第7部 ~ 静と激 ~
幕間劇(26)「普通のしあわせ」
カタカタカタカタッ、カタカタカタカタッ、カタカタカタカタ……とミシンを踏む音が聞こえた。義彦は重たい瞼を押しあけ窓の向こうの青空を仰いだ。どうやらもう昼が近いようだ。昨夜は遅くまで編集に没頭していた。机の周りは、カットしたフイルムの切れ端でゴミの山ができている。
義彦は駆け出しの映画監督である。それもアンダーグラウンドシネマの新進気鋭だ。しかし、それだけでは食っていけないので、商業映画の助監督も生業(なりわい)にしている。義彦は、美大を卒業後一旦デザイン工房に入社したが、アメリカンニューシネマ好きが昂じて映画の世界に入った。
日本の商業映画でも、それまでの娯楽映画から、自己表現性の強い芸術的な映画も盛んに作られるようになっていた。その中でも、若戸玄海監督は大胆な発想と思想性の高さで義彦の憧れの人であった。
若戸玄海監督のヒット作は「怒りの朝鮮海峡・鯨の海」である。主人公は、朝鮮の娘ミヨン(美英)と、若き日本兵芦田耕太郎である。暴力的で、性描写の多いこの作品は、映倫の審査を辛うじて通過した。任侠映画と、ポルノ映画の要素を併せ持ったこの映画は、多くの若者達に支持された。
若戸玄海監督の二本目は「赤毛の少女とカラス男」だった。この映画はアングラ演劇的で内容は分かり辛かったが、主人公の少女が注目を集め興行的にも成功した。主人公の赤毛の少女はマリーである。美夏ちゃんの劇団『葉月舎』の公演ロックミュージカル「笑劇波サラオ」を見た若戸玄海監督が、是非にとマリーを映画業界に誘ったのだ。
カラス男役は、アイドルの少年だった。黒いマントに仮面をつけた美少年の名は、少年Aとしアイドル名は伏せられた。しかし、その少年Aの正体を知らない若者は居なかった。この意外な組み合わせも話題を呼んだ。少年Aは、その後アングラ演劇の舞台にも立ち、独特の世界を切り開いていった。
この「赤毛の少女とカラス男」で義彦は助監督になった。監督と助監督の関係は、親方と弟子のような関係である。だから、怒鳴られ走りまわされるのが仕事である。特に若戸玄海監督は、作品以上に気性が荒い。だから助監督はほぼ1作で変わる。そこが義彦にはラッキーであった。美大出だとはいえ、経験の浅い若造が、有名監督の助監督に付けることは滅多にあることではない。若戸玄海監督の怒りが頂点に達した時などは、他のスタッフは、誰もそばに近寄れない。ただただ大嵐が去るのを待つのみである。しかし、義彦は、ニコニコと笑いながら監督の許に行くと「はい、お茶」と、湯呑を渡すのである。当初は「熱い!!」とか「温い!!」とか怒鳴られていたが、近頃は要領を覚え、監督も「ムムム……」と文句を言わずお茶を飲み、気を安らぐようになった。だから、それから5作目も、まだ若戸玄海監督の助監督でいる。
昭和49年春、マリーと松本義彦は結婚した。マリーは、もう結婚などしたくなかったが子を宿したのである。義彦は、今8ミリ映画に夢中である。今取り組んでいる作品は「傀儡」というタイトルで分けの分からない映画である。8ミリ映画なので、一巻3分のショートムビーを、何本も撮り重ねている。この手の映画は、実験映画や、個人映画などと呼ばれている。そして、ただただ3分間、砂浜に打ち寄せる波頭が映っていたり、ただただ3分間、もくもくと喰い続ける男の口元が映っていたりするだけの変な映画である。分かり辛さでは、美夏ちゃんのアングラ演劇を、はるかに超えている。それは、日常の中の非日常性を捉えようとしているのかも知れない。しかし、テレビドラマや、娯楽番組しか見たことのない者達にとっては、ナンセンスな映画である。だから商業性は全くない。
しかし、元々絵画の世界を学んでいた義彦には、楽しい作業である。そして固定カメラでズームやパーンは殆ど使わない。寄りたい時は、本当にカメラを抱えて被写体に近づくのである。もしかすると、義彦は映画が持つ機能美を極力削っているのかも知れない。だから、この映画にダイナミズムは感じられない。マリーは、この映画の鑑賞の仕方は「ぼーっとして見る」と決めている。しかし、ぼーっとした映画ばかり作っていても生活できないので、日々の大半は、助監督暮らしである。
春、マリーは女の子を産んだ。義彦は、蛍莉(あかり)と名づけた。栗色の髪の可愛い娘である。目が大きくクリクリと良く動く。義彦の8ミリカメラは、すっかりホームムービーに変わってしまった。義彦は、整理整頓という言葉に最も無縁の男である。置いたら置きっぱなし、脱いだら脱ぎっぱなしの男である。だから、制作室にしている四畳半は、散らかり足の踏み場もない。中でもフイルムの切れ端は、まるで秋の落ち葉である。
その落ち葉に埋もれたの秋の道を、蛍莉は、這い這いと進んでいく。時々立ち止まりスチールの本棚をよじ登ろうともする。その本棚は、蛍莉の中では椋の木だろうか。それとも柿木? もし柿木なら要注意である。柿木は折れやすい木である。
マリーは幼い時から潔癖症であった。だから、得も言われぬ臭いを放つ汲み取り便所には閉口した。そこで、小学校に入り縫物を覚えると、大きなマスクを作った。その中には菊の花びらが詰められている。つまり香りマスクである。それで少しでもポットン便所の臭いを和らげていた。公衆トイレでは、洋式は避けた。便座に座れないのである。そんなマリーと義彦の高層団地の部屋は、二つの空間で仕切られている。
義彦の制作室は、ごみ屋敷である。それ以外の空間は、例え保険所の査察が入っても大合格である。食事処に例えると、義彦の空間は小便臭い路地裏の屋台である。対してマリーの空間は高級フレンチの厨房である。だから、マリーは入居してこの方、義彦の制作室に入ったことはない。マリーにとって、そこはポットン便所の洋式トイレである。だから無縁の空間である。しかし、蛍莉(あかり)には、その垣根がない。だから自由に這い這いをしているのである。
マリーと美夏ちゃんは、社会的には成功者の道を歩んでいた。劇団の評価も高く、美夏ちゃんは、今や新進気鋭の女流作家である。マリーは女優として順調に場数をこなしている。しかし、二人とも女の道はやや険しい。美夏ちゃんの連れ合いになっていた荒川逹也が、先頃出奔した。行方は分からない。自分の道をしっかりと歩んでいく美夏ちゃんと、自分の行方が定まらない荒川逹也は、文字通り自ら行方が不明になったのである。
今、美夏ちゃんは、荒川逹也が残した双子の息子と娘の三人で暮らしている。つまりシングルマザーである。息子の名は遊理(ゆーり)。娘の名は優奈(ゆな)である。遊理と優奈は、蛍莉より一歳お兄ちゃんとお姉ちゃんである。だから、マリーは、蛍莉を連れて美夏ちゃんの家に良く遊びに行った。三人の幼い子供達を見ながら、マリーと美夏ちゃんは、少しだけ普通の幸せを感じた。非凡な才能を評価され、憧れの眼差しを浴びる二人だったが、実は凡庸な人生に憧れていたのである。
人間は変な生き物である。常に自分にないモノを欲する。マリーは、その容姿からも凡庸には程遠い。自分でも、そのことは自覚している。だからこそ、尚更普通の白い白鳥に憧れるのである。「赤毛の白鳥など白鳥の筈はない」と思えるのである。もし、赤毛の白鳥が、赤いフラミンゴの中に紛れていたら、赤毛の白鳥マリーは、その凡庸さに満足がいくのだろうか? どうもそうは思えない。やはり、マリーは凡庸でいられるとは思えない。美夏ちゃんも、マリーに憧れ大好きだったのは、マリーの存在が非凡だからである。つまり、少し前までは、美夏ちゃんも非凡な人生に憧れていたのである。しかし、美夏ちゃん自身の非凡さが開花すると、今度は凡庸な人生に憧れているのである。
本当に人間は、いつの時代も「足りるを知る」ということだけでは、納まらない生き物なのである。このカルマ(業)が生み出す欲を牽引しているのは、努力という名の「もがき」である。仏の世界では業力という。でも、何の努力もせず頑張らないで生きていくのは意外と難しい。人間の基盤は、頑張りたい動物なのである。そして、マリーも美夏ちゃんも人一倍頑張り屋さんである。これは困ったものである。しかし、あの親鸞さんだって、その苦悩の中に生きたのであるから、致し方ないのかも知れない。「兎角この世はままならない」ものである。兎も角、マリーと美夏ちゃんはこの普通のしあわせな時間を一時の間楽しんでいる。
蛍莉が生まれて程なくした頃、マリーはブキチ(武吉)が日本に帰ってきているらしいという噂を聞いた。そして、乞食暮しをしているそうだ。どうやらまだ武吉は冥界を彷徨っているようである。マリーは、武吉なら立ち直れるだろうと信じるしかなかった。
ギターを手放し、普通の暮らしを始めたらしい竜ちゃんは、普通の会社も辞めたようだ。そして、実家の店を手伝い始めたと聞いた。春、マリーは1歳になった蛍莉を、祖父ちゃんや祖母ちゃん、そして、昭雄叔父さんや、京子叔母さんに見せる為に村に帰った。義彦は、撮影が入った為に同行できなかった。金沢生まれの義彦は、南国九州に憧れていたので残念がっていたが、義彦に仕事を選べる自由はなかった。
帰郷した翌日、マリーは竜ちゃんの新しい家族を紹介してもらった。場所は、武吉の両親が営む川魚料理屋「川葦」である。この料理屋もオープンから十年を迎え、すっかり落ち着いた店構えになっていた。守人叔父さんと、ヨシ叔母さんは、マリーを独り置いて出ていった武吉のことがすまなくて、マリーに何度も詫びの手紙を寄こしてくれていた。だから、マリーは蛍莉の顔を二人に見せて「大丈夫。元気にやりよるよ」と安心させたかったのである。
マリーの義理の妹だった神童香那(カナ)嬢も、今ではすっかり娘盛りである。香那嬢は、昼間は佐賀の大学に通い、夜は久留米の両親の店を手伝っている。そして、将来は教職の道に進むそうだ。香那嬢にとっては、小さい時からずっと、そして今でもマリーはお姉ちゃんである。だから、姪を可愛がるように蛍莉をあやしていた。
傍らでは、蛍莉より一歳年上のヨッシー(林田芳文)がはしゃいでいる。竜ちゃんの奥さんカナブン(林田文子)は、笑顔が素敵な普通のお嬢さんのように見えた。でも、話をする内にマリーが「アイノコ」と謗られいじめられたように、カナブンも「チョーセン」と謗られいじめられて育ったと知った。そして、いじめっ子達にマリーは殴りかかり、カナブンは笑って許してきた。だから、マリーはカナブンの寛容さと強さを知った。それは平穏に普通に生きていく強さである。いじめっ子は何も成長しない。それは自分の弱さに気づけないからだろう。人の弱さを素直に受け入れられる人はとても強い。カナブンの強さはそれである。竜ちゃんは、その強さに包まれて幸せそうである。きっと、ギターを捨てた竜ちゃんの選択は正解だったのだ。マリーは、竜ちゃんが少し羨ましかった。
その翌年の冬、カナブンが息を引き取ったという知らせが届いた。竜ちゃんは、三歳になったヨッシーを両親に預けて、どこかへ旅立ったそうだ。マリーは、何だか無性に竜ちゃんに腹立たしさを感じた。武吉といい、美夏ちゃんの連れ合い荒川逹也といい「何で男は勝手に独りで旅立つの? あんた達は皆オデュッセウスの末裔なの。あんた達なんて皆、仙女カリュプソーの愛を受け入れて異界に留まっていれば良いのよ」そうマリーは憤ったが、美夏ちゃんは冷静に「そうね。どう考えても、マリーは、二十年も夫の帰りを待ったペネロペイアなんかにはなれそうにないね」と笑っていた。マリーは、「じゃぁ美夏ちゃんは、王女ナウシカアのようね。それも私には無理だわ」と美夏ちゃんの笑いを誘った。蛍莉と、遊理と優奈の三人はすくすくと成長し、美夏ちゃんとマリーは取り敢えず幸せな時を過ごしていた。
翌年春、蛍莉が消えた。マリーは映画の撮影中だった。脚本は美夏ちゃん、題材はあの狂女キヨ(貴代)ちゃんでタイトルは「狂女のシャンソン」である。その撮影の途中で蛍莉の転落死を知ったマリーは正気を失った。その様子を、若戸玄海監督は長回しで撮らせた。美夏ちゃんは、撮影を中止してマリーを家に帰すように若戸玄海監督に猛抗議をした。しかし、若戸玄海監督の狂気はそれを無視した。マリーは狂女貴代ちゃんになって春の土手を彷徨った。フイルムに刻まれるその様子は、迫真の演技である。
マリーの涙を春風が天に舞い上げ、マリーはシャンソンを口ずさんでいる。♪ラ・メ~ル コン・ヴォワ・ダンセ~・ル・ロン・デ・ゴルフ・クレ~ル ア・デ・ルフレ・ダルジャン ラ・メ~ルと、マリーは貴代ちゃんに憑依された。だから、これは演技ではない。鬼道の舞である。若戸玄海監督はそのことを見抜いた。マリーは女優である。男優は演技の世界に留まるが、優れた女優の中には、演技の世界の外に至る者がいる。それは、巫女の世界に近いのかも知れない。
東風が吹いた。菜花の青臭さが目眩を誘い、一面黄色に覆われた河原が、バッコスの信女達の『牧神の唄』に包まれる。その春の野を、マリーは舞い川面を目指す。美夏ちゃんは、大急ぎで河原に降りて行き、深みの手前でマリーを抱きとめた。若戸玄海監督が小さく「カット」と呟いた。そして撮影隊に撤収を促した。美夏ちゃんに抱きとめられ、川岸の草むらに身を伏せたマリーは尚も歌い止むことがなかった。
蛍莉の死因は、高層階からの転落だった。ベランダには、コンテナに詰め込まれた義彦の作品や、様々な機材が積み上げられていた。それが、蛍莉の天国への階段となった。遺骨は、伊院家の墓地に収めた。初七日まで気丈に振舞っていた義彦は、部屋から出てこなくなった。部屋からはカタカタカタカタッ……と映写機の回る音だけが響いてきた。だから、納骨にも付いて来なかった。マリーと蛍莉の帰郷には、美夏ちゃんが付いてきた。
美夏ちゃんは、あの日マリーは後追い自殺を図ろうとしたんじゃない。きっと“蛍莉の魂送りの儀式をしようとしていたのだ”と思っている。村では、今でもお盆の夜には筑後川に精霊舟を流し、魂を送る儀式がある。夜の川面をゆらゆらと流れていく燈明が、初盆を迎えた魂なのである。村の皆は親しみを込めてショロサン(精霊)と呼んでいる。だから、マリーは精霊を流そうとしていたのだ。
美夏ちゃんが不安なのは義彦の様子である。あんなに明るく人懐こい笑顔を振りまいていた義彦が、薄暗い部屋に籠りきりなのだ。初盆の日、義彦は画廊を借り切って上映会を開いた。「天国への扉」というタイトルのそのショートムビーは、高い評価を得た。美夏ちゃんは、この作品は、悲しみを乗り越えるための映画だと感じた。しかし、マリーはこの映画を「自己満足的で偽善的な作品だ」と酷評した。そして、その弱さが義彦を酒に溺れさせた。
ある夜、酩酊した義彦がベランダの手すりを乗り越えようとした。マリーは、義彦を引き戻すと「あなたが、天国に行ける筈ないでしょう」と、平手打ちで義彦の頬を何度も打った。「嗚呼、分かっている」と焦点が定まらない眼で義彦は答えた。マリーは「もし、あなたが、天国で蛍莉に会えたとしても、こんな様子で何ていうの」と更に義彦を殴り続けた。義彦は、口の中が切れ、だらしなく血の混じった涎を垂らしながら気を失った。
翌日、吐き気と眩暈に襲われながら義彦は重い瞼を開けた。窓の外には、鉛色の空が広がり、机の上には、判が押された離婚届が置かれていた。思考が定まらないぼんくら頭の中で義彦は「もし、俺が天国にいけたら」と呟いていた。
春かすみ 幼魂(おさなたま)消え 月明かり どこへ流れる 嗚呼 精霊舟(しょうろうぶね)
~ 燎原の炎 ~
畑を焼く野火が初春の寒冷えを和らげてくれる。そろそろ種蒔きの季節である。ヤン・ブォヨウ(楊伯猷)の屋敷の周辺の百姓も野良仕事に精を出している。そんな最中に楊伯猷の密偵が帰ってきた。どうやらユー・ヨウドゥ(于幼読)の隠れ家が掴めたようである。そこで、楊伯猷は、タン・チュンイェン(檀春燕)に官軍の小隊をつけてホーネイ(河内)郡に送るようファン・ズーイェン(黄子琰)に手配をさせた。漢王朝軍の討伐隊には于幼読の隠れ家を知らせていない。だから、官軍と黄巾残党の大きな戦いになる恐れはない。チュンイェン(春燕)には半月の間は平穏であろうと伝えている。それが春燕への楊伯猷からの情報交換の見返りである。
官軍の護衛付なので極めて安全な旅になったのだが、マンヂュ(曼珠)には更に退屈な旅になった。檀春燕一行の旅立ちを見送ると黄子琰も豫州のチャオ(譙)へ妻子と共に向かった。官軍は于幼読達反乱軍が立てこもる砦の手前で護衛を解き引き揚げた。官軍の護衛付で現れた一行を反乱軍は訝しがったが、于幼読が一行の中に檀春燕の姿を見出し警戒は解けた。檀春燕は于幼読に再会すると、ヨン・ソルファ(延雪花)とヨン・マンヂュ(延曼珠)を紹介し旅の目的を告げた。
やはりシンナム(神男)は戦死し于幼読が看取ったそうである。しかし、ピリュ(沸流)には会ったことがないということだった。だから、沸流の生死は不明だったが、于幼読がシンナムに聞いた話では「息子は青洲に送った」ということであった。その為戦禍に巻き込まれた可能性は低いようであった。
于幼読の父は、ユー・ディンジー(于定吉)という名の方術師であった。母は、トゥォバー・サラーナ(拓跋颯楽那)というシィェンビー(鮮卑)族の女である。方術師には風水術や錬金術の他に医術の心得もある者がいる。于定吉は医術に長けていた。そこで、若き于定吉は、鮮卑族に請われシャー(中華)の外の世界に糧を求めたのである。そして、タンハンシャン(弾汗山)の麓で暮らしていた頃、サラーナ(颯楽那)と恋をし家族をなしたのである。
