンが乗り入れていると考えれば良いのかも知れない。このホームにいつまでもいるのもなんとなく不安になり、早々に折り返しで停まっていたSバーンに乗り込んだ。たった3時間程度の東側体験だったが、東西の差が大きいことがわかった。それなり緊張していたのだろう、電車がシュプレー川を渡り終えたときには安堵感があった。

ベルリンからハンブルクへの帰路は飛行機にした。パンナム機でわずか30分だった。法的には現在ベルリンは米、英、仏、ソ四か国の管理下にあり、西ドイツのナショナル・フラッグ・キャリアであるルフトハンザは乗り入れできない。そのことを除けば緊張感もない国内線の移動だった。

ベルリンは確かに特異な都市である。西側からの訪問は比較的自由だが、東側からの訪問はほとんど不可能に近く、それがため亡命が跡を絶たない。東側からは人的交流だけでなく、情報の伝達も厳しく管理されており、お互いに相手の状況を知ることが非常に難しくなっているようだ。

しかし鉄道に関しては、設備や車両などのハードウエアだけでなく、運転方式や乗車方法などソフトウエアの面でも東西でよく似ていたのは意外だった。ベルリンの東西分割が、それらの方式まで分化させるほど長い年月を経た過去のものではなく、つい最近のことだからというのが理由だろうか。いや交通関係の方式なんてそんなに多くの方式などなく、最初に決めたことがそのままいつまでも続くものだから、ということだろうか。でも本当は市民の心の中にある、将来いつの日か統合されるのだからお互いにあまり違ったものにしておかない方が良い、という気持ちが強く働いているのかも知れない。

今次の戦争の終結がもう少し遅かったら、東京もベルリンと同じように分割させられていたかもしれない。東北から北海道までが社会主義の北日本となり、東京23区の北部が北東京となって壁に囲まれていたかも知れない。もしそうなっていたら山手線や東北本線、常磐線はどうなっていたか、上野発の夜行列車なんてないだろう。交通面だけでも不幸なことがたくさんあり、そのほかの様子などとても想像できない。

戦争の終わり方が幸運だったことに感謝するとともに、ベルリンに対し同乗の念が湧いてくる。しかし本当に運命を左右したのは戦争の終わり方ではなく、戦争があったかどうかである。やはり反省すべきは戦争という愚挙である。戦争の悲惨さを感じさせられるのは広島の原爆ドームなど多くあるが、それらとは別に、本当に戦争の馬鹿ばかしさを身近に感じさせるのは世界の中でベルリンの他にそんなにないのではないか。あまりにも簡単に東西の両方を見ることが出来たので、そう感じた次第である。

(1988年11月記)

第二部 2003年初頭のドイツからフランクフルトまで

旅行に良い季節ではなかったがドイツへ行ってきた。ベルリンからルール地方を経由してフランクフルトまで鉄道にも乗った。ベルリンは15年振りで、前回は1988夏、壁崩壊の1年前だった。もちろん1年後に統合されるなどとは夢にも思っていなかったときだ。

成田からフランクフルト乗継でベルリン・テーゲル空港へ、到着は現地時間の夕方18時30分、成田から14時間を要した。首都となったベルリンだがいまだにヨーロッパ以外の海外の主要都市からの直行便はない。予約していたホテルは旧東の繁華街アレキサンダー・プラッツ駅から徒歩10分、社会主義国風というのだろうか鉄筋コンクリートの無機質なアパートのような建物だった。周囲は道路がやたらに広く、同じようなコンクリートの四角な建物ばかりで、写真やテレビで見る北朝鮮のピョンヤンのような光景で、なるほど軍事パレードなどはこういう場所でやるのかと思った。ホテル前にはトラムが走っており、これは旧東地区を広くカバーし24時間運転している。

2003年のベルリン市内

翌日はブランデンブルグ門とか国会議事堂、壁博物館などお上りさん風に名所見物をした。しかし往きの機内で「舞姫」を読み、絶対に行こうと思っていた森鴎外博物館は休館中で入れなかった。その博物館はフリードリッヒ・シュトラッセ駅近くの高架線のすぐ横にあり、カーブをしているガード下の風景はどことなく神田から万世橋のそれに似ていた。

ブランデングブルグ門は壁のすぐ東にあり、東側から門の先は見通せなかったのが、壁が撤去され東からも西からも門の先まで十分に見通せた。ただその門の前で中国の法輪功が中国政府に抗議するデモを静かに行っており、まだまだ世界平和には遠いようである。国会議事堂では、中央の展望台に登ることができた。また旧壁を展示したところも見た。

