著者プロフィール                

       
卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第4部 ~黄巾の男と女~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その20)

葦田川風

我が村には、昔から蛇が多い。輪中という地形なので湿地が多く蛇も棲みやすいのだろう。更に稲作地であり野鼠やイタチ、カエルと餌が豊富である。青大将は木登りが上手い。そのまま高木の枝から飛べばまさに青龍だろう。クチナワ(蝮)は強壮剤として売れる。恐い生き物は神様となるのが神話の世界である。一辺倒の正義は怪しい。清濁併せ飲む心構えでいないと「勝った。勝った」の大本営発表に騙される。そんな偏屈爺の紡ぐ今時神話の世界を楽しんでいただければ幸いである。

卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第4部 ~黄巾の男と女~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その20)

 第4部 ~黄巾の男と女

幕間劇(23)「セント・クルメ」

 水泳の時間、皆の注目が信夫の胸元に集まった。そこには小さな瓢箪が3色の木綿の組み紐で結わえられていたのだ。水天宮さんのお守りである。しかし、高校生にもなってこのお守りを首に巻いている子はいない。しかも真新しい。どうやら5月の祭りで買ってきたようである。

 誰かが「今時、瓢箪着けとる奴ぁ珍しかばい」とからかった。しかし、信夫は「これで渡し船から落ちても大丈夫ばい」と真顔である。女子が「可愛い。ねぇ~このお守りどこで売っているの? お風浪さん」と聞いてきた。お風浪さんは大川の町にある神社である。やはり海神小童命(わだつみのみこと)を祭っている神社なので水神さんでもある。ちなみに仙人さんが寝泊まりしている沖底さんもこの神様であり底津小童命である。

 しかし、このお守りの瓢箪は久留米の水天宮で買ったのである。そう信夫がいうと「沖の端の水天宮さんにも有ると?」と、誰かが柳川の子に聞いた。信夫は柳川の高校に入学したのである。通学は、姉の民ちゃんと同じように、天建寺橋を渡り大善寺の駅まで行って電車に乗った。だから、渡し船に乗ることは少なくなった。でもやっぱり妙にお守りの瓢箪が気にいっているのだ。本来は白い木綿の凧糸なのだが、それでは味気ないと民ちゃんが組み紐を編んでくれた。だからお気に入りなのである。

 久留米は東に高良大社が在り、西に水天宮さんが在る。だから聖都である。その間を明治通りが結んでいる。水天宮さんから瀬之下坂を下り終えると、国鉄の鉄橋を潜り本町ロータリーにぶつかる。そこをくるりと回り左に進むと久留米大学にぶつかる。英ちゃんや、竜ちゃんの先輩である上野真理子嬢が通う大学だ。

 くるりくるりとロータリーを回り込み進むと繁華街である。中心には旭屋デパートがある。もうひとつくるりと斜めに進む道が在り、その先に英ちゃんの父ちゃん夫婦が営むラーメン屋台が立つ。さらに進めば西鉄花畑駅なのだが花は咲いていない。昔は別の花が咲いていたらしい、つまり花街である。

 更にくるりと回り込んで左折すると大善寺の町に戻る。だから五叉差路のこの本町ロータリーは筑後平野のへそである。そしてロータリーがポコリと在るので出臍である。その出臍を回り込みボンネットバスは西鉄駅に向かっている。今日は、民ちゃんが帰郷してきたので二人で石橋美術館に行くことにしたのだ。

 信夫は絵を描くのが好きだった。だから出来ればマリーが通う美大に行きたかった。しかし、税務署職員の父ちゃん兼人さんは大反対である。「絵で飯が食えるか」というわけである。それに、長老達の中には、青木繁さんが酔っ払って田圃に落ちて寝ていた姿を子供心に覚えている者もいた。だから絵描きへの評価は、風化者(ふうけもん)である。

 風化者とは他人迷惑な人を指す愛称である。例えば大風呂敷を広げたような馬鹿話をすると「風化たこっいうな(ことを言うな)」と使うのである。かといって全面的に人格否定をする訳ではない。「あいつは、根は良いけど、風化者やもんなぁ」と使うのである。だから関西弁なら「難儀な奴ちゃで」に近いのかも知れない。そして、青木繁さんの晩年の生活も難儀をしていたらしい。だから、「絵で飯が食えるか」というわけである。

 久留米は画家の町でもある。青木繁さん以外にも、坂本繁二郎さんや、古賀春江さん、高野野十郎さんと天才的な画家を多く輩出している。信夫は中でも青木繁さんの『わだつみのいろこの宮』気にかかってしようがなかった。何度見ても不思議な気にさせるのだ。信夫に取っては、それが水天宮さんに思えた。

 この宮は、安徳天皇を偲んで建てられた神社だ。だから高良さんのように古い神社ではない。でも水底に沈んだ幼き安徳天皇と、川底の水神さんと『わだつみのいろこの宮』の君は重なって感じられるのだ。そんなこともあって、信夫はお守りの瓢箪が手放せなかった。

 民ちゃんと、山本先輩の仲は近頃旨くいってなかった。山本先輩は、ベトナム反戦運動にのめり込んでいた。そして良く上京し家を空けた。東京に新しい恋人がいるという噂も聞こえてきた。でも民ちゃんに冷たく接し嫌気がさしている様子でもなかった。だから、民ちゃんもまだ香椎の家で同棲中だった。

 1968年山本先輩は大学院の4年生だった。でも就職活動をする様子もなく、6月にファントム偵察機が大学に落ちると、大学に入り浸りになり戻ってこなくなった。ベトナムでは、民族解放戦線ベトコンが攻勢に出て北爆も止んだ。米兵の中にも、脱走者が相次ぎ、山本先輩は、その逃亡にも関わっているようであった。

 1970年大学を卒業した民ちゃんは、香椎の家を出て実家に帰った。山本先輩は、やはり就職していなかった。いくら民ちゃんが待っていても、二人が結婚出来る見通しはなかった。そして、山本先輩の音信も絶えた。指に残された婚約指輪の痕だけがいつまでも消えなかった。民ちゃんは、実家に帰ると市役所の職員になった。そこで、同僚で3つ年上の先輩岩本雅司と知り合い、秋に結婚した。

 岩本雅司の家は、八女の大きな百姓家だった。そして家の仕来りも厳しかった。自由奔放に育てられた民ちゃんには、岩本家の家風が息苦しかった。そして1年が経った頃から雅司の暴力が始まった。雅司も親と妻の間に立ち辛かったのかも知れない。でも、もう二人の間には愛はなく憎しみだけが横たわっていた。

 そんな頃、信夫は東京の大学に進学して演劇に関わり始めていた。有名私大だった。その大学ならと、兼人父ちゃんも上京を許してくれたのだ。公務員にはならなくても、その大学なら学校の先生か新聞記者か、いずれにしても絵描きなどという風化者にはならないだろうと安心していたのだ。

 勿論、信夫が演劇を始めたことは、祖父ちゃんも、兼人父ちゃんも知らない。もし知られれば「なんば、お前は、河原乞食の真似事ばしよるとかぁ~」と、二人は無理やりにでも東京から引き戻すだろう。だから民ちゃんにも教えていない。

 その劇団の座長は、美夏ちゃんだった。上京し美夏ちゃんを訪ねると、彼女は『葉月舎』という劇団を主宰していた。やっているのは、ロック笑劇というコミカルなロックミュージカルだ。美夏ちゃんは音大生なので、役者やバンドには事欠かなかった。しかし、美大生のマリーが居なくなったので舞台監督を探していたのだ。

 信夫には絵心があることを美夏ちゃんは承知していた。だから舞台監督として誘い込んだ。だが意外にも信夫は歌も巧かった。これなら竜ちゃんのバンドでもヴォーカルがとれるかも知れないと思えるほどの巧さだった。だから、美夏ちゃんは、信夫を舞台監督兼主演男優に据えた。祖父ちゃんと兼人父ちゃんが知ったら、益々ヤバイ事態である。

 マリーと武吉が三里塚で逮捕された頃、『葉月舎』は大学の構内で初演を行った。題は「アンリとアンヌのバラード」と言った。作・演出は美夏ちゃんで、主演は信夫だ。アンヌも美夏ちゃんが演じた。コメディタッチのラブ音楽劇である。そして、万が一にでも田舎に知れるとまずいので、信夫は、杏里魔男という芸名を名乗った。

 公演には英ちゃんが、大学の仲間や生協の組合員を沢山連れてきてくれた。もちろん信夫は、英ちゃんにも田舎に知らせないように念押しをした。シュールリアリズム的な作品なので、民話的な演劇しか知らない英ちゃんには、展開が良く分からなかった。でも楽しい演劇ではあった。

 打ち上げの飲み会で英ちゃんは、「次はもう少し分かりやすい芝居にしてくれないか」と、美夏ちゃんに言った。酔った美夏ちゃんは「分かりやすいって何? 以前、英ちゃんは『人間の本質は、善でも悪でもない。流れる時が、その時流で善悪を決めているのだ』って言ったわよね」と絡みながら答えた。英ちゃんは、ほろ酔い眼で「そんなこと言ったかなぁ」と惚けたが、美夏ちゃんは「言った。言った。マリーも私もちゃんと聞いていたもん」と突っぱねた。英ちゃんは仕方なさそうに「そうか。それならそうだろう。それと美夏の分かりにくい演劇とはどう関係有るんだ」と聞いた。

 美夏ちゃんは酔った背を正すと「私の台本も、流れる時がその時流で台詞を語るの。つまり俳優たちの息吹の流れでね」と、分かり辛い答えを返した。英ちゃんは「息吹? 息吹と善悪の関係って何だ」と首を傾げて更に聞いた。「関係…? そう関係性よ。『流れる時がその時流で善悪を決めている』っていう英ちゃんの理論よ。だから、私の演劇には多様な解釈を持たせるのよ。これ、全部英ちゃんに教わったんだからね」と、美夏ちゃんは胸を張った。

 絡まれている英ちゃんは「えっ? 俺の専攻は政治経済学なんだけどなぁ。俺が美学語るわけないだろう」と言うと、美夏ちゃんは「それにもうひとつ。人生だって分かり易くはないわ。それに分かったふりしたお芝居より、これは何だろう?と思えるお芝居の方が楽しいじゃない。私だけが分かっても世界はつまらないわ。台詞には余白が必要よ。余白のない人生なんてまっぴら」と、言い返した。「それは同意!!」と、英ちゃんは膝を打った。

 そう言われれば、近頃英ちゃんが聞き込んでいる武光徹だって、音楽の世界では分かりにくい音楽である。JAZZだって、ディキシーランドに比べたら、マイルスもコルトレーンも、相当難解な音楽に聞こえることだろう。学校の国語の授業のように、分かりやすい表現にこだわらなければ、新しい世界が開けるのかもしれない。要は、イカシテルと思えるかどうかだ。そう思えば、美夏ちゃんのロック笑劇は、イカシテいた。

 美夏ちゃんは帰りに「これ面白いよ」と言って英ちゃんに、フランクザッパのLPレコードを渡した。現代音楽を聴いている英ちゃんなら、このロックも楽しんでくれるだろうと思ったようだ。英ちゃんは、美夏ちゃんの引出しの多さに驚いた。音大に入ったのは、クラシックピアノである。でも、JAZZも、ブルースも、シャンソンも、ファドも、ロックだって、演歌だって、民謡だって、何でも聴いているようだ。美夏ちゃんは、ソウルフルであれば、どんなジャンルの音楽だって好きらしい。嫌いな音楽はだらだらとした説教節や、泣き言だらけの音楽だけらしい。英ちゃんは、個性的なマリーや民ちゃんに隠れて、月明かりのように淡い存在だった美夏ちゃんが、スーパー満月のように輝いて見えた。

 第2作は「サラオ」というタイトルで、ヘミングウェイの『老人と海』の中からヒントを得たらしい。英ちゃんは、第2作も楽しみだと思い「嗚呼、ジョーにも見せてやりたかったなぁ」と呟き帰りの電車に乗り込んだ。

 その年の師走。民ちゃんは、天神のヤッコ(秦靖子)の店に向かっていた。竜ちゃんとヤッコも、また別れていた。民ちゃんは、離縁覚悟で家を飛び出してきた。だからヤッコに愚痴を聞いてもらい、やけ酒パーティの予定である。

 西鉄天神の駅で民ちゃんは、バッタリ山本先輩に再会した。山本先輩は、子連れだった。双子の赤ちゃんを、夫婦でひとりずつ抱いていた。民ちゃんに気が付くと、山本先輩は、懐かしい笑顔で手を振ってきた。そして、奥さんと子供達を紹介した。奥さんは、京都の人らしい。

 山本先輩は、民ちゃんを「昔の恋人で、僕を捨てた人だ。美人だろう」と、奥さんに紹介した。奥さんは「そんな酷い言い方失礼よ。ごめんなさい。主人は、人への配慮に欠ける所があるものだから」と、民ちゃんに謝った。主人という響きに、民ちゃんは山本先輩が遠くにいる人になったと感じた。

 奥さんの名は貴代(たかよ)と言った。京都の老舗呉服問屋の娘らしい。別れ際に山本先輩は「どこへ行くの?」と聞いてきた。だからヤッコの店に行くのだと答えた。そして、ヤッコの店の所在を教えた。山本先輩は「そうか、竜ちゃんとヤッコちゃんは別れたのか。竜ちゃんのギター良かったのになぁ」と懐かしんでいた。そして、その日はそれで別れた。

 その夜、民ちゃんは、ヤッコに愚痴を吐き出すと、嫁ぎ先の岩本家には帰らず実家に帰った。それからは、職場で夫の雅司と会っても目も合わせなかった。上司や同僚も、二人が別居状態なのを知っており、何かと配慮してくれた。岩本家からは、戻ってこいの電話さえ入らなかった。そして、民ちゃんは、度々ヤッコの店で、山本先輩に会うようになった。

 山本先輩は、新進気鋭のファッションデザイナーとして名が知れ始めていた。今は実家に戻り家業を継いだようだ。奥さんも元は京友禅の作家で、山本先輩の実家である博多織の家を手伝っているそうだ。

 民ちゃんと山本先輩は、何度か逢瀬を重ねるうちに昔の感覚が戻ってきた。でも、もう香椎の家はない。ジョーが旅立った後、祖父ちゃんが売りに出したのだ。もうそこにマリーが住むことも在るまいと思ったからである。でも民ちゃんが実家に戻るまでは、売るのを待っていてくれた。二人の話題は、自然とあの香椎の家には今どんな人が住んでいるのだろうという話になった。そして、次の休みの日に見に行こうと約束を交わした。

 劇団の忘年会にマリーが顔を出した。そして武吉は、インドに独り旅に出たと報告した。既に離婚届も出したそうだ。美夏ちゃんは、マリーを劇団に誘った。それも舞台監督としてではなく女優としてである。美夏ちゃんは、作・演出・主演の3役には限界を感じていた。それにマリーは、シャンソンもファドも歌えたのでミュージカル女優としては打って付けだったのだ。

 信夫は大喜びし「そうしよう。そうしよう」と熱心にマリーを誘った。信夫は小さい時からマリーに憧れていたのだ。だから、マリーの不幸も、信夫には嬉しい出来事だった。先輩の武吉のことも心配ではあったが、剣の腕は落ちていない筈である。だからどんな物騒な国にいても、武吉なら死にはしないだろうと信頼しているのである。

 第2作はロックミュージカル「笑劇波サラオ」である。春先に上演をした。初演日は春の嵐だった。サラオとは、『老人と海』の中で、地元民が叫ぶ言葉だ。不漁続きで最悪の事態という意味らしい。だから、初演の嵐もタイトル的には大当たりである。しかし、客の入りは最悪の事態である。そして、時代の波も最悪の様子である。だから、今回の劇は、社会風刺を含んでいた。

 劇はダンスのシーンが多くなった。ダンスは、美大や音大の学生が多い劇団だからお家芸のようなモノである。物語は捨て子のサラオの話である。そして捨てた母親は、赤毛のマリーが演じた。劇中で、マリーは「捨てることも、そして忘れることも、愛なのだ」と叫ぶのである。マリーの役には、多分に椿姫の要素が含まれていた。物語は暗い内容だったが、ダンスとロックのリズムが、軽快な音楽劇に仕上げていた。だから、この劇には、英ちゃんも大喝采を送った。そして一躍マリーには業界の注目が注がれた。美夏ちゃんの才能も目を引いた。

 この成功のおかげで、大学からはサークル活動費を貰えるようになった。そして、大学の施設も自由に使わせて貰えることになった。その勢いに乗り、美夏ちゃんは第3作目の構想に着手した。

 この頃、マリーの美大の先輩で、荒川逹也という彫りの深い顔をした男が、舞台監督で参加してくれることになった。彼は、ロックバンドもやっていたので、音楽監督も兼任してくれた。

 信夫は、兼任を解かれたので肩の荷が下り、加えて美大の先輩が出来たので嬉しそうだった。稽古が終ると、二人は良く吉祥寺に飲みに出掛けた。荒川先輩は三鷹に住んでいたので、酔った信夫は良くお世話になった。必然的に荒川先輩は、副座長扱いになったが、音大の美夏ちゃんには一目置いていた。それに、端役で舞台にも上がった。端役の時の芸名は、アラ・ハバキである。意外とコミカルな役を演じ、信夫との掛け合いは、客を笑わせた。

 荒川先輩は、北海道の出身でアイヌの血が混じっているそうだ。だから、毛深く熊襲のようである。信夫にも熊襲の血が流れているので、二人は益々意気投合した。しかし、信夫は一つだけ荒川先輩の振る舞いに納得しがたいものがあった。

 信夫は、ゴキブリが大嫌いである。ゴキブリが部屋を飛び回ると、信夫もギャーと叫びながら、部屋中を飛び回るのである。そのゴキブリを荒川先輩は素手でつかみ「それにしても不思議な昆虫だなぁ」と眺めているのである。

 この当時、北海道にはゴキブリが居なかった。それに台風もこない。台風は、東北辺りで熱帯低気圧に変わり消滅するのだ。だから、来年の夏は、荒川先輩を九州に連れて帰ろうと思っている。そして、十分にゴキブリと遊んでもらい、台風を楽しんでもらうおうと信夫は楽しみにしている。そして、ゴキブリが居ないのなら、就職先は北海道にしようと決めた。

 2年生になった信夫は、荒川先輩の紹介で新しく出来た写真の専門学校にも通いだした。写真というメディアは、絵画より新しい世界なので、自由な息吹も感じていた。それに、映画という世界が、密かに脚光を浴び始めていた。それは、アンダーグラウンドシネマと呼ばれていた。商業映画じゃないからその世界に入っても食べてはいけない。だけど、8mm映写機と編集機も買った。ずいぶん金も使ったが兼人父ちゃんは「新聞に写真はつきもんたい」と早合点をして学費も機材代も出してくれた。

 民ちゃんと山本先輩は、禁断の愛の園に入り込んでいた。ヤッコも心配して民ちゃんに注意したが、民ちゃんにもどうしようもなかった。中洲の川縁をデートしながら「貴方だけを愛しているのに、何故ふたりの赤い糸は結べないのかしら」と、民ちゃんは山本先輩に言った。山本先輩は「じゃ、香椎にまた家を借りようか」と、答えたが「貴方にいつも逢いたくて、逢いたくて、どうしようもない気になるけど、でも今は恋人で良いのよ。ううん、恋人が良いのかしら。奥さんって呼ばれるのは、つまらないわ。だって、ご主人と、奥さんじゃ、恋は出来ないものね」と、民ちゃんは、山本先輩の腕にしな垂れて言った。二人は、春吉の旅館街で逢瀬を重ねた。