于幼読はその八人兄弟の末っ子である。彼が一歳になった時、既に成人していた一番上の兄だけを残して一家は于定吉の故郷である司隷部のホーネイ(河内)郡に帰った。
司隷部とは、王都洛陽周辺の州である。だから司州とも言うが洛陽周辺を司る長官の役職名が司隷校尉というので他州とは違い司隷という。したがって河内郡は王都洛陽の隣に当たる。于定吉は弾汗山の麓で財をなしたので裕福であり、于幼読は太学で学ぶことができた。その時の同期が「天下三分の計」を説いているファン・シャオ(黄邵)である。
于幼読は、父からは方術を、母からはシャマン(呪術師)の技を学んでいた。しかし、太学で黄邵からヂャン・ジャオ(張角)のことを教えてもらい、張角の学問の用い方に心酔した。そして十七歳の時、張角がタイピンダオ(太平道)を立ち上げると、太学を辞めて張角に兄事した。そして医療術を学んだ。
太学を辞めたことを父于定吉は怒ったが、太学での鮮卑族への蔑みを聞いた母は、黙ってうな垂れていた。于幼読は、張角の許で難民への医療の充実に精を出していた。老いた異民の難民にはシャマン(呪術師)の技も大いに効果を発揮した。ファンジンチーイー(黄巾起義)が起きると、于幼読は学友の黄邵を助けるために医療部隊を率いてユータイピンダオ(豫太平道)の支援に入った。その際、シンナム(神男)が護衛を買ってくれ彼が戦死するまで行動を共にした。
四月の「チャンシェァ(長社)の戦い」 五月の「ヤンディ(陽翟)の戦い」 そして六月の「シーファ(西華)の戦い」と転戦し、「西華の戦い」の最中に黄邵とは別れた。于幼読の医療部隊は、シンナムの隊に護衛されジンタイピンダオ(荊太平道)のワンジョン(宛城)攻防戦に加わった。八月、九月と激戦を戦い彼は、医療部隊を守り九月三〇日に戦死した。りっぱな最後だった。
于幼読は、シンナムから遺品を預かっていた。「もし生きて息子に会えたら、父の形見だと渡してくれ」と頼まれた骨笛である。于幼読は、その骨笛をソルファ(雪花)に手渡した。何かの鳥の骨のようである。白く艶やかなその骨笛を彼女はそっと頬に押し当てた。ひんやりとした骨の温もりが愛する人を思わせた。
于幼読の話では、この笛はシャマンが使う儀式の笛だということである。だから誰でもは吹けないのだという。于幼読が「どんな音がするか聞かせてやろう」と延雪花から骨笛を受け取ると短い調べを奏でた。そして「これは雨を呼ぶ音だ」と言った。奇妙な音色と調べに皆が感心していると「次は風を呼ぶ音を吹こう」と再び骨笛を吹き出した。するとピュルル~っと甲高い笛の音が絡んできた。音の主はマンヂュ(曼珠)だった。彼女は石の笛を吹いていた。どうやら翡翠のようである。
于幼読が驚き曼珠と翡翠の石笛を見つめた。「父さんに習ったのか?」と于幼読は娘に訪ねた。彼女はその問いには答えず于幼読から骨笛を取り上げると、爽快な調べを奏で始めた。「ティエンチュイ(天吹)の音だな」と于幼読が呟いた。どうやら娘は、父の吹くシャマンの笛の音を聞き覚えていたようである。吹き終わった曼珠が、骨笛を延雪花に返そうとすると、母は娘に押し返し「お前が持ってなさい」と言った。白い骨笛は浮き立つような曼珠の白肌にも溶け込まない強さを秘めているようである。
延雪花親子は、ワンジョン(宛城)に向かい巡礼の旅を続けた。タン・チュンイェン(檀春燕)は、ファン・ズーイェン(黄子琰)が赴任した豫州の州都チャオ(譙)を廻って青洲に帰ることにした。青洲に帰ったらピリュ(沸流)の安否を確かめ、その後、再び冀州に向かい延雪花親子に再会する約束をした。再開場所はヘイシャンダン(黒山党)のフェイイェン(張飛燕)の館である。再開は翌年の初夏になるだろうと話し合った。兎も角、延雪花親子がヂャン・フェイイェン(張飛燕)の館に戻ってくるまで、春燕は待つつもりである。だから、ピリュの行方だけは確かめておかなくてはならない。
その頃、フェイイェン(飛燕)の周りでは不穏な動きが起きていた。昨年のことであるが、涼州で、また西戎が大規模な反乱を起こした。反乱の首謀者はペイゴン・ブォユー(北宮伯玉)という西戎の族長である。これにジンチョン(金城)郡の役人達も加担し反乱は大規模なものになった。
賊軍の役人の頭はハン・ウェンユェ(韓文約)と言い、地元ではとても人望が有る男であった。改革派的な考えの持ち主であるウェンユェ(文約)は、大将軍のフェ・スイガオ(何遂高)に、守旧派の元凶である宦官抹殺を進言したが聞き入られなかった。そして、涼州でも不正がまかり通りそのしわ寄せが西戎に及んでいた。
更に、ファンジンチーイー(黄巾起義)や益州でのウードウミーダオ(五斗米道)反乱により漢王朝は大混乱を期していた。その混乱を利用して蜂起したようである。その反乱の鎮圧を任ぜられたのは、ホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)と、ドン・ヂョンイン(董仲穎)である。西戎の血を引くヂョンイン(仲穎)は、反乱の動機に同情的である。イーヂェン(義真)は奮闘していたが、ブォユー(伯玉)は、勇猛な西戎騎馬隊を率いており苦戦していた。数か月の激戦を戦ったが鎮圧できず二人は解任された。そして、代わりに三公のヂャン・ブォシェン(張伯慎)自らが鎮圧軍の指揮を執ることになった。
ブォシェン(伯慎)は、ヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)を大層評価しており、その股肱の臣スン・ウェンタイ(孫文台)を参軍(軍務参謀)に大抜擢した。ウェンタイ(文台)は、まだ三十歳の若さでありゴンウェイ(公偉)の働きかけがあったのは間違いない。きっと、フーチュン(富春)の瓜売り、父のスン・ヂョン(孫鍾)も大喜びしているに違いない。
参軍という役職は大軍の場合は六名ほど任ぜられる。その中の一人にタオ・ゴンズー(陶恭祖)もいた。ゴンズー(恭祖)は先頃まで徐州の武官の長徐州刺史であった。ファン・シャオ(黄邵)の天下三分の計により徐州平定はなされ、その手柄により参軍に抜擢されたのである。黄邵との密約は知られていないが、反乱軍を鎮圧した実績と五十三歳という老練さを買われての昇進である。
本来、参謀あるいは軍師たるものは、陶恭祖のような実績を持った者が上がる地位である。もちろん、もう少し若く四十代で上がる者もいる。しかしそれは、高官の子弟である。例えばツァオ・モンドゥー(曹孟徳)などであれば充分あり得る話である。モンドゥー(孟徳)は、三十歳の若さで郡太守に任ぜられていた。しかしただ今は、病気療養を理由に故郷のチャオ(譙)に隠棲している。
兎も角、フーチュン(富春)の瓜売りの倅が参軍になるとは、やはり孫文台は異例の大抜擢である。ブォシェン(伯慎)自身は、荊州の出であり、朱公偉と孫文台、それに陶恭祖の三人は揚州の出である。王朝の中心勢力は中原であり、荊州や揚州の出身者が勢力をなすのは難しい。もし、朱氏や孫氏それに陶氏が将来的に勢力をなすには勢力の結集が必要である。
王朝の二大中心勢力は、守旧派と改革派であるが改革派は知識人層とも呼べる。つまり太学で学んだ者達である。その太学には五大学閥ともいえる人脈があり、その人脈が官僚組織とも連携していた。そして、それは地域性を帯びていた。
まず東には青洲閥がある。青洲閥としてはヂェン・カンチョン(鄭康成)先生が代表格であろう。後の世では鄭玄と呼ばれる高名な学者である。カンチョン(康成)先生自身は官僚の道を外れたが、その弟子達には高官が多い。
西には関中閥があり弘農楊氏が中核である。その代表人物がヤン・ブォヨウ(楊伯猷)である。他には潁川閥、汝南閥、徐州閥とあるが、徐州閥の著名人としてはフェ・シャオ(何邵)の父フェ・シゥ(何休)がいる。シゥ(休)は、改革派の筆頭チェン・ヂョンジュ(陳仲挙)と共に王宮を追われ、今はレンチョン(任城)の自宅で学業の日々である。しかし、その弟子もまた多い。
太学の学閥の双璧は潁川閥と、汝南閥である。潁川閥の長老はリー・ユェンリー(李元礼)という人物であったが既に獄中死している。後の世では李膺と呼ばれる硬骨漢である。登竜門の故事成語は彼に由来する。彼は生前モンドゥー(孟徳)を高く評価しており息子に孟徳)を頼れと遺言している。潁川閥は最大派閥であり、その筆頭に据えられた意義は大きいものとなる。
汝南閥は改革派の筆頭チェン・ヂョンジュ(陳仲挙)を置いて語れない。後の世では陳蕃と呼ばれた清廉潔白な人である。人を見る目が厳しく安易な人付き合いを嫌うユェンリー(元礼)が評価する数少ない人物である。しかし、ヂョンジュ(仲挙)も既にこの世の人ではなく、その一派は汝南袁氏のユエン・ベンチュ(袁本初)を担ぎ出そうとしている節がある。
いずれにしても、荊州や揚州はその学閥の中にはない。そこで、ヂャン・ブォシェン(張伯慎)は新たに南方閥の構想を思い描いているようなのである。そして、その柱にヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)を据えたいと考えているようである。
しかし、フェイイェン(飛燕)の周りで起きようとしている不穏な動きは、この南方閥構想とは関係がない。関係があるのは、三公の張伯慎率いる涼州反乱の鎮圧大軍団である。皇甫義真は、北宮伯玉の西戎騎馬隊に苦しめられた。そこで、張伯慎は、その対策として北狄騎馬隊を招集しようと考えたのである。具体的には、幽州北部のウーワン(烏丸)族に招集をかけ北狄騎馬隊三千騎を動員した。
ヂャン・ヂュン(張純)は、ドン・ヂョンイン(董仲穎)からの便りでその動きを知ると、北狄騎馬隊三千騎の隊長として官職に復帰したいと考えていた。張純も四十七歳となりこれが復職の最後の機会のように思えた。しかし、張伯慎は張純ではなくゴンスン・ブォグゥイ(公孫伯珪)を北狄騎馬隊三千騎の隊長に任命した。後の世では公孫瓉と呼ばれる白馬の気どり屋である。
公孫伯珪は、まだ二十七歳の若造である。そして、然したる実績もない。取り柄はその容姿の良さぐらいである。それに良く喋る。十七歳の時にタイピンダオ(太平道)を立ち上げ世間の注目を浴びていたヂャン・ジャオ(張角)に会いに行ったことがある。そして張角に「名君に必要なものは何か」と問うたことがある。その驕慢な態度に張角は「ブォグゥイ(伯珪)よ。名だたる古代の覇王も今は名だけが残り、骨さえ朽ちている。しかし堯と舜は民の心の中に時を越えて生きている。そなたの驕気(きょうき)を捨てよ。最強の武人など時流に乗れなければ、流浪の民に紛れて生きることになるだけだ」と諭した。しかし、白馬の気どり屋の胸には未だに届いていないようである。
そして、北狄騎馬隊三千騎が幽州のグアンヤン(広陽)郡ジー(薊)県まで来た頃には、公孫伯珪の不遜な態度に業を煮やした烏丸兵は離叛して故郷に帰ってしまった。この失態に流石の気どり屋も慌て策を巡らした。「復職を断たれたヂャン・ヂュン(張純)とヂャン・ジュ(張挙)の二人がウーワン(烏丸)兵を焚きつけ造反した」と釈明したのである。そして、その反逆者を討つ為に兵を挙げるので州軍を貸して欲しいと申し出たのである。まことに幼稚な責任転嫁であるが、何故かこの話が通ってしまった。そこで、張純と張挙の二人は、本当に反乱を準備する事態に陥っているのである。さて、困ったことに辺境の反乱は燎原の火のように広がって行くようである。
〜 中原の春秋 〜
青い衣を着た春の娘達が一斉に庭先に駆け出してきた。花嫁を迎えるためである。花嫁はタン・チュンイェン(檀春燕)である。そして、花婿はヂャン・ファン(張方)という名で二十三歳の好青年である。チュンイェン(春燕)は、何故自分が花嫁になるのかまだ良く理解できていない。年端的には、十九歳の娘盛りなので花嫁になるのは不思議なことではない。むしろ十六歳で嫁に行く娘が多い世にあっては遅いぐらいである。
花婿のファン(方)は理知的な顔立ちで物腰も柔らかい。とてもあの山賊王ヂャン・フェイイェン(張飛燕)の倅だとは思えない。張方の母ホラン(浩蘭)は烏丸族なので、張方も烏丸の香りが漂っている。だから二人はとても似合いの夫婦である。烏丸の息子とシィェンビー(鮮卑)の娘が結ばれることは、きっと喜ばしいことである。
そしてこの庭には、檀春燕の兄ホーリェン(和連)、浩蘭の兄チュウリージュ(丘力居)の顔も見える。更に、ヘイシャンダン(黒山党)の副頭目のスンチン(孫軽)や、黄巾軍残党のユー・ヨウドゥ(于幼読)の顔も見える。もちろん檀春燕の養父バイロウ(白柔)の顔もある。したがってこの庭は反逆者の春の宴となっている。
孫軽は、張飛燕の弟分である。三つ違いで共にヂャン・ニィゥジャオ(張牛角)に育てられた。張牛角の本名は、ヂャン・シュン(張勲)であるが、張勲は、傾国の臣リャン・ブォヂュオ(梁伯卓)に追われ名を変え山野に潜んだ。そして、放浪の末、燕国・イェン(燕)の山稜を根城とした義賊団・ヘイシャンブォ(黒山泊)を結成した。そこで、二人は育ったのである。その為に根っからの山賊育ちである。
だが、張牛角は、本来学識ある官僚である。そこで、二人には学問も身につけさせた。特に張飛燕は、山賊暮らしには馴染めず、学問を身につけたいと考えるようになっていった。そこで、張牛角は、従兄妹のヂャン・ウェン(張文)に、張飛燕を預けた。そして、ヂャン・カロ(張華老)とウェン(文)から学問の手ほどきを受けさせた。その為、張飛燕は、張角兄弟の兄貴分でもある。
その後、張飛燕は若い山賊仲間を集め、世直しの義賊団を作った。当初は粥をすすって飢えを凌ぐ情けない山賊集団であったが、一年後には百名の程の同志も集まり、漢王朝の国蔵を襲撃する腕も上げていった。つまり戦闘力が向上したのである。
張角が、カンチョン(鄭康成)塾に入ると、張飛燕もカンチョン塾で学んだ。知識が豊かになり志も高くなると、民を救うには経済を修める必要があると思い、白秋から、商学も学んだ。兎に角、張飛燕は努力の人である。その後ろ姿を見ながら大きくなった孫軽は、義兄張飛燕に絶大な信頼を寄せている。そして、孫軽もまた大志を抱く男である。
改革派が大弾圧を受けた頃、張牛角の黒山泊は急激に大きくなった。そこで、張飛燕は、燕の黒山泊から独立しチャンシャンブォ (常山泊)を組織した。程なく、黒山泊と常山泊は同盟しヘイシャンダン(黒山党)となっていった。したがって、黒山党は反体制集団である。その理想とするところは、太平道に似ている。違いは、太平道は、張角を教主(権威)とする統一集団だが、黒山党は、各ブォ (泊)の独自性を優先する同盟集団である。だから無権威的集団である。権威に対して否定的であるという心情は、ドン・ヂョンイン(董仲穎)に通ずるところがある。無権威は、蛮族の血を引く者が多い集団の特徴だろうか? ヂョンイン(仲穎)と心情が似た張純の顔も見える。そして、張挙の顔も見える。
大勢の山賊団の女将さん達が、山のような料理を並べ、酒樽も樽ごと並んでいる。庭の中には所狭しと数百人の客がいる。既に酒宴は始まっており、皆は陽気に飲めや歌えやである。ただ、檀春燕だけが他人事のようにポカンと座っている。一同にどよめきが走った。赤い髪を風になびかせ黒い戎衣に身を包んだチュクム(秋琴)が現われたのだ。南門の群衆をかき分け近づいてくるのは、マー・チャーホァ(馬茶花)を始め数十名の青洲太平道の面々である。
秋琴は檀春燕の傍らに近づくと「おめでとう」と言った。檀春燕は「はぁ」と魂が抜けたような声で答えた。チャーホァ(茶花)がくすっと笑った。それから、秋琴は、張方に「よろしくね」と声をかけ、張飛燕の前に進み出た。皆が秋琴を注視した。この座で、秋琴を直接知るのは、タイシャン(泰山)郡の太守だった張挙だけである。張挙と目が合った秋琴は、張挙に軽く手を振った。張挙は親しみをこめて微笑み返した。皆は、秋琴が放つ気の大きさに息を飲んでいる。張飛燕が立ち上がり、しっかりと秋琴の手を握った。秋琴は、張飛燕に「伯父様、遅くなって申し訳ありません。伯母様もご機嫌麗しく喜ばしいばかりです。この度は妹を家族に迎えていただき有難うございます」と挨拶した。
ホラン(浩蘭)が目頭を押さえた。この婚姻は、一見すると反乱軍の政略結婚にも見えなくはない。しかし、首領の張飛燕には、まったくそんな意図はなかった。集まってみれば、烏丸と、鮮卑、漢王朝の不満分子と黄巾残党の面々が揃ったのである。この婚姻を強引なまでに進めたのは浩蘭である。浩蘭は、とても檀春燕を気に入り、何としても自分の娘にしたかったのである。そして、孫娘が生まれたら、北の草原を親子三代で馬を駆り疾走するのが夢となっている。きっと、その姿は清々しく勇壮であろう。
人生は想定外の出来事の連続である。想定していたように物事が進むことの方が珍しい。檀春燕の想定では、一度青洲の秋琴の許に帰り、この間の出来事を報告し、そしてヨン・マンヂュ(延曼珠)の弟ピリュ(沸流)の所在を確かめるつもりであった。しかし、檀春燕一行の帰りが遅いのを心配した張飛燕が捜索隊を放っていた。
