第9部 ~ 戦さ場の巫女 ~
幕間劇(27)「岬めぐり」
三角窓から潮の香りを含んだ風が流れ込んできた。この年季物のダットサンブルーバードにはまだクーラーが付いていない。民ちゃんが、夫の岩本雅司の親から買ってもらった新車のブルーバードSSSにはクーラーも装備されていた。だから三角窓はなかった。でも良いのだ。三角窓は天然クーラーである。直角三角形の斜辺をこちら側に向ければオートバイで駆け抜けるのと同じぐらいに清々しい風が吹き込んでくる。だから、かび臭いクーラーの冷風なんかよりとても気持ちが良いのだ。
でも渋滞になると少し辛い。船橋を過ぎると渋滞も解消し海が見えてきた。ここからは、東京湾を右手に見ながら快走だ。信夫が気鬱にふさぐ民ちゃんを「岬めぐりをしよう」と誘ったのだ。心中未遂を起こした姉の民ちゃんは、久留米の町に居辛くなり市役所も辞めて東京に出てきた。岩本家からは離縁され、恋人の山本先輩も亡くした。信夫が劇団の稽古から帰ってくると、姉の民ちゃんは部屋の明かりも付けずに座り込んでいた。明るく威勢の良かった民ちゃんは、そこには居なかった。そのことが信夫の胸を締め付けた。もし出来ることなら姉の民ちゃんをこんな状態にした奴をぶちのめしてやりたい気持ちだった。しかし、その怒りの持って行き場はなかった。
信夫が乗って来たのはツートンカラーの古いダットサンブルーバードだった。友人から借りて来たらしい。民ちゃんが一瞬「ええっ!?」という顔をすると信夫は「大丈夫、大丈夫。この車の持ち主は修理工場の倅なんだ。だからメンテナンスは、ばっちりさ。鹿児島までだって走れるよ」と言った。確かに燃料さえ給油しながら走れば、鹿児島までだって走れるかも知れない。だが、室内は少しガソリン臭かった。友人は「ガソリンは満タンにするな」と言ったらしいが、信夫はうっかり満タンにしてしまったのだ。満タンにするとガソリンが少し漏れるらしい。でも大丈夫、窓を開けてしばらく走ればガソリン臭さも解消される。どうせ東京湾の海風は、どぶ臭いから気にすることはない。
千葉に入り、東京湾の海風が有明海のと同じぐらいに清々しくなった頃には、ガソリン臭さも消えた。「何~んちゃない(何ということはない。平気だ)」のである。信夫は楽観主義者である。物事をくよくよ考えるのは苦手なのである。だから口癖は「何~んちゃない」である。
だから、美夏ちゃんが主催する劇団『葉月舎』のムードメーカーであり、アラハバキこと荒川先輩とは漫才コンビである。打ち上げでは、その漫才コンビ+αで、玉川クレイジーブルースバンドが結成される。荒川先輩が♪ヅッツン、ヅッツン、ヅッツン、ヅッツン♪とブルースギターのウォーキングリズムを刻み始めると、信夫がトーキングブルースっぽく♪金もいらなきゃ~女もいなぬ~~~お~いえぇ~~~ぃ、あたしゃも少しOOが欲しい~♪とやるのである。そして、このOOの部分に各劇団員が、自分の欲しいものを叫ぶのである。例えばある女優が「あたしゃも少し胸欲しい~」と歌えば、次は♪金もいらなきゃ~ボインもいなぬ~あたしゃも少し♪と信夫が繋ぐのである。だから、知恵だったり、才能だったり、セリフ覚えの良さだったりと、思い思いに唸るのである。このゼネレーションは、洋楽世代なのだが、酔って節を回すと演歌調が顔を覗かせるのである。そして、最後はお決まりの♪背が欲しい~~~~♪である。
ポンコツのダットサンブルーバードは、木更津、君津、富津と三つの津を軽快に駆け抜け、蒼き太平洋を目指した。黒潮の海は近い。きっとここはヒムカ(日向)の一族が暮らす黒潮の民の国であろう。でも、もう誰もホオミ(火尾蛇)大将のような文身は入れていない。
地図を眺めると、君津から東に向い、山の中に入った辺りに久留里という地名があった。何となく久留米を連想させる地名である。駅前で人に聞いたらクルリというらしい。メタバル(米多原)の館の周辺には小津ヶ里、野目ヶ里、曽根ヶ里、枝ヶ里、道ヶ里、吉野ヶ里と語尾に「ヶ里」が付く地名が多い。極めつけは南里ヶ里で里を連ねている。不思議なことにこの里好きの村々は、城原川と田手川と言う川沿い周辺に限られている。おそらく里が好きな勢力がいたのだろう。だから、卑弥呼女王の時代は、久留ヶ里という集落も在ったかもしれない。もし、久留ヶ里の人々が米作りをしたのが久留米であれば短絡的で愉快である。「よ~し、今度仙人さんに聞いてみよう」と二人は童心に返り話が弾んだ。
南総と言えば里見八犬伝である。『南総里見八犬伝』は、江戸は天保年間の頃、曲亭馬琴によって書かれた戯作である。だから誰も犬の子などは産んでいないのであるが、神話の世界でならその手の話は多々ある。ギリシャ神話などは、そんな獣婚で誕生した神々に溢れている。神話の世界では、獣婚や近親婚は珍しい話ではない。また、狼から直接産まれたわけではないが、古代ローマの建国者ロムルスとレムスの兄弟は狼の乳を飲み育てられた狼少年である。狼が人間の子に乳を飲ませて育てたと云う狼少年の話は、他国でも聞かれるが、あまりこの手の話を信用している人は少ない。もし、狼が人間の赤ん坊を育ててくれるのであれば、赤子守りは、みな犬か猫にやらせれば楽である。しかし、鳥の托卵のようには上手くはいかない気がする。
馬琴は手の込んだ筋立てにしている。里見の伏姫(ふせひめ)は、いきなり忠犬八房の子を産むわけではない。つまり犬の子をである。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が刻まれた玉を産むのである。それも腹を切り裂いて産んだというから壮絶である。もし本当に人間のお腹から子犬が八匹産まれていたら奇妙な笑い話に成ってしまう。さらに、伏姫と八房は性行為をしていないという設定である。伏姫は処女懐胎をするのである。だから、伏姫はマリア様と同じように原罪に汚れていないのである。
子を玉で産むというのは、アジア各地に残る卵生神話から発想されたのかもしれない。更に手が込んでいるのは、伏姫は、初夏の三伏(さんぷく)の頃に生まれたというのである。三伏とは、初伏、中伏、末伏を指し、七月中旬から八月上旬の酷暑の頃である。我が国では江戸の頃より鰻のかば焼きが夏場対策の食べ物に成った。朝鮮や中国では犬食が夏場対策の食べ物として有名である。勿論小さな室内犬を食べるわけではない。豚やイルカのようにまるまると太った肉用の犬を食べるのである。走狗煮られるの狗(いぬ)である。したがって伏姫の名の中には忠犬(走狗)が伏せられているのである。
更に穿って物語を読み解くと近親相姦の臭いもする。傾国の美女玉梓(たまずさ)は「(里見一族を)児孫まで畜生道に導きて、この世からなる煩悩の犬となさん」と呪いの言葉を吐き、首を刎ねられるのである。そして「煩悩の犬畜生道」とは、近親相姦を思わせるのである。つまり、犬の八房は人であり、伏姫の異母兄であるという奇想である。
八房は、安房国長狭郡富山村の百姓の家で生まれた犬の子であったと語られている。この犬の子を「私生児」と読み替えると現実性が増す。富山村の百姓の娘が「私生児」を産んだのである。この百姓の娘は妙椿(みょうちん)という名だったかもしれない。後に「若狭の八百比丘尼」と呼ばれる悪女である。
悪党で生まれる赤子が居ないように、悪女で生まれた娘もまた居ないだろう。犬の子八房は、生まれて間もなく母犬を狼に食い殺されたと語られている。しかし、滝田方面より鬼火となって飛来する狸に乳を与えられて立派に成長したそうである。ロムルスとレムスの兄弟と違い狼の乳ではなく、狸の乳で有るところが農耕民族らしい設定である。そして、八房はすくすくと育ち、近隣でも評判の剣(犬)士と成ったようである。
それを聞きつけた里見の殿様が、剣(犬)士八房を召抱えるのである。もし、富山村の百姓の娘妙椿に子を孕ませ里に帰したのが、この里見の殿様であれば、伏姫と八房は異母兄妹である。更に後の物語だが、悪女「若狭の八百比丘尼・妙椿」の正体は、かつて安房国長狭郡富山の麓の村で親のない子犬、八房を育てた狸だと明かされる。すると、八賢(犬)士は、処女懐胎で生まれた聖なる存在から、近親相姦で生まれた汚れた存在と変わる。
しかし、近親相姦が汚れた婚姻関係だと貶められたのは、古い話ではない。古代ペルシア発祥の宗教であるゾロアスター教は、近親婚を最も聖なる婚姻関係だとしている。ゾロアスター教以前の古代ペルシアには八百万の神々があふれていた。それを一神教に導いたのがゾロアスター教である。
一神教において自由恋愛は俗悪である。原初の海にぶつぶつと泡立つように勝手気ままに命が生まれるのは性の乱れである。性の乱れが諸悪を生み出し不幸を生むのである。だから婚姻制度を整え家族制度を敷き、世の中を秩序あるものに変えなければいけないのである。その思いがヒステリックなまでに高まると、聖なる血という概念が生まれる。雑種を排除し聖なる血を持った血統を作るには、血統書付きの馬や犬などを作るのと同じように優秀な血統を近親交配させていくのが有効な方法である。そういう価値観を持った者からすれば、近親相姦も貶められることはないのかも知れない。
しかし、少なくともこの二千年ほどは近親相姦を忌まわしい関係であると言う風潮が占めている。したがって近親相姦は「煩悩の犬畜生道」である。そんな含みを持たせ、或いは伏せ、この物語が構成されているとすれば、馬琴の戯作は巧みである。伏姫が聖なるものと汚れしものを表裏の関係として構成していれば、それはとても日本神話の構造に似ているのである。
風の匂いが黒潮の熱を孕んできた。間もなく、館山の町が見えてくる筈である。今宵の宿は国民休暇村を予約している。初めての宿だが、ガイド本に由れば海辺の宿である。だから、部屋からは三浦半島の城ヶ島が見えるかもしれない。しかし、城ヶ島の灯台までは見えないかも知れない。城ヶ島灯台は高い灯台ではない。
灯台の高さは、おおむね10m代の物が多い。岩礁の多い岬に立っていることが多いので、建物そのものはさほど高くなくても良いのである。城ヶ島灯台も10mそこそこの灯台であったはずだ。灯台の高さを競えばやはり出雲である。出雲人は高い建物が好きなのだろうか。古代の出雲大社も高層建築だったらしい。
信夫は、大学に入る前に日本海を旅したことがある。出雲大社は人で溢れ閉口したが、出雲蕎麦と日御碕燈台はお気に入りになった。小さい時に鹿児島の佐多岬灯台に連れて行ってもらったことがある。駐車場から灯台までは遠く難儀をした思い出がある。だから、灯台見物と聞いただけで腰が引けていた。しかし、日御碕燈台はトコトコと楽に歩いて行けるのである。そして見上げるぐらいに高い。案内板には43.65mと書いてあったのをすっかり覚えたぐらいの高さである。3456の順番が前後で逆に成っているだけなので覚えやすかったこともある。だから、信夫にとってヨンサンロッゴが灯台の高さの基準に成った。
しかし、未だにヨンサンロッゴを超える灯台にお目にかかったことはない。明日は州崎の灯台から野島埼の灯台を周って岬めぐりをする予定である。州崎灯台は10m代だが、野島埼灯台は30m近くの高さのようだ。ヨンサンロッゴまではないが見上げる高さの灯台のようである。
本当は房総半島の山間も走ってみたかったのだが、何しろ年季物のダットサンブルーバードである。修理工場の倅である友人は、一升瓶に水を詰めてトランクに積んでいる。少し難儀な峠を走ると直ぐにオーバーヒートするそうだ。だから、海岸線だけを走ることにした。
房総半島と言えば『南総里見八犬伝』なので、八犬伝ゆかりの土産物は、どこの町でも売っているだろう。信夫はブキチ(武吉)先輩への土産は刀だと決めている。八犬伝と言えば刀はやっぱり『村雨丸(むらさめまる)』である。「抜けば玉散る氷の刃」は、武吉先輩にはぴったりである。
しかし、武吉先輩は放浪の旅から帰ると人が変った。一本気で思ったことをズバッという快活な武吉先輩は影を潜めたのである。良く言えば思慮深くなった。悪く言えば陰影が刻み込まれた様子なのである。信夫はチャンバラごっこをして遊んでいた時のように「抜けば玉散る氷の刃」と見栄を切って欲しいのである。
ひで(英)ちゃん達への土産は、姉の民ちゃんが選んでくれることにしている。信夫が選ぶと、玩具っぽい物や、珍味に成りそうである。だから、旅立つ前に劇団の皆からも「土産はお前が選ぶな」と念を押されている。
マリーはレコードを出すことになった。そして、楽曲は美夏ちゃんが作ることになった。曲調はポップスのようである。うまくヒットしたら劇団の皆に特上寿司を御馳走してくれる約束に成っている。だから、この旅から帰ったら、皆で街頭キャンペーンに行くことにしている。誰かが「すき焼きソングのようにヒットする為にタイトルは『寿司好きソング』にしないか」と言い出した。誰かが「そこまで、寿司にこだわるんかい」と言った。すると誰かが「人気者に握手はつきもの。握手も寿司も共に握りが伴います」とおどけた。しかしタイトルは『セント・クルメ』に決まっている。別れ歌である。
早朝の海風が、信夫を揺り起こした。民ちゃんが窓を開けて海を眺めていた。その横顔に「少し元気が戻ったようだな」と信夫は感じた。今夜は銚子に宿をとっている。一気に帰ろうと思えば走れない距離ではなかったが、夏の海である。海水浴客の様子がどうなのか信夫に情報はない。
昔、福岡の志賀島に友人と海水浴に行った。ダイハツハイゼットの荷台に布団を敷いて、キャンプをしたのである。宿は既にどこも満員だった。しかし、キャンピングカーハイゼット号があるので、宿の心配はない。その前年に糸島半島へ海水浴に行ったが、渋滞が酷かった。だから、ある程度の渋滞は覚悟していたが、志賀島への道路状況は渋滞ではなかった。動かないのである。だから渋滞ではなく停滞である。早朝に家を出たのだが、志賀島についた時には、博多湾に夕日が沈んでいた。糸島での苦い経験は生かされ、キャンピングカーハイゼット号は大正解であった。
今回のダットサンブルーバードは、キャンピングカー仕様ではないが、トランクには寝袋を二つ積んである。だから、最悪銚子まで辿り着けなかったら、途中の海岸で野宿すれば良いのである。しかし、幸いその想定は破られ、八幡岬、犬吠埼と「岬めぐり」は順調だった。東京に戻り、劇団の皆と旅の話で盛り上がり大宴会と成ったのは勿論のことである。ただ残念だったのは『村雨丸』を手に入れることが出来なかったことである。その代わりに武吉先輩には南洋から流れ着いたであろう流木を拾って土産にした。比較的真っ直ぐな枇杷の流木である。これなら神剣に成りそうである。武吉先輩は苦笑しつつ喜んで受けとってくれた。
秋に入り、劇団の公演がひと段落すると、民ちゃんの気鬱が再び戻ってきた。初冬、民ちゃんは、布団に横たわり起き上がろうとする気力も無くし始めていた。食も細り身も衰えていった。厳冬、信夫は泥酔してアパートに戻った。あまりの切なさに、信夫は、民ちゃんの布団にもぐり込み、思い切り民ちゃんを抱いた。初夏の海。岬から民ちゃんは身を投げた。そのお腹には信夫の子を宿していた。信夫は、首に馴染んでいた瓢箪のお守りを引き千切ると、黒潮が流れる荒磯に向けて思いきり放り投げた。長雨が信夫の心を塞いだ。
ベランダに置き忘れられたプランターに目が行った。民ちゃんが植えた小さな向日葵の苗はとっくに枯れている。ただ、ただ、雑草だけが勢いが良い。「この雑草は何という名だったかなぁ」と信夫は、ぼんやりと考えた。「あっそうか。露草だ。まったく良く茂る」引き抜こうと手をのばして小さな花を見つけた。信夫は手を放した。灰色の梅雨空にその青花は清々しく鮮やかだった。
蛍草 曇に鮮やか 水の色
~ 獣戎 野に放たれる ~
黄色の衣が目に眩しい。砂塵を巻き上げ素足の女が駆けて行く。それは変わった衣服である。膝丈の貫頭衣だが、あまりにも薄くまるで陽光を纏っているようである。「倭人か?しかし、何故倭人がここに居る。幻か?」とドン・ヂョンイン(董仲穎)は訝しげに呟いた。
春、皇帝リィゥ・ホン(劉宏)が崩御した。まだ三十三歳の若さであった。宏とは諱(いみな)である。諡(おくりな)は孝霊皇帝である。しかし後世においてはただ霊帝と呼ばれる。霊というのはあまり良い諡ではない。諡に上中下と評価を付ければ、下に類する諡である。しかし、功績を残す間もなく亡くなったのであるから致し方ないかも知れない。
新皇帝リィゥ・ビィェン(劉弁)はまだ十六歳の少年である。そして、その母はフェァ・シンヂェン(何杏貞)という。大将軍フェァ・スイガオ(何遂高)の異母妹である。つまり大将軍は皇帝の伯父である。そこで、その勢いに乗じて改革派の復権を図った。しかし、宦官を中心勢力とする守旧派の力も衰えてはいない。そこで、彼は牽制策として北方より猛獣を呼び寄せた。宦官嫌いの猛将ヂョンイン(仲穎)が帝都に迫れば、守旧派は緊張をしいられる。そして安易な行動はとれない。
この策を進言したのは改革派の雄ユエン・ベンチュ(袁本初)である。もうひとりの雄ツァオ・モンドゥー(曹孟徳)も、前年に皇帝の直属部隊に復職し大将軍の守旧派抑え込みは盤石かに思えた。
新皇帝劉弁の下には、リィゥ・ブォホー(劉伯和)という先帝劉宏の息子がいた。母はウォン・ロン(王栄)という。先帝劉宏の側室であったが、ブォホー(伯和)を産んで直ぐに亡くなった。どうやら、産後の肥立ちが悪かったようである。
