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卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第5部 ~瑞穂の国の夢~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その5)

葦田川風

我が村には、昔から蛇が多い。輪中という地形なので湿地が多く蛇も棲みやすいのだろう。更に稲作地であり野鼠やイタチ、カエルと餌が豊富である。青大将は木登りが上手い。そのまま高木の枝から飛べばまさに青龍だろう。クチナワ(蝮)は強壮剤として売れる。恐い生き物は神様となるのが神話の世界である。一辺倒の正義は怪しい。清濁併せ飲む心構えでいないと「勝った。勝った」の大本営発表に騙される。そんな偏屈爺の紡ぐ今時神話の世界を楽しんでいただければ幸いである。

卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第5部 ~瑞穂の国の夢~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その5)

幕間劇(8)「焼玉エンジンのブルース」

 ドガァ~ンと一発、淡水色の空に黒煙が立ち上った。美夏ちゃん家(ち)の家船である。もちろん、焼玉エンジンに火を入れたのは、美夏ちゃんの父ちゃん重人さんである。船は浅黄色の川面に白波を引き下流を目指す。水面は海に向かい刻々とその色を変えていく。河原からは菜の花の香りが漂って来る。黄緑の堤防が悠々とうねって船を導く。筑ッ後川も昔は随分と蛇行していたらしいが、今は河川工事が進みなだらかな流れである。だから、渦が泡立つ瀬戸を渡るような緊張感は強いられない。重人さんは金柑を一粒口に放り込むとムシャリムシャリと皮ごと噛み潰し、それから、種だけをぷっぷっと吹き出しのんびりと舵を握る。

 「あ~あ~あ~っコホンコホン あ~あ~あ~っ 天気晴朗なれどコホンコホン」 金柑は喉に良いのだ。そして後味の渋みが切なくソウルフルである。

物知りの話では、金柑が日本に入ってきたのは江戸時代だと言う。何でも『清国の船が遭難し、清水港で助けられ、その礼に金柑の甘露煮を送り、その種から金柑の木が日本に入って来た』ということである。しかし、重人さんは「馬鹿なこつ言うな。何が江戸時代か?! 金柑は喉に良かとばい。喉に良かとやけん大昔からあったに決まっとるくさい」と、金柑談義を誰彼なしに主張している。

重人さんは、少し天の邪鬼である。物事を斜めから見ないと気が済まないのである。例えば、先の金柑の由来なら“金柑は喉に良いのだ。そして、卑弥呼女王の川筋者も美声を響かせていたはずだ。そうであれば、古代中国から倭国に渡ってくる際に、その実を持って来なかった筈はない”という主張である。それを学術的に裏付ける証拠はないが、何しろ金柑は喉に良いのだ。だから「あ~あ~あ~っ ブル~ ブル~ ブル~っ」と声の調子を整えながら昇開橋を潜って行く。

 美夏ちゃんには、陸(おか)の家もある。しかし、その陸の家は、この家船より小さい。藁ぶき屋根で六畳二間である。大きなクリーク(堀)のすぐ横にあるので、大雨の時は、家の土間まで浸水する。そんな心もとない小さな家の周りには、沢山の竹竿と、漁網が立てかけてある。漁網からは、柿渋の強烈な匂いが漂い、悪ガキどもは鼻をつまんで駆けて行く。暖かくなると、美夏ちゃんの祖父ちゃんは越中ふんどし姿である。そして祖母ちゃんは腰巻ひとつである。下着1枚だけの、この出で立ちが二人の仕事着でもある。美夏ちゃんの祖父ちゃんと、祖母ちゃんは、夫婦舟の川漁師なのだ。そして、以前ジョー達悪ガキどもが漕ぎだした泥船は、数年前に無くなった、祖父ちゃんの師匠の老朽舟だったのだ。しかし、だからと言ってジョー達に泥船を磨かせた訳ではない。老朽舟は静かに泥に埋もれながら、河原で朽ちていくのである。そんなことは、祖父ちゃんには、百も承知だ。

 実のところ祖父ちゃんは、この小河童どもの勇姿が嬉しくもあった。川ガキは、多少悪童でも良いのだ。子供のはしゃぎ声が消えること位、悲しいことはない。祖父ちゃんは、そう思っている。しかし、自然の魔性は、身体に叩き込んでおかないといけない。人の命は、自然から恵んでもらったものだ。自然の営みがなければ、人は一時足りとも生きてはいけない。だから、祖父ちゃんは、いつでも自然に宿る神様を敬っている。でも一方で、自然は何事も無いように人の命を奪っていくものである。それが神様の力なのだ。その為、長生きをしたければ、その神様の魔性の手にも注意を払っておかないといけない。そして、このことは、理屈では無く、身体に叩き込んでおくのが一番である。神様のなさる振る舞いは、人の理屈では収まらないものだ。危機回避に重要なのは、咄嗟に身体が反応することである。そして、そのスイッチは痛みだ。その痛みは、身体の痛みだけで無く、心の痛みでも良い。とにかく、痛みを予感し、痛みに襲われる前に、回避するのである。きっと、あの悪ガキどもも今度溺れかかるような悪さをしでかす時には、「あのカガミん糞ジジィめっ~」と、泥船の顛末を思い出すことであろう。もう少し、祖父ちゃんが若かったら、泥船を磨かせる前に、棒を持ってきて、思いきり悪ガキどもの尻をひっぱたいたかも知れない。でも、祖父ちゃんは歳を取り川ガキどもの悪童振りが、愛おしく思えてしまうのだ。だから、舟磨きの罰に留めたのである。

 祖父ちゃんの名は、村の皆からは、鯉(こい)しゃんと呼ばれている。しかし、祖母ちゃんはリーと呼ぶ。そして悪ガキどもは、カガミんジジィと呼ぶ。祖父ちゃんの父さんは、福建人なので、本名は、鯉(リー)と発音するのだ。カガミとは、リーしゃんが、以前働いていた料亭の名から来ている。料亭の名は『加賀美屋』と言った。だから、『加賀美屋』で働いていた爺さんということで『カガミんジジィ』である。しかし、リーしゃんが『加賀美屋』の料理人だったのは、若い時のことで人生の大半は川漁師であった。料理人としての腕はとても良かったらしい。その為に今でも村の宴会では腕を振るっている。だから村人は、褒め言葉として「やっぱり鯉しゃんなぁ『加賀美屋』の板場を仕切っていただけのことはあるばい。ほんなこつ(本当に)美味かぁ」と言うのである。それを、リーしゃんに叱られた悪ガキどもは、悪意をこめてカガミんジジィと呼ぶのである。そして、「カガミんジジィは、クチナワ(蝮)よりエズカばい(恐いよ)」と言うのである。

 祖母ちゃんの名は、スメ(須芽)という。名字は隈である。だから美夏ちゃんのフルネームは隈美夏である。スメ祖母ちゃんの里は、この川をもう少し下流に下った江島という所である。今は、腰巻ひとつで、垂れ乳の祖母ちゃんだが、リーしゃんと一緒になる前には、大川の町で芸者をしていたそうである。九人兄弟の末っ子だった祖母ちゃんは、口減らしの為に、幼くして置屋に預けられたのだ。若い時は、なかなかの売れっ子芸者だったらしい。美夏ちゃんを大人びさせて芸者姿にすれば、うなずけないことは無い。その売れっ子芸者に、若きリーしゃんが手をつけたのである。『だから、料亭を首に成ったとばい』と、表向きはそうことに成っている。しかし、実はスメ祖母ちゃんの方が、リーしゃんに、ぞっこん惚れ込んだのだ。リーしゃんは、身体も大きく、渋めの二枚目である。料理人に成らなければ、『東映の映画スターに成っとったばい』と、村人は噂している。しかし、リーしゃんは、料理人の一族だった。中国には、三把刀(さんばとう)という言葉があるそうだ。それは、料理屋、床屋、仕立屋の三つを言い表す言葉である。料理屋も、床屋も、仕立屋も、皆刃物を使うのでそう呼ばれたようである。そして『三把刀は、どこに行っても暮らしていける』と、言われていた。だから華僑の大半は、三把刀である。

 リーしゃんの一族も、やはり三把刀であった。そして、リーしゃんの母親は、松浦水軍の末裔らしい。その松浦水軍も、今では昔の勢いは無く貧しい漁村が多い。だからリーしゃんの母親は、長崎の仕立屋に見習に入ったのである。そして、人生色々と有り、リーしゃんが産まれたのである。リーしゃんの父親も腕の良い料理人だったので、リーしゃんは、小さい時から料理を叩き込まれていた。そこで、リーしゃんの評判を聞きつけた大川の料亭『加賀美屋』が、板長にと抜擢したのである。リーしゃんは、その時三十路近くになっていたが、まだ独身だった。そして、売れっ子芸者のスメ祖母ちゃんに、惚れられたのだ。芸者の祖母ちゃんには、置屋への借金が有った訳でも無いが、どういうわけか、大川の町には居られなくなったそうである。どうやら、江島の実家との縁のもつれが原因では無いかとの噂も立った。そこで、祖母ちゃんの姉の夫を頼り、この村に来たのである。料亭『加賀美屋』は、随分とリーしゃんを引き留めたらしいが、江島の実家との間に、困った輩が入り込み、リーしゃんは、料理人が続けられなくなったようだ。姉の夫は、地元では名人と噂される川漁師だったので、リーしゃんは、彼を師匠として川漁師に転職したのだ。まぁ~川漁師も、何かと刃物を使うことは多いので、三把刀の一種だと思えないことも無い。それに筑ッ後川で、河童と呼ばれる一人前の川漁師になれば、食うに困ることは無い。更に、リーしゃんの転職をおおいに喜んだのは、この村の住人である。リーしゃんが、この村にやってきてからというもの、村の寄り合いの後では、必ず宴会に成った。近隣の村々は、この事態をとても悔しい思いで見ていた。なにしろ高級料亭の料理がタダで食べられるのである。もちろん酒と食材は村人の持ち寄りではある。

 去年から美夏ちゃんは、スメ祖母ちゃんに三味線と踊りを習っている。別に、芸者になりたいのでは無い。美夏ちゃんの夢は歌手なのだ。出来れば、ジョーの母ちゃん百合さんのように、JAZZ歌手に成りたいのだが、身近にJAZZを教えてくれそうな人はいない。だから、とりあえず三味線と踊りなのだ。長唄だって都々逸だって日本のJAZZみたいなものである。

 ♪ 惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里~♪

と素敵なラブソングである。

美夏ちゃんには一つ下に、鼻たれ小僧の弟がいる。名前は夏人である。皆はナットと呼ぶ。二人の母ちゃんは、夏海というので、両親の名を一字ずつ取った分かりやすい名である。「あの悪ガキぁ、どこん子かい」「あぁ~重人しゃんと夏海しゃんの子たい。確か夏人っちゅう名やったなぁ」と言う具合である。二人の両親は、大河を利用した水運業を営んでいる。そして、この貨物船は、機帆船と呼ばれている。帆船に焼き玉エンジンが装備されており機動性の良い船である。更に家船に成っており、船の中には、台所も有るし、寝泊まりできる小さな船室もある。だから、美夏ちゃんと、弟の夏人は、生まれてこの方ず~っと家船で育った。だから二人は生粋の海洋民である。水運業の主な荷物は、筑ッ後平野の米と、城島の酒である。長崎や、時には天草の島々まで行くことも多い。だから、一年の大半が船旅暮らしである。

 しかし、美夏ちゃんが、小学校に入ると、祖母ちゃんの小さな陸の家で暮らすことになった。美夏ちゃんは、家船での暮らしの方が好きだった。川や海の上で暮らしていると、まるで風になっているような、伸び伸びとした気持ちになれるのだ。だから、揺れ心地も味わえない家と、退屈な時間に縛られる小学校に通うのは嫌だった。でも、小学二年生になった時に、赤毛のマリーが転入して来た。美夏ちゃんは、マリーの赤毛にエキゾチズムと自由の風を感じた。そして程無くベストフレンドになった。だから、今は大嫌いだった小学校での生活も、とても楽しいものに成っている。

 河原を黄色い花が埋め尽くし春の陽光が二人を包んでいる。マリーはアザミを摘み、美夏ちゃんは、土筆を採っている。「ねぇマリー。そげな物採っても食えんよ。土筆ば採らんね」と美夏ちゃんが声をかけた。「でも~うち(私)土筆が分らんもん」とマリーが答える。すると美夏ちゃんが「あんたの尻に敷いとるとが土筆たい」と快活に笑った。見るとマリーが歩いた後には沢山の土筆が踏みつけられている。でも仕方がない。マリーは都会育ちなのである。都会っ子の目には、まだ田舎の春が映らないのである。美夏ちゃんは「この土筆の頭ば良~く見つめてん。そして、草むらの中にこの頭ば探すとよ」とアドバイスした。河原や堤防に自生する雑草はイネ科が多い。そして、イネ科の葉っぱはスッ~とスマートに伸びている。だからその間にずんぐりとした土筆の頭を見つければ良いのである。そのコツを知ったマリーは徐々に土筆採りに夢中に成っていった。それから二人は堤防の斜面に腰を下ろし土筆のハカマを取っている。川面に、航跡波が幾筋もの光りを放ち、穏やかな時が流れていく。これが田舎の子供達の春である。そして、春が深まり梅雨に入る前に成ると今度は、河口に広がる遠浅の有明海で潮干狩りである。

 田植えがひと段落した大潮の日、大河は潮干狩りの船で溢れた。櫓漕ぎの舟が主流だった時代には無かった風物詩である。美夏ちゃんちの家船のような機帆船が水運業の主流になると、村人皆で有明海の干潟を目指すように成った。貨物船である機帆船の船倉は、村の公民館のように広いのだ。その船倉に筵を引いて、村人は、飲めや歌えのお祭り騒ぎを行い、陽気に潮干狩りの海を目指すのである。そして、近隣の村々もそれぞれの機帆船に乗り川を下るので、この時期の筑ッ後川は、船祭のように活気づくのである。

 更に、潮が干上がる海上まで来ると、潮待ちの間、同じ村の機帆船を数隻つなぎ留め、盆踊りも負けまいという程のお祭りに成る。その為、酔っぱらった親父どもは、潮が引いた時分には、貝獲りどころではない。ただでさえふら付く足取りを、潟で捕られて、すってんころりん、潟まみれで真っ黒けのけである。しかし、これが百姓達に取っては、田植え前の一番の楽しみである。だから、村人達は、焼玉エンジンの大きな爆発音と、すざましい黒煙を見ると、春の海が目に浮かび、その日が待ち遠しくて仕方なかった。

 美夏ちゃんの父ちゃん隈重人は、戦前は海軍軍人だった。大正十四年生まれの重人少年は、自分が生まれた年に進水した航空母艦赤城に乗るのが夢だった。しかし、十七歳の時ミッドウェー海戦で赤城が沈むと「仇討だ」と憤激して、海軍特別年少兵に志願した。佐世保の海兵団では、毎朝木製の甲板掃除を行った。固く絞った雑巾で磨き上げ、更に蝋を塗った帆布で、磨き上げなければならないのだ。しかし、シゴキに近いこの訓練も、重人少年には楽しかった。だから今でも、美夏ちゃんちの家船は、ピカピカである。

 海軍では、シゴキが公認されていたようである。中でも有名なのが尻バットだったと語り継がれている。その尻バットとは、古参兵が、壁に手をつかせた新兵の尻を、海軍精神注入棒と呼ばれる硬い樫の木の棒で叩く訓練である。この訓練の目的は忍耐力を養うことだといわれている。何事も訓練とは痛みを伴うものである。柔道であれば投げられて、剣道であれば打たれて、その痛みから、投げられないように打たれないように技を磨くのである。しかし、この尻バットは、ただただケツが痛いだけであり、何の技も取得できない。これをイジメやシゴキと呼ぶ。だから、叩かれ、腫れ上がった尻のせいで、仰向けで寝ることが出来ずに、泣く泣く一夜を明かす新兵も多かったそうだ。幸い剣道少年で、小さい時から打たれ強く成っていた重人少年は、どうにか、このシゴキにも耐えられた。だから、鼻たれナット(夏人)を叱る時も、尻バットである。ただし、棒は竹刀に変わっている。それに打ち方も、手加減している。つまり、イジメやシゴキの疑似経験をおこなっているのである。閉鎖性を帯びた組織や集団は、その閉塞感がイジメやシゴキを生むことが多い。そして、悲しいことに少年期から青年期へとその機会は増えることが多いのである。だから疑似経験である。


