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卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第11部 ~ 日没する処の魔王 ~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その27)

葦田川風

我が村には、昔から蛇が多い。輪中という地形なので湿地が多く蛇も棲みやすいのだろう。更に稲作地であり野鼠やイタチ、カエルと餌が豊富である。青大将は木登りが上手い。そのまま高木の枝から飛べばまさに青龍だろう。クチナワ(蝮)は強壮剤として売れる。恐い生き物は神様となるのが神話の世界である。一辺倒の正義は怪しい。清濁併せ飲む心構えでいないと「勝った。勝った」の大本営発表に騙される。そんな偏屈爺の紡ぐ今時神話の世界を楽しんでいただければ幸いである。

卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第11部 ~ 日没する処の魔王 ~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その27)

第11部 ~ 日没する処の魔王 

幕間劇(30)「共同と協同と協働」

 昭和四十九年、英ちゃんは大学院を卒業した。研究者として大学に残るか、留学して国際情勢を肌で感じるか迷ったが、まずはこの国の社会の仕組みを知るために地域の生協に就職した。とは言っても入社試験や面接はなく、大学生協の理事の延長のようなものである。だから就職して社会人になったという実感はあまり湧いていない。大学生協と違うのは配達業務が加わったことくらいである。その配達も運送業というより、竜ちゃんの家の行商に近い。そして生協自体も事業体というより村の共同体的である。だから職員というより専従組合員のようであった。組合員も「職員さん」とは呼ばず「専従さん」と呼ぶ。

 生協の社会的な認知度はまだ低く、新興宗教に間違えられることも多々ある。先頃も組合員拡大の戸別訪問の際に「こんにちは、生協です」と声を掛けたら、「我が家は先祖代々の浄土真宗だから、そんな新聞はいらない」と拒絶された。その運動の「未来のために既存の価値観を変えて生活をしよう」という点や、その話を理屈っぽく語るところは、確かに宗教運動に似ている。一般的な企業の営業活動と比較すれば、生協運動も新興宗教の布教運動も、その熱心さでは共通していた。しかし、共同仕入れを発端とする生協は「協同組合」であり、その組織が目指すものは「協働」による社会作りである。つまり、相互扶助の理念が柱なのだ。だから教主の存在や一党独裁の革命集団とは違うのだが、それを一般の人々に理解してもらうのは、なかなか難儀であった。

 産業革命によってもたらされた近代社会は、中央集権による組織作りと、進化論を拠り所とした競争原理の社会である。さらに都会人の多くは、村落共同体の絆を断ち切ってきた人々である。そのため、相互扶助の理念は空想的な話だと思われる傾向が強かった。この時代、日本人は自信に満ちており、「貧困」は努力で克服でき、「差別や偏見」は勉学でなくせると信じていた。そして、それをなすのは我が力である。皆が「地力」を発揮さえすれば、「働けど働けど我が暮らし楽にならざる」や「オイ(俺)は身分違いですけん」といった言葉は、過去の暗翳(あんえい)に沈む話だと思っていたのである。

 しかし、人類の歴史の中で、そんな理想的な世界が長く続いたことはない。世界史の大半は「貧困」と「差別や偏見」、そしてその捌け口としての戦争の時代である。千年単位で歴史を区切れば、近代もまた「春秋戦国時代」の枠組みの中にあるのかもしれない。過去千年を振り返れば、平和だった時代は激流の中の飛び石程度であろう。皆が地力を発揮し、理想的な民主社会あるいは平等な社会を生み出せるのは、理不尽とは無縁な平和な時代のみである。戦後民主主義は恒久平和を作り出すだろうという楽観論もある。そうあってほしいものだが、現実は、「貧困」も「差別や偏見」もなくなってはいない。

 英ちゃんは「差別はなくならない」と思っている。でも「減らすことはできる」とも考えている。しかし、それは教育の力ではなく、協働社会によって生み出されるべきだと考えていた。だからこそ、学問の道ではなく協同組合の中での組合員活動を通して、それを実感しようとしたのである。何故なら、英ちゃんの生涯の研究テーマは『賎民文化と協働社会~祭りの起源~』だからである。

 菜の花の香りが辺りを包んだ気がした。南風が筑後川の河原から運んできたのだろうか。英ちゃんは少し小奇麗な格好でアパートを出た。今日はささやかな祝いの席が設けられている。マリーが美大の先輩で映画人の松本義彦と結婚したのだ。マリーは二度目の結婚でも、やっぱり結婚式は挙げなかった。そのため、美夏ちゃんが劇団の皆を集めて「極私的披露宴」を企画したのである。とは言っても、やっぱり式典らしいものはなく、皆いつもより少しお洒落をして集まるのであった。

 英ちゃんは就職して社会人になっても、新宿の百人町で暮らしている。アパートは何度か変わったが、どれも陳会長の紹介である。陳会長は、英ちゃんの父ちゃんと一緒に浦項(ポハン)の港から船に乗り、九州の炭鉱を渡り歩いた仲だ。今でも「良か、良か」が口癖である。落盤事故に遭い右足を引きずって歩いているが、いたって元気である。しかし、二年前に五十歳を迎え、「これが人生最後じゃろ」と九州に里帰りをした。親友と別れの盃を交わしに行ったのである。英ちゃんの父ちゃんもそうだが、本当の故郷である朝鮮へは、もう帰るつもりはない。そういう覚悟で船に乗ったのだ。日本で生きていくのは辛いことも多かったが、朝鮮に留まっていても良いことは何一つなかった。両親が存命の間は仕送りを続けていたが、亡くなってからはその必要もなくなり、祖国との絆という「柵(しがらみ) 」は消えた。だから、今は百人町が新たな祖国であった。

 祖国は、政治的な国家と同義ではない。例えば、陳会長と美弥ちゃんが生まれ育った国家は既に存在しない。大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も、二人が朝鮮を離れた後に誕生した国家である。だから、今の国籍などどうでもよかった。しかし、二人は娘が生まれた際、そろって日本国籍に帰化した。だから娘の陳明美は、母の祥子と同じ日本国籍を持つ秋田美人である。その二人を伴っての九州旅行であった。英ちゃんの妹の名も「明美」である。父ちゃんと陳会長は、相談して同じ名にしたわけではないが、やはりどこか気が合う二人なのだろう。

 二人の明美はすっかり仲良くなった。陳明美と新井明美は三つ違いである。一人娘だった陳明美は、姉ができたと喜んだ。陳明美は今年十五歳になる。家庭教師は英ちゃんなので、成績は非常に良い。希望する進学校へはどこでも入学できる学力があるが、進学先は都立高校に決めている。少しでも親に甘えたくないのだ。陳明美はとてもしっかり者である。将来の夢は、父の焼肉店「玄風軒」をもっと大きくすることだという。そのために大学では経済学を学ぶと意気込んでおり、陳会長は鼻高々であった。

 秋、新井明美が上京してきた。大学進学の下見である。才女である彼女は受験先に迷いはなかったが、都会への憧れを抱いていた。親孝行な明美は、心の内では地元の国立大学に入るつもりでいたが、東京への未練も断ち難かった。その思いを吹っ切るために上京したのである。かつて九州は、東アジアの拠点ともいえる地位を占めていた。しかし今は、日本の中にあっても辺境の地である。そのコンプレックスを、九州人はどうしても払拭できない。東京の人間が九州人に優越感を持っているわけではない。むしろ東京育ちの青少年には、九州や北海道は憧れの地である。つまり、そのコンプレックスは幻想なのだ。幻想を打ち破る手段は、現実の世界を知ることである。そこで明美は、東京の空気を吸ってみようと思い立った。

 新井明美の上京を一番喜んだのは、陳明美だった。新井明美は当初、兄である英ちゃんのアパートに滞在する予定だったが、陳明美が強引に自分の部屋を滞在場所に決めてしまった。陳会長も、高校受験を控えた娘のもとに優秀な家庭教師がやってきたことを大いに喜んだ。こうして新井明美の二週間の東京暮らしの拠点は新宿となった。新宿は、東京でも最先端の都会である。その大都会の隅々を、二人の明美は飛び回った。

 最終日の休みの日、英ちゃんが働く生協では「秋祭り」が開かれた。それはまるで学園祭のような賑わいだった。各地で公害被害がクローズアップされていたこの時代、組合員の最大の関心事は「安全な食べ物」だった。特に外食産業では化学調味料や食品添加物が欠かせないものになっていた。そこで英ちゃんは、妹の上京を機に「無添加ラーメン」の屋台を出すことにした。加えて「九州物産市」も開いた。父ちゃん直伝の久留米ラーメンは「見た目よりあっさりしているね」「でも味は濃厚よ」と好評を博した。明美の九州訛りが、その味をさらにエスニックなものに演出した。この経験が、後に陳明美に大きな影響を与える。十数年後、焼肉店「玄風軒」は、アジアのエスニックレストランへと変貌を遂げるのである。民族は、違いを際立たせて争うよりも、「チャンプルー」にした方がワクワクするものなのだ。

 秋、上野真理子先輩から「アメリカで精神科医として独立開業した。人手が足りないから手伝いに来て」という手紙が届いた。自由の国アメリカに渡って五年、真理子先輩の自由奔放さにはますます磨きがかかっているようだ。英ちゃんは一旦、「就職したばかりだから無理だ」と返信した。

 その冬、民ちゃんが入水した。今度は現世には帰ってこなかった。帰れない祖国があり、帰れないこの世がある。帰れる旅路は、それだけで幸せなのだ。明けて昭和五十年(1975年)四月末、サイゴンが陥落しベトナム戦争が終わった。そして多くの人々が、帰れない旅の支度を始めた。妹の明美は地元の国立大学に入学し、実家からバスで通っている。将来は教員を目指すという。英ちゃんは、帰れない旅ではないが、アメリカの大学に研究留学することを決めた。そのついでとして、真理子先輩の助手も引き受けるつもりである。

 出国前、マリーが女の子を出産した。「蛍莉(あかり)」と名付けられたその娘に、英ちゃんはジョーの面影を見た。ベトナムで、そしてアメリカでも、多くの「ジョーとマリー」が誕生したことだろう。英ちゃんは「その子供たちがアイデンティティ・クライシスに直面する日も近いはずだ。その時、私に何ができるだろう」と思考を巡らせた。共同体、民族、国籍、性別、家族……様々な概念が浮かび、軽い目まいに襲われた。そして、やっぱり「協働」という言葉に強く心を惹かれた。

 翌年春、英ちゃんは戸籍上も真理子先輩の配偶者になった。真理子先輩は知人に英ちゃんを紹介する際「ハズバンド」とは言わず「パートナー」と呼んだ。確かに英ちゃんには、「ご主人様」や「旦那様」といった、家父長制における財産管理人的な側面はない。もし、世の「ご主人様」が皆、髭を蓄えていれば髭があるのは真理子先輩の方だろう。つまり「うちの女房には髭がある」というタイプである。さらに実業家としての手腕でも英ちゃんは、彼女には及ばない。英ちゃんは、良くも悪くも学者肌である。それを熟知している真理子先輩は、英ちゃんに「ハズバンド」を求めてはいない。そのため「パートナー」としての英ちゃんは、伸び伸びと研究留学を楽しんでいる。

 真理子先輩と英ちゃんの関係は、一種の「共同社会」であった。対等な二人が生活を共有するが、必ずしも一つの共通目的に向かって手を取り合い、苦楽を共にする必要はない。そういう関係である。ゆえに「夫婦は一心同体」という家族制度の束縛には煩わされることもない。「惚れた腫れた」や「裏切りと愛憎劇」といった劇的な展開を好む人々には、奇妙で物足りない関係に見えるかもしれない。しかし、それは二人の気質に最も適した婚姻の形であった。「惚れた腫れた」の情愛は、無償の愛とは言い難い。自分が注いだ分だけ相手に見返りを求めるものだ。関係がこじれれば「あなたのためでしょう」と凄むことになる。国家の形成においても同じようなものである。利害が一致した人々が「国民」となるが、難しいのはその先である。真理子先輩と英ちゃんのような「共同社会」であれば、殴りあうほどの夫婦喧嘩にはならない。しかし、情が深ければ、そのだけ恨みや憎しみも増す。そして、「あなたのためでしょう」と互いに譲らなければ、犬も食わないたわいもない「夫婦喧嘩」の始まりである。真面目に仲裁に入れば馬鹿をみるから諸兄には要注意を願いたい。

 四月、中国に激震が走った。後に「第1次天安門事件」と呼ばれる内乱である。あえて内乱と呼んだのは、それが中国共産党の中で起こったからである。共産主義陣営と自由主義陣営の衝突ではない。そうであれば「戦争」である。ただし、戦争に比べ内乱が穏やかな戦いだとは言い難い。何故なら、味方だと信じていた者同士の戦いである。だからこそ、傷は深く、時が経っても癒えることはない。

 九月、毛沢東が死んだ。それを機に文化大革命の強行派は力を失った。それでも中国のプロレタリアート独裁が終焉を迎えることはなかった。中国は不思議な国である。もしかすると、中国社会の本質は、「協同社会」なのだろうか。多民族が一つにまとまるのは容易ではないはずが、中国はその四千年の歴史を通じて、漢民族を中心に多くの少数民族が共存してきた。細部では「三國志」のような軋轢はあるものの、始皇帝以来、巨大な国家という「共同幻想」を共有し続けている。そこに対等な関係性は求められないが、「協同」して国家を形成している。実に不思議な国家である。

 年末、音信不通になっていた信夫から便りが届いた。「英ちゃん、俺ルンプロで生きています」という、心細い知らせだった。ルンプロとは、「ルンペン・プロレタリアート」と言う造語の略である。プロレタリアートは労働者であり、ルンペンは乞食である。乞食は働いていないので労働者ではない。しかし、身分のように生まれついての制度ではないので、その多くが元は労働者である。あるいは時たま労働者に復帰する。それを世の中では「日雇い労働者」とも呼ぶ。

 彼らは蔑まれた者である。だから蔑称は数多ある。「ドカチン」「ヨイトマケ」「ニコヨン」蔑称だと知らなければ愉快な響きである。「アンコ」という蔑称がある。アンコ椿のような美しいものではない。海底の闇にうずくまる鮟鱇(あんこう)のような奴らという意味のようである。「おいらの空は鉄板」だから深海魚とは的を得ているかもしれない。

 中世であれば、賎民社会を構成する担い手である。そして江戸時代には非人と呼ばれたりもした。しかし、好きで人間を止めたわけではない。世間から疎外され一般人の外に追いやられたのである。同じように、ルンプロは労働者階級から疎外された労働者である。労働とは、生きている証でもある。だから人々の労働の歴史こそが人々の人生そのものだ。そして、閉ざされたルンプロの人生には明日の光も見えない。「おいらの空は鉄板」なのである。

 英ちゃんは、信夫がこの冬を乗り切れるか心配した。しかし、辛うじて信夫は仲間に支えられ、閉ざされた人生と闘っていた。それは「越冬闘争」である。1マイル、また1マイルと、「500マイル」の長い旅を続けているようである。周恩来への追悼を阻まれた人々は、怒りに燃えて北京行きの列車に飛び乗った。その波は一旦、天安門で阻まれるが、「改革開放」へのうねりは止まらなかった。百里、また百里と、彼らもまた旅を続けている。だが、中国においてそれが西欧的な民主革命に繋がる可能性は低い。プロレタリアート独裁は「中華」の概念に近い。中原の華と呼ばれ、夏王朝をその源流とする大国家には、強い中央集権の理念が欠かせない。もし、ルンプロたちが革命を起こしたら「ルンプロ独裁」を行うのだろうか。そんなことはあるまい。棄民である彼らが、個人を貶め排除する国を作ることはあるまい。ルンプロは既存の階級社会から疎外された人々だからこそ、きっと多様性を認め合う「協働社会」を作ろうとするのではなかろうか。英ちゃんは、そんな空想にふけり、信夫の手紙を閉じた。

 1977年(昭和52年)7月17日、土曜日の朝、英ちゃんは父親になった。それは不思議な感覚だった。英ちゃんも三十歳である。世間から見れば遅咲きの父親かもしれない。名は「秦平(たいへい)」とした。秦は祖母の姓である。英ちゃんは、秦平の寝顔を見ながら、仙人さんの昔話を思い出していた。

芋粥の 椀に大盛り 湯気香る

~ ヒムカの黒船 ~

 阿倭女(あわめ)の手がしなやかに帆柱を磨いていく。煤を練り込んだ黒い砥乃粉(とのこ)が、皸(あかぎれ)た指に刷り込まれ、女の指には指紋もない。そして、我が身を削り磨かれた帆柱は、頑ななまでの滑らかさと艶を放っている。

 ヒムカの天乃磐船(あまのいわふね)は、すでに老朽船である。あちらこちらに傷みも出ているが、その美しさだけは変わらない。それを支えているのは阿倭人の船乗りたちである。船乗りは、還暦を迎えた者から幼年の子供まで男女を問わず、多様な顔ぶれだ。

 還暦を迎えた者の中には、表麻呂船長の一族が多い。すなわち沫裸(まつら)党の倭人である。中堅の者はクド(狗奴)国の天海(あまみ)一族が多い、これらは南洋海人である。そして船乗りの三分の二を占める若人の多くは阿倭人である。老朽船ではあるが、乗り手は若い熱気が満ちている。阿倭人が多いということは、エミシ(愛弥詩)国の民が多いということでもある。