先帝劉宏は、後ろ盾に大きな勢力もなく頼りない存在の皇帝である。そしてそのことは皇帝自身も自覚していた。だから、その不甲斐なさを埋めるかのように、背が高く快活な何氏の娘に心ひかれた。しかし、物おじしないフェァ・シンヂェン(何杏貞)の立ち振る舞いには疲労感を覚えることもあった。その為、寵愛した側室のロン(栄)は華奢でおとなしい女であった。その気質が異なる女が傍に居てくれることで先帝劉宏は安堵した。
側室王栄が亡くなると、何大将軍と対立する守旧派は「何皇后が王美人を毒殺した」という噂を流した。先帝劉宏は激怒し皇后を問い詰めたが、彼女に王美人を毒殺する動機はなかった。己が地位も息子の皇位継承権も何皇后の方が上位にある。
何皇后を王宮に引き入れた宦官のグゥォ・シォン(郭勝)が「これは何皇后の存在を快く思わない勢力が流した陰謀です」と助言すると、賢い先帝劉宏は顔を曇らせことの事態を理解した。そして、リィゥ・ブォホー(劉伯和)は、先帝劉宏の母であるドン・シェンユェン(董慎媛)が引き取り養育するように成った。つまり、この流言の底には、何皇后と董皇太后の権力闘争が潜んでいたのである。
更に、改革派を庇護するスイガオ(遂高)に対して、守旧派は董皇太后を後ろ盾としブォホー(伯和)を皇帝に立てようと画策していた。そこで、何大将軍は先手を打ち、守旧派を抑え込んだのである。皮肉なことに、新皇帝劉弁と異母弟の兄弟仲は、とても良かった。皇帝劉弁は、弟を陳留王としその身を保全した。
陳留郡は、帝都洛陽の直ぐ東面に位置する郡であるが、異母弟が直接、陳留郡に出向きその地を王として統治した訳ではない。あくまで称号である。つまり皇族としての地位を保証したのである。王としての名は劉協である。十六歳の少年皇帝劉弁に対し弟の陳留王劉協はまだ八歳の幼年王である。
兄の劉弁はおっとり屋である。我が身の不安定さを嘆くより前を向いて歩こうと思う性質である。この楽観主義は、母の血を受け継いだものであろう。弟の陳留王劉協もまた母の血を受け継いだようである。だから、積極性には乏しい。しかし、慎重な性質で人を思いやる心も豊かである。そんな二人なので、我欲に取り囲まれた王宮で、頼れるのは兄弟二人だけである。
そんな幼い兄弟への思いやりなど微塵もなく、王宮では、宦官と官僚や武将の勢力も三派に分かれた。改革派に組みする宦官は、何大将軍の幼馴染シォン(勝)がその代表である。守旧派は先帝劉宏に寵愛されたジィェン・シュォ(蹇碩)という名の宦官である。
シュォ(碩)は宦官ながら立派な体格の持ち主で、頭脳明晰であった。そこで先帝劉宏は、皇帝の直属部隊の統率権を与えていた。この皇帝の直属部隊は西園八校尉と呼ばれる八人の将軍が率いていた。その将軍の大半がベンチュ(本初)やモンドゥー(孟徳)など改革派の武将である。そこで先帝劉宏は、改革派の力を抑える為にシュォ(碩)に統率権を与えたのである。後に陳留王劉協は、漢王朝最後の皇帝献帝と成るのであるが、この最後の皇帝を支えたのがジィェン・シュォ(蹇碩)である。
董皇太后を後ろに担いだ蹇碩は、宦官勢力の大半を自分の側につけられると踏んでいた。しかし、彼は誤算をする。ヂャン・ラン(張譲)達長老が何皇后に取り入ったのである。宦官の身分は卑しき者である。今は皇帝に取り入り権力を握っているように思っていても夢幻の如きものである。董皇太后は、困窮に耐えていたといっても高貴な身分の出であり、どこかで宦官を賤しめる気配がある。だが、何皇后は屠殺人の娘である。だから貴賤は問わない。加えて何皇后は気丈で決断力もある。そこで、ラン(譲)をはじめ宦官の長老達は、何皇后の側に立ったのである。
焦った蹇碩は、何大将軍の暗殺を謀るが裏切りにあい逆に殺されてしまった。董皇太后は郷里に帰され淋しく命を絶った。董皇太后の一派が壊滅すると、再び改革派と宦官を中心勢力とする守旧派の対立構造に戻った。そして、新たに何皇后を後ろ盾にした守旧派は勢いをつけ遂に何大将軍を暗殺した。
猛暑の頃であった。張譲達長老は、何大将軍との和解を図り、彼もこれに同意していたのだが、それぞれの若い勢力が暴走したのである。その為、帝都は戦禍に包まれた。後ろ盾の何大将軍を殺害された袁本初と曹孟徳は激怒し、宦官の皆殺しを図った。
守旧派で軍権を握っていた西園八校尉の長蹇碩は既に無く、董皇太后の甥で将軍のドン・ヅーガオ(董子高)も何大将軍に討たれていた。その為守旧派は成す術がなくただ逃げ惑うばかりであった。多くの宦官が討たれる中、かろうじて張譲達長老は、皇帝とその弟の陳留王劉協を擁し城外に逃れた。
帝都洛陽の守備は、洛陽八関と呼ばれる帝都の八方の地に設置された要塞を要としていた。その要塞城壁を関と呼ぶ。したがってこの内側が関内である。その関内は今や守旧派と宦官にとっては修羅場と化している。だから、一刻も早く関外に逃れないといけない。
張譲達長老は、帝都洛陽の西北に位置する小平津関を目指した。名が表すようにここは渡し場でもある。この渡し場を渡り大河の向こう岸に逃れれば、助かる道が広がる。そうして一旦難を逃れ態勢を立て直す算段であった。
改革派も一枚岩ではない。この後には改革派の中で党派闘争が始まる筈である。そうなれば張譲達長老の勝算もまた芽生える筈である。そう踏んで必死で王宮を脱出した張譲であったが、思いのほか早く追手が迫った。仲間の宦官は切り殺され、最期を悟った彼は、大河に身を投げた。“嗚呼、これで帰れる”という思いが彼の胸を過った。きっと大河は張譲の魂を故郷の岸に運んでくれることであろう。
自ら求めた人生ではない。この世に未練はなかった。きっと彼岸にはタイピンダオ(太平道)の仲間達が待っていてくれるだろう。改革派も守旧派もヂャン・ラン(張譲)にとっては同じことである。権力を求めるものには流民の暮らし向きに目を向ける者はいない。悲しき宦官は静かに大河に沈んだ。
涼やかな風が野を揺らした。赤いフォンシェンファ(鳳仙花)が青空に賑わいを添える。膝丈の黄色貫頭衣を着た小娘が、爪を染めて遊んでいる。幼さが残るその娘は倭人のようである。「何故倭人がここに居る。幻か?」とドン・ヂョンイン(董仲穎)は目を凝らした。ここは、帝都洛陽の西北河東郡である。春、皇帝劉宏が崩御すると、帝都では、政争が繰り広げられた。董皇太后を後ろに担いだ蹇碩、何皇后の何大将軍が両翼の旗頭である。その許に改革派、守旧派、宦官勢力、豪族勢力と入り乱れて争っている。
北の野に生きる猛獣の彼には、うんざりする光景である。青々とした草原で西戎の勇者達と馬を駆り、鷹を飛ばし狩りに興じていたいのが望みである。しかし、何大将軍やユエン・ベンチュ(袁本初)が呼ぶので、ここまで四千の兵を率いてやって来たのである。二人は「俺のことを改革的な人間だと誤解している。困ったものだ。しかし無碍にも出来ない」という思いである。
改革派を自称する武人や官僚や宦官や豪族も、素性は漢王朝の忠犬である。同じように守旧派を自称する武人や官僚や宦官や豪族も、素性は漢王朝の忠犬である。いわば、忠犬どうしの噛み合いである。対して彼は狼犬である。隙あらば漢王朝を噛み殺すことも厭わない。だから、タイピンダオ(太平道)にも共感した。
彼が知るところでは、同じ狼犬の毛並みを持つのは、東夷の地に伏せているゴンスン・シォンジー(公孫升済)である。それともうひとり宦官一族からの成り上がり者、若造のツァオ・モンドゥー(曹孟徳)である。
猛獣の配下にシュ・ロン(徐栄)という切れ者がいる。彼の父親はシュ・ミン(徐敏)という名で、ゴンスン(公孫)の盟友である。その為、ドン・ヂョンイン(董仲穎)と公孫升済も繋がりがある。モンドゥー(孟徳)との関係はどう転ぶか分からない。どうやら孟徳は袁本初との繋がりが強いようである。
河東郡に駐屯してひと月以上経った頃、帝都で政変が起きたようである。どうやら、ジィェン・シュォ(蹇碩)が討たれ董皇太后の一派が瓦解したようである。ヂョンイン(仲穎)の役目は、蹇碩への牽制だったので北へ帰ろうかと思っていたが、ユエン・ベンチュ(袁本初)から「新たな政争が始まったので、そのまま待機してくれ」と使者が来た。そこで、仕方なく河東郡で夏を過ごしていたのである。
赤いフォンシェンファ(鳳仙花)で爪を染めている小娘に「お前もじゃじゃ馬か」と彼は声を掛けてみた。娘は首を傾げたが意味の伝わらない言葉で捲くし立てた。「やはり倭人か? 海越人の言葉に似ている。お前は倭人か?」と泳ぐ仕草をして見せた。すると小娘は頷いた。泳ぐ仕草と倭人という言葉に反応したようである。そこで、シュ・ロン(徐栄)を呼び寄せた。
彼は東夷の言葉が分かるので、小娘のいうことも分かるかも知れないと思ったのである。膝丈の黄色貫頭衣を着た小娘の話に猛将は考え込んだ。ベンチュ(本初)から知らせがあった「新たな政争」の詳細が掴めたのである。
小娘の話では、蹇碩が討たれても宦官の勢力は衰えず張譲達長老が、何大将軍を暗殺し、今度は改革派の袁本初達が宦官達を皆殺しにしているということだった。つまり帝都は乱戦に陥っているようである。人々は洛陽八関に逃げ場を求め小娘も裸足のまま逃げ出してきたらしいのである。猛将は帝都に向け行軍を始めたが、深く考え込んでいる。彼は歴戦の猛将であるが猪武者ではない。智将でもある。だから兵の数が足りないことに悩んでいるのである。
額から玉の汗を滴らせ少年が歩いてくる。背には幼子をおぶっている。幼子は少年の背で寝入っている。目じりには涙の跡が見える。泣き寝入ったようである。フォンシェンファ(鳳仙花)が二人の道筋を描き、裸足の少年の膝を赤く染めている。黄色貫頭衣を着た小娘が駆け寄り背中の幼子を抱きあげた。ドン・ヂョンイン(董仲穎)が近づくとその二人は皇帝劉弁とその弟の劉協だと分かった。少年劉弁は十六歳なのでたくましい身体つきである。母の何皇后の血を引き大柄である。何氏は何大将軍もそうであったが皆たくましい身体つきである。
何氏は肉屋が生業なので商才に長けている。先帝劉宏の母ドン・シェンユェン(董慎媛)もまた金儲けが上手かった。であれば、皇帝劉弁も将来はすぐれた経済政策と、強固な軍備を生み出すかもしれない。疲れ果て顔は土埃に塗れているが、その眼の光に猛将は名君の才を感じた。
彼は、ふたりを馬車に乗せ帝都洛陽を目指した。鼎(かなえ)を手にした猛将だが浮かれてはいなかった。皇族ふたりの世話は小娘に任せ、猛将は将官を集め軍議に没頭した。皇帝を擁しているとは言っても四千の兵では心もとない。将来は実権を持つ皇帝に育つかもしれないが、今の皇帝劉弁はお飾りでしかない。皇帝など幾らでも作り出せるのである。
リャン・ブォヂュオ(梁伯卓)程の悪臣はその後出てはいないが、この数代は幼帝ばかりである。つまり漢王朝に蔓延る臣下供は、ブォヂュオ(伯卓)と五十歩百歩である。だから、この二人の鼎には九鼎(きゅうてい)程の重みはない。九鼎は王権の象徴であるが、この鼎は精々がんばっても香炉程の役にしか立つまい。やはり今は軍勢の優劣が重要である。ユエン・ベンチュ(袁本初)とは盟友関係にあるが、堅物のホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)は、猛将の独走を許すまい。更にヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)がどう動くかも分からない。北と南から数万の大軍が押し寄せれば三日と持つまい。やはり二十万は下らない兵力がないとこの事態は収まらないだろう。そう猛将は考え込んでいるのである。
小平津関の対岸に陣してドン・ヂョンイン(董仲穎)は塞ぎ込んでいた。するとふたりの皇族を伴って小娘が、彼の傍らに座りこんだ。流れゆく河面を眺めながら猛将が嘆息した。小娘は子守がてらの散歩中だったようである。伸びやかな声で小娘は「どうしたの? 熊より怖い大男が、そんな情けない顔して」と声をかけた。「お前に話しても埒もないが、まぁ愚痴だ」と猛将は、状況の説明をした。
すると小娘は「なぁ~だ。そんなこと」と明るく笑った。猛将は「なぁ~だ。そんなことなのかも知れんが、誰も妙策を思いつかんで困っているのさ」と苦笑した。「お前、妙案が有るのか?」と彼は小娘に聞いてみた。小娘は倭国の生まれだったようだが、祖父が揚州の出であった。つまりゴンウェイ(公偉)と同じ海越である。だから越人の訛りはあったが、どうにか言葉が通じたのである。「簡単よ」と小娘は言った。
猛将は小娘を真顔で見つめ「どう簡単なんだ」と聞いた。小娘は「お芝居で群衆を作り出すのと同じ方法よ。上手から舞台袖に引いたら、舞台裏を駈けて、また上手から出てくるのよ。そうすれば十人が二十人に見えるわ。十回繰り返えせば百人の群衆よ」と言った。猛将は膝を叩いて大笑いを始めた。「小娘、礼は後でする。たのしみに待っておれ」と言い残すと飛ぶような足取りで軍営に戻って行った。
夕刻、ドン・ヂョンイン(董仲穎)の四千の兵は、皇帝を伴い帝都に入った。翌朝、四千の兵を率いてシュ・ロン(徐栄)が「将軍、遅くなりました。ただ今将軍配下の兵四千を伴い馳せ参じました」と市中を大声で行軍した。
更に翌朝、副将リー・ヂーラン(李稚然)が同じように四千の兵を率いて帝都に入った。そして、五日のうちに猛将の兵力は二万に膨れ上がった。二万の兵は、そもそも彼が率いていた兵の数なので不思議はなかった。四千の兵に減ったのは、北方での反乱鎮圧の為に、ホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)の許に一万六千の兵を残したからである。したがって、皇甫義真は自軍を含め二万の兵力を擁している。小娘の奇想により、一応数の上では漢王朝軍と拮抗することが出来た。しかし、ヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)が率いる南面の漢王朝軍の存在を考えると、まだ油断は出来ない。
南門の城壁の上に立ち、ドン・ヂョンイン(董仲穎)は南方を睨んでいる。黄色貫頭衣を着た小娘が「海でも眺めようとしているの?」と声をかけてきた。帝都に戻り二人の皇族は女官達の手に渡った為、小娘は子守の手を離れたのである。「海とは何だ」と振り返り猛将は聞いた。彼は海を見たことがないのである。海と言われて思い浮かぶのは、海越の朱公偉の髭面ぐらいである。
小娘は「山も谷も砂漠も見えないただただ真っ平らに水だけが広がる所よ」と答えた。しかし、真っ平らな世界など草原の猛獣には思い描けない。一面に砂が広がる砂漠でさえ起伏はある。水だけが広がるとは大きな湖のようなものだろうが、岸辺が見えないほどの湖は見たことがない。だから質問を変えた。「海には何がある」と。
小娘は天空を見上げ「海は、自由な水の帝国よ。そこでは人間なんてちっぽけな存在だわ」と答えた。天高く鳥が羽ばたいている。あまりにも高く飛んでいるので何の鳥かは分からない。しかし、その姿を見て猛将は自由な帝国を垣間見た気がした。「人間はどれぐらいちっぽけなんだ」と聞いてみた。
小娘は「私にも良く分からないけれど、もしこの帝都がすべて海ならその砂粒ぐらいかしらね」と微笑んで答えた。「ふ~ん。俺でも砂粒か」と草原の猛獣は聞いた。「そうね。貴方だって、私だってちっぽけな砂粒、人間なんてそんなものよ」と小娘は嘆息して答えた。
猛将は少し愉快な気分に成ってきた。そして「そんなもんか。おもしろい。俺も海とやらが見てみたいものだ」と背伸びをした。それから、小娘の顔を正面からまじまじと見つめ「小娘よ。お前の自由とは何だ」と聞いた。
小娘もすこし愉快な気分になったようで真顔になると「ふ~ん。哲学的な問いねぇ~私にとっての自由とはうむ~……。全ての人の自己表現が許されること。もちろん他者への批判や批評も許されるわ。でも他の人の自己表現を踏みつぶさないこと。そうして切磋琢磨していける自由ね」と一気にまくし立てた。
猛将は驚き、更にまじまじと小娘を見つめ「小娘よ。お前の歳はいくつだ」と聞いた。小娘は「女に歳を聞くなんて失礼な人ね。でもいいわ。教えてあげる。私は生れて三十年が経つ………筈よ………きっとね。だからもう三十路」と何故か胸を張った。
猛将は先にも増して驚いた。そして「小娘よ。お前は小娘ではないのか」と大きな声を上げた。小娘が「変な言い方ねぇ。まぁ小娘でも良いけど。私、子供も二人いるのよ。二児の母親よ」というと彼は目を見開き、それから大笑いを始めた。「いやいや、これは失礼した倭人のお姫様よ許してくれ。俺はてっきり子を孕む前の小娘かと思っておった。いやぁ~驚いたぞ。だが、それでお前の賢い考えに合点がいったわい」と素直に謝り頭を下げた。
それから「三十路と聞いて思い出したが、お前と似た考えの男が昔居たぞ。マー・ユェンイー(馬元義)という名の若造だったがなぁ。快活で良くしゃべる男だった。だが、漢王朝に依って潰された。最後は八つ裂きだぞ。酷いだろう。でもなぁそれが王朝という奴よ。気をつけろよ。お前のその考えは危険思想だぞ」と、しんみりとした口調で諌めた。
すると小娘が「じゃぁ~貴方の自由とは何?」と聞いてきた。ドン・ヂョンイン(董仲穎)は「小娘よ。誰にもいうな」と前置きして空かさず「いや、すまんすまん。小娘ではなかったな」と謝ったが「いいわよ小娘で。私、子ども扱いされるのには慣れているから小娘でいいわよ。その方が呼び易いんでしょう」と小娘がいうので「そうか。では小娘よ。内緒だぞ。実は俺の自由も危険思想だ。アハハハハ聞きたいか?」と言い彼は快活に笑った。