 重人少年は、海軍では、戦艦金剛で機関手をしていたそうだ。階級は最終的に兵長で終戦を迎えたらしい。戦艦金剛は、昭和十九年十一月二十一日午前五時三十分に、台湾沖で魚雷攻撃を受け沈没した。魚雷攻撃を仕掛けたのは、米海軍の潜水艦シーライオンである。シーライオンは、六本の魚雷を発射し、二本が戦艦金剛の左舷に命中した。たった二本の魚雷だったが、歴戦の老兵は持ちこたえられず、南海の底を墓場とした。千三百名の海軍軍人が、共に海底に沈んだ。生存者は二百三十七名だったと記録されている。幸い重人青年は、その二百三十七名の中にいた。

 しかし、重人青年は、生き残ったことが少しも嬉しくは無かった。そして、海に沈んだ同じ歳の戦友の笑顔が、いまだに浮かんで消えない。その若い水兵は、川を遡った田主丸町の出身だった。同じ筑ッ後川の水で育った二人は、すぐに親友に成った。そして、同じ機関手だった。あの日、勤務明けの重人は、海風に吹かれようと甲板にいた。親友は、交代で機関室にいた。生死を分けたのは、たったそれだけの違いだった。終戦後、重人は、金剛の船尾で撮った戦友の写真を、田主丸の実家に届けた。戦友の遺骨は未だに金剛の機関室に横たわっている。だから、その遺影だけが、仏間に飾られている。そして、家船の船魂様の神棚には、戦艦金剛の小さな写真が貼ってある。重人は、毎日、船魂様の神棚に、銀シャリの握り飯を二個お供えし拝んでいる。拝み終えると、一個は、自分が頬張り、もう一個は、海で流す。もちろん、有明海から、台湾沖まで握り飯が流れていくとは思っていない。だが生き残った自分だけが、のうのうと銀シャリを食う訳にはいけない気がするのだ。

 美夏ちゃんの母ちゃん夏海の里は、田主丸の片之瀬温泉である。そして、実家の仏壇には、水兵服に身を包み戦艦の甲板に立つ、生真面目な兄の遺影がある。その後ろでは、旭日旗が気持ち良く海風になびいている。その水兵が重人の戦友である。そして、戦友を失った重人青年は、戦後、少し天の邪鬼になった。

 重人少年は歌うことが大好きだった。やはり芸者だったスメ祖母ちゃんの血を引いているのであろう。十二歳になった頃、街では『別れのブルース』が流れていた。歌詞を書いたのは、藤浦洸という平戸生まれの詩人である。西海の空と海に抱かれて育った彼の詩は、海の香りが濃厚である。昔この海は沫裸党が群を成し、そしてあの鄭成功が生まれ育った地である。だから、九州人には特に染みるのかも知れない。そして、曲をつけたのは、JAZZ青年の服部良一である。服部青年は、食うためにやむなく演歌の仕事をしていたが、淡谷のり子との出会いによりこの曲を書いた。淡谷のり子はJ-POPの先駆けといっても過言ではない歌手である。だから、この時代のニューポップスである。そういう楽曲なので、たちまち重人少年は、この歌の虜になり、それ以来、淡谷のり子の大ファンである。重人少年の心をつかんだのは

 「♪~メリケン波止場の~灯が見える~♪「♪~今日の出船は~何処へ行く~♪だった。

 「♪~夜風汐風 恋風乗せて~♪「♪~むせぶ心よ はかない恋よ~♪は、十二歳の重人少年にはまだ良く分からない世界だった。しかし、うずうずと、青春の兆しが疼く歌詞でもあった。だから、海軍に入隊したのも、まずは、メリケン波止場に行ってみたい気がしたからである。もちろん、メリケン波止場が、どこにあるかは知らなかったが、どうも異国の匂いがする。決して魚臭い、大川の若津港や、柳川の沖の端の漁港などでは無い。SP盤から流れる淡谷のり子の歌は、速いテンポでJAZZ風であった。ところが、重人さんの別れのブルースは、スローテンポで 

「♪~踊るブルースのぉぉぉ~ 切なさよぉぉぉ~♪」 と、こぶしが回る演歌風である。しかし、筑ッ後川の川風には、妙に合っているのだ。

 『別れのブルース』の後には『雨のブルース』がヒットし、ブルースブームが訪れていた。『雨のブルース』の、作曲家はそのまま服部良一であるが、歌詞は日本人にJAZZとは何であるかを教えてくれたJAZZの伝道師:野川香文(こうぶん)である。そして戦後の若者は彼のJAZZ評論を足がかりにアメリカ文化に目覚めていくのである。しかし、まだまだ演歌が大勢を占めた時代である。いきなりJAZZの偉人バードや伝説のBluesManロバート・ジョンソンの世界に入れる日本人はまだ少ない。だから、それら日本のブルースは、ミシシッピー川のデルタブルースや、シカゴブルースとは随分曲調が違う。川の流れも変われば節も変わるのである。だが、そこに暮らす人々の哀愁は変わらない。そのブルースブームの頃から日本歌謡史の世界にも演歌から、歌謡曲と呼ばれるジャンルが生まれてきたようだ。そして、時代は、支那事変が始まり、日中戦争は、泥沼化し始めていた。東京オリンピックも中止され、少年達の前途には、暗雲が広がり始めていた。しかし、陽気な重人少年は“♪~窓を開ければ、夢の未来が開ける~♪”と信じていたのだ。

 今日も、ドガァ~ンと一発、黒煙を立ち登らせ 「♪~夜風汐風 恋風乗せて~♪」  と機帆船は有明海をめざして出航して行く。「勇ましか父ちゃんやねぇ。本に良か男たい」と、その黒煙を見送りながら、仙人さんは、鼻たれ小僧夏人の頭を撫でた。今日も、夕暮れ間近の沖底の宮では、仙人さんの昔話を聞きたくて、子供達が群がっている。「今日は、どんな話ばしようかねぇ」と、仙人さんが言うと夏人が「ピミファ女王さんなぁ、どげな女王さんに成ると?」と言い出した。周りの子供達も「早よう美しか女王さんの話が聞きたかぁ~」と、せがみ出した。仙人さんは、ふむ~と空を見上げながら考えて「そうじゃのう。そうしたら、そろそろ女王さんが、どげな旅ばしていくかを話そうかいのう」と語り始めた。


海ゆかば 哀咽響く ブルースの

 つわものどもよ メリケン波止場

~ 商都ツマ(都萬)の夜 ~

 コムラサキ(小紫)の実が目に鮮やかに飛び込んできた。冬の訪れも早い。早々とジョウビタキが鳴き出し、誇らしげな銀髪が庭の緑に浮き立っている。そして、胸の橙色と赤紫の小さな実がお似合いである。そうしていると、たわわに垂れたコムラサキの実を目がけてツグミの群れも飛んできた。こちらは丸々と太って美味しそうである。きっとクマト(熊人)やハイト(隼人)が見たらカッチョ捕りに夢中に成りそうである。この野趣に富んだ庭は、天海(アマミ)親方の屋敷である。しかし、コムラサキを植林したのはホオリ(山幸)王の母様、阿多津(アタツ)姫である。だから、この庭はやさしい日差しに包まれている。きっと阿多津姫は心温かな方だったのだろう。

 ヒムカ(日向)は、私の思いを酌んでくれ、今宵の宴席を、この屋敷で開いてくれた。そして、屋敷の元の主は阿多津姫である。兄ホデリ(海幸)と母が亡くなると、ホオリ(山幸)王は、天海親方にこの屋敷を託した。だから今は、墓守りも兼ねて天海一族が住んでいる。そんな経緯で、この屋敷は、ホオリ王が、母と兄の墓参りをする時には本陣の役割も果たすそうである。王妃の宮殿だったので屋敷は、商都ツマ(都萬)の大通りの奥にあった。つまり都萬の町並みは、この屋敷を中心に造られているのである。そして、天海一族がこの屋敷住むようになってから、徐々に都萬は、商都に様変わりした。だから大通りの両脇には、沢山の商店が立ち並び、活気に溢れている。この様変わりを一番喜んでいるのは、ホオリ王である。クド(狗奴)国の商業が栄えるのはもちろんだが、陽気だった兄ホデリ王と、派手好みだった母、阿多津姫の供養には、この賑わいが何よりも似つかわしいと思っているそうだ。

 メラ爺の息子の猪月(イツキ)夫婦と、メラ爺の妻セブリ婆さんの住まいは、大通りの中ほどにあった。もちろん猪月夫婦の家は、商家造りである。店内では、年若い小僧さん達が、所狭しと動き回っていた。皆、山の民の次男坊に、三男坊。それに次女、三女らしい。つまり、跡取りでは無い子供達だ。猪月夫婦は、この子供達の親代わりでもある。だから、都萬の街では、この子供達を「イツキの子」と呼ぶそうだ。その「イツキの子」の中に、飛びぬけて元気の良い三人がいた。歳は、私より少しだけ若そうだ。私が名を尋ねると「ウワザル(烏羽猿)でぇ~す」「ナカザル(拿加猿)でぇ~す」「ソコザル(鼠子猿)でぇ~す」「三人合わせて、イツキの山猿でぇ~す」と、茶目っ気たっぷりに答えてくれた。だから、私と、ヒムカは、思わず笑い出してしまった。猪月親方は、三人の頭を、拳骨でコンコンコンと、殴りながら「おいこら、もう少し上品に挨拶出来んのか。姫巫女(ひめみこ)様に対して失礼だろう」と、たしなめた。三人は殴られた頭を撫でながら「へぇ~い!!おいら達、姫巫女様の為なら命も惜しまず何でもしまぁ~す」と、言うとペロリと舌を出して、頭を下げた。その仕草があまりにも可愛いので、ヒムカは、三人の頭を撫でながら「何て乱暴な親方でしょうね。痛かったでしょうね。可哀想に」と、猪月親方を振り返りながら言った。猪月親方は、「姫巫女様、あんまりこの悪ガキどもを甘やかさないでくださいよ。こいつら、すぐに調子に乗りますから」と苦笑した。三人は「お~い。姫巫女様に、頭を撫でて貰ったぞ~」と、叫びながら、店の奥に走り込んでいった。

 店は奥深い造りである。薄暗くて良く見えないが何やら騒がしいので、まだ沢山の山の民の子供達が働いているようである。そして、店の中庭には、既にラビア姉様と、項荘、項佗、項冠の三人が居た。この明かり取りのある座敷が、事務方の部屋に成っており、ラビア姉様は、猪月親方の女将さんに、商品の扱い方や、お金の管理の仕方を、教えていたようだ。商品や、お金の管理の仕方を『会計』というらしい。ラビア姉様は、その会計の達人らしいのだ。考えてみれば、ただ踊りが上手で、美しいだけでは、あんな大きな店を、切り盛り出来ている筈はなかった。キ(鬼)国の河童衆が、活き活きと働き、裕福に暮らしているのは、ラビア姉様の力によるところが、大きかったのだ。市場に立つ店の大きさであれば、その日に売れた分だけを、しっかり握りしめておけば、とりあえず商売になった。しかし、いく種類もの商品を取り扱い、沢山の在庫を持つようになると、しっかりと、商品と、お金の管理をしなければならなくなって来る。そう成ると、商人は、愛想が良いだけでは勤まらない。だから、ウネ(雨音)が豊かな実りを産み出す為に、農学を学んでいたように、ラビア姉様もまた、商学を学んでいたのだ。したがって、ウネが農家であるように、ラビア姉様も商家であった。

 猪月親方の女将さんは、店の見学に訪れた一行の応対をしているうちに、ラビア姉様が、優れた商家であることに気が付いたのだ。だから、是非にと、奥に招き話を聞いていたらしい。店先で少し話をしただけなのに、ラビア姉様が、優れた商家であると見抜いた猪月親方の女将さんも、ただ者ではない。私には良く理解できないのだが、何でも、全ての商品には、元値と売値を付けて、それを木簡に書き留めて置くらしい。そして、商品は、すべてお金と見做して管理をするそうだ。更に、私には、チンプンカンプンな話だが、人や、人の働き方まで、お金に換算し、管理するらしい。例えば、先程のウワザル(烏羽猿)、ナカザル(拿加猿)、ソコザル(鼠子猿)の三人が、一日に三万銭の商品を売るとする。元値は半分の一万五千銭なので、一万五千銭の儲けがあった。したがって、三人は、一月換算で、四十五万銭の儲けを産み出している。しかし、三人には、一月に三十万銭程の衣食住費や、お小遣いが必要らしい。それを差し引くと、一人五万銭の貢献をしていることになる。だから、三人は、とても出来の良い小僧ドンだということに成る……?……???…らしいのである。ふーんと、ため息をつきながら、私は聞いていたが、項荘、項佗、項冠の三人は、顔を乗り出して真剣に聞いていた。やっぱり、項荘、項佗、項冠の三人も商人なのである。

 香美妻(カミツ)と、那加妻(ナカツ)は、天海親方の屋敷で、テル(照)お婆を手伝い宴会の準備をしていた。今日で、またしばらくヒムカとは会えなくなる。でも私は、少しも寂しくなかった。タケル(健)とヒムカが連れ去られたあの日と違い、会いたくなったら、いつでも会えるのだ。しかし、テルお婆は、そうは思っていなかった。アチャ爺も、テルお婆も、高齢である。だから、これが最後の別れになるかも知れないと思っていたのだ。だから、テルお婆は、ヒムカの好物ばかりを作っていた。もちろん、アク巻きも沢山作っていた。あれだけあれば、独りでは、このひと冬かけても食べきれまいという位にである。そして、ホオミ(火尾蛇)大将も急用が出来て、ニシグスク(北城)には、同行出来なくなったそうだ。だから、那加妻は、ホオミ(火尾蛇)大将の好きな物を沢山作っている。だとすると、私の好きなものは、香美妻が作っているのだろう……か? お姉ちゃま、しっかり頼んだわよ。

 メラ爺は、三人の幼い孫娘を伴ってやってきた。一番上の子が、ユリ(儒理)と同じ歳である。メラ爺の息子猪月夫婦と、妻のセブリ婆さんは、いつも商売が忙しいので、もっぱら三人の孫守りは、メラ爺の仕事である。だから、三人の孫娘は、祖父ちゃん子である。そして、一番年長の孫娘は、まだ産まれたての子犬を抱いていた。娘の名は、サラ(冴良)と言い、澄んだ賢そうな目をしていた。その下の妹は、フラ(楓良)と言った。幼いながら思慮深い趣を漂わせている。だから、この娘が一番メラ爺に似ている。末の娘は、レラ(玲来)と言った。まだ三歳らしいが、既に涼しげな美人顔だ。大きくなれば、ラビア姉様や、ヒムカ(日向)にさえ負けない美人になるだろう。

 サラ(冴良)が、抱いていた子犬を、私に差し出した。私が受け取ると「日巫女様に可愛がって貰らおうと思い連れて来ました」と、まっすぐ私の目を見つめた。子犬は、その賢そうな目にも負けない位、すばしこくて、賢そうな目をしていた。上体は、茶色い毛に覆われていたが、お腹のあたりは、白いふわふわした毛が気持ち良さそう。私が「貰っても良いの?」と、聞くと、横からフラが「大事にしてくださいね」と、言った。だから「名前は何ていうの?」と、聞き返した。すると今度は、末のレラが「お姉ぇちゃんが、日巫女様に名前を付けて貰うと言ったから、名前はまだ無いの」と、答えてくれた。「良~し。じゃぁ白猫チャペから一字をもらって、チャピ(茶肥)にしよう。良い、サラ。良い、フラ、レラも良い」と、私が三人娘に問うと、三人は「可愛い名前だね。チャピ」と、代わる代わるに、チャピの頭を撫でた。その間も、チャピは、良く人を見ている。まるで、私達の話を聞いているかのようである。間違いなくチャピは、賢い犬で、それに、その賢そうな目は、きっと、陽のモノの目だ。だから、私とは相性が良さそうである。どうやらこの陽犬を私に添わせたのは、メラ爺の配慮のようである。

