著者プロフィール                

       
2009年の香港と広州 〜 海外地理紀行(その5)

児井正臣


昭和20年1月19日
横浜市で生まれる。

昭和38年3月
東京都立両国高校を卒業

昭和43年3月
慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)

昭和43年4月
日本アイ・ビー・エム株式会社に入社

平成 3年12月
一般旅行業務取扱主任者の資格を独学で取得
 
平成16年12月
日本アイ・ビー・エム株式会社を定年退職その後6年間同社の社員研修講師を非常勤で勤める

平成17年3月
近代文芸社より「地理が面白い-公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」出版

平成22年4月
幻冬舎ルネッサンス新書「ヨーロッパ各停列車で行くハイドンの旅」出版

令和3年2月
幻冬舎ルネッサンス新書「自然災害と大移住──前代未聞の防災プラン」出版


現在所属している団体
地理の会
海外鉄道研究会
離島研究クラブ
長尾台コミュニティバス利用者協議会
稲田郷土史会
多摩慶応倶楽部


過去に所属していた団体
川崎市多摩区まちづくり協議会
麻生フィルハーモニー管弦楽団 (オーボエ、イングリッシュホルン奏者)

2009年の香港と広州 〜 海外地理紀行(その5)

 香港に行くのは8度目である。現役時代に出張で5回、その後4年前から当地に赴任している息子に招かれ2回行き、そして今回である。羽田からの便も就航するようになったので、今回はこれを利用した。

羽田から香港に

 羽田の国際線は、専用ターミナルが数年後にできるまで、今は第2ターミナル東端にある仮設風の建物を使っている。狭いところだが免税店などが数店あり意外に充実していた。19時から20時台にかけてソウルと香港にJAL系、ANA系それぞれ1便ずつ計4便が出発する。特にこのところウォン安から韓国への旅行者が増えているようでソウル便は利用者が多かった。それに反して香港便はかなりすいており、214席のB767-300には5~60人しか乗っていなかった。

 東京香港間は1時間の時差があり、飛行時間は5時間少々だが、現地に着くのは日本時間では深夜の2時、中途半端な夜行便だった。


羽田空港     20:40 →1:02     香港AP    NH1275(離陸20:50/着陸0:55)      


 香港着陸時にもめずらしい体験をした。上空までは順調に、ほぼ予定の時間で来たのだが天候悪化で着陸する滑走路が変更になり約15分遅れて着地、その後ゲートに到着してからも30分くらい機外に出られなかった。
激しい雷雨で地上作業が暫時中断されたからで、もう少し到着が遅かったら、上空待機か台北あたりの代替地へ行かされたかも知れない。機内では客の多くが携帯電話で話をし始め、そのうちに機内での携帯使用を特別に許可するとのアナウンスがあったが、すでに皆は使っていたし、機内でも携帯は十分に使えるということがわかってしまった。

 やっと小降りになり機外へ出たが、深夜の1時半で他の便はすべてなく、当便の客だけが長い通路を、ムービングサイドウォーク(動く歩道)を何度も乗継ぎながら入国手続きに向かった。2時少し前に乗ったタクシーは、頼みもしないのに猛スピードで走り、九龍半島側のソレント(擎天半島)という息子夫婦の住むところに25分で着いた。

 ソレントとは50階建前後の5棟からなるマンション群だが、3~400メートル四方からなる広大な庭園を取り囲むように、高層のマンション群やホテル、オフィスビルが建ち、その一角である。
 ほかに国際貿易センターというビルもあった。一部はまだ工事中だったがおそらく全体で1万戸以上、3万人前後は住むのだろう。庭園は地上3階部分にありその下、1階と2階部分が商店街やレストラン街、地下がバスターミナルや駐車場、さらにその下が地下鉄の九龍駅となっている。九龍駅もさらに3層になっており、上部が空港へ行く機場快速線用のチェックイン・カウンターや地下鉄の改札口、その下が空港とを結ぶ機場快速線専用の対交式ホーム、そして最下部が東涌線の島式ホームである。両線ともこの先は海底トンネルをくぐって香港島へ続く。駅の開業は1998年とのことだが、このように街の形態を成してきたのはここ2~3年のことらしい。埋立地の上に立つニュータウンというか一大市街地である。

香港から広州へ

 翌日は列車で広州に向かったが、その前に今回の香港行きの目的のひとつであるスーツを仕立てるために、香港島に渡り繁華街の古いビルの中にある洋服店に行った。息子の嫁が予め探しておいてくれた2~30坪の小さな店だったが、多くの生地が置いてあり採寸し帰国日までには出来上がるという。背広の他ワイシャツ3枚で4万円少々だった。