 この阿倭女は、黒潮の徐家と阿人の血を引く。母の名はシララ(白螺)といい、ポロモシリ(大国)の大首長アサマ(阿佐麻)の妹である。父は粟国水軍の頭領、木の国のコダマ(狐魂)である。娘とはいえ、既に四十路(よそじ)に入った女で、名をナライ(倣風)という。若くして嫁いだが、十数年経っても子を授からなかったため、三十路を過ぎた頃に実家へ帰された。それから暫くは、従兄のヒキグマ(日紀隈)の引き合わせで、黒潮の巫女女王ヒムカの侍女を務めていた。

 翌年、独り身になった黒潮の巫女女王に、クマノクシビ(熊野奇火)が婿入りした。そしてナチメ(那智女)と、後に黒潮の徐家十七代当主となるウケノ(上毛野)を儲けた。南洋民の大母神は、自分が産んだ子供たちに対して母性愛を向けることがない。託卵をする鳥類のように子育ては他人任せである。しかし、千尋の谷に落とされた虎の子のごとく、子供たちは皆しっかり者である。

 長男のソツヒコ(蘇津彦)は対蘇国の族長として蘇族を率い、次男のミケヌ(巳魁奴)は若いながら紀球磨国の初代国王として奮闘している。三男のイツセ(伊襲狭)は投馬国で猿田族を率いている。四男のサデヒコ(佐田彦)は、アユチノウミ(東風茅之海)で泥にまみれ開拓に精を出していた。しかし、志摩津国建国の前年、親友のジンム(仁武)が太子となると狗奴国に赴き、今は友を支えている。まだ幼い長女ウララ(翁蘭々)と五男のサチヒコ(沙乳彦)は、次女のミズハヒメ(瑞波媛)、六男のシマヒコ(志摩彦)と一緒に、イハチ(伊波智)とチバリ(智鍼)によって厳しく育てられている。そして那智女と上毛野は、愛弥詩国で、ナライにしっかりと育てられているのである。

 倭国女王ピミファが暗殺された前年、黒潮の巫女女王は黒船に乗り、さらなる東方の開発に乗り出した。そこで、独り身となった黒潮の徐家十六代当主である熊野奇火の後妻にナライを送り込んだ。偉大な女当主ククリヒメ(菊理媛)の再来だと噂される彼女は、妻の座に納まるのを嫌がっていたが、父と巫女女王に説得され、幼い二人の継母となった。その際「那智女の天乃磐船が新造された折には、その船長を任せる」という密約がなされた。

 才女ナライは巫女女王の侍女を務めていた頃に、黒船の操船を覚えていたのである。愛弥詩国が建国され、夫の熊野奇火が初代王となると王妃という立場になったが、彼女は安閑とした境遇に満足せず、経済の活性化に向け先頭に立った。ゆえに、今やヒムカの天乃磐船の副船長である。この老朽船は今回の航海が最後となり、新たな黒船に道を譲る。次に愛弥詩国から狗奴国に下る時は、那智女の天乃磐船の進水式となる。もちろん、その船長はナライである。

 櫓を漕ぐ音が、朝の川面に流れる。朝霧が前方を遮り対岸は見えない。この川の幅は非常に広い。湖と呼ぶにふさわしい川景色であるが、河口は東のチュプアチュイ(天海)に流れ込んでいるため、浅い湾となっている。阿人はこの地をキヌプオンナイと呼んでいる。「葦原の中」という意味らしい。そこでヒムカはこの湾内をキヌプノウミ(鬼怒伏海)と呼ぶことにした。

 河口には阿人たちの漁場があり、いくつかの仮小屋が建てられている。阿人たちはそこをイヌンウシと呼んでいる。「イヌン」とは食べ物を探しに行く、つまり「漁をする」という意味であり、「ウシ」は場所や、物が多くある様子を表わす。つまり、物が漁労の番屋が立ち並ぶ所ということなのである。

 この地より遠く離れた筑紫乃島にも「ウシ」の付く地名は多い。牛島、牛深、牛首、牛隈という地名を挙げればきりがない。しかし、倭国では牛は飼われていない。野生の牛の仲間は天竺や南越に生息するが、その多くは水牛である。水牛は力持ちで気性が優しい。南越では稲作に欠かせない生き物であり、中華ではさらに飼い慣らされて牛車として活躍している。そのため、中華から渡ってきた倭人たちは牛という存在を知っている。古い時代に子牛を船に積み、倭国に持ち込んだ集団もいたかもしれないし、あるいは陸続きだった太古に移動してきた可能性もある。しかし、牛の食料は大量の草であり、森に覆われた倭国では生き難い。牛が群れている島など実際にはないのだ。まして牛の首など転がっているはずもない。そうであれば、「ウシ」という地名は阿人の呼び名が残ったものと考えるのが妥当だろう。

 海越や倭人は牛を「グ」や「ウ」と呼ぶ。そのため「ウシ」あるいは「ウシュ」という音に「牛」の字を当てはめた可能性がある。いずれにしても、阿人は倭国の先住民であるから「ウシュ」が牛の語源であっても不思議ではない。ヒムカは、イヌンウシの地をイヌン(犬吽)岬と呼ぶことにした。

 イヌン岬に天乃磐船を停泊させ、ナライと那智女、それに幼い上毛野を伴って小舟でキヌプノウミ(鬼怒伏海)に入った。目的地は西岸のケナシと呼ばれる地である。阿人の言葉で「川の畔の平地」を意味し、そこには湿地が広がっているという。すなわち、稲作の適地である可能性がある。阿倭人であるナライは、メアンモシリ(寒国)やアチュイモシリ(海国)の気候にも詳しく「愛弥詩国が稲作の北限でしょう」と言う。ならば、そこは漁労と稲作の民である黒潮南洋民の北限地でもあるはずだ。そう考えた黒潮の開拓女王ヒムカは、ケナシの地を確かめに向かっているのである。

 将来上毛野が成人したら、この地の開拓を任せるつもりだ。今はまだ七歳の幼子だが、巫女女王の子育ては厳しい。数年後には、上毛野もまた異父兄の佐田彦のように、鬼怒伏海で泥にまみれて働いているだろう。そして兄たちのように力強い男に育つはずだ。さらにこの少年は、いずれ父の跡を継ぎ、黒潮の徐家を率いる身である。

 阿人は、初めて会う倭人を強く警戒する。特に倭国女王ピミファの先祖を「ロンヌ族」と呼び忌み嫌っている。それは須佐能王の阿人殺しに端を発しており、「ロンヌ族」とは「殺し屋たち」を意味する。しかし、徐家は始祖シューフー(徐福)の時代から「ピリカ族」と呼ばれ、親しみを持たれてきた。ピリカ族とは美しい人たちという意味である。上毛野は、そのピリカ族の当主であるから、阿人との共存も上手くいくはずだ。そして養母ナライは阿人の英雄アドモフ(率賦)の子孫である。だからこの地の開拓において、この親子以上の適任者はいないだろう。

 イヌン岬から追い風が吹いてきた。小舟の帆はいっぱいに膨らみ、絹のような水面を天馬のごとくに進んだ。キヌプノウミの西岸、ケナシに建物が見えてきた。ナライによれば、「ケナ」とは阿人の言葉で「木」、「ケナシ」はその木が鬱蒼と茂る林や山を指すという。白い砂の河原の先に、ケナシの集落があった。入口には、黒々とした髭を蓄えた大男が、長老たちと共に立っていた。この地の大酋長アプカ(阿父鹿)から、巫女女王の来訪が告げられていたのである。

 大酋長は愛弥詩国の初代王、熊野奇火の祖父である。したがって王は阿人と倭人の混血である「阿倭人」だ。ゆえに愛弥詩国の開拓は、阿倭人による新しい国造りでもある。黒髭の大男である族長はケヌマ(毛濡馬)と呼ばれ、王と同じ年であった。大酋長アプカが期待を寄せる男である。

 ヒムカはその名に、懐かしさと悲しみを覚えた。筑紫乃島のケヌマ(気濡馬)は、ヒムカの先遣隊ハイト(吠人)となり、悪童仲間とイヨノシマ(伊依島)に骨身を埋めた男だった。その屍は南洋を見渡す太陽の丘、アシツル(芦津留)岬のツロ(突櫓)の丘に眠っている。あれは大災害の後の嵐の時代だった。ゆえに、阿人がポッケモシリ(暖国)と呼ぶ地の開拓も、力ずくで進めた感が否めない。それが黒潮の巫女女王が抱く唯一の後悔であった。

 それ以降、巫女女王の東征は、戦わずして共存する道を模索してきた。その集大成となる愛弥詩国の開拓で「毛濡馬」という名の族長に出会えたのは、奇遇とは思えなかった。きっと気濡馬の魂が、ニライカナイより「稀人(まれびと) 」となって、この毛濡馬に宿ったのあろう。巫女女王にはそう思えた。

 翌年初春、ケナシ集落の対岸に三十戸の家屋が建てられ、黒潮の民による水田開発が始まった。三十戸、約百五十人の開拓民の多くは若い阿倭人あった。繁忙期には、毛濡馬族長が周辺から百人余りの阿人を集めてくれた。こうして北の瑞穂の国の開拓は着実に進み、やがて毛濡馬がこの地の大酋長となる頃には、千戸、六千人を数える大集落群となった。それは伊都国に匹敵する規模である。巫女女王はこの地をケナウシ(毛那牛)と呼ぶことにした。

 初冬、ナライ(西風)が強く吹き付け、愛弥詩国全土が火山灰に霞んだ。阿人がアチュイモシリ(海国)と呼ぶ地には、火を噴く山が多い。「海の国」と呼ばれてはいるが、この地の大半は山国である。もともとは鯨海の傍らに暮らしていたため、文字通りアチュイモシリであったが、須佐能王の東征に始まる倭人の侵略により山へ追われたのだ。そして今は、同じく阿人がポッケモシリ(暖国)と呼ぶ地まで南下している。

 この地は黒潮の沿岸である。木の国の沿岸を中心に、イヨノシマ(伊依島)南岸から愛弥詩国に至る細長い地である。しかし阿人には倭人のように「領土」という意識がないので定まった国境線はない。寒い所や、暖かい所、海に面した所というように体感的な呼び名である。したがって「モシリ」とは、倭人にとっては「国」だが、阿人にとっては単なる「生息域」でしかない。だから、領土を巡る争いとも縁がない。

 おおよその区分としては、アチュイモシリ(海国)はこの大きな島国の中央部に位置し、その東北部がメアンモシリ(寒国)、西南部がポロモシリ(大国)、南海岸域がポッケモシリ(暖国)である。だが、その四ケ国に国王はいない。各集団をまとめる族長がおり、さらに地域をまとめる酋長がおり、そしてその代表者としての大酋長がいる。愛弥詩国周辺の大酋長アプカや、それを継ぐ毛濡馬は、倭人の社会制度であれば国王に比肩するだろう。しかし、毛濡馬に軍を組織するという発想はない。阿人の族長や大酋長の役割はあくまで集団の世話人である。だから、腕力ではなく信頼で選ばれる。つまり共生社会である。

 アチュイモシリ東南部に、阿人がアヌンポロシリと呼ぶ火を噴く山がある。その形は阿多国のヒラキキ(枚聞)山や伊都国のカヤ(伽耶)山と同じように、裾野広がりでとても美しい。海には直ぐに面してはいないが、周囲に遮る山がない独立峯なので、海人たちにとっても海上交通の目印となる「山立て」として親しまれている。そしてその秀麗な姿は、古代から異国の旅人を魅了してきた。

 中華からの渡来民である徐福の一族にとっても、そこは聖地となっている。徐家にとってアヌンポロシリは、ポンライシャン(蓬莱山)である。阿人の言葉で「アヌン」とは彼岸を言い表す。そして「ポロシリ」とは大きい山を指す。したがってアヌンポロシリとは、異界の大山(だいせん)である。そこは薬草の宝庫でもある。伝説によれば、不老不死の薬を手に入れた徐福は、異界の大山の洞穴を巡り黄泉の国に行ったとされる。そしてそこで仙人となって暮らしているという。だから、アヌンポロシリは蓬莱山を内包した山である。

 だが、海人たちから「先頃、アヌンポロシリが火を噴いた」という報告はない。だから、火を噴き、灰を降らせているのはもう一つの火の山である。一つといったが一つの火山群と言ったほうが正しい。それは、アチュイモシリ(海国)の中央部の東寄りにある火を噴く山々である。阿人はこの地をライコツケと呼んでいる。「ライ」とは死ぬことあるいは死後の世界であり、「コツ」とは窪みあるいは穴のことである。「ケ」は何々の所ということなので、すなわち来世あるいは黄泉の世界への穴である。つまり火の山の噴火口を指す言葉である。徐家の人々もそのままにライコツケ(来骨毛)と呼んでいる。

 ライコツケ火山群の火山灰でできた地をヨナパル(汰原)という。志摩津国の初代国王伊波智の母は、このヨナパルの女である。そして父がオガヌマ(牡鹿沼)の戦いで戦死した後は、郷里に戻り「雀のお宿」という屋号の酒房を営んでいた。

 伊波智が二十五歳になった時、ポロモシリの大首長アサマは、盟友の遺児をルルム(流留無)に呼び戻し、カシケの跡を取らせ族長に据えた。しかし、母ヨナメノコ(米女孤)は、ヨナパルの「雀のお宿」に残った。小柄で細身だが気丈な女で、面倒見の良かった夫に似て、お宿の使用人たちを見捨てらなかったのである。カシケの盟友チュプカチャペ(蛛怖禍茶辺)に代わり、メアンモシリの大首長になったドキョン(東犬)が彼女を庇護し、この地を巡行した際の定宿としていた。だから酒房「雀のお宿」は繁盛していた。ヨナパルは志摩津国には属していないが、伊波智にとっては縁深い土地である。

 黄砂を含んだ偏西風が、アハウミ(淡海)の湖面に細波を立てる。その煌めきを眺めながら、北岸から小舟に乗り、西南岸を目指す旅の一行がいた。「兄じゃ、静かな海だなぁ。角鹿の海とは大違いだ」と若い男が振り返った。「湖だからなぁ。それに山々が風を遮るから、稜威母や角鹿の海とは大違いさ」と兄が答える。兄弟の後ろには屈強な五人の武人たちが控えていた。稜威母訛りがあることから、お供のようである。

 弟が「兄じゃ、カパラにはいつ着く?」と尋ねる。すると兄は「今夜は対岸で宿を取る。父上がアラハバキ様に話を通してあるから、対岸にはカパラへの道案内も待機してくれているはずだ。そして明日の早朝に旅立てば、日暮れ前には着くそうだ」と答えた。「早くテンユウに会いたいなぁ。何年ぶりだろう」と弟は南の空を見上げた。

 この旅の一行は、稜威母からカパラ(華羽羅)へ向かうようである。兄弟は武人の身なりではないが、立派な身なりであり旅の商人ではない。その荷物の様子からするに、稜威母から華羽羅への使節団だと思われる。

 前年、稜威母へ帰ったオクニ(尾六合)は、ハハキ(蛇木)に抱かれ、初冬に身罷(みまか)った。稜威母の猛流王より戦犯オクニの身を預かっていた角鹿のケンコク(堅固)は、母ハハキと共にその亡骸を異母兄アサン(阿蒜)の傍らに葬った。

 阿蒜は、夫の先妻クメ(紅女)の忘れ形見であったが、幼くして亡くなった。そして、その遺児を我が子のように愛しみ育てていたオクニは、娘オウ(於宇)が生まれるまでの数年の間、その喪失感から正気を失っていたという。堅固は、安曇磯良ウズ(烏頭)が遊女に産ませた子である。したがって於宇は異母妹であり、天雄は甥である。そして兄弟として育てられた猛流王は義弟である。

 稜威母王である父は、逆徒の息子に対して非情であった。そのため義弟に変わり、堅固が天雄に訃報を届ける使者を送った。その使者の任にあたったのがこの兄弟である。二人の母は、猛流王の同母妹ケイキ(恵姫)である。したがって三人は従兄弟である。それも同じ歳なので尚さら気心の知れた仲だった。

 兄はスクネヒコ(少根毘古)という名である。弟はオグナヒコ(於虞奈彦)という。後年、弟は伯父の猛流王と対比しヤマトタケル(大倭建琉)と呼ばれることになる。この兄弟は双子である。だから、気心は知れているが容姿も気質も似ていない。兄は小柄で、弟は美丈夫である。兄は思慮深く、弟は行動力に富む。むしろ向こう見ずな気性ともいえる。そして腕力にも長けている。だから猛々しくもある。それを宥(なだ)めるのが兄の役目である。つまり相性の良い兄弟である。

 山の道で春告げ鳥が鳴いた。西風は昨日よりは和らいだが、まだ砂っぽい。その峠道で塞ぎ込んでいる娘がいた。その周りをお供の者が取り囲んでいるが、どう対処していいのか分からず困り果てていた。兄の少根毘古には医術の心得があった。そこで、歩み寄りその娘の脈を取り、それから顔を覗き込み様子を診た。まだ幼さが残る小娘である。兄は、弟の於虞奈彦を手招きし「からえ(背負え)」と指示した。そして、於虞奈彦が小娘を背負おうとすると、年長の娘が「お助けいただき恐れ入ります。でも……」と恐れ入りながら少根毘古の前に頭を下げ戸惑いの様子を見せている。

