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第12章 〜 消えた足音(その12)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第12章 〜 消えた足音(その12)

「用向きはわかりました。身分証明になるものを何かお持ちですかね」管理者は静かにそう訊いた。

 免許証くらいで閲覧できるなら安いものだ、と雄介は内心胸を撫でおろした。右手をジャケットの内ポケットに入れ指でまさぐった。ところが、入れたはずの免許証が指に触れないのだ。

「どうかしました?」管理者はうろたえ気味の雄介に訊ねた。

「ないんです、ここに入ってるはずの免許証が…」

 失くしたとすれば、新大阪駅のコンコースで転んだ時だ。腕時計を壊したあの時、ポケットから運転免許証も転がり落ちたのかもしれない。腕時計ばかり気にして、免許証のことまで頭が回らなかった。

「免許証は持ってるんですが、今ここには…」

「わたしのなら、このバックにあるけど」

 黒い革製のバックをかざして、夏美が口を添えた。

「失礼だけど、ご兄妹?」管理者は訊き返した。

「ほんとに失礼。顔かたち見れば、そんなこと聞かなくてもわかるでしょう。わたしたち、昨日生まれて初めて会ったとこ」

 これ以上、夏美には喋らないでほしいと願ったがすでに遅かった。管理者は迷惑げに表情を曇らせた。

「最近は、手の込んだ素行調査とか、成りすましなんて新しい手口を使って、情報を引き出す輩も多いんです。在校生であれ卒業生であれ、自分が何者かを証明できない限り、とても個人情報の開示なんてできるものではないんですよ」

「神戸からはるばるここまでやって来たんです。なにか方法はないんですか」雄介はなおも食い下がった。管理者はしばし考えを巡らせた後、

「正規の手続きを踏んでもらう以外ないですね」と抑揚のない声で応えた。

「正規の手続き?」雄介は訊いた。

「ですから、弁護士さんに頼むとか、その(すじ)の方から情報斡旋してもらうとか、方法はあると思いますよ」

「そんな時間もその筋も僕にはないし、第一僕が何者であるかを証明するのに、どうしてその筋の人に頼まないといけないんです?」

 これ以上話しても無駄というふうに、管理者は後ろを向きかけた。夏美はその後ろ姿に声をかけた。

「あなたなら自分が何者かの証明が、履歴書を書くみたいに簡単にできるんだ」

 管理者は足を止め、「どういう意味なの?」と問い返す素振りになった。

「どこそこの会社で働く、名前はこれこれで、年は何歳で、家族構成はこんなんで、なんて胸を張ってしゃべりそうなタイプだもの。でも、そんなのは、ただの〈記号〉でしょう。福沢諭吉が刷ってあるから、一万円札、みたいな。そんなデータをいくら集めてコンピューターに放り込んでも、あなた自身が何者なのかの証明になんか、ぜんぜんなってないのよ」

 管理者は肩をすぼめ両手を広げて、あきれ顔で自分のデスクへ戻っていった。

 これ以上長居しても事態はよくならないのは明らかだった。免許証を持たずにやって来たのはこちらの落ち度なのだが、夏美の言葉も一面では真実をついている、と雄介は思う。自分が何者かの証明が免許証一枚の提出で済むことなら、人間は洞窟の壁に絵を描いて以来何万年も、その答えを探して、地球上を彷徨(さまよ)い続ける必要なんてなかったはず。

 夏美のやや飛躍気味の発想や、現実に対する考え方は、とてもしなやかなのだと思う。それでも大きな大学組織の中で長年規則ずくめの事務を仕事としている職員には、まがい物の胡散臭い考えに映ったのかもしれない。

「最後に一つだけ」雄介はその場に残った女性職員に向き直った。

「この写真の人物が、ここを訪ねて来たのかどうか、それだけ教えてもらえませんか」

「そういう質問でしたら、上の方で訊いてもらえますか」

 女性職員は無表情に天井の方を指さし、次に部屋の隅にある金属製の階段を示した。そこを上がっていけば自動的に上の階へ行ける、と教えてくれている。塗料もはげて錆の浮き出た狭い階段が、螺旋を描いて上の方へと延びている。丁度この建物の塔に当たる場所だった。間近に近寄り、首を思い切り反らして上の方を覗いてみた。ここも節電のためか照明は絞られ、螺旋の階段はどこまでも上へと続き、やがて薄闇の中に溶け込んでいる。一度昇り始めると二度とは降りてこれないほどの高さだった。