 しばらくして、山本先輩と民ちゃんの不倫に、妻の貴代が気付いた。ある日、腕を組んで中洲の川沿いを歩く二人の前に、般若の様相の貴代が現れた。鬼女と化した彼女は、民ちゃんに「奪えるものなら奪ってみなさいよ」と叫びナイフをかざし突進した。それをかばい、ナイフは山本先輩の腹を刺した。山本先輩は一命を取り留めたが、貴代はその場で逮捕され、そして精神病院で拘禁状態になった。

 精神病院で貴代は「覚えていてよ。貴方は私以外の人を愛せないのよ」と呟き「もしも、貴方を殺せたら、私も貴方のお棺に入るわ。そして、二人で焼かれましょう」と叫んでいたようだ。山本先輩の見舞いに行った民ちゃんは、その話を聞いて「私って罪な女ね。奥さんの心の糸を切ってしまったわ」と、うな垂れた。そして冬、山本先輩と民ちゃんは、瀬之下坂から、筑後川に入り心中を図った。でも、民ちゃんは死に切れず、独り息を吹き返した。後日、岩本家からは、離縁状が郵送されてきた。民ちゃんは、久留米の町に居辛くなり、市役所も辞めて東京に出た。雪が舞い始めた師走の夜、民ちゃんは独り東京行きの夜汽車に乗った。

ちらちらと 川面に落ちた 雪の華
淡き夢見せ 行方も知れず

~ 美しき女軍師 ~

 長い髪を春風に波打たせ、乙女は野を駆け巡る。どうやら、髪を結うのももどかしいお転婆娘のようである。とても一児の母だとは思えない。ジャン・リャン(張梁)は、右手に紫の房紐を掴み、幼い妻を追いかけている。息を切らし妻を抱きとめると、その長い髪を紫の房紐で結わえてやった。お転婆娘ジャン・リンシン(張林杏)は、リャン(梁)を振り返ると「ありがとう」と言って笑った。傍らには、一歳になった長男のジャン・ヂュフォン(張朱鳳)がよちよち歩きで駆け回っている。張梁は、「こいつは、母親似だ」と思い張朱鳳を抱き上げた。良く見ると、幼い妻リンシン(林杏)のお腹は少し膨らんでいる。どうやら二人目を身籠っているようである。普通の娘なら安静にしている時期である。しかし、お転婆娘リンシンは、意に介していないようである。
 田に水が覆った頃、太平道の頭目達が、ジャン・ジャオ(張角)の冀州の館に集められた。顔ぶれは、張角三兄弟に、レンチョン(任城)太平道のフェ・シャオ(何邵)、その妻のマー・チャーホァ(馬茶花)。その兄で今は漢王朝の官僚のマー・ユェンイー(馬元義)。同じく官僚のブォウェン(李博文)、その弟でユー・タイピンダオ(豫洲太平道)のボーツァィ(波才)。そして、ジンタイピンダオ(荊洲太平道)のジャン・マンチョン(張曼成)。チン・タイピンダオ(青洲太平道)のチュクム(秋琴)の十名に加えて、リンシンは会ったことがない二人の顔ぶれが有った。
 リンシンは、この会合の論者ではないが、接待係と小守役で呼ばれたのである。勿論身重なので一人ではない。ジャン・バオ(張保)の妻ヤーイー(芽衣)と二人である。波才の異父妹ヤーイーは、今年二十七歳なのでリンシンよりも九歳年上である。だから、ヤーイーは、頼りがいがある義姉である。
張保とヤーイーの娘シァォメイ(小梅)は九歳なので、子供達のまとめ役である。他に子供は、秋琴の娘ヂェン・ファ(姫華)と、張梁とリンシンの長男張朱鳳が居る。勿論、子供達は隣室で駆け回っているのだが、時より会合の部屋に飛び込んできたりもする。
 だから、その光景は長閑なものに見える。しかし、話の中身はかなり重たいものである。リンシンが見慣れない二人は、ジャン・ニィゥジャオ(張牛角)とその養子フェイイェン(飛燕)である。
張牛角親子は、ヘイシャンブォ(黒山泊)或いはヘイシャンダン(黒山党)と呼ばれている山賊である。冀州から青洲にかけての山の中に根城がある。勿論、山族とは言っても民を襲うわけではない。張曼成と同じように、漢王朝相手の盗賊団である。その数も数万人に及ぶようで、頭目の張牛角もただの悪党ではない。
 彼は漢王朝の司隷校尉だった高級武官である。妻は、江夏太守張成の娘ヂェン・イェン(姫艶)である。イェン(艶)は張角兄弟の母ジャン・ウェン(張文)の姉である。だから、張角兄弟とは同族である。
飛燕は孤児である。九歳の時、物乞いをしていたところを張牛角に拾われた。張角より十歳年上だから、張角は生まれた時から知っている。天涯孤独な飛燕は、弟が生まれたように嬉しかったのを今でも覚えている。だから、幼い時から陰日向になって張角兄弟を見守ってきた。四十八歳の高齢になった今でもその関係は変わらない。だから、この席に招かれているのである。
 飛燕は、今張牛角の後を継ぎ黒山党の大頭目である。但し、黒山党数万の集団は一枚岩ではない。いくつもの黒山泊があり、その大連合体である。共通点は、漢王朝相手の盗賊団であることだ。だから、頭目はやはり漢王朝の役人だった者が多い。それでも、末端の党員には、本当の追剥上がりも多い。しかし、組織統制が行き届いているので、やはりただの悪党集団ではない。
 生まれついての悪党はいない。生まれた時は皆裸の赤子である。その後、それぞれの生い立ちの中から悪党が生まれる。そして今、その環境を生み出しているのは、漢王朝の悪政である。その悪政から生み出される法や、秩序を守っていては生きていけない。そんな奴らが悪党である。
 張曼成の頭、山越(さんえつ)の白虎は、背後に漢王朝に静かな抵抗を試みる民衆がいた。だから、村々に溶け込み姿を消していた。しかし、冀州や青洲の民衆は漢族が多いため、不満は有っても漢王朝の法や、秩序を守っている。そこで山越の白虎のように、村々に住むわけには行かない。必然的に山々が険しい天然の要塞を住処としているのである。
 重苦しい会合の議題は、「武装蜂起について」である。既に漢王朝への民衆の憤りは頂点に達しようとしていた。各地で小さな反乱が絶え間なく続いている。しかし、漢王朝の改革は、夢のまた夢だと思われている。改革派の一翼を担う官僚の李博文と馬元義は「既に漢王朝の天命は失われた」と主張している。そして、元は漢王朝の武官だった張曼成もそう感じている。だから、張曼成は「武力革命」を進言した。都に近い豫洲太平道の波才も張曼成の意見に近い。つまり、漢王朝の中枢を知る者は、概ね「武力革命派」である。
 しかし、都から遠く、独立性が高い青洲のチュクムと、チャーホァ(茶花)は「静かなる革命」を主張している。その主張は、「地方の役所も取り込んで、民衆の暮らしを改善することを優先すべき」というものである。そして、そのように青洲では、役人の大半が青洲太平道を支持し始めていた。しかし、それは青洲の特殊性でもある。青洲や冀州等の地方に飛ばされた役人は、そもそも改革派が多い。そして、教祖チュクムの先生は、かの高名なジェン・カンチョン(鄭康成)先生である。後の世では鄭玄と呼ばれる。
 静かなる革命は地味な運動である。だから、一時の情動に流されないしっかりとした理念が必要である。一見この世は生存競争の論理で動いているように見える。しかし、社会性を帯びた生物の世界では、相互扶助の力も欠かせない。蟻ん子だって助け合って生きているのである。まして、知性的な動物であると自負している人間社会がそれをやれない筈はない。カンチョン(康成)先生の教えの柱はそこである。
 太平道の理論家フェ・シャオ(何邵)の考えもそれに近い。しかし、シャオ(邵)は実業家でもある。だから、情動で動く世間の波も無視してはいない。そこで、思い悩んでいる。張角と張保も同じ悩み所である。そうなると「武力革命派」の情熱の方が態勢を増してくる。特に、情熱家の馬元義は「この好機を逃すべきではない。漢王朝は既に死に絶えている。天は革命を望んでいる」と力説した。
 馬元義のこの発言は、若さゆえの情熱からだけ出ている訳ではない。漢王朝の改革派の官僚のみならず、宦官の主要な者達からも王朝改革への賛同者を得ていたのである。更に、馬元義が革命の確信性を持ったのは、ドン・ヂョンイン(董仲穎)という男との出会いである。後の世では董卓と呼ばれる。
ヂョンイン(仲穎)は、張曼成と歳が同じで、やはり武官である。噂では、まもなく東中郎将に上がるだろうと言われている。東中郎将は、シャー(中華)の東部を統括する軍部の長である。したがって、例えヂョンインが、太平道軍に寝返ってくれないまでも、討伐戦の手を緩めてくれれば、革命の勝算は高くなるのである。
 冀州、青洲、豫州、荊州の太平道が一斉蜂起し、更にはウードウミーダオ(五斗米道)のジャン・ヨウ(張脩)が、益州一帯で同時に蜂起すれば、中華のほぼ全土で革命の烽火が上がる。そうなれば漢王朝の国軍は、四軍の力を終結し革命軍の鎮圧にかかることは出来ない。
 東軍がのらりくらりと長期戦に持ち込んでくれれば、益々国軍の兵力を集中させることが出来なくなり、国軍としては、革命軍の各個撃破が難しくなる。その状況が作り出せれば、王朝の中枢で改革派の官僚と宦官が政変を起こし、守旧派を一掃する、という見通しである。
 これは無謀な策ではない。張曼成に依って強化された太平道軍の実力は、国軍に匹敵する軍事力を要している。さらに豪商達や、東海の海賊衆、両大河を住処とする河童衆からの支援も取り付けている。だから、財力でも水軍力でも漢王朝に劣らないのである。
 革命の目的は、教祖の張角が皇帝に取って代わることではない。その目的は太平の世を作ることである。だから、政変を起こし太平の世を目指す王朝になれば良いのである。しかし、戦さになればやはり民衆の血が流れる。そこで、「静かなる革命派」のチャーホァは、無血革命を主張して譲らない。そして、会合は朝になっても膠着したままである。
 朝露の香りを含んだ初夏の風が吹いた時、普段は寡黙な張梁が口を開いた。「私も、ユェンイーの策に賛同します。しかし今、兵を挙げれば内乱が長期化し、チャーホァが危惧するように多くの血が流れるでしょう。そこで、一年の時をかけましょう。その間に、ユェンイーは、更に王朝内の改革派を増やし、マンチョン親父殿は、短期決戦の策を練ってください。一撃で敵を倒せれば、多くの血を流さずに済みます」その張梁の提案に親友の馬元義は、大きく頷いた。そして、チャーホァも小さく頷いた。
張梁は、張牛角親子に身を向けると「シュン大伯父、フェイイェン兄、お二人は各地の仁侠衆からの加勢を宜しくお願いします」と頭を下げた。シュン(勲)大伯父とは、張牛角のことである。張牛角は変名であり、本名は張勲である。しかし、山賊に身を落としては、張一族に申し訳が立たないと名を変えたのである。
 張勲大伯父は、張梁からの頼みに「では、朱家になったつもりでひと働きするか」と言ってくれた。飛燕兄も「では、俺も季布になったつもりでひと働きせねばな」と言ってくれた。更に「リャンよ。お前、いつの間にそんな立派な男になった」と笑って聞いた。すると張牛角が「男は子を持つと立派になるものよ。のう、リンシンさんや」と、リンシン親子を見止め、よちよち歩きの張朱鳳を手招いた。
 深々と雪積る夜半、リンシンは元気な男の子を生んだ。次男ジャン・ウーロン(張霧瀧)の誕生である。長男のヂュフォン(朱鳳)はリンシン似だが、どうやらウーロン(霧瀧)は、父親の張梁に似ているようである。笑顔が、張梁のようにやさしい。産屋の周りを交互に歩き回っていた張曼成と張梁は、産声を聞くと早速酒盛りである。そして、噂を聞きつけた山越族の親玉達も続々と集まってきた。昼を過ぎた頃には大宴会である。
 虐げられた民である山越族にとって、張曼成の後継ぎであるリンシンは、女王の如き存在である。そしてこの十八歳の若き女王は、山越族の希望である。山越族以外の荊洲太平道の信徒にとっても、張霧瀧の産声は、二つ目の希望の星である。だから、荊洲の民の多くが、張霧瀧の誕生を喜んでくれた。
 この年の荊洲の初冬は、例年になく暖かかった。年が改まり、春の息吹が芽生え始めた頃、厳冬が太平道を襲った。馬元義が都で処刑されたのである。それは、馬元義の部下の中から裏切り者が出た為である。裏切り者は、皇帝直属の宦官に密告した。ことの重大さに気づいた守旧派は、即刻馬元義を車裂きの刑に処した。そして、皇帝に許しを得て、全軍を太平道討伐に繰り出したのである。
 その話を伝え聞いた張梁は、一晩中号泣した。そして、張曼成は、直ちに革命の狼煙を挙げた。歴戦の勇者張曼成に率いられた荊洲太平道革命軍は、怒涛の勢いで州都を攻め落とし、太守の首を蒼天に晒した。荊洲の多くの民衆は、それをファンジンチーイー(黄巾起義)と呼び支持した。それから、張梁と張曼成は、新国家宣言を行い、荊洲の漢王朝からの独立を宣言した。新しく建国された南陽太平国は、張梁を教皇とし、張曼成は総帥となり軍政を敷いた。
 但し、武力で国を統治しようとした訳ではない。武力は、漢王朝軍との戦いと、国内の治安維持の為に必要とされた。国内の民の暮らしは、教母のリンシンを中心に治められることになった。その補佐役は副総帥となったイェンソン(岩松)である。その国家造りの理念は、経済面では業態毎に協同組合を作り、地域の運営は各自治会が直接民主制的に宰る自由主義国家である。
 早春、水田に田植え唄が広がっている。田の道には水仙の花が咲き誇り、行く末を指し示している。今年の田植えは例年より早い。岩松がそう判断したのである。「なるべく収穫を早く行いたい」という思いが働いたようである。
 田植えは協働作業なので、ひとりの思い付きでは始まらない。そこで、ガオミー(高密)からスン・シャー(孫夏)という青年が呼ばれた。孫夏は農本家である。そして、青洲太平道の信徒でもある。歳は、任城太平道の指導者フェ・シャオ(何邵)と同じ三十一歳であり、シャオ(邵)の盟友である。
 彼には、ひとつ年上の姉が居り、その姉スン・シャーホァ(孫夏華)は、張曼成の右腕とも言われるヂャォ・ヂョンホン(趙仲弘)の妻である。だから、孫夏は、その姉孫夏華に呼ばれたのである。二人の父は、スン・シューシン(孫許行)と言いガオミー(高密)の農本家である。伯父にスン・ビンシュォ(孫賓碩)という者が居り、嘗て趙仲弘の大叔父ヂャォ・ジージャ(趙季嘉)は、その不遇時代を孫賓碩に匿われ高密で暮らしていたことがある。そんな縁で孫夏華は、趙仲弘に嫁いできたのである。
 カンチョン(鄭康成)先生が、高密に帰り、学び舎を開いた時に手助けをしてくれたのは、この大叔父趙季嘉である。趙家はシャー(中華)の名家である。代々、都で高官を出し、漢王朝での重臣に名を連ねる者も多い。また趙季嘉は、儒家としても高名であった。その為に、宦官の専横が激しかった時代は不遇でもあった。そして、カンチョン先生が、都での功名を捨て故郷の高密に帰った理由の一つが、趙季嘉の存在である。カンチョン先生より十五歳年上の趙季嘉は、先生が尊敬する儒家の一人でもあった。したがって若き時、張角もまた教えを受けたことがある。だから、張角の学閥の一人とも言える。
 例年より早い田植えは、そう簡単ではない。田植えが早ければ、収穫までのあらゆる作業も早くなる。その為、水は大丈夫か? 出穂の為の気温は大丈夫か? 病害虫への対策は大丈夫か? 等と難問も多いのである。そこで、農学に抜きん出た孫夏が呼ばれたのである。そして、孫夏は、青洲の各地で農業革命を起こしてきた実績があった。青洲の太平道が大きく成長した裏には、孫夏の農業革命による食糧増産の力も大きかったのである。
 農業の指導は、孫夏に託されたが、農作業の取りまとめは、孫夏華が行った。教母リンシンは、南陽太平国の国政を「地域運営」「経済活動」「教理維持」の三つの柱で進めようとしていた。
 「地域運営」では、南陽太平国を十三の地域に分け自治組織を作った。これは云わば生活協同組合である。そして、「経済活動」は、農業と漁業を農水協同組合、商業を商人協同組合、工業を手工協同組合の三つの自治組織に担わせた。その農水協同組合の長が孫夏華である。
 孫夏華は大柄で気丈な女である。つまり肝っ玉母さんである。趙仲弘と孫夏華の子供達は、長男がヂャォ・ブォイン(趙伯寅)と言い十五歳である。趙伯寅は今、南陽太平国軍で修行中である。南陽太平国軍の陸軍大将は、父の趙仲弘なので、水軍に入れられている。他人の釜の飯を食って育てという厳しい父の思いである。父の趙仲弘も十三歳で軍隊に入隊した。
 趙仲弘の趙家は、文官の家である。父も祖父も法を司る高級官僚であった。そして誇り高く厳格な家風である。趙仲弘はそんな家風に抗ってみたかったのである。そこで、趙家でただ一人武官を目指した。それも趙家の威光を笠に着たくなかったので、一平卒での入隊である。父は怒り勘当を言い渡された。でも皮肉なことに、そのお陰で趙仲弘は生き延びたのである。
 一平卒で入隊した時の上官が伍長の張曼成だった。二人はそれ以来の仲である。張曼成が昇進するに伴って、趙仲弘も昇進した。趙仲弘は、趙家の血筋のままにとても優秀なのである。
 趙仲弘と孫夏華の二人目の子供は長女のヂャォ・シーハン(趙詩涵)である。趙詩涵は兄趙伯寅より二つ年下なので、今年一三歳である。そろそろ恋心に目覚める年頃だが、今は農学に夢中である。だから孫許行祖父ちゃんは「孫一族では、趙詩涵が、一番出来の良い子だ。あの娘は百年に一人の逸材だろう」と誰憚(だれはばか)らず公言して回っている。だから、高密でも既に、趙詩涵の名は評判である。
 三人目は、次男のヂャォ・ヂョンシュン(趙仲熊)七歳である。今しも田んぼで泥まみれになって遊んでいるやんちゃな悪がきである。この元気の良さはどうやら孫夏華母さん譲りである。そして、七歳にしては体つきも大きい。百姓の爺さんや婆さんに怒られながら、田植え前の水田を悪童仲間と走り回っている。でも、近隣でも一番の人気者である。
 花が美しく咲くのには訳がある。それは美しい花の下には幾多の屍が眠っているからである。田植えも全て終わり、畑には夏野菜の種も蒔き終えた。初夏の湿った風が吹き山野には夏桔梗が涼やかに咲きほころんだ。しかし、それは戦さの始まりを示唆するものでもある。
 漢王朝は、新しいナンヤン(南陽)太守に歴戦の武官であるチン・チーチュ(秦初起)を任官させた。南陽郡は、漢王朝の都の直ぐ南に位置し、喉ぼとけとも言える位置にある。その為に、漢王朝としては、何としても攻め落とす必要が有った。秦初起は、国軍の精鋭部隊を総動員し張曼成を攻めた。城壁は血に染まり、清流は赤い川と化した。そして、どうにか張曼成を捕らえることに成功した。
 数日の時を置き、南陽太守秦初起は、張曼成の公開処刑を触れて回った。それから場内の広場には、大勢の群衆が集まった。リンシンは農婦に身を変え、父の様子を覗った。張曼成は、大木に縛り付けられ、大地に打ち立てられていた。兵の一人が目隠しをしようとしたが、張曼成は、それを拒否した。そして、弩弓を構えた兵を睨みつけた。兵の中には、国軍の猛将だった張曼成を知る者も居て身震いを覚えた。それを察し張曼成は、静かに目を閉じた。同じ武官だった秦初起は、深くため息を吐き、そして、処刑の采配を振りおろした。矢が放たれる瞬間、張曼成は大きく目を見開き「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」と叫んだ。そして、幾本もの矢が張曼成を刺し貫いた。リンシンは涙を押し殺しその父の姿を目に焼き付けた。そして、熱(いき)り立ち「父さんの志は、私が継ぐ」と誓った。それから、十九歳の長い髪の乙女は、美しき女軍師の道を歩み始めた。