Sバーンについては、ペンデルツーク25号に15年前の様子を載せているが、当時は環状線や縦貫線がいたるところで寸断されていた。ベルリンのSバーンは環状線とそれを突き抜ける東西及び南北の路線とからなる、丸に十の字型である。その縦貫線の交差する駅がフリードリッヒ・シュトラッセで今回最も変化のあったところである。今はドイツの他の駅と同じようにオープンな駅になっている。ホームの使い方は予想していたとおりSバーンが北側2線だけとなり中央の2線が西方面への中長距離列車、南側2線が東方面への中長距離列車用となりツォー駅と同じ、線路別複々線の三鷹駅や我孫子駅のようになっている。それでも高架上の大きなドーム屋根をもつ全体の形は変わっておらず、外からの光景も以前と同じように思えた。ただSバーン・ホームと中長距離列車用ホームとの間に遮断用の壁がありドーム屋根の内側のバルコニーのような部分に銃を持った監視兵が立っていた15年前は、とても写真など撮れる雰囲気ではなかったので、つくづく平和の有難さを実感した。

旧東地区の繁華街のあるアレキサンダー・プラッツ駅の構造は変わっていないが見違えるようにきれいになっていた。また当時はなかったトラムが高架のすぐ下まで来ていて乗換えに大変便利になっていた。ひとつ西寄りのハッケシャーマルクト駅は当時はマルクス・エンゲルス・プラッツという名前だった。

旧西地区の中心ツォー駅は駅前広場の佇まいやその周辺の光景を含めて全く変わっていない。このツォーからバンゼーまでも前回同様乗ってみた。Sバーンはツォーと隣駅のシャルロッテンブルク間の線路が工事のため運休中で、Rバーンという横須賀線のような中電で行くことにした。その工事とは橋脚の基礎から作り直しているかなり大掛かりなもので数ヶ月はかかりそうだが、東京で言えば有楽町と新橋の間の山手京浜東北を運休し東海道線を利用せよというようなものだ。ダブルデッカー3両のプッシュ・プルに乗るが途中の森の中やバンゼーの駅は何も変わっていない。バンゼーは旧西ベルリン内のリゾート地といったところで小さな湖に面していて、当時はSバーンの終点でそのすぐ先は壁だった。今はSバーンもポツダムまで、また中電のRバーンは更にその先のブランデンブルグまで走っている。

東西ベルリンを隔てる壁のあった部分は、分断時代はそれぞれの中心部から見れば場末にあたり、緩衝地帯を含め広大な空き地だったがそこだけは再開発中で、新しくベルリン中央駅となるレールター駅もここに建設中だった。すでにSバーン部分のホームのみは開業しており、中長距離列車は通過していたがやがてはここが中央駅になるそうだ。

今ではかつて分断されていたことが嘘のように、少なくともSバーンを含む都市交通についてはスムーズに行っているように思える。前述のペンデルツークに、当時東西で設備や車両等のハードウエアだけでなく運転方式や乗車方法などソフトウエアの面でもほとんど同じなのは意外だったと書いたが、やはり当事者はいつ統合があっても良いようにしておこうと考えていたのかも知れない。それはともかく今のベルリンは他のドイツの主要都市と変わらぬ特徴のない平凡な都市になってしまい、敢えて不謹慎の謗りを覚悟で言えば分断時代のほうがはるかにエキサイティングだったと思う。 たった1日いただけで、しかもほんの一部を見ただけの感想だが、ベルリンの再開発は当初言われていたほどの規模やテンポではない。それは世界的な景気停滞によることが大きいが、もともとドイツの中でのベルリンの位置によるものだろう。地理的に国土の端に位置していることもあるが、フランスのような一極集中型と違って、ドイツでは中規模都市が適度に分散しており、金融のフランクフルトや商工業のルール地方などすでに長いことそれらの中心として定着している。何か大きな、国全体を揺るがすような構造改革や経済変動でもない限りこの秩序は崩れることはなく、従ってベルリンも今以上の人口増加もなければ飛躍もないだろう。従って今後は再開発のペースも徐々に落ちて行くのではないか、というのが率直な感想である。