「この階段を上がっていったら、その先はどうなってるんです?」

 雄介は女性職員に訊いた。すると彼女は、今度は階段の真横にある地階から上がってくる別の階段のステップを指し示した。上へとずっと昇っていくと、やがてここへ至ると言いたいのかもしれない。二次元の平面に三次元の奥行きを感じさせる、エッシャーの絵を雄介は思い浮かべた。

「父は、この階段を上がっていったんですね」雄介は独り言のように呟いた。

「こちらでお答えできることはすべてお話しました。これ以上知りたければ自分の足で階段を上がって、直接上の人に訊いてみたらどうです。機嫌がよければ何か答えてもらえるかもしれません」

 女性職員はそれだけ言い残して、自分のデスクへ戻っていった。まだ何か言いたそうな夏美の手を引っ張り、雄介はようやく古い建物の外へと出てきた。

 新宿の事務所でもそうだったがこの大学でも、父に関する情報を聞き出すのは容易なことではなかった。家で出発前もくろんだ筋書き通りには進んでくれそうもない。どこへ出向いても目の前で厚いシャッターが降ろされ、それをこじ開けるのは並大抵のことではなかった。もう一度やり直すとするなら、振出し地点に戻り、父に関する資料を一から整理し直す。そして新らしい視点で、いわばゼロ地点に立ち戻って父のデータを組み立て直す。自分の父親なのに、肝心の父親についてのデータが、雄介の脳内にはほとんど蓄積されていないのだった。そんな状況の中でこの旅を始めてしまった。これほど面倒な旅になるなら、力づくでも父の体にGPSのチップを埋め込んでおけばよかった、と悔しまぎれに雄介は胸の内で呟いてみる。しかし囚人でもない父の体に、本人の了解もなしに、そんな不穏な拘束具を埋め込むことなどできるわけはないのだった。

 当初予定していた通り、大学の事務局から羽田空港の外縁部へ向かうことにした。手紙に目を通した伯父や春香も、手紙が書かれたのは、飛行機の離着陸が見える空港近くの宿でだろう、と意見が一致していた。河口に近い運河沿いなら釣り客相手の宿もあるし、その部屋の窓から飛行機も頻繁に見えるはず。運が良ければ父の手紙に書かれた、赤い鳥居の股の間から飛行機が空中に止まって見える瞬間に出会えるかもしれない。

 空港の外周へ出向く前にデパートに寄ることにした。壊れた腕時計の代わりを買い求めるためだ。現在時間を確かめようと携帯電話を取り出すのにもたついていると、人ごみの中ではいつ、「ぼやぼやしてんじゃねえ!」と怒声が飛んでくるかもしれなかった。

「そういえばあなた、腕時計はめてるとこ見たことないもんね。しないのがあなたの流儀かと思ってた」

「新大阪駅のコンコースで転んで、その時壊れてしまったんだ」

 夏美はあきれ顔で雄介の顔を見やった。

「就職祝いに父からもらって十年間、ずっと僕の日常を刻んでくれた時計だ。一度の遅刻もなしに会社に行けたのも、その時計のお陰だと思ってる。一日二回飽きもせず、同じところを回り続けてくれたから」

「時計だから当たり前のことでしょう。右回りに飽きてたまに左回りでもされたら、はめてるこちらが迷惑だわよ」

「その時計が、旅の始まり時点で壊れてしまった」

「つまり…」と夏美は雄介の言葉を受けて言った。

「旅のスタート地点で自分の時計が壊れたのには、それなりの意味がある、そう思ったわけね」

 雄介はあいまいに頷いて見せた。

「いいわ。あなたの腕時計、わたしが見立ててあげる」

 大きな交差点を渡って、二人はデパートの前にある大きな花壇近くへやって来た。

 平日のお昼前とはいえデパートの入口付近は行きかう人波で溢れている。空気の抜けた青色の風船が路上を転げ、道行く人の足元にまといつく。レンガ造りの花壇の縁に、黒いスーツ姿の若者が白いシャツをはだけて横向きに寝ころがっている。朝方まで飲んだアルコールが抜けないのか、整えた金色の髪も乱れ、靴もそばに転がったままだ。