(ひと)(り)(づか ) 野末に咲いたる 夏桔梗

~ 若き雄弁家の悩み ~

 霜柱を踏む音が聞こえる。身重の母は、幼き息子の手を引き、うなだれて進む。遠方から馬車が近づいてきた。馬車が親子の近くに寄ると、幌を跳ね上げ、貴人が駆け降りてきた。そして、幼子を抱きあげると、頬ずりをした。幼子は屈託なく笑い、初老の男をしっかり抱きしめた。傍らで、身重の母が泣き崩れた。
 貴人は、「館で待っておれば良かったものを」と女を抱き起こし、馬車の幌の中に導きいれた。それから御者は、馬車を元来た道に向けた。そして、貴人はやさしく女を寝台に横たえ温かい皮衣をかけてやった。女は貴人に涙し「兄上」と心細げに呟くと目を閉じた。
 貴人は、火鉢に餅をかざし「ユェンイー(元義)や、もうじき美味しい餅が焼けるぞ」と、幼子に声をかけた。「伯父上、最初のひとつは、母上に食べさせてください。母上は、もう幾日も食を取っていないのです」と幼い馬元義は言った。
 女の閉じられた目頭からは、更に涙が零れた。貴人の名は、ティェン・ジェ(田潔)という。田氏は、高密の名家である。そして女の名は、ティェン・シー(田杏)という。ここは都の外れである。ここから遠く高密まで、親子は旅を続けるのである。幼い馬元義は、父の死をまだ実感していない。だから、天真爛漫である。伯父のジェ(潔)には、それだけが救いである。
 妹田杏の夫は、都の官僚だった。名をマー・ドゥイ(馬敦)という。馬敦は、秀才で一本気な男であった。田潔は、そこを見込んで、妹の田杏を嫁がせた。しかし、その一本気な所が災いを呼んだ。馬敦は、王朝に蔓延る宦官供の不正を暴こうとして、逆に投獄されたのである。そして、凍てつく牢獄で凍死した。
 馬敦の両親も連座させられ獄死した。妻の田杏は、身重だった為に不問に処せられた。幼子馬元義も、伯父田潔の働きで不問に処せられた。しかし、親子は都では生きるすべがなくなった。田杏の両親も既に他界していたので、田杏は、年の離れた兄田潔に助けを求めた。だから田潔は、自ら馬車を駆り、愛しい妹親子を迎えに出向いたのである。
 馬車の中に、雪椿が微かな匂いを放っている。途中の村で、田潔は、椿の花を沢山買い集めて、幌馬車の中に飾ったのである。花の香りは少なくても、その艶やかさが、妹の臥せた心を和ませてくれるとの思いである。
 翌初春、田潔の願いが適ったのか、田杏は、雪椿のように可愛らしい女の子を産んだ。チャーホァ(馬茶花)である。兄田潔の家族も、この哀れな親子をやさしく見守ってくれた。田潔は、妹親子に小さな屋敷を買い与えた。そして、その屋敷は、カンチョン(康成)先生の教場の近くだった。伯父田潔は、可愛い甥の馬元義を、カンチョン先生の許で学ばせたかったのである。そして馬元義は、父以上の秀才である。
 青洲には義侠心に溢れた大家が多い。大海を臨んだ土地柄が、そんな人物を生むのかも知れない。田潔もそういう男である。そんな伯父の影響を受けた馬元義も、義侠心に熱く、情熱的な青年に育っていった。
 馬元義が、カンチョン先生の教えを請うようになった頃、同じ学び舎に、八歳年上の張角がいた。馬元義は、兄のように張角を慕い、張角もまた、馬元義を可愛がった。奇しくも馬元義は、張角の末弟張梁と同じ歳だった。故郷の弟達と離れて暮らす張角に取って、馬元義は、実の弟に可愛い存在であった。
 張角は、その後、カンチョン先生の老師マー・ジーチャン(馬季長)先生や、学友のルー・ヅーシー(盧子幹)先生からも教えを請うた。そして、盧子幹先生の推薦で、太学に学び始めたのである。しかし、その間も、張角は馬元義に文を送り交友を深めた。
 馬元義が張角と遠く離れた後、馬元義には、張角に代わってフェ・シャオ(何邵)という同じ歳の学友が出来た。何邵の父は、シャー(中華)では名の通った高名な学者であった。そして、何邵は、それに劣らない逸材である。しかし、何邵は、馬元義のように雄弁ではない。青洲では、十六歳の馬元義に雄弁で勝る者は居ない。ただ無口な何邵だけが自分より優っていると馬元義は思っている。
 燈明が揺れている。秋の風が少し冷たくなってきた。しかし、情熱家の馬元義には、頭を冷やす良い冷たさである。九歳になった妹のチャーホァが、夕餉を運んできてくれた。そして、「兄上、夕餉が冷めてしまいますよ」と、書見台の竹簡を降ろし馬元義に食を促した。兄は「これ何をする」と言いながら竹簡を手にすると学問書を読みながら食事を始めた。
 妹は「兄上、なんて行儀の悪いことをするのですか」と、呆れて兄の食事ぶりを見ている。兄は、竹簡を書見台の上に戻すと、チャーホァに向きなおり「子曰く、言(こと)、物ありて行(おこない)、格(のり)あり、是を以て生きては即ち志を奪う可(べ)からず、死しては則ち名を奪う可(べ)からず」と言い聞かせた。
 気転の利いた妹は、「兄上、それは何かの呪文ですか」と、膠(にべ)もなく聞き返した。兄は、返事に窮して「嗚呼、もう良い。あっちに行っておれ」と無愛想に手を振った。馬元義は十六歳だが、チャーホァは、まだ九歳である。孔子の教えが分かる歳ではない。
 しかし、こと学業の話となると、馬元義は、誰見境もなく持論を展開したくなる性質(たち)である。馬元義が物事を理解し発する言葉は、概ね正しい。しかし、まだその行(おこない)は、経験に乏しい。だから、まだ意思が確立しているとは言えない。つまり、まだ人格は定かではないのである。
 だが、馬元義の資質は上質である。だから、死して後までも己を汚さない青年になることだろう。伯父田潔には、そこが楽しみである。世の中には是もあれば非もある。だから、人々は是も非もなく暮らしている。是だけ押し通して生きていこうとするのは、正義を貫くともいう。馬元義は、そんな生き方がしたいようである。しかし、それは危うい生き方でもある。
 庭先に初雪が積もった。書見台にうつ伏せ馬元義が眠っている。肩からは夜具がかけられている。母の田杏がかけてくれたようである。馬元義はもう大男である。小柄の田杏には、馬元義を抱きかかえ寝具に包ませる力はない。馬元義が身震いをしながら眼を覚ますと湯気を立てた羹(あつもの)を、チャーホァが運んできてくれた。
 その羹からは、ぷ~んと雉子(きじ)肉の香りが漂った。それに芋粥仕立てである。馬元義はまず芋に噛り付いた。ほくほくとした噛みごたえに、彼の頬が緩んだ。それから今度は、おもむろに雉子肉を味わった。最後に汁を飲み干すと、じろりとチャーホァを見つめた。
 妹は「兄上、朝から呪文は聞きたくありませんよ」と機先を制した。兄は、持った箸を振り「違う。違う。お代わりは有るかと聞きたかったのだ」と言った。「はい、たんとありますよ。母上が大鍋で作りましたから。きっと兄上が何杯もお代わりをするだろうと察しておいででしたから」と答えた。
すると、兄は椀を突き出し「お代わりは、もっと大きい椀にしてくれ」と言った。妹は笑いながら「大鍋ごと持ってきましょうか」と答えた。馬元義は、真顔でしばし考え「いや良い。大きい椀にしてくれ」と言った。
 妹が笑いながら椀を受け取り台所に下がると、馬元義は再び学業に打ち込み始めた。しかし、馬元義は学問ばかりしている青二才ではない。相撲を取らせれば高密で一番強い。それに人づきあいが上手い。誰にでも笑顔で接するのである。だから友人も多い。その為、人見知りの激しいフェ・シャオ(何邵)に取っては、なくてはならない友である。そして、何邵の交友関係は皆馬元義の友人達である。
 今では、カンチョン塾の三羽鴉と呼ばれるようになったファン・シャオ(黄邵)も、当初苦手な相手であった。黄邵は、十二歳の時に鄭康成塾へやってきた。生まれ育ちは、豫州のインチュァン(潁川)郡である。だから、住み込みの塾生であった。そして不幸なことに黄邵と何邵は、同室になった。
 その初日、何邵は「同じ字(あざな)だね」と微笑みかけた。そしてそれは、人見知りが激しい何邵には、大変な勇気が必要だったのである。しかし、黄邵は「同じ字など、この国には五万と居る」と、素っ気ない態度であった。それから一月余り、二人は声を掛けることなく過ごした。
 そんな関係を打ち破ったのは、馬元義である。この年の早春から馬元義は、半年ほど張角の許で過ごしていたのである。張角は、太学の三回生となっていた。伯父の田潔は、その張角の許で、馬元義に太学の雰囲気を感じさせようと思ったのである。田潔は何としても馬元義を太学で学ばせる心積もりである。
 馬元義の神童振りは、鄭康成先生からもお墨付きである。しかし当の本人は、どうも乗り気ではない。どうやら故郷の高密を離れて都へ行くのが嫌なようである。都には悲しい思い出しかない。それに、母の田杏や妹のチャーホァと離れて暮らすのが厭なのであろう。しかし、張角には会いたかったので、渋々都登りをしていたのである。
 高密に帰ってきた馬元義は、直に気難し屋の黄邵と仲良くなった。彼は黄邵が凝り性であると気がついた。だから、何かの収集癖があるかも知れないと、渋る黄邵から根掘り葉掘りと聞きだした。すると根負けした黄邵は、虫を集めるのが好きだと白状した。そこで馬元義は、何邵を伴い三人で山野に散策に出た。昆虫採集である。
 何邵が、奇妙な虫を見つけた。形はテントウムシ(紅娘子)に似ているのだが、背中の柄が違うのである。すると黄邵が「嗚呼、これは亀の甲だ」と言った。そう言われれば、確かに亀の甲羅模様である。馬元義と何邵は、ふたり同時に「へぇ~」と感心して声を上げた。これを機に、黄邵の昆虫学講義が始まった。
 テントウムシにも多くの種類が有るらしい。体型は皆半球形だが、体色は、黒・赤・橙・黄・褐色など鮮やかな色があるそうだ、甲羅の模様も見慣れた七つ星以外にも、黄に白の水玉模様や、この亀の甲テントウムシのように不思議な模様したもの等、様々にあるらしい。馬元義と何邵のふたりは、何度も「へぇ~」を連発し、いっぱしのテントウムシ博士になってしまった。
 そもそも、男の子は昆虫が大好きである。それ以来三人は、昆虫採集に出掛けた。馬元義は甲虫類が好きであり、何邵は蝶類が好きである。しかし、黄邵は少し変わっており蟻ん子の群れをじっと見つめていることが多い。そして、黄邵曰く「蟻は助け合って生きている」そうだ。
 ヒィヒィヒーヨヒーヨと、鵯(ヒヨドリ)の鳴く声がした。庭を見やると黐(モチ)の木の枝に、沢山の鵯が降りてきた。そして、真っ赤に色づいた実を啄んでいる。黐の木の樹皮からは、昆虫や、鳥達を捕まえる鳥黐(とりもち)が作られる。
 鳥黐は粘着性が高いので、これを木の枝に塗っておけば、脚を取られて飛べなくなるのだ。そこを、ひょいと捕まえれば楽ちんである。昆虫を捕る時は、長い竿の先に塗りつけて黐竿(もちざお)を作り、これで木の枝や、葉先に止まった虫を捕まえるのである。
 しかし今は、黐の木の枝も乾いた樹皮のままなので、鵯も捕まることはない。たっぷりと赤い実を食べたら、再び自由に大空へ飛び立てるのである。その赤い実を、不用意に鳥がぽとりと口から落としてしまうと、容易に黐の木が芽吹いてくる。そして黐の木が生い茂る森ができるのだ。
 しかし、馬元義が見ている黐の木は、庭に植えられた黐の木である。黐の木は、瑞々しい木である。葉の先までたっぷりと水分を含んでいる。だから燃えにくい。その為防火性が強い。そこで屋敷のまわりに植えられることが多いのである。突然、鵯が一斉に飛び立った。チャーホァが叫びに近い大声をあげて、庭先に駆け込んできたのである。そして、それは「兄上、大変です。張角様が、牢に繋がれました」というものだった。
 馬元義は、驚愕し立ち上がった。二月ほど前のことのようである。今、鄭康成先生の学び舎には大勢の塾生が集まり、大騒ぎになっているらしい。馬元義も庭先に飛び降り裸足のまま塾に急いだ。馬元義は、鄭康成先生の許に駆けながら嫌な思いが過っていた。父もまた獄死したのである。冷たい牢獄の中で、張角はどうしているのだろうと心配で胸が張り裂けそうになった。
 漢王朝中枢部の改革派と、守旧派の戦いはまだ決着を見ていなかったのである。この頃の改革派の首領は、ドウ・ヨウピン(竇游平)という男とチェン・ヂョンジュ(陳仲挙)という男であった。その二人が昨年、守旧派に抹殺された。そして、竇游平は、張角の太学時代の先生であった。更に、先の政変で弾圧を受け、投獄された張角の恩師達を救ってくれたのも竇游平である。
 竇游平の出自である竇氏は、代々続く高級官僚の家系であり、漢王朝随一の名門である。しかし、竇游平にはそんな驕った処はなく張角がとても尊敬する先生だった。彼が三年程竇游平の教えを請うた頃、竇游平の娘が皇帝の妃となった。そこで、竇游平は太学を辞して官僚となり、その地位を駆け上がって行ったのである。
 しかし、娘が皇帝の妃になった為に自分の地位は有るのだと竇游平は、心に念じていた。だから、その地位に甘んずる処なく、清廉を押し通した。改革派は、そんな竇游平に、王朝の乱れを糺すことを期待した。だから、張角も竇游平の許で奔走していたのである。
 竇游平が、守旧派打倒の戦いに敗れ自決すると、多くの改革派が逮捕された。その中でも張角は、格別の対象となったようである。それは、誰の目にも竇游平が教え子の張角に期待を掛けていたのが明らかだったからである。
 張角が、一国の王にふさわしい力を秘めていることは守旧派にも知れ渡っていた。だから、彼が竇游平の期待通り刺史(しし)にでもなり監察を強めれば、守旧派の不正は尽く暴かれるに違いない。そう守旧派の重鎮達は、張角の成長に危機感を募らせていた。しかし、まだ太学生である彼に官僚に被せるような罪は創出できない。そこで、処刑は出来なくても、不穏分子として獄に繋いだのである。
 初春、福寿草の花が雪をかき分け黄色い顔を覗かせた。黄鶯(ウグイス)が翼を広げて青い空を滑空してきた。やがて、桜も、梅も、桃も、李も、それぞれの蕾を膨らまし始めることだろう。森の奥では、春の祭典が始まろうとしている。北西の風が冷たくチュクム(秋琴)の赤い頬を撫でた。でも、チュクムは寒くない。何故だか分からないが、周りが賑やかしいのだ。だから、感化されているのである。
 四歳のチュクムに、祖父母の涙の理由や、馬元義兄ちゃんの、はしゃぎ方の意味や、張梁叔父ちゃんの笑顔の意味も分からない。ただ、皆が春の陽気に包まれているので、チュクムも、何となく暖かいのである。シカ(志賀)に「ねぇ、何で皆楽しそうなの?」と聞くとシカ姉ぇちゃんは「それは、チュクムの父様が、無事に牢を出て、帰ってくるからよ」と教えてくれた。
 チュクムには、父様の顔など浮かばない。父様張角は、これまでだって家にいたことはない。だから、牢獄に居ようと、自由に羽ばたいていようと、チュクムにとっては同じである。父様は、いつもチュクムの前には居ないのである。でも皆が楽しそうなので、チュクムもやっぱり楽しい。馬元義兄ちゃんと、張梁叔父ちゃんの二人は、これから馬車で父様を迎えに行くそうだ。だから、チュクムも付いて行くことにした。チュクムが行くので、加太の一家も一緒に行くことになった。加太がいれば、もし父様の様態が悪くても心強い。
 六人を乗せた二頭立ての馬車は、バイフー(白狐)様が用意してくれた。交易で使っている馬車なので丈夫である。父様も自力で故郷への旅を続けている。だから加太は、白馬の津で落ち合おうと早文を送っている。年齢不詳の加太以外は、十七歳の元義兄ちゃんと梁叔父ちゃんがこの旅人の中心なので一行は元気が良い。道中は歌ったり踊ったりと華やかである。
 元義兄ちゃんは、父様の顔を見た後、都へ向かう。太学に入学する為である。太学入学を渋っていた元義兄ちゃんだったが、父様の一件で発奮したようだ。そして、父様になり替わり、太学での改革運動を担おうという心積もりである。そこで、チュクムと、加太の一家も都見物に同行することにした。だから、馬車は二台用意されたのである。
 峠道に差しかかった。山道の斜面には、白い草苺の花が一面に咲き誇っている。シカ(志賀)は馬車を停めさせ、その花に見入っている。シカは、苺が大好きなのである。そして、天女シカは、透き通るような白い肌に、赤い小さな唇が可愛らしい顔立ちである。だから、志賀は、野苺仙女である。都見物は、二月足らずの予定である。だから、帰路には、甘く赤い実を付けている筈である。
 馬元義は、シカのその様子を見て、初老の御者に「ここは、どの辺りですか」と聞いた。御者もそんな天女の様子を察して「もう一時で白馬の津さ。帰りの旅でも、必ずこの道を通るよ」と、幼い天女に微笑んだ。シカは安心して「ありがとうございます」と、御者に微笑み返した。
 御者が馬車を進めようとした矢先、不逞の輩が、二台の馬車を囲んだ。どうやら盗賊団である。その盗賊団は、皆、頭に黄色い木綿襷(ゆうだすき)を巻いている。そして、頭目らしき大男が「命までは取らなねぇ。だから、馬車は置いていけ。この先から白馬の津までは、下り坂だから、女子供の足でも困りゃしない。これが俺様のご慈悲だ」と、怒鳴り上げた。
 この黄巾を巻いた賊の頭目は、四十路前のようである。だから威厳と勢いがある。ぎょろりと、大きな目玉で睨みつけられた馬元義と張梁は、すっかり怖じ気づいている。加太は、退屈そうに鼻毛を抜いている。
 黄巾賊の頭目が、加太の胸倉を掴み「おい、聞いてんのか。この糞爺」と、叫んだ。加太は「ワシ(私)は、糞はせん。時々屁をこくだけじゃ」と、意味不明な返答をした。黄巾賊の頭目は「はぁ~お前、俺様を舐めてんのかぁ~」といきり立った。そして、加太の顔を拳で殴りつけようとした。
 すると、チュクム(秋琴)が、持っていた棒きれで、黄巾賊の頭目の頭をポンと叩いた。チュクムは、まだ五歳である。だから、大した力ではない。しかし、その大男がヘタリと座り込んだ。チュクムは、再び大男の頭をポンと棒で叩くと「お悪戯は、いけません」と言った。これは、チュクムが、いつもウェン(張文)婆ちゃんから叱られている時の言葉である。
お転婆娘のチュクムは、自分がこの言葉で他人を叱れたのがとても嬉しかったようで「ねっ」と、黄巾賊の頭目に笑いかけた。この不思議な光景に、二〇数人の蛮族は、ぽか~んとしている。
その蛮族に、今度は天女シカが「君達は、悲しいの。何でそんなに怒っているの。自分に自信が持てないの」と言いながら、ひとりひとり盗賊団の頭をやさしく撫でて回った。そうされて中には泣き出す者も出てきた。そして「俺は、母ちゃんに捨てられたんだぁ~」「俺は、親父にいつもぶん殴られていた」「俺は、農奴の倅だ。農園から逃げ出したんだ」「俺は、いつも屑だと言われてきた」「俺は、変態なんだ」と、独白を始めた。
 そんな黄巾賊を天女は「大丈夫。大丈夫。チュクムが居れば大丈夫」と、慰めて回った。チュクムが黄巾賊の頭に「お兄ちゃん、お名前は」と聞いた。蛮族は、素直に「パンチュ(蒡楮)って呼ばれてまぁ~す」と返事をした。他の二十人程の蛮族も「ハオラン(浩然)で~す。シュェン(絢)で~す。ズームォ(子墨)で~す。ズーハオ(梓豪)で~す」と名乗り始めた。どうやら蛮族は、チュクムとシカに、すっかり慰撫されてしまったようである。
 そして「この辺りは物騒ですから」と、言いながらぞろぞろと付いてくる。いつの間にか盗賊団は、チュクムの護衛団になってしまったようである。この様子に、馬元義は、「力とは何であろう」と、考え込んでしまった。兎も角、この日を境にパンチュ(蒡楮)の盗賊団は、チュクムの護衛隊になってしまったのである。まったく変な奴らである。