ファン・ズーイェン(黄子琰)の赴任行きの前日、その探索員が檀春燕を訪れた。そこで急遽、冀州周りで帰ることに変更したのである。ところが、張飛燕の館に到着すると、浩蘭が待ちわびでおり、檀春燕の顔を見るや急ぎこの婚姻の話を進めたのである。実は既に浩蘭は、檀春燕の母のイン・シャーユェ(尹夏月)と、養父バイロウ(白柔)の了解を取り付けていた。息子には意向を確かめていない。もう浩蘭は決めているのである。そして、母の意向に逆らう息子ではないと、当然の如く浩蘭は信じている。その浩蘭の勢いに張方ばかりか、張飛燕も抗う術はない。それに二人とも檀春燕には好感を抱いていたので、この話を止めようとする要素はなかった。そこで、檀春燕は、ポカンと花嫁の席に座っているのである。
そして翌年、檀春燕は娘を産んだ。世の中は全て浩蘭の想定通りに動いている。人生を想定通りに進めるには勢いが必要なようである。その勢いに押されるかのように、白柔と、ヨウドゥ(于幼読)の黄巾軍残党は、黒山党の同盟に加わった。更に「復職を断たれたヂャン・ヂュン(張純)とヂャン・ジュ(張挙)の二人がウーワン(烏丸)兵を焚きつけ造反した」という公孫伯珪の責任転嫁は、幽州の戦火となり、烏丸の族長チュウリージュ(丘力居)は、戎衣に身を包んだ。
その丘力居を支援しようと、檀春燕の兄ホーリェン(和連)も鮮卑騎馬隊を差し向けた。中原に同盟が広がった黒山党も、中原各地で漢王朝への反乱を始めた。そして、この事態はヤン・ブォヨウ(楊伯猷)には、想定外であった。大将軍フェ・スイガオ(何遂高)は、直ちに公孫伯珪に大軍を送り、公孫伯珪は、反乱軍をリィァォドン(遼東)郡まで敗走させた。しかし、漢王朝軍の補給路が中原各地で断たれた為に、公孫伯珪は、反乱軍を完全に鎮圧することは出来なかった。しかし、白馬の気どり屋は、またしても大言壮語を吐き、何故か今度も大手柄として王宮には伝えられた。
その様子を冷静に見ている男がいた。その男は六十路半ばの老獪な策士である。嘗ては冀州刺史も務めたことがある優秀な男である。しかし風説に足をすくわれ、一時は王都で雑用の職に就いていた。しかし今は、遼東郡の太守を務めている。名をゴンスン・シォンジー(公孫升済)という。後の世では公孫度と呼ばれる男である。
同じ公孫氏だが、ブォグゥイ(伯珪)とは無縁である。共に幽州の出身だが、公孫伯珪はリィァォシー(遼西)郡の出であり、シォンジー(升済)は遼東郡の出である。遠く溯ればどこかで縁続きになるかもしれないが、今は互いに無縁である。出身地が東岸と西岸に別れるように、その人柄も全く正反対である。公孫升済は決して大言壮語を吐かない人間である。しかし、公孫升済が世に名を現すのはもう少し後のことである。そして後々秋琴はこの男に救われる。
檀春燕の娘の名は、ヂャン・ルイシィァン(張瑞香)である。秋琴が名付け親となった。それから、マンヂュの弟ピリュ(沸流)は、秋琴の許にいると分かった。ヂャン・リンシン(張林杏)が逃避行の際に出会い連れて来たのだ。だから、檀春燕の役目の一つは解決した。
ルイシィァン(瑞香)が産まれて間もなく、延雪花親子が巡礼の旅を終え、張飛燕の館に帰って来た。二人は、張瑞香の顔を見て意外な展開に驚いた。そして、騎馬娘三代目張瑞香の誕生を、とても喜んでくれた。時代は草原を吹く風のように勢い良く吹き流れていく。南風から東風へ、東風から北風へ、北風から西風へ、そして時にはつむじ風となり、時代と人々を翻弄していく。
張瑞香が二歳になった年、大将軍フェ・スイガオ(何遂高)は殺害され、倭国の巫女女王も暗殺された。ゴンスン・シォンジー(公孫升済)は、漢王朝に反旗を翻しリィァォドン(遼東)に国を建てた。ドン・ヂョンイン(董仲穎)は、王都と皇帝を押さえた。馬韓国は、辰韓国に攻め込み敗れ、半島の戦火も絶えなかった。そんな中、七歳のフーミー(狐米)もまた芦原(狐米草)の風に翻弄され数奇な人生を歩み始めた。
やがて秋琴の娘フーミー(狐米)は名を、ヂェン・ヂャオミー(甄昭弥)と変えていくことになる。更に後年、ヂャオミー(昭弥)は、ビーミーフーと名乗ることになる。しかし今はまだ勝気な、七歳の元気な娘である。そして、涼やかな春の乙女に手をひかれ中原の道を旅していく。
春の乙女は二十一歳になった希蝶である。項家頭領ナツハ(夏羽)の娘希蝶は、秋琴の従姉妹である。だから、フーミーと希蝶には同じ血が流れている。希蝶は、交易商人ラビアの娘なので、絹の道の乙女でもある。だから旅は人生そのものである。そして、その起伏に富んだ道を歩いて行く。太平の世は夢だろうか? それとも旅の彼方にあるのだろうか? 張角達太平道の亡き人々は、フーミーの背にどんな夢を描くのだろうか。兎も角、今は希蝶に手をひかれて、母や青洲の皆とは別れ、独り歩いて行くのである。新しい父母の名も、兄弟の名もまだ知らない。そして、実の父の名も今でも知らない。でも、七歳のフーミーは、クヨクヨしていない。この娘は、芦原(狐米草)の風が育てた娘である。ナンクルナイサーと、戦(そよ)いで行く。
~ 恋しくて捨てられなくて ~
東海の海風が吹いた気がした。ふと顔をあげるとそこにタケル(健)の笑顔があった。初夏の海は穏やかで、白い渚が小石を洗い水は澄み渡っている。五色の小石がきらきらと陽光を放っている。小さな川は、浅く流れが速い。そして、川の翡翠色が青い海に流れ込み溶け混じっていく。川の上流を仰ぎ見れば新緑の息吹を吐き三叉の山が鮮やかさを増している。
オキナメ(沖那女)がおぼつかない足取りで駆けてくる。タケルがその後を追う。沖那女は何が嬉しいのか大はしゃぎである。しかし、二歳の沖那女の言葉はたどたどしく早口のその言葉は意味が分からない。ところがタケルは沖那女の言うこと、なすことの先回りをしているような動きぶりである。やはり、自然の言霊を聞き取る方術師だけのことはある。タケルの読心術は幼子にも及ぶのであろう。
ヘキ(蛇亀)はタケルに「本当に人の心が読めるの?」と聞いたことがある。タケルは「人の心は移ろいやすく定まらない。だから、心など読めない。ただ、『こうなる気配がする』という『時の動き』が感じられるだけだ」と教えてくれた。だから、世にいう読心術はきっと読気術なのだろうとヘキ(蛇亀)は思った。
気の動きならヘキにも感じられた。そして、今日はとても良い気が流れている。ここは、コシ(高志)の北部ヌナカワ(渟名河)の浜である。初夏のアリソウミ(有磯海)も清々しく素敵だけれど、ヘキは気分転換をしたかったのである。タケルは政務に追われる中でも、毎年春の野遊び、夏の海辺での遊びと、家族との営みを大事にしてくれた。そして、それはヘキの気性も穏やかにしてくれた。
アヒコ(阿彦)も今頃は気を休め伸び伸びと暮らしている筈である。ヘキの気性は幼い頃から激しかったが、特に兄の阿彦には遠慮がない。母のセオ(細烏)は、ヘキの気性の激しさは誰から受け継いだのだろうと思いを巡らすが、心当たりがない。パク・ネロ(朴奈老)大将は気宇壮大な人であった。それは、パク・ヨンオ(朴延烏)、阿彦と受け継がれている。だとすれば、この激しさはセオ(細烏)の一族に起因しているのかもしれないが、母マナ(真奈)の一族には思い当たる人がいない。だとすれば、コシ(高志)の鳥追いの男、父のウラヒト(鵜羅人)の一族だろうか。もしかすると、鵜羅人の母、高志の大巫女様は、激しい気性の方だったのかも知れない。いずれにしても今やヘキ(蛇亀)は、丹場・稲場のハハキ(蛇木)と並び立つ北の大巫女のひとりである。
北の大巫女は、高志、丹場・稲場、稜威母のそれぞれに居り、稜威母の大巫女は、オクニ(尾六合)である。高志の大巫女は、まだセオ(細烏)であるが直にヘキが高志の大巫女となろう。この三人の大巫女の中で、北の大巫女様と呼ばれる頂点は、昔から黄泉の巫女である。そして今、黄泉の巫女はハハキ(蛇木)である。だが、ヘキも黄泉の巫女であり、ハハキの後に、北の大巫女様と呼ばれるのはヘキであろう。
倭国には、南の大巫女様、倭の大巫女様、北の大巫女様の三人の大巫女様がいる。南の大巫女様は、須佐人の妻ニヌファ(丹濡花)が担っている。しかし、本来はヒムカ(日向)が南の大巫女様であった。だが、ヒムカは黒潮の民を慰撫するために倭国の東を北上している。そこで、阿多国で大巫女様の役目を果たしているのはニヌファである。彼女の力は大きいが日巫女ではない。倭の大巫女様は、日巫女のピミファ女王である。巫女は五色の巫女で語られる。
オクニは、陽を司る火の巫女であり風の巫女でもある。青緑の風は春の象徴であり、赤き火は夏の象徴である。だから、オクニはとても陽気で明るい。ハハキ(蛇木)は、月読の巫女であり黄泉の巫女である。黒き夜の月読は北の象徴であり、黄泉は根の国でもある。だからハハキは思慮深く、大地の温もりを持っている。
ピミファ女王の本性は日読の巫女である。黒潮の民の女王ヒムカの本性は月読の巫女である。日巫女は五色の巫女の全てを内包している。逆の言い方をすれば、五色の巫女の全て力を持った者だけが日巫女となれる。そして、南の大巫女様と、倭の大巫女様は日巫女である。北の大巫女様だけが未だ日巫女を現前化しえていない。
ヘキ(蛇亀)にはそれが我慢ならない。ピミファと、ヒムカにとっての日巫女とは権力の頂点ではない。それは神様に与えられた力であり、私欲とは無縁のものである。しかし、ヘキには、五色の巫女の頂点が日巫女という存在に思える。だから、ピミファとヒムカを、自分より高みにいる人間だと思えて対抗意識が燃え上がるのである。ハハキは、そんなヘキが心配でならない。黄泉の巫女は危うい力を秘めている。それは死の気配であり再生の気配である。だから道を誤ると呪いの巫女に落ちかねない。この世の万物は死が禊され生まれる。それを司るものは、権威を求めてはいけない。権威は自我の産物であり、神様の世界に持ち込んではならないものである。それをヘキはまだ分かっていない。
朝霧が悲しみを覆った。サケミ(佐気蛇)の妻オウ(於宇)が亡くなったのである。母オクニの陽気は、岩戸に隠れたように沈んだ。姉のような存在であるハハキが気遣ったが、オクニは床に伏せ起き上がろうとしなかった。
オウは流行病であった。しかし、オクニの病は身体の病ではない。ハハキの息子佐気蛇は、ヤマァタイ(八海森)国で勉学の日々を送っていた。だから妻オウを看取れなかった。オウの父ウズ(烏頭)は、今のアズミノシラ(安曇磯良)であり、稜威母の長(おさ)である。佐気蛇の父ウカイ(鳥喙)はその実弟である。だから、二人は従兄妹婚である。その為、幼い時から慣れ親しんだ二人の仲は連理の枝の如くであった。だから佐気蛇は、我が身を引きちぎってでも稜威母に戻りたかった。しかし、佐気蛇は、伯父であり義父である烏頭の跡を継ぎ安曇磯良になる身である。だから我儘は許されない身である。
烏頭は、そのつらさを汲んでくれた。しかし、母のオクニの心の中には、佐気蛇への言葉にできないわだかまりが生まれた。ハハキ(蛇木)はそれを察して、どうにかオクニの心の闇を消し去ろうと、孫をオクニの傍らに置いた。オクニは、愛娘オウの忘れ形見テンユウ(天雄)を溺愛することで生気を取り戻していった。
だが、佐気蛇へのわだかまりは、ヤマァタイ国への恨みへと歪んで形を変えていった。直接的に恨みの原因がある訳ではない。しかし、「稜威母が倭国の覇者であれば、佐気蛇がヤマァタイ国へ行くこともなかったであろう」という思いが働いたのである。いつしか、オクニの中に、ヘキと同じ覇道が芽生え始めていた。
イサミ(伊佐美王の子孫)![]() | |
| 反イサミ(伊佐美)王派。倭国自由連合派 | 親イサミ(伊佐美)王派。倭国連合派 |
| 八十神系稜威母族 | 木俣のカガミ(蛇海)系稜威母族 |
| 稜威母の巫女クシナダ(奇菜田)姫 | 稲場・丹場のヤガミ(八河巳)姫 |
| 娘:トヨウケ(豊受)姫 息子:ヤシマ(八島) | 息子:木俣のカガミ(蛇海) |
| ↓↓~数代を経て~↓↓ | |
| ヤシマ(八島)系稜威母族 族長:アズミ(安曇) | カガミ(蛇海)系稜威母族 族長:カガメ(蛇目) |
| 157年~158年 沫裸党の内乱 159年ウカイ(鳥喙)とハハキ(蛇木)が夫婦になり和睦。 | |
| 長男:ウズ(烏頭) 次男:ウカイ(鳥喙) 娘:トヨミ(豊海) 娘:タマミ(玉海) | 長男と次男:内乱で戦死 娘:ハハキ(蛇木) 娘婿:ウカイ(鳥喙) |
| 族長:ウズ(烏頭) 妻:オクニ | 族長:ウカイ(鳥喙) 妻:ハハキ(蛇木) |
| 娘:オウ(於宇) 婿養子:サケミ(佐気蛇) 孫:テンユウ(天雄) | 養子:ケンコク(堅固)娘:ケイキ(恵姫) 息子:サケミ(佐気蛇) |
冬の陽気は、やわらかく暖かい。それは冷気に重なる太陽の熱の為だろう。冷気を含まない太陽の日差しは火を噴くほどに熱い。だから、冬の日差しは暖かく、夏の日差しは暑い。ハハキ(蛇木)が放つ気は、冬の日差しのように暖かい。太陽の陽は衰えを知らないが、地上の火は衰えが早い。ハハキは火の衰えを知る黄泉の巫女である。火の衰えを抑えるのは風の力である。風は火の勢いを強くもするが吹き消しもする。オクニには、そんな気性も備わっている。ハハキが生まれた年に、ネロ(奈老)の反乱があった。ハハキが四歳になり、世の中が自分の力で見えるようになった年に、ホピカ(穂卑河)が暗殺され倭国大乱が始まった。ハハキが十二歳になり、女に目覚めた年に、狗奴国で反乱が起きた。その戦火は翌年、末盧国の内乱へと飛び火し、稜威母の沫裸党も巻き込まれた。そして、十六歳で夫を失った。そして翌年、和睦の証にと敵将アズミ(安曇)の次男に嫁いだ。ハハキは、夫を討った仇に嫁いだのである。
戦さは数多の恨みを生むが、その恨みからは何も生まれない。だから恨みに生きるのは哀れである。ハハキはそれを知る女である。そんなハハキに接して安曇の放蕩息子ウカイ(鳥喙)は人が変った。自堕落な次男坊に父の安曇は勘当を言い渡していたが、その勘当も三十歳で解けた。弟の勘当を解くために奔走していたウズ(烏頭)も安堵し、稜威母には安寧な日々が流れていた。
スサノウ(須佐能)王の末裔、カガミ(蛇海)系稜威母族と、八十神系稜威母族は、一体となったのである。それは、佐気蛇とオウを介し、テンユウ(天雄)から後の世代へと受け継がれていくと思われていた。しかし、オウの早世により何かが少し変わってきたようである。同じ頃、シャー(中華)では秋琴がモンドゥー(孟徳)の娘ヂャオミー(昭弥)を産んでいた。既に時代は、次の波乱に向け新たな芽を紡ぎだし始めたようである。
雪の白さより底冷えのする王座で、チョゴ(肖古)王は苛立っていた。キドン(箕敦)からの連絡が途絶えているのである。辰韓国と馬韓国の小競り合いは続いていた。チョゴ王の一族は高句麗から南下してきたツングース族だが、馬韓国の多くの民は、辰韓国と同じように中華から移民した倭人である。そして、チョゴ王は倭人嫌いである。辰韓国との和睦を模索していた父ケル(蓋婁)王とは違い、辰韓国に対しては好戦的である。
しかし、一律に倭人嫌いな訳でもない。同じように倭人種が多い、倭国や弁韓国とは友好な関係を保っている。チョゴ王が嫌いな倭人は、自国の馬韓に住む倭人と隣国辰韓に住む倭人である。つまり、王の一族を心から敬っていない倭人供である。だから人種として倭人を嫌っている訳ではない。
盟友キドンは、その祖先が中華から渡ってきた民である。倭人が南方漢人だとすると、キドンの一族は北方漢人である。馬韓国には王族であるツングース族と、倭人との混血である新馬韓人、それに古くから住みついている倭人の三種が共存している。
倭人は稲の民である。そして稲の民は豊かである。だから奪い奪われの戦いは少ない。その為強力な軍事指導者を必要だとは思わない。各村の自主権の方が優先される。王とは軍事指導者である。遊牧の民は広大な土地が生活圏である。しかし、稲の民は水が豊かであれば僅かな土地でも生きていける。だから、自ずと争い事の規模も違ってくる。
稲の民の主な争い事は水利権である。しかし、その水路は人工物である。つまり先祖代々汗水たらして稲田を広げてきたのである。だから、戦さでその稲田を壊されるのは本末転倒である。その為、罵り合いながらも極力軍事行動は避けたい。つまり強力な軍事指導者よりも、まとめ上手、なだめ上手な者が求められる。各村の長はそんな人間が選ばれる。その為か女族長が多い。かっ~と頭に血が上り、直ぐにも殴り合いを始めようとする男供より、まとめ上手、なだめ上手は女の方が多いようである。
チョゴ王は「毒をもって毒を制す」と言わんばかりに、その軍事力で自国の倭人を駆りだし辰韓国との戦いに当たらせている。しかし、チョゴ王は頑迷固陋(がんめいころう)な人間ではない。見識も広く柔軟な考えも持てる人間である。だから、何が何でも辰韓国を打ち滅ぼし自国の領土に組み込もうと考えている訳ではない。
ある意味遊牧の民は風の民である。だから、定めのない定めを体感している。しかし、稲の民はある意味土の民である。だから、頑迷固陋に陥り易いのは稲の民である。頑迷固陋に陥った者の不満は他者に向かう。そして多くの場合その他者は為政者である。例えば天候不順で作物の出来が良くなく、暮らし向きが苦しくなると「王様はちっとも俺達民のことを考えていない」と憤る訳である。天候不順の原因はチョゴ王ではないのだが、そうは考えないのが頑迷である。