 コウ(項)家二十四人衆は、昨夜お別れ会をしてもらったので、今宵は裏方に徹している。そして、ヒムカに思いもかけない捧げ物を考えていた。もちろん、項荘、項佗、項冠の三人は、事前に私の了解を取り付けている。アチャ爺は、テルお婆とふたりで別れを、寂しがっているようだ。しかし、何時ものように陽気な顔で、チューカー(酎瓶)を並べている。やがて、天海親方の一家が、正装で現れ、私達に丁重な挨拶を始めた。中央には、親方が、その左脇には、ユイマル(結丸)親方の妹で、親方の妻である花南(カナ)さんが座っていた。そして、親方の右脇には、チヌー(知奴烏)小母さんと、夫のハリユン(晴熊)若頭が座っていた。私は、若頭の顔を見てはっと気付いた。あの日、お祖父様の墓に沢山の赤い花を飾ってくれたのは、若頭だったのだ。きっと、小母さんが頼んだのだろう。それに、あの墓には、小母さんの父様や、母様も眠っているのだ。ハイムル(吠武琉)と、ニヌファ(丹濡花)の兄妹は、お祖母ちゃまの両脇にちょこんと座っていた。サラと、フラに、レラの三姉妹は、メラ爺大好きの祖父ちゃん子だが、天海兄妹は、祖母ちゃん子のようである。ハイムルは、面立ちがどことなく私のお祖父様に似ていた。私やハイト(隼人)と同じ、デン(田)家の血が流れているのだから不思議なことではない。そう思ったら私は、二人が益々愛おしく思えてきた。ニヌファが、そっと私を見つめている。私は、微笑んで小さく手を振った。すると、恥ずかしそうに、お祖母様の背に隠れた。しっかり者で、その分だけ、可愛げが少ない私の弟ユリ(儒理)に比べると、何とも可愛い娘である。弟には悪いけど、きっと、私は、こんな可愛い妹が欲しかったのだ。でも同じ妹でもユナ(優奈)は、双子で私の分身だから、愛おしくても、可愛いという言葉は当たらない。

 天海親方が、私達に、うやうやしくお辞儀をすると、ハイムルと、ニヌファもそれに倣った。そして、親方が「今宵は、姫巫女(ひめみこ)様より、日巫女(ひみこ)様の壮行会を、我が家で取り仕切るようにと仰せつかりました。このような栄誉を、我が一族に賜り、感謝の念が絶えません」と、口上を述べると、アチャ爺は嬉しそうに、親方にうなずき返している。更に、「たいしたお持て成しも整いませんでしたが、メラ頭領が、珍しい山の幸をたんと、持って来てくれました。ここで、メラ頭領には、改めて感謝申し上げます。そして、皆様、どうぞごゆるりとお楽しみ頂くようお願いたします」と、挨拶を終わった。メラ爺も嬉しそうに、親方にうなずき返した。私は、立ち上がり「天海様有り難うございます。それから、ハリユン様、お祖父様のお墓に、沢山の花を飾って頂き有難うございました」と、お礼を言った。すると、ホオミ大将が「ほう、そうだったのか」という顔つきで若頭を見た。それから笑みを浮かべ「そうか、そうか、良かったのう」と、無言で若頭に頷いた。若頭は、いきなり自分が表舞台に立たされたので、恐縮し頭をかいてうつむいてしまった。親方は、チヌー小母さんを振り返り「良かったのう」と、無言で目くばせした。そして、花南お祖母様の目には涙が光った。あの悲しみの日以来、愛おしい兄様の墓前に立っていないのだ。だから、その涙には「ありがとう」と、小母さんと、若頭に感謝する思いが込められていたようだ。若頭は、天海一族の跡取りらしく背を正し、それから、ヒムカと、ホオミ大将に深々と頭を下げた。そして「それも、これも、姫巫女様と、大将のご英断の賜です。お二人のご英断が無ければ、私の一存だけで、アタ(阿多)国に向かうことは、叶いませんでした。我が一族は、これからも、姫巫女様にお仕えし、大将の腕と成って働き続ける所存です。よろしくお願い申します」と言った。ヒムカは、席を立ち若頭に歩み寄ると「若頭の、今の言葉ほど、私の喜びを湧き立たせるものは有りません。天海一族は、私の一番の支えです。私の方こそこれからもよろしくお願いします」と若頭の手を取った。それからホオミ大将も駆け寄り、若頭の肩を叩いた。南洋の民の結束とは、こんなにも熱く強いものかと私は感激し、そして羨ましかった。

 更に、若頭は、私を驚かすことを、ヒムカに願い出た。それは、二人の兄妹を、私の旅に同行させて欲しいという願い事だった。ハイムルは、将来、天海一族を率いていく頭領になる。そして、天海一族は、海の商人団である。だから、短い旅の間だけでもラビア姉様の元で学ばせたいということだった。つまり修業の旅である。それから、ニヌファは、これから南洋の巫女になる娘である。だから、短い間だけでも私に仕えさせたいというのだ。天海一族の跡取りに、ラビア姉様の商家を学ばせたいのは良く理解できるが、巫女修行は、ヒムカの元で行えるではないか。私は、不思議に思ったが、チヌー小母さんが、私に深々と頭を下げたので、この願いは、小母さんのものだと気付いた。ところが、二人のお祖母様が、慌てて異議を申し出た。無理もない、二人は可愛い祖母ちゃん子なのだ。どんな危険が待ち受けているとも分からない船旅等には出したくないのだ。それに、花南お祖母様は、海で最愛の人を亡くすのは、もう何としても嫌だったのだ。親方は、黙っていた。孫の心配はお祖母様と同じだ。海の怖さは、この中の誰よりも知っている。でも、若頭が言う様に、ハイムルは、海の商人団である天海一族を率いていく男である。だから、海の怖さを知ることも必要なことだ。しかし、ニヌファは…… と悩んでいたのだ。すると、「大丈夫よ。お祖母ちゃま。心配しないで、私はタケル(健)様の顔を見てくるだけだから」と、お祖母様の袖を曳いて孫娘は微笑んで言った。その傍から、猪月親方が「大奥様。ご心配は察しますが、私が付いて行きますゆえ、お許しください」と言い出した。私は、初耳だったのでホオミ大将を振り返ると「いやぁ、後でご報告しようと考えていましたが申し訳ありません。またしても私は急用が生じて、ニシグスク(北城)までのご案内が叶わぬことになりました。そこで、メラ頭領に相談し、猪月を貸して貰ったのです。猪月は伊都国まででも案内できる男ですからなぁ。それに、メラ頭領と違い、猪月は船にも強いのです。何しろ私の部下で、船団長だった男ですからなぁ」と言った。その隣でメラ爺が「何しろワシャ船に弱いでなぁ。役立たずで申し訳ないのう」と、頭を掻いている。更に、大将が付け加えた。「花南様。もうひとつお許しください。実は、ハリユンに、この話を進めたのはワシですのじゃ。これから、姫巫女様に必要なのは、ワシ等老いぼれじゃ無く、ハイムルであることに間違いない。天海様が嘗て『倅を強い海の男にしてくれ』とワシに託されたように、ハイムルを、修業の旅に立たせては貰えませんかのう」と言って親方夫婦に頭を下げた。親方は「頼りない孫のことを気がけていただき有り難うございます。倅を、立派な男に育てていただいたように、我が孫も、また厳しくご指導ください」と、ホオミ大将に深く頭を下げた。そして「しかし、ニヌファは…… 」と、親方が話出そうとすると、幼い孫娘は「私は、お兄ちゃまと一緒に行くからね。絶対、お兄ちゃまを独りにしないからね」と、立ち上がり強い剣幕で、親方に言い放った。これには、お祖母様が折れた。花南さんは、兄のユイマル(結丸)親方と別れた日を、ずっと後悔して生きて来たのだ。「あの時、私が兄様に付いて行っていれば…… 」と。でも、もし、花南さんが、兄様と私の村に来ていても、その不幸は、止めることが出来なかっただろう。でも肉親とは、そういうものかも知れない。「あの時、私が傍に付いていれば」と、後悔し続けながら忘れられないのである。私の母ぁ様が亡くなったあの日、もし、私がもっと大人だったら、私もきっと、花南さんと、同じ後悔を背負ったのかも知れない。そして今、私は、お祖父様と、お祖母様の尽きない悲しみを改めて心に留めた。だから、お祖父様は、神様の元で母ぁ様に会えて幸せになったのだ。

 結局この件は、花南お祖母様が「猪月様、ニヌファをお願いします」と頭を下げて収まった。そして、アチャ爺の出番がやってきた。先回にもまして、コウ(項)家二十四人衆に、天海親方と、ホオミ大将を加えたアチャ爺の踊り連は、燃え上がったのだ。今回も、かろうじて私は、その踊り連に巻き込まる不幸からは逃れることが出来た。でも驚いたことに、花南お祖母様や、チヌー小母さんまでもが、アチャ爺の踊り連に加わったのだ。本当に、南洋の海人(うみんちゅう)は踊り好きである。だから、とうとうヒムカまでも、アチャ爺の踊り連の餌食になってしまった。きっと、アチャ爺は、こうやって、いつも別れの寂しさを吹き飛ばして来たのかも知れない。だから、私も少しだけ、「タケル(健)と別れる日には、アチャ爺の踊り連に加わろうかしら」と心が揺れた。

~ タケル(健)の都へ ~

 大きな鳥の群れが北の空から飛んできた。冬の渡り鳥である。十数羽の群れは、河口に降り立つと「グワッググワー、グワッググワー」と騒がしく鳴き出した。それからザブ~ンと水に潜ると器用に魚獲りを始めた。あれは、海鵜かしら、それとも河鵜かしら、甲板の上からでは遠くて良く見分けがつかない。ここは、ヒムカの都を望む美々津の湾である。一羽が大きく翼を広げて日向ぼっこを楽しんでいる。のんびり気持ちよさそうだが、濡れた翼を乾かしているのだろう。琴海(コトミ)さんの軍船は昼前には出港することになっている。だから、船乗り達は忙しく海景色など楽しんでいる暇はない。そして、南国の海辺も生き物の息吹に溢れ、喧々たる賑わいである。

 そんな中、暖かさを求めて南を目指してきた渡り鳥とは反対に、私達は北へ旅立とうとしている。ヒムカと、ホオミ大将の二人は、旅の異界から普段の自らの居場所に戻った。でも私は相変わらず異界に漂っている。つまりふわりふわりと腰が浮いていて定めがない人間である。多くの旅人は目的を持って旅をする。ハイムルの旅は、ラビア姉様から商学を学ぶ旅である。そしてニヌファの旅は巫女修行の旅である。でも私にはこの先も浮浪者のように当てのない旅を続けていく危惧がある。それは取り越し苦労かも知れない。香美妻は「日巫女様の旅は人々を慰撫する大事な旅ですよ」と言ってくれるが、私にはその実感がない。え~ぃそれならいっそ「グワッググワー、グワッググワー」と大仰に羽ばたいて鳴いてやろうか。でも、テルお婆に「私が育てた娘は…」と叱られそうだから今は止めておこう。そう自制を働かせた矢先に「ギャァォ、ギャァォ」と甲高い鳴き声が響き渡った。その声の主はメラ爺の孫娘達である。

物語名の想定地 ※弥生時代には無開発の地や、近年の干拓で完全には一致しない。

物語名想定地奇想の種
シマァ(斯馬)国島原半島倭人伝:斯海国志摩にも通じる
クシ(躬臣)国天草周辺倭人伝:躬臣国kush=(河や海)を渡る
フルクタマ(布留奇魂)牛深周辺私の魂の丘
キ(鬼)国八代平野周辺倭人伝:鬼国ki=葭(あし) の生い茂る所
木綿葉川(ゆうばかわ)球磨川木綿(ゆう)を作る民が暮らす葦の川
チオ(千尾)の峰阿蘇山周辺千穂は阿蘇の古名 高千穂に名を留める
ニシグスク(北城)高千穂周辺狗奴国の北の城。琉球語ではニシグスク
アタ(吾田)之津延岡周辺高千穂に五瀬川が遡上する
ミジン(美仁)日向周辺美津川にマハン(馬韓)人が住まう
ナカングスク(中城)西都原周辺狗奴国の中の城。琉球語ではナカングスク
商都:ツマ(都萬)西都原周辺妻に通じる
政都:ヤマト(山門)西都原周辺屋根上部をヤマトと呼んだ時があった故
ハイグスク(南城)都城盆地狗奴国の南の城。琉球語ではハイグスク
赤江ノ津宮崎市周辺大淀川の古名、赤江川の川湊

この旅の水先案内人として猪月親方が乗船した。それに加えて猪月親方の女将さんも同行することになった。女将さんは幼いニヌファのお守役という名目である。しかし、それ以上にラビア姉様から、商学を学びたいという思惑もあったようだ。女将さんの名はマンノ(万呼)と云った。驚いたことに女将さんは、ウネの実のお姉さんであった。だから、商学を学ぼうと思うほどに、賢いのであろう。マハン(馬韓)系在狗奴国三世である女将さんは、マハン系在鬼国二世のラビア姉様とは同胞なのだ。そう考えると、マハン人を妻に持った猪月親方が、伊都国への水先案内が出来るのも頷ける。伊都国どころか、きっと、マハン国までも行けるのでは無いだろうか。そして、両親が琴海さんの軍船に乗り込んだので、メラ爺の孫娘達も乗船しているのである。

 今朝、天海(あまみ)親方の都萬の屋敷を出た私達は、軍船を停泊している美々津まで、コウ(項)家二十四人衆の輿に乗って来たのだ。もちろん、私は、今日もラクシュミーさんに輿を譲り、夏希義母ぁ様のサンダルを履いて、自分の足で歩いて来た。テルお婆と、ラビア姉様、マンノ女将さんに、見送りのヒムカと、花南お祖母様を乗せた六つの輿には、ニヌファと、サラ、フラ、レラの三姉妹もそれぞれに乗せている。子供が一人余分に乗っても、屈強な二十四人衆には、何の負担も無い。香美妻は、ハイムルと。那加妻は、アルジュナと、楽しく談笑しながら歩いてきた。この旅で、お姫様育ちの二人も、随分たくましくなったのである。もう、志茂妻にも負けない位に、お転婆娘になったかも知れない。私に仕えるのなら、それ位でないと務まらないのだ。美々津に着いた二十四人衆の輿は、ヒムカの乗った輿以外は、皆乗船した。でも、ヒムカを、乗せた四人衆だけは、輿を担いだまま見送りの桟橋で嬉しそうに手を振っている。ヒムカが、その様子に気づき「早く乗らないと置いて行かれますよ」と、乗船を促した。しかし、四人は嬉しそうな笑顔を浮かべて「俺達は良いのです」という。ヒムカが、訝しがっていると、項荘が、船から飛び降り駆けつけて来た。そして、「姫巫女様。こやつ等は、置いて行けとピミファ様が仰っているので、よろしくお願いします」と言った。それから、岸を離れだした軍船に、急いで自分だけ飛び乗った。あっけに取られているヒムカに向けて私は「あのねぇ~ 今度私が四人を呼びに来るまで宜しくねぇ~。それまでは、それは、貴女の輿よ~ 」と、叫んだ。四人は「日巫女様~ 俺達のことは忘れてくれても良いですよ~ 」と、相変わらず嬉しそうに手を振っている。実は、項佗が発案したこのヒムカへの捧げモノの人選は、大変だったのである。最初は、志願者を募ったのだが、項荘、項佗、項冠の三人以外が、皆志願したのだ。二十四人衆は、夏希義母ぁ様が、私に付けてくれた護衛部隊でもある。なのに、二十一人がヒムカの魅力になびいたのだ。何と云う薄情な奴らめっ!!とも思うのだが、私が、二十四人衆のひとりだったら、私だって、ヒムカの許に居たかったに違いない。それに、項佗と三人の部隊長は、夏希義母ぁ様からの叱責を覚悟の上で、私の願いを汲み取ってくれたのだ。しかし、人選は難航した。昨夜は、星空の下で、大嵐が吹き荒れていたのだ。その大嵐の中から、勝ち残った四人である。だから、二十四人衆の中の、最強の四天王なのだ。この四人なら、どんな災難からもヒムカを守ってくれることだろう。だから、今はコウ(項)家二十人衆である。

 幼子を四人も乗せた軍船は、ユリ(儒理)と、シカ(志賀)と、ハイト(隼人)の三人を乗せていたスロ(首露)船長の軍船よりも、更に賑やかだった。人数だけなら、ひとりしか違わないのだが、スロ船長の軍船に乗っていたおしゃま娘は、シカひとりだけだった。しかし、この軍船には、おしゃまな娘が四人も乗っているのだ。まずは、おしゃれ談義に花が咲き、次には、この世で一番美味しい物の話になり、更には呆れたことに「どの船乗りが一番良い男か」という話にまで広がり盛り上がっている。私は、まだ六~七歳の小娘達が「何をおっしゃいますか」と呆れて聞いていたが、船乗り達は、将来の美人達の前で、すっかり緊張し、そして、その馬鹿騒ぎに乗せられてしまっていた。