 いったん息子のマンションに戻り、会社を早退してくれた息子と嫁、家内とタクシーで中国本土への直通列車の始発ターミナル紅磡(ホンハム)駅に向かった。駅は国境の羅湖や落馬洲へ行く郊外電車ともいうべき東鉄線のための上下各島式ホーム4線の他に、長距離用の島式ホームのある、西明石型の駅である。半地下式のホーム全体を包むように橋上駅舎があり、一部が出入境用の設備になっている。国際線の飛行機に乗るような感覚の出境手続をし、手荷物の透視検査はあったもののボディチェツクはなかった。なお香港返還後も50年間は1国2経済体制を採るということで、中国本土からみて香港は外国扱いになっている。

 広州へは直通列車が日に12往復あり、3往復が香港側の鉄道会社MRT、残り9往復が中国側の広深鉄路が運行する。乗ったのは広深の方でEL(電気機関車)牽引の客車列車だった。編成は10両程度で、すべてが1等車、全車座席指定で我々4人はボックス・シートの車両だった。座席はそれほどゆったりしたものではなく、日本の165系急行電車のボックス席程度のスペースと座り心地だ。この他に一方向に向いたシートの車両があり、こちらの方がゆったり感はありそうだが回転はできず集団見合い型だった。どちらかというと冷たい感じの真面目そうな女性乗務員が、飲料水の入ったペットボトルと小さなペーパータオルと、入境用のカードを配っていた。

 紅磡から羅湖(ローハウ)までの香港内35キロほどは3~4分毎に郊外電車が走っており、途中で1本追い越しをしたもののノロノロ運転が続いた。羅湖駅では近郊電車のホーム横の通過線に入り一旦停車、運転手の交代があったようで、すぐに発車し境界となっている幅の狭い羅湖河を渡った。並行して羅湖駅で降り深圳市内に入る、またはその逆の歩行者用の屋根付きの歩道橋がある。実は一昨年ここを深圳から歩いて入国したが、正月の川崎大師の参道のようにゾロゾロと歩く人の多さに圧倒された。

 列車はすぐに高層ビルの谷間にあるような深圳駅に停車しすぐに発車した。発車後もいつまでたっても高層ビルが続く、というよりも広州東駅までの約140キロの間途切れることなく延々と続いていたといっても過言ではない。中国の鉄道というと広大な大地のなか、ところどころ農家が点在するといった茫洋とした光景を想像していたが、車窓の両側には線路近くに常に集合住宅か、工場か、倉庫などが見えていて途切れることがなかった。

 線路も複々線で列車は時速120~130キロで走っているようだ。ところが途中で並行する線路を走る「和諧号」という新幹線スタイルの電車に抜かれてしまう。向こうは時速200キロという。「和諧号」とは広深鉄路が運行する深圳駅・広州東駅間を走るローカル電車で、カナダのボンバルディア社との提携による中国製の高速専用車両だが、1時間に3~4本という高頻度で走っている。途中駅ノンストップのものと各駅停車のものなどがあるが最速のものは所要52分という。

 線路別複々線になっているのだが、面白いのは長距離の優等列車の走るこちらの線路の方が普通は高速運転するはずなのに、ローカル列車専用と思われる方が新幹線並みの高速運転をしていることだ。もっともローカル路線と言っても深圳・広州東間に駅は5つくらいしかなく、まさに日本の新幹線並みの駅間隔だ。最近日本のJR各社は新興住宅地に合わせて新駅をどんどん造っているが、中国では市街地がこれだけ密集していても新駅は作っていない。何か考え方があるのだろうか。

 広深鉄路(廣深鐵路)というのは中国国鉄の子会社だが、株式を公開しており香港、上海だけでなくニューヨーク市場にも上場している。業績もかなり良いそうだがそれも頷ける。深圳から広州までは、その間にある東莞市を含め世界的にも産業が集積する人口稠密地域だからだ。正規に登録されている戸籍人口は深圳市197万、東莞市165万、広州市770万だが常住人口はそれぞれ850万、750万、1000万人と言われこれだけで2600万人もの人が住んでいることになる。中国の市というのは我国の県なみの広さがあり、この3市で東京都、神奈川県、千葉県を足したくらいの面積があり、たまたま日本のその1都2県の人口合計が2700万人ほどだから、まさに同じくらいの広さのところに同じくらいの人が住んでいるということになる。