自分達の力ではどうしようもないと思い込むと、まずは人柱や人身御供をたて、それでも収まらなければ「王が悪い」と固陋の一途をたどるのである。そこでチョゴ王は、その憤りの矛先を共通の敵に向かわすのである。その為に戦争が必要な訳であって、領土拡張が目的ではない。だから、勝ちすぎても良くないのである。程よく戦争をするには敵との連携が必要である。その相手がキドンである。
そのキドンと連絡が途絶えれば、戦争の進め方に支障が出てくるのである。そこで、チョゴ王は苛立っているのである。その頃、キドンの目は、高句麗と中華に向かっていた。特にシンナム(神男)がもたらした太平道の動きが気にかかっていたのである。もし、中華の漢王朝が革命によって倒されれば、その波動は高句麗や馬韓に及び、そして辰韓国の命運にも多大な影響を与えることは避けられない。冬の晴れ間が広がった頃、キドンは美しきシャマン(呪術師)ウォルオク(月玉)をチョゴ王の許に走らせた。
冬の稲妻が走った。明日には雪に埋もれるだろう。ヘキ(蛇亀)は、青く光るアリソウミ(有磯海)に魅入っていた。傍らで三つになる沖那女が、大きく膨らんだヘキのお腹を摩っている。もうすぐ、弟か妹が産まれる筈である。その時が春である。タケルは今日も忙しい。高志の長は阿彦だが、タケルの存在は大きい。すこぶる気位が高いヘキと違い阿彦は名誉欲を持ち合わせていない。だから、皆がタケルを実質的な高志の長だと崇めていても気にとめない。阿彦自身がタケルを兄だと慕っているのである。そして「ワシ(私)は、神輿だからなぁ」と笑っている。しかし、阿彦は無能な男ではない。その包容力の大きさが壮大なのである。それは、ネロ(奈老)からヨンオ(延烏)、ヨンオから阿彦へと受け継がれているものである。
高志は大きく三つの領域に分かれている。高志の北は、阿人国メアンモシリ(寒国)と接している。だから、先住民の阿人や、オロチ(大蛇)族、フカ(鮫)族の居住割合が高い。彼らは、メラ爺の山の民と同じように小集団である。自由と平等を旨としている為に大部族や国を作ろうとする動きは見せない。大集団の力が必要な時や、大災害が起きれば高志の長を頼ってくるので高志の勢力圏にあると考えられている。
高志の中心は、高志中と高志南である。有磯海を中心とするのが高志中であり、カガサワ(蛇沢)を中心とするのが高志南である。高志の長である大部族長は、代々このどちらかの地方と縁が深い。筑紫之島のように農業が国の中心ではないので、領土意識も薄く、明確な国境線があるわけではない。田畑は人々が先祖代々に渡り、肥料を施し雑草を抜き作り育ててきた土地である。だから、土地と領土意識の結びつきが強い。その点、狩猟にしても漁業にしても、魚道や獣道を整備し餌を与え育てている訳ではない。狩猟生活はある程度、天候まかせと運である。だから、海に国境線を引くなど無意味なことである。何となくの縄張りである。
特に高志南の概念はあやふやである。稜威母と高志の間には、稲場と丹場という地名があるが、とくに丹場の所有権があいまいである。稜威母とは、須佐能王から伊佐美王の血を引く大部族の集まりである。高志はそれ以外の先住部族とでも捉えておく方が良い。
須佐能王に対比されるヒョウ(瓢)すなわちソクタレ(昔脱解)の一族等がその好例である。タケルはその高志に国という概念を生み出そうとしている。小さな集団でまとまっている利点は大きい。しかし、天災や外敵に対しては大きくまとまって当たった方が効果は高い。今や東海周辺は、一族の結束から部族国家へと変貌する地域が増えている。そして、それは中華の影響に因るところが大きい。
漢王朝では倭国と呼んでいるこの東海上の大きな島は、実は一つの国ではない。百余りの部族国家が、連合あるいは連盟をする複合体である。その島国を巫女女王ピミファは中央集権化し一国になそうと奮闘している。その動きに高志が無縁でいられる訳もない。だからタケルは、それに対等に臨める国づくりを模索しているのである。
巫女女王ピミファの倭国においては、ヤマァタイ国、狗奴国、稜威母が三大国である。タケルが感ずる気の流れでは、ヒムカが導く狗奴国は、黒潮の民と共にイヨノシマ(伊依島)の南からアユチノウミ(東風茅海)へと広がり、ピミファのヤマァタイ(八海森)国と連携し共存する道を歩むと思われる。稜威母は抗しながらやがてピミファの倭国に吸収されていく気がする。ならば、高志はどう振る舞うかである。タケルは、ヨンオ(朴延烏)の政策に見習おうと思っている。ヒムカがそうであるように、タケルもまたピミファに敵対する気はない。ヨンオ(延烏)の政策を踏襲するタケルの政策に阿彦も賛同している。だから、阿彦とタケルの間には何の問題もない。
しかし、ヘキ(蛇亀)はそのことも腹立たしい。阿彦やタケルが心憎い訳ではない、ヘキは二人を心から愛している。しかし、その消極的な政策姿勢が憎いのである。巫女女王ピミファの傘下に下るなど許しがたいのである。冬の稲妻が再び轟いた。沖那女が、少し驚き沖を見た。ヘキは「さぁ、明日から鰤が沢山獲れるわよ。みんなが大好きな沖鍋を沢山作りましょうね」と沖那女に笑いかけた。きっと鰤の脂がお腹の子を丈夫な子にしてくれる筈である。そう言うとヘキは翡翠の小石をぎゅっと握りしめた。宝石ではない。高志の北部ヌナカワ(渟名河)の浜では、ありふれた磯の小石である。あの日、タケルが拾ってくれたのだ。でもその小石をヘキは捨てられなくて持っているのである。
~ オガバル(牡鹿原)の会談 ~
ドドドドド……と春の嵐が吹き荒れたような元気な産声である。ヘキが男の子を産んだ。タケルによく似た優しい顔をした赤子である。ヘキもまだ二十一才と若い母親なので、母子ともに産みの疲れを感じさせない。タケルも安堵し、阿彦はうれしさに涙している。阿彦も二十四歳になっていた。しかし、まだ独り身である。男色の気配もないので女嫌いというわけでもなさそうである。身近にヘキという強女がいるので気押されているのかもしれない。さらに、ヘキが男子を産んだことで「これで跡取りはできた」と安堵しているようである。高志の大巫女祖母のセオ(細烏)は、その元気な男の子に、オキノナアガ(翁之拿阿蛇)という名を付けた。弁韓国の王族でもあったセオは、蛇神を西域ではナーガと呼ぶと知っていた。だからオキノカガミ(翁之蛇海)ではなく異国の香り漂う翁之拿阿蛇としたのである。
チオカイ(茅緒海)が朝霧に覆われた。春の訪れである。須佐人は幼い兄妹の手を引いて望楼に立ち早春の海を眺めている。幼い兄妹は共に四歳である。須佐人の子供達であるが母が違う。兄はコトシロ(胡渡白)という。妹はアマラム(雨裸夢)である。胡渡白の母は、アメミチ(糖満)という。雨裸夢の母は、イスズ(五十鈴)である。アメミチは数奇な運命を生きてきた女である。二十歳で須佐人の妾になったのだが、その前年に父と夫を亡くしていた。父の名はアマム(阿磨無)という。
阿磨無はメアンモシリ(寒国)の男である。母は、阿人であるが、父は稜威母のコチ(虎痴)である。虎痴は快活な青年であった。そして、異郷に大いなる憧れを抱いており阿人の暮らしに大層興味を抱いていた。そこで、成人すると北方の旅に出た。そこで、阿人の娘と恋をし阿磨無を儲けたのである。つまり、阿磨無はオクニの異母兄である。だから、アメミチは姪である。
アメミチの父阿磨無と夫は、オガヌマ(牡鹿沼)の戦いで戦死した。母は悲しみのあまり茅緒海に身を沈めた。独り身となった姪のアメミチを、オクニは稜威母に呼び寄せた。アメミチは目が大きく、目鼻立ちのしっかりした阿人美人である。そのアメミチをオクニは、コウラノシラ(高良磯良)となる須佐人に嫁がせた。安曇磯良ウズ(烏頭)の妻オクニは、政略結婚を仕組んだのだが、須佐人はそれを承知でアメミチを向かい入れた。
アメミチは快活な女であった。祖父虎痴の血を引いているのかも知れない。身に降りかかる悲しみを全て飲み込む気を持ち合わせていた。それが須佐人の心を引いた。アメミチが須佐人の次男胡渡白を産んだ年に、須佐人は、もう一人政略結婚で妾を儲けた。それが次女雨裸夢の母五十鈴である。五十鈴は、高志のミナカタ(美名方)の娘である。しかし、生まれ育ちはここオガバル(牡鹿原)である。牡鹿原は、彼女の母トペンワッカの故郷であり、村長チロンヌプは祖父である。須佐人がチロリン村長と呼んでいる阿人の族長である。高志のムナカタ(宗潟)の曾孫であるミナカタ(美名方)は、須佐能王の末裔である。だから、須佐人とは同門であり、須佐人の鯨海貿易を支えてくれる後継者である。
五十鈴は、鯨海の王の風貌を持ち始めた須佐人に恋い焦がれており、十六歳になった年に、美名方が須佐人に頼み込むようにして嫁がせた。五十鈴は、ひたむきな女である。須佐人は快く引き受けた。美名方が意図していたかどうかは定かではないが、傍から見ると、アメミチは稜威母から、五十鈴は高志から須佐人の傍に送られた言わば政略結婚である。しかし、その言葉の冷たさは感じさせない程、須佐人は二人をやさしく包んでいた。
「父上、皆が揃いました」と階下からハラエド(胎穢土)の声が響いた。ニヌファ(丹濡花)の息子ハラエドも十三歳である。南の大巫女ニヌファは、阿多国を離れられないが、須佐人は長男のハラエドを常に傍に置き旅を続けている。
望楼に上がってきたハラエドは異母兄妹胡渡白と雨裸夢の手を引いた。長男に胡渡白と雨裸夢を手渡した須佐人は、三人の子を望楼に残し、階下に下りて行った。三十路半ばの須佐人の背は威厳に満ちていた。その父の背を見送り、ハラエドは幼い兄妹と早春の海景色を楽しんでいる。霧は徐々に晴れ、新緑の風がすがすがしく三人を包んでいた。
暖が取られた薄暗い部屋には十数人の男女が輪をなしている。上座中央に坐しているのは、阿人の大首長チュプカセタことドキョン(東犬)である。その右座には、高志の美名方が坐している。そして、美名方がこの会談の進行役のようである。美名方とドキョンは同じ歳である。そして、二人は盟友である。この会談の主催者はドキョンであるが、仕組んだのは美名方である。

ドキョンの左座には須佐人が坐している。茅緒海と牡鹿原の戦いからは六年の歳月が経っている。この六年の歳月はドキョンを、阿人の大首長チュプカセタに変えていった。彼の人格が変わった訳ではない。阿人の世界が変わったのである。
自由民を信条とした阿人の世界であったが、中華や倭国、そして鯨海周辺情勢の影響を受けて阿人の世界も変わらざるを得ない状況を迎えたのである。ポロモシリ(大国)の大首長アサマ(阿佐麻)は、牡鹿原の戦いの翌年、阿人の世界を一変させる方針を打ち出した。メアンモシリ(寒国)の大首長になったドキョンを柱にした阿人自由王国構想である。
阿人には大きく四つの集団がある。国と呼べる規模を持つのは、ポロモシリ(大国)とメアンモシリ(寒国)だけである。しかし、ポッケモシリ(暖国)とアチュイモシリ(海国)ともいうべき地域がある。
ポッケモシリは、ヒムカ女王やホオミ(火尾蛇)大将の祖先と繋がる黒潮の民が暮らす領域である。大きくまとまった集団はないが、エト(江兎)という地域に小集団が点在している。東夷の中の東夷エトは、穂の一族が見たら小躍りしたくなるぐらいに素晴らしい大河と平野を持った地域である。だが、まだ穂の一族は進出していない。その小集団を束ねているのはケシエト(芥子江兎)という族長である。ケシエトは武の人ではない。だから、ドキョンを王とすることに異議はない。
アチュイモシリとは、元々鯨海沿岸に暮らしていた阿人達が暮らす居住域である。そして今では、稜威母や高志の山間部を住処としている森の民である。トウマァ(投馬)国を拠点とするメラ爺達山の民とは同族であり、その区別はつかない。山中にも拘らずアチュイ(海)というのはその為である。今その一族を束ねるのは、シウクオロ(飼鵜苦嗚呂)と呼ばれる族長である。しかしこの一族は、稜威母や高志の民に同化する者が多い。同化し同和される阿人の姿は、近い将来阿人の世界全体に及ぶであろう。そして阿人という存在は、歴史の中に消え去るのである。その危惧が大首長阿佐麻の胸に去来したのである。ドキョンは異国を旅してきた男である。そして、アヘン(芽杏)の夫の一人として弁韓国に暮らしていた。だから国家を知る男である。そして何より東犬は、阿人の大英雄ホピカ(穂卑河)の忘れ形見である。ドキョンを本来の姿であるチュプカセタ(蛛怖禍犬)に戻し、阿人自由王国の王として阿人世界をまとめることは無理のない話である。
牡鹿原の戦いとは、倭国に深い恨みを抱く阿人の族長チュプカチャペ(蛛怖禍茶辺)とカシケ(火斯気)が、倭国女王ピミファを襲撃した戦いであった。カシケとチュプカチャペの長男ウホピ(宇穂卑)は、牡鹿沼で戦死し、チュプカチャペは辛うじて生き残った。しかし、生気をなくしたメアンモシリの大首長チュプカチャペは、その座を甥のチュプカセタに託した。
ドキョンは、チュプカチャペの娘二代目チノミシリ(茅野魅尻)を妻とし、長女の二代目ハチャム(羽茶霧)と長男の二代目ホピカ(穂卑河)を儲けていた。ドキョンと呼ばれていたチュプカセタの経済的な後ろ盾は、もうひとりの鯨海の覇者、鯨海の白い狼女海賊キム・アヘン(金芽杏)である。だから、阿人自由王国は豊かな経済に恵まれている。
その大首長チュプカセタが、牡鹿原の会談を開いたのは、鯨海の平和的経済発展を望んでのことである。そして、倭国と阿人国の仲介を果たしているのが、高志の美名方という役回りである。戦さで潤う経済もある。しかし、長い目で見ると戦さで潤う経済は、勝者に傾きそして長続きしない。緩やかだが、長い経済発展を遂げるには平和であることが重要である。須佐人は鯨海の覇者であると同時に、倭国女王の右腕である。否、兄弟同様に育った同じ歳の二人は分身とも言って良いほどの関係である。したがって、倭国を代表しているのは須佐人である。
阿人国からは、阿佐麻の跡取りアラハバキ(安良蛇木)三十三歳、アイミ(藍実)のマサオ(真男)三十三歳。真男はケマハ(毛馬伯)の跡取りである。同じく毛馬伯の三男マサト(真人)三十一歳はピタ(斐太)を代表している。ルルム(流留無)のイハチ(伊波智)二十六歳は亡きカシケ(火斯気)の跡取りである。
高志からは、ヨンオ(延烏)の跡を継いだ阿彦二十四歳、更に、美名方に加え高志丹場のマスミ(真純)三十二歳。真純は毛馬伯の次男である。稜威母の長(おさ)安曇磯良ウズ(烏頭)は体調が思わしくなく代わりに、オクニとハハキ(蛇木)の二人が赴いてきた。烏頭の後継者佐気蛇(佐気蛇)二十三歳は、まだヤマァタイ国で修行中である。もし、若い佐気蛇がここに居れば、この場は明日の鯨海を担う次世代の会談の場である。
大首長チュプカセタの拠点は、メアンモシリ(寒国)の北方シウニンタイ(緑の森)である。会談の場となった牡鹿原の館は、須佐人の北方の拠点である。旅が多い須佐人に変わり、常日頃ここを治めているのは阿人のチロリン村長である。
チロリン村長ことチロンヌプ族長は、阿人の一族長であったが、高志の美名方の舅になり、加えて牡鹿原の開発により茅緒海周辺が豊かになると、阿人の中での存在感が増した。しかし、チロンヌプ族長は野心家ではない。今は、孫娘五十鈴の夫須佐人を支えるのが生きがいである。そんな環境にある牡鹿原の館は、この会談の場に最もふさわしい場所柄である。初会談である今回の目的は『共有と親睦』である。そして、不定期ではあるが、今後もこの牡鹿原の会談を継続していくことを確認しあった。
晩秋、雪に閉ざされる季節を前に、佐気蛇がヤマァタイ国より、稜威母に帰国した。テンユウ(天雄)を抱きよせ温かみを噛みしめる一方で、若妻オウ(於宇)を失った悲しみは埋めようがなかった。舅ウズ(烏頭)は佐気蛇の帰国を喜び、直ぐにでも安曇磯良を継がせたかったが、オクニが時期尚早だと制した。
烏頭は、近頃体調に異変を覚えることが多くなった。伏せることも多く、穏健派の烏頭のその状態は、稜威母八十神系急進派の勢いを増す事態を招いた。八十神系急進派の今の筆頭は、オクニの弟イブシ(稲撫士)である。父の乱暴者虎痴は、牡鹿沼の戦いで戦死した異母兄阿磨無の後を追うように亡くなった。その時、同母弟イブシは三十歳だったので、虎痴の跡を継ぎ八十神系の筆頭族長になった。イブシは今三十六歳の男盛りである。だから威勢も良い。幸いなことに虎痴の酒乱は引き継がず、面倒見の良さだけを引き継いだ。それにオクニに似て明るく陽気である。その為、八十神系急進派の結束は強く発言力も大きい。更にイブシは、姉オクニに全幅の信頼を寄せている。つまり、オクニは稜威母の女王に等しい存在になっている。
翌年、中華でファンジンチーイー(黄巾起義)が勃発した。アハウミ(淡海)の湖面に沈む夕日を眺め、大首長阿佐麻は嘆息した。これは大嵐の前兆であろう。湖面に投げ込まれた大岩が、対岸の村を波に呑み込むのも自然の摂理である。それに抗うことは人の力では出来ない。人にできることは互いに助け合いこの難局を乗り切ることだけである。そして、それを束ねるのは王道を知るものである。阿佐麻は、それをドキョン(東犬)と須佐人に見て託そうとしているのである。
~ 勝気な女 ~
サラサラと秋の風がヒムカの髪を撫で上げた。彼女の額にはまだ玉の汗が光っている。産まれてきたのは可愛らしい女の子である。父親はルルム(流留無)の男イハチ(伊波智)である。伊波智はヒムカの四人目の夫であり産まれてきた娘は七人目の子である。