ベルリンからクアッケンブリュックへ

次の日はまずツォーからハノーファーまで特急列車に相当するICEに乗った。電車形式ではなく両端に動力車のある形のもので8時57分発、ケルン行きである。この列車の10分前にやはり特急のアムステルダム行きが先発しハノーファーには10分後に着く。だからどこか途中でこの列車を抜くはずである。新幹線といっても在来線を大幅に改良した路線を時速230から250キロで走る。高架でなくほとんどが地平で柵などはない。複線の新幹線規格の線路に並行してもう一本在来線列車用の線路が並行するが、やがてそれもなくなりローカル列車も新幹線の線路に乗り入れる。そして駅の部分だけに専用側線とホームがある。 日本の感覚だと、そのような場合複線の両外側に上下それぞれの側線とホームを作るはずだが、ここでは大抵の駅は片側にしかそれがない。前後のポイントの配置を見た限りでは複線といっても必ずしも上り下り専用と明確に分けているのではなく、ローカル列車は上下とも片側の線路を使っているようだ。これは日本の新幹線のように2-3分ごとに対向列車とすれちがうということがなく、列車本数が少ないので可能なのだろう。

面白いのは途中の町で、日本の市街地を迂回する国道バイパスのように、駅のかなり手前から新幹線は別線となり駅から大きく離れ、また合流するところが何箇所かあったことだ。ハノーファーまでノン・ストップでそのような町ではすべてバイパス線を走ったので、10分前に出たアムステルダム行きはそれらのどこかの駅で退避していたのだろう。

沿線は起伏が殆どないどこまでも続く平原だが風力発電がさかんに行われており、40~50基のブロペラ群を数カ所見ることができた。

ハノーファーで知らないうちに抜いてきたそのアムステルダム行きに乗り換えた。平野がいつのまにかなくなり左右に山地を見ながら1時間ほど走りオズナブリュックで降りた。ハンブルクとルール地方とを結ぶ幹線と今乗車してきたハノーファーとライン川河口方面とを結ぶ線とが直角に交差する町で、北九州の折尾駅のような立体交差駅である。列車は下部のホームに着き、ここでローカル線に乗り換えクワッケンブリュックまで行った。

ドイツ語で北西鉄道と読めるNWBという民営化された路線で2両1組が2編成の低床式トラム風の気動車だった。1時間に1本だが結構乗客は多く、古い駅をいくつか飛ばしながら快適に走っていた。

クワッケンブリュックというのは人口1万4千人ほどの町で、ヨーロッパ最大の自転車工場があったが数ヶ月前に倒産した。原因は中国に技術輸出を進めた結果、中国の類似製品に負けたとのことだ。駅はかっては貨物ヤードや工場への引き込み線などをもった広い構内をもつものだが今はホーム1本のみと寂しい。立派な駅舎があり昼間の時間帯は有人で長距離切符を売ったりしているが、到着した日曜日の午後は無人だった。クワッケンとは蛙、ブリュックは橋なので蛙橋という名前の町で中心部は古い町並みが残っていて心地よい所である。ここの教会で行われるコンサートを聴くのが今回の旅の目的だったので、コンサートとその後のパーティに参加し、この町の瀟洒なホテルに泊まった。クレジット・カードが使えないのには戸惑った。

クアッケンブリュックからボンへ

翌日はオズナブリュックに戻り上部ホームからハンブルク方面から来てケルン、ボン経由コブレンツまで行く特急列車(IC)に乗った。ドルトムントからルール地方に入り、いくつかの中堅都市が点在する工業地帯に入る。かつての北九州のそれを更に広域に、より複雑にしたような路線網があり、トーマス・クックに表示されている主要路線以外の小規模路線や貨物線などが絶えず交差したり並行したり、或いは分岐や合流を繰り返すので手持ちの地図のどこを走っているのかがわからなくなる。この地区の各都市は直線状に並んでおらず平面的に拡散しているので、一本の列車で全部の都市をまわることができない。従って列車毎に経由する線路が違うので注意しなければならない。

この列車はハーゲン、ウッペルタール、ゾーリンゲンを通りケルンに向かうものだったのだが、ドルトムントの駅に着いたときに放送があり、本日に限りデュッセルドルフ経由となるので、ハーゲン方面に行くならここでSバーンに乗り換えるかデュッセルドルフまで行って乗り換えてくれとのことだった。列車はそのまま20分くらい停車した後エッセン、デュイスブルクの駅も通過しデュッセルドルフまで無停車で走り、ケルンには10分遅れで着いた。このようなことはドイツではよくあるそうで、ドイツ語のわかる同行者がいたので助かったが、自分ひとりだったら混迷したことだろう。しかしこれを少なくとも英語でもいいから放送してほしいというのは、日本で言えばすべての鉄道の現場に英語力を求めるのと同じことなので無理な要求なのだろう。これがまさに海外の鉄道など公共交通機関を利用するときのリスクであり、それを覚悟で出かけなければならないということを改めて認識した。