 そうだとするともっと稠密な鉄道網があっても良く、並行したり枝分かれする多くの路線があってもおかしくない。広深鉄道だって3複線にして、1~2キロごとに駅を作ればさらに飛躍的に客が増え収益が上がるだろう。ただしこれだけの人口があるとは言っても、そのうちのかなりの多数は地方から出てきた単純作業をするワーカーで月給が1万円くらい、工場の寮などに寝泊まりして月給の大半は故郷へ仕送りしているという。

 都心へはおろかほんの近くへも出かけないそうだから交通産業の顧客とは今は言えないのかも知れない。しかしいずれは所得水準だって上がるだろうし、余暇もできるだろ。そうなればちょっと広州へ買物や映画を見に、などという人が増えるかも知れない。鉄道産業にとって将来性のある、利益の期待できる地域である。日本のJRや大手私鉄などもこの地に進出して大量輸送ノウハウを生かした鉄道ビジネスを自ら行うか、投資と技術援助を考えてみたらどうだろうか。

 列車は途中東莞駅のみに停車、半分近くの下車客があった。この路線は日本人のビジネス客の利用が多いそうだ。香港に住み深圳や広州などに出張するパターンが多く、だから始発となる紅磡駅付近は日本人が多数住んでいると聞く。

 もう日が落ちてすっかり暗くなった頃広州東駅に到着した。広州駅(本駅)はさらに8キロほど先だが香港への直通列車や「和諧号」の大半の列車はここが始発駅である。なお2015年ころには北京と広州を結ぶ高鐵という高速鉄道が香港まで延伸され、4~50分で香港島中心部まで行けるようになるそうだが、広州では新しい南駅に発着するとのことである。

紅磡(ホンハム)          16:35 →  18:42 広州東                 広深鉄路

 広州東駅のホームは高架上にあるが、入境管理はホームを覆うような橋上部分で行うのでエスカレーターで登り、そこで手続きをして、今度は下りのエスカレーターを何度か乗換えやっと地上に降りた。香港に比べると全体に照明も暗く、人の数は相変わらず多いがなんとなく殺伐とした感じがするのはやはり中国という先入観からだろうか。予約しておいたホリデーインは市内の繁華街である上九路にあり、東駅からだと15キロくらい離れている。品川駅から池袋の繁華街に行くくらいの距離感だ。長い列に並びタクシーに乗ったが、渋滞の激しい場所がいくつかあり、50分近く要した。それでもタクシー代は41元、700円くらいという信じられないくらいの安さだった。初乗りが7元、100円程度である。

 ホリデーインの目の前が有名な広州酒家で、ホテルにチェックインし部屋で一服し店に入ったのは22時閉店の1時間くらい前だった。頼んだ紹興酒が来た頃には、オーダーストップになるだけでなく、客の帰ったテーブルを片付けはじめ、照明を落とし早く帰れと言わんばかりだ、市場経済化の先進地域と言われていた広州も、やはり客へのサービスはいまいちのようだ。逆にホテルはそこしか空いていないということでスィート・ルームだったが、通常のツインと同額で朝食付きで733元、1万円少々で随分お得感があった。
一方ではこういう融通性も出てきているようだ。

広州市内観光

 夜半から朝にかけかなりの豪雨で、朝食の間もホテル内レストランの大きなガラス窓を雨が叩きつけていたが10時頃にはそれも止んだ。ホテルから南に珠江に向かって歩く道は、車が2台やっと通れるような狭い車道の両側に南方系の並木と歩道があり、小さな商店がギッシリと並び、大勢の人が行き交っていた。香港とも違う、これが正に中国の街の風景なのかも知れない。大雨の直後だったためか並木の緑が鮮やかで、道路もきれいだった。そうでなければもっと埃と車の排気ガスとで不快になったのではないだろうか。

 1キロくらい歩くと珠江の川岸に出るが、そこはかつての欧米列強の租界地だったシャーメン(沙面)である。長崎の出島のように、狭い水路の石橋を渡るとコロニアル風の洋館が立ち並ぶ。ここは珠江に面する岸の一部を幅50メートルくらいの運河によって陸から切り離した東西1Km、南北300mくらいの長方形の島である。1857~60年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)の結果、島の西部がイギリス、東部がフランスの租界地となった。中央にある南北を結ぶ道路がその境界だったそうで、遊歩道には当時の人々の姿を現している等身大のブロンズ像が立ち並び、それらを見ながら歩くのは楽しい。また東西には沙面大街という、中央にグリーンベルトのある広い道があり、1階が骨董品店などになっている洋風建物が並んでいた。