 少根毘古が「この娘さんは、心の臓が少し弱いようですな。少し無理をしたのでしょう。しばらく弟の背で安んじておれば、程なく元気になられるでしょう」と説明をしたが娘は「でも……そこまで……」と戸惑っている。確かに“背負わせるならお供の者たちの誰かにやらせればよい。見ず知らずの人にそこまで迷惑はかけられない”という遠慮のようである。それを察し「遠慮は無用。弟は見ての通り力持ちですから。それに我らは華羽羅へ人を訪ねる旅の途中です。あなたたちの行先も同じ方角でしょう。旅の道連れは、奇縁です。遠慮は無用です」と兄は気遣いそれから弟に「さぁ~からえ」と促した。

 大男の於虞奈彦は、ヒョイと小娘をその大きな背に載せた。覇気の薄れた小娘は、その大きな背に揺られ程なく眠りに落ちた。一行はゆっくりと山道を下りながら華羽羅へ向かった。眼下の盆地には湖が煌めいている。空には水鳥が舞い穏やかな陽気である。「私の名はツキタチバナと申します」と、突然娘が少根毘古に声を掛け並んで歩き始めた。小柄な少根毘古に比べツキタチバナ(月立波凪)姫は、すらりと背が高い。

 少根毘古は、「あっ! 私はスクネヒコと申し弟はオグナヒコと申します」と歩きながら横目に月立波凪姫を仰ぎ見た。“おう~大層美しい人だなぁ~ それに肌が白い。北方の人だろうか”と思いながら後ろを振り返った。すると「あれは、カグノコノミ(香具好海)と申します。私を迎えに来てくれたのですが……。 私は角鹿の者です。姉がミンタラにおりますので、姉に会いに行く途中です」と月立波凪姫が応えた。

 少根毘古が「おう~我らも角鹿の者です。益々奇遇ですなぁ。もし良ければお父上の名をお伺いできますか? あっ失礼しました自己紹介が先でしたね。我らの父は堅固と申します」というと「嗚呼、アズミの若様ですか。私の父は、ウライキツと申します」と月立波凪姫が応えた。

 「おう、おう、おう、丹場宇良家の娘さんでしたか。これも何かの縁。この先も遠慮されるな」と、少根毘古の足取りは軽くなったようである。春風が甘い香りを運んでくる。まるで香木のようなその風は、どうやら、於虞奈彦の背から香ってくるようである。

~ 天飛ぶ船 ~

 飛天が群青の海中に舞う。フウノフラフネ(風之楓良船)が頭上を航行し、蒼天では荒鷲が雲を引いた。それから海の天女が、海面に顔を上げピューっと磯笛を吹いた。ここは角鹿の海である。兄たちだけが旅を楽しんでいるので、十五歳の気難しい娘は機嫌が悪い。天女の名はカガジョ(加賀女)という。

 叔父サケミ(佐気蛇)は、今や稜威母王となり名もイズモタケル(稜威母猛流)と改めた。そして忙しい男になった。だから以前のように遊び相手にはなってくれない。彼は倭国女王を妻とし、カズラギヒメ(葛城媛)という娘を儲けた。

 葛城媛は四歳になる。女王は一年の半分をヤマァタイ(八海森)国で過ごし、後の半分を稜威母国で過ごす。そして、女王がいない間の面倒を看るのは加賀女の役目である。つまり、チュクム(秋琴)女王にえる女官なのである。仕事は子守だけではない。中華の言葉や文字も覚えなければいけない。それに剣の修行もさせられている。

 剣の老師はバイ・ヤン(白羊)という。そろそろ五十路に入るのだが恐ろしく元気で、修行もとても厳しい。ヤンはもともと斯海国の人なので、中華の言葉や文字の先生でもある。妻のマー・チャーホァ(馬茶花)は、常に倭国女王と行動を共にしている。

 稜威母国は、鯨海の海賊王とも恐れられる須佐人が五年前に建国した。しかし自由な海賊王は、自分では王位に就かず、サケミを王に立てて稜威母王とした。さらに昨年、倭国の大首長も引退し、国の舵取りからは一切手を引いた。倭国王となってもおかしくない男なのだが、そんな欲は全く持ち合わせていないのである。その無欲さは姉の黒潮の巫女女王に似通っている。それでも海賊王なので、やっぱり武の男である。そこは倭国女王チュクム(秋琴)と同じである。女王は巫女でもあるが、加賀女の印象は「女将軍」である。それも最強の、という称賛を込めてである。

 将来、加賀女はお祖母様の跡を継ぎ、北の大巫女にならなければいけない。そのためには「日巫女の力を持つチュクム女王に仕えされるのがよかろう」というハハキ(蛇木)お祖母様の意向は十分承知している。でも、素直で良い子を演じるのは加賀女には向いていない。加賀女はお転婆娘なのである。もしかすると、そう思って女王は剣を学ばせているのかもしれない。でも“中華の言葉や文字は何のため……?”とも思うのだが、ヤン先生には怖くて聞けはしない。だから、今日は憂さ晴らしに海遊びなのである。本当は、伸び伸びと“兄様たちと旅に出たかったのにぃ”と、少し機嫌が悪いのである。

 角鹿は、今や鯨海一の造船都市となった。ハハキお祖母様がこの地に造船所を建設したのは、加賀女が生まれた十五年前である。それも当初から、口之津造船所に匹敵する規模で造らせた。倭国のピミファ女王は、この事業を全面的に支援してくれた。それは須佐人の鯨海貿易を後押しすることでもあった。そして、総責任者に墨縄のイナベ(稲辺)を送り出してくれた。また、風之楓良船の母港とし、倭国の船の修理や新造船も依頼してくれた。そのため、事業は順調で、角鹿は稜威母国の東の都だといっても過言ではない。

 倭国には、口之津と角鹿以外にも同規模の造船所が三つある。ひとつは、メアンモシリ(寒国)のチオカイ(茅緒海)にあるチオモイ(茅緒萌)造船所である。これは倭国同盟に加わった阿人国王チュプカセタ(東犬)が造らせたものだ。それを支えたのは須佐人である。後の二つはその姉ヒムカ女王が造った造船所である。ヨサミ(依佐見)国のイブリ(胆振)造船所と愛弥詩国のクルリ(久留里)造船所がそれである。

 海洋王国を構想していたピミファ女王の夢は、しっかりとその形を見せ始めたのである。その海好き娘の気性は、姪のチュクム(秋琴)女王ではなく加賀女に伝染しているようである。無理もない。加賀女は、安曇磯良の血を引く沫裸党の娘である。だから、海は母のような存在である。そこで、加賀女のもうひとりの老師は、墨縄の稲辺である。つまり加賀女は、秋琴女王の女官と稲辺所長の秘書という二足の草鞋を履いている。稜威母国の国都は、龍蛇乃入海(おかみのいりうみ)に面したオオスクネ(大夙根)である。オクニが暮らしたその里を猛流が国都として整えた。

 チヌノウミ(茅渟之海)から春風が吹き寄せてきた。天雄は田の泥に塗れて天を見上げた。そして、“今年は豊作だ。”と直感した。それから稜威母の方角を仰ぎ見た。それは母が眠る空である。目を山に下ろすと遠くで手を振る集団がいる。彼らはどんどんと近づいてきた、先頭の男が「お~い。テンユウ元気かぁ!」と叫んだ。従兄弟の少根毘古である。その後ろには女人を背負った於虞奈彦の姿も見える。天雄は田の手入れに忙しい仲間たちに断りを入れ、少根毘古のもとに駆け寄った。そして「オウ!」と声を上げ、抱き合った。

 それから少根毘古は「形見を持ってきた」と告げた。天雄は一瞬顔を曇らせたが、「ありがとう」と笑みを浮かべて応えた。青天の田の道には野の花が咲き、春の娘が於虞奈彦の背で寝ている。天雄はその旅の一行を村に案内し、集会所に伴った。

 開拓を初めて二年が経ったが、家屋はまだ粗末である。しかし、この小さな稜威母はやさしい自然に包まれている。周辺に暮らす阿人や阿倭人は、この小さな水辺の国をナラと呼んでいる。ナラ村は、八十神系稜威母族が暮らす百八戸の小さな村である。しかし、戦い疲れた民には安息の地である。

 集会所に案内され一息つくと、少根毘古はオクニの形見の品を天雄に渡した。それは梓の弓である。しかし戦いの弓ではない。この弓は祈りの弓である。天雄は、その弓を屋根裏の山戸(やまと)に向け突き上げ「オウ(於宇)」と声を上げると、矢をつがえない弦を大きく鳴らした。鳴弦(めいげん)は見えない矢となり、囲炉裏の煙と共に山戸から天に立ち昇った。

 於虞奈彦は、その胸元より遺髪を取り出し天雄に手渡した。そのオクニの遺髪は、後日ナラ村の外れの丘陵地に埋められ、塚が建てられた。その後、稜威母族の村人はその塚石を神籬(ひもろぎ)とし、朝夕に手を合せ拝んだ。村からその神籬に手を合わせると、ちょうど稜威母の空に至るのである。

 龍蛇乃入海から、湿気を含んだ初夏の風が吹いてきた。加賀女は、クンクンと鼻を立てると何かの匂いを追っている。別に海風の匂いを楽しんでいるわけではない。十五歳の娘には風情よりも、まずは食欲である。とはいっても、目の前に御馳走が並んでいるのではない。ここは舟の上である。傍らには幼い葛城媛を伴っている。母の倭国女王は今、ヤマァタイ国にいて不在である。だから、ヤン先生とお供の者たちを引き連れてコスクネ(小夙根)を目指している。国都はオオスクネだが、コスクネは商都である。そして、珍しい沢山の品々と、美味しいものがある。葛城媛がクンクンと鼻を立て、加賀女のまねをした。

 角鹿の造船所では、風之楓良船の大修理が進んでいる。だから角鹿に未練を残しながら国都に帰ってきた。女王の女官といっても、加賀女は気楽な身である。役目は葛城媛の子守と、中華の言葉を覚えること、それに剣の修行である。守役(もりやく)といっても教育係という重たい役目ではなく、ただの遊び相手である。だから女官としての職位や職階もない。造船所の所長秘書も「押しかけ女房」のようなもので、女王や、叔父の稜威母猛流王に指示されたわけではない。王はこのお転婆娘の姪を溺愛しているので、まわりからとやかくいう者もいない。つまり高等遊民だといえる。そこで、今日は葛城媛姫と市場見物なのである。

 どこからか初夏の落ち葉が舞い降りてきた。水面に落ちたその落ち葉を加賀女が凝視した。今、風は西から吹いている。だから、舟は帆を下ろし艪で進んでいる。行く手から風を受けたら帆は役に立たない。ところが、落ち葉がスーッと西に流れた。「ねぇ、ヤン先生。向かい風に進める帆はないの?」と加賀女が聞いた。すると意外にも「ある。……らしい」とヤン先生は曖昧に答えた。「え~っ?! あるの、ないの、どっちなの」と加賀女は苛立って聞く。「見たことはない。だが聞いたことはある」と先生が答えると「どこで、誰に、いつ?」と加賀女が矢継ぎ早に聞いた。せっかちなお転婆娘である。

 先生は曖昧に「どこでと言われれば、中華で。誰にと言われれば、チュクム様に。いつと言われれば倭国に渡る前にかなぁ」と答える。せっかち娘は「どんな形で、どんな素材で、どうしたら作れるの?」と再び聞く。困り果てた先生は「どんな形でと言われても見たことはない。どんな素材でと言われても加太殿しか知らぬ。どうしたら作れるの?と言われてもさっぱり分からん。ただ、チュクム様が見たそれは空を飛ぶ舟だったらしい」と答えた。

 お転婆娘はしょげて「え~っ 女王様はヤマァタイ国に行ったのよ。だから聞きようがないじゃない。嗚呼、私にも空を飛ぶ舟があればなぁ~」とふて腐れる。するとヤン先生が「これは俺の想像だがなぁ~ もしかすると風之楓良船の帆のような物かも知れんぞ。あの船は風上に向かって斜めになら進めるからなぁ。ただ風を孕らまして進む帆かけ舟とは少し違うようだ」と答えると、「あっそう。じゃぁ角鹿に帰ろう」と言い出した。「おいおい、俺たちは反対のコスクネに向かっているのだぞ。美味しいものは食べなくて良いのか」と慌てて制した。さらに葛城媛が「お姉ぇちゃん。早く美味しいもの食べようよ」と催促した。今の季節なら沖で獲れた大きなマンビキ(鱪)も港の市場に並んでいるかもしれない。湖の岸には四つ手網の櫓がいくつも立っている。そう思い直し、加賀女は湖岸を眺めた。そして「あれは、白魚獲りかしら、それとも茂呂毛海老?」と呟いた。ヤン先生が「茂呂毛海老??? 嗚呼、葦海老のことか。確かにあれは旨い。焼いてよし、煮てよし、刺身もこれまた旨い。お~い、酒は持ってきただろうな~ぁ」と、先生はお供たちが乗る後ろの舟に叫びかけた。葛城媛が嬉しそうに加賀女にもたれ掛かった。

 チヌノウミに細波が煌めいている。嘴に紅を引いた海鳥が群れ舞っている。ギューイ、ギューイと甲高く、綺麗な鳴き声ではない。しかし、たくましく生きる鳥である。その白鳥(しらとり)に目をやりながら、天雄一行は早船(はやぶね)に乗り込んだ。この早船には一枚の筵の帆もあるが、推進力の主力は八本の艪である。そしてこの八丁艪を漕ぐ船乗りは粟水軍の男たちである。

 船旅の目的は、志摩津国の伊波智王とチバリ(智鍼)王妃に、祖母の死を知らせ、あの亡命の折の礼をするためである。当初は東のシウニン(紫雨忍)峠を超えて行こうと思っていたのだが、皆と話すうちに船旅に変わった。

 少根毘古一行が到着した夜、天雄は月立波凪姫とカグノコノミ(香具好海)を紹介され、二人が紀球磨国のミンタラ(珉多良)を目指しているのだと知った。さらに、志摩津国行きの話を聞かされた少根毘古と於虞奈彦の兄弟は「ならば我等はそのまま、ルルム(流留無)、アイミ(藍実)、ピタ(斐太)と山辺の道を進み、カガサワ(蛇沢)へと抜けて角鹿に帰ろう」と言い出した。そして、夜話の結論としては「そうであれば、皆で船旅をしようではないか」という話にまとまった。

 ただ、天雄は田植えを済ませてから旅立ちたいと考えていたので「じゃぁ田植えを手伝い、それから旅立とう」となったのである。そして天雄は、祖母オクニを稜威母に送ってもらった縁で、女頭領スズメ(海雀)に、この船旅の手配を頼んだのである。それに香具好海媛の母シラハエ(白南風)は、粟水軍の女である。つまり香具好海媛は、黒潮の徐家の姫であるが、スズメと同じ血が流れている。だから、スズメは喜んで応じてくれた。

 早船が沖に漕ぎ出した。四方を山々に囲まれたこの海は、龍蛇乃入海を思わせる。天雄は、脇に抱いた梓弓の包みをじっと眺めた。この弓は神宿る弓である。だから、伊波智王への返礼の品として持ってきたのである。角鹿の方角から風が吹いてきた。こうして、若者たちの新しい旅は始まるのである。

沖ゆかば、稜威母匂いて 春泥(なず)む
梓の弓の 張りて愛(かな)しき

~ フーミー(狐米)の川舟 ~

 夏の雲が西南に筋を引いている。北の空に稲妻が走った。しかし、波はまだ穏やかである。そのファンハイ(黄海)の東岸を、奇妙な形の船が滑って行く。舵をとっているのは南洋の海人である。

 沖のカモメが、奇妙な物を見つけたと言わんばかりに群がり飛んでいる。その船は鳥が飛んでいるように速い。船の本体は細長い早船である。そして右舷と左舷を跨いで四本の梁が伸びている。それはまるで天秤のようである。その両端には道板のように幅の広い木材が渡され、その下からは八本の柱が伸びている。さらにその下、両舷には川舟のように細長い舟状の物がついている。つまり三胴船である。しかし、両舷の細い舟には人は乗れそうもない。この細舟状の物は単に浮力体である。

 船尾右舷で舵をとっている若い男の腕には、蛇神の入れ墨がある。海蛇だろうか。赤銅色の肌に良く似合っている。男の名はリュウジュウ(龍紐)という。黒潮の巫女女王が、最も期待を寄せている青年である。父の名は、ハイムル(吠武琉)といい、黒潮の豪商である。

 この船旅の目的地はチンダオ(青島)である。だから、加太とヨン・ピリュ(延沸流)の帰り船であった。青洲タイピンダオ(太平道)の教祖チュクム(秋琴)は、倭国女王に収まったので同行はできなかった。しかし今、青洲黄巾軍は撤退戦を迫られている。だから、加太とピリュ(沸流)が中華に帰る理由は、仲間たちを倭国に亡命させる手筈を整えるためであった。