~ 黄巾の男 ~

 変な盗賊団の頭目パンチュは、実の両親を知らない。育ててくれた父親は、酒飲みのロクでなしであった。昔はしっかりした武官だったらしい。しかし、パンチュが物心付いた頃には、自ら農奴にまで身を持ち崩していた。その上、真面目に働くことも少なく。いつも飲んだくれている。そんな酒代をどうやって工面していたかも不思議である。
 飲んだくれの父親は、偏屈で捻(ひね)くれ者のロクでなしではあったが、人でなしではなかった。だから、パンチュは、一度も乱暴な目に会ったことはない。むしろ優しい父親であった。酒さえ飲まなきゃ良い父親である。
 ある夜、その父親が酩酊状態で帰ってきた。そして、呂律(ろれつ)の回らない口で「俺の人生も哀れなものだが、お前も哀れな奴だなぁ。双子にさえ生まれなけりゃ、今頃は大家の貴人暮らしをしていたものを」と絡み付いてきた。酒臭い息に閉口しながらもパンチュは「父ちゃん。俺には、双子の兄弟がいるのか」と聞いた。「嗚呼、兄貴がな」と父は答えた。
 パンチュは「名前は?」と聞いたが、泥酔した父親は、そのまま鼾をかきだした。パンチュは「母ちゃん。俺はどこの子だ」と、母親を振り返ったが、母親は「私は、何にも知らない」と、暗い声で答えた。
 それは、パンチュが七つの時の話である。それから二年後、ロクでなしの父親が死んだ。酔って川に落ち溺死したのである。父親が死んだ翌日から、九歳のパンチュは、農奴としてこき使われた。四人の弟と妹を食べさせていくには、母親の働きだけでは足りなかったのだ。
 十六歳になったある日、監督官が意味もなく母親を強く殴った。パンチュは、それを止めに入り監督官を打ちのめした。監督官の息は酒臭かった。領主の前に引き出された。パンチュは、監督官の非道を訴えた。しかし、領主は、その訴えに耳を貸さず、パンチュは、百叩きの刑を受けた。その翌日、パンチュは、脱走した。
 脱走した農奴が歩む道は悪党の道しかない。パンチュは、山賊になった。身体が大きく腕力のあるパンチュは、悪党の道をぐんぐん駆け上がり、三十路になった頃には、山賊団の頭目になっていた。稼業は、追い剥ぎから家畜泥棒まで多岐に及んだ。何度か捕縛もされたが、コネと賄賂でいつも無事に釈放された。
 パンチュは、賢い男である。裏稼業の山賊以外に、表の家業として商売も行っている。その商売も多岐に及ぶ、小間物屋、酒屋、米屋、肉屋と手広い。仕入れ値はタダである。つまりが盗品屋である。その為、堅気の商売人より儲けが大きい。
 商売を請け負っているのは、捨て子達だ。捨て子達は、我が身さえ養えれば良いので、労賃も安い。それに店舗は持たない。みな露天商である。何しろ盗品屋である。いつでも逃げ出せる態勢が必要である。だから、店舗の家賃も発生しない。
 仕入れ値がそのまま粗利益であり、固定費も少ないので、パンチュの事業は大成功である。パンチュの手下は、百人を超えている。山賊家業の荒くれ供は、二十数人だが、商売を手伝っている捨て子や、身売りされかかっていた娘達が大勢いるのである。更にはパンチュの噂を聞きつけ、流民も頼ってくるようになった。
 パンチュは、人の見分けが巧い。相手の一寸した身振りや言葉の端々から、その人間性を探り出すのである。だから性根の悪い奴は、裏稼業に、性根のまっすぐな奴は、表の稼業に回すのである。パンチュ自身が悪党の顔と、善人の顔を持っているのであるから容易いことである。
 パンチュは、昔から頭に黄色い木綿襷(ゆうだすき)を巻いている。死んだ父親もいつも薄汚れた木綿襷を頭に巻いていた。「こうすると、汗が目に入らねぇんだ」と、言いながらパンチュの頭にも、薄汚れた木綿襷を巻いてくれた。
 薄汚れた巾は、貧しい民の証である。しかし、今のパンチュの頭に巻かれている巾は、美しい黄巾である。黄色は黄金の色であり、何よりも明るい。だからパンチュは、黄色が好きである。だから、捨て子の丁稚達にも、お揃いの黄色い衣を着させている。そして、それはいつも清潔で美しい。
 子供達の衣服を洗濯してくれるのは、パンチュの育ての母と、妹達である。母と、四人の弟と妹は、農園から連れてきた。ついでに領主の金蔵も空っぽにしてきたので、今頃、領主は零落し、農園は農奴達の自主管理農園になっているかも知れない。だが、パンチュにはどうでも良いことである。
 パンチュは、世の中の出来事等には興味がない。無学なパンチュである。広く世の中を知ろうという気も湧かない。明日のことさえままならなかった身である。今は自由でいられるだけで満足である。同じ境遇の子供達を囲い込んでいるのは、その自由を一緒に楽しみたいからである。独りで自由な時を楽しむより、大勢で自由を楽しむ方が数倍楽しいと、パンチュは思っている。
 鎖に繋がれ、額に汗し、無益な労働に狩り立たれるのは、死ぬより辛い。他人の自由を奪わないこと、それがパンチュの自由の条件である。パンチュが手下に厳しいのは、この掟を破る時である。強い者が弱い者の自由を奪うのが、パンチュには許せないのだ。ある日、性根の悪い男が娘を手ごめにしようとした。それを知ったパンチュは、その男を真っ二つに切り裂いた。それ以来、パンチュの盗賊団は、女子供には礼儀正しく統制が取れている。
 ある日、都から流れてきた役人が「やぁ竇游平殿、めずらしい所でお会いしましたなぁ。勉学の旅ですか」と店先で声を掛けてきた。パンチュは「いやそれは、お人違いをしておられる。拙者の名は、竇游平ではない」と、手を振って人違いを諌めた。役人は「いやぁ~それは失礼した。しかし、竇游平殿と瓜二つですなぁ。本当に、竇游平殿ではないのですか。私をからかってはいませんよね」と、尚も疑いの目を向けた。だから、店の者達に「誰か、このお役人様に、俺は、竇游平殿ではない。と説明してやってくれ」と、助けを求めた。
 店は、パンチュの妹が営む料理屋である。そこで、妹と亭主の料理人が出てきて「この人は、私の兄さんで、名はパンチュで~す」「間違いありません。パンチュは私の義兄です。それに、私達は都へなど行ったことはありません」と口添えしてくれた。そこで、役人も「ふ~む。他人の空似か。それにしても良く似ている。どうです。お近づきになった証に、一杯」と酒に誘ってきた。
 パンチュも気になる話なので「それでは、お役人様の就任祝いに拙者がお誘いしましょう」と二人で酒酌み交わす仲となった。役人の話では、竇游平という男は都の太学で先生をしているらしい。そして、ドウ(竇)家は、都でも有名な大家らしいのである。「もしかしたら、その男は、俺の実の兄ではないか」と、パンチュは気がかりになり、母親に聞いてみた。
 母親は詳しいことは知らなかったが、昔、父親が竇何某に仕えていたことがあったと言い出した。そこで、パンチュは、都に行ってみようと思い立った。兄弟の名乗りをするつもりではない。相手は、都の太学の先生であり、自分は悪党である。どの面下げて「弟でございます」と言えようものか。ただ、一目肉親を見ておきたい一心である。
 都に着いて手下に竇家の様子を探らせると、父は既に他界し、母も昨日亡くなったばかりだと分かった。奇遇である。死に目には会えずとも、葬儀を側から見守ることは出来そうである。埋葬の地は、沢山の弔問客であふれていた。確かに大家の葬儀である。やがて、棺が土葬されようとした時、パンチュの身体は、ひとりでに動き、棺の前にあった。しかし、当主と瓜二つの自分の顔を見られてはまずいだろうと、ずっと顔を地に伏せたまま這いずり寄った。
 棺を前にすると、パンチュの心は乱れた。この棺の中に、一度も見たことのない実の母が眠っているのだ。パンチュは、額から血を流すまで、棺に頭を打ちつけ号泣した。それから、静かに元のように、顔を地に伏せ這いずり立ち去った。そして、人垣の外れで立ち上がったパンチュの後ろ姿に、人々は後光が射すのを見た。「もう、誰も恨むまい。もう何にも怒るまい。もう悲しむことは何もない」パンチュは、念ずるように、幾度もそう呟き歩いて行った。
 パンチュは、まめな男である。追い剥ぎ等の小さな仕事から、役所の金蔵を襲う大きな仕事まで、こつこつと悪行に励んでいる。もし、これが悪行でなければ、人々はパンチュを、勤労者だと褒め称えたであろう。しかしパンチュは、悪人である。善人になろうとは露ほども思ってはいない。「正しい道。俺には関係ないね。俺の道は茨の道さ。しかし、自由の道だ」と言って憚らない。
 中ぐらいの仕事である家畜泥棒を終えて帰ってきたパンチュに、幼い子供達がじゃれ付いてきた。パンチュは、子供に好かれる性質(たち)である。しかし、自身は四十路を前にしても独り身である。幼い子供達は、甥に姪、それに拾ってきた捨て子達である。女嫌いという訳ではない。色街で夜を明かすことも多い、馴染みの遊び女も数人いる。子供も好きである。しかし、自分の子を持とうとは思わない。「人は何故だか独りで産まれて、何故だか独りで死んでいく。ままならないものである。しかし、その間は自由に生きていたい」と、パンチュは考えている。だから、前向きな孤独者である。
 寂しくはない。パンチュに失うものは何もないのである。そして、それがパンチュの強さである。パンチュの大きな目がぎょろりと開いた。それから大口を開けて大欠伸をした。両の眼の端からは、どぼどぼと涙が滴れ落ちた。別に悲しいことが有った訳ではない。「嗚呼~退屈だぁ~何か面白いことはないか~」という雄叫びを上げたのである。
 そこへ、都合良く手下の一人が飛び込んできた。そして「お頭、奇妙な旅の一行がいますぜ。幌馬車が二台で旅をしているんですが、護衛が居ないんです。それに馬車に乗っているのは、年寄と女子供だけです。金目の物もたんと積んでいるようなんですが、何で護衛を付けてないんでしょうね」と言った。
 パンチュが「それは、きっと罠だろう。襲ってきた山賊を一網打尽にしようというお役所の魂胆だろうよ」というと「いや、お頭、討伐隊の姿も見えないんです。四方を隈なく探索しましたが、討伐隊の姿どころか、役人の影さえないんです」と言い返した。「ふ~ん。余程の馬鹿か、肝の据わった奴らだな」と、パンチュがいうと「いや、妖怪の類かも知れませんよ」と、手下がおどけて言った。「う~む。それは面白い。ひとつ脅かしてやるか。今頃奴等はどこに居る」と、パンチュは腰を上げた。「ヘイ、もう二時程で峠に差し掛かるところです」と、手下が答えると「良し、急ぎ二十人ほど集めろ。」と、パンチュは山賊支度を始めた。
 黄鶯(ウグイス)が春の陽気を告げている。黄鶯は身を潜めて鳴いているが、この森の中では身も声も潜めてパンチュ達山賊団が待ち伏せをしている。峠道に差し掛かった所で、都合良く馬車が足を止めた。そして、天女が下りてくると、白い草苺の花々に見入っている。やはり御者以外には、風変りな異人と、少年が二人、それに二人の天女と幼い娘しか居ない。パンチュは、何だか気抜けを覚えたが、ここまで手下を引き連れてきた手前もあるので、予定通り襲うことにした。それに、今日集めた手下は、皆若くて元気の良い奴らである。何もせずに手ぶらで戻ることになれば不平も出よう。
 だっと森から飛び出し馬車を囲むと、パンチュは「命までは取らなねぇ。だから、馬車は置いていけ。この先から白馬の津までは、下り坂だから、女子供の足でも困りゃしない。これが俺様のご慈悲だ」と怒鳴り上げた。さぞ驚くだろうと楽しみにしていたのだが、少年二人が怯えている以外には、大して脅しの効果はなかったようである。
 手下の一人が「すごいお宝がたんまりと積まれていますぜ」と言ったが、パンチュは、お宝には興味はない。退屈しのぎに脅かしにきたのである。しかし、二人の天女は珍しいものでも見るように、薄っすらと笑みを浮かべて山賊団を眺めている。風変りな異人に至っては、退屈そうに鼻毛を抜いている。完全に無視しているのである。
 パンチュは、何だか腹立たしくなり、異人の胸倉を掴みぶん殴るぞっとして脅してみた。すると、すとんと力が抜けた。目の前には、棒きれを手にした幼女が立っている。そして、「お悪戯は、いけません」と言うと愛らしく笑った。
 パンチュは「しまった!! 本物の妖怪だ」と思ったが力が抜けて足が動かない。周りを見渡すと手下供も、幼い天女に魂を抜かれている。こんな所で妖怪に肝を食われて死に絶えるとは情けないと涙が出そうになった。しかし、どうにも力が入らない。嗚呼もうこれまでかと思ったら急に力が蘇ってきた。
 あれれ???……と思っていると妖怪供を乗せた馬車が、ゆるゆると峠道を下っていく。そして何故だかパンチュと山賊団はその後を追った。その様子を、天女のひとりが「何でついてくるの?」という顔をして見ている。それを察した手下のひとりが「この辺りは物騒ですから」と言った。
 パンチュは「何て、間抜けなことを言うんだ」と思ったが、パンチュ自身の足も止まらなかった。「いかん、いかん、すっかり妖怪に魂を掴まれてしまった。呪文は、こんな時の呪文は、何だったかなぁ~」と思っているうちに、白馬の津まで下りてきてしまった。
 街に降りると、弟夫婦が営む宿の前まできてしまった。弟が「兄ちゃん、お客さん連れてきてくれたのか。有難う」と手を振っている。パンチュは「いかん、いかん、お前まで妖怪に魂を抜かれてしまうぞ。下がれ、下がれ、近づくな」と心の中で叫んだが、言葉にならない。その内に甥っ子や、姪っ子が、妖怪の頭の娘っ子と打ち解け遊び始めた。最悪である。パンチュは何とかして、この妖怪達から、弟一家を引き離そうとしたが、異人が「前金だ」と言ってぽんと金包みを義妹に手渡した。その金包み重さに、義妹は満身の笑みを浮かべ「いらっしゃいませぇ~」と、何も知らず妖怪を宿に導いていく。
捨て身の生き方をしてきたパンチュは、怖いもの知らずだったが、今回程、怖さを感じたことはなかった。ニコニコと屈託のない笑顔を浮かべた娘っ子に手も足も出ないのである。“人の力とは何だ”と、パンチュは、自分の力の限界を知らされていた。
 河原を一面に菜の花が覆っている。そこは、黄色い天上界のようである。その川岸に一人のやつれた男が降り立った。男は船頭に手を振り、船頭は「しっかり生きろよ。お前の道は間違っちゃいねぇよ~」と、声を上げ大河を引き返していく。やつれた男は、とぼとぼと黄色い河原を歩み行き、河宿に向かった。
 向かった河宿は、パンチュの弟夫婦が営む宿である。男が宿の前に立つと、愛想の良い女将が飛び出してきた。「あらまぁいらっしゃいませ。お泊まりは学士様おひとりですか? あれ? 学士様……。ああ、張角様じゃないですか。やつれちゃって、見違えましたよ」と、女将は破顔で迎えてくれた。そして「兄さん、兄さん、張角様のご到着ですよ。兄さん~」と、奥に声を張り上げた。
 奥からパンチュが渋々顔で「いらっはいまへぇ~」と、やる気のない声で出てきた。その後ろから兄のパンチュを押しのけるように、これまた愛想の良い弟が飛び出してきた。「張角様、お待ちしておりました。ただ今、加太様や、お嬢様達は街に出ておいでです。街の外れに市が立ったものですから。まぁまぁ張角様は、皆様がお帰りになるまで奥の部屋でお寛ぎください」とやつれた男を案内し始めた。
 女将が「張角様。お腹はお空きではありませんか? そうですか。では茶菓子でもお持ちしましょう」と接待に余念がない。確かにパンチュには人を見る目がある。もし、この宿の主人が、無愛想なパンチュなら成り立っていかなかったことだろう。パンチュは「あれが妖怪の親玉か」と張角の後ろ姿を見送った。
 年の頃は、パンチュより一回り程若かそうだが、学の高さは、パンチュの百倍は有るだろう。それに侠気の男だ。そうパンチュは、張角の人読みをした。そして「困ったもんだなぁ。厄介な妖怪に捕まってしまった」と溜息をついた。
 秋の野に、ファンファロンヤー(黄花竜牙)の花が咲き乱れた。一面黄色に染まったその野で、盗賊団の頭目パンチュは張角から授業を受けている。秋の風が心地良い。別に野外授業を楽しんでいる訳ではない。張角の薬草摘みの合間に、授業を受けているのである。傍目からは奇妙な光景である。大きな四十路男が、神妙に、若い学士から授業を受けているのである。
 この状況をパンチュが望んだわけでもない。ただ何故だかパンチュには、この状況に抗うことが出来ないのである。本拠地の白馬の津を離れ、ジュルー(鉅鹿)まで付いてきてしまったのも、パンチュの本意ではない。何故だか足が勝手に動き、すたすたと張角一行の後を付いてきてしまったのである。
 弟夫婦や、手下達も不思議そうな顔をしながら見送ってくれた。「どうやら妖怪の餌食になったのは、自分だけで済んだようだ」と、パンチュは妙な納得をした。それに、案外張角の授業は面白いのである。これまで、学問とは無縁の人生を送ってきたが、やっぱり人には、学問も必要であると思い始めていた。
 張角は時より、パンチュの顔を懐かしそうに、それでいて悲しそうに見つめることがあった。パンチュは、もしかすると、自分に瓜二つの男と、何か関係があるのではないかと思い始めた。しかし、下手なことは聞くまいと、口を噤(つぐ)んだ。これ以上妖怪に魂を吸われたら面倒である。そう思ったのである。
 幼いチュクムとは、すっかり祖父さんと孫の関係である。パンチュも「この妖怪娘め!!」とは思いながら、だんだん愛おしくなってきた。加太とは、すっかり飲み友達である。時より変な実験にも立ち会わされるが、それもまた面白い体験である。
 張角は、シィァン・ゴンジュ(襄公矩)という怪しげな男に、『太平清領書』いう怪しげな奥義書を授かり、タイピンダオ(太平道)という怪しげな教団を立ち上げた。パンチュは“やっぱり妖怪のなせる業だ”と思ったが、このタオ(道)というのもなかなか面白い。パンチュの生き方に通じるところも、多々あるように思えた。
 パンチュの意志とは裏腹に、いつの間にかパンチュは、太平道の指導者のひとりになっていった。“何だかなぁ~”と違和感を持ちながらも、自由闊達なこの集団がまんざらでもなくなっていた。そして、気がつくと子供達に「自由とはな。他人の自由を奪わずに、共に自由に振舞うことだ。奪われず、奪わずがその極意だ」と教えている。
 パンチュは、何故か子供達から好かれる男である。子供達はパンチュを真似て、頭に黄色い木綿襷(ゆうだすき)を巻くようになった。そして、チュクムも、赤くて長い髪を、黄巾で結び走り回っている。その姿は、まるで天命を帯びているかのようである。
 四~五年が経った頃、農婦に伴われた小さな男の子が張角を訪ねてきた。名をドウ・フー(竇輔)と言った。張角は竇輔に会うと、その小さな身を抱きしめ、ただただ涙した。傍らで弟の張保も涙し「竇游平先生に良く似ている。嗚呼、無事で良かった」と、安堵の声を上げた。張角は、パンチュを呼ぶと、これまでのいきさつを語って聞かせた。
 パンチュは、竇游平が、実の兄だったと確信した。竇游平の一族は、悉く滅ぼされたが、生まれたばかりの竇輔だけが生き延びたようである。奇しくも捨てられたパンチュと、竇輔だけが、竇一族の生き残りである。パンチュは、兄の孫の竇輔を引き取り、そして、兄の革命への情熱を引き継ぐ決意をした。その日から、黄巾を頭に巻いた山賊パンチュは、革命への道を歩み始めた。そして、パンチュの革命への道は、自由への道である。