 広州市は古代から中国の南海貿易の中心地として発展し、8世紀唐代には多数のイスラム人やユダヤ人が訪れていたという。明代には南海諸国からの朝貢船入港地となり、1750年代からは清で唯一の対外開放港となり欧米諸国との貿易が行われた。1841年の第一次アヘン戦争中には一時英軍に占領され、その後上記の経緯を辿り租界ができたのである。長崎とか出島を連想させる広州であり沙面だった。

 旧租界地から運河を挟んだ反対側には10車線くらいの広い道路があり、バス乗場にはひっきりなしにバスが停まっては大勢の客が乗降していた。その道路に沿うビル群には数百はあると思われる小さな乾物屋ばかりが入っていて、見たこともない海産物や昆虫らしきものの干物がぎっしり詰まった樽が所狭ましと並び、買物客でごった返していた。香港の食材もこんなところから仕入れているのだろうか。

ホリデーイン                 10:30 → 11:00  沙面                               徒歩      

沙面                               12:00 → 13:15       ホリデーイン                 徒歩      

ホリデーイン                 13:30 → 13:45      茶城                               タクシー             

 ホテル前の上九路に戻り、今度は珠江対岸の芳村というところにある茶城にタクシーで向かった。珠江は橋でなく川底トンネルをくぐって渡った。ここはお茶に関するありとあらゆる店が1000軒以上集まったお茶の卸団地といったところだ。茶葉を売る店だけでなく茶器はもちろん、茶室の備品から茶の小売店用の設備一式を売る店など、浅草河童橋のような、ここへ来れば茶屋を開くためのすべてのものが手に入るというところのようだ。広い道路の両側に、1キロ四方はありそうな広いところだった。茶葉を売る店では数種類の商品を試飲させてくれる。一軒の店で値切り交渉をして買ったが、得だったのか損をしたのかはわからない。

 再度タクシーで市の中心部にある「中山紀念堂」に行った。辛亥革命の指導者孫文を讃えて広州市民や海外華僑の献金によって1931年に建てられたものだ。5千人を収容できるという八角形の大ホールで、5元で中が見学できたので、ホールの椅子で暫し休憩することができた。高さも47メートルという壮麗な建物で、正面には広い花壇があり孫文の銅像も立っていた。

 孫文は明治維新の2年前、1866年に広州市の南隣にある中山市で生まれた。マカオで医師を開業したが、革命のための資金集めなどで世界中を巡り、1911年には辛亥革命のもととなる武昌蜂起を行っている。その後清朝の高級官僚だった袁世凱との争いに敗れ日本へ亡命、袁の死後広州で政権を樹立し中国の統一を図った。21年彼が大統領に就任したときの官邸の跡地がここだそうだ。ホール内では孫文を紹介するビデオがスクリーンに流れていたが、疲れていて半分夢見心地で見ていたら突然日本語が出てきてびっくりした。日本亡命時のシーンだった。

 孫文は清朝を倒した革命家であるが基本的には自由主義(資本主義)者であり、それに続く蒋介石など国民政府を倒したのが毛沢東であり、そこから続く共産党一党独裁の現代中国にとっては敵になるのではないのかと思っていたが、「近代革命の先行者」として、また近年では「国父」として尊敬されているという。なお中国では孫中山の名称が一般的に使われているとのことだ。

 近くには広州市役所があり、中華風の堂々とした庁舎には「広州市人民政府」と書かれていた。周辺は官庁街で、神宮外苑のような木立や芝生の広場が広がっていた。さらに歩いて六榕寺という古い寺を見たり、デパートに寄ったり、光州市文物総店という国営のアンティークショップで家内が陶器を買うのをつきあったりして、地下鉄で広州東駅に戻った。

 広州の地下鉄は、1号線から4号線まであり全長112キロ、1997年中国で4番目に開通したものだが、わずか10年で100キロを越える延伸を行っている。最も早く開業した1号線に乗ったが、ホームドアもあり車両もきれいだった。数年前上海の地下鉄で体験した、ドアが開くと降りる人がいようがいまいが一斉に乗り込むという秩序のなさはここにはなく、ちゃんと降りる人を待ってから乗車する整然さがあった。硬貨のような円形のプラスチックカードが乗車券で、改札口に挿入してターンバーを押して入る方式だった。農講所という駅から乗り6駅、15分ほどの乗車で運賃は3元だった。

茶城                               15:21 → 15:46               中山記念堂                     タクシー             