 この船は「アマノアメンボ(天之水馬)」という名であった。命名者は、阿多国のお姫様、鹿耶野姫である。十五歳の元気印の娘は、本来ミイト(巫依覩)の巫女見習なのであるが、倭国の錬金術師・志茂妻の弟子でもあるため、現在は、このアメンボの乗船者である。この奇妙な新造船は、口之津造船所で造られた。設計者は表麻呂であり、彼はこの船の船長も務めている。助手には妻の志茂妻を乗せているので、夫婦船でもある。

 この三胴船の造船費用は、天海一族が出している。だから、加太とピリュの二人を青島で降ろしたら、アマノアメンボは倭国に引き返し、天海一族の所有となる。そのため、数人の船乗りは皆、狗奴国人である。

 今、倭国は稜威母東征に沸いている。龍紐も狗奴国軍として参戦するつもりだったが、父と日子耳大将に諭され船旅に出た。旅の途中で弟分となったピリュから、ファンジンチーイー(黄巾起義)の話を聞き、戦の虚しさが少し分かった気がした。やはり日子耳様は苦労人である。その思慮深さにつくづく頭が下がった。波乱の人生を歩んでいるピリュのたくましさにも感心した。願わくは、ピリュの旅に同行したかったのだが、この船を狗奴国に持ち帰るという大事な役目がある。

 この船は天駆けるように速いが、荷物はあまり詰めないので商船には向いていない。しかし、巫女女王の巡幸船としては最適である。父はそう思い、大金を叩いたのであろう。龍紐はそう確信した。

 鹿耶野姫の父、徒手の項増は捨て子である。ゆえに自分の出自を知らない。しかし、その肌の白さや顔つきが、何とはなしにピリュに似ている。ピリュはコグリョ(高句麗)の民らしい。龍紐の母ポニサポは、ウェイムォ(濊貊)の民だと聞いた。高句麗はその濊貊の国である。だから、ピリュと龍紐は、どこかで縁(えにし)がつながるはずだ。「もし父が濊貊の捨て子であれば、自分も二人と縁が繋がるかもしれない」と、鹿耶野姫は淡い期待を抱いた。

 青島の港が見えてきた。いよいよ龍紐兄貴とお茶目な鹿耶野姫ともお別れである。“戦況はどうなっているのだろう。どれくらいの仲間が生き残れているのだろう” 寂しさと不安の両方がピリュを襲った。しかし、二人とはこの先もまだ会えそうな気がする。何の根拠もないのだが、なぜだか確信的にそう思えるのだ。だからピリュは、加太と共に笑顔で下船した。

 龍紐が「今度会うときは、龍の入れ墨を彫ってやろう」とピリュに言った。「良いねぇ~。その時は青龍で頼むよ」と、ピリュは離岸する船に大きく手を振った。“さぁ行くぞ。大変な旅になりそうだ”と、ピリュは加太の背を追って駆け出した。

 夙(しゅく)の者が、庭を掃き清め、路傍の小さな祭壇に花を供えていく。街外れで最後の花を飾り終えたころ、ゆっくりと朝日が昇る。童(わらべ)らが飯粒を載せ、掘り割りに笹舟を流す。船頭に見立てているのだろうか、それとも神々への供物だろうか。

 チュクム(秋琴)の娘、フーミー(狐米)は十歳になった。母と別れてもう二年である。母の所在はわからない。“でも生きている”母の波動が朝日と共に伝わってくる。今でも母は女剣士のようだとフーミーは感じている。だから寂しくはない。ただ名はジェン・ファ(姫華)からジェン・ジャオミー(甄昭弥)に変わった。祖父ジャン・ジャオ(張角)がつけてくれた名は闇に沈めたのである。ただ、母がつけてくれたあだ名の「フーミー」だけは隠す必要はない。この水の精霊であろう娘は後の世で甄姫として名を残す。

 流転の美しき娘がもう一人いる。グゥォ・シァリン(郭夏玲)である。シァリン(夏玲)もまた太平道の信徒の娘である。両親はグアンゾン(広宗)の決戦をかろうじて生き延びたが、ガオピン(高平)からグアンリン(広陵)へ落ち延びる途中で没した。死因は、台風被害による家屋の下敷き、圧死であった。シァリンは巳(たつみ)の親方ツァンロン(蒼龍)に助け出され、親方の族兄弟スン・ウェンタイ(孫文台)の助力もあり、無事に南郡のジャンリン(江陵)に落ち着いた。伯母ドン・ヤン(董陽)の屋敷に引き取られたのである。

 ヤン(陽)の夫はグゥォ・ヨン(郭永)といい、南郡の太守であった。彼はシァリンの父グゥォ・トン(郭謄)と従兄弟の関係であった。そのため、シァリンは何不自由なく育った。実の両親を亡くしたのは一歳の時だったので、ヨン(永)とヤン(陽)を実の両親だと思っていた。郭家には兄と姉、二人の弟がいた。兄と姉は、シァリンが実の妹ではないと知っていたが、哀れな一族の妹を一層いたわって接してくれた。そのため、シァリンには影がない。郭家は著名な学者の家柄であるが、母方の董家も同じように学者肌の家柄である。したがってシァリンは、とても勉強熱心である。この時代「女に学問など不要。学問は男のするもの」という風潮が強かったが、郭家は違った。なかでも「シァリンは、秀才だ」と南郡太守は自慢をして憚(はばか)らなかった。

 ルーナン(汝南)の乾いた秋風が、フーミーの解かれた黒髪をかき上げた。この娘はしきたり通りの見事な髻(みずら)を嫌っている。きっと何事も縛られるのが嫌いなのだろう。反逆者の血がそうさせるのかもしれない。そして、彼女は変な生き物が好きである。ここは河原である。季節は秋。その変な生き物も、そろそろ冬眠の準備を始めるころである。フーミー、否、ジャオミーは、兄に伴われてこの河原にやってきた。

 養父はシャンツァィ(上蔡)の県令である。しかし、優しい養父のジェン・イー(甄逸)は今、病の床についている。ある古老が「蛇の活血が効くかもしれんぞ」とジャオミーに教えてくれた。姉たちは蛇と聞いて「ギャ~!!」と怯えたが、髻嫌いのこの小娘は蛇が好きなのである。その自由奔放に見えるクネクネ感が良いらしい。だから、手に取ることも平気である。

 ジャオミーは、ふわりと広がる衣の裾も気にせず、浅瀬の岩場に立っていた。お供の者たちが「お嬢様、危のうございます」と数歩後ろで腰を引かせている。兄がお転婆な妹を笑ってみている。お転婆娘は河原で育ったフーミーであるから、水を得た魚のようにズンズンと草むらに分け入っていく。ジャオミーの瞳が、湿った草むらの奥で蠢く影を捉えた。彼女は迷わず腕を伸ばした。その指先が、しなやかな鱗の感触を掴む。そして満面の笑みを浮かべると、「捕ったわよぉ~」と、クネクネを絡ませた腕を蒼天に突き上げた。もちろん、お供の中には「ギャ~」と尻もちをつく者も出た。

 上流から流れてきた一艘の古びた河舟が、力なく芦原の岸に船体を寄せる。 降りてきたのは、ボロを纏いながらも、どこか気品を捨てきれない奇妙な難民の一家だった。流転の美しき娘シァリンの一家である。冷たさを伴った川風に身震いする二人の弟を、その小さな両腕で力強く抱き寄せている。

 白髪の混じり髻を風が乱した。祖母ホウ・メイリン(侯美玲)は憔悴しきった様子である。一家は戦乱から落ち延びる途中である。南郡の太守であった養父グゥォ・ヨン(郭永)と伯母ドン・ヤン(董陽)もその戦火の中に消えた。家財産の大半を焼かれた一家は、メイリン(美玲)の故郷を目指して旅を続けている。生き残った姉は十歳、兄は九歳、弟たちは七歳と六歳である。

 心許ない足取りで歩み始めた一家に、クネクネを得意げに持ち帰るジャオミーが出会った。兄も、お供の者たちも十歩離れて付いてくる。シァリンが、その様子を愉快気に眺めた。そして、二人の目がぴたりと合った。一方は、県令の娘として何不自由なく育ちながら、野生児のように蛇を掲げる少女。 一方は、戦火の中で親を失い、泥を舐めるような逃避行の中で家族を守る少女である。

 沈黙を破ったのは、ジャオミーのいたずらっぽい笑みだった。「ほら、見て。これ、万病の薬よ」と、腕の中の「クネクネ」を絡ませた腕を一家の方へと突き出した。皆が悲鳴を上げ、尻もちをつく中で、シァリンだけは動じなかった。彼女は不思議そうに目を細めると、「へぇ~」と、細い指先でその蛇体を触った。「ねぇ~良い子でしょう」とジャオミーが言う。「本当。冷たくて、とても気持ちいいですね」シァリンの声は、鈴を転がすように澄んでいた。死と隣り合わせの旅を続けてきた彼女にとって、その蛇の冷たさは、恐ろしい怪物ではなく、生きている証としての「心地よさ」に感じられたのだ。「フフフ………。そうでしょう。あなた、面白いわね」と、ジャオミーは目を丸くして、弾けるように笑った。「ねえ、付いてきて。私の家へ。美味しい食べ物も、暖かい火もあるわ」ジャオミーはそう言うと弾むような足取りで歩き出した。力強い「蛇の主」に導かれるように、疲れ果てた難民一家はぞろぞろとその後を追い始めた。いわゆる「蛇に睨まれた蛙」の状態だったのかもしれない。

 焼香の匂いを晩秋の風が運んだ。ジャオミーのクネクネも養父の命を繋ぐことはできなかった。汝南郡の名家である甄家の葬儀は大がかりである。ユェン・ベンチュ(袁本初)の袁家に並び立つ家柄なので、無理もない。ジャオミーの大叔母ジャン・ヂェン(張姫)には、夫を亡くした悲しみに沈んでいるゆとりはない。葬儀は静かな戦場である。その大わらわの儀式を手伝っている一家がいる。シァリンの難民一家である。シァリンは、クネクネの出会いから今日まで、甄家の世話になっていた。戦火の中に一族を失ってきた張姫が引き留めたのである。

 ジャン・ヂェン(張姫)は、革命家ジャン・ジャオ(張角)の遺児である孫娘のジャオミーを自由奔放に育てている。ある時、兄の筆硯を持ち出し、書法を楽しむ様子を見て、兄が「女に学問など不要。おまえはもう少し娘らしく振る舞え」と諭したことがある。兄は妹の将来が心配でならなかったのだ。しかし、お転婆娘は「兄上様、男でも女でもしっかり生きようとする時には、先人の教えを学ぶべきです。その手始めが書法です。兄上様、私に書法を教えてくださいませんか」と言い返した。兄は呆れて「はい、はい」と言うしかなかった。兄は書の秀才であった。

 ヂェン(甄)家が喪に服するころ、シァリンの難民一家は、王都の北に位置する并州に向けて旅立った。達者な足で十日、幼子を抱えたこの一家であれば二十日近い長旅である。張姫は、馬車とお供の私兵をつけて送り出してくれた。シァリンは別れ際に、母の形見である和田玉(ホータンぎょく)の首飾りをジャオミーに渡した。ジャオミーは、生き別れの母から貰った黒真珠の勾玉をシァリンに渡した。そして、シァリンは「夢の中で会いましょう」と言った。それからジャオミーは「夢寐(むび)にも忘れないわ」と手を振った。

 数年後、シァリンは貧しい家族を助けるために、祖母ホウ・メイリン(侯美玲)の本家を頼り行儀見習いに出た。ジャオミーは名家同士の縁組で、ユェン・ベンチュの次男ユェン・シイェンヨン(袁顕雍)に嫁いだ。しかし、シイェンヨン(顕雍)には父が許さない恋仲の女と子供がおり、幸せの時は訪れなかった。ジャオミーは夫ではなく、ユェン(袁)家に嫁いだのである。

 ジャオミーの知らざる父ツァオ・モンドゥー(曹孟徳)は、青洲黄巾軍三十万を手にして飛躍の時を迎えていた。しかし、心の隅にあの小娘の姿が焼きつき“俺の娘ではないのか?”と行方を追ったが手がかりを掴むことはできずにいた。孟徳に青洲黄巾軍を委ねたのは旧知の老革命家ポントゥォ(彭脱)ことリー・ブォウェン(李博文)である。彼は、ジャン・ジャオに代わる革命の夢をツァオ・モンドゥーに託したのである。黄巾起義から始まる戦乱の世の成り立ちを、ジャオミーは知らない。

 花嫁を乗せた河舟が連なり進んでいく。田畑が広がる大平野を流れるこの川は、穏やかである。ゆったりとした流れに、春の日差しが優しい。花嫁はジャオミーである。ルーヤン(汝陽)へは陸路でも嫁げるのだが、これは、汝南の人々へのお披露目の嫁入り舟であった。川岸には、この豪勢な嫁入り行列を見ようと大勢の人が集まっている。中には弁当を持ち込み、花見代わりを楽しんでいる者たちもいる。確かに十六歳の花嫁は、どんな花より美しい。しかし、当のジャオミーは浮かぬ顔である。

 父が亡くなり当主になった兄は、妹のためにまたとない相手を選んでくれた。袁家の御曹司は次男ではあるが、父のユェン・ベンチュ(袁本初)が最も期待している男であると見られている。だからこそ、息子シイェンヨンが歌妓を見染め娘を儲けても、父はその縁組を認めていない。世間一般では、「目に入れても痛くない」と言われる可愛い孫娘だが、シイェンヨンの娘をベンチュが抱いてやったことはない。

 漢王朝では改革派の旗手であったユェン・ベンチュも、家柄に対してはすこぶる保守的である。しかし致し方ない。大家の当主とはそういうものである。そしてそれは、名家に育ったジャオミーの避けられない宿命でもあった。そのため、自由奔放に育ったお転婆娘は浮かない顔をしていたのである。

 幼いころ、青島で加太の知人である倭人に習った言葉がある。「ナンクルナイサー」という呪文である。その倭人は、苦しい時に唱えると良い呪文だと教えてくれた。倭人の言葉なのでジャオミーには意味は分からない。でも、確かに何となく元気になる呪文なのである。呪文の意味なんて分からなくても良い。だから、今だって「ナンクルナイサー」と、ジャオミーは川舟に乗り込み、春の空を見上げた。そうして清々しいフーミーの顔に戻った。

~ 青洲の沙船 ~

 仏頂面の魔王が、青洲の沙船に乗り込んだ。外洋を航行することはない船ゆえ、喫水は浅く船底は平らである。その田舟のような構造は、沿岸だけでなく河川の深奥まで入り込めるため、極めて重宝な存在であった。

 このところ、ツァオ・モンドゥー(曹孟徳)は水軍の強化に腐心している。騎馬戦については、改めて学ぶ必要などない。モンドゥー(孟徳)はかつて皇帝直属の騎馬隊を率いた男である。さらに、中華で最も騎馬戦に長けているのは誰かと問われれば、誰しもが孟徳の名を挙げた。先代の魔王ドン・ヂョンイン(董仲穎)が没した後は、その評判は不動のものとなった。加えて今、老革命家から、青洲黄巾軍の精鋭を託された孟徳に、陸上戦で抗える者などおるまい。

 しかし、弱点は水上戦であった。中華の歴代王朝は、常に西や北から攻められ、東海や南海へと逃げ延びる歴史を繰り返してきた。ゆえに、水上戦よりも陸上戦が主であり、各軍閥の主力もまた騎馬隊と歩兵軍団である。だが、孟徳は確信に近い予感を得ていた。「船の活用こそが、戦乱を制する鍵となる」と。

 船の第一の利点は、物資の大量輸送にある。荷馬車よりも輸送力に優れ、何より餌代がかからない。風に払う駄賃など不要なのは当然だが、牛馬の餌の手配というのは案外手間が掛かるものだ。数頭であれば道端の草を食ませれば済むが、数百数千の数になればそうはいかない。

 牛馬の隠れた利点は、いざという時に食料になる点だ。船は齧っても腹の足しにはならない。ゆえに、牛馬を豊富に伴えば、長い遠征でも兵たちは安心して付き従う。戦は勢いだけでは勝てない。経済こそが肝要なのだ。水軍強化には初期投資を要するが、船を大事に扱えば、その経済効果は高い。文武に秀でた孟徳はそう考え、船の「伯楽」を探しているのである。

 伯楽の語源となった人は、八百年以上も昔、秦の穆公に仕えた人である。姓を孫、名を陽という。秦という国は、中華の西の端に位置し、西戎の血を引く者も多かった。スン・ヤン(孫陽)が西戎であったかは定かではないが、馬の目利きにおいて並ぶ者はなかった。西戎や北狄は、馬の上で育つと言われるほど馬の扱いに長けている。孫陽は多くの良馬を育て、秦は最強の騎馬軍団を得た。それが後の始皇帝へと繋がっていく。ツァオ・モンドゥー(曹孟徳)は今、その「海の伯楽」を探し求めていた。