小娘が「聞きたい」と言うと「誰にもいうなよ。本当だぞ。実は俺の自由は、腐ったところをぶった切り、東夷も西戎も北狄も南蛮も自由に暮らせる世の中さ」と猛将は胸を張って答えた。小娘が「乱暴な人ね」というと「嗚呼~そうかも知れん。だが、人を夷狄と呼び蔑み、自分達だけが正しく尊いと勘違いしている奴らよりましさ。アハハハハ」と彼は愉快そうに笑った。楼門を夕日が赤く照らし猛将の横顔を染めた。「まるで赤鬼のような人ね。それとも仁王様かしら」小娘もフフフと笑った。
〜 老狐 東夷に立つ 〜
粗末な服に身を包み、道行く人々に親しみのある笑顔で挨拶をして歩く老人がいる。その姿は農村の村長(むらおさ)のようである。目尻に深く刻まれた皺が、この好々爺の人生を垣間見せてくれる。傍らには夫人だろうか。それとも娘だろうか四十過ぎかと思う勝気な顔をした女人を伴っている。その女人もまた道行く人々に親しみのある笑顔で挨拶をして歩いて行く。良く見ると、その二人から適度な距離を保ち険しい目の男達が付いてくる。二人の前後左右にいるところを考えると護衛のようである。どうやらこの好々爺は、百姓の爺ではなさそうである。下がった目尻は狐目ではないが、どことなく老狐の風情も感じられる。
秋の雷鳴が微かに響いた。「今年は豊作じゃ」と老人が呟いた。「キャ~厭だわぁ~」と女人は耳を塞ぎ「早く帰りましょう」と老人を急かせた。護衛の一人が走り寄り「馬車を曳いてきましょうか」と言った。老人は「良い良い、まだいっ時は降るまい」と気にも留めず歩いて行く。ここは、リィァォドン(遼東)郡の首府シィァンピン(襄平)の郊外である。老人は郡太守のゴンスン・シォンジー(公孫升済)である。しかし威張った様子は微塵もなく、いたって普通人である。
ファンジンチーイー(黄巾起義)が起きた年に彼は、遼東郡の太守に就任した。その規模は、マハン(馬韓)国やジンハン(辰韓)国よりも大きいので、郡太守は王に等しい。しかし各国の王が熾烈な王権争いを勝ち取り玉座に座るのとは違い、太守は漢王朝が派遣した高級役人である。だから、郡民全てが畏怖している訳ではない。むしろ彼の赴任当初は、その出自を小馬鹿にする地元勢力も多かった。
彼は、遼東郡の出である。父は、シェント(玄菟)郡の役人であった。公孫一族は、この地方の名門であるが、彼の家はその末席である。父ゴンスン・イェン(公孫延)は役人であったので暮らしに困ることはなかったが裕福とはいえなかった。父が仕えた郡太守は、ゴンスン・ユー(公孫琙)という人であった。公孫一族の総領である。
太守には、バオ(豹)という息子がいたが十八歳の若さで早世していた。彼は覇気に満ちた期待の息子だった。息子が病に倒れ気落ちしていた太守は、ある時、配下公孫延の息子公孫升済に出会った。その時彼は、まだ幼名で呼ばれていた。その幼名が太守の息子バオ(豹)と同じだったのである。
奇遇を感じた太守は、ゴンスン・シォンジー(公孫升済)と長らく語り合った。そして、彼が英才であることを知ったのである。そこで、シォンジー少年を支援し漢王朝での出世の道を開いた。だから公孫一族の期待を背負ったのである。苦労人シォンジーは勤勉に勤め、その秀才振りは大勢の人が知るところになった。
三十歳を過ぎた時、馬韓国に招かれた。招かれたのは二つの理由からだった。ひとつは妻が馬韓人だったことである。だから妻の実家を住まいとすることが出来た。もう一つは、太守が馬韓国のケル(蓋婁)王に推挙してくれたのである。
この王は外交に注意を払った人である。長年争ってきた辰韓国とも和睦を図った。そして、コグリョ(高句麗)や漢王朝への関心も絶やさなかった。その為、チョゴ(肖古)太子に見識の高い教育係を探していたのである。五年の契約を終え漢王朝の役人に復職したが、馬韓国での実績は更に彼の名を高めた。
改革派と守旧派の対立が激化していた頃、学問好きの皇帝は、有道之士を欲した。有道とは人の道を正しく歩むことである。だから、有道之士とは儒学の道士のことである。つまり清廉潔白で叡智に溢れた老師であり、皇帝の学問を導く者である。そして、シャー(中華)の各地から三人の英才が推挙され、その中に彼もいた。
その誉れ高い有道之士を蹴った男がいる。名をシュン・シュゥァン(荀爽)という。字(あざな)はツ-ミン(慈明)である。シュン・ツ-ミン(荀慈明)は、ゴンスン・シォンジー(公孫升済)が有道之士に推挙される三年前に中央官僚に推薦された。しかし宦官が蔓延る朝廷を批判して直ぐに辞めている。誇り高く厄介な人物である。
彼の先祖には荀卿と呼ばれる偉人がいる。広くは荀子と呼ばれている。その荀子の末裔には八人の兄弟がおり皆英才で『潁川の八龍』と呼ばれていた。荀子はハンダン(邯鄲)に都があった趙国の人である。晩年は楚の宰相春申君に呼ばれて、楚の国の「蘭陵の令」となりそこを終焉の地とした。
ランルン(蘭陵)は、レンチョン(任城)の東南に位置している。チュクム(秋琴)が奔走している青洲太平道の地でもある。だから、インチュァン(潁川)とは随分離れている。しかし、荀子から彼の間にも四百年以上の時の隔たりがあるのだから、蘭陵から潁川に末裔が移っても不思議な話ではない。
荀子の末裔である潁川荀氏一族は名門学閥である。彼の父シュン・シュ(荀淑)は字をジーホー(季和)という。季という漢字は四男につけることが多い。だから、伯和・孟和・元和・長和という名の長兄、仲和という次兄、そして直ぐ上に叔和という兄がいたかも知れない。シュン・ジーホー(荀季和)はその中でも抜きんでていたようである。
漢王朝の改革派の面々、リー・ヅージィェン(李子堅)や、リー・ユェンリー(李元礼)は、彼を師と仰いでいた。そして、改革派の柱であるチェン・ヂョンジュ(陳仲挙)とは盟友である。陳氏が太学のルーナン(汝南)学閥の長であれば、荀氏はインチュァン(潁川)学閥の後見人だったのだろう。
後に、ツァオ・モンドゥー(曹孟徳)は潁川学閥を理論的な後ろ盾とし、ユエン・ベンチュ(袁本初)は自身の本拠地でもある汝南学閥を理論的な後ろ盾とした。いずれにしても荀氏も改革派に組する人物である。そんな父を持った『潁川の八龍』も皆改革派の志を持つ英才である。
その英才シュン・ツ-ミン(荀慈明)が王宮に上がり、そして直ぐに辞したのは三十八歳の時である。父も、時の大将軍リャン・ブォヂュオ(梁伯卓)を批判し下野しているが、彼も守旧派に依る改革派の大弾圧を逃れて、東海沿岸に身を潜めている。
その後、袁氏に有道之士として推薦され皇帝に招かれたが、辞退している。すでにその時、彼は五十路に入っていた。有道之士とは、それぐらいの才能と歳を重ねて成れるものである。そしてこの年、老狐ゴンスン・シォンジー(公孫升済)も熟年と成り五十路に入っていた。
その夏、太学で学生運動に奔走するヂャン・ジャオ(張角)が投獄された。老狐は、張角に面識はなかったが、憂える事態だと感じた。そのことを人に話した覚えはないが、後にこの思いが災いを呼んだ。数年後、彼は、尚書郎から冀州刺史(しし)へと出世を重ねた。尚書郎とは平たく言えば、皇帝の秘書官である。そして刺史とは、州の長官である。つまり高級官僚に上り詰めたのである。
その頃、張角は冀州で清貧を楽しんでいた。その張角を老狐は、密かに支援した。但し自らの意志ではない。彼には、漢王朝を正そうという意欲はない。リィゥ・イン(劉嬰)の末裔にとって今の王朝は簒奪王朝に等しい。彼は、太守ゴンスン・ユー(公孫琙)に恩を感じ、公孫一族の悲願を背負っている。だから、漢王朝を正そうとして都を追われた張角に同調する気はない。ただ友シェ・フーイー(謝輔宣)からの頼みだったので引き受けただけである。
友は、老狐と共に有道之士として皇帝に召喚されたひとりである。彼と友は、同じ歳であったばかりでなく、その思想性や性格も似通っていた。その為ふたりは盟友の契りを結んだ。更に、友は、改革派の志が高かった。その為、冀州に戻された張角を気遣っていたのである。
老狐自身は改革派ではなかったのだが、この件を発端として守旧派から睨まれ、後に冀州刺史の任を解かれ王宮の雑用係に落とされた。彼はこの処遇を冷ややかに受け入れた。苛政は虎よりも猛なりという諺(ことわざ)がある。まさに中原は、悪政にまみれ民は困窮を強いられていた。いつしか老狐は、東夷の地に独立国を打ち立てることを思い描き始めていた。
少年の火照った頬を東風が撫でた。山間の雪も解けだし清流のせせらぎも華やいで聞こえる。しかし、少年は憤懣やる方ない顔で霞立つ青空を睨んでいる。少年の名はバオ(豹)という。程なくして少年は、シォンジー(升済)と名を改め後年は公孫度として知られる。しかし、この時はまだ幼名である。
幼名で呼ばれていた頃の彼は、勝ち気で物おじしない少年だった。ひとつを問われれば、十を答える英才である。しかし批判を受ければ、弁明した口端の先から切り返す鋭さもあった。つまり生意気なのである。だから多くの大人達からは煙たがられ邪険にされた。
しかし、太守ゴンスン・ユー(公孫琙)は、その点が愉快に思え彼に惹かれ助成を惜しまなかった。「私は間違ったことはしていない」バオ(豹)少年は父に向い言い放った。父は「この世は、自分が正しいというだけではままならぬことも多い。お前も十三歳になったのだから、世の倣いも覚えなくてはいけない。今回は『私は間違ってない』と意地を張るより『分かりました』と頭を下げ、時の移ろいに身を預けたが良い。そろそろそういう生き方を身につけよ」と諭した。しかし、少年は依然と憤懣やる方ない顔である。
太守ユー(琙)が「良い良い、私には分かっている。バオは悪くない。きっとシャオランめが悪いのじゃろう。どうもあいつは甘やかして育てたようだ。バオが元気であれば、きっと諌めるだろうが、悔しいのう。気丈なバオよ」と少年を庇った。
少年の父は「しかし、太守様それでは……」と身を低くしたが「良い良い。この件は私が預かりおく。イェン(延)よ。そうバオを叱るな」と太守はバオ(豹)少年の頭を愛おしそうに撫でて笑った。
太守の跡取りで一人息子のバオ(豹)は、数年前より心の臓を患い床に伏せている。元気な頃は神童と噂された程の快活な少年だった。「バオがいれば公孫一族は安泰だ」と一族皆が期待を寄せていた。「バオは、わが祖リィゥ・イン(劉嬰)の生まれ変わりだ」という者もいた。イン(嬰)は漢王朝の開祖劉邦の直系である。したがってその生まれ変わりであれば、漢王朝の正当な皇帝である。しかし、これは現皇帝に対しての反逆思想である。だから、太守はこの噂を諌めた。
ゴンスン・シャオラン(公孫紹琅)は太守の甥である。従兄弟のバオ(豹)が床を離れなれなければ、公孫一族の統領はシャオラン(紹琅)と成る。彼は人当りが良く明るい少年である。しかし、いささか自信過剰気味であり粗忽な面もある。太守の跡取り息子バオ(豹)が元気な頃は、彼の役割は突撃隊長だった。つまり皆をやる気にさせる役目である。
シュェントゥ(玄菟)郡の悪童連は、裕福な豪族の子弟である。だからビビリが多い。狩りに出ても急流があれば躊躇するのである。そこで、シャオランが先陣を切るのである。無事対岸に渡ったシャオランが笑顔で皆を手招きすれば、安堵して川を渡り狩りの再開である。
従兄弟であるバオとシャオランの仲はとても良く、公孫一族の未来は正に安泰だった。バオが病に倒れると、公孫一族の期待は、シャオランの身にかかった。そして、彼は張り切り過ぎているのである。更に『イン(嬰)の生まれ変わり』と言う役目も負わなければと勘違いしているのである。
ゴンスン・シォンジー(公孫升済)の父は都の官僚であったが、改革派だったために左遷されてこの地に至った。幸いこの辺境の地は彼の母の故郷であった。父の名はリィゥ・イェン(劉延)と言ったが、今はゴンスン・イェン(公孫延)と名を改めている。ゴンスン(公孫)は母方の姓である。
母の名はゴンスン・ユーファ(公孫虞花)という。母もまたリィゥ・イン(劉嬰)の末裔である。そして太守の一族でもある。族娘のユーファ(虞花)一家が都を追われたと聞いた玄菟郡太守は、その夫を郡役人として呼び寄せ暮らし向きを支えてくれた。そして、都の守旧派から睨まれているリィゥ・イェン(劉延)の姓もゴンスン(公孫)に変え公孫一族に加えた。そうしておけば、守旧派の魔の手も伸ばせまいという配慮である。
その配慮は、太守にとっても益をもたらした。ゴンスン・イェン(公孫延)は、とても優秀な男だったのである。返して言えば飛びぬけて優秀だったからこそ守旧派に睨まれたのだろう。太守は、イェン(延)を重く用いてその役職も高めようとした。しかし、彼は身を挺して働いたが重職に就くのは辞退した。東夷の地で自分だけ裕福を味わうのが許せなかったようである。
東夷とは、シャー(中華)の中心民族である漢人達が、周辺の異民族をイー(夷)と恐れ呼慣らした言葉である。象形文字としての夷には、弓が隠れている。つまり狩猟民族のことである。それを四方に配し東の夷(えびす)をドンイー(東夷)と呼んだ。東夷に当たる民族は、ツングース(東胡)族、倭人、三韓人、そして、青洲や徐洲に多くが居住する九夷である。九夷とはシャー(中華)の東海沿岸民だともいえる。だから、シューフー(徐福)やコウミン(孔明)も案外、九夷の末裔かも知れない。そうであれば、ふたりは東夷でもある。
漢人達の最初の王朝はシャー(夏)と呼ばれている。夏王朝は中原(ちゅうげん)の地にある。その為、漢人は“中原に咲く華の民である”と自負している。つまりファシャー(華夏)であり漢人が治め住まう地はシャー(中華)である。そして、周辺四方に暮らす蛮族は四夷に分類され蔑まれている。
しかし、直接帝都を襲う危惧のある北狄や西戎に比べると、東夷に対しては、その対応は比較的緩やかである。それは、大海を挟むことが要因と成っているようである。高句麗やプヨ(夫余)国も陸続きではあるが、ポーハイ(渤海)の東の果てである。したがって倭国や三韓は言うに及ばず、リィァォドン(遼東)郡やシェント(玄菟)郡ですらファシャー(華夏)から見れば絶域である。
山越の反乱ともいえる荊州太平道のファンジンチーイー(黄巾起義)に対しては、主力軍を投入し断固たる制圧をした漢王朝も、絶域で東夷が暴れても主力軍を投入することはない。青洲の太平道制圧にすら手を焼いている漢王朝である。だから、絶域は捨て置くしかないという構えである。帝都で雑役に身を落としていた老狐には、そのことが身にしみて分かっていた。

古い時代、その絶域に居住していたツングース族は、ムォ(貊)族とウェイ(濊)族である。ムォ(貊)とは、羊などを遊牧する民である。ウェイ(濊)とは、水の湧く地を意味している。つまり河童族である。山岳や森林に住まう貊族は、山の民・森の民である。だから、天神を祭る。濊族は水辺の民・海の民である。だから水神・海神を祭る。そしてその地はコリ(稾離)国と呼ばれていた。しかし、国とはいっても定まった王がいるのではなく、各部族の共同体と考えた方が良い。そもそも貊族も濊族も農耕民ではないので、土地に対する執着心が薄いのである。その為、領土という概念も薄い。
ある時、天神の民ムォ(貊)の一部がコリ(稾離)国に流れてきた。その族長の名をヘモス(解慕漱)と言う。ヘモスはツングース族の族長であるが、その血脈の中に漢人の血が流れていた。解一族はシャー(夏王朝)の末裔である。
帝都洛陽の北に、塩の湖がある。名を解池という。この塩湖解池の周辺が夏王朝の発祥の地である。解一族がいつの頃に東夷の地に流れたかは分からない。しかし、倭人の源流のひとつが夏王朝であることを思えば不思議なことではない。案外、東夷の血の中にはこの血脈が濃いのかも知れない。
ヘモスの一族が南下してくる前に、稾離国に居住していたのは、同じ解一族のヘプル(解夫婁)である。ヘプルは温和な族長で、河童共の濊族との関係も良く、河童の頭領である河伯とも親しかった。子に恵まれなかったヘプルは、河童族の神童クムワ(金蛙)を養子にしていた。更に、ヘプルは漢王朝との関係も良好に築いていた。その為、漢王朝も、ヘプルをこの地の王と立て夫余国を開くことを容認していた。
この地は、シャー(中華)から見れば絶域である。そして何よりも敵対的なツングース族との緩衝地帯に成れば好都合である。夏王朝の滅亡から漢王朝の誕生までは千四百年程の歳月が流れている。もし、ヘモスの一族が、その滅亡期にツングース族の地に逃れ同化していったとすれば、既にヘモスは生粋の貊族である。
貊族は、いわゆる北狄(ほくてき)である。穏やかな東夷や南蛮に比べると、北狄や西戎(せいじゅう)は、勇敢で好戦的な種族である。東夷や南蛮は、大海という豊かな海の幸に生かされているが、北狄や西戎の住まう地の自然環境は厳しく、果敢な精神を持って生き抜くことを強いられる。加えて騎馬の戦闘力は恐ろしい攻撃である。ギッチラコ、ギッチラコと舟を漕いで押し寄せてくる海賊どもに比べると、騎馬族の戦い方は、疾風のように現れ攻撃し、疾風のように去っていくのであるから、大軍を擁しても守りがたい。