中山記念堂                  16:10 → 16:25               広州市役所                     徒歩      

広州市役所                 16:30 → 16:45               六榕寺                              徒歩      

六榕寺                        17:05 → 17:30               広州市文物総店                徒歩      

広州市文物総店        17:55 → 18:02               農講所                                 徒歩      

農講所                       18:06 → 18:20               広州東駅                 地下鉄1号線   

 東駅高架下の海鮮料理屋で夕食を取り香港に戻った。あわただしい1日だったが一言で広州の印象を述べると、なかなか風格のある都市であると言いたい。広東省人民政府が置かれる省都であり中国では上海、北京に次ぎ三番目に人口が多い。

 日本の総領事館もあり、そのHPによると広東省というのは総面積が18万平方キロで日本の約半分の広さがあり、そこに約9千万人の人が住んでいる。その中で副省級市といわれる大幅な自主権が与えられる都市が広州市と深圳市で、中国には15の副省級市があるが、ひとつの省に複数あるのは広東省だけである。

広州東駅                        20:23 → 22:35               紅磡                               列車

紅磡                               22:55 → 23:03               ソレント                        ミニバス             

広州と香港の歴史を学ぶ

 昨夜は遅く息子の家に戻り、翌朝はゆっくりと九龍地区を徒歩で巡り、タクシーで香港歴史博物館に行った。なかなか見ごたえのある博物館だ。かなり広いスペースに地質時代から始まり中世、西欧列強からの影響を受けた近世、今次大戦での日本軍占領から戦後、そして返還にいたるまでの遺物や様々なディスプレイ、映像資料などが充実していた。

 説明書きは中国語(広東語?)と英語だったが、特に中国の歴史に関するところなどは漢字を見ていると大体言っていることがわかる。漢から隋唐、宋、元代あたりのものも充実していたが、さらに面白いのはアヘン戦争あたりからだ。ゆっくりと見ていたら19時の閉館時間が迫って来て、太平洋戦争時の日本軍の占領や戦後についてはサラっと一通り見るだけになってしまった。

 というのは特別展として「フランス革命展」というのをやっており、共通入場券を買っていたのでこれも見ないと損だと思ったからだ。フランス展の方は写真と地図が多いもので、ルイ16世の治世末期からナポレオン3世に至る100年間くらいのものだったが、なぜか大ナポレオンの記述がほとんどなかった。こちらはもっとサラっと、15分くらいで走り抜け、閉館の鐘を聞きながら退出した。

 博物館には再度来て、特にアヘン戦争以後をゆっくり見たいと思う。
19世紀中頃イギリスは清から茶や陶磁器、絹を大量輸入しており、英の大幅な輸入超過となっていたので植民地インドで栽培するアヘンを清に輸出する事で相殺しようとしていた。清では従来からアヘン輸入を禁止していたが、密輸入が拡大し国内にアヘン吸引の悪弊が広まるとともに支払いのために銀も激しく流出しはじめた。当時清は銀本位制であったこともあり、国の経済にも深刻な影響が及んだ。

 皇帝より命を受けた高官林則徐は広州に赴き非常に厳しい取り締まりを行ない、英国商人が保有していたアヘンを没収し焼却処分にした。英国は激しく抗議をしたものの林則徐も強固でなかなか解決に至らず、それがエスカレートし1839年11月には開戦となった。英本国でも野党を中心に「不正義な戦争だ」と反対が多かったものの僅差で承認された。

 英東洋艦隊が天津沖に迫り、恐れをなした清政府は林則徐を解任するとともに、対英政策を軟化する。やがて42年8月、両国は南京条約を結び戦争は終結した。この条約は清にとっては香港の永久割譲のほか広州、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、多額の賠償金を支払い、さらに治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項を認めるなど不平等なものだった。

 しかしこの条約調印後も清国内での反英運動は衰えることがなく、英にも期待した程の商業利益は上がらなかったので、英政界ではさらに清に圧力をかけるべきだという意見が強くなってきた。そんなところに1856年10月アロー号事件が発生した。清の官憲が英船籍を名乗る中国船アロー号を臨検し、英国旗を引き摺り下ろし清人船員を拘束、海賊の容疑で逮捕したもので、英広東領事が抗議したものの交渉は決裂した。英海軍は広州付近の砲台を占領、これに対して広州の反英運動は頂点に達し居留地が焼き払われたりした。このときも本国では議会の反対により本国軍の派遣が頓挫したが、解散総選挙で首相は議会の支持を得て兵士を派遣した。同時にフランスも宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。