 馬の伯楽が西や北から生まれるならば、船の伯楽は南蛮や東夷に潜んでいるはずだ。そう考え、倭人が多く暮らす青洲へとやってきたのだが、一番当てにしていた変人の加太が見つからない。そこで、各地に青洲黄巾兵を走らせた。そして「倭国にいるのではないか」と言うことが明らかになってきた。その兵の話では「空を飛ぶ船で渡った」と言うことである。「まったく、あの糸の切れたタコ(凧、いや蛸野郎)めっ!!」とモンドゥーは苦々しく吐き捨て、機嫌が悪いのである。

 その仏頂面の魔王の肩を揉みながら、「しかたないべ、天下様。加太様は常人ではねえからのう。変人の動きを掴むのは常人には叶わぬもんじゃで、いかな変人の天下様でも、まだまだ加太様の変人ぶりには勝てませんでなぁ~ アハハノハァ~」と猫目が陽気に笑った。「まったくお前は、気楽な奴だ。俺の苦労を爪の先ほどでもお前に飲ませたやりたいわ」と天下様は思わず苦笑した。

 この頃、ツァオ・モンドゥーは盟友、ユェン・ベンチュ(袁本初)と共に、戦いに明け暮れていた。二人に敵対していたのは、秋琴に奇襲をかけたゴンスン・ブォグゥイ(公孫伯珪)と、東海沿岸勢力の覇者となっているタオ・ゴンズー(陶恭祖)である。そして、その二人を裏で操っているのが、もう一人の袁一族ユェン・ゴンルー(袁公路)である。異母兄のユェン・ベンチュを認めず、自分こそが次の覇者だと牙を剥いていた。

 かつてゴンスン・ブォグゥイは、ジャン・ジャオ(張角)にこう諭されたことがある。「ブォグゥイ(伯珪)よ。名だたる古代の覇王も今は名だけが残り骨さえ朽ちている。だが堯や舜は、今も民の心生きている。そなたの驕気を捨てよ。最強の武人など時流に乗れなければ、流浪の民に紛れて生きることになるだけだ」だが、彼はついにその驕気を捨てられぬ男であった。

 ゴンズー(恭祖)は若き日には太学の改革派であり、老革命家ポントゥォ(彭脱)の兄貴分であった。だが老いるにつれ独りよがりが強くなり周囲との協調性を欠くようになった。学識が高く雄弁だった者に陥りやすい兆候である。果ては「困り者」から「嫌われ者」となる頑迷な老人である。ユェン・ゴンルー(袁公路)もまた、兄ユェン・ベンチュに比べると思慮深さが足りない。ゆえにこの争いは、前年のクゥァンティン(匡亭)の戦いにおいて、既に大勢が決していたのである。

 ゴンルー一派の大きな誤算は、ツァオ・モンドゥーに青洲黄巾軍が与したことである。これは、「天下三分の計」を説くファン・シャオ(黄邵)の知略による。カンチョン(鄭康成)塾の三羽鴉と謳われたシャオ(邵)は、先頃まで袁一族のゴンルーのもとで働きながらその才覚を見極めていたが、彼では兄のユェン・ベンチュに勝てないと見限った。そこで、シャオは同志である「巳の親方」ことツァンロン(蒼龍)の縁を頼り、スン・ウェンタイ(孫文台)に与した。ロン(龍)の話のようにウェンタイ(文台)は稀代の武将であったが、前年に不慮の戦死を遂げた。

 これにより、ゴンルー一派の未来は潰えたと判断したファン・シャオは、次なる局面を予測した。すなわち、ユェン・ベンチュとツァオ・モンドゥーの決別、そして二大勢力による覇権争いである。そこで、豫州と冀州の太平道はユェン・ベンチュに、青洲の太平道はツァオ・モンドゥーに与し様子を見ようと策を練った。そこで、シャオは、ユェン・ベンチュのもとに走り、そしてツァオ・モンドゥーとの交渉は、ポントゥォ(彭脱)に託した。こうして最強の実戦部隊である青洲黄巾軍は、ツァオ・モンドゥーの親衛隊へと姿を変えたのである。

 チャーホァ(茶花:和名サザンカ)の赤い花が咲いた。これは冬便りである。多くの草木が枯れ色に身を包むころ、常緑の葉に命を秘め可憐な花を咲かせるこの草木は、苦難の季節を前にして勇気を与える風物である。

 秋琴の元気の源マー・チャーホァ(馬茶花)は教祖を追って倭国に渡った。美しき女軍師ジャン・リンシン(張林杏)もまた、その後を追った。しかしいまだ、中華には多くの信徒が留まっている。数百万の民の移動は、人類史に刻まれる大移動に匹敵する。かつての大移動が数百年の時を要したことを思えば、十数万の信徒が倭国に逃れただけでも大偉業である。彭脱が青洲の信徒百万を率いてツァオ・モンドゥーに下ったのは、そういう背景も大きい。そして、黄邵と彭脱が、当時青洲を制していた公孫伯珪を頼らなかったのは賢明であった。この後、モンドゥーは、死してなお青洲太平道の民を庇護するのである。それは、同じ革命の志を抱いたジャン・ジャオの慈愛にも等しいものであった。

 「ところでお前は、先頃までどこをほっつき歩いていたのだ」とモンドゥーが猫目を咎めるように睨んだ。「どこに居たっては、ひでえなぁ。それじゃまるでオイラが迷い猫みたいだべ。オイラは天下様の言いつけ通り、ちゃんと倭国に行ってたんだべ」と猫目が憤慨して言い返した。

 猫目にはリィゥ・ヂェン(劉楨)という名がある。字はゴンシー(公幹)である。しかし彼は、随分大人になるまで自分の本当の名を知らなかった。自分の名を知ったのは二十一歳の時、黄巾起義で母が世を去る直前のことである。猫目は劉氏の妾腹だったのである。そこで、ツァオ・モンドゥーは劉楨を名のらせたのだが、モンドゥー自身や、夏侯惇(元譲)、夏侯淵(妙才)ら族弟たちは、今も「猫目」と呼ぶ。それに気楽な猫目もその方がお気に召すようである。何しろ「名なんてどうでもいいべ。良い名で呼ばれたって、腹がいっぱいになるわけじぁあんめぇ」という男である。

 今や鬼神さえも恐れると称される猛将の夏侯元譲と夏侯妙才も、そう呼ぶことで、昔の悪童時代に思いをはせ愉快な気分になれるようである。普段三人は軍律に厳しいことで知られているが、猫目に対してだけは別格である。そんな不作法者の猫目でだが、意外にも詩作の才があった。学問とは無縁であった猫目であるが、孟徳たちが詩作に耽るのを見て真似てみたのである。ところが、これがなかなかの佳作である。型にはまらず自由でのびのびした詩風に三人は驚いた。

 かつて秋琴が、フーミーをイン・ミンティエン(尹旻天)に託して疎開させようとしていた頃。孟徳は逃亡の途上で偶然彼らに出くわした。当時の孟徳は、魔王ドン・ヂョンイン(董仲穎)の懐柔策を嫌い、野に下ったばかりの「善人」あった。すなわち、まだ青臭い改革派の一青年であった。

 渡し船を待つミンティエン一行は、どうやら商人団にまぎれての旅のようである。孟徳は、互いに逃避行のようだと察し、声をかけなかった。だが、ミンティエン一行が舟に乗り込み離岸しようとした矢先に、小娘と目が合った。その精悍な眼差し、孟徳は射抜かれた。馬にまたがった猫目が「あっ、ヂェン・ファ(姫華)」と呟いた。「知り合いか?」と問う孟徳に「確か……? あれは、チュクム(秋琴)様の娘じゃなかんべ……か?」と猫目は頼りげない返事をした。ツァオ・モンドゥーは「猫目、追え」と彼の馬の尻を鞭で叩いた。思えば、あれからあれから四年の月日が流れていた。

 そう思い出した魔王だが「四年もの間、便りも寄こさず、どこで遊び呆けていた」と猫目を怒鳴った。「便りなんて出せないべ。だってオイラ倭国にいたんだも~ん。無茶言ったら困るべ天下様。あんたの命令だべ」と猫目は膨れた。「お前、倭国まで行ったのか。じゃぁ、あの小娘も倭国にいるのか?」と孟徳は問いただした。しかし猫目は「さぁ? 秋琴様は倭国で女王になって戦三昧だけど、フーミーの姿は見かけなかったなぁ」と相変わらず頼りない返事である。そこで孟徳は「ところで、どうやって、お前は帰ってきたのだ」と尋ねてみた。すると「嗚呼、黄巾水軍の船でね」と猫目が答える。「青洲黄巾軍には、水軍があったのか?」とツァオ・モンドゥーは畳み込みように問いただした。「当ったり前だべ。青洲は東夷の国だべ。倭人も大勢いるし水軍があっても不思議じゃねえべ」と猫目は胸を張って答えた。

 ツァオ・モンドゥーは語気を強め「ならば、なぜもっと早く我が軍門に下らぬか」と憮然と言い放った。「だから、倭国にいたって言ってるべ。信徒たちを逃がすのに必死だったんだ。陸路にはあの卑怯者がいるからさ」「ゴンスン・ブォグゥイ(公孫伯珪)か」「そうそう、白馬の気どったブー野郎だ。だからジンメン(津門)から海路で遼東に何度か往復し、最後の便で倭国まで行ったのさ。そして、また信徒を逃がすために、青島に戻ってきたのさ。本当はオイラ、倭国にいたかったんだよ。でも天下様に報告しなくっちゃと思い嫌々帰ってきてやったんだべぇ。それを、そんな目を三角にして怒鳴らなくても……」と猫目がすねる。孟徳は素直に「そうかそうか、いや、済まなかった。許せ」と謝った。それから、身を乗り出して「その水軍は今、どこに居る?」と尋ねた。「ああ、まだジンメンにいるはずだべ」と猫目が答えるとツァオ・モンドゥーは「よし、ジンメンの港に向かえ」と沙船の船長に指示を下した。

 初冬の海風が、猫目の頬を撫でた。猫目は身震いし目を細めた。孟徳は「狐のような目だ」と笑い飛ばそうとしたが、そこへ水軍の大将が姿を現したため、表情を引き締めて迎えた。大将はいきなり孟徳の前に跪いた。そして「お許しください閣下。ポントゥォ(彭脱)様から話は伺いました。本来なら青島で兵を解き、帰順すべきでした」と詫びた。「いや、フェァ・イー(何儀)殿、面を上げてくだされ。話は、この猫目に聞きました。りっぱな働きで感服します」とツァオ・モンドゥーは何儀をゆっくりと見つめ抱き起こした。

 別室へと招き入ると「早速ですが、私はどうしても貴殿の力を借りたくて訪ねてきたのです」と話を切り出した。何儀は、彭脱から「曹将軍が太平道の信徒の安全を保障した」と聞き、倭国へ帰る準備をしていた。何儀は倭国の鬼国で育ち、そこを本拠地としている。だが、生まれたのは白商人団の拠点、ヤルホト(交河城)のキャラバンサライであった。つまり彼は、バイチュウ(白秋)の一族であり、旅慣れ、船の扱いにも精通していた。だからこそ、青洲黄巾軍で水軍強化の指揮を託されたのである。

 水軍の役割の九割は輸送にある。海兵による軍事行動など一割に満たない。四方を海に囲まれた国でもない限り、海戦は稀である。大河での戦はあれど、川は狭く流れも速いため、大規模な交戦には向かない。主たる役目は、兵の渡船と物資の運搬である。

 ツァオ・モンドゥーは当時、兗州牧に任ぜられていた。王朝安泰の世ならば一州の長官に過ぎぬが、群雄割拠の今、それは兗州王にも等しい。華北には二人の魔王が並び立つ。冀州のユェン・ベンチュと、兗州のツァオ・モンドゥーである。二人は、数年後にグァンドゥヂージャン(官渡之戦)で命運を分ける。その命運を決定づけたのは、何儀が率いた曹軍閥の水軍であった。孟徳の先見の明が、時代を切り開くのである。

 初秋の庭に、シュンファ(舜華:和名むくげ)の淡やかな薄紅色が色を添えた。ムーチン(木槿)とも呼ばれ、花は槿花として、樹皮は槿皮として共に薬効がある。それも五臓六腑の六腑の病に効能を発揮する。大ざっぱにいえば、五臓は血の路に関わる臓器で、六腑は食物の路に関わる臓器である。

 ツァオ・モンドゥーの五臓には毛が生えておりすこぶる丈夫である。しかし大酒飲みの六腑は、まことに哀れな仕打ちを受けている。ゆえに木槿の薬は欠かせない。これを育てているのは、孟徳の三人目の妻、ビィェン・チンリン(卞青鈴)である。厳しい境遇に育った彼女は、豪族の妻となっても奢美に溺れることはない。むしろ実利実益を心がけ、「医食同源」が唯一の楽しみである。そのため、この庭は薬膳料理の宝庫である。そして、先に述べた通りに、大酒飲みの夫にシュンファ(舜華)の花木は欠かせないのである。

 その庭に、また一人、名花が招かれた。イン・ミンティエン(尹旻天)である。彼女はかつての何大将軍大将軍の息子の妻であった。しかし、あの事変で夫と義父を失い、頼みにしていた大伯父ヅーシー(盧子幹)も病で世を去った。そこでその翌年、老革命家彭脱こと李博文の取りなしで、孟徳の側室となったのである。

 ミンティエンの息子フェア・ピンシュ(何平叔)は十歳になった。卞青鈴の息子ツァオ・ゴンファン(曹子桓)は八歳、その下の息子ゴンウェン(子文)は六歳、さらにゴンジィェン(子建)三歳、最後に末息子ゴンウェイ(子威)は、まだ一歳に満たぬ赤子である。だから、この庭先はとても賑やかであった。

 ツァオ・モンドゥーは前年の戦で大敗を喫し、大火傷を負ったが、満足に療養する間もなく戦いに明け暮れている。そして、戦がひと段落すると「青洲に行ってくる」と言い残し、出かけたまま帰らない。まことに忙しい男である。だが、主不在の屋敷は至って平穏であった。だから、今日はミンティエン親子を招いてのお茶会を楽しんでいるのである。いつもの茶会の常連ディン・メイリン(丁美玲)とディン・チュンユー(丁春玉)の姿はない。孟徳の長男ツァオ・ヅーヨウ(曹子脩)が二十歳で孝廉に推挙され、県令として赴任したため、彼に付いて行ったのである。メイリン(美玲)祖母ちゃんの愛も、忙しいアーマン(阿瞞)ではなく、今は孫のヅーヨウ(子脩)に注がれている。そして、我が子を持たなかった孟徳の正妻チュンユー(春玉)の愛も、「糸の切れた凧」のようなアーマンではなく、立派に成長した息子であるヅーヨウへ注がれていた。

 曹子脩は二十三歳になった。この若さで県令とは破格の抜擢だが、孟徳もまたその歳には要職に就いていた。周囲では「高官の小倅が金で官位を買いよったわい」と噂したが、孟徳は本当に抜きんでいたのである。そして子脩は、その父をも凌ぐ英才であると、丁美玲と丁春玉は信じて疑わない。そして孟徳自身も、その評価に異論はなかった。

 次男のツァオ・ズーシュォ(曹子鑠)は二十歳になった。病弱なこの息子は長く生きられまいと諦めていたが、卞青鈴の薬膳料理のおかげで命を繋いでいる。戦に出るほど壮健になったわけではないが、このまま卞青鈴に託しておけば、どうにか生きながらえるのではないかと、孟徳は密かに期待している。近頃、忙しく薄情な父は「そろそろ嫁を貰ってやれねば」と親心を覗かせるようになった。

 三男のツァオ・ゴンファン(曹子桓)に対しては、沈着な孟徳も奇妙な感情を抱いていた。息子たちの中で、最も自分に似ている。それも、自分の嫌いなところが、である。文武に秀でている点では、惣領の曹子脩にも劣らない。しかし、あの眼差しは奥底が知れず、何を考えているか掴めない。それが幼き日の自分自身の写し鏡であると気づくたび、孟徳は気鬱になるのだった。だから「あいつが一番、俺に似ている」と溜息をついてしまうのである。そして、それを聞きつけた猫目が「オイラもそう思うべ」といらぬ相槌を打つ。この三男こそ、後の世に帝位を簒奪したといわれる文帝・曹丕である。

 それから二年。敗走の最中、孟徳の身代わりとなって曹子脩が戦死した。激昂した正妻の丁春玉は、口も聞いてくれず里に帰り隠棲した。翌年、十一歳の曹子桓は半ば強引に初陣した。その奮戦ぶりに一族は「子脩の魂が弟に宿った」と沸き立った。

 しかし孟徳は、次男の子鑠を気遣い、後継者を決めきれずにいた。戦場では冷徹な判断を下す魔王も、家族のこととなると優柔不断な男になるのである。そしていよいよ、ユェン・ベンチュとの決戦の時、グァンドゥヂージャン(官渡之戦)が近づいてきた。十三歳の「小魔王」は、常人には計り知れぬ冷徹な瞳で、遥か彼方を見つめていた。

~ 葬列の舟 ~

 青い蛺蝶(たてはちょう)が、夏空に乱舞していた。深い青を湛えた翅(はね)が、真っ青な天へと風を運び、悲しみを雲の彼方と押し流していく。青は、静かに心を鎮めてくれる色である。もしかすると、神様の国は青の世界かもしれない。風に随(まつろ)う娘には、ふと、そう思えた。