~ 黄巾の女 ~


 ジュルー(鉅鹿)の田にも田植え唄が響いた。パンチュは、小さな竇輔を伴い田植えの手伝いである。大勢の早乙女に交じって山賊風情の輩が苗を植えている。良く見ると、パンチュの手下供である。どうやら、パンチュを慕って鉅鹿に越してきたようである。白馬の津の商売は、パンチュの母と兄弟達が守っている。だから、商売には役立たずの輩だけが、引っ越してきたのである。しかし、山賊なので力だけは余り有る。そこで、皆が俄か百姓になったのである。
 百姓の肝っ玉母さんや、小うるさい親父供に叱られながらの仕事ではあるが、皆楽しいそうである。一人の若い山賊が「年寄りや、おっかぁは叱るのが仕事。若いもんは、叱られるのが仕事」と言うと、稲田に大笑いの渦が起こった。山賊の多くが、おっかぁに叱られたことがないのだ。だから、肝っ玉母さん達の叱り声も嬉しいのである。悪党の卵は、誰も叱る者がいない子供達である。叱られない子供達は、忘れられた子供達である。それは、捨てられたことよりも辛い出来事である。
 百姓仕事が暇になると、元山賊共は、太平道の自衛団を務めている。何しろ元山賊が自衛団を担っているので、治安力はすこぶる高い。悪党の手口は全て知り尽くした輩である。下手な盗賊では太刀打ち出来ない。さらに、討伐隊の大隊長だった張曼成が太平道に加わると、この自衛団は更に強化された。
そして、入隊の最有力資格が「山賊経験あり」だと周辺に知れ渡ると、冀州周辺の多くの山賊が、入隊希望を出してきた。結果的に、元討伐隊の大隊長張曼成は、冀州周辺の賊を皆平らげたのである。これには当の張曼成も「力とは何であろう」と、苦笑してしまった。そして、太平道が十万、二十万、三十万、そして百万と膨れ上がるにつれ、自衛団の規模も、正規軍に劣らない規模になっていった。
 そこで、張角は、パンチュを大将軍として任に当たらせた。漢王朝の軍と対比すれば、官位は征北将軍に匹敵する高い重職である。山賊上がりのパンチュは、再三辞退したが、張曼成の強い推薦もあって、皆から押された格好になった。しかし、パンチュには、漢王朝の高官の血が流れているのである。無理な話ではない。そして張角は、パンチュにドウ(竇)姓を名乗らせた。大将軍ドウ・パンチュ(竇蒡楮)の誕生である。
 大軍となった太平道の自衛団は、黄巾軍と名乗った。黄巾軍の各小隊は、各村々を巡回し治安に努めた。黄巾軍は、賄賂を受け取らない。賄賂が払えるのは、豪族や金持ち達である。つまり、漢王朝の軍隊は、金持ち達の為の軍隊だが、黄巾軍は、貧乏人の為の軍隊である。その為、冀州では、漢王朝の正規軍よりも、黄巾軍の方が民衆の期待と信頼を得た。それは、冀州太平国とも呼べる様相になりつつあることを予見させた。
 この太平道の躍進と、人材の豊富さに危惧を抱く官僚達も居たが、吝嗇に溺れる高官達からは無視された。「そんな虫けらどもの討伐に大そうな財貨を使う位なら、自分の懐に入れておこう」という性根の悪さである。
 秋の荒れ野に、遊女が臥せっている。人の通りは有るが、遊女を助けようとする者はいない。女は酷く辛そうに下腹を押さえている。そこへ、ドウ・パンチュ(竇蒡楮)の黄巾軍が通り掛った。パンチュは、馬を下りると「おい、娘。どうした」と聞いた。遊女は唸っているだけで返事をするのも辛そうである。
 パンチュは、荷馬車を遊女の傍に付けさせると、二人の兵士に抱え上げさせ、荷馬車の荷台に横たえさせた。そして、教団の館に戻ると、加太を呼びにやらせた。ほどなく加太が現れ女の様態を見ていたが「大事ない。子を流したことのある女が、時々かかる症状だ。しばらく、安静にしていれば治る」と言って薬を煎じてくれた。
 傍らで「嗚呼、ファンチュファ(黄屈花)ですか」と、パンチュが言った。いつのまにか、張角や加太に感化されてパンチュは、薬学にも詳しくなってきたのである。「流石に竇家の血筋ですな。学問の飲み込みが早い。では、飲み込みついでに、今夜も一杯飲み込みましょうかのう」と加太は酒を誘う仕草をして去った。
 “どうやらこの娘は、女の月のものの流れが悪いようだな”と、パンチュは合点して、女医に後を託し仕事に戻った。近頃、パンチュは、張角が使う技は、妖術ではなく医術だと理解してきた。唯一チュクムだけが、妖術使いのようである。チュクムのなす技は、いくら学問を究めても、未だにパンチュには理解できないのである。
 “やっぱり、俺の魂を操っている妖怪は、チュクムか”と思っているが不快ではない。むしろ“チュクムが俺の魂を操っているのなら、楽しい人生になってきたわい” と思っている。これは恋の感情に近いようである。楽しくて人生がわくわくするのである。
 “張角が率いている太平道は革命の集団だが、チュクムに率いられている者達は、神の国に暮らしているのかも知れない。俺は一度も会ったことはないが、チュクムの伯母は、倭国の巫女女王だと聞いた。どうやら、倭国は神の国のようだ。いつか俺も神の国に行ってみたいものだ”とパンチュは、夢を膨らましている。
 夕暮れ、遊女が元気になったようで、お礼の挨拶にきた。「有難うございました。私のような下賤な者を救っていただき、お礼の申し上げようもございません」と、膝を折り挨拶した。「気に留めんでも良い。今はこのなりだが、ワシも昔は山賊じゃ。下賤の者より、もっと性質(たち)の悪い輩じゃ。そんな奴に礼は不要じゃ」と笑顔で答えた。
 微笑んだ目尻にもすっかり皺が増えた。パンチュも、もう五十路を歩みだした。夕暮れの明かりの中で遊女の顔を良く見ると、二十歳半ばのようである。“もし、俺が所帯を持っておれば、こんな娘が居ても可笑しくない年頃になったのだな”と感慨に耽った。
 すると女は「先程、お医者様と『今夜も一杯』と、お約束されていましたね。私は、朝日楼という妓楼の女です。もし宜しければ、我が妓楼でお礼がしたいのですが、足を運んでは頂けませんか。お酒は昨日新酒が入りましたので、喜んで頂けるのではないかと存じます」と申し出てきた。「ほう、新酒か。良いのぉ。じゃが、加太殿もワシも底なしじゃぞ。良いのか」とパンチュは、誘いに乗った。「はい、お待ちしております。部屋には樽ごと酒を運ばせておきますから、存分にお味わいください」と言うと帰って行った。
 それから、時々パンチュは、朝日楼に足を運んだ。加太とくることもあれば、部下の将兵を伴って通うこともあった。何れもパンチュの払いである。パンチュには、使い切れないほどの財貨が有った。山賊家業と商売で蓄えた財貨である。その莫大な財貨の大半は、太平道の活動資金に寄贈した。しかし、自分ひとりの老後の資金だけは残してある。いつまで生きるか分からないが、米寿を迎えても不自由しない位の財貨だけ残したのである。
 竇輔に残しておく財貨の心配はいらなかった。僅かばかりだが、竇輔には、竇家の家屋敷と荘園が残されている。竇輔は、五年前にチュクムが青洲太平道を立ち上げると、高密に付いていった。だから、今はまた、気楽なひとり暮らしで余生を過ごしている。
 朝日楼に通う内に、女の生い立ちが少し分かってきた。名は、オミナエシ(女郎花)である。「変わった名だな」と聞くと「倭人の客がつけてくれたんだぁ。秋の山野に咲く黄色い花らしいよ。その倭人は、秋に国を出たらしいんだぁ。その後かい? 知らないね。西域に行くって言っていたから……、国に帰れたのかねぇ。それとも西域の砂になったのかねぇ。私にはどうでも良い話だけどね」と近頃は馴れ馴れしい話し方をしてくる。
 本当の名はファンファ(黄花)というそうだ。名前を付けてくれた父親は、小さい時に家を出て行ったそうだ。そもそも旅芸人だったようで出ていった理由は知らないそうである。今でも覚えているのは、二人で魚を釣りに行った時のことである。父親と一緒に、河原の流木を集め焚火を起こした。そして、釣った魚をその火にかざして食べた。「たくさん食べろよ」と言って、揺れる炎に照らされた父親の横顔が、最後の思い出である。
 オミナエシは、男運の悪い女のようである。十六歳で好きになった男は、良家の子息だった。男の名は、ヂーロン(稚竜)と言った。やさしい男だった。オミナエシの母親は、商才に長けた女だったらしい。父親が出ていくと酒房を営み、人を雇う程までに店は繁盛した。だから、オミナエシは、金に不自由することなく育った。しかし、良家の子息と酒房の娘では身分違いである。ヂーロン(稚竜)の父親が許す仲ではない。子を宿したが、父親に無理やり堕胎させられた。心やさしいヂーロン(稚竜)は、その父の仕打ちに怒り「ふたりで死のう」と言った。二人は、冬の河に身を投げた。黄色い濁流が、二人を抱き抱え押し流したが、オミナエシだけは死ねなかった。
 オミナエシは、故郷から追い出された。それから、乙女の春をシノギ(喰い繋)ながら、オミナエシは流転を続けた。そんな暮らしの中で、喧嘩も強くなった。優男(やさおとこ)なら一発で殴り倒した。刃物沙汰も何度となく起こした。喧嘩剣法である。女だと舐めてかかった男は全て切り倒した。
 そんなある日シェヤー(蛇牙)と呼ばれる悪党に出会った。蛇牙も喧嘩剣法でのし上がってきた男であった。二人の死闘は鎬(しのぎ)を削る戦いになった。辛うじて、蛇牙がオミナエシを組み手で押し倒した。その日から、オミナエシは、悪党蛇牙の女になった。それは、張角が太平道を立ち上げた頃のことである。それから一年後オミナエシは、蛇牙に妓楼へ売られた。馬三頭の金であった。その馬三頭の金を掴むと蛇牙は消えた。それ以来蛇牙の顔を見たことはない。
 馬三頭の金で売られたオミナエシだったが、朝日楼の女将は、オミナエシを杭に繋ごうとはしなかった。そんな絆などなくても、オミナエシには、行く当てなどなかった。程なく、朝日楼の女将は、オミナエシに商才があることに気がついた。母親譲りだったのであろう。それで遊女の役だけではなく、手代の仕事もさせた。あの日は、隣村まで飲代の取り立てに行く途中だったそうである。飲代の取り立てにはしくじってしまったものの、パンチュという上客を曳いてきたので、女将は上機嫌である。今では、オミナエシは、遊女頭として裁量権を与えられている。そうしてオミナエシは、薄幸な青春を凌いできたようである。
 翌年、パンチュは、オミナエシを身請けしたいと、女将に申し出た。女将は「オミナエシは、しっかり者ですからねぇ。安くは売れませんよ」と言った。傍らでオミナエシが嬉しそうに笑っている。女将は、どんな安い値でも、譬え馬一頭の値であっても、オミナエシを自由の身にするつもりである。パンチュは「確か売られた時は、馬三頭程の値だったそうだな。では女将、馬百頭の値で買い戻せないか」と言った。女将は「ひっ!!」と腰を抜かしそうになった。馬百頭の値なら、豪邸が建ち朝日楼が丸ごと買える値である。
 「ドドド…パンチュ様、馬五頭で結構でございます」と、慌てて女将は、頭を床に付けパンチュに詫びるように言った。しかしパンチュは「いや、馬百頭は譲らん。馬五頭等そんな安値でオミナエシが買えるものか」と、引き下がらなかった。オミナエシは涙が溢れて止まらなかった。
 パンチュは、オミナエシを身請けしたが、所帯は持たなかった。時々通ってくるだけである。遊女だから妻にしない訳ではない。理由は色々ある。第一に自分は老体である。いつこの世を去るか分からない。第二に自分には家族を持つという実感が湧かない。第三には、オミナエシはまだ若い。好きな男が出来たらいつでも別れてやろうと思っていた。そこで街外れに屋敷を買って住まわせた。オミナエシは、老いた母を呼び寄せ母と二人で暮らし始めた。
 ムォリー(茉莉)の花が得も言えぬ香りを放っている。そして、くらくらしそうなその芳香に誘われて、客がやってくる。朝日楼は二階屋であるが、その屋根の軒まで茉莉の蔓は伸び上がっている。南風が暖かさを運んできた頃、朝日楼は茉莉の白い花で覆われる。女将が蔓を壁伝いに這わせたのである。
茉莉の花は、夜が近づくと花を開く。花の時期、女将は朝から花の蕾を摘み取り、夜になり花開き香りを放ち始めたところで茶に混ぜる。そうして茉莉茶を作るのがこの季節の楽しみである。
 茉莉茶は、一年を通じて花の香りを楽しむことが出きる。だから、この茶が飲みたくて朝日楼に通う客も居る位である。女将の名はリュ・ムォリー(呂茉莉)という。生まれは、ハンダン(邯鄲)である。父親は、河漁師の網元であった。母親が芸事の好きな人で、ムォリーも幼い時から歌や踊りを習って育った。父親の祖先は、呂不韋という大商人だったと聞かされている。だから、自ずと妓楼の女将になったのである。
 妓楼を開いたのは、二十四歳の時である。前年に両親が続けて亡くなった。そこで、家屋敷を改装し妓楼にしたのである。二階の座敷には朝日が差し込むので朝日楼と名づけた。呂不韋の血が濃かったのか、リュ・ムォリーの朝日楼は、邯鄲で一番の繁盛店になって行った。
 そして、二年後には鉅鹿にも朝日楼を開いた。翌年、鉅鹿から邯鄲に戻る途中で盗賊に襲われた。しかし、運が良いことに一人の剣豪が通りかかり救ってくれた。その剣豪の名はリー・ヂョンチェァ(李仲車)と言い、今はムォリーの亭主である。
 李仲車は、都の武官であったようだが、罷免されて浪々の身になっていたのである。盗賊に襲われ警備の大事さを悟ったムォリーは、用心棒を雇うことにした。それまでも、荒くれ者の河漁師が使用人として幾人かいたので、用心棒代りにはなっていたのだ。しかし、この一件で武人の必要性を感じたのである。
 武人は、鉅鹿と、邯鄲の朝日楼それぞれに二人置くことにしたので、李仲車を加えると、ムォリーには五人の侍が付いたのである。そして、四人の武人は、李仲車と一緒に罷免された仲間達である。五人の剣豪に守られた朝日楼は治安が良い。だから、裕福な旦那衆からの評判も良く、ますます繁盛している。
 李仲車は、パンチュと同じ歳であった。そこで、二人は仲好く酒酌み交わす仲となった。李仲車は、剣の腕のみならず兵法にも明るかった。そこで、最近は大将軍パンチュの兵法の先生でもある。