 57年12月、英仏連合軍は広州を占領、海上でのいくつかの会戦を経て60年、連合軍が北京を占領し北京条約が締結された。この条約により清は英国に対し九竜半島を割譲した。そして1898年には新界地域の99年間租借となったのである。イギリスの中国に対する行動は、当時の本国でも強い異論が出るくらい正義に欠けた不当なものだったことが良くわかる。それなのに中国人のイギリスに対する悪感情は、日本へのそれに比べるとはるかに少ないような気がする。今次大戦前から日本軍は中国を侵略し、それはかなり過酷なものだったというが、私にはイギリスと日本とどちらが中国に対しより悪辣だったのかはわからない。しかし現在の中国人の日英への感情の差ほどには違わなかったような気がするのである。

香港の鉄道乗り歩き

 今の香港は、おそらく世界で東京に次ぐくらい近郊鉄道の発達した都市圏だと思う。地下鉄の路線数や距離では、ニューヨークやロンドンなどには及ばないが、郊外電車の運行頻度などからすると東京の大手私鉄と同等といっていいくらいのサービスを提供しており、利用者も多い。それを提供しているのが、MTR(Mass Transit Railway)という香港鉄路有限公司、MTR Corporation Ltd.である。

 香港にはもともと九広鉄道(KCRC九広鉄路公司)があり、これは広州に行くときに乗った路線の前進である。私が初めて香港を訪れた1973年当時は、単線非電化で客車列車が1時間に1本走っていた程度のものだったが、80年代頃から郊外の宅地化の進展とともに複線電化、さらに電車化を行い、東京郊外の私鉄並みに多頻度運転を行うようになった。さらに九龍半島の西側にも、西線と称す複線電化の新線を開業し、これも多頻度で運行するなど、田舎の鉄道風だったものが急激に近代化した。

 一方、1975年に香港政庁の全額出資による地下鉄会社(MTRC地下鉄路公司)が設立され、地下鉄を香港島と九龍地区で運行を開始、これも次第に郊外でのニュータウンや、新空港まで延伸した。そしてこの地下鉄会社が民営化し、2007年九広鉄道を吸収し、MTR(Mass Transit Railway)となった。香港島内のトラムとケーブルカー以外の、すべての鉄道を運営する他に、バス路線の運営や沿線の不動産開発などの事業も行っている。

 MTRはその後も発展を続け、隣接する深圳にとどまらず、北京や上海、杭州の地下鉄の一部路線の経営を行うほか、ロンドンのオーバーグラウンド(郊外を環状に走る地上鉄道)の経営など、世界企業に育っている。

 広州から戻った翌日、香港島の件の洋服屋に仮縫いに行った後、鉄道探訪をした。およそ25年ぶりに乗ったスターフェリーはちっとも変っておらず昔の船で料金も1等で2.2H$、30円くらいと地下鉄の1/3以下という安さだった。香港島側の埠頭は当時よりも埋め立てでかなり沖合の方に移転したと思うのだが、ターミナルの建物は古い格調の高いものだった。建物ごと移転させたようだ。

 尖沙咀のピアから5~600メートル海沿いに東の方に歩くとMRT東線の現在の終点である尖東の地下駅がある。これはさらに九龍半島を時計まわりに伸ばしMRT西線の現在の終点である南昌まで1~2年のうちに結ばれることになっている。そうなると東西両線が結ばれ、直通運転も行われるようになるだろう。現在の九龍駅のすぐ横には九龍西駅ができ、そうなるとソレントもますます便利になるはずだ。

 まず東線のタイポーマーケット(大埔墟)駅近くの香港鉄路博物館に行ってみた。電化前の旧大埔墟駅の駅舎があり非電化時代のDL1両と客車数量が保存されていた。私が1973年初めて香港に来たときに乗った車両である。これら以外に旧駅舎内に当時の写真などが展示されていたが、入場無料だったこともあり期待していたほどではなかった。現在の大埔墟駅から歩いて10分くらいだったが、郊外のひとつの駅に過ぎないのに人が多く、渋谷駅前の雑踏の中を歩いているようだった。

 その後は2年前に開業した支線である落馬洲支線に乗りに行った。終点羅湖のひとつ手前の上水という駅で分岐している。73年当時スターフェリー埠頭すぐ横の尖沙咀駅から出る客車列車はすべて上水が終点だった。その頃は全くの農村地帯で、ホームが1本だけの駅周辺も閑散としていた。その先へは中国本土に入国許可された客しか行けなかったはずだ。そのような上水も、今は大きなビルに囲まれた首都圏の駅周辺のような風景で、ここでも渋谷並の雑踏だった。