 ここはハンダン(邯鄲)の南に位置するイェ(鄴)の都である。古(いにしえ)、ここには夏王朝があった。漢人の源郷であり、ゆえに漢人が治める領域を「中華」と呼ぶ。中原とも中山ともいう。その北は北狄(ほくてき)、西は西戎(せいじゅう)、東は東夷(とうい)、南は南蛮(なんばん)の領域である。したがって、華(はな)ある民とはこの中原の民である。

 だが、その華の民が数千年変わらずにこの地を治めてきたわけではない。幾度となく北狄や西戎の蛮族に翻弄されてきたのである。その度に華の民は、東夷や南蛮の地に逃れ、蛮族に紛れて生き延びてきた。西戎の血をひく野蛮人ドン・ヂョンイン(董仲穎)が王都を落とした頃、ユェン・ベンチュ(袁本初)は、この東夷の地に逃れた。そして、蛮族の横暴から逃れた華の民の多くが、本初のもとに集ったのである。

 もし魔王・董仲穎があの謀略に葬り去られていなければ、今は王都・洛陽に対峙し、この鄴の都が、本初に支えられた東の漢王朝の王都と呼ばれていたかもしれない。鄴や邯鄲のあるこの地は、西北に山を控え、大河に恵まれ、南には肥沃な田畑が広がる。山がなければ建築材となる木材は手に入らず、煮炊きや暖を取る雑木も欠かせない。こうした恵まれた立地を足がかりに、本初は勢力を拡大してきた。

 雷鳴が轟き、豪雨に街が霞んだ。しかし一時も経つと、再び晴天が顔を覗かせる。木々は水滴を煌めかせ、緑葉は生命の熱気を放つ。その熱気に包まれた郊外に、大きな屋敷がある。何やら慌ただしい気配がするが、屋敷林に囲まれて中の様子を窺うことは叶わない。だが周辺の田畑では、百姓たちの嘆きが、田に水を引くかのごとく静かに流れていた。商家は戸を閉ざして沈黙に沈み、川辺の漁師は舟を岸に繋ぎ留め、網が水面に舞うことはない。国のすべてが止まったかのように、嘆息の音だけが流れていた。ただ、この屋敷の私兵だけが慌ただしく動き回っている。

 「若奥様、大変です。お急ぎ母屋にお越しください」と家人が慌ててジャオミーを呼びに来た。胸が詰まり、血流が激しく脈打つ。「嗚呼、お義父様が逝ってしまわれた」覚悟はできていた。だが、いざその時が来れば膝は震え、息を吸うことさえ辛い。優しい義父だった。実の父を知らないジャオミーには、ユェン・ベンチュだけが唯一知る父の温もりだった。夫との縁が薄い分、その想いは強かった。母と別れた七歳のあの日も、養父を亡くした夜も、涙したことはない。“私は、いつだって、どんなことがあろうとも、泣いたりはしない”そう心に決め生きてきた。しかし、今は涙が止まらない。独りで生きていこうと決めたのに、後ろを振り向くのは止めようと決めたのに、ふと気がつけば背にはいつもお義父様の温かい手があった。だから、涙が止まらない。ジャオミーは声を上げず泣いた。

 ユェン・ベンチュは改革派の急先鋒として戦いに明け暮れ、剛勇を誇り、血風を吹き荒らして生きてきた。だが、その真の姿は心優しい男だった。六歳で母を亡くし、七歳で本家に養子に出された。袁一族の総領となるのだから喜ばしい話なのだが、幼子には家族と別れる悲しみしか湧いてこなかった。やがて宦官の横暴に怒りを覚え、王朝の大改革を図ったが、そのために多くの一族を死なせることにもなった。ジャオミーは、優しく微笑みかける義父の目の奥に、悲しみが潜んでいるのを知っていた。ユェン・ベンチュが時に「優柔不断」と評されるのは、その優しさの裏返しでもあった。どうすれば皆が悲しまないように、寂しい思いをしないようにと、常に思い悩むのである。

 義父は、ジャオミーの夫ユェン・シイェンヨン(袁顕雍)に秘かな期待を抱いていた。しかし夫は妻ばかりか父にさえ向き合わず、遠く彼方ばかりを見つめていた。そんな夫の厭世感は、王都で一族が惨殺されたことに端を発している。“父は己の野望のために家族を犠牲にした”と思い込んでしまったのだ。

 大河を葬列の舟が下る。墳丘までの舟旅に、ジャオミーは義母のリィゥ・シュェ(劉雪)と乗った。彼女は夫の実母である。夫は今、冀州の守りに就いており、ここにはいない。長兄のユェン・スーシィェン(袁思顕)もまた青洲におり、不在だった。義父の棺を乗せた舟には、三男のユェン・シイェンフー(袁顕甫)が乗っている。

 この三兄弟は母が違う。次男の袁顕雍と三男の袁顕甫の母は劉氏のシュェ(雪)であるが、長男・袁思顕の母はヂェン・チャン(甄姜)という。汝南郡の名門ヂェン・イー(甄逸)の長女である。ジャオミーの義姉にあたるが、彼女はジャオミーが生まれた年に亡くなったので会ったことはない。

 ユェン・ベンチュが十三歳の甄姜を妻に迎えたのは十八歳の時だった。名門同士の婚姻なので早々に跡継ぎが求められたが、長らく子に恵まれなかった。そこで二十四歳の時に側室を持たされた。本人の望みではない。男の本能のままに多くの女に恋をし子を孕ませるツァオ・モンドゥーとは違い、ユェン・ベンチュには甄姜ひとりで良かった。彼は、ひとりの女を慈しみ続ける男だったのだ。しかし、一門がそれを許さない。協議の末、皇族に繋がる劉氏より側室を迎えた。それが劉雪である。ところが、側室を迎えた翌年、正妻の甄姜が長男・思顕を産み、さらに翌年、劉雪が次男・顕雍を産んだ。そして、思顕が十一歳の時に甄姜は早世し、彼は劉雪の手で育てられた。ゆえに一緒に育った一歳違いの異母兄弟は仲が良かった。

 父に似た顕雍と、母に似た思顕の仲は良いのだが、三男の顕甫は長兄に対して対抗意識が強かった。末子として溺愛され、甘えん坊に育ったせいもあるだろう。長兄は幼くして実母を失い、袁家の総領として自我を抑えるしっかり者だった。そして甄家の娘ジャオミーのことも、彼は何かと気遣ってくれた。系図上は思顕が甥にあたるが、年齢は十一歳上で、ジャオミーにとっては族兄のような存在だった。

 夫の顕雍は慎み深く、父譲りの優しい本性を持っている。ジャオミーに冷たいのも、その裏返しだと彼女は思っていた。夫が北方の防衛地に赴く際、「母を頼む。きっと俺の人生は短いはずだ。だから、お前は何にも縛られるな。もっと自由に生きてほしい。ただ母だけはよろしくなっ」と言い残し、側室と子らを伴って任地へ向かった。顕雍は父に押し付けられた妻を嫌っていたわけではない。ただ、その境遇を哀れみ、愛おしく思っていたのだ。

 容姿や気質は父親似であったが、顕雍には強い合理性と博愛の心があった。ゆえに父とは戦い方が異なり、しばしば叱責を受けた。名門の誇りを重んじるユェン・ベンチュは正面からの総攻撃を是とするが、それは死傷者を増やす。無駄に兵を殺したくない顕雍は、奇襲と素早い撤退を繰り返す遊激戦を好んだ。それが父の目には、卑怯な戦い方に映る。それは、名門の戦い方ではなく、卑賤の者の戦い方であると思うのである。

 一方、宦官の家に育ったツァオ・モンドゥーは、貴賎にこだわらない。だから、戦い方に多様性がある。そこがベンチュとモンドゥーの明暗を分けることになった。もし長男の思顕に総領を継がせ、次男に大軍を委ねておれば、モンドゥーとの戦いに勝利を治めていたかもしれない。しかし、末子への溺愛が判断を誤らせた。もし上の二人を重用すれば、三男は、「部屋住み」の身になってしまう。ベンチュにはそれが不憫でならなかった。その心中を察する顕甫は、そのゆえに長兄への対抗意識を燃やす。次男の顕雍が仲裁に入っていたが、父の死後、兄と弟の亀裂は深まるばかりだった。

 末子の顕甫は愛嬌があり、皆から可愛がられる子であった。陰のある兄たちとは違い対照的に明るく育った。ゆえに取り巻きも多く、明るく楽観的な思考の者が多い。対して、思慮深く苦労人である長兄の思顕の周りには慎重派が集まり、諫言も多くなる。そこもユェン・ベンチュには顕甫の方が好ましく映る。さらに三男の顕甫には、“兄上と頼るのは同母兄シイェンヨン(顕雍)だけでいい”という思いが強い。実際、長兄の思顕は、顕甫が物心ついた時には、分家に養子に出され青洲にいた。だから兄と慕って遊んだ記憶も乏しい。そのために兄弟の情はますます薄くなる。

 長兄の思顕は、本家の総領には異母弟の顕雍が相応しいと考えていた。しかし、父に反発する顕雍にその気はない。養母の劉雪から頼まれ、どうにか父と弟の関係を取り持とうとした思顕だったが、普段は臨機応変な顕雍も、父に対してだけは頑なだった。

 顕雍は二度父を恨んだ。一度目は、異母兄思顕が分家に養子に出された十一歳の時である。激しく父に抗議する弟に、兄は「心配するな。俺は異国の自由な風が吸いたいだけだ。遠く離れてもお前のことは片時も忘れない」と笑顔で旅立った。その涙に霞みながら消えていった兄の後ろ姿を顕雍は忘れられなかった。

 二度目は、十八歳の時である。王都が西戎の董仲穎に制圧されると、父は家族を残して一人、反攻軍を組織すべく逃亡した。そして、王都に留まっていた一族の大半は、反逆者の一族として処断された。太学に通っていた顕雍は、その虐殺を目の当たりにした。「父は己の正義のために一族を犠牲にした。俺はあんな非情な男にはならない」と叫び、逃げ延びたのだった。

 庭先を秋雨が濡らす。まだ紅葉には早く、辺りは深碧に覆われている。初秋の冴え冴えとした情景に、ジャオミーは一抹の悲愁を覚えた。義父の容態悪化が、彼の人生の晩秋を呼んでいるようで不安だった。「あんなにお酒が好きだった殿様が、酒を遠ざけられるなんて……」と不安を漏らした義母・劉雪の声が耳から離れない。酒は百薬の長とも、万病の元ともいう。本初の酒は、周りに笑みを浮かべつつも何かに思い悩む、静かな「気遣い」の酒だった。ある夜、ユェン・ベンチュは血を吐いた。肺の病ではない。夜半、激痛が鳩尾(みぞおち)を抉った。「酒を……」と彼が求めた時、劉雪は急いで酒を取りに走った。白酒を一気に飲み干すと、やがて痛みは遠のき、ベンチュは安らかな寝顔を見せた。劉雪もようやく安堵して眠りについた。

 船飾りが暗雲に羽を広げている。葬列の先頭を行くのは「鳥舟」である。その鳥は現し(うつし)世から、黄泉国へと魂を運ぶ神の鳥である。だからこの舟は天鳥船(あめのとりふね)である。この葬列を仕立てたのは劉雪である。棺も舟形であるので水葬の名残かもしれない。もしそうであれば、ベンチュの魂は、ポーハイ(渤海)へと下り、ニライカナイへ向かうのかもしれない。東海の彼方の神仙界も、シャマン(呪術師)の鳥が運ぶ天界も、現し世に生きる人間から見れば、みな異郷でありその詳細を知る必要はない。ただ劉雪は水の民なのだろうか? 汝南郡には水の民も多いので不思議な話ではない。

 ユェン・ベンチュの容態は徐々に悪化していった。容態が回復する兆しがないので、劉雪は医者を呼んだが、医者は匙を投げ、痛みが走れば、山羊の乳を飲ませるよう勧めた。それを聞きつけた村人は連日、山羊の乳を屋敷に届けた。しかし、己が最期を悟ったベンチュは痛み止めの酒を止めなかった。そして、激痛は背中にまで達し寝付けないほどの痛みに襲われだした。途方に暮れた劉雪は、ジャオミーを呼び寄せた。ジャオミーには、母に封印された神様の力があった。それは、シカ(志賀)に依ってもたらされたエイルの力である。しかし、死者を蘇らせる程の力はまだない。だが、病人の痛みを和らげる力は身につけていた。でもそれは普通の女の子が見せる力ではない。だから母は「普通の女の子でいなさい」と、その力を禁じたのである。つまりイン(尹)家の巫女であることを悟られないように生きなさいと諭したのである。だから、今日までその力を封印していた。しかし、苦しむ義父のために彼女は封印を解いた。義父の腹部に手を当て、力を注ぐ。ユェン・ベンチュはうっすらと目をあけ、「さらば、青春」と呟いた。そして、ジャオミーに微笑むと、安らかに永遠の眠りについた。劉雪が涙を溜めて「ありがとう」と頭を下げた。

 それから「後は私が看るから、あなたは少し休みなさい」とジャオミーを労わった。その力の秘密は分からないが尋常ならぬ力を使うには、尋常ならぬ疲労を伴うのだろうとは推測できたのである。義母の言葉に甘えジャオミーは別室に下がり横たわった。この力は化生に依ってもたらされる。サンサーラ(輪廻)のジャーティ(出生)に寄り添い生み出す力である。だから常人であれば自らの死を招く。そのために生身の人であるジャオミーには大きな負担がかかる。そこで、半日ほど伏せっていた。

 泥の舟が大河を下る。泥の舟には泥の船頭が乗っている。船頭は櫓をこぐ手を止め、手招きをしている。ユェン・ベンチュは身震いし、急いで蔵の中に閉じこもった。しかし明り取りの窓の縁から泥の雨が染み込んできた。泥水が徐々に床を浸し、ベンチュは大急ぎで蔵の扉を開け放った。蔵は大河を流れていく。辺りを数艙の泥船が伴走している。泥の船頭たちが、蔵に舟を寄せて来る。泥舟は徐々に溶けだし、大河は泥の河に変わっていく。蔵は、徐々に泥の河に沈んでいく。

 ベンチュの口から、鼻から泥の河が流れ込んできた。息ができない。だが、目に見える青空だけが眩しい。青嵐は静まり天女が微笑む。“嗚呼 どうやら終わりの時がきたようだ”そう思い恐怖が身体の芯を抜けた。そうすると泥の河に一筋の赤い水流が生じた。その水流は、泥と混じり赤黒い河となって大海に向かう。既に息は止まっている。骸(むくろ)と化したベンチュは、赤暗色の夢を見ている。そうやって悲しみの風雲児は、命の幕を閉じた。後年、袁紹と呼ばれる悲しき英雄の一生であった。

 二年の後、鄴の都を制圧したツァオ・モンドゥーは、かつての友の墓を訪れた。そして酒を手向(たむ)け涙した。さらに、戦火で全てを失った劉雪に、領地を与え、その余生を保障した。しかし、汝南郡の名門袁一族の栄華はここに潰えたのである。

~ ポーハイ(渤海)の老朽船 ~

 薄紅色の花が砂丘を彩り、甘い芳香が漂う。「まだまだ鼻は衰えておらんようじゃのう」と好々爺(こうこうや)が老顔をほころばせた。「メイグゥイ(玫瑰:和名ハマナス)の実(ローズヒップ)が採れたら、お茶を淹れて差し上げましょうか」と若い娘が微笑み返した。「メイグゥイ茶か。良いのう。秋が楽しみじゃ。また若返るかのうホッホホホ……」と、老人は娘の手を取り穏やかに笑った。

 夏の暑さも和らぎ、過ごしやすい季節が訪れようとしている。早咲きのメイグゥイなら、そろそろ実をつけているかもしれない。「お祖父様は、きっといつまでもお若いですよ。私たち、『お祖父様は仙人の薬を飲んだのじゃないかしら……?』って噂していますのよ」と孫娘が笑いかけた。老人の長い白髪が海風に軽やかに泳ぐ。「おうおう、そう言えば昔、加太殿に一服煎じてもらったが、あれが仙人の薬だったかも知れぬのう」と老人は清々しく微笑み返した。海風が砂塵を巻き上げた。あの砂埃も長い旅をするのだろうか。老人はそんな目で砂塵の行方を眺めた。

 「お姉様、ほら、こんなにたくさん摘んできましたよ」と快活な娘たちの声がした。娘たちの名は、次女のミシル(美室)、三女のミリ(美里)。そして、老人の傍らに座る孫娘が、長女のミギョン(美京)である。この三姉妹は、マハン(馬韓)国の姫様たちである。父は、チョゴ(肖古)王で、母はゴンスン・チンフア(公孫清華)という。この老人ゴンスン・シォンジー(公孫升済)の長女である。この老人は後の世では公孫度と呼ばれるが、まだ健在なので死後の名を呼ぶものはいない。だからシォンジーお祖父様である。

 「おう、もうメイグゥイが、実っておったか」とシォンジー祖父ちゃんが籠の中を覗き込んだ。しかし「あら、やっぱりメイグゥイじゃないのう。こりゃゴウチー(枸杞:和名クコ)じゃの。それにしても、良くこれだけ採ってきたのう。どこに実っておった」と聞くと、次女のミシルが「あの砂丘の向こう側に藪があってね。そこに赤い実がいっぱいなっていたの。シォンジーお祖父様が喜ぶだろうと思って、ミリとたくさん摘んだのよ」と、絹の服に雑草の端切れをたくさん付けて、弾ける笑顔を振りまいた。