 この状況の中で、私が驚いたのは、オマロ(表麻呂)のおしゃま娘操船術の巧みさだった。オマロ船長は、軍船だけでなく、おしゃま娘の取り扱いにも長けていたのだ。まるで、船底さえ抜けるかと云う大騒ぎをしているおしゃま娘達に、オマロが「美しい姫様方は、お静かに願いま~す。そうして頂かないと、海の魔物どもが、美し~い姫様を貰って行くぞう~と、暴れ出しそうです。だから、美しい姫様は、どうぞ、お静かに、お静かに、でも、そうで無い姫様は、どうぞご勝手に。さぁさぁ美しい姫様は、お静かにシーシー 」っとたしなめると、四人のおしゃま娘もシーシーと言いながら静かになったのだ。きっと、オマロ船長の丘の家には、しっかり者の奥さんと、おしゃまな娘がいるに違いない。それも、おそらく四姉妹だろう。このおしゃま娘操船術の巧みさなら、そうに違いない。でも、良く考えると、普段寡黙なオマロからは、何の身の上話も聞いていない。だから、今度ゆっくり聞かなければならないと思った。何故なら、夏希義母ぁ様が、私の警護にコウ(項)家の二十四人衆を付けてくれたように、オマロ船長は、琴海さんが、私に付けてくれた天馬である。もし、琴海さんの軍船と、オマロ船長が居なければ、私は、こんな長く遠い旅を、自由に行うことは、出来なかっただろう。そして、これからも、オマロは、私の天馬であってくれるだろう。既に、琴海さんは、軍船の三代目船主の席を、私に渡したと考えている気がする。どうやら、二十四人衆と同じように、軍船と船長も、琴海さんからの、私への無期限貸与なのだという気がして来た。だから、二十四人衆と、オマロは、私の身内なのだ。

 タケル(健)が住むニシグスク(北城)までは、美々津より、半日ほど北上するそうだ。そうして、今度は、五瀬(いつせ)川と呼ばれている暴れ川を、二日掛けて溯る予定である。五瀬川の河口の港は、吾田之津(あたのつ)というらしい。吾田の湾は、大きくて、五瀬川以外にも、大小五つの川が流れ込んでいるようだ。琴海さんの軍船は、船足が速いので半日ほどで、吾田之津に寄港するが、もし、ヒムカのサイト(斎殿)から、歩いての旅をしたなら、早くて二日、もたもたしていたら三日は掛かってしまうそうである。ちょうど吾田湾まで半分位進んだ時、豊かな森に抱かれた港町が見えてきた。この港町を指差して「あそこが、私の故郷よ」と、マンノさんが教えてくれた。そして、その港町はミジン(美仁)という名だと教えてくれた。美仁を遡る川は、ミジンガン(美津川)というらしい。その川で、幼い頃ウネと良く遊んだそうである。マハン(馬韓)人は、その川沿いに水田を広げて暮らしている。そして、大きな町もありサラクマ(沙羅隈)親方のクド(狗奴)国での逗留先も、この美仁らしい。ラビア姉様もミジンという名だけは、聞き覚えがあると言っていた。私は、美仁にも立ち寄りたくなったが、これ以上、この旅を長引かせる訳にはいかないので諦めた。でも、ウネに似た、少し変わり者の少年達が、沢山ミジンガンで泳いでいるのを想像したら可笑しくなって来た。もし、今度狗奴国に来る時には、きっと美仁に立ち寄ろうと、心に書き留めた。いや、やっぱり忘れるといけないから、アルに一枚だけ貝葉(ばいよう)を、分けて貰って書き留めておこう。でも、シャー(中華)の複雑な文字が貝葉に書けるかしら? もし駄目なら、アルにあの丸っこい変てこな字を習わないといけない。そんなおかしな想像を膨らませているうちに、軍船は吾田之津に入港した。まだ、日は高かったが、五瀬川を溯るには日暮が迫っていた。それに、軍船では五瀬川を溯れない。ここからは、また川舟に乗り換えて遡上するのだ。川舟は既に、大将が用意してくれている。私達は軍船から川舟に分乗して吾田之津の奥にある天海親方の船宿に入った。

 私達の一行が、船宿に入ると、厳つい体格の男達が大勢いた。中には、二十四人衆に加えても、見劣りしない偉丈夫もいる。どうやら、この男達が、明日から私達を、ニシグスク(北城)に案内してくれる舟頭達のようだ。男達は、足桶まで差し出してくれた。そして、意外とやさしい手つきで、私の足を洗ってくれた。そうこうしていると、奥から初老の女の人が、駆け寄るかのように飛び出て来た。そして、ハイムルを撫で廻しながら「坊ちゃま。大丈夫でしたか。どこぞで怖いめには合いませんでしたか。お腹は空いていませんか」等と、忙しなく世話をし出した。まったく異常な位の過保護振りである。でも、ハイムルは、慣れている様子で、迷惑がるでも無く、されるがままに成っている。その初老の女の人は、大層痩せていて、キツネ目である。更に今度は、奥から初老の男の人が飛び出て来た。そして、ニヌファに駆け寄ると「姫様、大丈夫でしたか。どこぞで怖いめには合いませんでしたか。ワシの大事な姫様よ~ぉっ、お腹は空いていませんか~ねっ」と、呆れる位の好々爺ぶりで世話をし出した。ニヌファも慣れているようで「うん、大丈夫だよ、モユク」というと、モユク爺さんの首に腕を絡ませて抱きついた。そのお爺さんは、小太りで狸のようだった。それに、大きな眉毛が、口髭に届きそうな位垂れている。「おい、シュマリよ。ハイムル(吠武琉)が可愛くて仕方ないのは分かるが、俺達の世話も頼むよ」と、猪月親方が、キツネ目の小母さんに声を掛けた。「あら、猪月親方もいたのかい。遠慮しないでさっさとお上がりよ」と、キツネ目小母さんは、細くとがった顎をしゃくった。「あんた駄目だよ。ハイムルがいたら、女将は、人が変わるんだから。普段は愛嬌の良い女将なんだけどね」と、マンノさんが、猪月親方を諭した。それから「それより、番頭さん。日巫女様もお見えなんだよ。いきなり、粗相をしていちゃ、親方に叱られるよ」と、モユク(狸)爺さんを諭した。小太りの番頭さんは、はっと我に返り私の元に駆け寄ってきた。そして、私の足元に土下座をすると「お許しください。日巫女様。あまりにも姫様のことが心配でしたので」と、額を土間にすりつけて謝った。私は、「大丈夫です。私は何でも独りで出来ますから」と答えた。すると、私が怒ったと勘違いしたモユク(狸)番頭さんは「嗚呼、お許しいただけないのなら、いっそ私の老い首を刎ねてください。お願いします。日巫女様」と、泣き出した。そこへ、ニヌファが寄って来て「日巫女様、モユクをお許しください。モユクは悪い人間では有りません。ただ、ちょっとお調子者で、おっちょこちょいなだけです。どうか、おっちょこちょいなモユクをお許しください」と、言っていっしょに謝り始めた。更に、キツネ目女将も、この騒ぎに飛んで来て、私の足元に土下座をすると「日巫女様、大変ご無礼をいたしました。お許しください。もし、この馬鹿亭主の首をお刎ねになるのなら、いっしょに、この婆ぁの首も刎ねてくださいませ」と、二人で土下座姿のまま泣き叫んでいる。この様子に、私が困り果てていると、マンノさんが「番頭さんも女将さんも大丈夫だよ。日巫女様は、こんなこと位で怒ったりする人じゃないよ。さぁ、二人とも頭を上げて、いつまでも、そんな恰好をしていたら、逆に、日巫女様が困っているじゃないか」と、助け船を出してくれた。小太り番頭さんと、キツネ目女将さんは、恐る恐る私を見上げると「本当ですか~本当にお許しいただけるのですか~」と言った。私は誤解されないように、今度は微笑んで「許します。怒ってなどいませんよ」と、短くやんわりと答えた。二人は、ほっと胸を撫で下ろすと、ゆるゆると立ち上がり「では、お部屋にご案内します」と、奥へ招き入れてくれた。奥に進みながらアチャ爺が「わしゃぁ。あんな猫可愛がりな真似はしとらんよなぁ」と、テルお婆に訪ねた。テルお婆は「他人様が見たら分からないよ。ピミファよぉ、ピミファよぉと、デレデレしていると映っているかも知れないよ」と、脅した。アチャ爺は、ラビア姉様を振り返り「わしゃぁ。デレデレしているかのう」と不安そうに尋ねた。ラビア姉様は笑いをこらえて「そんなことはありませんよ」というように左右に手を振った。

 マンノさんから、話を聞くと、二人は数年前まで、ハイムルと、ニヌファの乳母と守役だったらしい。でも、二人を、あまりにも過保護に育てるものだから、若頭が、乳母と守役の任を解いたそうだ。モユク(狸)爺さんと、シュマリ(狐)女将の二人は、それ以外では、とてもしっかり者らしい。特に、キツネ目女将の人扱いは、天海一族の中でもずば抜けているそうだ。確かに、さっき見た厳つい男達の立ち振る舞いを思い起こすと、とても躾(しつけ)が行き届いているようである。あの男達への厳しい躾を、小太り番頭さんがやったとは思えない。でも、モユク番頭さんも、お金や物の管理なら、かなりのしっかり者らしいのだ。だから、若頭は、船宿の番頭に役変えさせたようだ。人は見かけに依らない者である。考えてみれば、アチャ爺だって昔は「東海の海賊達さえ逃げ出す乱暴者」だと言われていたのだ。私は、今だって、アチャ爺が、そんな荒ぶる神だったとは信じられない。もしかすると、テルお婆が、躾直したのかも知れない。そう思うと、私は急に愉快になってきた。そのことを香美妻と、那加妻に囁くと、二人は笑い声を抑えながら、お腹を押さえて転げ出した。その様子に気付いたアチャ爺が「お前達ぁ、どうかしたのか? 腹でもいたいのか?」と聞いてきた。私達はついに堪え切れなくなり大声を出して笑い転げた。怪訝そうにハイムルと、ニヌファが私達を見たので、私は、アチャ爺に見えないように指差しながら「あれが、私のモユク(狸)と言った。二人は、ますます分からなくなったようだが、ここでは説明のしようが無い。今度、アチャ爺がいない時に説明してやろうと思いながら、三人で笑い転げていた。明日からの旅は、なかなか大変な所も多く、体力を消耗しないようにと、今夜の宴会は無しになった。だから、夕食だけを取ると皆早々に床についた。どうやら、ハイムルと、ニヌファは、モユク爺さんと、シュマリ女将の部屋で寝たようだ。この夫婦には、子が無いようである。マンノさんは「私も詳しい話は知らないけれど、辛い昔を背負っているらしいよ」と教えてくれた。

 今朝の旅立ちは早かった。上げ潮に乗って、舟で溯れる処まで遡る為である。上げ潮が止まると、流れが強い所では、舟を曳くしかなかった。それも、足場の悪い岩場を、伝いながら曳くので、随分と進みが遅くなった。私の村でも、砂浜に舟を引き上げるが、この舟曳きは、その何十倍も過酷な仕事である。だから船宿の男達が、筋骨隆々と屈強な訳である。水量も多く流れも強い所では、猪月親方や、二十人衆も、舟を降りて舟曳きを手伝った。先ほどの大きな瀬では、ついにアチャ爺まで、舟曳きに回った。アルジュナ少年と、ハイムル(吠武琉)は、大人の男と、子供の狭間で、舟曳きに回るべきか、子供らしく舟に乗ったままでいるのか、判断しかねているようだった。しかし、次の瀬では、ついに二人共、河原に降りる準備を始めた。本当は、私も舟曳きをしてみたかったのだが、「あらあら日巫女様は、男まさりなことがお好きですねぇ~」と、また香美妻にたしなめられそうである。私は、誰か私を見て「舟曳きを手伝ってくれ」と、言わないか心待ちにしていたが、無駄な期待だった。「つまらないなぁ」と、川面を見つめながら、ふと川岸の森を眺めると、私達の舟は、ほとんど進んでいなかった。川面の流れだけを見ていると、結構な勢いで、上流に向かっていると感じていたが、錯覚だった。私と、同じ位に退屈をしていた子犬のチャピ(茶肥)は、とうとう我慢出来なくなったのか、私の膝から飛び出すと、川に飛び込み泳ぎだした。あれは犬かきという泳法らしい。その犬かきの方が、川船より早いのである。そして、チャピ(茶肥)は、対岸に上がると、岩場を上流に向けて駆けて行った。その背が、もう少し大きければ、私も背に乗って、上流に駆け上がりたい気持ちになった。そんな悪戦苦闘を繰り返し、どうにか日暮前には大きな瀞場(とろば)に着いた。流れが緩やかで澄み切った水底は、綺麗な小石で敷き詰められている。私達は、少し小高い河原に降り立ち、今夜はここで野営をすることになった。チャピは、先に到着し、河原を飛び回っている。サラも、その後を追って、広い河原を飛び回りたさそうな眼をしていたが、しっかり者の長女には、大事な役割があったのだ。ハイムルと、ニヌファは、野営が初めてであった。だが、メラ爺の孫娘達は野営に馴れていた。だから、二人に、火の起こし方を教えている。そして、その起きた火で、アルが、おしゃま娘達の為にお子様カリーを作ってくれた。その美味しさに、四人の幼き美少女達は、すっかりアルジュナ少年に恋心を抱いてしまったようだ。日が落ちても、焚き火の灯りを囲んで、マンノさんと、ハイムル、そして、項荘、項佗、項冠の五人は、ラビア姉様の授業を受けている。別の焚き火の回りでは、おしゃまな娘達が、アルの異国の旅の話に目を輝かせている。その目の輝きと同じ位素敵な星空を見上げて、香美妻と、那加妻と、私は、志茂妻に思いを寄せていた。そして、三人同時に睡魔が襲ってきた。

 秋の川風に吹かれて気持ち良く目を覚ますと、もう、船頭達と、二十人衆は旅仕度を整えていた。山の民の三姉妹は、チャピといっしょに、小石の河原を元気に走り回っている。流石に、旅慣れした三姉妹だ。朝餉は、久しぶりにテルお婆が、粥を作ってくれていた。私は芋が入ったこのテルお婆の粥が大好きである。ラクシュミーさんも手伝いながら粥作りを教わったようだ。粥は大きな鍋さえあれば、どれだけの大人数分でさえ短時間で作れる。だから、野営の旅にはとても重宝する料理である。ラクシュミーさんは、時々大人数の料理を作ることがあるらしい。だから粥作りを是非学びたかったそうだ。それに、穀物なら何でも良いから材料には不自由しない。大事なのは塩加減だけだ。ところが、その塩加減が案外難しい。私とヒムカは、何度やってもテルお婆の味に近づけなかった。アク(灰汁)巻きの件もそうだけど、きっと、私とヒムカには料理の素質が無いのだろう。まぁ仕方ないか?!

 この日も、私達は亀の歩みのような行軍を行い、昼が過ぎた頃に、やっとニシグスク(北城)に到着した。そして私は、へたり込んだ。旅の疲れからでは無い。この館には、タケル(健)が居ないのだ。私は、秋の青空に恨みの言葉を打ち上げながら、私の運の悪さを嘆いた。もう、私は、ため息どころか、息をしているのも嫌になってきた。何て酷い仕打ちなの?! 私の日頃の行いが良くなかったの? それとも川の神様が旋毛をまげたの? 嗚呼~香美妻を会わせたくて苦労をして来たのに、そして「ほらほら、これがお前の母様だよ」と言いたかったのに、ホオリ王は「チル(知流)に瓜二つですよ」と言った。だから、母様の顔を知らないタケル(健)も香美妻に会えば母様の顔を知れたのに……くやしい!! あまりにも悔しくて、私は、いつの間にか悔し寝をしてまったったようだ。あれ、夕餉は食べたかしら……?