 落馬洲支線は全長7.4キロだが上水を出るとすぐに5キロ以上はありそうな長いトンネルに入り、出ると周囲は池か沼が多数ある湿地帯で、電車は大きなカーブを描き羅湖川の川岸の高架上に作られた落馬洲駅に到着した。幅100メートルもない川の対岸は深圳で、高層ビルがぎっしりと建っていた。こちら側は駅があるだけで建物などは皆無だ。ホームからエスカレーターで階下に降り、改札口を出ると正面は香港の出境ブースしかない。それ以外にはどこへも行けそうになく、ここは中国本土に行くためだけの駅だったようだ。 ホームに戻ろうとしても改札ゲートは出口ばかりで入口がない。

 警官がいたので「間違ってここに来てしまった、上水に戻りたい」と言うと、「羅湖に行きたかったのか」と聞かれた。「そうだ」と答えると「ここからでも行ける」と言われそうだったので「上水で降りるつもりがうっかり寝過ごしてしまった」と真っ赤なウソを言った。「ついて来い」と言われ従うと、立入り禁止と書かれた通路からエレベータに乗せられた。降りたのはホームの一階上で、ここも広々としたところに香港入境客用の入口専用の改札ゲートが並んでいた。そこから入り、今度は下りのエスカレーターでホームに降り再び上水方面から来た電車に乗った。

 後で調べると、この駅は香港と深圳との境界の緩衝地帯内にあり、外には出られないようになっていたようだ。この線路は相互訪問者の増大により従来の羅湖・深圳の出入境施設だけでは手狭になってしまったため、新ルートとして作られたそうだ。この駅からは上下二層になっている大きな橋で深圳側の福田という所と繋がっており、川を渡ったところには深圳地下鉄4号線の福田口岸駅がある。落馬洲駅ホームにも地下鉄乗場の案内が出ていた。

 出境・入境のゲートは数十並んでおり、ブースは羅湖や深圳のものよりも広かったと思う。それでも利用客は少なく全体に閑散としていた。見たところ福田も大変賑わいがありそうだったし、地下鉄との接続もあるのだからもっと利用客があっても良さそうなのに、やはり羅湖・深圳とは違うのだろうか、大阪の地下鉄で四つ橋線や堺筋線ができても御堂筋線の客がちっとも減らないのと同じような気がした。なお今は東線の電車の3~4本に1本が羅湖行きではなく落馬洲行きである。 なお2015年ころ開業予定の北京広州間の高速鉄道の香港までの延伸路線は、深圳市内ではこの福田に駅ができるそうである。

 もうひとつ、これも開通が2004年12月とまだ新しいに馬鞍山線にも乗ってみた。東線のタイワイ(大囲)という駅から沙田方面に細く切り込まれたような入江に沿って、沙田競馬場などの対岸を走りウカイシャ(烏溪沙)というところまで行く、途中駅が7つ、14.4キロの路線だ。ここもずっと高層マンションの谷間を走る。

 東線とは直通運転しておらず、またこの線だけは右側通行になっている。それは大囲駅が両線それぞれ対向式ホームになっているので、乗継を便利にするためと思われる。この方式は特に朝の通勤ラッシュのときなど混雑を避けるのに効果的だが、それ以外の時間帯でも連絡通路の流れが一方向だけで済むので非常にスムーズに行く。香港の複数路線の交わる地下鉄駅は乗換えが便利なように良く考えられた構造になっているが、ここでもそれを感じた。

 なお西線の終点元朗(ユンロン)までは前回来た2007年に乗っている。このときにはその付近を網の目にように路線を張り巡らせている、これもMRTが運行している軽鉄(ライトレール)の一部にも乗車しているので、文末に補足として記載した。

 また有名な香港島の2階建てトラムには、ほとんど毎回乗車しているが、車両などは更新しているのかも知れないが、少なくとも外見や内装は初めて乗った73年当時から何も変わっていない。このトラムとビクトリアピークに登るためのケーブルカーだけはMRTとは別企業のままである。

 香港での5日目、最終日は午前中尖沙咀にあるペニンシュラホテルやオーシャンビルで家族の買い物に付き合い、午後はまた単独行動をした。東涌線や機場快速の写真を撮りたかったのでランタオ島ディズニーランド線との分岐駅の欣澳(サニーベイ)に行った。ランタオ島へ渡る吊橋は全長2200メートルで上部が道路、下部が鉄道の2層式だが、なぜか鉄道部分は両側が壁に覆われている。橋の前後もトンネルなのでずっとトンネルが続いているという感じで、橋を渡っていることに気がつかない。車で通ると素晴らしい景色だが、電車からではそれが見えないというのは残念である。