 三姉妹は既に嫁ぎ、子も儲けている。娘というよりは新妻たちであるが、シォンジーの前ではいつまでも少女のままである。長女ミギョンの夫は、チョゴ王の系譜であるオンジョ(温祚)系のソル(蘇婁)という青年。次女ミシルの夫は、先代の王ケル(蓋婁)王の系譜であるピリュ(沸流)系のケリュ(蓋流)。三女ミリの夫は、公孫一族の嫡流で、将来リュウ(劉)一族を束ねる男、ゴンスン・ファン(公孫芳)である。三人ともまだ三十路前の青年たちであるが、シォンジーが認め、可愛がってきた男たちである。

 ゴンスン・シォンジー(公孫升済)は周囲に恵まれている。若い頃は年寄たちに目をかけてもらい、幼馴染も優れた者に恵まれた。妻にも恵まれ、娘婿たちも一国の王にふさわしい逸材である。さらに孫娘の夫も、自らの血を引く孫たちも皆秀才である。これだけ人材に恵まれているのは、今の中華では、ツァオ・モンドゥー以外には見当たらない。ユェン・ベンチュも董仲穎も、自身は優れた男であったが周囲に難があった。やはり大業をなすには人材が一番重要である。財貨も物資も、それ自体が運を呼ぶことはない。運を呼び寄せるのは人によるところが大きい。だからこそ、ゴンスン・シォンジーとツァオ・モンドゥーは強運の持ち主といえる。

 突然、夏の熱風が戻ってきた。それは群青の空の下、光輝く洋上から駆け上がってきた。水滴を纏った白い肌からは、熱き生気のために湯気が立ち昇っているようだ。実際には夏の終わりなのでそのような現象は起きないが、そう思わせるほどに活気に満ちた少年である。筋骨隆々の肉体に精悍な顔つきだが、実は甘えん坊のお姉ちゃん子である。少年は今年十七歳になる。すぐ上の姉である三女ミリは二十四歳。七つ違いの姉は、ことさら小さな弟を溺愛した。三姉妹は年子である。だから長女ミギョンも次女ミシルも、ミリほどではないが少年を愛しんでいる。優しい姉たちのもとで育ったため、少年は甘えん坊でどことなく頼りないところがある。しかしシォンジー祖父ちゃんは“それもまた良し。男は、苦難を乗り越えるたびに強くなるものじゃ”と考えている。少年の名は、クス(亀寿)という。

 クスはチョゴ王の世継ぎであるが、実子ではない。相思相愛のチョゴ王と公孫清華は仲睦ましく、すぐに三人の子に恵まれたが、いずれも美しい姫であった。その後、七年経っても男子には恵まれなかったため、養子を迎えたのである。養子クスは王妃・清華の甥である。血筋としては従姉弟同士だが、クスは乳離れしたばかりの一歳で伯母のもとに来たので、彼にとっては実の父母、実の姉そのものである。むしろ実の父母の方が、「叔父さんと叔母さん」であり、実兄が「従兄」という感覚であった。

 クスの実母であるゴンスン・リーチュン(公孫麗春)は、ゴンスン・シォンジー(公孫升済)の次女である。夫はペクチェ(百済)国の王、クテ(仇台)という。ペクチェはかつて東プヨ(扶余)と呼ばれ、さらに太古はコリ(稾離)国と呼ばれた北方ツングース族の流れを汲む。そのコリ国を源郷とし、高句麗と扶余が興り、さらに扶余は、北扶余と東扶余に分かれた。鯨海を望む地に移動した東扶余は、幸豊なカソプウォン(迦葉原)を中心地として栄えたが、後に徐々に南下し濊貊が居住する地へと広がった。

 濊貊の民は、もともと「ウェイ(濊)」族と「ムォ(貊)」族という二つの種族である。「濊」とは水の湧く地を意味し、ホーブォ(河伯)と呼ばれる水辺の民・海の民である。対する「貊」は、羊などを遊牧する山の民・森の民である。北方高原のコリ国に居住していたのは、この貊族、いわゆる遊牧騎馬民族であった。

 コリ国から南、そして東へと移動した東扶余は、必然的に水辺の民である濊族と混血し、「濊貊」と呼ばれるようになった。遊牧に加え、海と川の幸を得たことで食糧も安定し大いに栄えたのである。しかし、鯨海の北岸に向かうほど冬の漁は厳しくなるため、必然的にさらなる南下を求めることとなった。

 コリ(稾離)国の族長の中に、ヘ(解)一族を名乗る者たちがいた。この一族は夏王朝の末裔である。洛陽の北に、ジェ(解)と呼ばれる塩の湖がある。ここが、夏王朝の発祥の地である。そして、北狄のシャンイン(商殷)によって滅ぼされると、一部は南にのがれ倭人となり、一部は東に逃れ東夷に紛れた。それが解一族である。

 したがって、東夷と呼ばれても野蛮人ではない。 夏王朝の文明を受け継ぐ者たちであり、貊族の指導者は教養人であった。戦いの時代になると人々は種族を単純化し、善と悪の陣営を分けたがる、悪の陣営に位置するものは皆悪徳に染まった「野蛮人」である。だから善なる華の民は、“中華のみが正しく強い国であり、その四方には野蛮人が住んでいる絶界である”と信じているが、それは大いなる勘違いである。「井の中の蛙」という諺がある。その諺を借りれば、肥沃な中原に安閑と暮らす中華の民こそが、実は大海を知らぬ者たちであった。そして、それが各王朝の衰退を招いてきたともいえる。ゴンスン・シォンジー(公孫升済)はその「大海」を知る数少ない漢人であった。

 クテがまだ若い頃、己の力を過信して二万の大軍でシェント(玄菟)郡を攻めたことがある。時の太守はゴンスン・ユー(公孫琙)であった。彼はシォンジーを引き立ててくれた恩人である。その老練なゴンスン・ユーに若きクテは大敗を喫した。千の将兵が討ち死にし、クテも窮地に立たされた。この時、対応に当たったのがシォンジーである。漢王朝軍の中には「この際、蛮族を壊滅すべきだ」との意見も強かったが、彼はその意見を退け停戦合意を結んだ。

 「蛮勇に蛮勇で立ち向かっても、被害が広がるだけで益はない」と知る太守ユー(琙)もこれを認めた。同年、シォンジーは十七歳の次女・麗春を二十四歳のクテに嫁がせた。クテを蛮族の青年ながら逸材であると見込んだのである。これにより百済は友好を示すようになり、好戦的な高句麗に対する良策となった。

 翌年、太守ユー(琙)が永眠し、後任としてゴン・プーイェ(耿溥曄)が着任した。耿氏は漢王朝で代々武人を輩出してきた名門であり、公孫一族とは因縁もあったが、シォンジーの幼馴染たちとは仲が良かった。。そのため、新太守も、ヨン・ペダル(延倍達)、ワン・ヒョプ(王侠)、シュ・ミン(徐敏)、フェ・ヂェン(何真)にシォンジーを加えた五人を頼りにした。そして、新太守は、「この辺境の地に有道の士がいる」と王宮に伝えた。「有道の士」とは、「人の道を正しく歩む人」という意味であり、王朝の中枢では知られていないが、地方に埋もれた逸材のことである。

 この頃、王朝の中枢は政変に揺れていた。太学での改革運動は弾圧され、急先鋒であったジャン・ジャオも獄に繋がれていた。優秀な学徒を追放処分した王宮は秀才不足に喘いでおり、五十路に入ったシォンジーは政権内で頭角を現し始めた。数年後、彼は冀州の長官にまで登り詰めた。これには耿一族の力が働いたのであろう。しかし、その一方で、漢王朝の犬、耿一族の存在と、成り上がり者のシォンジーの存在を快く思わない勢力が遼東郡にいた。彼らは王宮の宦官に賄賂を贈り誹謗中傷を繰り返した。

 腐敗に明け暮れる王朝は、自らの滅びを悟ることができない。数年後、冀州の長官を解任されたシォンジーはそれを実感した。それから十年余り王宮での雑役に甘んじた。六十路半ばを迎えた頃、盟友プーイェが高句麗との戦いで戦死した。そして、王朝では董仲穎が実権を掌握する。西戎の魔王は、シォンジーの異才に気がついた。「モンドゥー(孟徳)にも劣らない食わせ者じゃわい」と思ったのである。食わせ者とは、信念を隠し、虚言に身を包み、密かに時を待っている者のことである。だから、董仲穎はこの食わせ者に遼東を任せることにした。そしてシォンジーは、その本性を徐々に現すことになる。

 海から上がってきたクスは、左手に竿、そして右手に大きなヒラメを下げている。さらに腰の袋には大粒のサザエやアワビが見える。どうやら彼は、海の神に好かれているようである。「すごいじゃない。上出来、上出来」とミリ姉ちゃんが頭を撫でた。クスは「デヘヘ」と照れ笑いし、鼻高々の表情になる。どうもそういうところが、いささか頼りない。しかし、姉ちゃん子だから仕方ないのである。

 シォンジー祖父ちゃんは“クスも十七歳になった。そろそろ嫁を探さねば”と考えているのだが、どうもその頼りなさだけが気がかりである。そこで“これは余程のしっかり者を妻に迎えねばならぬのう”と算段を深める。しかし、この頼りなさを除けば、クスには王者の風格がある。そこで、シォンジー祖父ちゃんは“この孫たちであれば、国を残す甲斐がありそうじゃのう”とさらに思案を重ねるのである。したがってまだまだ隠居の身にはなれない。船に例えれば十分な老朽船なのであるが、帆だけは常に真新しい。だから、まだまだ大航海に漕ぎだす自信は枯れていなかった。

 次女・麗春を嫁がせた直後、長年連れ添った妻のヨンファ(延和)を流行病で失った。愛妻はまだ四十路に入ったばかりだった。もし彼女が生きていれば、孫娘ミギョンが自分に生き写しであることに、何を思っただろうか。ミギョンとミシルは普段、馬韓で暮らしている。一方、ミリの夫は公孫一族の嫡流であるため、シォンジー祖父ちゃんのお膝許・遼東で暮らしていた。

 シォンジー祖父ちゃんの跡取りは、ゴンスン・チャンカン(公孫長康)という。母は、シュ・シーシー(徐詩施)といい、まだ三十路である。したがって長康もまだ若い。三姉妹やクスにとって長康は叔父に当たるが、年齢は三姉妹の方が上で、クスとも四つしか違わない。そのためクスにとっては叔父さんというより頼りがいのある従兄である。

 後妻になった徐詩施は、シォンジーの幼馴染シュ・ミン(徐敏)の娘である。だから、二人の歳が親子ほど離れていても何の不思議もない。長女の馬韓国王妃公孫清華は、この年四十三歳であり、次女のペクチェ国王妃公孫麗春は四十歳である。だから、シォンジーは、娘より若い妻を迎えたのである。とは言え好色爺というわけではない。幼馴染ミンが、妻を亡くした初老の親友を心配して強引に嫁がせたのである。シュ・ミンの妻ワン・ルオシー(王若熙)もまた幼馴染のワン・ヒョプ(王侠)の妹であり、王若熙にとってシォンジーは幼い頃からの兄のような存在であった。そこで夫婦は、娘を嫁がせたのである。その甲斐あって、詩施は、翌年に男子を産んだ。それが公孫長康である。その後、次男のゴンスン・ヂョンゴン(公孫仲恭)も儲けたので、シォンジーは、娘二人、息子二人という子宝に恵まれたのである。その長男公孫長康が、しっかりとした跡取りに成長したのでシォンジーは、延倍達と同じように旧友巡りの旅を思い立ったのである。そこで、冥土の土産の旅行きに、孫娘たちを誘ったところ、馬韓国の太子であるクスまで「ミリ姉ちゃんに会いに行こう」と、甘えん坊は強引に付いてきた。父のチョゴ王も「若いうちに旅をするのも良かろう」と苦笑しながら許してくれた。

 秋の野を、壮麗な馬車の一群が行く。先頭には騎乗した凛々しいクスの姿があり、前後を護衛隊の兵が固める。総勢三十名ほどの小さな旅の一団である。ゴンスン・シォンジー(公孫升済)はこの数年で抵抗勢力をことごとく処断し、この地を安定させていた。さらに、周辺のツングース族との関係も良好に保ったので、遼東のみならず、韓半島から鯨海の北岸まで勢力下に収めた。そのため、この旅も大軍を引き連れる必要もなかった。玄菟郡までは川を遡る舟旅であったが、そこからチョルボン(卒本)へは陸路の旅である。

 玄菟への旅は妻・詩施の里帰りでもあり、まことに穏やかな時に包まれていた。盟友・徐敏夫婦も壮健であり、数日を昔話に花を咲かせ楽しく過ごした。チョルボン(卒本)は、中華のバイ・チュウ(白秋)商人団と並び立つヨン・タバル(延陀勃)商人団の本拠地である。大商人団なので各地の拠点を持つが、ここがケル(卦婁)部族の源郷である。

 七十一歳になった延倍達は既に引退し、今この大商人団を率いているのは娘のヨン・ソルファ(延雪花)である。彼女は夫・シンナム(神男)を黄巾起義で亡くして以来、独り身を通し、交易事業の拡大に邁進してきた。その勢力範囲は升済をも凌ぐほどである。だから老獪な東夷の魔王升済は「ワシを、東夷の王と呼ぶ者もいるが、真の王者はソルファよ」と目を細め、娘同然の彼女を称えた。そしてその偉業は、十九歳になった娘のヨン・マンヂュ(延曼珠)に引き継がれようとしている。

 ヨン(延)一族は、ケル(卦婁)部族の中核をなす部族でその歴史は古い。その中興の祖は、高句麗の初代王妃ヨン・ソソノ(延召西奴)である。父の名をヨン・タバル(延陀勃)という。彼女は三人の夫を持ったため、その末裔は三系統に及ぶ。

 ソソノは、鯨海に面した地ピリュ(沸流)の族長チュマン(鄒牟)を最初の夫となし、長男を儲けた。沸流の地は、今のペクチェ(百済)国の北部や東プヨ(扶余)と重なる地である。チュマン(鄒牟)の部族はスンノ(順奴)であるが、息子は地名をとってピリュ(沸流)と名付けた。スンノ部族長チュマンは、ピリュが三歳の時に事故死してしまった。まだ三十歳の若さだった。母ソソノはこの時二十三歳である。

チョルボン(卒本)に本拠地を持つケル(卦婁)部族のヨン・ソソノ(延召西奴)
チュマン(鄒牟)チュモン(朱蒙)ウテ(優台)
地名ピリュ(沸流)コリ(稾離)ペクチェ(百済)
部族スンノ(順奴)プヨ(夫余)フーユー(扶余)
子息長男:ピリュ(沸流)次男:オンジョ(温祚)三男:初代クテ(仇台)

 チュマン族長が亡くなる二年前に、コリ国のカソプウォン(迦葉原)から、逃げてきた青年がいた。チュモン(朱蒙)である。逃亡者の朱蒙を匿い庇護してくれたのがチュマン族長である。彼は、東プヨ国から離れたチョルボンに亡命政府を作ってくれた。そして周辺の部族もこれを支えた。その国名がコグリョ(高句麗)である。

 恩人チュマン族長が亡くなると、朱蒙は寡婦となったソソノと息子のピリュを引き取った。やがて二人は次男のオンジョ(温祚)を授かる。それから数年の後、朱蒙の妻と息子が高句麗に訪ねてきた。朱蒙は、東プヨ国のクムワ(金蛙)王の娘を娶っていた。王は彼に偉大な力を感じ取り後継者にする心積もりでいた。それを知った義兄たちは執拗に彼の命を狙った。追い詰められ彼は妻を残し逃亡した。妻のイェ・ソヤ(礼少椰)姫は懐妊していたため、難儀を強いられる旅には伴えなかった。翌年妻はユリュ(孺留)という息子を産んだ。

 夫が高句麗を建国したという噂を聞いたソヤ姫は息子を伴いプヨ国を出て苦難の旅に出た。王となっていた兄は仕方なく見逃した。高句麗は敵国であり甥は朱蒙の血を引く。しかし、妹親子を殺める気にはなれない。ゆえに着のみ着のまま出国させた。

 ソヤ姫とユリュ王子が、高句麗に亡命してくると、ソソノは、王妃の座をソヤに返し、自分は息子たちと一族を率い南下した。その後、ピリュ(沸流)とオンジョ(温祚)の兄弟は韓半島の付け根にペクチェ(百済)国を建国した。この地でソソノは、三人目の夫ウテ(優台)を得る。そして、三男のクテ(仇台)を儲ける。三男は成人したのちペクチェの地にプヨ(扶余)国を建てる。東夷の魔王升済が次女麗春を嫁がせたのがこの国である。そして夫は、二代目のクテ(仇台)である。初代と区別するためにウィクテ(尉仇台)とも呼ばれる。