~ 瑞穂の国の夢 ~

 応対にお出たの役人の話では、タケル(健)は私達が到着する直前に「急遽、千尾(ちお)と云う村に向かわれた」と言うことである。何でも、私達に会うより大事な事が起きたそうである。千尾村の先には、コヤ(呼邑)国という隣国があるそうだ。千尾の峰と山並みが、クド(狗奴)国との境らしい。ニシグスク(北城)から千尾村までは、半日程の距離らしい。「千尾の峰を越えるとは聞いていないので、タケル(健)様は、日暮には戻って来られる筈です」と言うことだった。そうであれば、待つしかない。せっかくここまで来たのだもの、タケル(健)の顔を見ずに帰れるものかと、私は腰を据えた。コヤ(呼邑)国には、大きな火の山があるそうだ。そして、その火の山は、カゴンマ(火神島)にも負けない勢いがあるらしい。猪月親方の話では、火の山がある辺りには、金・銀・銅に、鉄等の貴重な鉱石が埋もれているそうだ。だから、小さな国だけど、とても豊かな国らしい。実は、猪月親方は、鉱石も取り扱っていたのだ。そして、クド(狗奴)国の鉄の原料は、コヤ(呼邑)国に頼る所が大きいそうだ。だから、隣国との交渉は、とても重要なことらしい。

 私は、そんな重要な交渉の場に、七歳になったばかりのタケル(健)が出かけていることに驚いた。もちろん、実際の交渉は、側近の大臣が行っているのだろう。だから太子として、ホオリ王の名代を勤めているだけだから、黙ってちょこんと座っていれば良いのだ。だったら、その席に藁の人形でも置いて、さっさと帰ってくれば良いではないか。私が、むくれてそういうと、猪月親方が笑いながら「交渉の主権を握っているのは、タケル(健)様なのです」と私を諭した。“……? まさか、七歳になったばかりの子供が、大人相手に交渉など出来よう筈が無いじゃない”と、私が納得していない様子を見せると、「タケル(健)様は、人では無いのです」と、猪月親方が変なことを言い出した。そして「ただの人の子なら、七歳で国を語れる筈も有りません。でも、若様は、現つ神(あきつかみ)ですから、七歳になったばかりでも人の世の全てが見渡せるのです。いえ、人の世ばかりでは有りません。山も、海も、天空の不思議さえもあらゆる事象が見渡せるのです」と言った。

 確かにタケル(健)は、ジョ(徐)家の跡取り息子であり、フク(福)爺の孫だから、方術師でもある。風を読み、雲を読み、地を読むことには、誰にも劣らないだろう。でも神様じゃない。神様は、人の目には見えないのだ。私がそう言うと、マンノさんまでも「いいえ、若様は、間違いなく現つ神様ですよ。だから、私達は、明之王(あけのきみ)とお呼びしています。何といえば良いのでしょうね。日巫女様がおっしゃる神様とは、少し違うんです。上手く言えないけど、とにかく、明之王は、私達の目に見える神様なんです」と、強く言い張った。私が、なかなか納得いかない顔をしていると、アルジュナ少年が「倭国以外でなら、私も数人知っていますよ」と言い出した。「アル、話をややこしくするのは止めて!」と、私が言うと、「いえ本当です」と、ラクシュミーさんまでも言い出した。そして「私も、クマリを見たことがあります。クマリは、生き神様なのです。天竺には、その地域毎に、クマリがいて、人々は、クマリをとても崇めています」と、言うのだ。私は、困惑してラビア姉様を見た。ラビア姉様は、いつものように優しく微笑むと「マンノさんがいうように、ピミファの神様とは違うのよ。ピミファの神様は、とても大き過ぎて、ピミファや、ヒムカのような力が無いと見えないわ。でも、現つ神や、ラクシュミーさんが見たというクマリは、誰にでも見える神様なの。天竺のクマリの噂は、私も西域で聞いたことがあるわ。ニヌファや、サラ姉妹のような綺麗な女の子らしいわよ。でも、クマリでいられるのは少女の間だけらしいわ。ピミファも、天竺に生まれていたら、きっと、現つ神様として人々が崇めていたかも知れないわねぇ」と、教えてくれた。それでも、私には、良く理解できなかったが、こうなれば、何としても明之王のタケル(健)に会うしかない。

 もうひとつ、難題が持ち上がった。ハイムルと、ニヌファが、私達と一緒に、伊都国まで行きたいと言い出したのだ。兄は、もっと、ラビア姉様の商学を学びたいし、倭国一の大都市である伊都国をぜひ見てみたいというのだ。妹は、「お兄ちゃんが行くなら私も行く」という主張である。そうなると、猪月夫婦と、三姉妹も、下船し、自分達だけ都萬に帰る訳にもいかないだろう。更に、難題に拍車をかけようと、モユク爺さんと、シュマリ女将の二人まで、付いていくと言い出した。こうなると、ハリユン若頭の意向を確かめずに動く訳にはいかなくなった。でも、冬の訪れは早い。あまり悠長にしていると、海が荒れて春まで足止めを食うかもしれないのだ。だから、まずは、女将が、すぐに川を下り、若頭の意向を確かめに行くことになった。そして、私達は、宇沙都(ウサツ)まで行き、そこで若頭の返事を待つことにした。私は、機会があれば、ハイムルを、スサト(須佐人)に合わせたいと思っていた。ふたりは同じ歳だし、共に交易商人になるのだ。今頃スサトは、ジンハン(辰韓)国に居ることだろう。でも、もし、このまま私と一緒にジンハン国に連れて行ければ、二人は合える筈だ。だから、私は、このままハイムルと旅を続けたかった。もちろん、若頭の許しが得られればの話ではあるが……

 二日待ったが、タケル(健)は、ニシグスク(北城)に戻ってこない。私の機嫌は、どんどん悪くなっていった。香美妻がいうには、今にも誰かに噛みつきそうな顔をしているらしい。だから、接待の役人も訪ねて来なくなった。そこで、モユク爺さんが、何とか情報を聞き出そうと、役所に行ってくれた。ああ見えて爺さんは、なかなかの諜報者らしい。あの頼りなさが、相手の気を緩ますのかも知れない。それに小太りの狸体形だが、意外と俊敏らしい。もとは山の民で、メラ爺の一族なので、山歩きも達者のようだ。更に、仲間と集まって飲んだり、話し合ったり遊び逢うのが大好きで仲間内では一番の人気者らしい。確かに、どことなく愛嬌のある顔である。面白いのは、危機的な状況になると死んだ振りをするらしい。猪月親方に聞いたこの話を本人に確かめると「死んだ振りをするのも、中々大変なんですわい。ぴくりとも動いちゃいけんですからのう。でも、機会を見つけたら、すっ飛んで逃げ出さないかんから、あんまりだら~っとしとくわけもいかん。それに、息も長~いこと止めとかなぁいかんですもんなぁ。日巫女様は、海女じゃから、普通の人間よりは、長く息を止めることが出来ますじゃろ。それでもワシャ、日巫女様の倍は止められますぞ。普通の人間に比べたら、五倍はいけますなあぁ。それ位せにゃ、敵も死んどるとは思うてくれんでしょう。こいつぁもう死んどると、敵が油断したら、だ~っと逃げ出す訳ですたい。アハハハハ……逃げるが一番ですけんのう。アハハハハ……」と屈託なく『死んだふりの妙技』のコツを教えてくれた。そして、今回は、死んだふりをする程の危うさもなく「タケル(健)様は、千尾の峰を越えたそうです」と、いう情報を得てきた。更に、爺さんの諜報活動でもたらされた話では、どうやら、コヤ(呼邑)国は、明之王を必要としているらしい。クド(狗奴)国に併合される気は無いが、明之王の傘下に入りたいとの意向らしい。もし、そうであれば、ややこしい話である。これでは、数日は戻らないかもしれない。私は、三日目の朝、落胆の声で皆に旅立ちを告げた。その報を聞きつけた接待の役人は、すっ飛んで来て、沢山の土産物を舟に積み、私に丁重な別れの挨拶をした。そして、ほっと胸をなでおろしたようだ。その様子を見て、香美妻と、那加妻が、くすくす笑っている。そして、私を見ると、笑顔を作れと、自らの作り笑い顔を、私に向けて催促した。私は、仕方ないので役人に、にっこり微笑み「たいそう、お世話をかけました。ありがとう」と言った。役人は安ど感で、泣きそうな顔をしていた。私は、そんなに怖い顔をしていたのかしら……?

 帰りの川旅は、驚くことに半日で終わった。そこで、吾田之津の船宿には泊まらず、このまま、軍船に乗り換え、宇沙都に向かうことにした。しかし、この旅で、私のクマ族に対する見方は、すっかり変わってしまった。私は、やっと、木綿葉川(ゆうばかわ)の辺で暮らすクマ族や、「次に来んしゃった時は、ぜひ不知火(しらぬい)ば見に行きまっしょね」と、笑いかけてくれた船宿不知火の亭主のやさしさを、違和感なく受け入れることが出来るように成って来た。だから、今度、伊都国から私の村に帰る時には、キ(鬼)国に立ち寄り、亭主の案内で、不知火を見に行こうと思った。そういえば、あの船宿不知火の亭主も、モユク爺さんの一族だろうか? 今思い返せば、亭主の顔も、狸顔だった気がしてきた。いずれにしても、クド(狗奴)国が、こんなにも豊かな瑞穂の国だとは、想像だにしていなかった。ウネとも知り合えて、本当に良かった。変な子は、私だけじゃない。ウネもいる。そして、アルなんかもっと変な奴だ。これから、私に、どんな生き方が待っているのか、まだ知らない。でも、生きていくことは楽しい。戦さ場の巫女など、この世に必要ない。だから、私は巫女にはならない。私は加太に医術を習い、そして、ウネに農学を習い、ラビア姉様からは商学を学ぼう。そして、時々、アルジュナ哲学にも付きやってやろう。ラビア姉様と、西域も旅したい。アルの国も見てみたい。時々、海賊になってスロ(首露)船長の海賊船を襲って驚かしてもみたい。倭国中の山々から、平和の狼煙を立ち昇らせてみたい。私には、やりたいことがいっぱい出来た。そして、今度クド(狗奴)国に来た時には、何としても、タケル(健)に逢い、明之王とは、どんな顔をしているのか確かめないといけない。そんな取り留めもない思いにふけりながら、軍船は、トウマァ(投馬)国の半島を左舷に見て航行し、女島(ひめしま)と呼ばれる小島から西に回り込み宇沙都の港を目指した。

~ ナカツ(那加妻)との別れ ~

 タカキノミネ(高来之峰)とは趣が違うが、神気漂う半島が左手に横たわっている。どうやら火を噴く山は無さそうである。手つかずの深い森が松の葉色のように沈んでいる。その森の緑を天に移し空は碧色に広がっている。その神域の北岸に海湊ウサツ(宇沙津)が有り、そこから宇沙都は始まる。ウサとは山の民の言葉で「猟獣多き処」という意味らしい。そしてその意の通りに、豊かな山野に恵まれた処である。そして、宇沙都は、高木の神を祀るトウマァ(投海)国の神都である。だから、ハク(帛)お婆との繋がりも強く、ヤマァタイ(八海森)国とは兄弟国である。更にメラ爺と山の民も、高木の神を祀っている。メラ爺は、宇沙都の宮総代でもある。その為、一年の半分近くは、宇沙都にいるようだ。そこで、ハリユン若頭の意向を待つ間、私達はメラ爺の館で待つことにしたのだ。

 軍船が、トウマァ(投馬)国の東沿岸を北上していると、乾いた東風が女島の山から吹き下ろしてきた。猪月親方の説明では、海湊ウサツ(宇沙津)も近いということである。そう聞いてメラ爺の顔を思い浮かべじっと西の深い森を見つめた。そうしていると、島を横切る際に奇妙な岩肌が、ふと目に留まった。お乳のように白い、あるいは灰汁(あく)のように白い岩肌である。猪月親方に尋ねると「さすがに日巫女様は、良い処に目を付けられる。あれは宝のような岩です」「宝の岩?」「あの岩は、人々の暮らしに欠かせない恵みをもたらすのです。ほれ、これがその欠片です」と猪月親方は、小さな小刀状の物を取り出した。そして、それは鋭く輝き鋭利な切れ味を持っていた。「鉄や銅剣よりも切れそうですね」と聞くと「その通りです。それに鉄や銅剣に比べると作るのもとても簡単です。岩を割るだけでこの形に成るのです」と裏表とかざして見せた。確かに薄い。これが石ころだとは思えない。私は不思議な気持ちに襲われ、石の小刀を見つめた。「差し上げます。ほれ、香美妻様と那加妻様にも」と私達に小さな石の小刀を手渡してくれた。「あら……? 香美妻の小刀は黒い石ですね」と私が言うと「ええ、それは末盧国の山で採れた石です。この手の石は黒い物が多いのです。そして黒く輝いているので黒輝石と呼ばれています。しかし、あの島の黒輝石だけは白っぽいのです」と親方が言うと「確かに、日巫女様のは白っぽい小刀です。でも那加妻の物は更に斑点模様がありますね」と香美妻が、二つを見比べた。「その二つは、あの島で採れた石です。ヒムカ様がお使いの物も斑点模様があります。南洋の民、中でも女人は斑点模様を好まれるようですね。南洋の民と倭人が交わるのもあの島です。定住者はいませんが、採掘や漁業の休憩地として、不特定多数の民が小さな村を作っています」と商人で各地の様子に詳しい親方が教えてくれた。不意に、綺麗な蝶がふわふわと船先に舞い降りた。黒地に浅葱色の模様が艶やかである。後翅には吾亦紅(われもこう)の花の色を思わせる暗赤色も纏っている。親方の話では南洋の島を目指して旅をしているらしい。驚くべき健脚である。とは言っても蝶なので足ではなく健翅と言うべきかも知れない。それにしても、あのふわふわとした飛び方で、良くもそんな長旅が出来るものだと感心してしまう。

 程なく、船は海湊に入港し私達はメラ爺の館に向かった。猪月親方が、道なき道を進むので香美妻と那加妻は不安に襲われている。でも大丈夫、陽気な三姉妹が付いている。だから、もし魔物が出てもそれは三姉妹の眷属に違いない。そうニヌファ(丹濡花)に言うと桃夭娘(とうようむすめ)は、桃色の頬を弾けさせ、にっこり微笑んだ。気の強い私と香美妻には魔物さえ言い寄らないだろうけれど、ニヌファ(丹濡花)はきっとしっかり者に嫁ぐだろう。そして、那加妻が嫁ぐのも遠いことのような気がしない。嗚呼、やっぱり問題児は、私と香美妻なのだ。

 メラ爺の館は、とても広い森に囲まれていた。この森そのものが、メラ爺の館といって良い。だから、大きな建物は、どこにもない。その代わり小さな掘立小屋が、森の中に沢山建っている。宇沙都の宮参りをする山の民が逗留する為に建てているそうだ。宇沙都の宮代自体には建物などない。だから神都の宮代という言い方は正しくない。森から続く山そのものが御神体であり神様の社(やしろ)なのだ。そしてメラ爺は、その森深くの猟師小屋に暮らしているそうだ。そして、私達の仮屋に成る小屋は、サラ、フラ、レラの三姉妹が選んでくれた。そこは、ご神体の山裾であった。そして、ここは三姉妹の森でもある。三姉妹は、森の妖精なのだ。

 トウマァ(投海)国には、五万余戸、約三十万人の人々が暮らしている。そして、大きく三つの勢力で支えられている。一番古い勢力は、ハク(帛)お婆の一族や、メラ爺達山の民で構成されている高木の神の信徒達だ。ハクお婆は、ジョ(徐)家の女だが、高木の神の血が流れている。だから、この一族は、ヤマァタイ(八海森)国の高木の神の信徒の同族である。その族長は、初老の思慮深そうな人だ。名を、高牟礼(タカムレ)という。ホオミ(火尾蛇)大将の亡くなった妻は、高牟礼族長の娘である。そして、高木神の巫女だった。名を、ヒコメ(日弧女)という。大将との間には、一粒種のヒコミミ(日子耳)がいる。今、その息子は、独りで高牟礼族長の元に居る。そして、いずれは、高木の神の一族を率いることになる。でも、ヒコミミ(日子耳)は、大将の息子なのに、とてもひ弱らしい。でも、剣の腕だけは良いらしく、その点だけは、大将の血を受け継いでいるようである。

物語名の想定地 ※弥生時代には無開発の地や、近年の干拓で完全には一致しない。

註:港は、本来船の通る処の意味。船が停泊する所は、古名では湊。さらに古くは津。

物語名想定地奇想の種
トウマァ(投馬)国豊前・豊後倭人伝:投馬國
ウサツ(宇沙都)宇佐周辺宇佐の津(港)から山に広がる聖域
キクツ(企救津)小倉南の東岸昔、企救平野と呼ばれたあたり
クキノウミ(洞海)昔の洞海湾大きな海だった頃の古名
ムショウツ(虫生津)筑豊付近遠賀川の川湊で鞍手周辺の古名

 二つ目の勢力は、主にトウマァ(投海)国の北部に暮らしている。そこは、鯨海に面した荒海の地だ。その族長は、クラジ(秦倉耳)という。妻は、ツブラメ(螺裸女)と言い、後継ぎは、クラミミ(秦鞍耳)という。屋敷は、岡之川という大河の辺にあるそうだ。また、宇沙都に住むクラジ(秦倉耳)族には、ハタ(秦)家を名のる者が多いそうだ。それは、先祖がスサ(須佐能)王に繋がる為である。その偉大な王が、ハタ(秦)家の祖先である。彼は、伊都国の始祖イサミ(伊佐美)王以前に、倭国を統一した王でもある。

