著者プロフィール                

       
第8章 〜 消えた足音(その8)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第8章 〜 消えた足音(その8)

 玄関ホールを抜け、展望室直行のエレベーターを目指した。聞くと展望室は無料だという。

横浜の下宿時代都庁舎はここにはなく、学生の身分では都庁まで出向く機会もなかった。卒業して神戸へ帰り十年余り、父の足跡をたどるうちうち、いつのまにか都庁舎の展望室に昇ることになってしまった。

 平日の昼下がり、全面ガラス張りのホールにはいろんな国の言葉が飛び交っている。東京湾も遠くにうっすらと眺められる。高層ビル群の隙間から、東京タワーもわずかに顔をのぞかせている。

 それにしても広すぎる、と雄介は眺望に圧倒されながら目を見張った。この風景の中から父の足取りをつかむのはほとんど不可能に思えてくる。それでもあの手紙はこの街のどこかのポストへ、父の手で投函されたのだ。明日行く予定の赤い鳥居の股の間から、父は飛行機が空中に停止して見える場所を見つけたのだ。その場所を特定できれば、手紙の中にある意味不明の言葉、〈リクエスト・ポジション〉の意味もおのずと明らかになってくるに違いない。そう信じて一歩一歩進んで行くしかなさそうだった。

 その一歩一歩は、砂丘に落とした玄関のマスターキーを捜し出す作業に似ている。砂を掻いた翌日には、その穴は新たな砂に埋もれ、昨日と同じ作業が待っている。キー一本を見つけるための穴掘り作業は、いつまでも経っても終わりはない。その場を逃げ出そうとしても砂の壁はどこまでも追いかけ、ついにはその砂に埋もれ跡形もなくなってしまう。

 展望室の一角にセルフサービスの休憩コーナーが目に付いた。喉の渇きを覚えた雄介は、自動で淹れたコーヒーカップを持ってソファに腰を下ろした。そしてリュックに入ったデジタルカメラを取り出し電源を入れてみた。液晶画面に映るのは、ひどくのんびりした昼下がりのホールの光景だ。カメラで覗いている雄介に関心を示す人はなく、彼らにとって雄介などいないも同然の存在だった。しかしいないも同然の雄介のカメラが、その場の微妙な変化を捉えていた。見物客が一か所に集まり出したのだ。

 レンズの向こうに、天井から大きなスクリーンが吊るされ、拡大(プロジェク)投影機(クター)の光りが当たっている。マイク片手に女性が喋り始めた。スクリーンには庁舎の竣工前後の街の風景が映し出されている。その絵柄にさほど興味の湧かない雄介があくびをかみ殺した時、下半身が微かに震え出し、思わず体を固くしてテーブルの端を両手でつかんだ。不思議に見物客の様子に変化はない。下半身に伝わる震えもやがてうそのように収まってしまった。

 わぁーという歓声が見物客の間で起こった。見るとスクリーンの真ん中を黒い大きな影が動いて行く。進む方向は東京駅の方らしい。大きな影は東京湾から這い上がってきたモンスターみたいに、体を左右に揺らしながら街並みを次々に飲み込んでいく。離れて見ている雄介からは、投影機の前を横切る人影だとすぐに分かった。しかし揺らぐ影は、中学生の時川原で見た、岩の上に逆光でたたずむ同じ影を思い出させた。はじかれたように雄介はソファから腰を上げ後ろへ退いた。展望ホールにいるのがひどく息苦しく感じられた。リュックにカメラをしまうと、エレベーターの扉を捜して一目散にホールを駆け抜けた。高速だと聞かされたエレベーターの下降スピードがあまりに遅い気がして、このままずっと庫内に閉じ込められそうな怖さを感じた。

 玄関ポーチから走り出て、庁舎のロータリーに並んだ花壇の縁石に腰を下ろした。短い息を吐くうち、ようやく悪夢と(うつつ)の境から抜け出せた気分になれた。何気なく自分の手の甲に目をやると、先ほど公園で走り書きした春香からの伝言が残っている。メモ代わりに記した金融事務所の住所と電話番号だった。そのメモを頼りに雄介は、新宿の街中へと足を進めることにした。

 大ガードを越え電柱に貼られた街区板を頼りに、春香から聞いたビルを捜した。

 他人の金を当てにするのをあれほど嫌らっていた父に、金融関係の団体から電話が掛かってくる可能性はまずありえないはずだった。考えられる可能性は、事務員の入力ミスか機械の故障で、別人と父とが取り違えてられてしまった、そんな場合くらいだ。オペレーターのちょっとした不注意で大変な騒ぎを引き起こす事例など、世の中には毎日どこかで掃いて捨てるほど起こっている。何と人騒がせな、と不平とも不満ともつかぬ独り言を呟きながら、雄介は教えられたビルを目指した。

 大きな通りから何本か奥の道へ入り、四つ角の電柱を見ると、目指す街区板が貼られている。その向こうに、三階建ての雑居ビルが見える。相当年数の経ったタイル張りの建物で、二階の窓に (金融情報センター)と黒色のステッカーが貼られている。間違いない、神戸の家に電話をしてきたのはこの事務所からだ。窓にブラインドが下ろされ、通りから中の様子はうかがえない。一階は買い取り専門のリサイクルショップが入り、店の横に上階へ通じる階段がある。しかし初めての場所にいきなり踏み込むのは考えものだった。ましてや相手が相手なのだ用心するに越したことはない。雄介はひとまずビルの外から電話を入れて、中の様子を探ることにした。