 ランタオ島は香港島の西方にある大きな島で、東京都の足立・葛飾・江戸川の3区を足したくらいの面積だ。なお香港特別行政区全体の面積は1,104K㎡で東京都全体の約半分である。以前は辺鄙で長閑な島だったが、新空港がこの島に出来たのを機に鉄道や道路で中心部と結ばれるようになり、すっかり郊外のニュータウンのようになってしまった。このランタオ島に渡る直前の駅である青依(チンイ)は地下鉄東涌線と機場快速線との乗換えができる駅だが、ここも二層になっていて、それぞれに広々とした対向式ホームがあり混雑を感じさせず客の流れはスムーズだった。ここも厳密に言えば狭い水路で本土を隔てた小さな島なのだが、高層マンションと大規模ショッピングセンターに囲まれた駅だった。

 夕方出来上がった背広を受け取りに香港島に行って戻り、夜行便での帰国のため夜11時頃息子の家を出た。エレベータで降りただけで、九龍駅構内にある全日空の搭乗カウンターで荷物を預けエアポート・エキスプレス (機場快綫)で空港に向かった。この時間帯でも10~15おきに走っており22分ほどで空港に着いた。

九龍                                  23:28 → 23:50 機場                                   MTR機場快線

香港AP                           1:53→   6:35 羽田空港                      NH1276(2:05/6:30)

 離陸後日本の新聞などに目を通し、そろそろ寝ようかと思っていたら朝食を配りに来て、それが済むと降下を開始、香港離陸後わずか3時間半で羽田に着陸した。このまま会社へ行かなければならない現役時代と違って今はこのような強行軍でも全く構わない。

 香港・広州では実に効率良くいろいろな場所に行けた。これも入念な事前調査をしてくれた息子夫婦のおかげである。また嫁が良く家内の相手をしてくれ買物などに連れ出してくれたので、私も心置きなく単独鉄道探訪ができた。感謝すること大である。

補足:香港の軽鉄 2007年7月

 今回の旅行の2年前、2007年の香港訪問時に新界西部で走っているライトレール(軽鉄)に乗った。ハード/ソフトを含めサービスレベルの高い交通機関であり、早く日本でも本格的なものが実現してほしいと思う。以下はその時の記録である。

 この路線は九広鉄道(KCRC)によって1988年ころから順次開業し、狭い地域の稠密な路線を走っている。車両は1両か2両編成で、終点は香港島のトラムと同様ループ線になっているので運転台は進行方向のみ、ドアも進行方向左側のみで、ヨーロッパの路面電車に多いタイプである。道路上を走ることもあるが、専用軌道が多く、高架線もある。最高営業速度が70キロだそうだ。

 ほとんどの客はICカード(オクトパス)をホームにある読取機にタッチして料金支払いをするだけで、改札口ななどはない。切符を買って乗車することもできるが、乗務員もチェックせず、完全な信用乗車方式である。ヨーロッパでは一般化しているが、日本を含むアジアでは初のケースではないだろうか。客のモラルも高いのだろう、見たところ無賃乗車をしているような客は全くおらず、乗降も非常にスムーズでこの方式がすっかり定着しているようだ。日本もどこかで早くしてもらいたいものだ。

 なおオクトパス(八達通)というのは、香港内の地下鉄、鉄道、バス、香港トラム、軽鉄、フェリー、ケーブルカーなどほとんどの公共交通機関において使用が可能な、日本のスイカのような非接触型ICプリペイドカードであり、またコンビニやレストランの一部でも支払いに使うことができる。日本との違いは、オクトパスの方が現金よりも10%くらい安いことだ。

 2007年当時KTCR西線は美孚(メーフー)というところが九龍側の起点で、そこまでは地下鉄荃湾線で行きそこで乗り換えた。電車はずっと田園風景の中を進んだが、15分ほどで高層マンションの立ち並ぶニュータウンが現れ終点屯門に着いた。駅のすぐ前に軽鉄の乗り場があり、フェリー桟橋ターミナルまで乗った。香港にいくつかあるバス・ターミナルの形状をしており、7~8本の並列するプラットホームのうち3つが軽鉄用の乗降用になっていた。 そして今度は、KTCR西線に平行して香港側に2つ先の駅である元朗まで行く路線に乗った。専用軌道を時速70キロくらいで走り快適だった。