 三つ目の勢力は、主にトウマァ(投海)国の南部に暮らしている。だから、クド(狗奴)国に面した地である。族長は、佐留志(サルシ)という。妻は、宇津女(ウズメ)という。そして、何とメラ爺の娘さんらしい。だから、猪月親方の姉様である。そして佐留志族長は、マハン(馬韓)二世らしい。それも、サラクマ(沙羅隈)親方と同類らしい。だから、ラビア姉様とは、縁が深い人だ。マハン二世だということは、どうやらウネとも繋がりが有りそうだ。そして、族長には、宇津彦(ウズヒコ)と、佐留女(サルメ)という兄妹がいるそうだ。

 トウマァ(投海)国に王はいないそうだ。国の政治は、高牟礼、クラジ(秦倉耳)、佐留志の三人の族長と、宮総代のメラ爺の合議制らしい。そして、神託を受けるのは、高木の神の巫女である。しかし、ホオミ大将の妻のヒコメ(日弧女)が亡くなった後、高木の神の巫女は、不在と成っているそうだ。高木の神の血を受け継ぎ、巫女としての力を備えた娘は、なかなか見つからないそうである。だから、トウマァ(投海)国では今、宇気比(うけい)を行えるものがいない。その為に、四人の合議制で決めきれなかったことは、全て棚上げに成っているらしい。いつも陽気なメラ爺も、こればかりは、頭を痛めているそうだ。

 それにしても不思議なのは、メラ爺の足である。どの国の若い男でも、あの健脚に勝てる者はいないだろう。それともメラ爺は、ふわふわと空を飛べるのだろうか。私達が吾田之津を出港する前には、もう宇沙都で待っているという知らせが届いた。それも、ニシグスク(北城)で落ち込む私を盗み見し、コヤ(呼邑)国の千尾の峰を一っ飛びし、タケル(健)の様子を確かめて、宇沙都に帰って来たそうだ。後日私が「じゃぁ、何で私に声を掛け無かったのよぉ」と噛みついたら「声をかけるには、おっかない位に恐い顔をしておったでなぁ」と、言うことだった。やっぱり私は、香美妻が言うように、今にも誰かに噛みつきそうな恐い顔をしていたのだろう。今度、あの役人に会ったら、真っ先にその件を謝ろう。

 宇沙都の湊に船を泊めると、「今度は長逗留になるかもしれない」と、テルお婆は、軍船から大きな船箪笥を降ろさせていた。中には、あのウーシャンフェンや、ウコンなどの香辛料、作りためておいたアク(灰汁)巻き、それに伊都国で、リーしゃんに譲ってもらった昆布や、シマ(斯馬)国で夏希義母ぁ様から持たされたイリコ(炒り子)等が、沢山詰まっていた。それに、私は初めて見る木の固まりのような物が五本入っていた。「これは、何?」と聞くと「ホオリ様に貰った鰹節さぁ」とテルお婆は答えた。更に私が「鰹節って何? こんな堅くてカビだらけのものどうするの?」と聞くと、テルお婆は「昆布や、イリコと同じで出汁を取るのさ。昆布は、北の民が良く使う出汁の材料でね。イリコは、私達の料理で良く使っているだろう。それでねっ、この鰹節は、南洋の民が良く使う出汁の材料なのさ。中でも、この五本は、王様が、一番上等の物から選んでくれたのさ。この三つの出汁の素を、色々組み合わせると、様々な味が出せるんだよ」と教えてくれた。確かに、単純に考えても、六通りの味が作れるし、それぞれの割合を、少しずつ変えれば、無限の出汁が作れそうである。

 それにしても、テルお婆の船箪笥には、変な物も沢山入っている。何かの根っこが有った。とても、食べ物ではなさそうだ。「これ、何?」って聞いたら「葛根(かっこん)さ。葛(くず)の根だよ。ほら、蔓(つる)で籠(かご)なんかを作るだろう。あの葛さ。大きいものなら、葛粉が取れるけどね。葛粉は、葛餅(くずもち)の材料さ。ピミファも、ヒムカも大好きだろう。葛餅」と教えてくれた。私は、あのぷるぷるして美味しい葛餅が、こんな変な根っこから出来ているとは初めて知った。そして、テルお婆は「でも、これは小さいから薬に使うのさ。悪寒が走ったら煎じて飲むのさ」と付け加えた。更には、蛇を黒焦げにした物や、何かの骨まである。私はその骨を恐る恐る抓み上げ「この骨は何? 何に使うの?」と聞いてみた。テルお婆は「嗚呼、それは人魚の骨さ。不老長寿の薬にもなるのさ。私は水に溶いて麺に使うけどね」と、いたって普通に教えてくれた。「えっ!!人魚っているの……?」と聞くと、テルお婆はふたたび普通に「暖かい浅瀬の海に住んでいるらしいよ。そこでは、ジュゴンって呼ばれているらしいが。何でも人の形をした海豚のような生き物らしいねぇ」と、教えてくれた。

 テルお婆の船箪笥は、とても普通の貴婦人の船箪笥では無い。香美妻や、ラビア姉様の船箪笥は、美しい着物でいっぱいだ。私の船箪笥だって、サンダルや、塗箸や、蚊帳に交じって、美しい巫女舞の着物が入っている。ところが、テルお婆の船箪笥には、粗末な服が二着有るだけで、後は、皆変な物ばかりだ。そして、全部料理の材料である。だから、テルお婆の船箪笥は、医食同源の魔法の箱である。その魔法の箱から、那加妻が、何やら黄なみがかった黒い実を取り出した。「那加妻、それどうするの?」と聞くと、「これは、クチナシの実です。これで黄色いご飯を炊こうと思っているんです」と答えた。そして、「黄色は、おめでたい色でしょう。今夜は、ヒコミミ(日子耳)のお誕生日なのです。だから黄色いご飯でお祝いの膳をこしらえようと思っているんです」と、言った。メラ爺の森の小屋には、炊事場や、宴会場は無い。だから、私達の食事や、宴会は、高牟礼族長の屋敷で行っている。高牟礼族長の屋敷には、ヒコメの忘れ形見であるヒコミミ住んでいる。ヒコミミは、ホオミ(火尾蛇)大将の息子なのだが、大将は、狗奴国で忙しくしている。その為に、この屋敷で、お祖父さんと、お祖母さんに育てられている。私や、ユリ(儒理)と同じだ。那加妻は、ヒコミミとすっかり仲良しになっている。七つ違いの二人は、まるで仲の良い姉弟のように見える。その歳の違いも、私やユリ(儒理)と同じだ。

 那加妻は、私と同じ歳だから十三歳か十四歳だ。早い子ならもう嫁に行く歳である。香美妻は、三つ歳上で、ヒムカと同じ十六歳だ。だから、幼馴染の半数はもう嫁に行っているらしい。子供さえいる友達も、一人や二人ではないと言っていた。娘達は、二十歳を過ぎれば「行き遅れ」と言われ、だんだん肩身が狭くなる。私は「行き遅れ組」に入りそうな気がする。私の感では、香美妻も「行き遅れ組」の同志になる気がする。志茂妻に至っては、学者肌の「行かず後家」と呼ばれそうだ。もし、そう成りそうだったら、私が強引に夏羽(ナツハ)の嫁にしてやろう。そうしたら、私と、志茂妻は姉妹だ。楽しくなりそうである。夏羽にも賢い子が出来ないと、コウ(項)家の行く末が不安である。きっと、夏希義母ぁ様も喜んでくれるだろう。でも、これは、あくまでも私の空想だから案外、私や、香美妻より先に嫁に行くかもしれない。やっぱり、不安なのは、私と、香美妻である。二人とも、少しだけ意地っ張りな所があるから、気が弱い男の子達には、遠慮されるかもしれない。そうなったらどうしよう。まぁ~でも、あまり早くから悩んでもどうしようもない。きっと、神様が成るようにして下さるだろう。やっぱり一番無難に嫁に行きそうなのは、那加妻だろう。那加妻は、今でも私のお母さんのようである。那加妻が傍にいてくれると、本当に心が安らぐ。ヒコミミも、すっかり那加妻に懐いている。見たことのない母の面影を、重ねているのだろうか。タケル(健)には「ほらほら、これがお前の母ぁ様だよ」と、香美妻に合わせてやり、ユリ(儒理)には「ほらほら、これがお前の母ぁ様だよ」と、那加妻をゆっくり紹介したい。儒理と、那加妻は、伊都国で一度出会っているが、あの時は、慌ただしくて、ゆっくり話も出来ていない。それに、私もあの時は、気付かなかったけど、旅を続けるうちに、那加妻に、母ぁ様の面影を見始めたのだ。志茂妻は、ジョ(徐)家の女だが、那加妻は、ハク(帛)お婆と同じ大きな包容力を感じる。だから高木の神の娘なのであろう。高木の神は、月の神様のように、やさしい神様なのだろう。ヒムカと同じやさしさだ。ヒムカは、火の巫女であり、黄泉の巫女でもあるから、月読から生じた日巫女なのだ。イン(尹)家の神様は、太陽神で有り、イン(尹)家はその陰である。だから、イン(尹)家には、日読から生じた日巫女が多い。でも母ぁ様は、ヒムカと同じ月読から生じた日巫女だったそうだ。母ぁ様は、お祖父様のデン(田)家の血を強く引いていたのだろう。海に生きる民は、月読を頼って暮らしている。月は、闇を照らす明りである。特に春の月は陽気に満ちている。だから、慈愛に満ちた光なのだ。天照す太陽は、闇を産み出す光でもある。だから、イン(尹)家の巫女は、闇の巫女であり、戦さ場の巫女になった。灼熱の太陽のように、陰気を吐き悪しき兵を焼き尽くすのだ。でも悪しき者は、正しき者に因って生みだされた影でしか無い。だから、太陽の荒々しい陽気が、陰気を生んでいる。悲しい話である。しかし、陰気もないと大極は生じない。そして、モノの中に潜む陰と陽は、反転する。陽気に包まれた人も、ある時は、悲しみに打ちひしがれ、陰気を纏った人も、時には歓喜の包まれることもある。だから、悲しみと喜びは、陰陽が反転するように、裏腹な感情である。

 ハイムルと、ニヌファは、モユク爺さんに甘えてばかりいる。ハリユン若頭が、二人の守役を解いた理由が良く分かる。ハイムルは、南洋の海の民だから、ホオミ大将のような入れ墨を顔に刻み始めている。でもその勇ましい入れ墨は、まだ似合っていない。ヒコミミは、ホオミ大将の息子だが、高木の神の子なので入れ墨は無い。でも、ひ弱だと言われても、ハイムルに比べたらまだしっかり者である。ハイムルは、ヒコミミより七つも歳上なのに情けない。スサト(須佐人)に鍛えて貰わないといけないようである。でも、ラビア姉様は、ハイムルは、とても商人としての才能があると褒めていた。ヒコミミは、部族長に成る男である。だから武人である必要がある。しかし、ハイムルは交易商人なる男である。無理をして強い男になることを求める必要は無いのかも知れない。それに人の強さとは武だけではあるまい。

 ラビア姉様の商学の塾は、佐留志族長の屋敷で開かれている。だから、ラクシュミーさん親子も、ラビア姉様と一緒に佐留志族長の世話になっている。剣の項荘と、徒手の項佗と、槍の項冠は、メラ爺の森の小屋から、佐留志族長の屋敷に通っている。そもそも三人は、私の護衛隊長なのだから当たり前である。そして、コウ(項)家二十四人衆も、私の周りの小屋に分散し住んでいる。それから、二十人衆は、元の二十四人衆に戻っている。ヒムカの護衛にあたらせた四人を呼び戻した訳では無い。話を聞いたシュマリ女将が、屈強な川筋衆から四人を補充してくれたのだ。もちろん、人選は項荘と、項佗と、項冠の三隊長が行ったので精鋭である。そして四人は徒手の手錬れであった。

 シュマリ女将が、ハリユン若頭の意向を持って帰るのは、早くてもまだ五日は掛かるだろう。私は退屈になり始めていた。ホオミ大将のような人は、残念ながらトウマァ(投海)国にはいなかった。だから、楽しい接待は無い。ところが、退屈さで溶けてしまいそうになっていた三日目に、大変な難題が持ち上がった。高牟礼族長から、那加妻を、是非に貰い受けたいと懇願されたのだ。もちろん、ヒコミミの妻にでは無い。高牟礼族長の養女にしたいというのである。そして、亡くなったヒコメに代わり、高木神の巫女に成って欲しいというのだ。この願いは、メラ爺と、後の二人の族長からも強い意向として出されているそうである。考えれば那加妻は、高木の神の娘だからおかしな話ではない。しかし、イワイ(磐猪)軍団長や、タマタレメ(玉垂女)族長に相談せずに決められる話ではない。私は、これは那加妻にとっても良い話だと思った。ヒコメ様に代わりということは、ヒコミミの母様になることでもある。それに、将来、ホオミ大将の妻になることだって考えられる。何故なら、ヒコメ様は、ホオミ大将の妻だったのだから。でも、高牟礼族長は、そこまで願っている訳ではない。今は、何としても高木神の巫女を立てたいという一心である。私は、那加妻に、どう思うかと尋ねたが、那加妻は、困ったような顔をして黙ってしまった。私は、香美妻お姉ちゃまに相談したが、香美妻お姉ちゃまは、あっさりと「良い話です」と言った。そして、「那加妻が、ホオミ大将のことを好いているのは、日巫女様もご存じでしょう。ですからこの話を嫌がっているとは思えません。でも、きっと那加妻は、日巫女様のお傍を離れるのが寂いしいのでしょう」と付け加えた。そこで私は、「ヤマァタイ(八海森国)への使いを出したいが、誰かいないか」とメラ爺に頼んだ。すると、メラ爺は「ワシがひと駆けしてこよう」と言ってくれた。有難い話である。メラ爺なら四日もあれば返事を貰って帰るに違いない。

 それから、三日後、シュマリ女将が戻ってきた。そして、一緒にホオミ大将が付いて来たのだ。ハリユン若頭と、チヌー母様は、この後もハイムルと、ニヌファを、私に同行させることを望んだらしい。しかし、天海親方夫婦は、やはり難色を示したらしい。そこで、若頭は、ホオミ大将に説得を頼んだのだ。天海親方夫婦も、大将からの説得となれば断りきれなかった。だから、改めて私に二人を頼みたいと挨拶に来てくれたのだ。その日、ホオミ大将は、久しぶりに我が子ヒコミミと床を一緒にした。二人は、かなり遅くまで親子水入らずの話を重ねたようだ。更に翌日、メラ爺が帰ってきた。磐猪軍団長に、玉垂女族長。そして、ハク(帛)女王の三人からの返事は「那加妻のことは、日巫女様に一任します。」というものだった。だから、その夜の宴は、それぞれの門出を祝う宴となった。私は、皆を前にして、まず、那加妻に「宇沙都に留まり、高木の神の巫女に成りなさい」と沙汰をした。那加妻は「仰せつかりましたこと。謙命に努め申し上げます」と深く頭を下げた。同じように、高牟礼族長も、頭を地に付け「めでとうございます」と涙をこぼした。メラ爺は「良かったのう。これで、トウマァ(投海)国でも、ふたたび、宇気比(うけい)が行われるのう」と、クラジ(秦倉耳)親方と、佐留志親方の肩を叩いて喜びあっていた。私は、大将に向きなおり「那加妻のことは、ホオミ様にお預けします。那加妻は、高木の神の娘です。しかし、トウマァ(投馬)国は、那加妻にとって異国の地です。だから、独りで淋しい思いをすることもある筈です。そのような時には、是非、ホオミ様のご厚情をお願いいたします」と、願いを述べた。すると、香美妻も「那加妻をお願いします」と深く頭を下げた。大将は、一瞬戸惑いを浮かべ、そして直ぐに笑顔を浮かべると「ワシに何が出来るか今は分かりませんが、ワシに出来ることなら何なりと行いましょう」と、いつものように豪快に笑い答えてくれた。