 電話から聞こえてきたのは男の低い声だった。

「金融情報センターの所長、田崎ですが」

 雄介はどう名乗ろうか一瞬迷ったが、

「神戸の野木雄介と言います。午前中に家に電話をもらったみたいで…」それだけ言って、相手の反応をうかがった。

 「…父親とは、ちゃんと連絡取れてるんだろうな」所長は一瞬言葉に詰まったが、挨拶の言葉より先に、いきなり父のことを訊ねてきた。どうやら相手は、父が家から姿を消したことを知っているらしかった。

「どんな用件で、家まで電話をくれたんです?」

「あんたの役目は父親を見つけ出して、答えを早く出すよう説得することだろう。それがどこまで進んだか、私に報告もない」

 まるで雄介に報告義務でもあるような喋り方だった。いきなりの言葉に雄介はムカッと来た。何か言い返したいが、所長の要領の得ない物言いが続いた。

「ですから父にどんな用件なのか、息子の僕にもわかるように話してくれませんか」雄介は苛立って声を高めた。突然土足で家の中へ入られたような不快な気持ちを拭えなかった。

「その訳を知りたければ、うちの事務所まで来れば教えてやってもいい」

 所長と名乗る電話の向こうの男は、父が家から姿を消したことも、現在その父と雄介が連絡の取れないこともよくわきまえている。その上で家まで電話してきたのだ。春香が受けた電話は雄介を事務所まで呼び寄せるための電話だったことになる。この事務所と父とはどこかで雄介には見えない線でつながっている、そう判断するしかなかった。むやみに踏み込むのは危ないが、だからと言ってこのままおとなしく引き下がるわけにはいかない。罠がどこかに仕掛けられているにしても、あえて飛び込んで様子を見るしかなさそうだった。

「お宅の事務所まで行けば、父のことで、何かの情報を提供してもらえるんですね」

「残された時間は少ないんだ。これは比喩でも例えでもない。今からすぐにでも家を出て、この事務所へやってくることだ。そうすれば父親を捜すのに、こちらもできる限りの協力はする。ただし一週間も待てないぜ、ぼやぼやしてたら何もかもが終わってしまう」 所長は強い調子で念を押した。話の中身はうまくつかめないが、かなり切迫した事情がありそうだった。

「僕は息子でしかないですけど、それでもいいんですね」雄介は念を押した。

「いらん心配はするな。ともかくあんたがここまで来ればいい。迷ったらこの電話に掛けてくれれば、新宿駅まで若いのを迎えにやる。いつ頃着けるんだ?」

 所長は語気強く迫った。雄介は多少の危険を冒しても田崎所長に会うのが得策だと判断した。

「実は今、すぐ近くまで来てるんですが」雄介はありのままを伝えた。電話の向こうで息を飲む気配がした。

「それにしてもえらく早い訪問だな。あんたの家は自家用ジェットでも持ってるのか」そう言って所長は含み笑いで誤魔化した。

「たまたま近くまで来てただけです」

 父を捜しに新宿の中央公園まで来ていたとは言わなかった。携帯電話を切ると見えない手で背中を押されるように、雄介はビルの内階段を上がっていった。

 二階まで上がると、スチールドアに〈金融情報センター〉のステッカーが控えめなサイズで貼られている。ドアには窓もなく、廊下から中の様子はうかがえない。軽くノックしていきなり室内へと踏み込んだ。さして広くもない事務所風のスペースにスチールデスクが五脚ほど置かれ、しおれかけた観葉植物の鉢がいくつかそのすき間を埋めている。机の上にパソコンや書類の類は見えず、読みかけのコミックやスナック菓子の空袋が散らかっている。いきなり足を踏み入れた雄介に、五人の若者が一斉にこちらへ鋭い視線を向けてきた。どの顔も来客を歓迎している様子ではなかった。ダブルのスーツ姿もいれば、刺しゅう入りのジャンパーも、耳に金色のピアスをぶら下げた若者もいる。来てはいけない場所へ間違って足を踏み入れたのでは、雄介はそんな気分に襲われた。

「さっき田崎所長に電話した、野木雄介というものなんですが」遠慮がちに言葉を掛けた。  雄介の雰囲気のどこかが、新米の私服刑事か税務署の調査官を思わせたのかもしれない。明らかに相手の警戒信号が灯っている。

「何の用なの?」そのうちの一人が歩み寄りながら尋ねた。

「人を捜してます。その人物がここを訪ねたかもしれないんで」気押されないよう精一杯腹に力を入れた。

「あんた、探偵さん?」

 若者の口調は丁寧だが、どこか棘を隠した喋り方だった。その時、部屋のパーテーションの向こうから男の声が飛んできた。少し乱暴な物言いだが、たぶん先ほど電話に出た人物の声らしかった。

「こっちへ、入ってもらえ」  
 その一言で若者たちの態度は一変した。物腰柔らかく奥の部屋へと雄介を案内しだした。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日