その誇り高い貊族から見れば、ヘプルの夫余国は、漢王朝の傀儡と見えた。そこで、ヘモスの一族は、夫余国に攻め入った。しかし、同じ解一族でもあるヘプルを討ち取ることまではせず国譲りを迫った。和平を好む温和なヘプルの一族は、北の夫余国を譲り南下した。そして、鯨海を臨む肥沃な地を新天地とした。その新しい都を、カソプウォン(迦葉原)と呼んだ。
カソプウォンの南西部には濊の民が暮らしていた。ただしここにも王はいない。それから数百年が流れ、亡命稾離国人の地は、河童どもの濊族と遊牧の民貊族が同化しながら徐々に南下して来た。そして、このウェイムォ(濊貊)の地は、ペクチェ(百済)国と呼ばれている。この地もまた、鯨海を望む開けた土地柄である。そして、今の王の名はクテ(仇台)と言う。
クテ(仇台)王の妻は、ゴンスン・リーチュン(公孫麗春)という名でゴンスン・シォンジー(公孫升済)の次女である。長女ゴンスン・チンファ(公孫清華)が馬韓国のチョゴ(肖古)王の妻であることを考え併せると、老狐の手は普遍に東夷の地を覆っていることになる。
シャオランが、バオの胸倉を掴んだ。そして「お前は、プーイェの味方か?ならば我が一族の裏切り者だ」と脅迫気味に迫った。十三歳の少年同士の諍いである。だから思慮は薄く腕力勝負の睨み合いである。その周辺を十数人の少年達が囲んでいる。大半はシャオランの悪童連である。バオは物怖じすることもなく「お前の誤解だ」と言った。
ゴン・プーイェ(耿溥曄)とは、漢王朝軍の指揮官の息子である。耿一族は名門武人の家柄である。その遠祖は雲台二十八将と呼ばれた武人のひとりである。雲台二十八将とは、光武帝の股肱之臣である。足の股、腕の肱と書くようにまさに光武帝の手足となり、戦乱の世を再興した武将達である。
しかし、光武帝と謚(おくりな)されたリィゥ・ウェンシュ(劉文叔)は、シャオラン達の遠祖リィゥ・イン(劉嬰)にとっては、皇帝の座を簒奪した劉氏傍流の男である。つまり、プーイェ(溥曄)は敵側の人間である。ここ遼東郡や玄菟郡は、複雑な勢力構造を持つ地域である。表向きは漢王朝が治めている。今はその先兵が耿の一族である。
しかし、この地は東夷の地である。だから、まつろわぬ者が多い。だがその東夷も一枚岩ではない。倭人が居り、三韓人が居り、ツングース族が居る。更に、ツングース族もシィェンビー(鮮卑)族や貊族、濊族と独立しており国としてまとまってはいない。その多人種の中に深く入り込んでいるのがリィゥ・イン(劉嬰)の末裔達である。そして、公孫一族はその筆頭である。だから、シャオランに力が入るのも分からないではない。世が世であればシャオランが皇帝に成ったかも知れないのである。
否、東夷の地をまとめあげ東の漢王朝を起こし、そして皇帝の席に座るのも無謀な夢ではない。しかし、彼の統治能力は稚拙である。腕力が唯一の力だと思っている。統治能力の基礎は交渉力なのだが、彼にはまだ理解できていない。更に交渉力にとって高飛車な態度は最も控えなければいけないことである。だが、自信過剰な彼は、飛びぬけて高飛車な態度を取る少年である。だから、シャオランに雲台二十八将を得られる可能性は極めて低い。十三歳のシォンジーに家臣はいない。しかし、ヨン・ペダル(延倍達)、ワン・ヒョプ(王侠)、シュ・ミン(徐敏)、フェ・ヂェン(何真)という四人の盟友がいる。将来彼らは、シォンジーの雲台二十八将ともいえる役割を果たすことになる。
初夏、鮮卑族の大軍が遼東郡に攻め入った。漢王朝はウーリュ(無慮)城に討伐軍を送り込み鎮圧にあたった。討伐軍の将軍はゴン・ジーユー(耿季遇)という。雲台二十八将を祖先に持つ彼は、その長い実戦経験においても歴戦の名将である。プーイェはその甥である。彼の父は先の戦さで亡くなっていた。そこでプーイェは叔父のジーユーに付いて来たのである。しかし、叔父は「まずは学問を身につけよ」と言って討伐軍には入れてくれなかった。だが、一族の生業を身体に叩き込む為に自分の従者として連れてきた。そして、玄菟郡太守に出会うと甥をその小学に預けた。
その学び舎で、プーイェとシォンジーは出会った。しかし、最初にプーイェと仲良くなったのは、玄菟郡役人の息子ミン(敏)である。ミンは生真面目な少年である。そして身体が弱く内気である。だから、シォンジー達以外の友人はいない。そして大勢の友達が欲しいとも思っていない。しかし、プーイェとは趣味が合った。
以外にもひ弱なミン(敏)であるが心躍る趣味は兵法である。三十六計は諳(そら)んじることが出来た。プーイェは武人の家の子である。だから兵法は必須科目である。そして彼もまた秀才である。そんな二人は兵法の問答遊びに明け暮れた。
ある日城内でボヤ騒ぎがあった。南門の近くであり人目にもついたので、火は早くに消し止められ大きな被害は出なかった。しかし普段火の気のない所である。そこで放火が疑われたが、鮮卑族の威嚇行為ではないかとの噂も流れた。そうであれば内側から門を開けた者がいたことになる。その鮮卑の内通者であると疑われ公孫一族の縁者が取り調べを受けた。その為、公孫一族では「誰がその者を密通したのか」と話題が上がった。結局、取り調べを受けた公孫一族の縁者は嫌疑不十分で釈放されたが、裏切り者探しが始まったのである。
シャオランの悪童連は、プーイェと仲の良いミン(敏)に目をつけた。そして、ミンを痛めつけようと話がまとまったのだが、シォンジーが立ちはだかったのである。そして、シャオランに胸倉をつかまれ「お前は、プーイェの味方か?ならば我が一族の裏切り者だ」と成ったのである。シォンジーはその手を逆手にねじり上げ「誤解だ。お前達の推測は間違っている。ミンはそんな奴ではない。プーイェもそんなことに首を突っ込む奴ではない。お前達の推測は的外れだ」と冷静に皆を見渡した。
しかし、それが悪童連の怒りに火をつけた。悪童連は一斉にシォンジーを抑え込み殴る蹴るの暴行を加え始めた。そこへ、ワン・ヒョプ(王侠)とヨン・ペダル(延倍達)が駆け付けた。悪童連は十数人でシォンジー側は三人である。ところが、この二人が飛び貫けた喧嘩達人である。ヒョプ(侠)は自他共に親分肌であるが、そうさせるだけの体力と気力が漲(みなぎ)っている。
ペダル(倍達)は昨年からポーハイ(渤海)の海賊王シェンハイ(玄海)の許に修行に出されていた。だが運良くこの日は休暇で帰ってきたところだった。陽気で人当たりの良いペダルだが、その遊び相手である兄貴分は、後に鬼国で河童の大将と呼ばれるサラクマ(沙羅隈)である。だから、ペダルが喧嘩に強くない筈はない。
一時も経たないうちに三人は十数人の悪童連を完膚なきまでに叩きのめしたのである。そして「完膚なき」の言葉通りに、シャオランの悪童連は、全身打ち傷だらけ、擦り傷だらけの痛々しい状態と成った。いくら子供の喧嘩とはいえども、これはやり過ぎである。そこで親達は郡太守に訴え出たのである。そこで、シォンジーの父のイェン(延)は、公孫一族の間を謝って回ろうとしているのである。だが「イェンよ。案ずるな。この件は私に任せてくれ。私が皆に納得させる」と太守ゴンスン・ユー(公孫琙)が自らシォンジーの弁護を買って出てくれたのである。
シォンジー四十八歳の時、太守ユー(琙)は七十九歳で身罷った。前年には扶余国との戦さに勝利し、その戦後処理はシォンジーに任された。彼が有道之士として中央に登り、高級官僚として栄達する姿は残念ながら見られなかった。しかし、孫娘同然のチンフア(清華)が馬韓国の王妃となり、リィゥ・イン(劉嬰)一族の末裔が連綿と続く姿はしかと瞼に焼き付けた。だから、太守は満足な人生を送ったと公孫一族は、その栄誉を称え安堵した。
ユー(琙)の後に郡太守に就いたのは、歴戦の猛将と賞賛されていたゴン・プーイェ(耿溥曄)である。プーイェは、玄菟郡太守に着任すると、盟友シォンジー(公孫升済)を帝都に上がらせるべく奔走した。その後プーイェは、玄菟郡から遼東郡と東夷の地を治めて回った。そして、最後は高句麗との戦いでチャウォン(坐原)に没した。高句麗の明星ジス(稷須)王子と刺し違えたのである。その後に、老狐となったシォンジーが旧友の席に座ったという経緯である。
だが、老狐は思い悩んでいた。自分と友プーイェが守るものは違っていた。プーイェが戦い守ってきたのは今の漢王朝である。しかし、恩人ユー(琙)から託されたのは、漢王朝から東夷の世界を独立させることだと思い始めていた。
チンフア(清華)が何やら文を携えて来た。娘は馬韓国の王妃なのだが、頻繁に父の許に帰ってくる。どうやら、それはチョゴ(肖古)王の外交戦略でもあるようだ。いずれにしても、多忙な老狐には勝気な娘が傍にいてくれるのは大いに助かることではある。チンフアが差し出した文は、今は亡き太守ゴンスン・ユー(公孫琙)からの最後の文だった。
これまではチョゴ王の手元に有った。そして「バオが東夷の王になったら渡してほしい」と託されていたそうである。老狐は、懐かしさが込み上げ震える手で文を開いた。そこには情愛のこもった筆痕で『愛しの息子、我血族を繋ぎ、永久に道を歩み続ける継承者。我が夢をお前に託さん』と書かれていた。涙に文字が揺れた。そして、その遺言を胸にしまいゴンスン・シォンジー(公孫升済)こと公孫度は前へ踏み出す決断を固めた。
~ 肉屋の大将軍討たれる ~
父の短刀が素早く心臓の脈を断った。それから皮を剥がし、腹を大きく切り裂いた。そして内臓を取り出し母に手渡した。母はその内臓を丁寧に洗っている。次に父は、腹の中の血を椀に掬い上げると幼い息子に手渡した。生暖かい命の残り香が幼子の胸に躍りこんできた。緊張し鼓動が高まった幼子は心を鎮めようと天に祈った。それからゆっくりと命の滴りを大鍋に移した。
何度かそれを繰り返し生き物の血はすべて大鍋に移し取られた。母が、その中に小麦粉と香味野菜を刻んで入れた。そして、洗った腸に二人で詰めていく。父は、肉と骨を切り分けていく。そうして羊の命は、一家の命を繋いでいく。それから精肉は店先に並べられ常連の客が買っていく。
幼子フェ・スイガオ(何遂高)は手伝いの駄賃に、少しだけ肉がこびり付いている骨と内臓とを貰った。そして、袋いっぱいの骨と内臓を担ぎ笑顔で駆け出していく。父の名はフェ・ヂェン(何真)と言う。ゴンスン・シォンジー(公孫升済)の幼馴染である。そして、父には七歳年上の兄がいる。名はフェ・ユン(何雲)である。兄はガオミー(高密)で評判の悪童だった。どうやらスイガオ(遂高)は伯父のユン(雲)に似ているようである。母の名はリィゥ・メイ(劉梅)と言う。リィゥ・イン(劉嬰)の末裔である。父の祖母リィゥ・チュン(劉椿)も劉嬰の末裔だったので、彼も紛れもない劉嬰の末裔である。
異様な臭いが部屋の中を覆っている。喉を詰まらせそうな異臭でもあり、案外美味しそうな匂いでもある。この異様な臭いの元は、内臓の煮込み鍋である。少しだけ肉がこびり付いている骨は羹(あつもの)にしてある。その椀汁の中には米粒も沈んでいる。米は幼馴染のグゥォ・シォン(郭勝)が持ってきた屑米である。そして、ここはヂャン・マンチョン(張曼成)の家である。
マンチョン(曼成)の父は若くして亡くなった。だから一家は食うにも困る有様である。マンチョンとスイガオは、ナンヤン(南陽)の東の悪童頭と西の悪童頭である。そして大親友である。シォン(勝)は華奢でおとなしく良家の子息であるが、二人の悪童振りに憧れてついて回っている。つまり三人は大の仲良しである。
数年が経ち、いよいよ食うに困ったマンチョン少年は山賊団に入った。シォンも宦官となり王宮に上がることが決まった。宦官に成れば学問を身に付けることが出来る。それが彼のささやかな希望だった。それは十四歳の少年達には辛すぎる冬の訪れだった。
更に翌年、スイガオの母リィゥ・メイ(劉梅)が突然の流行病で亡くなった。まだ三十三歳の若さだった。父ヂェン(真)は兄のユン(雲)のように悪童ではなかったが、無鉄砲なところがある。だから、どんな険しい道もためらわずに進んでいく。良くいえば開拓心旺盛である。そして一つ違いのメイ(梅)と夫婦になるとヂェンの父ラン(然)の許を出て裸一貫ナンヤン(南陽)で肉屋を始めた。
高密から南陽までは一朝一夕に通える距離ではない。つまり成行きに困ったからといって、実家に頼ることは出来ないのである。その無茶振りは十八歳の若造の成せる技とも言えるが、その潔さがまた父ヂェン(真)の持ち味でもある。その性格はスイガオにもしっかりと受け継がれている。
そんな父に付いていく母メイ(梅)だから、やはり気丈な女である。そして若い二人は異国の地で必死に働き店を大きくしていった。とは言っても何の当てもなく南陽に出てきた訳ではない。スイガオの祖母ユェ・グゥイ(月亀)は、月氏商人団の娘である。その縁で同じソグド商人であるバイ(白)商人団との縁も強い。グゥイ(亀)の友フーシュエ(狐雪)の夫バイ・ジー(白鶏)が立ち上げたのが白商人団である。ジー(鶏)の後にチュウ(秋)、フー(狐)と受け継がれシャー(中華)でも有数の豪商と成った。
そのチュウ(秋)を兄と慕い妹のフーシャー(狐沙)を妻に迎えたのが、ヂェン(真)の兄のユン(雲)である。その長兄ユンが前年に白商人団の拠点であるヤルホト(交河城)のキャラバンサライ運営と西域の交易を任せられた。つまり白商人団の大番頭に成ったのである。
そのことが開拓心旺盛な末弟ヂェン(真)を奮起させたのである。したがって、南陽で肉屋を開くにあたっても、月氏商人団と白商人団の助勢があったのは言うまでもない。とは言え最初の十年は若い夫婦にとって戦さ場のような日々だったようである。店を開いた翌年長男のスイガオが産まれた。母メイ(梅)は出産のその日まで肉切り包丁を握りしめて働いていたのである。だから、スイガオが産まれて初めて掴んだ物は肉切り包丁である。そして、母メイ(梅)は働くために生まれてきたような女であった。
十五歳のスイガオは母の死に涙を見せなかった。心の中は涙の洪水だったが、泣いて母を送ったら申し訳ないと思ったのである。スイガオの考え方では、“母メイの人生は誇れるものであった。だからその終焉は祝うべきである”というものである。
母メイ(梅)が亡くなった二年後、父ヂェン(真)が再婚した。再婚相手はウーシャン(巫山)の神女である。とは言っても仙女ではない。巫県で生まれ育った女である。そして、元はシャマン(呪術師)を生業としたので巫女であった。名をチュ・シン(屈興)と言う。しかし周りの者は、チュ・リィゥフォン(屈柳風)と呼んでいる。どことなく川風に吹き流される柳のように頼りない面持ちなのである。
そして白痴のように定まらぬ目線を時折天に向ける。まるで天からの迎えでも待っているような素振りである。だが、その学識は近隣で敵う者はいない。やはり、チュ(屈)氏の女である。屈氏は楚の国の王家に繋がる家柄である。そして、神事を司る巫覡(ふげき)を輩出してきた。
父のチュ・ヨン(屈庸)は神官で学者でもある。母のヤン・メイ(楊梅)も巫女である。細かく言えば、女の神官を巫(ふ)と呼び男の神官を覡(げき)と呼ぶ。リィゥフォン(柳風)は十二歳で女陰(ほと)を神に射られた。その神は石神である。神女と成って間もなくリィゥフォン(柳風)は初潮をむかえた。
巫県は荊州の南郡に位置した山間の郷である。四川盆地から東海へと流れる大河が貫いている。この大河には幾つもの名が有るが、この辺りの人々はチャンジャン(長江)と呼んでいる。東海が近くなると越人達はヤンツージャン(揚子江)と呼んでいる。いずれの呼び方であってもこの大河が多くの人生を押し流して行くことには変わりない。
シャー(中華)の西北部を起源とするチィァン(羌)族の中にも、倭国まで流れた者達も大勢いると古老達は伝えている。人々を東夷の地に押し流していくのは偏西風ばかりではない。川の流れもまた人々を東へ東へと押し流していくようである。もし逆に東風吹かば、それは異変を告げる前兆であろう。東南海から押し寄せてくる台風は実に厄介な風である。風は、そよそよと柳風がちょうど良い。
しかし、リィゥフォン(柳風)の人生はあまり順風ではない。それはこの娘の美貌が風を荒立てるのである。陽光に照る山花のような美さに心寄せる者は多い。その中には同族の男達もいた。中でも父方の従兄チュ・ルゥォ(屈羅)は、恋心を募らせていたが同族同姓の婚姻は禁じられていた。そこで父ヨン(庸)は、妻の甥であるヤン・イー(楊彝)を婿に迎えようと考えた。
そのことを知ったルゥォ(羅)は、イー(彝)と諍いを起こし、彼に大怪我を負わせてしまった。一族の揉めことを治めるために父ヨン(庸)は、娘を地元の有力者に嫁がせた。有力者はヂャン・ミャオ(張苗)という壮年の男だった。しかし、娘を娶り半年もしない内に変死した。その後、ミャオ(苗)の跡を継いだデン・リー(鄧麗)の妻となった。
薄幸の女チュ・シン(屈興)は、綽名のリィゥフォン(柳風)の如くそれを受け入れた。しかし、一年後、ミャオ(苗)の変死は跡を継いだリー(麗)の殺害であることが露見した。そして、県令に捕えられ刑死させられた。
その県令は、妻に先立たれ幼子を二人抱えていたのでリィゥフォン(柳風)を後妻にした。県令の名はヂュ・ゴンイー(朱公懿)と言う。そして程なくリィゥフォンは、ゴンイー(公懿)の三男ヂュ・シュダー(朱叔達)を産んだ。
更に翌年には長女ヂュ・ジーイャォ(朱季瑤)を産んだ。しかし、その直後今度はゴンイーが変死した。他殺とも自殺とも分からない死に様だった。朱家では「ウーシャン(巫山)の神が祟った」と噂が上り、リィゥフォン(柳風)は、幼子二人と共に家を出された。