ケルンからボンまではUバーンに乗った。Uバーンといっても実態は路面電車で、市街地の中心部や主要交差点のみ地下にもぐりそれ以外には道路上や専用軌道を走る。日本の地方都市などで是非取り入れたらいいと思う。ルール地方というのが厳密にどこからどこまでを言うのかは知らないが、ケルンとボンは同じ交通圏で、デュッセルドルフ近郊とは別になっている。そしてベルリンやフランクフルトと同じようなSバーンとUバーンを統合したゾーン制の運賃体系になっている。ケルンとボンの間を結ぶものとしてはDBの他にライン川寄りを走るものと、山側を走る2つのUバーンがあり前者に乗ってみた。DBでは7駅15分で行けるところをUバーンでは29駅55分かかった。この間34キロは広島から岩国までよりは少し短い、大竹あたりまでの距離に相当するので広電宮島線がそのあたりまで走っていると思えばよい。 DBのケルン中央駅は有名な大聖堂のすぐ横にあり、Uバーンもここは地下駅である。といっても路面電車用ホームなので低くて狭い。4駅先で地上に出てしばらくは道路中央を走るが専用レーンになっているのでスムーズだ。そのうちにライン川の河畔に出ると郊外私鉄風の専用路線になり時速100キロ近くのスピードで快適に飛ばす。4両連結の電車で低床式の最新のものから高床の旧式のものまで、種々の型式のものが走っているがいずれも2両一組のものが2編成、ケルン・ボンを結ぶものが20分に1本、その間途中止まりのものが20分ごとに走り、乗客も通しの客を含め多く、ほとんど空席のないままボンに着いた。料金はDBやSバーンなど何に乗っても同じなので、身近で乗りやすさが受けているのだろうか。ボンではDBの中央駅の手前で地下に入った。こちらはケルンと違って本格的な地下鉄駅で各路線が集中し、表参道のような島式ホーム2本4線の、混雑の激しい駅だった。

ボンからフランクフルト空港へ

駅近くの広場のバザールで屋台の店をはしごしながら空腹をうめていたらベートーヴェンの家へ行く時間がなくなってしまった。20時45分発の全日空機に乗るためにフランクフルト空港駅に19時頃着きたいと言ってDBの駅で切符を買おうとしたら、最初に勧められたのが一旦ケルンに戻って先日開業したばかりの新幹線のような高速路線を走る超特急ICEに乗るもので乗換時間を含め所要2時間8分、ライン川に沿う在来線のものはちょうど良い時間帯の特急ICがなぜか本日は運休で普通列車をコブレンツ、マインツと乗り継いで3時間24分もかかる。次に勧められたのがボン・ジークバークまでUバーンで行き、そこから上記のICEに乗るもの、これだと1時間17分で行く。それに決めると、なんとUバーンの切符も一緒に買え、かつUバーンまで含めた乗下車時刻が印刷されたリストまでくれ、この連携のすばらしさに感激した。

日本ならば、例えば神戸から岡山に行くのにJR駅の窓口で、一旦新大阪に行き新幹線に乗り換えるケース、在来線で行くケースのほかに神戸市営地下鉄で新神戸へ行きそこから新幹線に乗るという3ケースを各列車の発車/到着時間をプリントしてもらい、かつまとめて切符を売ってくれるようなものだ。企業体の違いなど利用者には全く意識させない、利用者本位のすばらしいサービスであり、日本もいつかはそうなってほしいと思う。