 翌朝は、曇り空だった。天気は崩れそうである。台風が近づいているのかも知れない。そんな不安な海へ軍船は、那加妻と、猪月親子を残し出航した。ハイムルと、ニヌファには、モユク爺さんと、シュマリ女将が付いてくることになったので、猪月親方は、お役目から解放されたのだ。でも、マンノさんは、残念そうにしていた。もっと、ラビア姉様から学びたいことがあったようである。テルお婆は、船箪笥の中身の半分を、ナカツの為に残した。そして、那加妻に入用な物があれば、何でも手配してくれるよう猪月親方に頼んでいた。もちろん代金は、アチャ爺払いである。アチャ爺は、心の中で嫁入り道具の算段をしていた。もし、那加妻が嫁に行くとなれば、ハタ(秦)家としても、最高の祝いの品を贈らねばならぬ。那加妻は、カメ(亀)爺の義理の姪である。そして、この三姉妹を、ジョ(徐)家の誰よりも可愛がってきたのだ。財貨を惜しむはずはない。そして、アチャ爺にとっても義理の姪である。ここは、アチャ爺の腕の見せ所である。

 軍船は、サラ、フラ、レラのおしゃま娘を降ろしてしまったので、すっかり静かになってしまった。だから、なんだか寂しくもある。それに、空模様も益々悪くなってきた。この先には、ツクシノシマ(筑紫島)と、アキツノシマ(秋津島)を隔てている穴戸(アナト)海峡があるそうだ。そして、その海峡には、とても潮の流れが早い瀬戸があるらしい。だから、穴戸海峡に入る前に、企救津(キクツ)の湊で潮待ちをすることになった。伊都国に帰り着くのは、三日後に成りそうだ。空には、むくむくと灰色の雲が泡立ち、そして、北に向かって急ぎ足で流れ出した。どうやら台風が近づいている気配濃厚になってきた。私は、昔から台風が大好きだ。台風が近づくと、なんだか胸がワクワクして来るのだ。どうせ、私は変わり者だから、嵐の海でも楽しく感じてしまうのだろう。でも、皆はやっぱり嵐の海は、遠慮したい筈である。だから私は、素直に軍船が嵐に合わないように祈ることにした。

~ 伊都国への帰還 ~

 暗雲が垂れこめ鯨海は、玄ろき海肌をうねらせていた。何て美しい海なんだろう。まるで黒龍のようではないか。私は、わくわくしながら荒れる波間を見つめていた。でも、皆はこの荒海に乗り出す蛮勇など持ち合わせていない。だから、クラジ(秦倉耳)族長は、クキノウミ(洞海)に軍船を導いた。ここは、北の大きな島が風と波を遮ってくれるので穏やかな海である。でも、とても浅い海なので、水先案内がなければ、大きな船は進めない。クラジ(秦倉耳)族長の妻であるツブラメ(螺裸女)女将さんは、クキノウミ(洞海)の西の出口クキド(岫門)の生まれである。だから、海の底まで手に取るように分かるそうである。キクツ(企救津)で潮待ちをして、穴戸海峡に入ったが、噂にたがわぬ早い潮である。少しでも油断をすれば、岩肌に叩き付けられるだろう。しかし、オマロ船長は、ソノギ(彼杵)沫裸党の男である。早い瀬など、子供の頃からの遊び場だった。それに、この海峡に詳しいクラジ(秦倉耳)族長が、案内に就いてくれた。そして、そのままクラジ(倉耳)族の暮らすミマキ(水巻)まで、ツブラメ(螺裸女)に、クラミミ(秦鞍耳)の親子も同行することになったのだ。クラミミ(秦鞍耳)は、ウネと同じ位の歳に見えた。とても精悍な男である。私には、タカシ(高志)組頭に重なって見えた。クラミミ(秦鞍耳)は、十二歳の時から、ホオミ(火尾蛇)大将の元で修業をしているそうだ。だから、ハリユン(晴熊)若頭の弟弟子でもある。

 穴戸海峡は、無事に航行で来たが、鯨海は、大荒れだった。これでは、台風が過ぎるまで風待ちをするしかない。幸い、クキノウミ(洞海)は穏やかで、クキド(岫門)を抜けると水巻(ミマキ)らしい。水巻に出ると、岡の川と云う大河に出るそうだ。それを右に下れば、岡の門を通って鯨海に出るようだ。そして、左に川を遡れば、ムショウツ(虫生津)という川港があるそうである。そこから程なく歩いた丘の上に、クラジ族長の屋敷は在ると云うことだった。そして、私達の一行も、クラジ(秦倉耳)族長の屋敷で、台風が通り過ぎるのを待たせてもらうことになった。しかし、軍船では遡れないので、軍船は、岡の門の入り江に停泊させた。そして、水巻のワニ達の舟で、虫生津まで送ってもらった。

 虫生津に着くと、黒い石を積んだ川舟が目についた。私が不思議そうに見ているので「あれは、焚石(もえいし)です」と、クラミミ(秦鞍耳)が教えてくれた。「焚石ですか?」と、私が首をかしげていると、彼は「あの石には火がつくのです」と、笑いながら言った。私は、からかっているのだろうかと思い、「この世に、燃える石などあるのですか?」と、怪訝そうな顔を向けて聞いた。「はい、だから焚石と呼んでいます。ひとつ持ってみますか?」というと、焚石を積んだ船頭に、数個だけ焚石を持ってこさせた。そして、その一個を、私が恐る恐る手にすると「大丈夫です。そのままでは燃え出しませんから」と、クラミミ(秦鞍耳)は、愉快そうにいう。「どうしたら燃えるの?」と聞くと「火の中に放り込むのです」と言い川原で、焚き火をしていたお婆さんに、数個投げ渡した。私達の話を聞いていたお婆さんも面白がって、炭火になっている辺りに、焚石を放り込んだ。すると、程なくパチパチと、火の粉を散らしながら焚石が燃えだした。私は驚いて「へぇ~石が燃えている。」と、焚き火を覗き込んだ。お婆さんは、愉快そうな声を出し「炭火より長持ちするけんねぇ、そいに、火の力も強いんだ。だから、煮炊きには重宝するよ。ばってん、沢山は取れんけん。貴重品たい」と教えてくれた。クラミミ(秦鞍耳)の話では、この奥の山で、少しだけ取れるらしい。そして、焚石のことを教えてくれたのは、メラ爺達山の民らしい。メラ爺達は、山歩きをする時に、焚石を、少しだけ持っていくそうだ。そして、雨に遭って薪が濡れてしまった時、焚石なら楽に火が起こせるらしいのだ。確かに、石だから雨に濡れていても拭けば良いのだ。それに細かく砕き火着けの綿にまぶすと簡単に火が起こせるそうである。確かに便利な石である。

 私は、台風泊まりをしている間に、クラミミ(秦鞍耳)から面白い話を沢山聞いた。だから、今度は退屈せずに待てた。中でも興味をひかれた話は、タケル(健)や、ヒムカ(日向)と、クラミミ(秦鞍耳)の関係だった。何と、三人は、曾祖父様まで遡ると、同族になるというのだ。つまり、彼のお祖父様は、タケルや、ヒムカのお祖父様とは兄弟だったのだ。だから、曾祖父様は、オシホ(忍穂)なのだ。私は、ホオリ王の「先祖からの物語では『我が一族は空飛ぶ磐船(いわふね)でこの地に降り立った』と語り継がれています。磐船とは鉄で覆われた軍船です。そして、鉄の軍船に乗りに最初にツクシノシマ(筑紫島)にやって来たのは、私のお祖父様でした。そして、名をオシホ(忍穂)と言いました。オシホ(忍穂)祖父様は、軍船でやってきましたが戦さは嫌いでした。鉄の軍船磐船を作ったのも、戦さから無事に逃げ伸びる為だったようです。ですから、空飛ぶ磐船で降り立ったというのは、『飛ぶような勢いで戦さ場から逃げて来たからだろう』と、私は解釈しています。」と、聞かされた話を思い起こしていた。クラミミ(秦鞍耳)のお祖父様は、ホハヤヒ(穂早日)という名だった。そして、タケルや、ヒムカのお祖父様ホニギ(穂仁義)の兄様だ。ホニギ(穂仁義)は、南に向かい狗奴国の地で王と成ったが、兄のホハヤヒ(穂早日) は、北に戻っていたのだ。そして、息子達を、トウマァ(投馬)国の穴戸海峡から中ノ海を東へ向かわせたそうだ。だから、クラミミ(秦鞍耳)の伯父さん達は、中ノ海の東岸にあるチヌノウミ(茅渟海)の辺りにまで広がり暮らしているそうだ。つまり、オシホ(忍穂)祖父様は、イホミ(伊穂美)の子孫のホ(穂)族なのだ。ホオリ王からは、私の先祖がイアタ(伊阿多)だと教えてもらった。そして、伊都国のウス(臼)王のご先祖様は、イサミ(伊佐美)王だから、ご先祖様を遡れば私達はどんどん繋がっていくじゃないの。こんな愉快なことはないわ。私は、もっともっと、ご先祖様達のことを知りたがったが、台風は逸れてしまった。

 翌朝、風はまだ強いが、うす雲がどんどん北西に流れていく。どうやら台風は大きく西に反れたようだ。鯨海の波は、まだ高くうねりもあるが、この大型軍船なら航海出来るだろうということだった。それに、台風は軍船よりも早いので、私達が西に向かっても台風に追いつくことは無い。でも、荒れた海を行くことにはなる。しかし、これ以上グズグズしていたら、本当に年内にはジンハン(辰韓)国に行けなくなりそうである。私達は先を急ぐことにした。岡の川を下り、水巻を過ぎると、波が高くなってきた。でも、まだ川である。揺れは小さい。軍船に乗り換え、岡の門から、鯨海を臨むと、所々で白波が砕けていた。高い波なら人の倍近くは有りそうだ。それでも、オマロ船長は、何の躊躇もなく鯨海に軍船を乗り出した。もちろん真帆では無い。片帆で様子を見ながら航行している。そして、重しの石も普段より多く積んで、喫水線を下げたようだ。そうしておけば、帆に突風が吹きつけても、転覆する危険が少なくなるようである。船長の予測では、この後、風は更に東寄りから吹いてくるだろうということだった。そうすると、数段に船足は早まるそうだ。しかし、奴国の沖で潮の影響を受けそうなので、伊都国に着くのは日暮前だろうと云うことだった。テルお婆と、香美妻は船楼から出てこない。二人とも酷い船酔いになっているのだ。ハイムルと、ニヌファは平気らしい。流石は、南洋の海の民の子だ。他の皆も船旅に慣れている者ばかりなので平気である。那加妻は、宇沙都に留まって、この点でも幸せであった。香美妻と、那加妻は、川舟には乗り慣れていても、荒海を行く船には慣れていない。川浪は、人の背丈の何倍にもなることはない。川旅で怖いのは激流だ。でも、激流で船酔いをする人はあまりいない。もしかすると、恐怖で船酔いなどしているゆとりが無いのかもしれないが、川旅で船酔いをする人は稀な人であろう。海の潮流は、渦潮を除けば、早くても川の瀬ほど急流ではない。海で怖いのは波だ。船は、一気に小山ほどの高さに持ち上げられ、そして谷底に落ちていく。それを、何度も繰り返すのだ。だから、五臓六腑は、てんてこ舞いである。慣れていないと、誰しも吐かずにはいられない。私は、海女だからデン(田)家のオウ(横)爺に、何度も外海にも連れて行ってもらっている。その為に荒波も平気だ。否むしろ好きな方である。べた凪の退屈な海より、よほど楽しい。軍船と違って漁舟は底が浅い。だから、高波に揺られたところに、突風を受ければ小舟など簡単に転覆してしまう。私はその転覆も大好きなのである。もし、将来私が、自分の漁舟を持てたら名前は「てんぷく丸」にするつもりだ。でも、そんな舟名だと、怖がって香美妻は、一緒に乗ってくれないかも知れない。それでも私は「てんぷく丸」にするのだ。そして、香美妻を強引に乗せるのだ。船酔いは慣れるしかないし、海を旅するなら転覆慣れしておかないといけないのだ。オウ爺は、まだ、小さかった私を小舟に乗せて、何度も転覆させたものである。そして、笑いながら「どうだ。馴れたか。楽しいだろう」というのである。香美妻にも海の旅に慣れてもらわないといけない。だって、私は香美妻と、どこまでも旅をしたいのだ。

 昼過ぎに奴国の岬が見えてきた。ナノツ(奴之津)の湾が、きらきらと輝いて見える。鐘の岬からここまでは、とても素敵な砂浜が続いていた。アタ(阿多)国の吹上の浜にも負けない位に、長い砂浜の海岸である。磯場が遊び場だった私には、あこがれの浜である。こんな浜なら、いくらクマト(熊人)や、ハイト(隼人)が暴れまわっても、怪我をすることは無いだろう。ジンハン(辰韓)国から戻ってきたら、絶対に二人を連れてこよう。そう思いながら私は、船縁に顎を乗せて白砂青松を飽きることなく眺めていた。随分と日が傾きかけて来た頃、ソソギダケ(層々岐)岳が見えてきた。ところが、軍船は、奴之津の湾に入って行った。どうやら、伽耶(カヤ)山には向かわ無いようだ。オマロ船長の話では、伽耶山まで回り込まなくても、この湾の西側から伊都国の港に入れるということだった。そして、どうにか日が落ちる前に、私達は、ウス(臼)王の三雲(ミクモ)の館に帰り着いた。嗚呼、やっと伊都国に帰還したのだ。本当に長い旅だった。伊都国を発って、既にふた月が流れていたのだ。そして、出迎えてくれたウス(臼)王の目には、薄らと涙が光っていた。私は、王妃のククウォル(朴菊月)姉ぇ様と抱き合って泣いた。それから、新しい旅の仲間を、王様と王妃様に紹介した。王様も、天竺の人に会うのは、初めてのようで、ラクシュミーさんと、アルジュナ少年に、緊張の趣で挨拶された。ラビア姉様と、ククウォル姉ぇ様も、面識が無かった。しかし、ククウォル姉ぇ様は、ジンハンの言葉が通じるラビア姉様と、直ぐに打ち解けた。二人は、それから長いことジンハンの言葉で楽しそうに話をしていた。ハイムルと、ニヌファも直ぐに、王様のお気に入りになった。モユク爺さんと、シュマリ女将さんは、伊都国の洗練された雰囲気にすっかり飲まれていた。リーしゃんは、私達が帰還したと聞いて、店を放り出して飛んで来てくれた。そして、テルお婆の手を取ると、オイオイと男泣きをしていた。私達の帰国の宴が始まると、私は、さっそく王様に、ウネの農学の話をした。もちろん農学の難しいところは、アルに補足させた。王様は、農学の話に甚く興味を抱かれ、是非にもウネに、教を乞いたいと言われた。そして、何としても、ウネを、伊都国に招きたいと、シュマリ女将に、交渉をされ始めた。ククウォル姉ぇ様には、チリン(知林)島の奇跡と、カゴンマ(火神島)の海のことを話した。もちろん、ラビア姉様と交互にである。特に、口で言い表せない位に感動した処は、ラビア姉様に、ジンハンの言葉で話してもらった。そういえば、私は、この旅でもジンハンの言葉を学んでいない。私だって、半分ジンハン人なのだから、話せなくては、不便なことに成りそうだ。明日からでも、ククウォル姉ぇ様と、ラビア姉様のふたりに、習い始めないといけない。マハン(馬韓)国の言葉は、少しだけ違うらしいが、ほとんど、ジンハンの言葉と同じらしい。だから、ジンハン語が話せれば、マハン国の人とも話が出来るようだ。今度ウネに会ったら「アンニョン」と、言ってみよう。そして別れる時には「オサラバ」と、言ったら、どれだけ驚くだろう。私は、その楽しみの為だけでも猛勉強をしようと思った。