二人の幼子を抱えた彼女は、あてもなくチャンジャン(長江)の流れに身を任せ、それから更に南陽までやって来た。微かな伝手は、月氏商人団だった。月氏は同じ月神を祭っていると聞いていたのだ。そして、月氏の流れを汲む者が南陽に居ると聞いた。そうして藁をも掴む気持ちで辿り着いたのが、フェ・ヂェン(何真)の肉屋であった。
ヂェン(真)自身は金儲けの神様にしか興味がなく、月神への関心は薄かった。しかし、その母ユェ・グゥイ(月亀)は、紛れもない月神の信徒だった。グゥイ(亀)は、ソグド(商胡)人で、大商人バイ・チュウ(白秋)の母フーシュエ(狐雪)の幼友達である。グゥイ(亀)は、夫と高密で肉屋を営んでいるが、末息子のヂェン(真)が南陽で肉屋を開いていたのである。そして、その後見はチュウ(秋)である。
そんな微かな縁で、リィゥフォン(柳風)親子は、何氏の肉屋に生きる糧を見出した。ヂェン(真)とリィゥフォン(柳風)が夫婦に成るきっかけを作ったのはスイガオである。一人息子で十七歳の悪童は淋しがり屋で子供好きだった。だから、良くシュダー(叔達)とジーイャォ(季瑤)の子守りをしてくれた。ヂェンとリィゥフォンは親子ほども歳が離れていたので、夫婦になろうという気はなかったのだが、ある日高密から母のグゥイ(亀)が訪ねてきた。孫のスイガオのことが心配だったのである。そして、幼子達と嬉しそうに遊んでいるスイガオの姿に安堵した。
それから幼子達の母親と話をすると、元はウーシャン(巫山)の神女だと分かった。そこでこれは神の御加護だと思い、半ば強引に二人を夫婦にした。そして、神は翌年に猛女を授けた。何皇后と呼ばれることになるフェ・シンヂェン(何杏貞)である。異父姉のジーイャォ(季瑤)も玉のように美しいが、シンヂェン(杏貞)には太陽のような輝きがあった。そして、大きな赤ん坊であった。
スイガオは十九歳に成っていたので妹を我が子のように溺愛した。シュダー(叔達)は、朱姓から何姓に改めフェァ・シュダー(何叔達)と成ったが、ヂュ・ジーイャォ(朱季瑤)は、屈姓に改めチュ・ジーイャォ(屈季瑤)とした。そして成長するとウーシャン(巫山)の神女と成った。
真夏の道をスイガオが元気よく歩いて行く。額には玉の汗だがそれくらいのことでへたり込む軟弱者ではない。木陰では一息つく旅人が多いが、彼は休む気配さえない足取りである。辻の脇に行き倒れている人がいる。一瞥すると浮浪者の少年である。日差しが強く異臭が漂う。
大きな蠅の群れが少年の左足辺りを飛び回っている。どす黒い血糊がこびり付いているので怪我をしたのだろう。息があるのかは分からない。しかし間もなく、蠅の群れが卵を産みつけ少年の身体は左足から蛆が湧き出すだろう。だが、その前に野犬に食われるか、烏に啄ばまれるか、どちらが早いともいえない。
元気なスイガオは、それを気に留めるでもなく通り過ぎようとした。すると少年の右手が、彼の左足首を掴んだ。まだそんな力が残っていたのかと思う程の強さである。スイガオは、その手を蹴払い通り過ぎようとしたが、少年が顔を上げた。披露困憊した表情の奥に澄んだ眼があった。だがその光は弱々しく今にも消え入りそうである。
行き倒れた屍は、街道の到る所に転がっている。だから、いちいち介抱していたら前には進めない。だが少年は「太陽が眩しい」と呟き微かに笑った。その表情に、スイガオは足を止めた。そして、気を失った少年を肩に担ぐと歩き出した。
急ぐ旅ではない。高密からの帰りである。この春で二十一歳に成ったがまだ気楽な独り身である。荷物は弟と妹達への土産が大半を占めていて軽い。服は着の身着のままである。洗い替えなどはない。身体が大きく腕力も有るので武器の類も携帯していない。土産以外の主な荷物は水筒と僅かばかりの保存食である。それに武器ではないが商売道具の肉切り包丁を持ち歩いている。
それにしても少年は臭い。何日も汗まみれで放浪していたのだろう。スイガオは、河原に降りて行き、少年を丸ごと洗うことにした。特に左足の傷口は川の清流で洗い流してやったが良さそうである。ざぶざぶと川の中に入っていくと、水の冷たさに少年が呻いた。「気がついたか。まず川の水でも飲め」と声を掛け全身を洗い流すと、岸に戻り少年を河原の草むらに横たえた。それから、保存食を取り出し磨り潰すと少年の口に運んだ。そして、「ゆっくり食え、急ぐと喉をつまらせる」と言いながら水筒を少年の脇に置いた。
ここは、シーファ(西華)の西の外れである。後年、老革命家ポントゥォ(彭脱)が奮戦するファンジンチーイー(黄巾起義)の大激戦地となるのだが、今は穏やかな豫州ルーナン(汝南)郡の地方都市である。若干二十一歳だが、スイガオは、高密から南陽の間に五つの肉屋を持つ実業家である。そしてその五つの肉屋には、悪童仲間を店主として配置している。
各店は基本的に独立採算制をとっている。だから、頑張った分だけ店主の懐も温まる。その為悪童仲間の志願者が後を絶たない。儲けの一割を皆で積立る。それで新店舗展開を行う。もし店が上手くいかない場合は、スイガオ親分が助言に訪れる。五つの肉屋では、十人の手下が明日の店主を夢見て修行中である。このままで行けば、三十路を待たずしてスイガオは数十店舗を持つだろうと思われる。だから面倒な妻帯等したくないのである。子供なら幼い弟と妹達がいる。だから淋しくはない。
少し元気に成った少年は、名を名乗らなかったが、歳は十三歳だと言った。西華の南、汝陽を目ざしているそうである。少し話をするうちに“この少年はただの浮浪者ではないなぁ”と思い始めた。それにこの足では、また行き倒れに成りそうである。南陽への帰路には少し遠回りに成るが、捨て置けなくなって送ることにした。
少年も最初は警戒していたが、スイガオの陽気さと気概の大きさを感じ甘えることにした。そして、その大きな背中に奇妙な安堵感を抱いた。汝陽が近づくと私兵の一隊が駆け寄ってきた。そして、少年を見ると「若様、御無事で」と歓声を上げた。私兵は各街道を探索していたようである。少年の無事が分かると、屋敷には探索に出ていた大勢の私兵が引き揚げてきた。そこは城とも呼べる大きな屋敷だった。その屋敷はルーナン(汝南)袁氏の本拠地であった。そして少年の名は、ユエン・ベンチュ(袁本初)と言った。
帝都洛陽の災難から逃れてきたのである。それは、妖臣リャン・ブォヂュオ(梁伯卓)が討たれた事件に端を発していた。ベンチュ(本初)の養父で伯父のユエン・ェンカイ(袁文開)もブォヂュオ(伯卓)に組したとして討たれたのである。
同じように連座し討たれた大臣達は数十人、罷免された官僚は三百人を超え帝都は戦さ場の如く化し、若様も命からがら逃げ出して来たのである。従者は道々で官軍と戦い討ち死にした。そして、独り最後の覚悟を固めた時、スイガオに救われたのである。ユエン・ベンチュ(袁本初)は後の世では袁紹と呼ばれる。そしてフェァ・スイガオ(何遂高)は何進と呼ばれる。これが、何進大将軍と袁紹の出会いだった。
その出会いは風雲変幻の時代の幕開けだったかも知れない。二十数年の後、漢王朝は凋落の一途を辿り、肉屋の大将は最後の立て直しを託された。腹を括った彼は、息子に嫁を迎え後継者問題を考え始めた。息子嫁は十八歳である。この娘が孫を儲けてくれれば更に二十数年の後まで何家は栄えるだろう。
その娘には、シュンファ(舜華)の美しさが有った。シュンファとはムーチン(木槿)の花である。微かに薄紅を帯びた白い夏の花は、涼やかで柔らかさを感じる。だが、なかなか丈夫な花木である。花は朝に開き夕に萎むが、翌朝になればまた開く。ひとつの花が枯れても次から次へと蕾を付けていく。茎の繊維も丈夫で折れにくい。だから刈り込まなければ人の背丈を優に超えて成長する。そして見上げる花の美しさである。その樹皮は乾燥させ生薬とする。チンピ(槿皮)と言う。花もチンファ(槿花)という生薬になる。共に腹痛や虫刺され、肌のかぶれに効く薬に調合される。
娘の名はイン・ミンティエン(尹旻天)と言う。高密の尹家から嫁いで来た。父は医術師で覡(げき)でもある。名をイン・ブォラオ(尹伯労)と言う。母は、ルー・ヅーメイ(盧子梅)と言い幽州ヂュオ(涿)郡の出である。スイガオの息子の名はフェ・シィェン(何咸)である。父には似ず乱暴者面ではない。太学にも通い両家の子息そのままの気品を備えている。頼もしい息子である。大将軍と成ったスイガオではあるが、その出自は屠殺人である。だから息子嫁の家柄などには口を挟む気はなかった。
しかし息子嫁はイン・ブォユェン(尹伯元)とルー・ヅーシー(盧子幹)の姪孫(てっそん)であった。共に大学者にして改革派の官僚だった者である。したがって彼女は叡才である。出来れば、息子嫁ではなくの太常の博士として置いておきたいぐらいである。
国家の運営は、その基本において大商店の経営と大差ない。だから彼の経済感覚は、並の官僚より優れている。しかし、国家運営の人材は肉屋の大将軍には手に余る。王宮で大将軍として振る舞えるのは、今のところ幼馴染のグゥォ・シォン(郭勝)に頼るしかない。王宮の大半の役割は宦官が担っている。だから、宦官のシォン(勝)がしっかりと支えてくれている。軍は、やはり幼馴染のマンチョン(曼成)がいてくれれば鬼に金棒である。しかし、マンチョンは下野してしまっている。そこで目下の相談相手は、武官経験のあるベンチュ(本初)だけである。
最大の悩みは学問の世界である。肉屋の大将スイガオにとって太学の門は仙人界の門に等しい。つまり限りなく無縁の世界である。ミンティエン(旻天)は太学には学んでいないが、高名なカンチョン(鄭康成)先生に学んでいる。故郷高密のカンチョン塾でも抜きんでて優秀な生徒であったと聞いている。
加えて大叔父はヅーシー(子幹)先生である。したがって彼女が男子ならば間違いなく太学の学閥を担える逸材である。更に河南郡ゴン(鞏)県の尹家は、漢王朝の高官を多数生みだしてきた家柄である。王宮でそのことを知らない者は誰一人としていない。そんな高貴な家柄の娘だが、若嫁にそんな素振りはない。この娘は意外にも苦労人である。
父方の大伯父イン・ブォユェン(尹伯元)は、改革派の旗頭ドウ・ヨウピン(竇游平)が頼りとする部下であった。その大将軍ヨウピン(游平)が大学者チェン・ヂョンジュ(陳仲挙)と共に守旧派により誅殺されると、それに連座されブォユェン(伯元)も討たれた。
かろうじて難を逃れた尹家の一族は、ヅーシー先生の故郷幽州のヂュオ(涿)に逃れた。丁度その頃、先生は官僚を辞し故郷に隠棲していたのである。しかしその後、先生が再び皇帝に呼ばれ王都に出ると、尹家の一族は、ヅーシー先生の盟友カンチョン先生を頼り高密に隠れた。そんな流転の人生に揉まれて、イン・ミンティエン(尹旻天)は、慎ましく育ったのである。この息子嫁の存在が、大きな後ろ盾となり、スイガオは、各地から名士を帝都に呼び寄せることが出来たのである。
“しまった。ベンチュの忠告を聞いておけば良かった”と後悔がスイガオの脳裏に走った。夏の日差しが王宮の中庭を焼き付けている。宦官に率いられた兵の刃が眩しく眼を焼いた。大将軍スイガオは、ほぼ丸腰に近く護衛兵も付けていない。気勢を上げる宦官達の中から、淋しそうにヂャン・ラン(張譲)の姿が現れた。何大将軍は目を見開き「ラン(譲)お前もか」と呟いた。
宦官の勢力も一枚岩ではない。幼馴染のグゥォ・シォン(郭勝)一派は何大将軍を支えてくれる宦官勢力である。最も敵対したジィェン・シュォ(蹇碩)の一派を倒した時には、ラン(譲)も味方に成ってくれた。だから敵対する宦官勢力は多くないと読んでいた。
盟友ユエン・ベンチュ(袁本初)からは宦官勢力の一掃を進言されていたが、乗り気にはなれないでいた。“政治の世界は二原論では、勘定は出来ないものである”と実業家スイガオは思っている。清流と濁流は一時の流れでしかない。大河は、清流と濁流を併せ呑みながら流れていくものである。
貨幣に正しい貨幣、悪しき貨幣はない。貨幣は共同認識に基づいた物質である。もし、清き貨幣に見えたり、汚れた貨幣に見えたりしても、それは一時の感情が生み出した幻想である。貝の貨幣であれ、石の貨幣であれ、金属や紙の貨幣であれ、貨幣そのものに清濁はない。つまりどう上手く使うかである。だから、改革派と守旧派の対立も何大将軍には、一時の流れが生み出す渦に思えている。“どちらかを断ち切れば、大河の水量は半減する。水は命の源である。大河の水量が半減すれば命の営みも勢いを失う。そうさせないのが政治である”と肉屋の大親分は思うのである。だが、その考え方には足りない何かがあったようである。肉屋の大将スイガオは「何でかなぁ~」と空を見上げて息絶えた。
~ 奸雄 天命を叫ぶ ~
土砂降りの雨が止まない。憂鬱な旋律を湿った南風が奏でる。遊女は湖畔に嘆きの唄を漂わせ深淵の魔物を誘う。月光は曇天に霞み聖なる剣に身を潜める。だから裏切らないでねと愛人は耳打ちし、邪教徒はサバト(魔宴)に酔いしれる。そして、偽りの夜明けは更に土砂降りの雨を激しく鳴らす。嗚呼うんざりだ。もう泣くのはやめてくれ。狂った風に身を晒す気にはなれない。そう酔えない酔っぱらいは深いため息をついた。嗚呼うんざりだ!うんざりだ! うんざりだ!……… 限りなく……… そして確かに……… うんざりだ!! モンドゥー(孟徳)は邪教の類(たぐい)が嫌いである。
うんざりだ!……… 嗚呼うんざりだ!! しかし、風を読み月明りに漁の糧を求め、太陽の陰りに勝敗を予見することには興味を惹かれる。つまり自然界の不思議には畏敬の念を感じるのである。だから、加太とは奇妙な関係を結んでいる。気が滅入ると加太の居場所を探し出し会いに行く。
昨年、望まぬままにファンジンチーイー(黄巾起義)の討伐に加わり、自慢にもしたくない手柄も立てた。その褒美にと青州ジーナン(済南)国の相に昇格した。相とは王のような地位である。職階としては太守に並ぶ。更に済南国は、ヤマァタイ(八海森)国程の大きさなので、巫女女王に並ぶ大出世である。
しかし、まったく嬉しくはない。自分の道は自分で決めたいのが孟徳の性根である。だから、褒美に宛がわれた職など嬉しくもないのだ。しかし、父や祖父の手前もあるので赴任したのである。そして、 済南国でも汚職官僚と、邪教で財をなそうと企む似非宗教は徹底的に取り締まった。だから、暫し済南国には太平の世が蘇った。民衆は誰が治める世でも良いのである。安寧な日々が約束されれば、太平道であれ、孟徳であれ選り好みはしないのである。汚職官僚と、邪教が駆除されれば反乱など企てる必要はない。
この統治を評価され、翌年には、中央に近い兗州東郡の太守に任命された。つまり更なる栄転である。しかし、今度は大病を患ったと偽りこれを断った。そして兗州の南東に位置する豫州のチャオ(譙)に引き籠ってしまった。嗚呼うんざりだ!! と。
ここペイ(沛)国譙県は、孟徳の故郷である。西華の激戦で生き残った老革命家ポントゥォ(彭脱)が匿われ傷を癒した地でもある。更に、ここから東に向かいポンチョン(彭城)を過ぎれば、青洲太平道の領域である。冀州、荊州、そして豫州の太平道は平定されたが、青洲太平道は未だに健在である。この三州の残党が青洲に籠り勢力を維持した事もあるが、しかし教祖の存在が異質であり壮大である。教祖は、孟徳が良く知るあの小娘である。
猫目の情報では、あの小娘は尹家の戦場(いくさば)の巫女だということである。孟徳も尹家の戦場の巫女の噂は聞いたことがある。その巫女が現れると天命が変わるらしい。つまり革命の巫女である。どうやら、加太はその革命の巫女に肩入れしているようである。
加太と孟徳の付き合いは長いとは言っても猫目程に親しい間柄ではない。物心付いた時からの知り合いである。但し名は先頃まで知らなかった。不思議なのは幼少の頃に会った時と、未だに風体が変わらないことである。
大人になる少し前のことだが、いつものように従兄弟のシャーホウ・ユェンラン(夏侯元譲)達と悪童ぶりを発揮していた。その日は、夏侯元譲の学問の師を侮辱した奴らを殴り倒しに行くところだった。ところが相手に先んじられてしまい大勢で切りかかられたのである。そこで大乱闘になった。
鬼の夏侯元譲はバッタバッタと敵を切り倒し、文字通りの鬼の形相となった。その大乱闘の中に運悪く加太が通りかかったのである。そして、孟徳達の加勢だと勘違いされ指を切り落とされてしまった。それを見た夏侯元譲は鬼神も勝てまいという形相でその男を切り倒した。
その鮮血を頭から浴びた加太だったが、何事もなかったかのように歩き去り、切り落とされた指を拾うと、ぽんと自分の口に放り込み「嗚呼、もったいない」と言うと飲み込んでしまった。あっけにとられた鬼神の夏侯元譲は、ほうけたように立ち尽くしている。
その日から夏侯元譲は、加太のことを「仙人さん」と呼んでいる。いずれにしても、孟徳は加太ほど奇妙な人間に出会ったことはない。そんな変人だから、異人チュクム(秋琴)との縁もまた普通なのであろう。しかし、青洲太平道がそんな変人ばかりの集まりではないことは孟徳も理解している。