ボン中央駅からジークバーク駅までのUバーンは地下駅を発車するとすぐに地上の道路中央に出て、そのままライン川を渡り25分ほどで着いた。もうすっかり暗くなってしまったので周囲の景色は良くは見えなかったが、ボン郊外の住宅地のなかのようだ。Uバーンのホームに降りると階段とエレベーターがあり昇るとそこは新幹線駅のホームで、同じJRなのにいったん外に出なければならない新花巻などとずいぶん違う。中央2本が通過線で外側に側線とホームのある日本の標準的な新幹線駅の形をしているが、地平で改札口のない開放的な駅だ。フランクフルト方面へのホームの反対側からはバスやタクシーに乗れ、ケルン方面のホームの反対側はローカル列車が発着し、もちろんその間に柵や改札口はない。小田急の東北沢のホームを長くして、低くして、垣根をなくし、かつその下を掘り割りで直角に世田谷線の電車が入って来るといったイメージだが、通過線を猛スピードで走り抜けた「のぞみ」タイプは時速300キロくらい出していたのだろう。 乗車したICEは最新型のものらしく木目調の内装やバラエティに富んだ座席配置などベルリンから乗ったものよりもさらにグレードが高かった。大変な混み方でフランクフルト空港駅まで40分は座席がなく立ったままだった。

誰が本当の競争相手か

わずか3泊4日のドイツ滞在で、わが国の鉄道との違いをいくつか感じた。まずボンで感激したことだが、なんといっても公共交通セクター内での連携が実によく、利用者は企業体の違いなど全く意識することなく最適な経路での移動ができるということだ。路面電車から新幹線の乗り継ぎ、各都市圏内でのゾーン制の運賃体系など利用者本位で、自家用車などの私的交通からなんとか公交通へシフトさせようとする公交通内での努力と協調を感じる。未だにJRと他社間とか、営団と都営地下鉄との関係など日本では利用者のことを考えていないものが多く、特に日本を訪れる外国人はとまどうことが多い。

また駅の便利さも、日本でも大分追いついてきてはいるが、見習うべきだろう。ドイツに限らずヨーロッパの鉄道では、大きなスーツケースを持った旅行者が多く主要駅ではエレベーターやエスカレーターが設置されている。またそうでない場合には地下道などへは階段ではなくスロープで行けるようになっている。日本でもバリアフリーの観点からようやく各所で着手されるようになったが、バリアフリーに限ることではなく、多くの旅行者が楽に利用できるように積極的に取組むべきだ。荷物が多いから車で行くということは、私でもよくあることだ。 単一軌間でないハンディをもつ日本での新在乗換えも不便だ。だからJR九州の新八代駅は画期的なものであ

り拍手を送りたい。ぜひ米原や越後湯沢、岡山、小倉などで検討してほしい。また新幹線専用の改札口なども車掌の携帯端末と無線LANの発達でなくすこともできるだろうし、これだけ自動改札が定着したのだからゾーン制への移行だって可能なはずだ。さらにドイツでは随所でドーム式の大屋根に覆われた駅を目にしたが、これこそ高温多湿で混雑の激しい日本の主要駅にうってつけだと思う。わが国にはドーム球場を作った技術と高効率の空調技術がある。必要なのは共同して公交通の利便性と快適性を高め乗客の逸走を防ごうとする各交通企業体の意識である。

ドイツの鉄道の良いところばかりを並べたが欠点だってないわけではない。列車ダイヤの正確性においては日本よりもはるかに劣るし、日本の新幹線のような多頻度運転も、また首都圏のラッシュアワー対策も多分できないだろう。しかしドイツにとっては将来ともその必要はないだろうから今のレベルで十分なのかもしれない。

それよりも根本的に違うのは安全に対する考え方だ。柵もない地平を時速200キロから300キロで走るなどということは、事故が生じたときには安全柵の管理さえ鉄道側の責任が問われる日本とはおおいに異なる。このあたりは自己責任の考えが徹底しているドイツの国民性との違いで、経済合理性を損なってでも安全を無視することが許されない日本と、それらをバランスして考える国との違いである。ドイツでは当たり前の信用乗車方式も、人権が声高に叫ばれ何か問題が起きると常に供給者側の責任を追及する日本では簡単には導入できないのも国民性の違いだろう。

そのような国民性の違いや地勢的要件の違いからまず困難と思われるものは別にして、それでもわが国で取り入れた方が良いものは積極的に検討すべきである。それには鉄道にとって誰が真の競争相手なのかを鉄道部門内で共通認識し、そのための効果的な手を共同で打つことである。飲酒運転を罰則強化した道路交通法改正は公交通にとってチャンスだった。そのときに、車をやめて電車やバスに乗ってみたら以外に便利で快適だったからこれからも利用してみよう、と思わせただろうか。今後原油の高騰もあるだろうし、いろいろな意味で相手の敵失があるに違いない。そのときがチャンスであり、そのときのために公交通側が協力しながら網を作り張っておくことをすべきだと思うのである。