ヒムカは月神様なので多産のようである。もう七~八人は生みそうである。十二人子をなせば、ちょうど一年を月に割り振れるので都合が良い。秋の実りの頃に生まれたので名はミズハ(瑞波)となった。そして、瑞穂の国はアユチノウミ(東風茅之海)まで広がった。つまり、ヒムカの東征は、東風茅之海まで及んだのである。黒潮の流れは、ポッケモシリ(暖国)のエト(江兎)の岬辺りまで続いているようである。したがってヒムカの東征もまだまだ続くことだろう。四人目の夫伊波智は、牡鹿原の戦いで戦死した阿人カシケ(火斯気)の長男である。
ヒムカの最初の夫アソ(吾蘇)は、もうこの世の人ではない。しかし、その息子ソツヒコ(蘇津彦)は、十九歳となり対蘇国の族長見習い中である。母はヒムカであり後継者が倭国女王ピミファなので、抗う者もなく修業は順調である。次男ミケヌ(巳魁奴)も十七歳となり、狗奴国で農業研修生の日々を送っている。
そして、二番目の夫ウズヒコ(宇津彦)も既にこの世の人ではない。宇津彦の遺児イツセ(伊襲狭)は十歳となり、一歳違いの弟サデヒコ(佐田彦)とトウマァ(投馬)国で暮らしている。共に族長見習い中である。母親代わりは叔母のサルメ(佐留女)なので、巫女女王の一人息子ジンム(仁武)とは兄弟のように育っている。
三番目の夫ウラト(宇羅人)は、存命だが今や馬韓国の人である。馬韓国の今の王は、チョゴ(肖古)王である。チョゴ王と辰韓国のキドンとは秘かな盟約関係であるが、馬韓国と辰韓国との国情は芳しくない。常に国境では戦闘が絶えない状況である。加えてチョゴ王は倭人嫌いである。倭国の倭人のことではない。馬韓国に古くから暮らしている倭人のことである。
倭人の原型は中華の東海沿岸民である。したがって人種としては漢人と同類である。チョゴ王の一族は、コグリョ(高句麗)から南下してきたツングース族である。厳しい環境に暮らしてきたツングース族は正直者が多い。逆に言えば手練手管が苦手である。その点倭人は口八丁手八丁である。互いに嘘を嘘と知りつつ騙し合いを楽しむ傾向がある。温暖な気候が暮らしを豊かにし心に余裕があるのである。だから、騙し合い馬鹿し合いも楽しみの一つである。そこに笑いを伴う芸風も生まれる。しかし、そこが生真面目なチョゴ王には許せない。「倭人めは、何といいかげんな奴らなのだ!!」という訳である。
チョゴ王は、馬韓国に暮らす倭人を辰韓国との国境周辺に住まわせ、戦さの度に駆りだした。そこで倭人は困窮した。その同胞を助けようと、生きて戻れぬ覚悟で宇羅人は旅立ったのである。娘のウララ(翁蘭々)は四歳である。弟のサチヒコ(沙乳彦)は三歳である。だから、この二人はヒムカの許で暮らしている。
ヘキ(蛇亀)は今日も機嫌が悪い。怒った美人は遠目で見る分には良いが、近くにいては敵わない。阿彦はなるべく妹の傍に近づかないように心がけている。しかし、ここ牡鹿原ではそうもいかない。それにタケルはここにはいない。タケルは今や黄泉の人である。だから、公の会合である「牡鹿原の会談」にタケルが現れる訳にはいかないのである。特にウガヤ(卯伽耶)を擁立し、狗奴国からタケルを消し去った稜威母勢の前には姿を現わせないのである。
オクニもハハキ(蛇木)も、表に出ぬヘキの夫がタケルだと知ってはいるが、知らない素振りである。もし、タケルが高志の影の指導者だと公になれば、稜威母急進派は黙っていられなくなる。そうなれば、稜威母と高志の戦さになりかねないので、皆知って知らん振りなのである。公式には実在しないタケルだが、非公式にはタケルと須佐人は、昔と変わらないように兄弟の契で結ばれている。だから、須佐人の牡鹿原の館にも良く顔を出す。しかし、今はアリソウミ(有磯海)の海を眺めて静かに控えている。
ヘキは産後の肥立ちもまだだというのに阿彦に付いて牡鹿原にやって来た。兄の阿彦が頼りなく思えて心配なのである。ヘキは母性欲の強い女である。だから兄さえもその母性で包んでしまうのである。母性欲の強さは独占欲に変わることも多々ある。ただ、ヘキにもタケルの気魂の大きさは包みこめない。産後の肥立ちはまだだが牡鹿原には、オクニとハハキがいるので心配はない。
ヘキが苛立っているのは、衣の胸をお乳がむなしく濡らすからだけではない。生まれたばかりのオキノナアガ(翁之拿阿蛇)と三つの沖那女は、セオ(細烏)祖母ちゃんの許にいる。だから心配はいらない。ヘキを苛立たせたのはヒムカの存在である。
ヒムカが、阿人カシケ(火斯気)の長男流留無の伊波智と共に、東風茅之海の開発に乗り出したと聞いたからである。日巫女であるヒムカが、南の大巫女様と讃えられているのは聞き及んでいる。しかし大巫女様の役目は、須佐人の正妃であるニヌファ(丹濡花)に担わせている。そして自身は、黒潮の民を束ねて倭国の東岸を治めようとしているのである。その規模は、稜威母から、この牡鹿原までを照らすに等しい。だから黒潮王国と呼ぶに相応しい偉業である。
ヒムカはその女帝なのである。そして、その力はますます盛んになっていくようである。黒潮の海を女帝ヒムカが照らすように筑紫之島から中ノ海を倭国女王ピミファが照らしている。そしてその力は、稜威母を覆い、高志にまで及びそうである。女帝ヒムカと女王ピミファは、一対の明かりのように遍く倭国を照らし、ヘキが射し込む余地はない。そうヘキには思えて悔しいのである。
ヘキの周囲でピミファとヒムカのふたりを直接的に知る者は、タケルと須佐人以外にも、阿彦とドキョン(東犬)がいる。タケルと須佐人は身内なのでそんな素振りは見せないが、阿彦とドキョンはその態度に二人への敬意を感じさせる。そして、それはヘキに対しては見せない態度である。それが最も悔しい。
北の大巫女様であるハハキでさえ女王ピミファに恭順の態度を示す。それも腹立たしい。私はあの二人の後は歩かない。私が前を歩くのである。私の影さえ踏ませないぐらいにず~っと先を歩くのだ。そうヘキは勝気を滾らせている。しかし、今の時点ではふたりの足元にも及ばないことも自覚している。
ヘキは賢い女である。感情に任せて状況を見失うことはない。その怒りの矛先さえ周囲に向けることはしない。もっぱらその矛で突かれるのは阿彦兄ちゃんである。ハハキはそんなヘキが危なっかしく、オクニは頼もしく感じている。ヘキが居れば、稜威母と高志が倭国に呑み込まれることはないだろう。そうオクニは期待している。
大きな鼾(いびき)が聞こえてくる。ここはヨナパル(汰原)の雀のお宿である。何やら意味不明なつぶやきも聞こえてくる。そして時よりキリキリキリと歯ぎしりの音も聞こえてくる。雀も起きて群がっている時は、耳を塞ぎたいほどに鳴き声が煩い。特に餌を探しに飛び立つ前の群れは、小石を投げ付けて追い払いたいくらいの騒々しさである。しかし、雀は寝てしまえば静かである。鼾をかいたり、寝言を言ったり、歯ぎしりをしたりはしない。もちろん雀に歯はないので歯ぎしりはしようがないのだが、例え雀に歯があっても歯ぎしりはしないであろう。人間以外の動物で鼾などをかくのは、飼い猫や犬、或いは力の強い動物である。
睡眠中は無防備である。ガーガーと鼾など大きな音を立てていれば、ガブリとやられかねない。だから、鼾などをかく輩は、己にゆとりと自信がある生き物だと思わないとやっていけない。
大鼾は人に迷惑をかけている。ほぼ本人もそうであろうなぁとは自覚している。しかし、困ったことに寝ている間のことなので、自分の意志ではどうしようもない。「敵が近くに潜んでいる。物音を立てるな」と言われれば大声を出して喋る奴などいない筈である。したがってそんな事態であれば寝られないのである。万が一にでもうとうとと眠りこけてしまいガーガーとやれば、無防備なところをブスリである。
まことに鼾や寝言や、歯ぎしりは何の益もない。しかし、当人にも止めようがないのである。困ったものである。その上本人に記憶がない行動なので、中には自分が鼾や寝言、歯ぎしりをしている自覚がない人がいる。これは更に困ったことである。ままあることだが「お前の鼾が煩くて寝られないから、お前はよそで寝ろ」と追い出しておいて、当人がガーガーと大鼾をかき、他の人が結局は寝られなかったという笑い話もある。
自分が、鼾や寝言や、歯ぎしりをするぞと自覚している人は、気兼ねをして他人とは一緒に寝られない。防衛策としては、鼾や寝言や、歯ぎしりをする人だけが一緒の部屋で寝るのである。するとお互い様なので気が楽に寝られる。そして翌朝には「いやぁ~昨夜は、案外静かでしたね」と皆でほほ笑み合い安堵するのである。兎角、鼾や寝言や、歯ぎしりで得をする話はない。
まあまあ男の場合であれば、豪傑鼾等といって居直りもするが、女の場合はそうもいかないことが多い。悪くすれば離縁にもなりかねない。たかだか鼾や寝言や、歯ぎしり如きで離縁だと言い出す男など、女の方から絶縁状を叩きつけてやれば良い。百年の恋が冷めるのはこっちの方である。しかし、周辺はなかなか理解してくれない。
嫁にでた女は「鼾や寝言や、歯ぎしりが酷いので、離縁され帰ってきた」と噂されると里には居づらいのである。女でも十人に一人は鼾をかく者がいると言われている。そんなには多くの離縁話がないところを見ると、薄情な男ばかりではないと安堵出来る。もちろん、当人も大鼾をかくという男も居ようが、静かな寝入りの男も多い筈である。そんな夫婦は正に連理の枝であろう。
しかし、どうやらこの雀のお宿にいる女達はそうではないようである。この宿の女主は、ヨナメノコ(米女孤)という四十路過ぎの痩せた女である。そもそも、この宿はヨナメノコの両親が営んでいたのだが、今は両親共に先立っている。両親の本業は、メアンモシリ(寒国)の大巫女チノミシリ(茅野魅尻)の使え人である。だから父はヨナパル(汰原)の族長でもあった。
やさしい人で、口減らしに遭った孤児を引きとって使用人にしていた。子供の使用人が多くて、ピーチクパーチクと賑やかなので、誰彼なしに「ヨナパルの雀のお宿」と言い出したのである。そして夜は酒房も兼ねた。だからここは商人宿で、酒房で、孤児院であった。ヨナメノコが宿を継いでからは、離縁された女達が使用人として増えた。彼女自身は、鼾や寝言や歯ぎしりもない。しかし、独り身になった女の辛さは良くわかるのである。
女将の亡夫は、カシケ(火斯気)という。あの流留無の火斯気である。火斯気が牡鹿沼の戦いで戦死した後、二十歳になっていた息子の伊波智を伴って、里のヨナパル(汰原)に帰っていたのである。汰原の近くには、カゴンマ(火神島)にも負けない火の山がある。汰原とは、阿人の言葉で「火山灰の原野」のことである。しかし、後年ヒムカはここを瑞穂の国に変えていく。
伊波智が二十五歳になった時、ポロモシリ(大国)の大首長阿佐麻が流留無に呼び戻し、火斯気の跡を取らせ流留無の族長に据えた。しかし、母は、ここ「汰原の雀のお宿」に残ったのである。ヨナメノコ女将は小柄で細身だが気丈な女である。面倒見の良かった夫の火斯気と似て、ここの使用人達を見捨てられないのである。それに、火斯気の盟友チュプカチャペ(蛛怖禍茶辺)に代わり、メアンモシリ(寒国)の大首長になったドキョン(東犬)ことチュプカセタ(蛛怖禍犬)が南下した時の定宿にもなっている。だからは、「汰原の雀のお宿」は繁盛しているのである。
口は災いの元という諺がある。これは不用意な発言をすることを戒めているのだが、口からは毒となるものも侵入するので、やはり災いを導きいれる器官でもある。海人(うみんちゅう)は、水魔から身を守るために全身に入れ墨を施す。だから、入れ墨は災いを防ぐ呪いでもある。
その娘は口の周りを草花の入れ墨で飾っていた。阿人の娘である。阿人の女も、南洋海人の倭人の女も口の周りに入れ墨を施す。まるで女の髭のようである。目元が涼しい美しい女である。名をピリカ(斐梨花)という。もう娘盛りを過ぎ二十四歳である。ピリカは、「汰原の雀のお宿」で働いている。離縁された訳ではない。夫になるはずの男が死んだのである。男の名はウホピ(宇穂卑)という。火斯気の盟友チュプカチャペ(蛛怖禍茶辺)の長男だった。そして、火斯気と共に牡鹿沼の戦いで戦死したのである。その時十七歳だった。
ピリカの父は、ピタ(斐太)の族長ケマハ(毛馬伯)である。だから、その後も夫を迎える機会はあったのであるが嫁には行かなかった。ピリカは大きな鼾をかくのである。父も兄達も大きな鼾をかく。だから、自分も大きな鼾をかくだろうと思っている。だから、嫁に行くのを尻込みするのである。
しかし、二十歳を過ぎても嫁に行かないと周りが煩い。そこで、斐太には居づらくヨナメノコ女将が、汰原に呼び寄せたのである。「汰原の雀のお宿」の夜は、大鼾、歯ぎしり、意味不明な寝言に本人の自覚がない大笑いと賑やかである。だから、ピリカには居心地の良い所だった。女将も自分に負けない気丈なピリカを頼りにしていた。そして、斐太の神童と呼ばれた毛馬伯の娘だけあって、とても賢い娘である。ただ、夫になるはずの男だった宇穂卑を奪った倭国女王には、心の底に恨みを抱いていた。それは理不尽な恨みだとは分かっていたが、どうにも消せない感情である。
葦が芽を吹き始める頃、汰原で第二回目の牡鹿原会談が開かれた。汰原で開かれたので汰原会談である。今回も主催したのはチュプカセタで、進行役は高志の美名方である。そして会談の出席者もほぼ前回同様である。ただ阿彦の付き添いであるヘキ(蛇亀)は、所用で来られなかった。
須佐人も辰韓国の蘇志摩利に居て来られなかったので、名代にチヨダ(智淀多)が遣わされた。初春、倭国女王の父辰韓国の阿逹羅王が身罷ったのである。世継はユリ(儒理)皇子であったが、王位を取ったのはソク(昔)氏のポルヒュ(昔伐休)である。だから、辰韓国には政変の臭いが漂っていた。そこで、須佐人は、辰韓国の蘇志摩利に待機しているのである。
須佐人の表の顔は交易商人だが、その本性は武王である。それにこの事態では、外交方の智淀多では心もとなさ過ぎる。だから、武王須佐人が辰韓国に潜んでいるのである。智淀多の外交能力は、巫女女王も高く買っている。そこで汰原会談には、倭国を代表して智淀多が出席しているのである。
智淀多が、ヤマァタイ国から出向いてきたので阿彦は大喜びである。二人は、三年近くを共に暮らした親友である。そして、二人とも未だに独り身である。二人は男色の関係ではない。しかし、二人とも傍に恐ろしく気の強い女の存在があるので、女性恐怖症の面があるのかも知れない。兎に角二人は、高志から汰原までの道中を、伸び伸びと楽しみながら旅してきたのである。しかし、汰原で阿彦の独身貴族の身分が剥奪されるとは、まだ二人は知る由もなかった。どこまでも陽気で気楽な二人である。
~ 気遣いの男 ~
白いハコベ(繁縷)の花が咲いている。小さくて可憐な花である。そしてここは野辺の道である。人が歩む道には、引き返せない道もある。「ちょっと待った。もう一回土台を点検しよう。基礎を間違うと後が台無しだからなぁ」と昨日の道を振り返り、今日は、もう一度昨日の道を慎重に歩み直すことも多々ある。智淀多は、この手合いである。愛想なしで人間関係には無頓着の智淀多だが、仕事では慎重派である。その点では巫女女王も彼を信頼している。
智淀多も、巫女女王の日頃の憤懣の矛先を受け止める盾ばかりを引き受けているのではない。須佐人は、そんな二人の関係に可笑しみを覚えている。そして、巫女女王と双子の姉弟のように育った須佐人は、女王の気性を知り尽くしている。だから智淀多は、最も女王の側近にふさわしい男だと思っている。そして、周りの者達も、女王と智淀多のやり取りにいつも失笑している。
智淀多のように、自分の歩んだ道を細かく振り返り、必要であれば引き返してやり直す者は案外少ない。大方の人生は引き返せない道が多い。老いは、そんな道の振り返りを促す。しかし、後悔ばかりして人生を終えるのは空しい。そこで「全て良し」と人生を終えられるように余生を過ごせれば最良である。ポロモシリ(大国)の大首長阿佐麻もそんな歳になった。今度の会談は汰原で行われるので、跡取りのアラハバキ(安良蛇木)と共に出席することにした。阿佐麻も五十路半ばを過ぎた。「人生五十年」と唄われることを考えれば、既に老境である。
ポロモシリの大首長の実権は既に安良蛇木に託している。彼は三十路半ばの男盛りである。汰原会談の前に阿佐麻は、阿人の主だった族長達を汰原に集めた。そして、正式に阿人自由王国の建国を図った。東夷エト(江兎)を代表するケシエト(芥子江兎)族長に、アチュイモシリ(海国)のシウクオロ(飼鵜苦嗚呂)族長は既に、阿佐麻大首長の意を受け同意していたので、集まった百余数の族長達も意義を唱える者はなかった。そこで、汰原会談の前に、チュプカセタは初代阿人自由国王となっていた。国家体制の詳細はまだ不十分だったが、チュプカセタ王は、国家を知る男である。だから国家体制は、おいおい整ってくる筈である。阿佐麻大首長の思いと役割は、次世代に阿人世界を託すことである。汰原の会談は、そんな若い世代を中心に進められた。
汰原会談の会場は、「汰原の雀のお宿」である。その為に「雀のお宿」は、大幅な増築が必要になった。費用はチュプカセタ王が出すので問題はないが、大勢の大工が必要である。それに、小屋を連ねた長屋のような建物ではなく、ヤマァタイ国のメタバル(米多原)の館を模した建屋にすることになった。そこで、流留無に駐留するヒムカの大工達が大勢送られてきた。だから、ヒムカの夫で流留無の部族長伊波智は、その長として先に汰原に戻っていた。身重のヒムカを置いて流留無を離れるのは未練が残ったが、これもヒムカの意向である。