青洲太平道の中核を成す指導者の多くが、優秀な学者と官僚である。中でも孟徳と縁の深い老革命家ポントゥォには敬意を感じている。孟徳が最初にこの老革命家に出会った時の名は、リー・ブォウェン(李博文)であった。十七歳年上のブォウェン(博文)はある意味で師である。革命に身を投じていなければ、太学の潁川学閥を率いる叡才であったことは間違いないだろう。そして、官僚であれば太常の博士であったろう。
仮病を使い一年ほど隠遁生活を楽しんでいたら、その老革命家が訪ねてくれるという朗報が飛び込んできた。それは意外にも豫州の政庁から伝えられた。それも豫州勅史(長官)から直接の伝言だった。始めは復職の話かと思い気が重かったのだが、その文面を見て気が晴れた。州の長官も変わったようである。名をファン・ズーイェン(黄子琰)と記してある。先頃まで帝都で大臣を務めていた男である。
荊州の名門黄家の出ではあるが、一時期は東夷の地青洲で洲長官の任にあたっていた。ズーイェン(琰)は、改革派の筆頭であったチェン・ヂョンジュ(陳仲挙)の部下である。従って生粋の改革派でもある。しかし、大将軍のドウ・ヨウピン(竇游平)とヂョンジュ(陳仲挙)が誅殺されると辺境の地に流された。彼の出自が低かったら濡れ衣を着せられ殺されていたかも知れない。
黄家は高官を輩出してきた家柄である。だから孟徳と同じように、昇級させ帝都から辺境の地青洲に追い払われたのである。だが、ファンジンチーイー(黄巾起義)が起きるとヤン・ブォヨウ(楊伯猷)によって帝都に呼び戻された。そして先頃まで太僕という要職に就いていたのである。
太僕とは車馬を管轄する大臣である。皇帝が行幸する際にはその陣頭指揮も執る。しかし政策に関わる事はない。太平道の総帥張角は、ヨウピン(游平)の愛弟子である。したがって、青洲の牧(州長官)の彼も太平道には寛容であった。その為、青洲では国教に等しい存在にまで広まっていた。早くから、「太平道が漢王朝の衰退を招くだろう」と進言していたブォヨウ(伯猷)は、その対策として帝都に呼び戻したのである。
しかし、彼は、皇帝の学問の師を務めていた程の秀才である。太僕の任を卒なく勤めていたのであるが、今回は戦乱で荒れた豫州の立て直しに長官として送られたのである。そして、彼にとって老革命家は、太僕時代の三学年先輩である。そこで先輩ブォウェンを伴い会いに来るというのである。
白くなめらかなムォリー(茉莉)が強い芳香を放ち夏の空を飾った。その小さな花の自己主張は好みが分かれるかもしれない。しかし、夏にはこれくらい強い個性を放たないと生存を主張できないのかも知れない。孟徳はそんな異彩を好む。
きっと、一点の曇りもない青い空には、純白が映える。鮮血の赤では生々しくうんざりしてしまうだろう。だから、青と赤の組合わせでは落ち着かない。純白は心を落ち着かせる。ところがその純白が妖艶な香りで誘うのである。意外ではないか。人生は意外な展開の方が面白い。斬り合いの人生を歩む孟徳にはそう思える。
熱風のような声を発し従兄弟シャーホウ・ミャオツァィ(夏侯妙才)が私室に入ってきた。「ジィルー(吉利)兄、悪党供が訪ねてきたぞ。嗚呼、いかん、いかんモンドゥー(孟徳)兄だったな。どうも小さい頃の呼び名が抜けん。許してくれ孟徳兄」と言って背を向け立ち去ろうとした。孟徳は書物に落としていた視線を、碧空へ向けた。それからミャオツァィ(妙才)を振り返ることもなく「分かった。直ぐ行く」と書物を閉じた。
シャーホウ・ユェンラン(夏侯元譲)と夏侯妙才の二人は、孟徳を頭として譙の三悪童と呼ばれてきた。ただし親分と子分ではない。長兄、次兄、三男の兄弟分である。そして、血筋を同じくする三人の結束とその関係性は生涯変わることなく続くことになる。夏侯元譲は孟徳と同じ年の生まれだが、夏侯妙才は一歳年下である。
夏侯元譲と夏侯妙才は兄弟ではなく、従兄弟である。夏侯元譲は本家の惣領であり、夏侯妙才は分家の惣領である。そして、孟徳の父ツァオ・ジュガオ(曹巨高)は、シャーホウ(夏侯)家からツァオ(曹)家へ養子に入った。両家は同門でありその結束は強い。だから、夏侯元譲と夏侯妙才にとって曹家の屋敷は我が家と同じである。だから遠慮はいらない。曹家の使用人達ですら二人を他家の者として扱うことはない。小さな時からそうであり、三十路を過ぎ壮年の男達となった今でも同じである。二人は暇さえあれば曹家でゴロゴロと過ごしている。
それぞれに妻子もあり夏侯家の惣領達なのだが、ここが落ち着くのである。それは、孟徳も同じである。特に三人で寄って何かをしている訳ではない。それぞれが好きに過ごしているのである。しかし、三人は互いに近くにいるだけで落ち着くのである。今日も特に呼ばれた訳ではないが、二人とも曹家に居り、これからの来客にも同席するつもりである。中庭では既に側室のチンリン(青鈴)が芳香茶を点て、客を持成している。
客の中に乳飲み子を伴った若い女がいる。それとは不釣り合いに眼光鋭い男もいる。年の頃は孟徳達と変わらないだろう。夏侯妙才が言った悪党とはどうやらこの男を指しているようだ。男はファン・シャオ(黄邵)と名乗った。孟徳もカンチョン(鄭康成)塾の三羽烏と評判をとっていたシャオ(邵)の名は聞き覚えがあった。
マー・ユェンイー(馬元義)とフェ・シャオ(何邵)は、ファンジンチーイー(黄巾起義)に散ったが、どうやらこの男は生き延びていたようだ。来客は、老革命家と州長官の二人だと思っていたので少し戸惑ったが、面白い顔ぶれである。
更に驚いたことに親子は、何大将軍の息子嫁と孫であった。女人の名はイン・ミンティエン(尹旻天)と言い、孫はまだ名がない。これから実家に帰り名付けてもらうそうである。郷里は高密である。つまり青洲太平道の本拠地であり、老革命家の今の居場所である。どうやら、彼女はチュクム(秋琴)と縁がありそうである。
聞くとやはり同じ年の生まれで、加太を先生として育ったそうだ。「やっぱり仙人さんの周りには美人が多いなぁ。まぁ仙女は美しいものだからなぁ」と夏侯元譲が妙な感心をしている。だが、確かにビィェン・チンリン(卞青鈴)にも劣らない美女である。
チンリン(青鈴)には、まだ子がない。孟徳の二番目の妻ディン・チュンユー(丁春玉)も子を持たない。孟徳の子供達は、先妻リィゥ・リーシャ(劉麗霞)が残したズーヨウ(子脩)とズーシュォ(子鑠)そしてチュンリン(春玲)の三人である。
後妻のチュンユー(春玉)は、この子等を我が産んだ子として育てており自分の子を持つことに積極的ではない。その様子にチンリン(青鈴)は気遣っているのかも知れない。先頃、孟徳は養母のディン・メイリン(丁美玲)からそう聞かされた。
メイリン(美玲)も我が子を持たず、妾腹の孟徳を我が産んだ子として育てた女である。だからそのあたりの気心が良く分かるのだろう。孟徳は女心の繊細さを思い知らされた。そして男供の描き出すこの世が、なんとも他愛ない世界であるかと意気消沈した。
それにしても、漢王朝の高官である州勅史、その王朝を正そうとした老革命家、それに現役の反逆者。加えて大将軍の息子嫁と孫である。これほど奇妙な取り合わせの客も珍しいものである。
老革命家ポントゥォ(彭脱)ことリー・ブォウェン(李博文)は、静かにそして深々と白髪頭を下げ「あの折は大変世話をおかけしました。皆様の温情は肩時と忘れた事はありません。傷が癒えたら何としてもお礼を述べなければと思い今日にいたりました」と言った。
孟徳は「いえ、こちらこそあの折の礼が言えておらず気に掛っていましたが、先刻の件でやっと借りが返せただけの事です。お気づかいなさいますな」と親しげに声を返した。それから、夏侯妙才が「それにしても妙な取り合わせですなぁ。黄巾残党の親玉と、それを取り締まるべき勅史殿が同席されているとは」と不躾に聞いた。
州長官のズーイェン(黄子琰)は白髪交じりの髭を撫で「私もそう思う。ブォウェン先輩が、彼を伴ってきた時には正直私も驚きました。シャーホウ・ミャオツァィ殿が言われるように、豫州を荒らす黄巾残党の親玉ですからなぁ。最初は、自首でもして来たのかと思いました。何しろ彼とはカンチョン塾で顔見知りでしたから、それを縁に勅史の職に就いた私を頼ってきたのかと思ったのです。しかし、シャオ(邵)めは私に取引を持ちかけてきましてなっ。それが面白いので、孟徳殿にもお聞かせしようと思いましてなぁ、連れてきたのですが、まぁ~酒の余興とでも思い聞いてくだされ」と目頭を細めて言った。
すると夏侯妙才が「ほう、では早速、宴会の準備をしようではないか。モンドゥー(孟徳)兄が下野してからは退屈でなぁ。良い暇つぶしが聴けそうだわい。良いじゃろ孟徳兄よ」と言った。孟徳は「お前に任す」と短く答えた。「おう、じゃぁ俺も手伝おう」と夏侯元譲も腰をあげ二人は奥に消えた。
それを笑って見送った側室チンリン(青鈴)が「お茶はいかがですか」と客に勧めた。するとイン・ミンティエン(尹旻天)が「色んな芳香茶を準備いただいたのですね。どれも暑気を払うお茶ばかりで、とても元気になりそうです」と声を返した。重ねて老革命家が「ミンティエンは幼い時から、加太殿に医学を学んでいましたから、薬学にも詳しいのです」と言い添えた。「なるほど。ところで加太めは元気にしていますか」と孟徳が聞き返した。「モンドゥー様も先生をご存知でしたか。先生はあの通り風変りな人ですからいつも元気です。時々ふらりと帝都にも現れます。でも目的を持って来るわけではなく『風に流された』と言ってはやって来て、また風に流されてどこかへ飛んでいきます」とミンティエンは微笑んだ。
孟徳は「アハハハ…… うらやましい奴ですなぁ。私もああ生きたいものだ」と空を見上げた。そこへ、「アーマン様、酒宴の用意が整いました」と妻のチュンユー(春玉)が呼びにきた。側室のチンリン(青鈴)は「ジィルー様」と呼んでいる。
ジィルーは孟徳の幼名である。チンリンが居た妓楼に遊んだ時に、孟徳は戯れに幼名を使ったのである。だから、彼女の中では孟徳はジィルー(吉利)のままである。夏侯元譲と夏侯妙才も以前は「ジィルー兄」と呼んでいたが、成人してからは成人名のモンドゥー(孟徳)兄と呼ぶよう心がけている。アーマン(阿瞞)は孟徳を溺愛していた養母メイリン(美玲)がつけた愛称である。そして、メイリンの姪でもある妻のチュンユーもアーマンと呼ぶのである。
席を立ちながら「そういえば猫目はどこにいる」と孟徳が妻のチュンユーに訊ねた。「あら、お忘れになったのですか? 猫目は貴方が先月使いに出されましたよ。なんでも冀州から幽州、そして馬韓国まで回って帰って来いとおっしゃっていましたけど……?」と答えると「嗚呼~そうであった。猫足で忍んで来いと申しつけておったなぁ。残念なことをした。面白い奴だから、是非ブォウェン殿に会わせたかったのだがなぁ。奴はタイピンダオ(太平道)嫌いの男でしてな。だが生まれ育ちは太平道という経歴の持ち主で、唯一の肉親だった母親も黄巾起義の折りに亡くしています。母親は熱心な信徒だったのです。その母が亡くなる際に、自分の本当の名がリィゥ・ゴンシー(劉公幹)だと知ったという変わり種でしてな。先々、ブォウェン殿の許に使いに走らせるかも知れんので、目通し願っておこうと思ったのですが致し方ありません。ゴンシー(公幹)と名乗る猫目の男が訪ねてきたら、それが私の使いだと思いお会い願いたい」と言いながら宴会場へと一行を案内した。
猫目も二十三歳に成ったがまだ独り身である。捨て猫同然だった男なので、所帯を持つことには興味がないのである。そして、孟徳との主従関係も相変わらず緩い。孟徳は組織統制に厳しい男である。夏侯元譲と夏侯妙才の兄弟分を除けば、その主従関係は厳格である。しかし唯一の例外が猫目である。他の家臣が忠犬であれば、猫目は文字通り飼い猫である。だから、使いに出した孟徳ですら、使いに出したことを忘れるぐらいに音信不通なのである。そして、この時、猫目は青洲で孟徳の娘ヂェン・ファ(姫華)の子守をして遊んでいたのだが、孟徳は勿論知らない。
宴席には、孟徳の一家も同席した。長女のチュンリン(春玲)は八歳に成りミンティエン(旻天)に乳飲み子を抱かせてもらい大喜びである。この大将軍の孫の名は、カンチョン(鄭康成)先生につけてもらうそうである。
そして何大将軍は、高名なカンチョン先生を帝都に迎えたいと切望しているのである。だから、息子嫁に「上洛を促してくれ」と託している。カンチョン先生には歴代の皇帝が幾度も招聘を発したが、先生は一度も応じていない。しかし、愛弟子の願いなら無碍にも出来まいとの策謀である。
青洲太平道を支えている多くの指導部は、その大半がカンチョン先生の教え子達である。中でもカンチョン(鄭康成)塾の三羽烏と謳われたシャオ(邵)は逸材である。そして、彼がが描く未来図は『天下三分の計』である。豫州勅史のファン・ズーイェン(黄子琰)に持ちかけた取引は、その未来図に基づくものである。つまり、「漢王朝が青洲の自治権を認めれば、豫州での反乱行為は止めましょう」というのである。
三分とは、青洲から東の東夷の世界、海越が思い描く東南海の沿岸国連合、そして中原を治める漢王朝の三世界共立構想である。既に漢王朝に、シャー(中華)全体を治める力は残っていない。ならばその起源である中原に絞って覇権を確かにする方が現実的であるという考えである。実業家の大将軍スイガオなら今の漢王朝は「事業拡大が限界に来ており、投資回収率が落ちている。適正規模に事業の再構築を行い、生産性を上げないと倒産する」と、ファン・シャオ(黄邵)の提言を理解するかも知れない。
しかし、今の漢王朝を支えている多くの官僚は、利権に走るか、観念論を振りまくかに終始している。孟徳も清流派に属しているが、実はどうでも良い。正しいか正しくないか、清いか汚濁しているかは、視点のずれで見え方が違ってくる。その立ち位置を頑迷なまでに変えない輩は、往々にして観念論に終始している。それがうんざりするのである。だから、全面的に賛同はしないが、彼の『天下三分の計』は面白く受け止めた。
川釣りを楽しむ三人がいる。「モンドゥー兄よ。面白い客だったなぁ」と夏侯妙才が秋の澄み切った空を見上げた。「確かに、ただの悪党ではないなぁ」と夏侯元譲が、大河の流れに目をやった。「そうだなぁ。いい加減にうんざりするのも止めにして前に進むか」と孟徳が腰を上げた。それから三人は釣竿を天に突き上げ「行くぞ!! おおお~」と気勢をあげた。その釣糸には、太公望の故事よろしく釣り針がなかった。
~ 東風吹かば ここは自由の国 ~
政庁の庭に梅の花の香りが漂った。どこから吹いてくるのだと孟徳は辺りを見渡したが、梅の木は見当たらない。その不思議さに孟徳はひと心地ついた気がした。黄巾起義が起きて四年、皇帝は、その際の教訓から、皇帝直属の軍隊を持つことにした。漢王朝の軍隊は農民の寄せ集めと豪族の私兵から成っている。だから実質的な軍権は皇帝にはない。軍事面から見れば謂わば一人親方のようなものである。自分の徒弟がいないので神輿に担がれている状態である。
何皇后の兄スイガオは、この動乱を良く治めた。文官や武官の経験はない何大将軍だが、肉屋の親方としての経営感覚が活かされたのである。実業家は常に危機意識を持って事に当たっている。現実は、理念や未来図通りにはいかない。だから、農業や商業は現実に対処する能力を常に求められる。
その事が、王朝での何大将軍の存在を確固たるものにした。「肉屋風情の成り上がりが!!」と蔑んでいた者共は、その驕りゆえに一握りの役にも立たなかったのである。大将軍としての存在を高めた彼は、王朝の現実的な改革に乗り出した。頼りは、改革派の旗頭で高級官僚を多く排出している袁一族の総領ベンチュ(本初)である。
王朝の文官は彼の叔父ユエン・ツーヤン(袁次陽)が差配した。ツーヤン(次陽)は、穏健派であり各省の大臣を歴任してきた大物官僚である。改革派にも守旧派にも人脈があり王宮内を治めるには適任である。
次に、武官の組織改革が必要である。そこで何大将軍は皇帝直属の軍隊の設置を進言した。「自分の意に沿う徒弟がおらんやったら商売は広げられんばい」という訳である。この皇軍の名は西園軍と呼ばれる。その規模は一万人程であり、部隊構成は上軍・中軍・下軍の三つに分けられた。上軍の将は、宦官のジィェン・シュォ(蹇碩)、中軍はユエン・ベンチュ(袁本初)、下軍はバオ・ホン(鮑鴻)である。この三人の中で戦場(いくさば)を生き抜いてきた武官はホン(鴻)だけである。だから、下軍は前線での実戦部隊である。
宦官のシュォ(碩)に戦さの経験はない。したがって上軍は皇帝の近衛隊である。中軍には、豪族の子弟で勢いの良いのが多い。その為、必然的に帝都周辺の治安部隊である。だから各将軍は、皇帝お気に入りの宦官。高級官僚の子弟で将来の高級官僚。そして、歴戦の武官という配置である。これは、いかにも政治的配慮を感じさせる人事配置であり、何大将軍が案外政治的な采配も行える人間だとわかる。
実戦の将ホン(鴻)を押したのは猛将ドン・ヂョンイン(董仲穎)である。彼は猛将の許で幾多の激戦を戦い抜いてきた男である。漢王朝の軍事を握っているのは、ホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)とヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)、そしてヂョンイン(仲穎)である。ホン(鴻)は、その軍事勢力から上ってきた男である。その実戦の将を頂く下軍が最も戦闘力があるのは間違いない。