 翌朝、私達は、慌ただしく旅支度を始めた。今度の潮に乗らないと、もう今年はジンハン国には行けないようだ。だから、猶予は一日しかない。一日でこれまでの旅の疲れを癒し、そして、次の旅への活力を取り戻さないといけないのだ。ラクシュミーさん親子と、ラビア姉様は、ピョンハン(弁韓)国まで同行し、そこから西域の旅に立つようにしている。ハイムル達は、しばらく伊都国を楽しみ、冬が来る前には、狗奴国に帰る予定である。私は、槍の項冠を隊長にして、四人の川筋者に輿を担がせて送らせることにした。そもそも四人の川筋者は、シュマリ女将の手下なので、返しただけの話である。それに、項冠が付いているので、例え山賊が出る山道でさえ心配はいらない。モユク爺さんは、全く武力には縁がなさそうだが、シュマリ女将は、なかなかの女傑であった。そもそも、女将は、天海親方の徒手の弟子だったようだ。私は軍船の甲板で、徒手の項佗と、女将の組み手を見せてもらったが、徒手の項佗と、互角の腕なのだ。だから、ハイムルと、ニヌファには、四人の川筋者を含めて、六人の護衛隊が付いているのだ。そこらの山賊が襲える相手ではない。ハイムルは、ラビア姉様について行きたい様子だ。商学を学びたいという強い思いも衰えていないが、それに加えて、ラビア姉様が初恋の人になったようである。彼は、私と同じ歳だから、ラビア姉様より七歳年下だ。だから、婿に選んでもらえないこともない。私が、クマト(熊人)や、ハイト(隼人)や、タケル(健)を婿にしてやるようなものである。だから、頑張れハイムルと、言いたいところだが、ふたりは、あまりにも進む道が違いすぎる。ラビア姉様が、西域に旅立てば、数年は帰国しないであろう。早くて五年、長ければ十年の旅に成るかも知れない。以前、サラクマ(沙羅隈)親方と、ラビア姉様が、西域を廻った時は、六年の旅になったそうだ。だから、十年後に帰って来たラビア姉様は、可愛い幼子を抱いているかも知れない。そして、傍らには、加太やサラクマ親方のように、彫り深い顔をした異人がいることだろう。そうなれば、ハイムル(吠武琉)の初恋は、悲恋に終わりそうだ。ニヌファも、何故だかあまり帰りたがっていないようである。しかし、これ以上は、天海親方も許してくれないだろう。だから冬前には、狗奴国に帰さないといけない。テルお婆と、香美妻は、早くジンハン国に行きたそうだ。テルお婆は、一刻も早く明人叔父さんに会いたいし、香美妻も、そろそろ志茂妻に会いたくなって来たのだ。私も、早くユナ(優奈)に会いたい。

 旅立ちの宴が始まる直前に、狭山(サヤマ)組頭が息せき切った様子で到着した。そして、尋常な様子ではない。私は、ヤマァタイ(八海森)国で、戦乱でも起きたのだろうかと心配になった。幸い戦乱では無かった。が、それは、とても悲しい知らせだった。私の傍らでテルお婆が嗚咽を漏らした。そして、テルお婆は、止まらぬ涙を拭きもせず、ただ、ただ泣いた。帛(ハク)女王が亡くなったのだ。アチャ爺は、打ちひしがれたテルお婆の肩を抱き「ピミファや、すまんのう。ワシらは、ヤマァタイ(八海森)国に行かにゃならんで、お前の供が出来んようになった」と、私に頭を下げた。すると、狭山組頭が「いえ、日巫女様にも来ていただきたいのです。帛女王からの遺言があるのです」と言った。「えっ、私宛の遺言ですか?」と、私が聞き返すと「はい。ですが私達は、遺言の中身を知りません。遺言は、私の母が直接、日巫女様にお伝えするそうです。ですから、どうしても来ていただきたいのです」と、狭山組頭は答えた。私は、「判りました。私も帛女王には、大変お世話になりました。是非私も葬列に加えてください」と即答した。

ところが、テルお婆が「駄目じゃ。ピミファは、ジンハン国に向かえ。そうしないと、もう父様やユナ(優奈)に会えなくなるかも知れんぞ」と言い出した。私は「大丈夫よ。テルお婆。私達はまた、春になったらジンハン国に向かえば良いのだから。今は私も、ヤマァタイ(八海森)国に連れて行ってよ」と、テルお婆の手を取って頼み込んだ。でもテルお婆は「駄目じゃ。私にはこの機会を逃したら、もう、お前とユナ(優奈)が会えん気がする。ユナ(優奈)に会いたかったら、明日の朝、ジンハン国に向かうのじゃ」と、言い張った。私は途方に暮れてアチャ爺を見た。アチャ爺は、テルお婆に向かい「ワシもお前と同じ気がする」と言った。私は、絶望的な目で狭山組頭を見た。しかし、組頭も項垂れたままで顔を上げようとしない。ところが、アチャ爺が話を続けた。「お前が、姉様と会えんように成ったように、ワシにも、ピミファと、ユナ(優奈)が会えんようになる気がする。じゃがなぁ。もしそうなら、それも定めよ。どうやら、姉様の遺言には、ピミファの将来に、とても大事なことが含まれている気がする。ワシより、帛女王のなさりようは、お前の方が、察しがつくのではないか。のう、ここは、ピミファの我がままを通してやろうじゃないか」と、テルお婆を、説得し始めたのだ。更に、狭山組頭が顔を上げ「テル叔母様。何とぞお許しください」と、説得に加わってくれた。そしてウス(臼)王までもが「私もアチャ様の意見が気になります。これは倭国の運命にも係わりが有りそうな気がします。どうぞ、テル様。お許しください」と、説得してくれた。これではテルお婆も「駄目じゃ」とは言えなくなった。

~ ヤマァタイ(八海森)国への帰還 ~

 まだ、夜が明けぬ薄闇の中を、私達は出発した。私と、香美妻に、テルお婆、そして、ラビア姉様と、ウス(臼)王に、ククウォル王妃は、六台のコウ(項)家二十四人衆の輿で山越えをすることにした。アチャ爺は歩きである。実は私が歩きたかったのだけど、今回は一日で山越えをすることになった。だから、私が歩くと返って足手まといなのだ。実は、アチャ爺の方が私の数倍健脚なのである。歳は取っても、やっぱり東海一の暴れ者は健在なのだ。他の皆は、軍船でヤマァタイ(八海森)国に向かうことにした。ラクシュミーさん親子も、一旦帰国を延ばしてくれることになった。ハイムルと、ニヌファの兄妹に、モユク爺さん、シュマリ女将の伊都国見物もお流れになった。でも、四人とも軍船で帰国出来る方が楽なので異存は無かった。コウ(項)家二十四人衆の輿の乗り心地は、格段に悪くなったが、速さの方が優先される。瀬渡りをする時などは、船酔いならぬ輿酔いしそうな様子だったが、夕日が沈む頃には山の中腹からヤマァタイ(八海森)国の灯りが見えてきた。

 ところが、里に降りると、どことなく様子が違う。しばらく、村内(むらうち)を進むうちに、私は気づいた。夕餉を作る竈(かまど)の煙が立っていないのだ。更にしばらく進むと、人の気配が少ないのに再び気づいた。どうやら、この村には、小さな子供と足腰が弱った老人しかいないようなのだ。次の村も、やはり同じ様子だった。そして、次の村も。やがて、米多原(メタバル)の館が近づき、私は、その理由がわかった。館は、幾重もの人垣で取り囲まれていた。そして、慟哭が、夜霧のようにヤマァタイ(八海森)国を覆っていたのだ。ツクシノウミ(筑紫海)は、無数の舟の灯りでゆらゆらと波打っていた。不知火の灯もこんなに奇麗なのだろうか。灯りは皆、米多原の館に向かって来ていた。ふと、テルお婆を見ると、テルお婆の頬もキラキラと輝いていた。テルお婆の涙は、枯れることを知らないのだろうか。アチャ爺は、ずっとテルお婆の輿の前を歩いている。時折テルお婆の顔を覗き上げ「うんうん、うんうん」と頷いている。私にも、こんな優しい夫が来てくれるかしら。私は、テルお婆が、少し羨ましかった。

 私達の輿が米多原の館に進むと、人垣が割れた。皆、静かに道を開けてくれたのだ。そして、皆が私を見上げて手を合わせている。何故だろう? 私が、帛(ハク)女王の魂返しの儀式を執り行いに来た。と、思っているのだろうか。でも、組頭は、そんなことは言わなかったので、きっと女王の葬儀は、ヤマァタイ(八海森)国のやり方で行われるのだろう。それに、太布(タフ)様は、風の巫女だし、きっと、次の女王だろうから、魂返しの儀式も、太布様が執り行われるだろう。館の門をくぐると、コウ(項)家二十四人衆の動きが変わった。皆、整然と足並みを揃えて、厳かに進み始めたのだ。私は、緊張し始めた。そして、社に安置された女王の亡骸の前でゆっくり止まった。亡骸の前には、十二人の女族長と、十二人の軍団長が座していた。そして、帛女王の亡骸の傍らで、カメ(亀)爺がうなだれていた。私の席は、亡骸を挟んで、二十四人の長老達に向き合うように置かれていた。私が席に着くと、狭山組頭と、高志(タカシ)組頭が、私の両隣に片膝を落として座った。そして、皆が一斉に、私を拝む様にひれ伏した。私は、この異様な光景に胸騒ぎが高まった。どうしたのだろう? 何で皆は、私にひれ伏しているのだろう? 私は、助けを求めるようにカメ爺を見た。カメ爺は、そっと顔を上げると、沈み込んだ声で「ピミファや。済まんかったのう。父様やユナ(優奈)に会えんようにしてしもうたのう」と、優しく声を掛けてくれた。その声を聞いた途端に、私は、帛お婆を亡くした悲しみが込み上げてきた。私は、カメ爺に駆け寄ると涙が溢れてきた。カメ爺は、私の頬の涙を拭き取りながら「ピミファや。そんなに泣くな。帛は、お前が来てくれて喜んでおる」と言った。それから、「太布や。皆揃うたようじゃ。帛の遺言を皆に知らせてくれ」と言った。太布お婆は、ゆっくりと面を上げると、まっすぐに私を見た。でも、本当に太布お婆は、テルお婆と瓜二つだ。こうして二人が並んでいても、ますます二人は良く似ている。私は、太布お婆とは、先回会ったのが初めてだ。でも、ず~っと、昔から傍にいてくれた気がする。やっぱり私には、太布お婆と、テルお婆が重なって感じられるのだ。

 ところが、その太布お婆の口からは、驚くことが告げられた。それは「では、皆に帛女王の遺言を言い渡す。

 「遺言の一、ヤマァタイ(八海森)国の女王は、日巫女様にお願いをする」

 えっ!! 私?! 何故?

 「遺言の二、族長会議は廃止し、族長と軍団長は隠居する」

 えっ!! どうして?! どうなるの?

 「遺言の三、各支族からは、男子を一名選出し、それを頭領と呼ぶ。同じく女子を一名選出し、それを女房と呼ぶ。頭領と、女房には、各役目を与え、この国の新たな官僚となす。女房の取りまとめは、女房頭が行い、初代の女房頭は、淀に召しつける。官僚の長(おさ)は、大頭領と呼ぶ。そして、初代の大頭領は、高志に召しつける」

えっ!!官僚って何?! 高志組頭は、偉い人になるの?

 「遺言の四、各支族は、男子を国軍の兵として徴兵すること。同じく、女子を高木の神の巫女として奉仕させること。国軍の長は、大将軍と呼ぶ。そして、初代の大将軍は、狭山に召しつける。同じく、巫女頭を香美妻に命じる」

 えっ!! 香美妻も、狭山組頭も偉い人になっちゃうの?!

 「遺言の五、これが最後である。倭国の大乱は、まだ収まっておらぬ。皆が安らかに暮らすには、乱を収めなければならぬ。その為に、ヤマァタイ(八海森)国は、富国強兵の新しい国造りを行う。新しい国造りは、若い者が先頭に立ち、汗を流さねばならぬ。私が神様の許に帰るのを機に、国中の年寄りは、皆隠居せよ。ただし、年寄り達が、急いで私の後を追うのは固く禁じる。まぁ、あせらんでも、年寄りは、皆神様の元で時機に会える。のんびり余生を楽しみ、私の元に来ておくれ。

 若い衆よ。倭国の平和は、一心にお前達の肩にかかっている。だが、日巫女様を頂くお前達には勝機がある。さぁ、皆で良い国を造っておくれ。これが私からの遺言で有り、最後の願いだ。皆よこれまで、ありがとう。皆の奮闘を神様の許で見守っておる。日巫女様、頼みましたよ」と、太布お婆は、遺言を締めくくった。

 そして「この遺言は、女王の生前に長老会議で話し合い決めた内容です。私達は、喪が明け次第、女王のご遺志に沿い、隠居の身になります。高志も、狭山も、淀も、香美妻も、女王のご遺志をしっかり心に留め努めよ。日巫女様には、何の相談もないままに、大任をお願いし申しわけありません。しかし、どうぞ帛女王の願いを叶えていただけないでしょうか」

 私は、私の理解度の範囲を超えた話に呆然としていた。香美妻が、そんな私の袖を引いた。私は、ふと我に返り咄嗟に「女王様のご遺志に従います」と答えた。

えっ!!何でそんなこというの? 私はまだ子供で、ただの海女よ。女王なんか勤まる訳が無いでしょう!! と、心の中では叫んでいたが、神様は私にそう告げさせた。その後のことは、呆然として良く覚えていない。とにかく、それからヤマァタイ(八海森)国は、悲しみと歓喜の入り乱れた異様な興奮に包まれた。魂返しの儀式は、二日後に行うことになった。そして、儀式は私の役目となった。

 翌日の夕方、琴海さんの軍船。否、今は私の軍船が、ツクシノウミ(筑紫海)に着いた。そして、続々と各国の族長達も葬儀に集まって来た。この夜、私は初めて倭国の女王ミルカシヒメ(美留橿媛)とお会いした。美留橿媛女王ミソノ(美曽野)様は、琴海さんと同じ舟で来たそうだ。だから、紹介も琴海さんがしてくれた。琴海さんは、少し照れくさそうに「日巫女様、こちらが、美曽野姉ぇさんで、倭国の美留橿媛女王さ」と、ぶっきらぼうに言った。そして「美曽野姉ぇさん。こちらが日巫女様で、末盧国の民の命を、大勢救ってくださった恩人だよ」と、私を紹介してくれた。美曽野女王は、丁寧に私に頭を下げると「まことに、末盧の民を御救いいただき有難うございました」と言って下さった。私は、慌てて「いえ、未熟者で申し訳ありませんでした」と、頭を下げ返した。すると琴海さんが「本当に日巫女様は謙虚すぎるよ。うちの巫女達も言ってたろう。日巫女様ほどの力を持った巫女は、倭国中探してもいないんだって。本当だよ」と言った。美曽野女王が「これこれ、日巫女様に何て物言いをするの。日巫女様お許しください。この娘は、ウツヒ(鬱比表麻呂)叔父様が、溺愛して育てたので、礼儀作法が出来ていないのです。お許しください」と、琴海さんをたしなめながら私に誤った。私は更に慌てて「いえ、礼儀作法が出来ていないのは、私も同じです。以前帛女王が『本当にテルが育てた娘たちは礼儀作法が出来ていない』と、ヨド(淀)様を叱っていましたが、私も、テルお婆が育てた礼儀作法が出来ていない娘の一人です」と、素直に白状した。美曽野女王は、笑いながら「でも、琴海と同じで日巫女様も、とても素直な方のようですね」と言ってくれた。私は、琴海さんを見ながらほっと胸をなでおろした。琴海さんは、帛お婆に叱られた時のヨド(淀)女将のように、ペロリと舌を出して私に笑いかけた。どうやら、末盧国にも平和が戻ったようだ。

 更に二日目の朝には、ホオリ王の名代で、狗奴国からヒムカも来てくれた。ヒムカは、アタ(阿多)国に立ち寄り、ジョ(徐)家の頭領であるフク(福)爺と、イタケル(巨健)親子も乗船してくれていた。フク爺は、私に会うと「ピミファよ。引き継いでくれるそうじゃの。有難うよ。やっぱりピミファが一番じゃ」と、言って肩をポンと叩いた。どうやら、私を帛女王に推薦したのは、フク爺のようである。そして、そのことをフク爺から事前に聞いていたホオリ王は、私への心使いとしてヒムカを名代にしたようである。これは深い配慮である。ふたりの日巫女が倭国の中心ヤマァタイ(八海森)国の地に並び立てば、倭国大乱の火は鎮火に向かうだろう。そして、何よりもヒムカがそばにいてくれることで、私の不安は微塵も無くなった。

 儀式を行う祭り場は、日之隈と呼ばれる山の頂上だと聞かされた。日之隈は小高い山だが、その頂上からは、ヤマァタイ(八海森)国が隅々まで見渡せるそうである。だから、女王の魂返しの儀式を行うには、最もふさわしい処のようである。メタバル(米多原)の館の北西に、大きな篝火が見える。あれが日之隈の山のようだ。普段は狼煙台でもある。そして、各村の望楼の上で灯される狼煙や、篝火の元締めの役割を担っているらしい。もちろん、この優れた伝達手段を作ったのは、狭山組頭である。メラ爺が褒めていたように、本当に、組頭は、優秀な人だ。その優秀なふたりの組頭と、淀様と、それに香美妻も、私を支えてくれるらしい。だったら、何とか成りそうな気もしてきた。私は、没主体的では有るが、「ナンクルナイサァ」と思い始めた。素直に天命に従うしか道は無さそうである。

⇒ ⇒ ⇒ 『第6部 ~ イズモ(稜威母)へ ~』に続く