 エスカレーターで五階まで上がると時計売り場はすぐに見つかった。宝飾品を扱うフロアのためか、この階は装飾にも贅を凝らしている。シャンデリア風の照明が天井からぶら下がり、床も深い光沢のある大理石の床材が使われている。歩くのをためらわせるほど磨き込まれた床に、天井のシャンデリアが鮮やかに映って、歩いている自分の体が天井に吸い込まれそうな錯覚を覚える。〈ラショードフォンの逸品〉と銘打たれた、落ち着いた色調の陳列棚が壁際に並んでいる。この棚に飾られた置き時計や装飾時計は、どれもスイス仕込みの美術品扱いということらしい。日常の時間を刻む普段使いの時計というより、非日常の一瞬を味わえる美術品扱いされている。それでも客が頻繁に通る通路側のコーナーには、比較的安価な腕時計が白いラックに何本も吊り下げられている。夏美はその中からいくつか、雄介に似合いそうな腕時計を選んでくれた。最新バージョンの黒色のGショックに決めることにした。以前から欲しいと思っていたが、オメガをくれた父親に遠慮していままで手を出せなかったものだ。店員がレジを打ちに行ってるのを待つ間、夏美はさりげなく訊いてきた。

「腕時計って、英語でどういうか知ってるわね」

「ウォッチだろう」

「watchという単語には、もう一つ別の意味がある」  

 知らないというふうに、雄介は首を振った。

「監視する」

 雄介は思わずはっとしてあたりを見回した。

「別にわたしがこれからあなたを、監視するつもりなんてないから心配しないで」

 監視する、監視される、どちらもいい言葉の響きではない。見守る、見守られる、の方がいいに決まっている。どちらの眼が優れているというのではない。欠点だらけの人間が過酷なこの世界を生き抜いていくには、どちらの眼も必要としているのだろう。

 売り場の中央にある細長いショーケースが雄介の目に止まった。鍵の付いたケースの中には、宝石を散りばめた腕時計、そのそばに金色に光る蓋つきの懐中時計も並んでいる。雄介はケースのそばに顔を近づけ、じっと懐中時計に目を凝らした。

「よろしかったら、手にとってご覧ください」

 雄介に釣銭を渡した女性店員は、白い手袋をしてケースの鍵を開けてくれた。まるで絶滅危惧種の生き物でも扱うような慎重な手つきだった。時計の文字盤を覆うための蓋にレリーフが彫られている。雄介の目はその絵柄に吸い寄せられた。

 蓋の中央に馬車用の車輪が一つ大きく描かれている。車輪の下には今にもその車輪に踏み潰されそうに、何人もの逃げまどう我々人間たちの姿が小さく描かれている。人の姿に比べ、車輪の描かれ方は宇宙的な大きさに感じられた。

 このレリーフの元になったと思える写真を、雄介はインド旅行の紀行本で見たことがある。大学最終学年の時行く予定だったその旅も、就職活動のごたごたで結局行きそびれてしまった。それゆえその写真は忘れることのできない一枚になっていた。廃墟となった古い石窟寺院の庭の一角に、崖の切通しのような、高さが人の倍ほどもある石の壁が張り出し、その壁一面にこれとよく似た、廻り続けながら次々と人を飲み込む〈時間(とき)の歯車〉が彫られていたのだ。壁の下方には、天から降りかかる災難に恐れおののく人々の姿があった。そのレリーフは何千年もの時間の中でかなり擦り減ってはいたが、それでもある者は怒り、ある者は呆けた表情で、廃墟の石壁の中を今でも逃げまどい続けている。

 父の持っていた懐中時計は、こんな贅を凝らした蓋付きのものではなく、背面に唐草模様が描かれただけのいたってシンプルなものだった。雄介の記憶に残っているのは、その懐中時計はいくら竜頭を巻いても時間を刻むことのない壊れかけの時計だったということだけ。姉は、その時計がいつのまにか家からなくなっていると言った。それが事実なら、父は自分の携帯電話や運転免許証、それに銀行のカードまで家に置いて、その代わりのようにスクラップ同然の懐中時計を家から持って出たということになる。

 さっそく買ったばかりの腕時計を腕にはめ、二人は地下の食品売り場へ向かった。夏美の説明によると空港の外周では食べ物を扱う店もあまりなく、地下の食品売り場で昼ご飯になるものを調達していくことにした。    

 京急空港線の糀谷駅へと降り立った。駅前の小さなアーケードを抜け、羽田空港の外縁部を目指した。

 多摩川の堤防に沿って南へと下る。届いた手紙に押されていた大田郵便局の消印のせいで、店先の赤いポストが目につくと自然と足が止まった。もしかすると父は、この近辺のポストに投函したのかもしれない。父の歩いた同じ道を、雄介も何日か遅れで歩いている可能性もあるのだった。