 李仲車と、女将ムォリーは七つ違いである。ムォリーは二十八歳の年に娘を授かった。娘の名はリーリー(李梨)である。オミナエシが、朝日楼へ売られてきた時、リーリーは五歳であった。野良犬のような人生を送ってきたオミナエシは、抜身の刀のような女だった。だから、他の芸妓や遊女は声もかけなかった。そんな喧嘩犬のやさぐれ女オミナエシに寄って行ったのは、リーリーだけである。
 こともあろうかオミナエシは、リーリーに喧嘩の仕方を教えて遊んだ。オミナエシは、女の子の遊びを忘れてしまったのである。しかし、その様子は、小熊がじゃれ会うようで微笑ましかった。オミナエシは、リーリーの子守りをする内に、ささくれ立った心が落ち着いてきた。
 リーリーは賢い娘である。十歳の時には、父李仲車から習った孫子の兵法を諳(そら)んじていた。ある日オミナエシが怒ってやってきた。気に入らない客が居たようである。オミナエシはリーリーに「ほれ、頭にきた客に対しての心得は何だったっけ」と聞いた。リーリーは「反客為主(はんかくいしゅ)です」と答えた。オミナエシが「その心は?」と聞くと「一旦、客の言いなりになり、おだてあげた上で懐に飛び込み、財産を巻き上げるのです」と、リーリーはさらりと答えた。この様子に女将ムォリーは呆れ果てていた。しかし、オミナエシの怒りは治まりリーリーの策を用いた。その旦那は、今や朝日楼の上客である。
 オミナエシが、パンチュに身請けされた時、リーリーは十六歳になっていたが、嫁に行きそうな素振りを見せなかった。日々武術にばかり精を出している。武術の師匠は、五人の剣豪が居るのでその腕前は相当なものである。しかし、少しは娘らしい処もないといけないと思い、ムォリーは、オミナエシの所に女中奉公に出した。ところが、オミナエシの許に行ったリーリーは、パンチュに頼んで黄巾軍に入ってしまった。ムォリーも女としては遅咲きであったので、孫の顔を見るのは諦めた。
 稲が青々と伸びてきた。そして、負けじとラールー(辣蓼)も草丈を伸ばし始めた。良く見ると、わずかに紅色を帯びた白い小さな花を、初夏の稲田で揺らしている。朝日楼の女将リュ・ムォリーは、その辣蓼の葉を摘み、蓼酢を作ろうとしている。河漁師の網元の家に育ったムォリーは、河魚が大好きである。だから、朝日楼では、料亭並みの酒の肴が出される。ほろ酔いで色気と食い気の両方が味わえるのである。だから繁盛しない訳はないのである。
 そして、今の季節は、やはり昇りシャンユー(香魚)である。香魚は、若草の快い香りがするので、河魚は苦手な人にでも好まれる。酒好きには、この内臓を塩辛にしたものが滅法たまらない。塩焼の方は、芸子に食べさせても良い位である。しかし、背ごしは、やはり酒の肴にしよう。骨ごと薄切りに作るこの刺身は、昇り香魚ならではある。こりっとした歯ごたえの骨もまだ若く柔らかい。この香魚に欠かせないのが辣蓼で作る蓼酢である。このピリッとした辛味は、塩焼でも背ごしでも旨味を高めてくれるのである。
 ムォリーの蓼酢作りは、収穫から完成まで五人の用心棒も手伝ってくれる。手伝いの礼は、内臓の塩辛なので張り切らない訳にはいかないのである。もうひとり内臓の塩辛が大好物の女が現れた。朝日楼の常連客である。色街に女の常連客もおかしな話だが、この女は少し前まで男だったのである。少なくとも女将のムォリーはそう思っていた。
 女は否、男は、馴染みの旦那衆に連れられて朝日楼にやってきた。絵師でウー・シュェンツー(呉玄子)だと名乗った。父親は、宮廷の装飾師らしい。若い呉玄子は今、修行の旅を続けているそうである。そして、旦那衆の話ではなかなかの腕らしい。「朝日楼の座敷の壁絵も、呉玄子に書かせたら、宮廷並みの華やかさになるぞ」と、その酒宴は盛り上がった。そして、その日以来呉玄子は、オミナエシの客となり、良く通うようになった。
 そして、オミナエシが、パンチュに身請けされると、呉玄子は女になった。女将のムォリーは、何だか狐に抓まれた気分である。確かに男にしては優男ではあった。“舞妓の衣装を着させたら似合うだろうね”とも思っていた。しかし、やはり女であったとは驚いた。
 更にムォリーが驚いたのは、女になった呉玄子が黄巾軍に入隊したことである。呉玄子の本当の名はグー・リンツァイ(顧鈴菜)というらしい。父親はグー・イン(顧寅)という名の宮廷絵師であるのは本当だった。母は、ユーチェン(宇春)という名の宮廷医女らしい。
 リンツァイ(鈴菜)は、十六歳で良家に嫁いだそうである。しかし、リンツァイは酒好きである。十二歳になった頃、興味本位で父顧寅の酒を盗み飲みしたそうである。そして、その心地良さにすっかり魅せられてしまったようである。良家に嫁いだ翌年、こっそり酒房で酒を飲んでいるところを舅に見つかってしまった。そして絶縁である。
 リンツァイは、きりっとした美人である。だから、夫は未練があったようだが、父親の怒りすさまじく、抗いようがなかったそうである。それから、実家にも帰れないので、当てもなく旅に出た。路銀に困ると、大家の門前で絵を描き売りこんだ。それでどうにか生計を立てていたが、十九の春に、ある大家の旦那に妾にならないかと言い寄られ難儀をした。そこで、頼まれていた壁絵を途中で放り出し、早々にその屋敷を立ち去った。もちろん金銭も貰えなかったので、しばらく難儀した。
 それから、花鳥風月の絵を見せては売り込み、屋敷の装飾絵や、家族の肖像画を描く際には男装をし名も呉玄子に変えたのである。しかし、オミナエシと一夜を共にしては、女だとばれない筈はなかった。しかし、苦労人のオミナエシは、リンツァイの嘘に付き合ってくれたのである。
 そして、パンチュに身請けされたオミナエシに会いに行くと、オミナエシは、リーリーに付き合って仕方なしに黄巾軍に入隊していた。そこで、大将軍パンチュは、オミナエシに女部隊を作らせた。その女部隊の隊長になったオミナエシに、リンツァイも誘われたのである。その為、もう男装の必要はなくなったのである。
 そう聞かされても、朝日楼の女将リュ・ムォリーは、やっぱり狐に騙されている気がしてならなかった。オミナエシがリンツァイを誘ったのは、リンツァイに医術の心得が有るからである。そこで、女部隊の中から武術の苦手な娘を選び、看護部隊を作らせたのである。
 朝日楼の座敷に朝日が差し込んだ。リンツァイは呉玄子に戻り、朝日楼の壁絵を描いている。それは朝霧に霞む湖畔の島々を背に、ホーファンファ(合歓花)の淡紅色の花を描いたものである。リンツァイは、絵を描く際にも酒を嗜(たしな)む。ほろ酔いかげんで、揺れるような気持で描く方が、絵に情が乗るのである。
 絵は詩である。詩が聞こえぬ絵は、だだの写し絵である。そんな子供の絵のようなものに大金を払ってくれる旦那衆は居ない。大概の旦那衆は、風情を嗜(たしな)む粋狂な人が多いものである。良くいえば、風雅の心得を持つ人である。いずれにしても平常な暮らし向きとは、少し離れた世界である。だから、ほろ酔い位が丁度良いのである。
 リンツァイが、合歓花を画題に選んだのは、新しく朝日楼の舞踊団になった舞姫に触発されたからである。朝日楼の常連の旦那衆は、まだリンツァイが女だとは知らない。だから、お座敷遊びでは今でも呉玄子である。旦那衆には、呉玄子は「女好きの床嫌い」として一目置かれている。
 酒も色花も嗜(たしな)ず、ただ、がつがつと遊び床に向かう男は、風雅の心得がない無粋な奴であると、粋狂人の間では一目下に見られる。その点、呉玄子は若いにもかかわらず酒と色花を優雅に嗜(たしな)むのである。そして、がつがつと遊び床には向かわない。夜が明けるまで、舞を楽しみ、酒を楽しむこともままある。その評判が呉玄子を、鉅鹿の名士に祭り上げたようである。
 そんな折、新しい舞踊団が朝日楼の専属となった。その座長は、シー・ユェファ(施越花)という十七歳の娘である。何でも揚州呉郡の出らしい。舞踊団を仕切っている親方は、ツァンロン(蒼龍)という二十歳半ばの男である。しかし、夫婦ではないそうだ。
 ユェファ(越花)は男嫌いなのか、酒の酌はしようとしない。舞い終われば至って無愛想である。粋狂人の相手はもっぱら、ユェファの母と姉の役である。この舞踊団は、舞妓十二名に、囃子方七名、そして裏方十数名の総勢三十数名という小さな舞踊団である。どうやら越人が多いようで南洋の香りが漂う舞踊団である。月の半分を鉅鹿の朝日楼で、そしてもう半分を、邯鄲の朝日楼で舞っているそうである。
この舞踊団を呼び寄せたのは、太平道の知の人フェ・シャオ(何邵)である。カンチョン(鄭康成)塾の三羽鴉と言われた知の巨人何邵と、踊り子の組み合わせとは意外であるが、ユェファは、何邵の愛弟子らしいのである。ユェファは、とても学問好きな娘らしい。「女に学問など不要だ」という風潮の中で珍しい娘である。
 呉玄子ことリンツァイが聞き出した話では、ユェファは、家船の中で生まれたそうである。やはり、彼女は、海越族の娘のようである。十年程前に揚州で大きな反乱があった。山越族の王が皇帝を名乗り、越人の国を興そうとしたようである。そもそも揚州以南には百越の国があった。だからそういうことをいい出す輩が居ても可笑しくない地である。
 皇帝を名乗り、反乱を起こした男が、百越の王族の末裔だったかは定かではない。しかし、張曼成がそうであったように、漢王朝の山越族に対する扱いは芳しいものではない。だから、ちょくちょく反乱や盗賊騒ぎが起きる。
 山越族の百虎と、この皇帝を名乗った男とは縁深い関係のようである。同じ山越なので不思議な話ではない。しかし、同じ越人でも山越と南越の関係は良くないようである。張曼成の弟もこの南越との抗争で命を亡くしている。
 越人にはもうひとつ海越と呼ばれる輩がいる。彼らは海洋民なので、山越や南越との争いには巻き込まれない。海越の一部は、東海を北上し倭人や韓人となって行った。だから、ユェファの容姿も倭人に似ている。目が大きく明るい顔立ちだ。
 しかし、ユェファにはどこか沈んだ面持ちがあるので、ぱっと明るい黄色い花ではない。女絵師リンツァイが思い描いたように、淡紅色の合歓花の花を思わせる。合歓花は陽樹である。荒れ地でもすくすくと育つ。そして、夜になると葉を閉じる。その為か案外寒さにも強い。逆に花は夕方から開く。夜には葉を閉じ、そして花を咲かせる変った樹木である。だから、ユェファにも少し人より変わった所がある。そこが、リンツァイがユェファに魅せられている所以であろう。
 ある日、ユェファの舞を見せようと、パンチュが一人の男を朝日楼に伴ってきた。その男は、優雅な佇まいで育ちの良さが滲み出ている。元山賊のパンチュと並ぶと貴人のようである。しかし三十路半ばのこの男は貴人ではない。名をバイロウ(白柔)という。つまりバイチュウ(白秋)の一族である。張角が太平道を立ち上げた時、張角の舅である白秋は、息子のバイフー(白狐)に経済面での支援をさせた。そのバイ(白)商人団の当主である白狐が最も信頼しているのが、この白柔である。そして、直接的に太平道の経済を支えている男である。
 白商人団は、太平道の信徒ではないが、白柔だけは、その信徒でもある。白柔は、張角の革命の思想に共感しているのである。彼の容姿は、シャー(中華)の多くの民より加太に近い。つまり異人っぽい容姿である。キ(鬼)国の河童の大将サラクマ(沙羅隈)親方に良く似ている。やはり、ソグド商人の血が濃いのであろう。背も高く街行けば大勢の女達が振り返る美男子である。しかし、三十路半ばになってもまだ独り身である。当人が周りに応えていうには「独身が好きなわけではないが縁がない」ということらしい。
 白柔は、馬元義と同じように張角の愛弟子だと周囲には思われている。つまり、馬元義に匹敵するほどの秀才である。しかし、商人なので太学に入ろうとは思わなかったようである。確かに官僚になるには太学で学んだが良いが、優れた商人にはなれない。商人は実践の中で育つのである。その為に欠かせないのが旅である。
 彼は、西は大秦国(ローマ)国、東は倭国まで旅を重ねたことがあるようである。白柔が朝日楼の上客になって半年ほど立った頃、タン・チュンイェン(檀春燕)と名乗る娘が、朝日楼の門を潜った。そして、応対に出た女将リュ・ムォリーに訪ねたのが白柔の居場所である。娘は、遠く燕国からやってきたようである。
 腰まである長い黒髪を後ろに束ねて、色白の娘はしっかりした眼差しでムォリーを見た。ムォリーは「気丈な娘だね」と感じた。白柔は交易商人なので定まった家がない。そこで娘に「朝日楼を訪ねるように」と言ったそうである。
 ムォリーは一瞬、「バイロウの娘か」とも思ったが顔立ちがあまりにも違う。娘はツングース族の血が濃い顔立ちである。シャーの北方にシィェンビー(鮮卑)と呼ばれるツングースの一族が居る。どうもそのシィェンビー族の香りがするのである。
 表を見てみると、確かに馬が繋がれている。どうやらこの娘は騎馬でやってきたようである。しかし、いきなり白柔を襲撃にきたとも思えないので、ムォリーは、パンチュの所に使いを出した。使いの話では「バイロウは今旅に出ているが二日か三日の後には帰ってくる」ということだった。そこで、ムォリーは、それまで朝日楼で過ごすようにと、チュンイェン(檀春燕)に言った。チュンイェン(春燕)は安堵の顔になりムォリーの言葉に甘えることにした。
 ムォリーが聞き出した話では、チュンイェンは十五歳で、やはりシャーの北方の草原で暮らしていたようである。そこは、タンハンシャン(弾汗山)の麓シィェンビーユー(雹碧玉)という所だったようである。つまり、チュンイェンは、遊牧民の娘である。だから騎馬は自分の足と変わらないように巧みである。
 三日の後、白柔が朝日楼を訪ねてきた。そして親しげにチュンイェンを抱き寄せると、チュンイェンもほっと胸を撫で下ろしたようである。いくら勇猛な騎馬民族でも、十五歳のチュンイェンには不安も大きかったのだろう。
 翌日、白柔は、街外れに屋敷を買い求め、チュンイェンと暮らし始めた。それから程なく、チュンイェンの母と妹がやってきて白柔は四人で暮らし始めた。どうやら白柔の愛人は、チュンイェンの母のようである。後に、この遊牧民の娘チュンイェンと、男装の女絵師リンツァイ、寡黙な兵法家リーリー、越人の踊り子ユェファの四人の若き黄巾の女達は生涯をチュクムと歩むことになる。しかし、それはまだ先のことである。