 さらに弟は南下を続け馬韓国の海岸に至った。そこは中華を追われたキ()氏の人々が暮らす領域だった。ヨン・タバル(延陀勃)商人団の半数を率いた彼は豊かなこの地に根を下ろした。やがて氏から王権を奪うとソソノの三系統から歴代の王を擁立していった。そのため、馬韓国王家と、商人団は切っても切れない縁なのである。加えて、商人団は劉嬰一族という影の縁を結んでいる。だから、直接的な支配関係ではないが、公孫升済と馬韓国の結びつきも漢王朝からは見えぬところで強固に結ばれているのである。

 晩秋の丘、別れの唄が流れた。チャーホァ(茶花:和名サザンカ)の赤い花が眼に痛い。ゴンスン・シォンジー(公孫升済)は空を見上げた。赤く腫れた目を癒やすように、白い雲が東へ流れる。「ワシも直ぐに行くでなぁ。待っちょってくれよ」と呟くと、妻の詩施がそっと背を撫でてくれた。友の旅立ちに、徐敏夫婦と王侠も駆けつけていた。「友も半分、旅立ったなぁ」と王侠が、涙声で言った。「嗚呼、ワシら三人だけになってしもうた」と徐敏が項垂れた。老いは悲しみと共にあり、友の死は自らの死の呼び鈴でもある。延倍達は愛妻のソンロ(松露)に看取られ、七十一歳で大往生を遂げた。そして、神様の世界には、フェ・ヂェン(何真)とゴン・プーイェ(耿溥曄)が待っているはずだ。そう思えば悲しみは薄らぐ気がする。「もう何年、もう何年かすればワシ等もそっちに行く。あと何年、あと何年だろう」と三人は楽しみに余生を過ごせば良いのである。

 白い喪衣に身を包んだソルファとマンヂュが挨拶に来た。ソルファは三年の諒闇(りょうあん)入るため、商人団の差配は十八歳のマンヂュに託すことした。長男のピリュの行方は依然不明である(実はこの頃、ピリュは加太の天灯で倭国まで飛ばされていたのだが、まだ誰も知らない)。「皆様、この度は、父の野辺送りに列席いただきありがとうございます。父も皆様に見送られての旅立ちを喜んでいると思います」とソルファが深く礼頭を下げた。「嗚呼、良い旅立ちだったのう」と王侠が、ソルファの手を取り告げた。

 幼き頃より知るその手の温もりに、ソルファは父の手と同じ暖かさを感じ取り、心が安らいだ。「私は、これより喪に服しますが、マンヂュには心喪をさせ事業を担わせます。御覧のように娘はまだ若輩ですから、どうか皆様のお力添えを宜しくお願いします」とソルファが告げると「心喪か。それは良い。儀礼事が嫌いじゃったペダル(倍達)じゃ。その方が喜ぶぞ。なぁミン(敏)よ」と升済が、項垂れたままの徐敏に声をかけた。「嗚呼、ペダル(倍達)ならそう言うじゃろのう」と徐敏が涙目に笑みを浮かべ答えた。

 マンヂュが「皆様、不束者ですが、どうぞ宜しくお導きください」と深く頭を下げると王侠が「ところで、マンヂュよ。まだ婿は取らんのか?」と心配そうに尋ねた。「はい、今は商売に集中しておりますので」と答える彼女に、「チャウォン(坐原)の戦役からもう七年が経つぞ。長い心喪じゃのう」と徐敏が嘆息した。「そうかぁ、プーイェがジス(稷須)王子と相討ちをして、もう七年にもなるのか。時が経つのは早いのう」とゴンスン・シォンジー(公孫升済)も嘆息した。

 マンヂュは一途な娘に育っているようである。祖父代わりの三人は、感心するのと心配する心が綯(な)い交ぜとなった。“人の心の色糸を綯うのは、一期一会の奇(あや)かしの業であろう” とシォンジーには思えて「なかなか、ことは思うようには捗(はか)らぬものじゃなぁ」と苦笑した。

 老怪たちの時代は、この美しき灰神楽(はいかぐら)姫に託され、次なる時代に入っていく。この二年後、徐敏が妻王若熙に看取られて永眠する。それは、長男シュン・ロン(徐栄)の後を追うようかの旅立ちであった。徐栄はシォンジーを魔王董仲穎に推挙した後も彼に従った。そして、董仲穎暗殺の弔い合戦で、自らも戦死したのである。

 王侠とシォンジーは共に八十四歳まで生き、手を取り合うようにして世を去った。しかし、劉嬰一族の流れは止まらない。東夷のこの地で中原を睨み、王朝の奪還を見据えているのである。そして、それは武力ではなく経済戦として目論まれている。今、中原を手中に収めようとしているのはツァオ・モンドゥーである。文武両道に長けた彼は、そのことを十分承知している。だから、最も東夷勢力の脅威を知る男である。しかし、その中枢に座っている巫女女王が秋琴だとは、まだ知らない。

~ 伏龍の笹舟 ~

 賢い子で、紆余曲折の多い人生を歩んだ者は、天邪鬼になりがちである。どうしても物事を正面からだけ素直には見ることはできない。先日も、叔父から「三本の矢のたとえ話」を聞かされたのだが、少年はどうにも納得がいかない。弟は「はい、叔父上。一本の矢は、たやすく折れても、三本まとまれば強い。つまり、我が一族は苦難の時を過ごしていますが、一族が固く結束していれば、どんな困難にも立ち向かえるということですね」と優等生の答えをしている。だから叔父も「よし、ヂェンウー(真烏)は賢い子だ」と褒めた。

 その様子が少し癪に障り、少年は「しかし叔父上、矢を三本まとめると飛びません。矢は弓で飛ばしてこそ役に立つ道具ですから、飛ばない矢はただの竹の棒です」と言ってしまった。叔父は苦笑し、「まったくヂェンユー(真魚)は、屁理屈の多い奴だのう」と妻を振り返った。ヂェンユーと呼ばれた少年は、のちにヂュグェァ・コウミン(諸葛孔明)と名乗ることになる。

 養母のリィゥ・アイラン(劉愛蘭)は「いえいえ、ヂェンユーほど賢い子は、青洲、徐州、揚州の東海三州を見渡してもいませんよ。もしヂェンユーに並び立つ賢い子がいるとしたら、帝都に行くしかないでしょう。でも帝都の太学に入ってもヂェンユーが一番でしょうねぇ」と凄まじい親馬鹿ぶりである。

 この夫婦は実子に恵まれなかった。そこでこの兄弟を養子として育てているのだが、二人は亡き兄の忘れ形見でもある。そして、この苦難の時に曝されているのは、徐州琅邪国を本拠地とする諸葛氏である。

 開祖は諸葛豊と呼ばれる人物である。字(あざな)をシャオジー(少季)という。漢王朝初期の逸材である。しかし、剛直な性格であったため、高官に上り詰めるが最後は無官で世を去った。その優柔武断になれない性質は子孫にも受け継がれ、多くの秀才を生み出すが、諸葛少季に似て世渡りが下手である。

 少年たちの育ての親である叔父は、シュェンミン(玄明)という。兄ジュンゴン(君貢)が、泰山郡の副長官に赴任し琅邪国を離れた後は、諸葛玄明が、諸葛一族を率いてきた。その兄が突然病死し、兄の子たちを引き取ったのである。

 兄には六人の子がいた。長男はヅーユー(子瑜)、長女はヂーアイ(智愛)、次女はマーメイ(麻美)、そして次男と三男の弟がヂェンユーとヂェンウーである。この呼び名は幼名であり、ヂェンユーの名は諸葛孔明、ヂェンウーの名は諸葛子貢という。そして、一番下に三女シーチー(詩琪)がいる。

 兄妹の中で諸葛詩琪だけ母が違う。母の名はソン・シンニー(宋幸倪)といい、諸葛君貢の後妻である。孔明兄弟の実母はジャン・イェチン(章葉青)というが、黄巾起義の動乱に巻き込まれ亡くなっていた。章葉青は熱心な太平道の信徒だったのである。そのきっかけは、三男ヂェンユーにある。ヂェンユーは生まれた時から耳が聞こえていなかった。それは難病であり、どの医者も直せなかった。しかし、よちよち歩きのフーミーが、生まれついて持つ神様の力で治したのである。そして章葉青は、その不思議に魅了された。また、その際に諸葛孔明とフーミーの波動が共鳴したのであるが、そのことにはまだ誰も気づいていない。

 五人の幼子を抱え難儀をしていた諸葛君貢に、太学時代の恩師が手を差し伸べた。自分の娘を後妻に差し向けたのである。後妻の宋幸倪の父の名はソン・ジャオレン(宋教仁)という。彼はジャン・ジャオの太学の先輩であり、同じく革命に身を投じていた。しかし、ジャン・ジャオとは革命路線で対立し、袂を分かつていた。

 ジャン・ジャオは地方で大衆動員を図り武装蜂起をしたが、宋教仁は武力革命を否定していた。彼は知識人による文化革命を主張したのである。その考えは、武力闘争とその弊害を危惧するものだった。大破壊後の社会は予測不能であり、武力闘争は愚策だと批判したのである。さらに革命派による独裁を批判し、民主主義を主張した。そうして二人は別れたのだが、ジャン・ジャオの死を聞いた宋教仁は痛ましいほどに慟哭した。そして面白いことに、太平道の社会は、宋教仁が思い描く協同社会であった。

 鉛色の重い波がうねり流れていく。諸葛孔明は軽い憂鬱感に襲われ溜息をついた。「兄上、何をしているのですか。ほらほら、手を休めないで」と、弟のヂェンウーが急かす。二人は笹舟を作って遊んでいるのである。ヂェンウーこと諸葛子貢は、生涯にわたって素直に生き、平凡に亡くなる。だから、諸葛子貢の笹舟は平底で、流れに沿って下流を悠々と目指す。

 諸葛孔明の笹舟は、舟底を尖らせた物や、帆柱を付けた物、さらには帆掛けにした物と、色々に工夫を加えて流す。だから、くるくると回転したり、転覆したりと紆余曲折が激しい。「兄上、普通の笹舟は作れないのですか?」と、弟の子貢が呆れながら兄・孔明の「転覆丸」や難破船を見ている。「普通ではつまらない。お前こそ、よく同じものが何艘も作れるなぁ。飽きないのか?」と聞き返す。ここは荊州の州都シィァンヤン(襄陽)から、西に少し外れた小さな村である。村の名をロンヂョン(隆中)という。

 兄ヂェンユー(真魚)こと諸葛孔明は十六歳になり、弟・諸葛子貢は十五歳である。そろそろ笹舟遊びも飽きがくる年端であるが、幼心がまだ残る二人である。それに、これは叔父の精霊舟でもある。東海の海人には舟葬という習慣がある。隆中にはそんな習慣はないのだが、家事を担ってくれているフェイ(翡)お婆に教わったのである。

 フェイお婆は、呉の国のハイイェン(海塩)県生まれである。内陸部の民族は鳥に魂を運んでもらう習慣があるが、海辺の民は舟で魂を運ぶのだ。隆中は海から遠く離れているので、ずいぶんと長い魂送りの舟旅になりそうである。

 隆中に移り住む前、諸葛孔明と諸葛子貢の兄弟は揚州の豫章郡に居た。叔父シュェンミン(諸葛玄明)が郡太守に任ぜられたからである。しかし、時の王朝は混迷を極めていたため、もう一人の郡太守が任ぜられた。諸葛玄明の後ろ盾はリィゥ・ジンシォン(劉景升)とユェン・ゴンルー(袁公路)である。そしてもうひとりの郡太守はヂュ・ウェンミン(朱文明)という男で、黄巾起義を制圧したあのヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)の息子である。朱公偉自身は既に没していたが、劉景升や袁公路に対する勢力がこれを押した。そして権謀術数の末に、諸葛玄明は命を落とす。

 そこで兄弟は、養母リィゥ・アイラン(劉愛蘭)と共に、愛蘭の族父である劉景升を頼り、揚州の豫章郡から荊州の南郡へと逃れたのである。この時、劉景升は荊州牧として州都シィァンヤン(襄陽)に居を構えていた。「牧」とは行政官の役名であり荊州の長官であったが、群雄割拠が始まっていたこの時期には、荊州の戦国大名という様相を帯びていた。そして対する群雄はツァオ・モンドゥーである。

 劉景升は、族子の愛蘭一家を戦火が及ばない隆中に住まわせた。この諸葛一族と共に隆中に逃れてきた中に、先のフェイお婆もいた。フェイお婆は、豫章郡の郡都ナンチャン(南昌)で諸葛一族に雇われたのであるが、その後、流浪の旅を共にするのである。フェイお婆自身も海越の反乱で肉親を亡くし、流民に違い生き様を送っていたので、自然な流れでもあった。それに、フェイお婆は賢い孔明と子貢の兄弟が大好きだったのである。

 フェイお婆が「お婆は、手つかみで上等さ」と、粽(ちまき)を頬張った。孔明と子貢の兄弟は、落ちぶれているとはいっても名家の子である。だから箸を使い、粽を食べている。この粽はフェイお婆が作ってくれたものである。孔明が首をひねり顎に手を添えると、何やら考え込んでいる。そして箸を置き、粽を手つかみで口に運んだ。それから「ふむ……。粽は手つかみの方が美味い」と呟いた。フェイお婆が目尻に皺を寄せて笑った。さらに「これは便利だ」と、孔明はもうひとつ粽を手つかみで口に放り込んだ。子貢が不思議そうにその口元を眺めている。

 フェイお婆が「湯がいて食えれば上等さ」と芋を頬張った。しかし、孔明と子貢の兄弟には、それが草木の根にしか見えない。「そんな硬い木の根が食べられるの?」と子貢は訝しげである。孔明は箸を突き刺し、「大丈夫かも」と湯がいた草木の根にかじりついた。そして「これは米にも勝るぞ」と呟いた。フェイお婆が「これは、荒れ地でもよく育つよ」と言い添えた。

 フェイお婆が「食えるものがあればナンクルナイサ~、今日も明日も上等さ」と天を見上げた。空は突き抜けるように青い。諸葛一族の疎開地は荒れ地ではないが、豊かさにはほど遠い。当主を失った一族の前途には多難が横たわっている。しかし、養母の愛蘭に悲観の影はない。「ヂェンユー(諸葛孔明)は、斉国の名宰相・管仲より賢く、偉大な将軍・楽毅に勝る智将になるでしょう」と故郷の偉人たちの名を挙げては、諸葛孔明を誇った。呆れるほどの親馬鹿であるが、愛蘭には妙な確信があったのである。そして、その親馬鹿に「うんうん」とフェイお婆も頷いている。

 諸葛孔明は、時より軽い鬱状態に陥る。きっとそれは思考疲れである。そんなヂェンユー(真魚)の様子に気がつくと「アチャー(明日)はきっと晴れるさ。生きてさえいれば上等さ」とフェイお婆が声をかける。すると、孔明は「ナンクルナイサ~」と顔を上げ、空を見上げる。

 ある日、弟の諸葛子貢が「お婆、いつまでも長生きしてね」とフェイお婆の背を撫でた。するとフェイお婆は満身の笑みを浮かべて「長生きできて、それでどうするのさ。神様に呼ばれたら、戻るのが上等さ」と言った。その言葉に諸葛孔明は、劉愛蘭が悲観を持たない心の強さを悟った。

 この頃、もう一人の流転の子は、遠く北の地で女中奉公をしていた。兄弟を養うために、トンディ(銅鞮)に居を構える侯家に行儀見習いに出ていたのである。その娘はグゥォ・シャリン(郭夏玲)といい、まだ十三歳である。後の世でこの娘は郭皇后と呼ばれる。

 さらにもう一人の流転の子ヂェン・ヂャオミー(甄昭弥)は十五歳となり、嫁ぐ日を目前に控えていた。嫁ぐ相手はユェン・ベンチュの次男である。しかし、これは名家・汝南袁氏と歴代の名臣を生んだ甄氏の婚姻であり、女の幸せは訪れない。彼女は後の世で甄姫として語り継がれる。

 同じ年、四十二歳になったツァオ・モンドゥーは大苦戦を経験した。期待の長男は戦死し、怒った正妻はモンドゥーのもとを離れてしまった。しかし、青洲太平道の精鋭・青洲黄巾軍を得たモンドゥーの快進撃はさらに増していく。そして中華の歴史の濁流は激しさを増す。やがてその濁流は、カンチョン(鄭康成)塾の三羽鴉で、太平道の名軍師ファン・シャオ(黄邵)が思い描く「天下三分の計」の三層構造へと収斂されていく様相を帯びてきた。しかし、黄邵はこの前年に戦死し「三分の計」の三翼は、ツァオ・モンドゥーと、劉愛蘭の族父である劉景升、そしてユェン・ベンチュへと繋がれていく。

 嗚呼、また諸葛孔明の笹舟は転覆してしまった。しかし、焦ることはない。また作り直せばいい。この地で笹に困ることはないだろう。まだ幼さが残る孔明青年は「ナンクルナイサ~」と奇妙な笹舟を作りだした。弟の子貢は呆れながら、兄と同じ数の普通の笹舟を作っている。その兄弟の姿を眺め、フェイお婆が「これで上等さ」と微笑んだ。

⇒ ⇒ ⇒ 『第2巻《自由の国》第12部 ~ 風に吹かれて ~』へ続く

卑弥呼 奇想伝 公開日
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