 昼ご飯を食べるため昼下がりの小さな公園に立ち寄った。公園は閑散として、若い母親も駆け回る幼児の姿も見られない。公園前の大通りを資材を満載したトラックが地響きを立て行き交っている。二人は砂場近くに置かれた木製ベンチに腰を下ろし、さっそくサンドウィッチとパックだけのささやかな昼食をとった。吹く風に微かに海の匂いが混じった。東京湾に近い多摩川の河口近くまで来たことになる。もうすぐ赤い鳥居の見える場所に至るはず。ベンチに区分地図を広げ、現在地らしい場所を指でなぞった。時折り大きな飛行機が胴体にあるランプを点滅させながら低空をよぎり、鋭いエンジン音を残して飛び去っていく。砂場を流れ去る黒い影を見送りながら、雄介はサンドイッチをかじる夏美に話しかけた。

「姉さんから聞いてるだろうけど、昨日、新宿の金融会社へ行ってきたんだ」

「神戸の家に、変な留守電が入ってたそうね、春香、ちょっと怖そうだった。あなたの家、なんかおかしなことが続くね」

 たしかにおかしなことが続く、と雄介も胸の内でその言葉に同意した。

「そんな所へ行って、収穫はあったの?」夏美が訊いた。

 事務所の印象は良いものではなかった。そこにいる若い社員達も、教師の仕事を長らくやってきた父とは対極で暮らす縁遠い人たちのように感じた。

「そんなヤバそうなとこで、ケガもなしによく無事に帰ってこれたわね。お父さんの手掛かりになりそうなものは何か見つかったの」

 雄介は、事務所で見せられた書類のことを話そうか一瞬ためらった。しかしあの書類が本物からコピーされた真正なものかまだ見極めのつかない段階だ。うかつに口を滑らせれば周りがかえって混乱する。あえて書類のことは口を閉ざしておくことにした。

「そこの所長は僕にこういうんだ。あんたの父親には一度も会ったことはない。この事務所を訪ねて来たこともない、と」

 夏美は意味が分からないという顔つきをして次の言葉を待った。

「つまり僕の親父の名前を書類上で知っているだけで、リアルの父親には一度も会ったことはない、そういう意味らしい」

「じゃ神戸にかかってきた電話は、間違い電話だったわけ?」

 雄介は首を横に振りながら言葉を足した。「姉さんが受けてくれた電話は間違いなく、新宿の所長が掛けてきた電話だった。留守電に入ってたのと同じセリフを、そこの事務所で所長から聞かされたから」

「だったらやっぱり何かの借金の催促電話だったんじゃないの」

「それでもそこにいる間中、お金の返済の話は一言もなかったんだ」

「それなら何のために、息子のあなたを事務所まで呼びつけたわけ?」

 夏美はお手上げを示す仕草で両手を広げて見せた。

「所長は、これから始まる物語の、その予告編を僕に見せるためだと言っていた」

「物語の予告編? 大変なことがこれから本格的に始まる、そういう意味なの?」

「親父の答えの出し方によっては、いよいよ本編が動き出す。僕にそう予告したつもりなのかもしれない」

「夏休みに出される中学校の宿題とはだいぶ様子が違うみたいね。それで宿題の中身がどんなものかその人に訊いてみた?」

 所長との話の中で何度か、宿題の中身について雄介も探りを入れてみた。ところが所長は宿題の中身について詳しい話は聞かされていないようだった。父の答えを急かせるだけで、それが正解かどうか所長には判断できないと言うのだ。これでは所長はまるでエジプトのスフィンクスになった気分で、砂漠を通り過ぎる旅人を待ち構えているとしか思えなかった。雄介はそんなことを思い浮かべて苦笑いしたのだった。

「問題を出す方も、答える方も、どちらもややこしいものを抱えてるみたいね。なんだか世界中がややこしいものを抱え込んで、ひどくこんがらがってきてるみたい」

 夏美はベンチから腰を上げ、両手でジーンズの尻をはたいた。

「ややこしい話はしばらく置いとくことにして、今はお父さんの足取りをつかむのが第一。お父さんを見つければ、どうして家を出たのか、どんな宿題が出されたのか、本人から直接聞き出せるわけだし」

 彼女の言う通りなのだ。父の手紙に書かれた赤い鳥居を見つけ出し、飛行機が鳥居の股の間に貼り付いて見えるポイントを特定する。それができれば父の泊まった宿も明らかになる。宿の関係者に当たれば、そこからの足取りもおのずと浮かんでくることになる。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日