その三軍の直轄とは別に五人の将校が配置されている。作戦計画や物資調達、軍規取締に当たる者達である。その筆頭である典軍校尉に就いたのは孟徳である。そして、孟徳をこの地位に推薦したのは袁本初である。孟徳が率いる部隊は、皇帝の親衛隊ともいえる。近衛隊と違うところは、少数だが守備範囲が広い点である。軍規違反や不正を取り締まる際には「切り捨て御免」が許される。誠に孟徳の気性に合った役職である。宦官嫌いの袁本初は、孟徳をこの長に据えることで宦官勢力と守旧派を牽制したかったのである。
西園三軍の総大将は皇帝の信頼厚き上軍の将宦官シュォ(碩)である。それは、袁本初にとって最も目障りな存在である。一方、孟徳は、信頼のおける盟友である。袁本初と孟徳は、共通点が多い。最も共通しているのは高級官僚を出す家柄の跡取りである。それも正妻が産んだ嫡男ではなく、妾腹の庶子である。だから二人とも実母との縁が薄い。その為、二人の幼少期は悪童として名を馳せている。
ガキ大将は親分争いに明け暮れるのものだが、袁本初と孟徳は、九歳違いである。つまり、袁本初にとって孟徳は、親分争いをする相手ではなく、自分の後継者である。そして、実の兄弟との縁が薄い二人は義兄弟のように親しい。唯一の違いは、汝南袁氏は儒家官僚の豪族一族だが、孟徳の譙曹氏は宦官からの成り上がりである。その為、袁本初の取り巻きの中には、孟徳を軽んじる者もいる。しかし、快活な袁本初は意に介さない。袁本初は、素直に孟徳が弟のように可愛いのである。
同じように複雑な幼少期を持つ董仲穎も、また袁本初の盟友である。だが、董仲穎については今一つ測りかねている。宦官嫌いという点では、同じ改革派なのだが、どうも董仲穎には危険な香りがする。したがって、上軍は守旧派、中軍は改革派、下軍はどちらに転ぶか分からない危険な香りがする中道派といった配分である。
孟徳の存在については、上軍の将宦官ジィェン・シュォ(蹇碩)も頼りにしている節がある。孟徳は、袁本初の盟友で改革派と目されているが、その祖父は宦官の頂点にいたツァオ・ジーシン(曹季興)である。したがって、袁本初との間で、緩衝材に成ってくれるだろうと期待しているのである。
もう一人宦官の縁者が居る。助軍右校尉のフォン・ファン(馮芳)である。ファン(芳)の妻は同じく宦官の頂点にいたツァオ・ハンフォン(曹漢豊)の養女である。その為、同じ宦官の縁者である馮芳と孟徳は親しい間柄である。馮芳は孟徳と同じ年頃だが、孟徳は豫州の譙曹氏であり、馮芳の妻は荊州の南陽曹氏なので同族ではない。岳父ハンフォン(漢豊)は、黄巾起義が起きる前に亡くなっているので、馮芳を引き揚げてきたのは、上軍の将宦官蹇碩であろう。したがって、馮芳は守旧派の武将と看做されている。
一方の助軍左校尉ヂャオ・ロン(趙融)は、名門趙一族の武官であり誇り高く、本当の中道派である。つまり、守旧派の宦官蹇碩、改革派の袁本初、軍事勢力の鮑鴻のいずれに付く気もない。佐軍の左右の校尉チュンユー・ヂョンジィェン(淳于仲簡)とシャー・ムー(夏牟)は、袁本初の豪族仲間である。王朝のどの勢力からも異論を挟めないこの組閣は、大実業家スイガオの面目躍如である。
更に、地方の乱れを正すために、官僚組織の改革も行った。州の長官を刺史から権限拡大をさせ州牧に改めたのである。そもそも刺史とは、監察官であり地方の乱れを防ぐ為に置かれたが、徐々にその権限は風化し、中央官僚の地方経験の為や、左遷の職位に成ることも多かった。その為賄賂が横行し地方の乱れは更に酷くなっていた。そこで、地方長官に軍事権を持たせ、本来の地方監察を目指したのである。この後、曹孟徳や袁本初は、この州牧の制度を活用しその覇権を広げていくことに成るのだが、この時は、大将軍スイガオもこの制度の難点に気がついていない。
東海の海風がチュクム(秋琴)の髪を天高く撫で揚げた。その風にズーフゥイ(紫蕙)の群棲が揺れた。紅紫の小さな花が一斉に山野を賑わし穏やかな春は終りを告げた。しかし、秋琴とフーミー(狐米)の親子は、夏の嵐の到来をまだ知らない。この数ヶ月後、何大将軍は守旧派に依って暗殺され、激怒した袁本初は、動乱の弦を引き放った。そして董仲穎は本性を現し漢王朝に牙を剥いた。呼応し遼東でも、シォンジー(公孫升済)が独立色を強めた。青洲太平道の知恵袋ファン・シャオ(黄邵)が投げかけた『天下三分の計』は、何大将軍と公孫升済そして東海沿岸勢力からも好反応を得ていた。その為、これまで青洲は春の陽気に包まれていた。だが、大将軍の死は、その安寧を蝕み始めた。
何大将軍が目指した行革の第三弾は、商業の振興だった。その為には治安を整えないといけない。州の長官の権限を高め、各州に送った牧達はその意図を汲み良く治安に努めた。そして、各地方勢力には、暗に『天下三分の計』を匂わせた。つまり、各地方の豪族に地方分権を認めると含ませたのである。それを実践し各豪族の開眼を図ったのは、同じリィゥ・イン(劉嬰)一族のシォンジー(公孫升済)である。
しかし、劉嬰一族の悲願は漢王朝の打倒ではない。皇位奪還が悲願であり、革命を目指していたのではない。だから、緩やかな共和国体制としての漢王朝を描いていたのである。そこで、黄邵の『天下三分の計』も汲むところがあった。
地方分権には、もうひとつ大実業家スイガオの目算が働いていた。“今の漢王朝は肥大化している。その為の維持費が嵩み、また何事かを起こした時にも、その投資回収率が落ちている。そこで、大きな政府を作らず、最小限に絞った小さな政府にする事で、財政回復を図れる”という経営感覚である。そして、それは徐々に軌道に乗り始めていた。
何皇后シンヂェン(杏貞)に商業の面白みを吹き込まれた皇帝は、自ら商人のまねをして商業振興に力を注いだのである。その為、先の西園軍も国庫からではなく、皇帝の蓄財から維持費が当てられた。しかし、そのような楽市楽座が蔓延れば、守旧派としては賄賂と利権で潤っている己の存続が危ぶまれる。そこで、怪力乱神を頼み改革派を断つ蛮行に出たのである。

黄巾起義から五年が経ち、青洲太平道は百三十万を超える信徒を擁した。冀州・豫州・荊州の三州太平道は三割以上の戦死者を出したが、五割弱は市井に身を潜めた。そして、二割以上が東夷の地へ逃亡した。その逃亡先は青洲と幽州である。つまり頼ったのは青洲太平道とヘイシャンダン(黒山党)である。
身を潜めた堅牢な男子は、遊撃隊を組織し、冀州、兗州、豫州で引き続き反乱を続けている。政庁を襲撃しその物資を強奪しては民に分け与えるので、反乱軍をかくまう者は多い。その為漢王朝もその討伐に追われ、先に進む余力はない。つまり、この地を最前線とすることで、徐州と青洲を守ろうとしているのである。
黄巾起義の直前、青洲の長官で秋琴の茶飲み友達ファン・ズーイェン(黄子琰)は、帝都に呼ばれ高級官僚に返り咲いた。その後任は、温和な老人フォン・シィェン(馮羨)である。シィェン(羨)も名門の出であり、若い時は皇帝の傍に仕えていた。歳を重ねるにつれ問題の多い地方を歴任してきた。その手法は現地懐柔型であり威圧的な治世は行わない。
腕力に自信がないわけではない。三十代の頃は、匈奴との戦いにも明け暮れた。その経験から東夷は、決して野蛮な民ではなく、正直で勇敢な民なのだと知った。だから真摯な態度で接し融和対策に努めた。その為に勇名を馳せることは出来なかったが、その治世は王朝内でも評価を得ていた。そこで、青洲の長官として派遣されたのである。
彼には、心密かに憧れている人がいた。改革派で名を馳せたリー・ユェンリー(李元礼)である。ユェンリー(元礼)は彼より七歳年上であり、学問の師を同じくした。先生の名はチェン・ヂョンゴン(陳仲弓)と言う。潁川学閥の長であり、清流派の中心人物だった人である。
その教えの許にいるシィェン(羨)も穏健な改革派である。そして、ユェンリー(元礼)が司隷校尉を辞した後には、その後任を務めたこともある。司隷校尉とは、帝都周辺の州長官のことである。先輩ユェンリー(元礼)は、若い時に青洲の長官を務めていたことがある。だから、彼は青洲への赴任を喜んで引き受けた。そして、シィェン(羨)もまた秋琴の茶飲み友達に成った。もちろん茶会の場所はカンチョン(鄭康成)塾である。だから、青洲における漢王朝と太平道の関係は変わらないままであった。その為、青洲太平国というべき存在にも大きな変化はなかった。いわゆる連立政権である。
冀州のハンダン(邯鄲)は、黒山党と冀州太平道の残力で奪還した。レンチョン(任城)は激戦のすえ死守し、ポンチョン(彭城)は戦火を浴びなかった。したがってその三都が前線基地である。
彭城で指揮をとっているのは老革命家ブォウェン(博文)である。そして、任城を巳の親方ツァンロン(蒼龍)、邯鄲を、元は白秋商人団のバイロウ(白柔)が指揮をとっている。この前線三軍の他に、水軍を強化しハイシー(海西)、チンダオ(青島)、ジンメン(津門)の港町を押さえた。
三海の海賊王達の助力を得てこの水軍を率いているのは、鬼国の河童の大将の弟フェァ・イー(何儀)である。海軍力の乏しい漢王朝軍との艦隊戦はない為、水軍の役割は物資の運搬と、海兵隊による奇襲攻撃である。
高密の本隊を任されているのは美しき女軍師ヂャン・リンシン(張林杏)である。女軍師と形容したが今は軍師ではない。高密の本隊は直接の戦闘行為には参加しないため、その主な役割は治安維持部隊である。だから青洲太平国の警察長官といったところである。
軍師に相当する役は、黄邵と朝日楼の娘で寡黙な兵法家リー・リー(李梨)が担っている。この参謀本部ともいえる部局は、やはり高密にある。しかし、軍師黄邵は各地を飛び回り、その席を温めることはない。つまり暗躍しているのである。リー(梨)は、様々に起きる揉め事を太古に遡る事例を元に裁いている。つまり青洲太平国の司法長官の役を担っているのである。
青洲太平国の内政は、荊州太平道が培ってきた協同体組織を活用した。だから小さな政府である。面白いことに、何大将軍と荊州太平道の総帥張曼成の政治感覚は同じである。もしかするとこれは、南陽を中心とする中華南部の風土がそうするのかも知れない。
南越も含めて中華南部は総じて母系社会が色濃く残っている。肝っ玉母さんの国なのである。だから、無意味に威張り散らす男社会にはないものを、南部人は幼い時から育むのだろう。青洲の太平道も教祖が秋琴である事も含めて女達の元気が良い。母系社会ではないのだが、その気風は強い。
青洲太平国の中心は若い女達である。社会の中心に成るべき世代は、五年前に多くがこの世を去ったので致し方ない。その筆頭秋琴と張林杏もまだ二十四歳である。そして、李梨はひとつ年下である。その三人をまとめるのは、大地母神マー・チャーホァ(馬茶花)である。その馬茶花でも二十九歳である。普通の世であれば、まだまだ姑に仕える若嫁であるが、馬茶花は、一国の母親でもある。平たく政治的な言葉で言えば青洲太平国の総理である。
馬茶花は、黄巾起義で兄と夫を亡くしたが、翌年初冬、長男フェァ・ユェンイー(何元義)を出産した。何元義は父何邵と伯父馬元義の二人に良く似ている。まだ四歳なのだが、既にカンチョン(鄭康成)塾の英才の名を引き継ぐ片鱗が覗いている。更に何元義には、賢い姉がいる。七歳になったフーミー(狐米)ことヂェンファ(姫華)である。張角の血は、すべて孫娘に注がれたように、姫華も小さいながら既に才女である。
黄巾起義は多くの逸材を奪っていったが、次の世を託す子供達も残していったのである。張林杏の息子達も、長男ヂャン・ヂュフォン(張朱鳳)は七歳、次男ヂャン・ウーロン(張霧瀧)は六歳、そして三男ヂャン・サーフォン(張疾風)は五歳に成った。フーミー(狐米)と張朱鳳は同じ七歳なのだが、この三兄弟は、秋琴の従姉弟に当たる。だから、張朱鳳は少しお兄さんぶっている。
秋琴にはもう一人ヂャン・シァォメイ(張小梅)という従姉妹がいる。張小梅は十五歳である。だから必然的に張小梅が子供達の長女役である。もう一人秋琴の身内に死地を潜り抜けた貴重な人材がいる。叔父ヂャン・バオ(張宝)の妻でユータイピンダオ(豫州太平道)の教母だったリュ・ヤーイー(呂芽衣)である。呂芽衣は三十二歳に成り数少ない年配の指導者である。そして、生まれ育ちが川漁師なので、今は水産協同組合の指導者を担っている。戦さで男手が減り大きな漁獲が少なくなったので、その分を補おうと水産加工業に力を入れている。魚介を調味液に漬けて干し物にしたものが目下好評である。
もう一人年配の指導者がいる。荊洲太平道のスン・シャーホァ(孫夏華)である。孫夏華は三十七歳となり指導者の中では最年長者である。夫のヂャォ・ヂョンホン(趙仲弘)と長男のヂャォ・ブォイン(趙伯寅)そして弟のスン・シャー(孫夏)は先立ったが、長女のヂャォ・シーハン(趙詩涵)と次男のヂャォ・ヂョンシュン(趙仲熊)は残された。孫夏華は、そもそも高密の出身者である。父も弟も農本家であり、孫夏華も農学に通じている為、農畜協同組合の指導者を担っている。そして、農業に畜産を組み合わせた複合生産に取り組み成果を上げ始めている。その技術は、十八歳になった趙詩涵と十二歳になった趙仲熊に受け継がれようとしている。
小春日和の海岸に陽気な声が響き渡っている。今日は、遠来からの客を迎えようと大勢の人々がチンダオ(青島)の湾に集まった。もちろん秋琴とフーミーの親子の姿もある。張林杏と馬茶花は職務の手が離せないが、子供達は皆秋琴が連れてきた。滞在しているのは加太の工房である。だから、美英と志賀も子供達の面倒を見てくれている。
加太はまた風来坊に成っており今はいない。その加太の助手を務めているのは、美しき灰神楽姫マンヂュ(曼珠)の弟ピリュ(沸流)である。沸流は、父シンナム(神男)と中華に渡り、黄巾起義に参加した。そして父シンナムがワンジョン(宛城)攻防戦で戦死すると、張林杏に伴われて青洲に逃れてきたのである。父シンナムはシャマン(呪術師)でもあったので、沸流も不思議な世界が好きである。そこで、加太に付いて回っているのである。
加太の弟子がもう一人出来た。男装の女絵師リンツァイ(鈴菜)である。母が医女であり医療の心得があったので、冀州太平道では看護部隊を率いていた。そして、青洲に逃れてきてから改めて加太に医術を学んでいるのである。そして、鈴菜は青洲太平国医療院の院長を務めている。
内政を治めているのは、医療院の他に農畜水産院、文部院、芸術院がある。各院は小さな政府の省庁である。それと連携し協同組合組織がある。農畜水産院と連携しているのは、先にあげた水産協同組合、農畜協同組合、そして商工協同組合である。医療院、文部院、芸術院もそれぞれ、医療協同組合、産育協同組合、美匠協同組合と連携し運営されている。だから、大きな政府なら大臣に相当する院長も若い力で十分なのである。
財源を確保し、販路を確保し、事業の運営を担うのは各協同組合である。だから、小さな政府の院長の役割は、各組織との連絡や相談、それに指導・調整役である。その為、返って腰が低く発想が柔軟な若者の方が良いのである。威張り散らしているだけの大臣など屁の足しにも成らないのである。農畜水産院は遊牧民の娘タン・チュンイェン(檀春燕)、川漁師の娘リュ・シァォファン(呂小芳)、月氏商人団のユェ・シュエラン(月雪蘭)の三人がそれぞれの得意分野で活躍している。
青島の湾に大型船が入港してきた。三足烏の旗印が東風にそよいでいる。それは、須佐能王の三足烏である。したがってその大型船は倭国海軍のアマノレラフネ(天之玲来船)である。倭国は海洋大国であり天之玲来船はその一番艦である。しかしその船体は二代目であり初号艦から受け継いだのはこの旗印だけである。艦長も三代目のサセ(狭瀬)に代わっている。
狭瀬は、サセブ(佐瀬布)沫裸党の党首でもある。そして、倭国海軍の生みの親オマロ(表麻呂)船長の愛弟子であり、さらに数多いる弟子の中で、第一の後継者と見做されている。鮮やかな青い船体が近づくと、岸辺から一斉に歓声が沸き起こった。この船には、倭国の女王が姪の秋琴を支援するために沢山の物資が積まれているのである。
その物資を運んできたのは、シマァ(斯海)国の女族長ラビア姫である。勿論、秋琴の従姉妹希蝶も一緒である。ラビア姫は白商人団の族娘でもあるので、青島に上陸した後は、交易の旅に出ることにしている。最終目的地は生まれ育ったヤルホト(交河城)である。七歳になったフーミーは、その旅に強い憧れを持った。だが、西域交河城までの旅は叶わない。しかしこの後、交易とは違った長く数奇に満ちた旅を歩むことになる。が、まだその運命に気づいてはいない。
勢いに満ちた漁師の親子が、天之玲来船に近づこうと初夏の海に飛び込んだ。しかし、まだ水は冷たい「父(とと)よぉ~ 父(とと)よぉ~ 水ん中ぁまだ冷めてぇよぉ~」と息子が震え訴えた。しかし海仕事では、百戦錬磨の父(とと)である。「大丈夫(でぇじょうぶ)だぁ~ 冷めたけりゃ小便でもすりゃいいべ」とやり返す。
息子は父の言うとおりにしたのであろう。「父(とと)よぉ~ 父(とと)よぉ~ 小便漏らしたら暖かくなったが、服ん中で小便漏らして母(かか)に叱られないかい」と次の心配をしている。「大丈夫(でぇじょうぶ)だぁ~ 海ん中で洗えやぁ分からんべ」と父が答えると、船上からは一斉に笑い声が起き、そして縄梯子が下ろされた。