ヒムカは、ヨナパル(火山灰の原野)を瑞穂の国に変えていくことを構想していた。そして汰原は、伊波智の故郷でもある。母のヨナメノコ女将は、この事態に大喜びした。しかも「雀のお宿」は商人宿で、酒房で、孤児院で、離縁された女達の駆け込み所に加えて、阿人自由王国の迎賓館になったのである。しかし、火斯気の女房ヨナメノコ(米女孤)には大きな器量があるので何の問題もない。
ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきた。百穀を恵んでくれる雨である。ウネ(雨音)が居ればこの雨を穀雨に替えるだろう。しかし、今はまだ山野に恵みをもたらす雨である。そして、木々の新芽が小鹿を育み、山猿も冬毛を脱ぎ軽々と天空を飛び跳ねている。
ピリカ(斐梨花)の背に子猿が飛び乗ってきた。この子猿は迷い猿である。木から落ちて落ち葉に埋もれていた赤子の猿を、斐梨花が拾ってきたのである。嫁にもいかず子も居ないので、斐梨花は自分の赤子のように育てている。子猿も実の母猿を知らないので、斐梨花が母猿である。斐梨花は、その子猿をフレナンという名で呼んでいる。赤ら顔だが、どことなく斐梨花に似ている。だから美人である。否、美猿であるというべきであろう。そして、雌である。だから、ピリカフレナンは、後五~六年も経つと娘猿となり子をなすようになる。
猿の世界は母猿を中心になり立っている。胎生の生き物は、雌を中心に社会をなすものが多い。それは自然の摂理であろう。雄が、誰の子が分からない者を集めて社会をなすのは、人間ぐらいである。だから、人間の社会は自然の摂理から遠のいてしまったようである。そこで、恐れが生じ神仏を生む。猿の社会が、宗教を中心になり立っているとは思えない。だから、子猿のフレナンが生きていくのに神仏は要らない。そして、フレナンが巫女になることは決してないだろう。しかし、人間の斐梨花は巫女である。正確にはツングース族のシャマン(呪術師)と同じである。つまり、倭人の鬼道でいうところの巫女ではない。その為、ハハキやオクニとは違った力の持ち主である。
昼を過ぎ、雨は本降りとなって来た。阿彦は、昼餉の用意が整ったので食事処の座敷に向かっていた。するとその前に、子猿のフレナンが立ち塞がった。立ち塞がったとはいっても子猿である。大男の阿彦を押しとどめるほどの威力はない。ただ、阿彦をじっと見つめているのである。その視線に阿彦もじっと見つめ返しているのである。別に睨めっこをしているのではない。「あなたに昔どこかで会ったかね?」というように見つめ合っているのである。阿彦は、父のヨンオ(延烏)や祖父のネロ(奈老)大将に似て、大柄でたくましい武人である。それが子猿とじっと見つめ合っているので滑稽な様子でもある。
程なく智淀多が通りかかり「アヒコは、人間の女にはもてないが、猿には好かれるようだな」と真顔で言った。子猿のフレナンは、次に智淀多をじっと見つめ始めた。智淀多もまたフレナンをじっと見つめ返している。勿論これも睨めっこをしているのではない。阿彦が「お前も、人間の女にはもてないが、猿には好かれるようだな。ほら猿の顔が赤くなったぞ」と陽気に笑って返した。智淀多はその冗談に「そうかなぁ」と真顔で首を傾げている。そして、子猿のフレナンと、大男の阿彦と、生真面目を絵にかいた智淀多の三人、否、1匹と二人はじっと見つめ合っている。まったく変な奴らである。
そこへ、斐梨花がやって来て「駄目ですよ。フレナン。お客様の邪魔をしちゃ」と子猿のフレナンを抱き上げた。「ほう、フレナンという名ですか」と阿彦が斐梨花に笑いかけた。智淀多はウム~と考え込み「フーは、虎か狐か?或いは蝮か? レンは人か仁か? 或いは刃か? ナンは男か南か? うむ~虎の仁の心を持った男フーレンナン(虎仁男)か?」とひとり合点し斐梨花に「あの~この子猿は雄ですか?」と問いかけた。「いえ、女の子です」と斐梨花は微笑んで返した。
智淀多はぐっと詰まり「雌!! 雌ではフーレンナン(虎仁男)はおかしいなぁ。蝮か?…… 蝮には仁は難しいだろうなぁ」と考え込んでいる。「お前、何をぶつぶつ言っているんだ」と阿彦が智淀多に声をかけた。「いや、フーレンナンの語彙が何かと思っていな」と智淀多が返すと「フーレンナンではなく。フレナンです。阿人の言葉で赤い顔という意味です」と横から斐梨花が答えた。「嗚呼、赤い顔。確かに赤い。赤い顔フレナン。嗚呼~フレナン(赤顔)。フレナン(赤顔)ねぇ。やぁよろしくフレナン(赤顔)」と智淀多は子猿のフレナン(赤顔)に手を振った。
そこへ、ぞろぞろと他の皆がやって来た。オクニが、ふと斐梨花に目を留めた。そして、ハハキに何やら話しかけている。ハハキは阿彦を見つめて頷いた。昼餉が終わると、再び会談が始まった。
今回の汰原の会談は、牡鹿原の会談から少し進んで、交易の公平性の話となっていた。阿人の世界には貨幣制度がないので、対価のすり合わせが曖昧だったのである。チュプカセタ王も元々は、交易商人である。そこで、鯨海の貨幣制度を作ろうと提案したのである。これは、阿人にとって収益を伸ばす策である。だから、阿人優位の案であった。
しかし、倭国の代表智淀多は、この阿人優位案にあっさりと同意した。薄利多売の益を智淀多は選んだのである。智淀多は、倭国女王の経済政策の懐刀である。須佐人も智淀多のなすことには異議を唱えない。腕力はまったくないが、知力は極めて優れている。ただ少し理屈っぽいだけである。それは可笑しみのある人格でもある。だから、須佐人は智淀多に好意的でその信頼も一段高みに置いている。
更に、智淀多は「牡鹿原会談や、汰原会談と開催地の名で呼んでいたのでは、不便なので『阿倭和平会談』と呼びましょう」と言い始めた。だから第一回阿倭和平会談が、牡鹿原会談であり、第二回阿倭和平会談が汰原会談である。そして、会談の最後に次回の開催地を決めておこうというのである。如何にも智淀多らしい発想であるが、皆はこれに同意した。そして、第三回目はツヌガ(津沼娥)会談と決まった。そして更に、智淀多は、稜威母の代表に佐気蛇を要請した。当然実母のハハキに異議はなく、義母のオクニも不承不承ながら同意した。最後に、第三回阿倭和平会談ツヌガ(津沼娥)の会談は、翌年春と決まった。進行役の高志の美名方は、進行役を奪われる格好になったが、智淀多の采配に感心した。そして、良い後継者が出来たものだと、チュプカセタと喜び合った。二人とも後継者を求める年頃となったのである。もしかすると、智淀多も気遣いの男なのかも知れない。しかし、巫女女王は、智淀多が気遣いの男だとは認めないであろう。巫女女王にとって智淀多は口煩いままの男である。しかし手放せない側近である。
外交の心得は、信頼である。少し前までは戦っていたり、今でもいがみ合ったりしている関係が基本的な状態である。そこを和平的に持って行こうというのであるから、互いの信頼がないと成立しない。小手先の策は目先の益を得ることが出来ても、長い目で見ると大した益を生まないことが多い。その点、智淀多は誰の目から見ても信頼に足りる人格である。ただ、少しばかり口煩く変人なだけである。宋襄の仁を心得た智淀多は、阿人外交の適任者であろう。火斯気の息子伊波智は「もし、こんな男が早くに倭国に居てくれたら、親父殿達の考えもまた変わったろうに」と悔やんだ。チュプカセタ王は、智淀多と一航海を伴にしているので、その人格を良く承知している。だから、汰原会談は双方に満足の行くもので終わった。
智淀多の帰路は、流留無から、中ノ海を目指すことになった。そこで、阿彦とは、汰原でお別れである。次のツヌガ(津沼娥)会談の倭国代表も智淀多の公算が高い。だから、阿彦は「来年、ツヌガで会おう」と智淀多を見送った。そして、阿彦は、斐太の牧場を見て帰ることにした。今でも、高志の軍馬を毛馬伯が育ててくれているのである。そこで、斐梨花も久し振りの里帰りをすることになった。だから、道中は毛馬伯三兄弟に、オクニとハハキ、それに加えて斐梨花と賑やかなものになった。
阿彦は、ひとりで百人の敵さえ倒そうという荒武者であるが、気遣いの男でもある。だから、道中は皆が退屈しないようにと、ヤマァタイ国留学の話を面白おかしく語って聞かせた。中でもリーしゃんと智淀多の奇妙な師弟関係は皆の笑いを誘った。そして誰もがリーしゃんの料理を食べてみたいものだと羨ましがった。
ハハキとオクニは、巫女女王が鯨海巡幸をした際に、リーしゃんに会っている。だから、二人が語ったリーしゃんの料理は、毛馬伯三兄弟の涎を枯らせる程に切望させた。斐太に着くと、オクニとハハキは、毛馬伯と何やら密談をしていた。しかし阿彦は、いらぬ詮索はしない男である。皆は斐太で別れそれぞれの郷里に戻って行った。それから程なく、ヘキ(蛇亀)にオクニから文が届いた。さらに数日後、斐太からヘキ(蛇亀)を訪ねて斐梨花がやって来た。もちろん子猿のフレナン(赤顔)も一緒である。
四歳の娘沖那女は大喜びである。ヘキと斐梨花は一目会い直ぐに意気投合した。倭人と阿人という種族の違いはあったが、気性が同じなのである。心の臓の鼓動や、吐く息の間合いすら同じではないかと思わせるほど似ているのである。つまり、勝気な女同志なのである。
三日をアリソウミ(有磯海)の周辺で、皆と共に遊び、そして別れた。数日後ヘキは阿彦に「お兄様の妃にピリカを迎えます。時期は、ツヌガの会談終了後としました。これだと皆様への披露がつつがなく行えますからね。きっと智淀多様もお見えでしょうから、お兄様もその方が良いでしょう」と告げた。阿彦は返答のしようもなかった。既にヘキが決めたことである。それも阿彦には何の相談もなくである。しかし阿彦は「まぁ良いか」と頓着がない。不思議な兄妹関係である。もちろんこの発案は、オクニとハハキの相談に端を発している。だから、政略結婚でもあるのだが、当の阿彦には、それもどうでも良いことのようである。気遣いの男阿彦は大海である。
~ 愛したい女 ~
死期に見る夢はどんな夢だろう。娘オウ(於宇)は、どんな夢を見ながら死を迎えたのだろう。楽しい夢だったら良かったろうに。でもオウは、オクニに似て明るい娘だったから、きっと楽し夢を見ながら死んだ筈だ。近頃烏頭は、そんなことばかり考えている。どうやら自分は不治の病に罹ってしまったようだ。それにどうも労咳(ろうがい)のようである。いつも身体がだるく、食欲も落ちた。少し熱も有るようだ。オクニからは、寝ている時に随分と汗をかいているとも言われている。
安曇磯良烏頭も五十路半ばを過ぎている。だから、仲間の中には労咳で亡くなった者も多い。看取ったのも一度や二度ではない。特に弟のウカイ(鳥喙)を労咳で亡くした時は、何か大きなモノが自分から抜け落ちたように気落ちした。だから、自分も鳥喙と同じ労咳のようだと悟ったのである。
労咳は風邪の症状に似ている。そして、風邪のように人から人へと感染する。だから、孫のテンユウ(天雄)は遠ざけている。天雄は、まだ五歳である。この病は体力勝負である。体力と気力が有れば、この病は抑え込むことが出来る。だが幼子と年寄りは命を落とす確率が高い。だから、淋しいが我慢するしかない。オクニにもあまり傍に寄るなと注意をしているが添い寝を止めようとはしない。「お前にこの病が取り憑いたらいかん」というと「人は死ぬことより辛いことがあります。それは独りで生きることです。私は貴方と生きて、貴方と死ぬのだから気にかけないでください」と言い返すのである。“オクニの明るさと強さは、その生い立ちにあるようだなぁ”と、烏頭は思いに耽り言い返せない。そして「どうやら、ワシも楽しい夢を見ながら死ねそうだ」と烏頭に淋しさはない。
死期を前に覚悟は定まった烏頭ではあるが、佐気蛇のことだけが気がかりである。先頃の汰原会談で、ヤマァタイ国の智淀多殿が「アズミノシラウズ様の名代はサケミにして欲しい」と進言してくれたと聞かされた。佐気蛇に安曇磯良を譲ることを拒んでいるオクニも、次の津沼娥会談には、佐気蛇を名代に立てることを渋々承知したそうだ。きっとそれは、巫女女王の意向でもある筈だ。先妻クメ(紅女)を内乱で亡くした烏頭は、何としても倭国の安寧を守りたかった。それが、父安曇や、カガメ(蛇目)族長の遺言であると受け止めている。だから、ヤマァタイ国で学んだ阿彦と佐気蛇が、高志と稜威母を率いれば、倭国の泰平は揺るがない。それが、末期(まつご)に見る烏頭の夢である。
オクニは、燃え盛る炎を前にしている。オクニの白い顔が赤色人のように赤く照り輝いている。オクニは火の巫女である。そして、斎場に籠ったその姿は裸体に近い。ふくよかな乳房に火の粉が降りかかる。ここに男は入れない。もし不用意に男供が火の神の斎場に入り込めば、火の粉に包まれ焼き殺されてしまう。
労咳は風の邪神である。だからオクニに取り憑いた労咳の邪神は、たちどころに焼き尽くされてしまった。オクニは火のついた鏑矢を天高く放った。ビヨ~ンと鏑矢が響き渡ると、同じように裸体に近い巫女達が一斉に火矢を放つ。そして、寒気に覆われた夜空が無数の炎に焼かれる。
今宵は冬至の夜である。この日を境に火の神はその力を取り戻していく。その力を取り込み巫女達は、荒々しく火炎の舞を舞い爆ぜる。稜威母の火の神は根の国におわす。だから、ここは根の国の入り口でもある。黄泉の国と根の国は重なっている。しかしそれは、異質な世界である。根の国は熱の世界である。黄泉の国に気温はない。黄泉の国の熱は体感できない熱である。黄泉の国には全てがあり、そして何もない。それはアルジュナ少年がいう空に等しい。否、等しいという概念さえない。ハハキとヘキは、その黄泉の巫女である。だから、オクニは、二人とは異質である。黄泉の国はそれ自体で成立する。しかし、根の国は、地上の国と対である。草木は根の国から活力を得て、地上にその姿を栄える。生き物は、その草木を食料として活力を得る。だから、すべての生き物は根の国に生かされている。多くの生き物が二つの性を持ち生きているように、根の国と、地上の国とは対関係なのである。その対関係から、生と死という夢が湧き出す。生と死の擦れ合いは熱を生む。それが生き物の命である。だから、物に宿る命と、生き物に宿る命は異質のモノである。その異質がすれ違いながら会う所が黄泉の国である。物の命と生き物の命は、そこで異化され交換される。巌座(いわくら)の神を人間が感じることが出来るのはその為である。
下世話な話に戻そう。哲学者なら形而下というだろう。神代の世界の話ではない。今見えている人の世界の話である。だから、世間話と言っても良い。好いた惚れたが付きまとう話である。巌座の神に仕える黄泉の巫女は、この手の話が苦手である。何しろ物に宿る命の世界に身を置くのであるから、世間の見方や言いようとは確執してしまうことが多い。しかし、生き物に宿る命を司る火の巫女であるオクニは、この手の話が大好きである。時として世話焼き婆さんになってしまうことさえある。
世間話の調味料は、悪意である。悪意を含んでいない世間話は旨味が足りない。「だから、どうしたの」と言われかねない。悪意が強すぎると聞くに堪えない話になる。だから、悪意加減が微妙である。料理の塩加減に極意が似ている。「他人の不幸は蜜の味」という言葉がある。これが悪意の良い塩梅(あんばい)である。塩や酢も使いようによっては甘さを引き立てるものである。
もうひとつ世間話の極意がある。それは、陽気に語ることである。悪意は陰の気なので、陰気に語ってはいけない。陰ばかりが強まり凄惨な様相を帯びやすい。世間話は、生き物に宿る命に笑いを引き起こし、活力を与える。「笑う角には福が宿る」というではないか。あれである。だから、オクニの周りには人が絶えない。近寄りがたいハハキやヘキとは大違いである。オクニも、ヘキに劣らない勝気な女なのだが、ここがヘキとは大いに違う。オクニが、火の神の前で踊る恐ろしきまでの火の舞は秘儀である。だから人前で踊ることはない。オクニが人前で踊るオクニ舞は、形而下の舞である。だから、トウマァ(投馬)国のウズメ(宇津女)の舞にも負けない陽気な舞である。
春、第三回阿倭和平会談・津沼娥会談が開かれた。今回オクニは、テンユウ(天雄)の子守りである。佐気蛇に安曇磯良名代を勤めさせるのは不本意であるが、日に日に様態が悪くなる烏頭からも離れがたい。津沼娥の会談で唯一楽しみなのは、阿彦に斐梨花を嫁がせることである。オクニは、阿彦が大好きである。あの気性がオクニと会うのだ。出来るなら、阿彦を娘婿にしたかったぐらいである。
佐気蛇は、須佐人に兄事している。須佐人は高良磯良になる男である。何故そんな男に安曇磯良が下らなければならないのか。オクニには合点がいかない。阿彦なら須佐人に並び立てる器量が備わっている。須佐人が須佐能王の末裔なら、阿彦は、ヒョウ(瓢)ことソクタレ(昔脱解)王の末裔である。だから、須佐人が高良磯良なら、安曇磯良は阿彦こそふさわしいのだと思っている。しかし、高良磯良と安曇磯良は、海人族の長である。残念なことに阿彦は海人族ではない。しかし、阿人の勢力と阿彦が結べば、鯨海の北東部沿岸は阿彦の勢力が強まる。それから先の展開は、まだオクニにも読めない。しかし、何としても巫女女王には一矢報いたいのである。個人としては、巫女女王に恨みはない。むしろ、あの気性はオクニにも通じるものがあり好ましい。しかし、稜威母の女としては、巫女女王に抗したいのである。