~ 邯鄲の枕 ~

 クツクツと粟粥を煮ている若い男がいる。良く見ると粥には、ゴウチー(枸杞)の赤い実が混じっている。枸杞子(くこし)は、強壮作用や視力回復に効果が有るという。この若い男は、朝未(あさまだ)きから学問書を読んでいたようである。そして、朝餉も昼餉も食べずに読書に集中していたようである。
 この粟粥は、母親が早朝に作り、男にこれで朝餉を取るように言い残しておいた物である。母親は、弟を伴って父親の許に出かけた。そして、夜の暮れる前には帰ってくる予定であった。しかし、そろそろ日が落ちたというのにまだ帰ってこない。そこで、男は朝餉の粟粥を温め直しているのである。
 遅い夕餉を食べ終わった頃、使いの者が訪れ、母親と弟は「今夜は父親の官舎に泊る」と伝えてくれた。そこで、男は誰気兼ねなく明かりを灯し、また書物を読み始めた。寝食を忘れて学問書に没頭するこの男は、誰彼とはなしに「書淫」と呼ばれている。これほどまでに学問が好きな男ではあるが、学者にはなれない。何故なら男の道は武官だと決まっているのである。
 男の一族は代々武人の家系である。曾祖父は度遼将軍、祖父は、都尉であった。叔父は、涼州三明の一人と言われたホワンフー・グゥイ(皇甫規)である。涼州は交易の重要な中継点である。だから西戎(せいじゅう)が幾度となく攻めてきた所でもある。その為、この地を守る武官は、勇猛な戦士だけでは務まらない。
 西戎は勇猛で誇り高い。そして巧みな騎馬戦で攻撃してくる。その為、武力だけでは制圧出来ないのである。そこで、外交交渉にも長けていないと勤まらない。つまり、この地の武人は必然的に文武両道を求められる。男は正に適任であった。
 男の名はホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)という。漢王朝末期に現れた最も優れた将軍である。後の世では皇甫嵩と呼ばれる。彼の唯一の欠点は根が正直で愚直な処である。曲がったことが大嫌いではあるが、革命や覇道の志は芽生えない性質(たち)である。そういう意味では真っ当な侍でもある。主人を守るのが侍の役目であり、場合に依っては主人を倒そうという武人ではない。生涯の好敵手であるドン・ヂョンイン(董仲穎)とは、そこの処が真反対である。
 イーヂェン(義真)は忠犬であるが、ヂョンイン(仲穎)は狼犬である。その為、二人は「この吠人(ハヤト)めっ!!」「この蛮犬めっ!!」といがみ合っている。しかし、何故か二人の縁は絡み合うのである。
 皇甫義真は遅咲きの男である。その英才ぶりは、涼州に留まらず都の宮廷にまで広まっていたが、不遇が重なり三十路半ばまで、涼州に埋もれていた。張角の恩師ドウ・ヨウピン(竇游平)からも「宮廷に上がるよう」誘いがあった。もし、皇甫義真が竇游平の傍にいれば、改革派の政変は実を結んでいたかも知れない。
 二十歳を過ぎた頃、文武両道の誉れ高く孝廉へ挙げられ、郎中に任命されることとなった。しかし、この時は、父のホワンフー・ジェ(皇甫節)が亡くなり、喪に服することになった。二十歳の終わり改革派の筆頭大将軍竇游平から招聘されたが、この時は母が亡くなり、喪に服することになった。竇游平が守旧派の刃に倒されると、清廉潔白の塊である皇甫義真を宮廷に呼び寄せようとする重臣は居なくなった。
 優秀な男である。もし下手に宮廷に呼び寄せれば、廷尉(司法長官)に上り詰める可能性もある。そうなれば守旧派には命取りである。しかし、学問好きの若き皇帝が公車を差し向け招聘した。守旧派は反対したが、若き皇帝は意地を通した。頼みの綱だった竇游平を失い、どうしてもその後を埋めたかったのかもしれない。
 皇帝直々の命であればと遂に出仕し、皇帝の側近である議郎となった。これは破格の待遇であるが、それ程皇甫義真の非凡さは都にまで響いていたのである。その後、故郷の涼州に在る北地郡の太守(郡長官)となり漢王朝での実績を上げていった。
 皇甫義真と同じ歳の逸材がもう一人いた。名をヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)という。董仲穎が西戎羌族の血を引くのに対して、朱公偉は東夷海越族の血を引いている。皇甫義真と董仲穎は武官の一族であり良家の子息だが、朱公偉は貧乏人の息子である。父は幼い時に亡くなり母親が女手ひとついで育ててくれた。どうも父親は、山越か海越の反乱分子だったようであるが、伯父のヂュ・モンヂョン(朱孟忠)が伏せて表には出させなかった。
 モンヂョン(孟忠)は会稽郡の亭長である。妹のヂュ・ムーラン(朱木蘭)と甥の朱公偉を引き取ると、朱公偉を養子とした。朱孟忠には跡取りの息子がいなかったので、娘を嫁がせヂュ(朱)家の跡取りとしたのである。朱公偉が十七歳の時、伯父の朱孟忠は伝手を使い朱公偉を郡の役所に入れた。
 海燕が細長い翼を広げて海面をすれすれに飛んでいく。小魚の群れを追っているのであろうか。家船の村が近づいてきた。ここは、揚州呉郡の海塩である。海風の香りを胸に含めて、朱公偉には、幼い頃の記憶が微かに蘇った。二十年近くも昔のことである。親子が暮らしていたのは、入り江の丘の定住地である。そこには僅かばかりの田畑も広がっていた。祖父は、この一帯の海越を束ねる長だった。だから、入り江の丘の定住地は、海越の城のようなものである。
 波静かな入り江で、家船の間を、訪ね人をしながら廻っていると、全身に刺青を入れた裸の男達が奇異の目で朱公偉の姿を追った。そして、皆一様に「漢の役人が何をしにきた」という顔色である。しかし、海越の皆が刺青を施している訳ではない。近頃は、漢人に同化する者も多い。だが、漢人と居住地を同じにする山越とは違い、昔ながらの越人の暮らしを続ける海越も多い。父の一族もそんな海越だった。しかし今は、ほぼ絶えたそうである。それでも、遠縁がまだこの辺りに暮らしていると母から聞かされていた。
 母は海産物を商いながら朱公偉を育ててくれた。そして、その海産物の仕入れ先はこの海越だったようである。訪ね人は、入り江の丘の定住地に居ると分かったので、桟橋に艀を着けさせると朱公偉独り丘を登った。途中振り返ると照りかえる海原が眩しかった。朱公偉の脳裏に父の面影が蘇った。
 丘の上では数名の海越達が畑を耕していた。小さな池では子供達が水遊びをして遊んでいる。尋ねる遠縁の男の名はシー・モクホン(施苴康)と言った。今は、この男が一帯の海越を束ねる長のようである。モクホン(苴康)は朱公偉より五歳年上だと母から聞かされている。だから今は三十一歳の男盛りに入ったところである。顔には勇猛な海蛇の入れ墨が施されている。赤黒く日焼けしたその顔は、海越の誇りに満ちている。朱公偉は、はっきりと父の面影を施苴康に見た。
 施苴康は、「ご覧の通り、私達には、もう漢の王朝に差し出すものはありません。お役人様はどんな御用でお見えになったのですか」と聞いた。朱公偉は「大変ご無礼を致しました。今日お伺いしたのは役目では御座いません。ふと郷愁に誘われてお邪魔しました。私は朱公偉と申します」と挨拶した。施苴康は「嗚呼、ヂュ・ムーラン(朱木蘭)様のご子息でしたか。これは失礼をしました」と顔を和ませた。そして「せっかくお出で頂いたのですが、今は妻が産気付いておりましてなぁ。何のお構いも出来ません。お許しください」と挨拶を返してくれた。朱公偉は「いえいえお構いなく。私は、ただ自分の生まれた地を目に焼き付けようとやってきただけですから」と笑顔を返した。そして右腕を撫でた。
 朱公偉の右腕には小さな海蛇の入れ墨がある。今は漢服の袖に覆われ人前に晒すことはない。特に伯父の朱孟忠からは「決して人に見せてはいけない」と強く言われて育ってきた。だから、役所でも朱公偉に入れ墨が有ることを知る者はいない。そして、幼名がシー・ロン(施竜)だったことさえ本人も忘れかけている。海蛇はシー(施)一族の紋章のようなものである。
 朱公偉は、いつも印籠を身につけている。本来は印を入れる容器なのだが、旅が多い朱公偉は、この中に印ではなく薬を入れている。だから携帯用の薬箱である。籠の端には紐が結わえられており、その紐の先に根付が付いている。根付は帯から落ちないようにする留め具の役割である。朱公偉は、この根付に高価な玉を用いている。この玉の根付は、あまり金品にこだわりを持たない朱公偉の唯一の贅沢品である。
 玉は西域で採れたものである。そして、その白い玉には海蛇が彫られている。これが、朱公偉のこだわりである。畑作業の休憩の間、施苴康は、村人を朱公偉の周りに集めさせた。談笑の場を作ってくれたのである。
 海越の村人は、根付けの海蛇に朱公偉の正体を察した。だから、皆陽気に朱公偉に接してくれた。中には、幼馴染もいた。「ロン(施竜)だろう。間違いなくロンだよな。俺だ。俺だ。ラオ(施蛯)だ。分かるか」「俺はジャオ(施鮫)だ。分かるか」「私はリー(施蜊)よ」「わしゃシェン(施鯵)爺じゃ。」「私はフー(施鰒)婆だよ」と、皆朱公偉のことを覚えていてくれていた。朱公偉は胸が熱くなってきた。その時「産まれた。美人だぞ。俺の妹だ」と十歳足らずの元気の良い海餓鬼が浜から駆け上がってきた。すると施苴康が立ち上がり「でかしたぞバイルー!!」と歓喜の声を上げた。どうやら産まれたのは施苴康の娘のようである。そしてバイルー(白露)とは、きっと施苴康の妻の名であろう。
 村人は赤子の顔を見に一斉に丘を下り始めた。朱公偉は、施苴康を引き留めると「気ままに思い立った旅なので、大した贈り物も持っていませんが、これを娘さんの手に握らせてください」と、海蛇が彫られた玉の根付を手渡した。施苴康は高価な贈り物に戸惑ったが「有難うございます。一生娘の宝にします」と満身の笑顔で礼を言った。それから施苴康は丘を下って行った。
 朱公偉は東海の青海原を眺め「きて良かった」と呟いた。そして数年後、県の門下書佐(長官直属の書記官)となり、更に主簿(上級こと務官:秘書官)へと官位を上げていった。四十路になった頃には県令となり、南越が大きな反乱を起こした時には、交州刺史に任ぜられ乱を鎮圧した。その際、朱公偉は、自軍に五千もの海越と山越の若者を入隊させた。そして、王朝の中枢を占める高官に上り詰めると、多額の恩賞を与えた。
 しかし、自身の暮らし向きは質素を旨とした。妻子もそのことをわきまえ、客がきたとき以外は食もささやかであった。この朱公偉の資質に良く似た男が西の外れにいた。悪党董仲穎である。皇甫義真と朱公偉は清廉さで似ている。しかし、董仲穎は汚濁も厭わない性質である。だが、吝嗇(りんしょく)家ではない。「お前のものは俺のもの。俺のものはお前のもの」という性質(たち)である。その私財に欲を持たない点は、朱公偉に似通っているのである。だから、悪党董仲穎を慕う者も多い。いずれにしてもこの同じ歳の三人は変な仲である。
 楽しげな羌笛(きょうてき)の音が響いている。野太い男の歌声が天に轟く。艶やかな衣装を纏った女達が荒野に花を添える。ここは西戎の村である。乾いた大地に命の泉が湧いている。家畜を連れた若い牧童達も、暫しの憩いの時を楽しんでいる。村の外れでは、牛が一頭丸ごと捌(さば)かれている。山羊や羊などの家畜は、時折捌(さば)かれるので、西戎の少年少女には見慣れた光景である。
 しかし、牛一頭丸ごとは珍しい。そこで、よちよち歩きの子供達までもが、この牛一頭の解体を見物しようと集まっている。だから、村は予定外のお祭りである。牛一頭を捌いているのは董仲穎である。上半身裸になり大きな牛刀を振りかざしている。返り血を浴びた腕力は逞しく、大きな牛さえねじ伏せそうである。
 董仲穎は、昨年太学を出て今は無官である。父親からは、早く武官になるように急かされてはいるのだが、どうにもその気にはなれない。董仲穎は、皇甫義真と同じ涼州の生まれである。互いの郷里も近い。それに二人とも武官の家に生まれた。しかし、性格はまったく違う。皇甫義真は学者肌のまじめな男であり、素直に官職についている。しかし、董仲穎は、根っからの悪童である。つまり何事にも素直になれないのである。
 十四歳の時に父のドン・ジュンヤー(董君雅)が、インチュァン(頴川)郡に在るルゥンシー(綸氏)県の県尉になった。そこで一家は綸氏県で暮らすことになった。綸氏県は、漢王朝の都ルオヤン(洛陽)のすぐ南である。したがって風俗は都と同じである。しかし、董仲穎は野暮な田舎者である。加えて悪童でもある。だから上品とは縁がない。だが、小さい時から古都チャンアン(長安)には何度も連れて行って貰ったことが有る。だから、本当は、董仲穎もまるっきりの田舎者ではない。
 長安は、西の都と言って過言ではない。対して洛陽は東の都である。しかし、二つの都の風俗はやや異なる。長安は、西戎との軋轢をその歴史に背負っている。だから、それに対するだけの軍閥が生まれている。つまり軍都の香りがする。だから、董仲穎には肌に合う古都である。
 古都長安は、覇道の王都である。しかし、豊かな中原では、財力がモノいう豪族が多く生まれている。財貨の使い方で究極の道は学問である。家屋敷や田畑は朽ちても、学問は朽ちるどころか精進を積むほどに豊かになる。そこで豪族の子弟は学業に精を出す。太学はその象徴である。だから、洛陽は、文化都市である。そして、教養の高さが、人の優劣をつける風俗を生む。
 例えば装束も、騎馬に適した機能性ではなく、奢美なものが多い。武は卑しき行いだと、武人は格下に扱われる。宦官に至っては、人ではないという扱いである。彼ら教養を身につけた豪族の子弟は、自らを清流派だと自称する。それが、どうも董仲穎には鼻につくのである。しかし儒学の始祖孔子を否定する気はない。中でも革命の思想は大いに賛同するものである。「今まさに、徳を失った皇帝は革めるべきである」と董仲穎は、思い始めている。だから、そんな皇帝を守ることに意味を感じなくなってきている。
 豪族のぼんぼん達は、大義を振りかざし王朝の改革を叫んでいる。しかし、それは所詮為政者の首のすげ替えに過ぎない。つまらん自己満足の改革運動である。「王朝に蔓延る宦官を抹殺しよう」という勢いの言いことをいう者もいる。しかし、最初から宦官で生まれた奴などいない。宦官を生んだのは王朝である。だから、宦官が王朝腐敗の元凶だと云うのはいささか可笑しい。王朝の腐敗など宦官が居なくても常に起きてきたことである。
 また、彼らは中原が、この世の中心だという。そして、その中心を正しく導くのが自分達であると声高に叫ぶ。だから、西戎や、東夷、北狄、南蛮などが自分達に跪くのは当然であると思っている。どうも董仲穎にはそう思えて腹立たしい。「そして、その驕りが王朝腐敗の元凶なのだ」と口にはしないが思っている。
 しかし、困ったことに、自分もその一翼を担う、漢王朝の武官の一族である。董仲穎は、次男坊である。父の後は、兄が継ぐ筈であった。しかし、兄は病弱である。武官にはなってはいるが、軍功は挙げられそうにもない。そこで、父と兄からは、家を継ぐようにと催促されている。そんなむしゃくしゃした気分を吹き払おうと、西戎の村にやってきた。ここには母の遠縁が居り快く招いてくれた。そこで、苦労して牛一頭を引いてきたのである。
 回廊の角を曲がったところで、いきなりその男はぶつかってきた。そして、平身低頭誤ってきた。まだ若い官僚である。余程急いでいたのであろう。ぶつかった弾みで抱えていた絹帛(けんぱく)の束が廊下に散乱した。そしてその1巻が回廊の下に転がり落ちた。若い官僚は、ひょいと欄干を飛び越えその絹帛を拾いあげると、今度は縁に手を懸けよいしょと、懸垂をし回廊に上がってきた。そして、再び董仲穎に直謝りに謝った。
 この絹帛は、衣服にする絹ではない。木簡や竹簡と同じように文字を書きとめるものである。そして、そこには重要な事柄が書かれている。もしかすると皇帝の勅書かも知れない。もしそうであれば男が慌てるのも無理はない。「しかし、身軽な文官だな」と、董仲穎は妙な関心をした。それから「大事ない。落馬した痛みにも及ばん。気にするな」と若い文官に言葉を掛けた。
 文官は安堵し「私は、マー・ユェンイー(馬元義)と申します。申し訳ありませんが、今は急いで居りますので、後日改めてお詫びに伺います。どうぞ今はお許しください」と足早に立ち去ろうとした。そして、数歩歩み振り返ると「ドン・ヂョンイン(董仲穎)様ですよね」と、確かめの言葉を投げかけてきた。董仲穎が「いかにも」と返すと、「本当に申し訳ありませんでした」と、再び誤りにっこり笑った。董仲穎は「愛嬌のある男だな」と、少し愉快に思えた。
 董仲穎は、四十五歳の円熟期に入っていた。結局、父の跡を継いで武官になっていた。そして猛将として名をはせていた。しかし、董仲穎は、少しも誇らしさを感じられなかった。戦い討ったのは西戎である。そして、反乱を起こした西戎の族長達は、董仲穎が討伐隊の将だと分かると直ぐに軍門に下った。だから、苦戦を強いられたという思いも少ない。宮廷から届いた恩賞も皆部下に分け与えた。部下の中には西戎から寝返った者も多かった。だから、莫大な漢王朝の恩賞は、西戎の村々にも行き渡る。そんな奇妙な流通世界も生んでいた。
 董仲穎は、疎外感を拭い切れないでいた。それは仲間外れになっているという感情ではない。自分の中の問題である。自己疎外とも言える。自分が生み出した栄誉が、自分が本来望む自己像を遠のけて行くのである。董仲穎は、本来自由人でありたいと望んでいる。西戎の蒼き空のように突き抜けるような自由だ。
 三日の後、馬元義が訪ねてきた。どうやら三十路に入ったばかりの若造である。董仲穎とは十五歳も歳が離れている。しかし、馬元義は、その歳の差も感じさせない程に、快活に接してくる。董仲穎は、その気風に若き自分を重ねた。「俺も、こいつ位の頃は伸び伸びしたものだった」と馬元義の若さに感化された。
 馬元義と交流を重ねると「こいつは、ただの両家のぼんぼんではないな」と思い始めた。その快活さの中に雷光のような情熱を秘めているのである。董仲穎は「なかなか面白い若造だな」と馬元義に親しみを感じた。そして、自分の疎外感の正体が垣間見えてきた気がした。それはどうやら権威というもののようである。それが、西戎の蒼き空に蓋をしているのである。ふと「すべての権威的文明は、一度破壊されなければならないのではないか」という思いが過った。しかし、それは余りにも危険な考えである。
 馬元義が思い描く世は、皆が平等な太平の世らしい。しかし、董仲穎は「平和や平等には意味がない」と思っている。そして「天を突きぬける自由こそが価値あるものである」という思いが高まっている。しかし、馬元義との交流は楽しいものである。生い立ちや、そこからくる考えの違いはあるが、馬元義には自由な気風がある。そこが董仲穎には好ましい。翌年、その馬元義が反乱を企てた罪で、車裂きの刑に処せられた。可愛がっていた部下に裏切られたようである。董仲穎は、大きな喪失感に襲われた。それから八年の後、董仲穎も部下の刃に倒れた。
 くつくつと皇甫義真が粟粥を煮ている。良く見ると粥には、ゴウチー(枸杞)の赤い実が混じっている。枸杞子(くこし)は、気力の衰えに効果が有るという。皇甫義真は、五十七歳になった。老練さが増し一国の王にも相応しい容貌である。しかし、皇甫義真自身は、気力の萎えを感じている。何度も賊を討ち果たした。皇甫義真の武勇は、西戎の地まで轟いている。祖父さんや叔父さんの栄光をも凌いでいるとも評価された。王朝の中枢も極めた。征西将軍・車騎将軍・太尉にまで昇りつめた。しかし、悪友董仲穎は三年前に世を去った。皇帝の座さえ奪おうとしていた悪党だった。だが皇甫義真は、何故か董仲穎を憎めなかった。同郷人の血が漢王朝への怒りを感じるからであろうか。
 涼洲は収奪の地である。漢が、西戎の地を奪い、西戎が漢の地を奪い返す。その繰り返しが、涼洲の歴史である。そして、皇甫義真の一族も、董仲穎の一族もその戦いの中で生きてきた。「私は本当に勝ち戦を続けてきたのか」皇甫義真は、粟粥を煮る湯気の向こうに定まらない視線を投げかけた。ふと、その湯気の写幕に、豪快に笑う董仲穎の顔が映った気がした。「嗚呼、これは夢だ」皇甫義真はそう呟いた。