この親子は湾の水先案内人なのである。その様子を羨ましそうに見つめ張林杏の三男張疾風が呟いた「兄上、父(ちぃちぃ)様はどんな方でした」長男の張朱鳳が「私もまだ二歳だったから良く覚えていないんだ」と答えた。
太平道の子供達は大半が父(てて)なし児である。でもフーミーの父親は生きているはずだ。でもフーミーは父の名も知らない。「フーミー姉様、姉様の父(ちぃちぃ)様はどんな人?」と張疾風が聞いた。「私の父様はね。いつも私のことを思っているけど、忙しくて遭いに来る暇がないの」とフーミーはやさしく張疾風の頭を撫でた。「ふ~ん」と張疾風は頷き、フーミーにもたれかかった。「ナンクルナイサー」と張朱鳳は快活に立ち上がった。黄巾起義が起きてもうすぐ六年、新しい春の息吹は絶え間なく紡がれていく。
~ 西風吹かば嵐の季節 ~
強い西風が吹き付けたあくる日、憔悴しきったイン・ミンティエン(尹旻天)が高密に帰ってきた。夫フェァ・シィェン(何咸)は、岳父の何大将軍、叔父のフェァ・シュダー(何叔達)と共に帝都の庭に屍をさらした。何皇后は幼子の皇帝と王宮に幽閉されている。そして、ミンティエン(旻天)は、大叔父ルー・ヅーシー(盧子幹)の力で助命され、高密に帰ることができた。四歳になった息子フェァ・ピンシュ(何平叔)は、一族に降りかかった大惨事も良く理解できていない。だから幸せなことに不幸の影は帯びてなく無邪気に明るい。
夏、戦乱への門をどうにか押し留めていた何大将軍の死により中華の全土で戦乱が吹き荒れた。守旧派、改革派、革命派、農民一揆、民族独立派とあらゆる勢力が入り乱れて戦い始めた。その中で中心人物と目されている袁本初や董仲穎ですら事の仔細は掴めていない。皆が闇雲に戦い殺しあっている状況である。
他の有力者皇甫義真や朱公偉には、この混乱に乗じて皇帝の席を奪うように絶えず誘いの声が届いている。しかしふたりは、その声に耳を塞ぎひたすら各地で起きる反乱の鎮圧に当たっている。
いち早く独立の姿勢を明確にしたのは、遼東のゴンスン・シォンジー(公孫升済)である。公孫升済がその態度を明確にしたことで、漢王朝の支配力は更に弱まった。その為に黒山党等の反乱分子の動きも治まり、幽州全土の治安は維持された。
青洲の長官は、太平道との融和を図っていたフォン・シィェン(馮羨)だったが、前年に突然病に倒れた。そして、その後にヤン・ヂョンシュェン(羊仲玄)と言う改革派の官僚が送り込まれていた。その人選を行ったのも何大将軍である。しかし彼の暗殺を機に罷免され、新しい長官は、ジャオ・ホー(焦和)という者にとって代わった。
先の長官ヂョンシュェン(仲玄)は、泰山羊氏の出であった。その一族からはヤン・スーズー(羊嗣祖)と言う高潔な官僚を生み出している。スーズー(嗣祖)は、妖臣リャン・ブォヂュオ(梁伯卓)に真っ向から立ち向かい誅殺されたリー・ヅージィェン(李子堅)の愛弟子である。しかし、そのヅージィェン(子堅)譲りの高潔さゆえに彼自身もまた張角が投獄された党錮の禁の際に没している。
その儒家が崇める泰山は神の山である。更に、そこから東方に三つの神山があると言い伝えられている。ポンライ(蓬莱)、ファンフー(方壷)、ドンイン(東瀛)と呼ばれる神の山には、仙人が住み不老不死の妙薬があると言う。その東方三神山と泰山とは、通底しておりその世界を黄泉の国と言う。したがって一説に東瀛とは稜威母のことである。
しかし、それを確かめた者はいない。遠い昔にシューフー(徐福)という方術師がその神山の地稜威母を目指したらしいが、たどり着いたのかは誰も知らない。もし辿り着いたのであれば、東瀛の仙人に成っていることであろう。
話を青洲に戻そう。泰山羊氏は、泰山の南の地にその多くが暮らしている。西に任城、南に彭城、東に高密という土地柄なので、太平道の信徒も一族には多い。その為に青洲長官羊仲玄もまた秋琴の茶飲み友達であった。しかし、大将軍何大将軍が倒されると、守旧派から焦和が送り込まれ、太平道との関係は一変した。焦和は思い上がりだけが強く、統治能力には欠けていた為、青洲の混乱は更に深まった。そして、猛夏が青洲太平国の地も焼き尽くし始めた。
そんな初秋に、ミンティエン(旻天)親子は高密に帰り着いたのである。太古から中華の王朝は西から新しい勢力に攻められ東に落ち延びた。尹家もまたしかり、だから、この先尹旻天親子がもし更に落ち延びる先があるとしたら、青洲の東に広がる大海を超え東瀛を目指すことになる。だが今、それは当てのない逃避行である。

秋、青洲太平国の前線は激戦地となった。その為、張林杏は彭城へ、秋琴は任城へ、李梨は故郷邯鄲へ、共に戎衣(じゅうい)に身を包み赴いた。三人が血風に身を晒す頃、青洲太平国の国母馬茶花は、子供達の疎開を指示した。但し、大海を超える東瀛への旅ゆきは危惧が多い。だから、今は治安が安定している幽州を目指した。
幽州には尹旻天の一族も多く、更に大叔父ルー・ヅーシー(盧子幹)の本拠地である。そして、この避難民の一団は尹旻天が率いることになった。秋が深まりかけた頃、一団はラビア姫の交易隊に紛れ込みポーハイ(渤海)の岸沿いに北上した。因みに、渤海のどこかに蓬莱があるそうである。しかしその神山を目にした人はいない。渤海の海賊王ウーハイ(武海)ですら「見たことはない」と断言するのだから、丘の民が目にする事はないであろう。ラビア姫は子供達にそう話聞かせ、そして「きっと、神様の山は海中深くにそびえているのよ」と言った。もしそうであればそこは龍宮である。龍神は水神でもあるので不思議な話ではない。しかし、尹旻天一行はまだ人の身である。だから龍宮に逃げ延びることはできない。
朝露に光が跳躍した。それは神の成せる業である。その跳躍をもたらしたのはきっとフーミーだと、尹旻天は思った。それは尹家の巫女に通じる直感である。もうすぐ八歳を迎えるフーミーに屈託はない。しかし、同じ尹家の巫女尹旻天は「フーミーは東風を呼び。西風を呼ぶ」と悟っている。つまり、フーミーこそが、尹家の戦場(いくさば)の巫女であり中華に革命を呼ぶ女神であるのだということである。
希蝶は、旅団の実質的な統領であり、涼やかな春の乙女である。そして秋琴の従姉妹である。だから、フーミーの従叔母なのだが、二十二歳を迎えようとする希蝶とフーミーは親子のようである。
もうひとり若い従叔母がフーミーの供をする。豫州太平道の教祖張宝の娘張小梅である。十五歳の族姉に手を曳かれフーミーは波乱の人生を歩んで行く。だが、今は自分の本性を知らない。そして、波乱の人生を歩みだしたのだが、父の名も知らず母とは永久の別れになる元気で賢い少女である。尹旻天は、尹家の巫女の正体を近頃自覚した。一言でいえば、尹家の巫女の正体は風の巫女である。そして、火を司り、水を司り、空を司る黄泉の巫女でもある。つまり東瀛に通底する世界に住まう天女である。
渤海の港町ジンメン(津門)で風の旅団は、しばしの休息を得た。世話をかけているのは、大海商武海の館である。ラビア姫が兄と頼る武海も還暦を迎えた。だから実質的にこの大海商人団を率いているのは、武海の甥シェン・フェイイェン(玄飛燕)である。
武海の姉シェン・ジンレイ(玄静蕾)の息子である玄飛燕は、渤海の初代海賊王黒髭玄海に瓜二つである。二代目海賊王玄武海には、荒々しい海賊王の風格はない。彼の風貌は学者を思わせる。だから「東海の竜王」と呼ぶ人々の方が多い。そして還暦を迎えた今は好々爺である。
玄飛燕は、祖父と同じように黒々とした立派な髭を蓄えている。その為見るからに海賊王の風貌である。しかし、黒髭玄飛燕は恐妻家である。その恐ろしい妻は、武海の四女ユェ・チンヤン(月青洋)である。月青洋の容姿は物静かな月の女神様であるが、その血は温和な父武海よりも、気丈な母ユェ・リーチォン(月黎穹)の方が濃い。だから荒くれ男供にも動じる事はない。荒くれ男供は、その容貌のように月神様と崇めている。
先頃、四十二歳に成った月神様月青洋は、月氏商人団の一翼、東方商人団を率いている。西域交易商人の大神母月黎穹と大海商武海が結ばれた事で、月氏商人団は飛躍的に拡大した。その東の要を握っているのがこの夫婦である。
玄飛燕は恐妻家である事を恥じてはいない。その母玄静蕾も肝っ玉母さんであった。だから「母親となった女に勝れる男はいない」と言うのが口癖である。そして、それを聞くたびに叔父で岳父の武海は笑い出す。
武海の一人息子シェン・ユェハイ(玄月海)は二十八歳でまだ修行の身である。いずれ三代目海賊王玄飛燕の跡を継ぎ四代目渤海の海賊王と成るのだが、今は母月黎穹を手伝い西域を旅している。ラビア姫の白氏商人団は、月氏商人団からの分かれなので、提携関係である。ラビア姫は倭国のシマァ(斯海)国族長でもある。そして、項家軍属の元締めである。つまり、二つの商人団は大秦国(ローマ)国から倭国までを交易圏内としているのである。その大旅団に抱かれてフーミーは西風に髪をなびかせ歩いて行く。
明けて初冬、ジンメン(津門)の館で、思わぬ出会いがあった。張角の従姉弟ヂャン・ヂェン(張姫)が所用で津門を訪れていたのである。彼女は族子秋琴の事が気がかりで、青洲からの旅人を見つけては少しでも手がかりを得ようとしていたのである。
この時も、交易団の中に青洲からの者がいると知り、武海の館を訪ねたのである。そして、秋琴の娘フーミーが、否、姫華がいると知り歓喜し、そして号泣した。張姫は、豫州汝南郡の名家ヂェン(甄)氏の総領ヂェン・イー(甄逸)に嫁いでいた。
甄氏は袁本初の袁氏に並び立つ家柄である。そして、張姫の夫甄逸もシャンツァィ(上蔡)県の県令であった。その為、六年前の黄巾起義では辛くも生き延びた。上蔡県は、老革命家ポントゥォ(彭脱)が激戦の末に瀕死の重傷を負った西華の南西に位置している。だから、その戦いは生々しく伝え聞いており、更に冀州の常山張氏は、張姫だけを残しその戦火に消えた。
青洲にいた秋琴が生きていることは伝え聞いていたが、会えてはいない。今となっては数少ない血族である。とても会いたいのだが、今は秋琴に会えそうもない。そう諦めかけていたが、その娘に会えたのである。尹旻天から情勢を聞いた張姫は、何としても姫華を引き取りたいと懇願した。尹旻天としては、幽州で体制を整えたら、姫華を倭国の尹家に送るつもりであった。もし事敗れても倭国までは手が及ばない筈である。しかし、姫華は常山張氏の族娘でもある。どちらが安全で幸せに暮らせるか迷ったが、大叔母の張姫に託すことにした。そして、姫華は八歳にしてその名をヂェン・ヂャオミー(甄昭弥)に改めた。汝南ヂェン(甄)氏の娘であれば、太平道が事敗れても危害が及ぶことはない。そう判断したのである。ヂャオミー(昭弥)の新たな旅が始まった。でも不安はない。汝南へは、族姉張小梅に手をひかれての道行である。そして、姉もまたヂェン・ダオ(甄道)と名を改め甄氏の娘と成った。
更に、今は母代りの希蝶も一緒である。ラビア姫は、甄昭弥が汝南に馴染み落ち着くまで、その周辺を交易して周り見守ることにした。甄昭弥は、祖父張角の聡明さと、母秋琴の気丈さを受け継いでいる。更に見たことはない父の血だろうか、侠気の片鱗がある。だから、どんなところでも生きていける。そうラビア姫は見込んでいる。 寒椿が赤い街道を描き出した。その中を甄昭弥は、西風を正面に受け進んでいく。そして、青島で南の船乗りに習った呪文を唱えた。ナンクルナイサー!! ナンクルナイサー!! ナンクルナイサー!! と三度。
~ 雷鳴 天命を告ぐ ~
春雷が帝都の空を震わせ戦乱の扉が開かれた。か弱き者は夜陰に乗じて逃げ伸び、失うものが多い裕福な市民は固く門を閉じ不安に身を縮めた。袁本初の危惧は当たった。革命の火矢が袁本初と曹孟徳の首をかすめた。ドン・ヂョンイン(董仲穎)が本性を現し力なき忠犬は噛み殺され始めた。
袁本初は冀州まで逃げた。本貫の汝陽では、直ぐに狼犬の餌食に成りそうである。だから、津門の近くナンピー(南皮)に潜んだ。ここまで逃げれば狼犬董仲穎の牙も届くまいと思ったのである。最悪、思った以上に董仲穎の勢いが強ければ、津門から、渤海の海上に逃れれば良い。騎馬戦では最強の董仲穎の軍勢も海上であれば手が出せない。
袁本初が南皮に逃れたことを知った改革派の多くはその後を追った。守旧派を壊滅させた改革派ではあったが、今度は革命派の董仲穎に襲われ始めたのである。董仲穎は漢王朝の腐敗を徹底的に破壊するつもりである。だから、改革ではなく革命である。
袁本初の袁一族は、漢王朝の籠の中に多くの既得権益を持っている。異端児董仲穎から見れば、守旧派も改革派も所詮は、その既得権益の奪い合いをしているにすぎない。西戎の血を引く董仲穎には、そう思える。だから、その既得権益を剥ぎ取った。
中原の民が、西戎や東夷、南蛮や北狄から掠め取った宝は、墓の中にまで隠し貯めている。だからその墓を発いた。そして宝を皆に分け与えた。「死んだ奴らに何で宝がいる。宝で救われるのは飢えた貧民だ」と董仲穎は思うのである。その為に涼州の兵ばかりだけでなく、越人の兵も董仲穎の荒ぶる所業を支持した。
忠義者ホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)は、董仲穎の強引な革命に意義を唱えたが、董仲穎の勢いには抗えなかった。そして兵権を剥奪され、漢王朝軍の半分は董仲穎の指揮下に組み込まれた。
もう一人の漢王朝の武人ヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)は静観を決め込んだ。彼の主力兵越人部隊は、董仲穎の気前の良さに好感を持っている。少なくともこれまでの漢王朝軍での扱いより越人部隊への配慮が細かいのである。それは文人政治から武人政治への転換を意味していた。
文人政治の上層部を占めるのは良家の子息である。恵まれたその子息達が、改革派の本性である。だから、蛮族扱いされている山越や海越が入り込む隙はない。董仲穎は、その体制をひっくり返したのである。そして、武人政治を展開した。中華全体が軍事政権に変わり始めた為に袁本初には不利な状況が続いた。そして、袁本初が逃げ出したので、皇帝の西園軍は、曹孟徳と董仲穎の股肱の臣鮑鴻に実権が握られた。
董仲穎は曹孟徳に自分と同じ狼犬の匂いを感じている。だから、曹孟徳を手厚く扱い懐柔しようと図った。だが、曹孟徳は袁本初と同じように、董仲穎に危険な香りを嗅いだ。性急すぎるのである。おそらく董仲穎は、近いうちに皇帝を殺害し、自分がその玉座に座ろうとするだろう。性急さは独善を生む。独善は政策を狭くする。政策が狭くなった政権は長くは持たない。曹孟徳の考え方は「人を活かし、活人政治を行う。その為には己の独善に走らない」と言うものである。だから、董仲穎とは相いれないと悟り、曹孟徳もまた帝都から逃げ出した。
黄巾起義から丁度六年春二月、改革派は董仲穎打倒を掲げて蜂起した。盟主は袁本初である。漢王朝の高級官僚の多くが袁本初の許に集った。だがそれから二年、反革命軍は全軍を挙げての王朝復古の戦いに臨まなかった。董仲穎が帝都を放棄し古都チャンアン(長安)に遷都したこともその理由の一つだが、袁本初は中原の覇権を確立しようと考えていたのである。その為に、冀州の黒山党と青洲の太平道軍の鎮圧に着手した。
黒山党と太平道は、遼東の公孫升済に通じる可能性が高い。更に幽州のゴンスン・ブォグゥイ(公孫伯珪)も抑え込んでおかないと危ない男である。それらの背後を断っておかないと、董仲穎との全面戦争は危ういと判断していたのである。
したがって、廃墟となった帝都を挟んで東西冷戦の時代を迎えた。更に戦い方の違いも影響した。董仲穎の革命軍は騎馬隊が主力である。対して袁本初の改革派軍は旧来の歩兵中心である。唯一騎馬戦に秀でた曹孟徳が、幾度か戦いを挑んだが敗れている。
膠着状態と成った東西冷戦の均衡が破れたのは、革命軍内部の権力闘争であった。董仲穎打倒を図ったのは、秋琴の茶飲み友達であったファン・ズーイェン(黄子琰)と、同じ改革派で盟友であったワン・ヅーシー(王子師)である。二人は漢王朝の滅亡を前に、革命派に転じていた。しかし、董仲穎の独裁色が強まるに連れて危機感が高まり、仲間を募っていた。その中には董仲穎の寵臣リュ・フォンシェン(呂奉先)も含まれていた。
ズートン(紫藤)の花房が春風に揺れた。董仲穎の心も弾み騎乗したまま王宮の門を潜った。皇帝の病気回復を祝うと王子師から呼ばれたのである。賓客の筆頭である董仲穎は紫の漢服に身を包み参内した。すると長槍を手にしたチンイー(秦誼)が行く手を塞いだ。秦誼は呂奉先の配下である。
董仲穎は「何事だ」と尋ねた。すると秦誼は「御免」と叫び長槍を突き刺してきた。油断をしていた董仲穎は落馬した。そして大声で呂奉先を呼んだ。だが現れた呂奉先は剣を抜き董仲穎の身体を突き刺してきた。それを合図に反逆者の一団が現れ董仲穎に手槍を突き立てた。董仲穎は悲しげに呂奉先を見つめ「リュブー(呂布)、お前もか」と言った。薄れゆく意識の中で、董仲穎の目が黄色貫頭衣を着た小娘を捉えた。小娘は驚き眼を見張り涙している。そしてゆっくりと視界から薄れゆく。雷鳴が響いた。その余韻がドドドドド……と天を揺るがす。それから董仲穎は「嗚呼~夢了」そう呟いて息を止めた。日が落ち辺りに静寂が訪れた。
⇒ ⇒ ⇒ 『第2巻《自由の国》第10部 ~ 日出ずる処の女王 ~』へ続く