阿彦は、落ち着かない。どうも尻の座りが悪いのである。ヘキに加えて斐梨花という勝気な女を傍に置くのである。いくら阿彦が大柄な男だとは言っても、両脇から女の槍で突かれては身が持ちそうにない気がする。そう弱気な虫が語りかけてくるのである。
津沼娥の会談には、やはり智淀多が倭国代表として派遣された。安心したことも手伝い、阿彦は智淀多に愚痴を言った。しかし彼は「優柔不断なお前には、持って来いの妻だ」と突き放した。“薄情な奴め”と思いつつ彼にそう言われると阿彦は“そうかも知れんのう”と心が固まり始めた。智淀多は「アヒコは、大太鼓のような男だ。打ち手が良ければ大きく鳴り、打ち手が悪ければ小さくしか鳴らない。だから打ち手を選べ」と言った。そこで「では、腹鼓の狸にでもなろうかのう」といつもの陽気な阿彦に戻り会談に臨んだ。
今回の会談の主な議題は、鯨海における造船問題である。ハハキは、牡鹿原の会談の前に、夫のウカイ(鳥喙)を亡くしていた。跡取りのケンコク(堅固)は、まだ二十五歳と若くカガミ(蛇海)系稜威母族の長は実質的にハハキが担っていた。
ハハキは、ツヌガ(角鹿)に稜威母の造船所を建設していた。シマァ(斯海)国の口之津の造船所に匹敵する規模である。その造船所を統括しているのは、墨縄のイナベ(稲辺)と呼ばれる男である。稲辺は口之津の造船所で働いていた男である。彼は、そもそも丹場の男である。そして、稲辺は山工人(やまくにん)の出である。山工人は山師の一種である。口之津の造船所を統括しているのは、稜威母の山師オキナノタタラ(翁之多田羅)である。その翁之多田羅と共に、斯海国に渡っていたのである。
倭国の山師には大きく四つの集団がある。筑紫之島の山師、稜威母の山師、丹場の山師、高志の山師である。それらを束ねていた大頭領は筑紫之島の山師メラ爺であった。そして今は、稜威母の山師翁之多田羅である。彼は巫女女王からの信頼も厚く、巫女女王の兄斯海国の族長ナツハ(夏羽)や、須佐人と並び称され、三人は無敵の三兄弟と呼ばれる間柄である。
山師には大きく五種の業態がある。穴を穿ち鉱物を掘り出す坑夫。山肌を削り砂鉄等を取り出す流師。主に製鉄を担うタタラ師。それに、坑道の梁や、かけ流しの水路を補強する材木や、燃料に使う薪などを切り出すのは杣夫(そまふ)と呼ばれている。更に、木炭造りや薪売りから、大工仕事までこなす山工人である。だから、翁之多田羅の許には五人の棟梁が付いている。その一人が墨縄の稲辺である。だから、稲辺は角鹿の造船所を率いるのに十分な力を持つ男なのである。
歳は翁之多田羅より少し若いので男盛りの三十路後半の筈である。身体も翁之多田羅に負けないぐらい丈夫で気概も高い。ハハキに、造船所建設の助力を要請された巫女女王は、ためらわず墨縄の稲辺を送り出した。もちろん統領翁之多田羅は優秀な配下を付けて送り出した。だから、角鹿の造船所は鯨海一の造船所となった。
まだ、大型船は建造していないが、冬の鯨海の高波にも強い漁船を作り出している。稜威母のオクニもこの角鹿造船所を頼りにしており、稜威母の物資は提供を惜しまない。だからこの造船所は安曇磯良の造船所とも言える。その対比で言えば、口之津の造船所は高良磯良の造船所とも言えるだろう。ハハキは、そんな実利で物事を進める女である。それを承知で巫女女王は助成したのである。
安曇磯良と高良磯良は、倭国海人の二大潮流である。そのふたつが武力で争えば大乱となる。しかし、実利の競争は最終的に共栄を求める。共栄の条件は対等な関係である。一方が巨大であれば吸収合併になり、大きな者達は奢り、小さき者達は卑屈さと恨みを生じる。だから、角鹿造船所の繁栄は、巫女女王の実利にも繋がるのである。
そんな実利に長けた女が阿人にもいる。それは汰原の斐梨花である。角鹿会談の終わりは、阿彦と斐梨花の祝言であった。そこで、各地の族長達も駆けつけ倭人と阿人の大交流会となった。オクニは角鹿には来られなかったが、斐梨花の為に見事な倭錦を贈ってきた。その豪奢な柄はオクニの喜びも表していた。
甘く爽やかな春の香りが漂っている。早春の庭先に沈丁花の白が華やいでいる。夜明け前、斐梨花が元気な女の子を産んだ。祖母のセオ(細烏)はスズ(珠子)と命名した。スズは鈴であり、錫石の錫でもある。錫は鏡の材料であり、共に神具である。いずれにしても、スズもまた巫女として生まれた娘である。ハハキとオクニはこの娘の為に神事のハク(帛)を贈ってきた。これより時は、次の巫女の時代を紡ぎだしたようである。
~ 悲しみ猛る ~
初夏、スズは、すくすくと成長し目も見えているようである。阿彦に良く似た黒目がちの大きな瞳をきょろきょろと動かしている。ヘキは、この姪が可愛くてたまらないようである。兄の阿彦への対応とは打って変わって違っている。時折、スズをタケルが抱き上げると、光り輝く玉のように皆には見えた。明けの君タケルに感化されているようである。
そのタケルに狗奴国から訃報が届いた。異母弟ウガヤ(卯伽耶)の妻タマミ(玉海)が亡くなったようである。玉海は、安曇磯良烏頭の妹である。そして、まだ三十六歳の若さであった。烏頭とは二十二歳の歳の差があり、烏頭にとっては、愛娘に等しかった。その可愛い妹の早世に烏頭の容態は一気に悪化し、玉海の後を追うように秋の空を旅立った。
オクニは後を追いたかったが、テンユウ(天雄)はまだ幼い。だから思いとどまった。悲しみを押し殺し立ったオクニは鬼神に身を変えた。須佐人に兄事する佐気蛇には、何としても安曇磯良の地位は譲れない。そこで、天雄を烏頭の後継者だと宣言した。天雄は安曇一族の直系である。だから誰も異論は挟めなかった。
しかし、天雄はまだ七歳である。現人神タケルならいざ知らず七歳の幼子が安曇海人族を統べるのは無理である。そこでオクニは、高志の大族長阿彦を後見人に立てた。そして、天雄が成人するまでの間、阿彦を安曇磯良にすると言い出した。これには沫裸党の多くが反発した。安曇磯良は海人族の頭である。阿彦は立派な男ではあるが海人族ではない。何故、海人族の佐気蛇ではないのかと反旗を翻した。とりわけ佐気蛇の兄丹場の長ケンコク(堅固)は、烈火の如く怒りを露わにした。
堅固は烏頭の実の子である。本来なら堅固が、安曇磯良を継いでおかしくないところである。しかし、義弟の佐気蛇が安曇磯良に修まるのであればと納得していた。それが沫裸党の海人族でもない阿彦が安曇磯良になるなど到底承知できるものではなかった。
しかし、オクニの弟イブシ(稲撫士)は、姉の建策を支持し抗うものあればと稜威母急進派を率い武装蜂起した。稜威母は再び八十神系稜威母族と木俣のカガミ(蛇海)系稜威母族に分裂したのである。初冬、佐気蛇は、その立場を阿彦に譲り丹場に帰った。稲撫士達急進派は、これを追い討とうとしたが、オクニが止めた。オクニも佐気蛇が憎い訳ではない。佐気蛇は、オクニが姉と慕うハハキの息子である。その子が憎い訳はない。オクニが憎いのは巫女女王であり倭国である。しかし、いずれにしても稜威母は東西に分裂した。
稲撫士と堅固は、国境線にそれぞれ防衛軍を配置し睨み合った。佐気蛇は、妻を失い、子を失い、国を失った。安曇磯良になった阿彦は、ハハキに和平を申し入れた。その為、丹場は稜威母との間には国境線を引いたが、高志との関係は今までのように緩やかなものとした。
阿彦は、佐気蛇を「稜威母のタケル(猛流)殿」と呼んで親交を結んだ。妹の夫タケルが「倭国のタケル(健)」であれば、佐気蛇は「稜威母のタケル(猛流)」だというのである。確かに、タケルも佐気蛇も身を引くのが上手い。阿彦の遠祖ヒョウ(瓢)も身を引くのが上手かったそうである。だから、阿彦は本当に、二人に親しみを感じるのである。
翌年、まだ春浅き頃、伊都国の臼王が身罷った。そして、後継者は娘婿のユリ(儒理)皇子に決まった。儒理王となった伊都国は、辰韓国に対して厳しく対し、馬韓国寄りの対応を取るようになった。儒理王は巫女女王の弟である。したがってこの外交戦略の変化は倭国の外交戦略でもあった。
この大きな情勢変化に、オクニとヘキの暗躍が始まった。彼女達の策略は大きく二点である。一点は、倭国と関係悪化に陥った辰韓国と結ぶことである。二点目は、巫女女王に近しい者達の取り崩しを図ることである。そこで、まずヘキが辰韓国に飛んだ。今の辰韓国の王は、儒理皇子にとって代わり王となったソク・ポルヒュ(昔伐休)である。つまり、ヘキとポルヒュ(伐休)王は、遠祖ヒョウ(瓢)ことソクタレ(昔脱解)王の末裔である。加えてポルヒュ王は、ネロ(奈老)の反乱の際、ネロ軍で戦い敗れた経歴を持つ人である。だから、ヘキが辰韓国に赴くことは、ソク(昔)氏の旧交を温めることでもある。
ポルヒュ王は、ネロ大将の孫娘ヘキを厚く持てなし盟約はなった。稜威母と高志の連合が辰韓国と結ぶことで、鯨海の覇権は二分した。稜威母と高志の連合、否、オクニとヘキは、巫女女王と対等に立てたのである。
津沼娥の海に冷たい北風が吹いた。佐気蛇は、浜に打ち上げられた海蛇のように静かに伏せている。妻オウ(於宇)の呼ぶ声が聞こえた気がした。オウの人生は二十年だった。佐気蛇はそれより七年も長生きしている。「もう良いではないか。俺もオウの許へ行こう」そんな投げやりな気分が襲ってきた。波の音が少し大きくなった気がした。烏頭が叱責しているのかも知れない。六年前には思いも寄らなかった事態である。
佐気蛇は烏頭の期待が嬉しかった。オウや天雄との分かれは辛かったが、明日を夢見て耐えた。しかし、時が与えた結末は悲惨である。烏頭もオウもこの世には居ない。オクニとの間に横たわる川は深くて渡れない。天雄はその川の向こうにいる。“この川を渡れば溺れ死ぬのか。そうであればいっそ溺れて死のう”そう思ったこともあった。
兄の堅固の声がした。妹ケイキ(恵姫)の声がした。六歳になる姪のカガジョ(加賀女)が佐気蛇を揺り起した。「叔父様、父様と母様がお呼びです。今年のペシコが美味しく漬け上がったから皆で食べましょうとお誘いですよ」と可愛い声で揺り起す。
ペシコ(屁漬古)とは阿人の保存食である。春の産卵前に獲った青魚に塩を振って塩漬けにした食べ物であるが、これがとても旨い。そして、ただの塩漬けではなく豆や穀類を臼で挽いて粉にし発酵させた床に寝かせた物らしい。つまり、酒の仲間のような食べ物である。だから旨くない筈がない。ひと夏をその酒の仲間のような布団に包まれて寝ていた青魚は、今が食べ時である。酒なら六歳のカガジョ(加賀女)に飲ませるわけにはいかないが、これはおかずである。そして、穀類に良く合う。米に糯黍を交ぜ炊いた飯なら尚更美味しい。その色味はまさに黄金の味である。難点はその臭気だが、慣れるとこれも病みつきである。
匂いとは不思議な感覚である。人によって、あるいは時によって感じ方が変わってくる。燃え盛る炎を前に「冷たい!!」という奴は天の邪鬼である。炎は皆、「熱い」や「温かい」と感じる。しかし、匂いは同じ物体が発している同じ匂いでも「臭い!!」と感じる人と「食欲をそそる良い香り」と感じる人がいる。それは、匂いの感じ方がその人の経験や、人生の長さで養われるからかも知れない。だとすれば、「明るい、暗い」「温かい、冷たい」という感覚は、神様に与えられたものであり「旨い、不味い」「臭い、良い香り」という感覚は人が編み出したものであろう。その為、光の神、闇の神、火の神、氷の神はいても、臭い神や不味い神はいない。そう考えると面白く、神様のいない世界だってあるじゃないかと思えてくる。だからと言って巫女の存在を否定する訳ではない。オクニも、ハハキも、ヘキも、そして巫女女王も立派な人達である。しかし、佐気蛇は、少しだけ神様の世界から遠ざかってみたかったのである。
加賀女は、丹場・稲場の族長の堅固と妹ケイキ(恵姫)の一人娘である。そして、悲しみの淵に沈む佐気蛇の唯一の救いである。加賀女と過ごす時間だけが心温もる時である。義兄堅固は、先の安曇磯良烏頭が、若い時に遊女に産ませた子である。烏頭には既に跡取りとなる長男のアサン(阿蒜)が居た為、堅固は日陰の身だった。それを烏頭の弟ウカイ(鳥喙)が引き取った。鳥喙に引き取られた時、堅固はまだ二歳だった。実母がその年に亡くなったのである。だから、堅固には実母の面影がない。ただ、ぼんやりと鳥喙に引き取られたという思いだけが残っている。
ハハキは堅固を実子以上に愛しんでくれた。だから、堅固の母は紛うことなくハハキである。しかし、血縁関係としては佐気蛇と恵姫の兄妹は、堅固のいとこである。その為、堅固と恵姫は従兄妹婚である。つまり、佐気蛇と姪の加賀女との血縁はとても濃いのである。だから、加賀女は佐気蛇に良く懐き、そして二人は良く似ている。佐気蛇は、神様から少しだけ身を遠くに置いたが、加賀女は将来巫女になる身である。だから、加賀女が、佐気蛇と神様を結びつける唯一の糸である。
加賀女の母で佐気蛇の妹恵姫は快活でとても賢い女である。佐気蛇は、母のハハキに似て影があるが、恵姫は父ウカイ(鳥喙)に似たのだろう。鳥喙は、若い頃は放蕩息子で父から勘当されていた。しかし、裏返せば悪童仲間をまとめる快活さもあったのである。何事もくよくよせず明るく立ち振る舞う。だから悪童達も鳥喙を頼り集まってくるのである。その気性を恵姫が引き継ぎ、それをまた加賀女が引き継いでいるようである。オクニの陽気さは、悲しみを踏みつけて立っている陽気さだが、加賀女の陽気さは屈託がない。だから、屈託の淵に陥りそうな佐気蛇には欠かせない存在である。幼き姪加賀女の相手をして遊んでいると、我が身が軽くなり心が晴れる気がしてくるのである。
義兄堅固は、丹場と稲場の沫裸党をしっかりとまとめている。そして堅固は、その全身全霊で佐気蛇をまもる覚悟である。だから、佐気蛇の身が危険に曝される心配はない。不遇の稜威母王佐気蛇は目下のところ臥龍である。その臥龍を起こすのは加賀女である。そして奇しくも、中華の地においても、加賀女と同い歳の少年が波乱の人生を歩みだそうとしていた。名をヂェンユー(真魚)という。ヂェンユーもまた臥龍のひとりである。この年に、泰山郡の副長官を務めていた父を亡くし、叔父に伴われて流浪の旅に出たのである。叔父の名はシュェンミン(諸葛玄明)という。諸葛玄明は流民ではない。豫章郡の太守として赴任する為に旅立ったのだが、その先にひと波乱が待っているのである。その話は後に譲るとして、時代は各地に臥龍を潜ませているようである。それはまた戦乱の世を招く前触れでもある。
濃い藍色の美しい翼を広げ玄鳥が飛ぶ、燕である。小さな身体だが石つぶてより早く飛ぶ。そして上へ下へ、右へ左へと機敏に身をかわし飛ぶ。これを矢で射落とそうというのは神業である。その飛燕が南へ帰って行く。冬が近い。秋が深まった稜威母で第四回の阿倭和平会談が開かれた。今回は稜威母会談である。そして二年振りの開催である。
主催はチュプカセタ王で進行役は高志の美名方に変わり智淀多が務める。美名方はご意見番という役柄である。参加者もほぼ同じ顔ぶれである。ただ、佐気蛇の姿はなく安曇磯良名代としてテンユウ(天雄)が参加している。天雄はまだ八歳である。オクニは裏方に徹し表には現れない。幼い天雄の後見人は阿彦である。
二年振りに和平会談が開かれたのは、辰韓国の情勢を受けてのことである。これまでは経済問題が中心だったが、今回は鯨海における安全保障の問題が中心である。阿逹羅王の崩御に端を発した辰韓国の政変は、儒理皇子が伊都国の王になったことで緊張が高まった。辰韓国のポルヒュ王は本来野心家ではない。これはキドンと儒理皇子、否儒理王との冷戦である。今のところ、辰韓国と倭国が直ぐにでも戦さを始める兆候はない。その点は倭国代表の智淀多が正直に話してくれた。しかし、巫女女王は倭国の軍政改革と海軍強化を指示しているそうである。
巫女女王は、尹家の戦場(いくさば)の巫女である。加えて女王は、辰韓国の王女という地位も持つ。キドン(箕敦)が一番恐れている相手である。尹家の闇は深くて長い。しかし箕氏の闇もまた深くて長い。だから、キドンほど巫女女王の力の大きさを理解し恐れている者もいないだろう。ヘキがポルヒュ王だけでなく、キドンに会っていれば、キドンは、ヘキとオクニの野望を諌めたに違いない。彼女を倒すことは、安全弁を壊すに等しい行為である。チュプカセタ王もそのことを良く理解している。鯨海の和平に巫女女王の存在は欠かせないのである。
巫女女王を良く知るチュプカセタ王は、彼女は覇道に喜びを見出す人ではないと信じている。倭人の中には今でも阿人国を侵略しその富を奪おうと思っている輩も多々いる。それを抑えているのが女王である。本来安曇磯良になる筈の佐気蛇も、高志の大族長阿彦も、彼女の秘蔵っ子である。だから、今のところ鯨海の安寧を破ろうとする者は表面立っては居ない。しかし、稜威母急進派の存在が危ぶまれる。そこで、チュプカセタ王は、鯨海における非戦の誓いを結ぼうと思っているのである。これには、稜威母急進派と対峙している丹場・稲場の族長堅固も異議はない。そんな緊迫した会談を、幼いテンユウ(天雄)はじっと聞いていた。天雄は佐気蛇に似て賢い子である。戦うことの愚かさと、それを避けることの難しさを心身に沁みさせたようである。そして、天雄は戦いの時代を生きていくことになる。