~  老革命家とおしゃまな娘達 ~

 鉛色の空にぱっと網が広がった。河面に銀色の鈴が輪を描いて煌めいた。それから網裾が水底に届くと漁師は、手綱(たづな)を引き上げた。大河の水を滴らした網の中では沢山の銀鱗が跳ねている。今日も大漁である。その河舟には、まだ歳若い少年が乗っている。しかし身体は大きい。それに俊敏そうである。しかし、どことなく良家の子息の面立ちがあり、やや頼りない。
 漁師は、小さな網を渡すと「やってみろ」と少年に言った。網を渡された少年は、やや戸惑っている。漁師は「丘の上で練習した要領でやれば良い」と投網(とあみ)を急かせた。少年は、意を決したように河舟の舳先に立つと網を打った。しかし、網は開かず、網の重さに引っ張られて少年は河に落ちた。投網の裾には沈子(ちんし)という重りが付いている。ひとつひとつは小さいのだが、裾には沢山の沈子が付いている。その為これがなかなかの重さになるのである。加えて網を振り回し投げているので、腰が座ってなければ、自分の身ごと飛ばされるのである。少年は、その下手の見本を見せたのである。
 水中から顔を出した少年は、漁師を見て照れ笑いを投げた。漁師も笑って手を差し出した。そして、舟に上がると再び投網の練習である。夕暮れ時、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。その頃になり少年の網は、少しずつだがようやく広がり始めた。何度か河に落ちた少年は、既に濡れ鼠である。しかし、雨は漁師の衣を濡らし始めた。それでも漁師は気に留めず少年の練習に付き合った。
 少年の名はリー・ボーツァィ(李波才)である。皆はフーツァィ(虎才)とあだ名で呼ぶ。その呼び名のように精悍な少年である。漁師の名はリュ・ワン(呂望)という。フーツァィ(虎才)の養父である。そしてワン(望)は、この一帯の河童の親分である。見た目は荒くれ者だが、案外優しい男である。
 李波才の母シュン・チンメイ(荀青梅)と、呂望は幼馴染である。そして、呂望は小さい時から、チンメイ(青梅)が好きであった。しかし、チンメイは、潁川の名門シュン(荀)氏のお嬢様である。貧しい河漁師の呂望には遠い人だった。
 ところが、チンメイの夫リー・グー(李鼓)が獄死した。その為チンメイは幼い子供達を連れて帰郷してきた。グー(鼓)は、改革派の中堅官僚であり、その罪は冤罪である。だが、チンメイ親子は、肩身の狭い思いをしながら暮らしていた。呂望は、そんな親子を気遣いチンメイの息子李波才を良く漁に誘ってくれた。そして、李波才は、呂望に色んな河漁を教えてもらった。しかし呂望は、これは遊びだと思っていた。
 李波才は、いずれ都に戻り官僚の道を進む筈である。ところが、李波才は、河の暮らしがすっかり気に入ったようである。そんな姿に感化されたのか、チンメイは、呂望の許で暮らすようになった。そして、娘リュ・ヤーイー(呂衣)を授かった。呂望には、三十路半ばの遅咲きの恋が実ったのである。更に三年後には、二人目の娘リュ・シァォファン(呂小芳)が誕生した。夕暮れ時、風が変わった。呂望は「帰るぞ」と言って舟を岸に向けた。李波才は、もっと河面に浮かんでいたいようだったが、雨脚も強くなってきた。二人は、漁の恵みを両手にして温かい家路に着いた。
 都に降る雨は悲しい。雨に霞む夕暮れの街角に立ちリー・ブォウェン(李博文)は雨宿りをしている。その腕には、沢山の書物と安価な装飾品が抱かれている。書物は弟へ贈る物であり、安価な装飾品は妹達に贈る物である。ブォウェン(博文)は、太学を出て官史になったのである。そして、初の報奨金でこれらを買い求めた。
 父リー・グー(李鼓)は冤罪で裁かれたが、リー(李)氏は、改易されることはなかった。守旧派も、名門李一族の本家を取り潰しには出来なかったのである。しかし、父を亡くし、暮らし向きは大変になった。その為、母と弟と、三人の妹達は、母の郷里に戻った。それでも。残された祖父母と、李博文がどうにか生き凌げる土地財産位は残っていた。それに、一族も陰ながら支えてくれた。そうして、李博文は、太学に通い、そして官史の道を掴んだのである。
 雨宿りをしたのは酒楼の軒先である。中に入り酒や肴を楽しむ懐のゆとりは、李博文にはない。その飲み代は、弟と妹達への贈り物に消えているのである。彼は、まだ下級官史とは云え一家の大黒柱である。真面目に勤め上げ、官位が上がれば、弟を呼び寄せ、太学に学ばせる積りである。
 李氏は、代々官僚の家系である。だから、それ以外の生業は、李博文には思い浮かばないのである。「おい、リー・ブォウェンじゃないか。ここへこい。一緒に一杯やろうではないか」と、奥から声が響いてきた。薄暗い室内を良く見ると上役のポン・ヂョンダー(彭仲達)である。ヂョンダー(仲達)は、李博文より七歳年上であり、頼りがいのある上役である。それに、ポンチョン(彭城)の豪族の子息である。その為役職以上に裕福である。本来なら贅沢に妓楼で飲み遊んでいても良さそうである。
 中に入り席に着くと李博文は、素直にそう聞いてみた。すると「郷里の兄貴から便りがきてなぁ。難題を吹っ掛けよった。だから、色香を嗅いで酒を飲む気分ではないのさ。俺の心は、この薄暗い酒楼がお似合いだ」と、自嘲気味に溜め息をついた。「肴は好きな物を頼め」と言われたので魚の干物を頼んだ。
 刺しつ刺されつ飲み進めていくうちに事情が分かってきた。彭仲達には、李博文と同じ歳の妹がいるらしい。そして名をポン・リーファ(彭麗華)というらしい。もう二十二歳になるのだが、一行に嫁ぐ気配がないらしいのだ。総領の兄が、何度も縁組を持ってきたのだが、何かと理由を付けては断る。その為、業を煮やした長兄が「お前が何とかしろ。都には適当な男がたんと居よう」と彭仲達に、妹の縁組を押し付けたそうである。
 妹のリーファ(麗華)は、容姿端麗で、その上に教養も高いらしい。妹は、彭仲達に似ているらしいので、確かに容姿端麗であろう。そして、総領の兄が、持ってくる縁談である。だから、相手も相応の格式ある家の男の筈である。その為、相手に不測のあろう筈はない。
 今、妹は、都見物を兼ねて、彭仲達の館にきているらしい。彭仲達は、妹に「何が不満なんだ」と聞いてみたそうである。すると、妹は「私、威張った男は嫌いです」とあっさりとした口調で答えたらしい。その妹の言いっぷりに、彭仲達の妻は、思わず失笑したそうである。
 そもそも豪族の男達は、皆一応に威張った男達である。したがって、リーファのこの要求は無理難題である。そこで、彭仲達は、頭を抱えてしまったのである。突然「おい、李博文。お前、確かまだ独り身だったな。どうだ。ワシの妹を妻にせんか」と、ずいぶん酔いが回った彭仲達が言い出した。李博文は「彭仲達様、酔いが回ったようですね。お聞き及びになっているでしょう。我が家の事情は。今では、私は庶民のような者です。それに三人の妹達を嫁がせ、弟を太学に入れなければなりません。とても所帯など持てる身ではないのです」と生真面目に答えた。
 すると「財なら、兄がたんとリーファに持たせよう。それにお前の家は、何代にも渡り高官を輩出してきた名門ではないか」と彭仲達も譲らない。しかし、この夜は、酩酊した彭仲達を館に送り届け別れた。
 後日、李博文は、彭仲達の館に招かれた。名目は「日頃のお前の働きぶりが良いので慰労してやろう」ということだった。しかし、彭仲達の目的は見合いである。李博文にも、そのことは分かっていたが粗末な身なりで出かけた。名目は「慰労会」である。そこで、「平服で良かろう」という判断である。それに貧しい李博文には、見合いの席に着て行くような礼服の持ち合わせはないのである。父や、祖父や、曾祖父の豪華な衣類は、既に生活費と母への仕送りに変わっていたのである。
 リーファは、想像していたように容姿端麗な人だった。しかし、妻に迎える等とは思っていない李博文は、気さくに接した。リーファは、とても学問が好きなようである。男なら学士になりたかったようだ。しかし、地方では「女に学問はいらん。早く嫁に行って子を産め」という風潮が強い。それにもリーファは、反発を覚えているようである。
 それから、何度か李博文は、彭仲達の館に招かれた。そして、翌年リーファを妻とした。リーファは裁量に富んだ女だった。後年、リーファは、李博文の三人の妹達を、それぞれ名家に嫁がせた。更に、弟李波才も都に呼び寄せ、太学に入れようとした。しかし、李波才は「俺は漁師の方が向いている」と言って上京してこなかった。リーファは「亡父への無念の思いがあるのかも知れない」と思い無理強いはしなかった。リーファには、そんな心づかいも出来るところがある。
 翌年、リーファは、元気な男の子を産んだ。李博文は、ますます仕事に励んだ。二十八歳になった頃、太学で異変が起こった。王朝内で改革派の門人が多く禁固に遭ったのである。これを党錮の禁という。党とは改革派一党である。これに学徒が抗議をした。李博文は、密かにこれを支援した。そして、その首謀者の一人である張角と親交を結んだ。張角も李博文と同じ苦学生であった。だから、良く食事に招いた。
 リーファも張角の教養とその人柄の良さに魅せられ、何かと世話を焼いてくれた。しかし李博文は、表向きには改革派には加担しなかった。父の二の舞は踏めないと思っていたのである。しかし、ひょんなことで、弟の李波才が張角と知り合い師事してしまった。父の義憤は、弟の李波才が引き継いだようである。
 張角が郷里で太平道を立ち上げると、李波才も、ホーネイ(河内)と、インチュァン(潁川)を駆け回り太平道の賛同者を集めた。そして、張角の弟の張宝を教祖として、ユータイピンダオ(豫太平道)を立ち上げた。更には、異父妹のヤーイーを張宝の妻とし教母となした。
 太平道の中心は、太学を追われた医学生達だった。李波才は太学には通わなかったが、李博文が送り続けた学問書にはしっかり目を通していた。時より母の許に帰郷し、李波才と話をしていると「父の学識の深さも、李波才が引き継いだな」と、李博文は喜ばしく思った。それに、李波才は、書物の虫ではない。河童の頭領という実学の徒である。だからその雄弁さには実がある。それもどっしりと重い実である。その為太平道四天王のひとりと言われている。
 更に、もうひとりの四天王張曼成とも李博文は親交を結んでいた。李博文と、張曼成は同じ歳である。そして、三十一歳の時に地方で知り合った。李博文は、改革派ではなかったが、第二次党錮の禁で張角が投獄されると、その釈放に奔走した。その頃、李博文は、司隷校尉の下に仕える中堅官僚だった。その為、守旧派も直接李博文に禁をかける訳にはいかず、県令に昇進させ地方に飛ばした。そこで、討伐隊の大隊長だった屯長張曼成と知り合ったのである。
 元山賊の張曼成は苦労人である。だから、李博文は、良く張角達の活動の話をして聞かせた。その影響が在り今や張曼成は、ジンタイピンダオ(荊太平道)の総帥である。張曼成が冤罪で罷免される時も、李博文は奔走した。その頃、李博文は義兄彭仲達の働きで中央官僚に復帰していたのである。だから、張曼成の冤罪を解こうと奔走したのだが、張曼成は漢王朝を見限った。
 四十歳になった年、ツァオ・モンドゥー(曹孟徳)という若い北部尉が罷免されかかった。李博文は、嘗ての自分が受けたのと同じ「県令に栄転させ地方に飛ばす」という懸案をして、守旧派を納得させた。李博文は、裏方で奔走する男である。父の件と、李氏の総領としての立場がそういう人生を送らせるのである。
 本来の李博文は、革命家としての情熱を秘めている。だが、そうは生きられないのである。妻のリーファにはそのことが良く分かっている。だから、李博文は、リーファが大嫌いな威張る男ではない。李博文四十四歳の時、何かと庇ってくれていた義兄の彭仲達が病没した。その翌年、李博文は、家督を長男のリー・モンヤン(李孟陽) に譲り隠居した。そして、諸国漫遊の旅に出るといって家を出た。
 妻のリーファには李博文が何をしたいのか分かっていた。だから、名もポントゥォ(彭脱)に改めるように助言した。李博文は、素直に彭脱になった。彭脱が向かった先は、弟李波才の許である。そして、四十五歳の老革命家彭脱が誕生した。
 曇天の空を、ジェィジェィと声張り上げてカケス(松鴉)が飛んでいる。今は、子育てに忙しない季節である。交互に巣から飛び立っていくので夫婦のカケスであろう。しかし、懸命に羽ばたいている割には、心もとない飛び方である。
 村では、麦の収穫も終わり、そろそろ田起こしの準備が始まっている。その田の道を、雅楽を奏で遊行の一団が過ぎていく。そして、鎮守の森の傍らで、暫しの休息を取り始めたようである。そこへ旅する老革命家彭脱が独り通りかかった。どうやら西域人が多い旅団である。さぞかし長い旅を続けてきたのであろう。荷馬車の痛みがそれを物語っている。彭脱は、その車輪の痛みに己が人生を重ね、軽い疲れを感じた。そこで、旅の一行に声をかけ一緒に休ませてもらうことにした。
 旅の足を止めた一団は賑やかに踊り始めた。踊り手はうら若い四人の舞姫である。舞姫達は、老革命家の手を取って踊りに誘った。彭脱は戸惑いながらも、若々しい息吹に疲れが和らぐのを感じた。
踊り終わると、四人の舞姫は、老革命家に纏わり付きお喋りの花を咲かせた。舞姫達の名は、歳の順にユェ・ズーラン(月紫蘭)十五歳、ア・ムルー(阿慕緑)十四歳、ユェ・ルーナ(月芦那)十二歳、ア・ハルーワン(阿哈万)十一歳である。早春の娘達は屈託がなく、おしゃまな娘達である。
 一番年上のズーラン(紫蘭)は、何と三人の叔母さんらしい。そして、ムルー(慕緑)とハルーワン(哈万)は姉妹で、ルーナ(芦那)は従姉妹だということである。更にズーランの話では、ズーランには、五人の姉と一人の兄が居るそうである。ムルーとハルーワンは、長姉ユェ・リュリー(月琉璃)の娘達で、ルーナは、次姉ユェ・ファンジン(月黄晶)の娘らしい。生まれは、天竺のプルシャプラという所だと教えてくれたが、彭脱には、プルシャプラがどこに在るのか見当も付かなかった。いずれにしろ四人のおしゃまな娘達の顔立ちは西域人である。そして、この五十数人の一団も半数ほどが西域人である。団長は、この先の集落に今宵の宿の交渉に出向いており不在だった。しかし、ズーランの話では、団長はズーランの母親らしい。
 暫しの骨休めが終わると、一団は再び雅楽を奏で進み始めた。老革命家は、おしゃまな娘達と一緒に馬車に乗せてもらった。そして、娘達とのお喋りに若返りの華を咲かせている。どうやら、ズーランの父親は、東海の竜王らしい。そして、すぐ上の姉ユェ・ランハイ(月藍海)の夫は、西海の竜王だということである。竜王だというのは、彭脱の想像なのだが、どうも二人とも東西の海賊王のようであるのだ。いずれにしてもズーランの世界は、限りなく広い。
 左遷されて漢王朝の各地方を転任した彭脱ではあるが、大国だと思っていた中原さえ狭く感じさせる話である。ズーラン達の一団は、リンユー(臨楡)を目指しての旅らしい。臨楡には、二人上の姉ユェ・チンヤン(月青洋)が暮らして居るそうである。そして、今年三人目の子を産むそうである。その為に親子と孫達は、プルシャプラから臨楡まで旅を続けているのである。
 プルシャプラの見当が浮かばない彭脱には、旅の全容が掴めないがそれ程に長い旅である。そして、初め遊行の一団だと思っていたズーランの一行は西域の交易商団であった。雅楽は旅の歩みを勇気付け、更には周辺に「物騒な集団ではありませんよ」と、知らせる行進曲だということだった。先の集落では、既に宿泊の許可が下り、商人団は早速野営の準備を始めた。十張り程の天幕の一つが、おしゃまな娘達の一夜の住まいである。しかして、老革命家彭脱も今宵の宿にと誘われた。
 一人息子にしか恵まれなかった彭脱は、娘に恵まれたようで心地良かった。いやいや、もう娘達ではない。孫娘達である。だから尚更嬉しい申し入れであった。女団長は、ユェ・リーチォン(月黎穹)という人だった。リーチォン(黎穹)は、彭脱よりも五歳年上であったが、とてもそうは見えなかった。彭脱と、リーチォンが並んだ姿は親子である。とても何人もの孫が居る祖母様には見えない。まだ一人も孫が居ない彭脱の方が明らかに祖父様である。
 話している内に、リーチォンの夫である東海の竜王とは、ポーハイ(渤海)の海賊王シェン・ウーハイ(玄武海)だということが分かってきた。ウーハイ(武海)は、バイフー(白狐)と共に、太平道の経済を支えてくれている重要な人物である。
 更に白狐は、リーチォンの従姉弟だということも分かってきた。奇遇では有ったが、この商人団との出会いは、彭脱に取って運命的な出会いであった。この商人団の名は『月氏商人団』と言った。白狐の曾祖父フーラン(狐蘭)も月氏商人団の一員であったそうだ。だから。『白商人団』は月氏商人団からの分かれである。

 更に渤海の海賊王玄武海の『玄商人団』も深い縁が有った。創業者である渤海の初代海賊王シェンハイ(玄海)が、ファンハイ(黄海)の海賊王バイジー (白鶏)に頭を下げ、商売の手ほどきを受けたのであるから、玄商人団の源流もやはり月氏商人団である。
 月氏商人団の統領ユェ・リーチォンと、渤海の海賊王玄武海の間には六人の娘と一人の息子がいる。長女のユェ・リュリー(月琉璃)は、今、天竺の北西部プルシャプラに本拠地を構え、西方交易を広げているそうである。おしゃまな娘ムルーとハルーワンは、その娘達である。父は、ア・カーシュ(阿喀熟)という名の西域人のようである。
 次女はユェ・ファンジン(月黄晶)という名で、月氏商人団の本拠地ヤルホト(交河城)を任されているらしい。その娘が、おしゃまな娘のひとりルーナ姫である。ルーナ姫は、四人の中では一番おませで快活である。そして、ズーランの説明では、とても母親に似ているらしい。だから、母親のファンジン(黄晶)は、ユェ・リーチォン統領に劣らない美貌の女傑のようである。
 三女のユェ・ルーヤン(月緑洋)は、六人姉妹の中では最もおしとやかな女人らしい。そして、天竺の中心地にあるマトゥラーという所を拠点に、天竺から南海にかけての交易を担っているそうである。
今向かっている臨楡には四女のユェ・チンヤン(月青洋)が居り、三番目の子を産もうとしているのである。ちなみに、五女ユェ・ランハイ(月藍海)の夫は大秦国(ローマ)人で、西海の海賊王のようである。
漢王朝の世界しか知らない地方官僚だった彭脱には、目が眩みそうな壮大な世界である。その壮大な月氏商人団が、太平道の経済を支えてくれれば、経済戦では、既に漢王朝に勝ったも同然である。更にその交易路の途中には、ウードウミーダオ(五斗米道)が根を張る地域もある。だから、月氏商人団との関係は、ヂャン・ヨウ(張脩)に取っても助かる話の筈である。
 彭脱には、革命後にどんな国を興すのかまだ詳細は描けていない。しかし彭脱は、官僚であった。だから、国造りに経済が欠かせないことは誰よりも分かっている。もし、太平道が国を興せば、軍事は張曼成が、そして、経済は彭脱が担うことになろう。その為にも、月氏商人団の統領ユェ・リーチォンとの関係は、革命に欠かせないものになろうと、老革命家彭脱は確信した。
 そこで、まず道中にあるユータイピンダオ(豫太平道)で、張宝教祖に会ってもらおうと、リーチォン統領に話を持ちかけた。リーチォン統領も太平道の活動は、夫玄武海から聞かされており、好感を持って興味を抱いていたようである。それに、ホーネイ(河内)郡は、臨楡への道すがらである。だから、リーチォン統領は快く彭脱の申し出を受けてくれた。老革命家も、もうしばらくおしゃまな娘達との旅が楽しめそうである。

⇒ ⇒ ⇒ 『第2巻《自由の国》第5部 ~ 黄巾心中 ~』へ続く

卑弥呼 奇想伝 公開日
(その1)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 2020年9月30日
(その2)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 2020年11月12日
(その3)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 2021年3月31日
(その4)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第4部 ~棚田の哲学少年~ 2021年11月30日
(その5)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第5部 ~瑞穂の国の夢~ 2022年3月31日
(その6)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第6部 ~イズモ(稜威母)へ~ 2022年6月30日
(その7)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第7部 ~海ゆかば~ 2022年10月31日
(その8)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第8部 ~蛇神と龍神~ 2023年1月31日
(その9)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第9部 ~龍の涙~ 2023年4月28日
(その10)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第10部 ~三海の海賊王~ 2023年6月30日
(その11)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》 第11部 ~春の娘~ 2023年8月31日
(その12)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第12部 ~初夏の海~ 2023年10月31日
(その13)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第13部 ~夏の嵐~ 2023年12月28日
(その14)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第14部 ~中ノ海の秋映え~ 2024年2月29日
(その15)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第15部 ~女王国の黄昏~ 2024年4月30日
(その16)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第16部 ~火球落ちる~ 2024年9月30日
(その17)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第1部 ~革命児~ 2024年11月29日
(その18)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第2部 ~愛の熱風~ 2025年1月31日
(その19)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第3部 ~革命の華~ 2025年3月31日
(その20)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第4部 ~黄巾の男と女~ 2025年5月30日
(その21)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第5部 ~ 黄巾心中 ~ 2025年6月30日