~ 静かなる王 ~
妻の指が髪を撫でた気がした。しかし、それは秋の風だった。それから伊都国の北風は強く吹き始めた。冷たき風の中にキム・チヨン(金智妍)の香りを嗅いだ気がした。「おそらく生きては会えまい」と儒理は心を伏せた。須佐人が「さぁ帰るぞ」と肩を叩いた。儒理は阿多国へ帰る途中である。父の阿逹羅王が歩んだ道と同じである。ただ父とは違い、身体には傷はない。しかし心の傷は同じように深い。
ひと冬を南洋の陽に包まれ過ごした儒理は、翌年春、姉の巫女女王に呼ばれた。前年、中華でファンジンチーイー(黄巾起義)が勃発し東海にも暗雲が立ち込め始めたようである。巫女女王は、伊都国で臼王の補佐をするように命じたのである。臼王も六十九歳の高齢となられた。伊都国は、尹家から分家した伊氏が納める国である。その為、伊氏の臼王を尹家の儒理が補佐することは自然のなり行きでもある。
伊都国、伊奴国、伊美国の伊氏御三家に異議はない。加えて儒理は、巫女女王の弟でもあるが、歴戦の勇者であり、一国を治められるだけの才覚を持った皇太子でもあった。だから、伊氏御三家からは、伊都国王臼の娘スヂュン(伊子洵)姫を娶り、伊都国の皇太子になって欲しいという声が上がった。
儒理皇子は三十一歳の秀麗である。この声に、臼王とパク・ククウォル(朴菊月)王妃は大いに喜び、伊氏一族は諸手を挙げて婚礼を進めた。スヂュン姫は二十三歳になっていた。だから晩婚である。スヂュン姫は、臼王とククウォル(菊月)王妃の血を受け継ぎ、賢くそして美しい。だから、花婿として手を挙げる者は数多いた。倭国中の若君が手を挙げたと言っても大げさではないぐらいである。しかし、スヂュン姫は誰にも嫁ごうとはしなかった。人々は「月の世界にでも戻られるのだろうか」と噂した。
しかし、儒理皇子との縁談にはこくりと頷いた。人々は再び「月から王子様が迎えに来るのを待っておられたのだ」と噂を広めた。翌年、王子が生まれた。臼王は破顔されシュン(伊洵)と命名された。伊洵は、伊佐美王から数えて六代目の直系である。倭国の人々は伊洵の誕生をとても喜んだ。
伊洵が一歳の誕生日を迎えると、臼王は安心したかのように永久の眠りに就いた。伊都国の王は、儒理王となった。儒理王は、巫女女王や須佐人と話し合い、辰韓国との関係を冷却させた。しかし、それは紛争を見据えてのことではない。辰韓国には、チヨン(智妍)もネフェ(奈海)もいる。そして盟友アキラ(秦瑛)もまた辰韓国に留まっていた。これはキドンの配慮であり、倭国に対しての安全弁でもある。キドンもまた倭国との戦争は望んでいない。だから、アキラ(秦瑛)の存在は、儒理王との絆でもある。
儒理王はキドンが、馬韓国のチョゴ(肖古)王と結んでいるように、馬韓国のウラト(宇羅人)との関係を強化しようとしているのである。その為、馬韓国の倭人との交易を高め、惜しみない援助を行い始めた。儒理王は、キドンに多くのものを学んだ。だからキドンの手をまねるのである。勿論キドンもそれを承知している。だから、辰韓国と馬韓国の戦争は、狐と狸の化かし合いのようでもある。戦争の経済学は一方が勝ち過ぎてもいけない。しかし、オクニとヘキには、この狐と狸の化かし合いを理解できていない。だから、一心に巫女女王を倒す道を模索している。
儒理王が倭国に戻ったことで、巫女女王の四方は固まった。須佐人と儒理王に加え、秦鞍耳が居り、そして智淀多が育ってきたのである。この四人は今や倭国の四天王である。第四回阿倭和平会談・稜威母の会談で、智淀多が鯨海周辺部族から非戦の誓いを取り付けてくると、巫女女王は軍制改革と人事の刷新を図った。須佐人を倭国の大首長とし、儒理王を倭国の総理とした。大将軍には秦鞍耳を置き、剣の項権を大頭領とした。倭国海軍も増強された。そしてヤマト(倭)を海軍大将に昇格させ、艦隊司令長官はハイト(隼人)とした。陸軍大将にはクマト(熊人)を就任させ、必要であれば中華との戦いすら辞さない構えを整えた。そして、この改革を進言し指導力を発揮したのは儒理王である。キドンは、改めて儒理王の才覚を思い知り、そして、やはり儒理が辰韓国王になっておれば、自分には御し難かったろうと苦笑した。しかし、キドンの手元にはその才覚の種が残されている。それはネフェ(奈海)王子である。この種をしっかり育てれば辰韓国は揺るがないと確信している。
キドンに勝るものが儒理王にはある。大海である。鯨海交易は須佐人が抑えている。東海交易は、チュホ(州胡)の大族長ガオリャン(高涼)が抑えている。ガオリャンは、前年倭国海軍を辞し、チュホの大族長に就いた。ガオリャンの帰国を得たチュホは、東海交易の要となった。
そして、南海交易は、ハイムル(吠武琉)が伊依島南岸から阿人国の近くまで勢力を伸ばしている。倭国海軍は武装商船団でもある。否むしろこの面が強いと言えよう。だから海軍力の向上は経済発展を伴っている。秦鞍耳の武力があり、須佐人の商才があり、そして内政は剣の項権と智淀多の知性で盤石である。だから、それをまとめ上げる儒理王の政治力が、倭国を東海の一大国に押し上げている。
もうひとつ儒理王がキドンに勝るものがある。それは外交である。そしてその手法はキドンのそれとは正反対である。儒理王の外交信条は誠実である。そして、それを智淀多が実践している。変人の智淀多だが、その外交手腕は右に並ぶものがない。鯨海の海の民も、黒潮の海の民も、地中海の海の民も智淀多を信頼している。それに巫女女王に面と向かって文句を言えるのは、智淀多だけである。智淀多に難があるとすれば、それは未だに独り身であるということである。
徐家の総領タケルが去った今、徐家の後継者は智淀多である。三十路になったというのにこの事態に徐家の一族は頭を悩めている。智淀多は、徐家の男なので美形である。だから、中には男色を疑う者もいるがそうではない。智淀多には好きな女人がいると巫女女王だけは察している。そしてどうやら時を待っているようである。だから、巫女女王だけは心配することなく今日も智淀多をいびり倒している。勿論智淀多には堪えていない。
雪が、晴天の空に舞った。西に雪雲がある。風は西風で強い。だから、雪だけが先に舞って来たようである。頬を紅に染めた少女が、無邪気にその雪を追っている。少女の名はキム・キルメ(金吉梅)という。十六歳だが既に他人の妻である。しかし、夫の顔はまだ知らない。父は、キム・ムチュン(金武春)という名の辰韓国の大臣である。しかし、夫は辰韓人ではない。倭人である。そしてこの婚姻は政略結婚である。既に婚姻の手続きは済んでいるが、キルメ(吉梅)が倭国に行くのは春になってからである。倭国は南の島である。雪が降るのかはまだ知らない。もし倭国に雪が降らないのならこれが見納めである。だから、懸命に雪と戯れているのである。
前年、稜威母で阿倭和平会談があった。そこでこの話が決まったようである。誰と誰が話し合い、自分が嫁ぐことになったのかは、キルメ(吉梅)は知らない。そして、もし知っても自分にはどうしようもないと金吉梅は知っている。だからその経緯は問わない。
その稜威母会談の翌年早春、馬韓国が辰韓国の国境を攻めてきた。辰韓国の大将軍キム・クド(金仇道)は、これを良く防ぎ馬韓軍は敗走した。馬韓国のチョゴ(肖古)王は「倭人兵が裏切ったから負けたのだ」と激怒した。そして、更に倭人を駆り立てた。しかし、倭人が裏切って敗北した訳ではない。ひとつには、大将軍の金仇道が優秀な武人であることが敗北の要因である。更にひとつはチョゴ王の無策さである。王の許には優秀な将軍がいない。それは、王が倭人嫌いに加えて武人嫌いだからである。チョゴ王にとって武人はただの闘犬である。そんな王の許で優秀な将軍が育つ筈もない。
辰韓国の優秀な将軍金仇道は金吉梅の伯父である。伯父のひとり娘オクモ(玉帽)は既に嫁いでいる。だから「どうやら私は、夫になった方と伯父様を結ぶ役目のようだ」と金吉梅は悟った。
春、伊都国の港に降り立った。港には儒理王自らが出迎えに見えていた。金吉梅は、辰韓国皇太子だった儒理王に何度も会ったことがある。儒理王は「美しく成長しましたね」と微笑み迎え入れてくれた。スヂュン王妃もやさしい方で、「遠くから大変でしたね」と労わってくれた。伊洵王子は少し言葉も話せる年頃になり金吉梅に懐いてくれた。
そして、伊都国でしばらく倭国の風習と言葉を習うことになった。先生はパク・ククウォル(朴菊月)王妃である。ククウォル(菊月)様は辰韓国の人である。そして弁韓国で育っている為、三韓語を話せるのである。
初夏、巫女女王に呼ばれた。夫の顔はまだ見ていない。ヤマァタイ国は大きな国だった。山に囲まれた広い田畑は、実り豊かな土地のようである。巫女女王は、噂と違い朗らかな方だった。辰韓国では戦場の巫女として恐れられ、鬼女のような方かと思っていた。嫁ぎ先は大河の川縁に有った。
夫は鯨海の海賊王と謳われる豪商である。舅と姑もやさしい人だった。夫には複数の妻がいる。最初の妻ニヌファ(丹濡花)様は、阿多国に居られるようである。そして、南の大巫女様と崇められている。二人目はアメミチという方で、稜威母の館に居られる。三人目は五十鈴と言われ牡鹿沼の館に居られるそうである。そして、四人目が金吉梅の筈だが、本当はもっと他にも妻がいるのかも知れない。しかし、金吉梅にはどうでも良いことである。金吉梅の役目は、ヤマァタイ国の館を守り、そして伯父金仇道と夫を結び留めておくことである。田植えが終わり夏の日差しが強くなってきた。しかし、まだ夫の顔は見ていない。
父様は、近頃忙しくてちっとも遊んでくれない。だから、六歳のイチキ(市姫)は最近機嫌が悪い。父様の秦鞍耳はとても偉い人になったらしい。周りの人は「イチキ様のお父様は、とてもお偉い方なんですよ」というけれど、市姫は、ちっとも嬉しくないし誇らしくもない。「ちゃんと子供の相手もしてくれない親が偉い筈はない」と、市姫は思っている。
冨彦兄ちゃんは、物わかりが良いので不満は言わない。しかし、市姫にはそれすら不思議でしかない。「私は一生、物分かりの良い人間にはなってやらない」と、市姫は幼い心に決めている。
冨彦兄ちゃんの親友は、佐田彦兄ちゃんと、仁武兄ちゃんだ。三人は本当に仲が良い。佐田彦兄ちゃんの母ぁ様は、狗奴国のヒムカ女王で、仁武兄ちゃんの母ぁ様は、倭国の巫女女王ピミファ様だ。そして、ふたりの兄ちゃんは、母ぁ様に遊んでもらった思い出すらない。何て酷い女王様達なのだろう。だから「ふたりとも、きっと偉い人ではない。だって偉い人は、子供達にやさしい人の筈だ」そう、市姫は思っている。
でも兄ちゃん達は、父様と母ぁ様を、とても尊敬し偉い人だと思っているそうである。何て変な三人なんだろう。「私はそんな物分かりの良い変人には決してならない」と、市姫は決意を新たにしている。
秦市姫の救いは、母ぁ様のフジトメ(藤戸女)が、いつも優しく傍に居てくれることと、四人の兄ちゃん達が良く遊んでくれることだ。四人の兄ちゃんのもうひとりは、佐田彦兄ちゃんの兄様でイツセ(伊襲狭)という。伊襲狭兄ちゃんは、三人よりひとつ年上なので十四歳だ。だからガキ大将である。けど、威張ってはいないし、とても優しい。
仁武兄ちゃんには妹がいる。アヒラ(吾比良)という名で、秦市姫と同じ歳だ。だから、秦市姫の大親友である。そして、仁武兄ちゃんと、吾比良は本当の兄妹ではない。吾比良の父様は、トウマァ(投馬)国の筆頭族長ヒコミミ(日子耳)様だ。そして、母ぁ様は猿田族のサルメ(佐留女)小母さんだ。佐留女小母さんは、伊襲狭兄ちゃんと佐田彦兄ちゃんの叔母さんだ。だから、吾比良とは従兄妹である。ふたりの父様は、佐留女小母さんの兄様で、 猿田族の族長になる人だった。でも、もうこの世の人ではない。伊襲狭兄ちゃんが四歳の時に、伊依島で亡くなったのだ。だから、ヒムカ女王は、猿田族の族長として育てようと、佐留志祖父ちゃんと、宇津女祖母ちゃんの許に帰したのである。
そしてその翌年、佐田彦兄ちゃんも投馬国に帰ってきた。秦市姫は、まだ生まれていなかったので、仕方がないが、もし生まれていたら「何て酷い母ぁ様ですか」とヒムカ女王を叱ってやるところである。
仁武兄ちゃんの父様も酷い人である。仁武兄ちゃんを独り置いて遠くに行ったらしいのだ。だから「私の父様と同じぐらいに酷い親である。父様は、倭国の大将軍らしい。倭国では四番目に偉い人らしい。そして、私がいる宇沙都には殆どいない。ヤマァタイ国という遠い所にいる。仁武兄ちゃんの父様は高志というもっと遠い国にいるそうだ。大切な子供を置いて遠くの国に行ってしまう父親なんて、偉い筈がない。本当に酷い父様達である。プンプン」と秦市姫の怒りは治まらないのである。
アッチチの夏がやってきた。宇沙都の浜も涼を求めて人で賑わっている。秦市姫は上機嫌である。今日は、いつもの皆に加えて、ガオユェ(高月)姉様もいっしょに浜遊びなのである。ガオユェ姉様は高木の神の巫女である。だから普段は那加妻様の許で巫女修行中である。でも今日は許可を貰い、山を下りて宇沙都の浜にやって来たのである。
今日は、幼馴染が集まっての海水浴なのだ。ただ、ガオミ(高米)兄ちゃんだけは居ない。ガオミ兄ちゃんは、今頃お船の上で鍛えられている筈である。宇沙都の浜に集まった幼馴染とは、高木神族の仁武兄ちゃんと大親友の吾比良。猿田族の族長見習い伊襲狭兄ちゃんと弟の佐田彦兄ちゃん。それに、鞍耳族の秦冨彦兄ちゃんと秦市姫の七人である。
倭国海軍幼年兵のガオミ兄ちゃんと、高木の神の巫女ガオユェ姉様は、父様、母ぁ様と離れて暮らしている。二人の父様はガオリャンと言い、今はチュホの大族長である。母ぁ様は山の妖精サラ(冴良)様で、山の民の頭領メラ爺の孫である。だから、ガオミ兄ちゃんと、ガオユェ姉様は、メラ爺の森で生まれ育った。
ガオミ兄ちゃんは、伊襲狭兄ちゃんと同じ歳である。だからふたりはとても仲が良い。ガオユェ姉様は、三つ年下だから、秦市姫や吾比良より五歳年上でとても頼りがいがある。ふたりの父様ガオリャン様は、倭国海軍第二艦隊の提督だった。そして、父様秦鞍耳が最も信頼する部下のひとりだった。しかし、昨年チュホで、ガオ(高)一族の当主ガオロン(高栄)様が亡くなった。そこで巫女女王は、ガオリャン様をチュホに帰したのである。その時、妻の冴良様は共にチュホに帰られた。しかし、長男のガオミ兄ちゃんは、倭国海軍に見習い水兵で入隊させられた。そして、ガオユェ姉様は、那加妻様の許、高木の神の森に入った。メラ爺の森と高木の神の森は境がない。だから自然な流れでもあった。
四人の兄ちゃんは、キス(鱚)釣りに精を出している。宇沙都の浜は、遠浅の海なので鱚が良く釣れる。鱚は癖が少なく上品な味の魚だからどんな料理にも合う。でも秦市姫は、塩焼きが一番好きである。浜では流木を集めて焚火をした。だから、兄ちゃん達が釣った鱚は、ここで塩焼きになっている。
子供達の付き添いは、藤戸女母ぁ様と、吾比良の母ぁ様佐留女小母さんだ。でも、ひょっこりとメラ爺が現れた。メラ爺はいくつになるのだろう。曾孫のガオユェ姉様も知らないそうである。更に「フトダマ様、ここに居られたか」と高木神族のタカムレ(高牟礼)様も現れた。赤い褌一本のお姿である。いくら遠浅の海とは言え、泳ぐつもり満々である。確か高牟礼様は九十歳前後におなりの筈である。孫のヒコミミ(日子耳)様も高牟礼様の正確な年齢は分からないそうだ。
皆は山の民の頭領をメラ爺と呼ぶが、高牟礼様だけは、フトダマ様と呼んでいる。そして、セブリ婆さんのことはヒリトメ様と呼ぶのである。どうも高木の神の信徒だけに通じる呼び名のようである。赤褌姿の高牟礼様が海に入ろうとすると「待て待て」と、ニギハヤヒ族のクラジ(倉耳)様が白い褌一本のお姿で駆けてきた。白褌姿の秦倉耳様も確かこの年で八十六歳の筈である。しかし、泳ぐ気満々である。
今度は「わしゃ、泳がんぞ」と黒い褌一本のお姿でサルタ族のサルシ(佐留志)様が現れた。佐留志様は七十四歳である。黒褌姿の佐留志様は「わしゃ、泳がんぞ。浸かるだけじゃ」と言いながら、どんどん二人を追い沖へと進んで行かれる。元気な爺ちゃん達である。
すると「よっこらしょ。わしゃ泳げんでなぁ」とメラ爺が、秦市姫と吾比良の横に座った。そして「秦鞍耳父様は、もう中ノ海の王様になったかいのう」と秦市姫の目を覗き込んだ。秦市姫は「父様は、酷い人だから王様なんかにはなれません。ねぇ~そうでしょうアヒラ」と吾比良に同意を求めた。「そうかいのう。ワシ(私)の見立てでは、そろそろ中ノ海の王になる筈じゃがのう」と今度は吾比良の頭を撫でて微笑みそう言った。秦市姫は意地になって「父様みたいな酷い人が王様になったら、民は皆淋しい思いをするわ。だから、メラ爺の見立ては外れるわ」と言い放った。メラ爺はますます微笑み「しかし、イチキ姫は、小さい時のピミファ女王に似て、意地っぱりじゃのう」と言った。しかし、秦市姫は「女王様も酷い母ぁ様だから、私は似ません。ねぇ仁武兄ちゃ~ん」と釣りをしている仁武に手を振り、声を放った。しかし、仁武には何の話か分からない。それでもやさしく、秦市姫と吾比良に手を振り返した。「ほう、未来の王達は、どれ程の漁獲をあげとるかいのう」と言いながらメラ爺は、四人の釣り人の方へ歩いて行った。
⇒ ⇒ ⇒ 『第2巻《自由の国》第8部 ~ 北風と南風 ~』へ続く




