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第7章 〜 消えた足音(その7)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第7章 〜 消えた足音(その7)

 お昼になっても山から吹き下ろす風は冷たいままだった。春香は昼の休憩時間を使って職場から雄介の家へと自転車を飛ばした。堤防沿いの道を走ると遮るもののない山風がまともに頬を刺す。思わず片方の手で、タートルネックのセーターを顎の上まで引き上げた。限られた昼休み休憩だ。スピードを緩めるわけにはいかない。いつもよりペダルを漕ぐ足に力を込めた。

 アンサーの散歩を済ませると、預かった鍵の一つで勝手口を開けた。棚に置かれたドッグフードの袋を取り出し、器に入れた。散歩の帰りで空腹のはずなのに、アンサーは鼻先を器に近づけるだけでほとんど食欲は見せない。犬なりに飼い主の不在を感じているのかもしれない。向かいの野々宮の奥さんが通りの落ち葉を掃いている。お互い目が合ったので軽く頭を下げた。

「この季節は嫌になるね。いくら掃いても一日でこんなになるんやもの」
野々宮さんが箒の手を止めて声を掛けてきた。

「すみません、わたしも手伝いますから」春香も応えた。

気にしないで、というふうに野々宮さんは手を横に振りながら、

「雄ちゃんは? あなたコスモスの里の女性(ひと)やね」と訊いた。

 一瞬言葉に詰まったが、春香は思い切って応えた。

「一週間ほど、旅行に出ることになって。わたし、その留守番役を頼まれたんです」

 野々宮さんは笑みを見せながら軽くうなずいた。

「あなたのことは亡くなった千賀さんからよく聞いてた。実の娘より良くしてくれるって」

いつまでもこういう話に付き合っている余裕は今の春香にはない。どう切り上げようか迷っているうちに、リビングの方で電話の呼び出し音が聞こえた。鳴りやまない電話に春香は思い切って話を切り上げ、小走りに家の中へ駆け込んだ。

 食堂のテーブルに置かれた電話機はすでに鳴りやんで、留守電ボタンが赤く灯っていた。セールスの電話なら録音に切り替わる前に向こうから切るはず。あえてテープに吹き込まれたことに、春香は妙な胸騒ぎを覚えた。
「もしかしたら、雄介のお父さんがこの電話に連絡を…」
そんな考えが一瞬頭をよぎった。恐る恐る受話器を取り上げ、赤く灯る再生ボタンを押してみた。流れてきたのは雄介の父親とはまったく別の、低い男の声だった。
「金融情報センターの田崎だけど」と、録音された声が再生された。
「横浜のオーナーが会いたがってられる。連絡先を言っておくから、手が空いたら事務所へ連絡してくれんか」

声の主はそう告げた。

 準備したメモを読み上げるような素っ気ない喋り方だった。どこか馴れ馴れしく、初めての電話ではなさそうだった。最後に電話番号と事務所の所在地を告げて、その録音は切れた。雄介が帰ってくるまで保留のままにしておくか、すぐにでもテープの内容を雄介に伝えるべきか春香は迷った。しかしぶっきらぼうな男の物言いに、なぜとも知れぬ不穏な気配を拭えなかった。東京からの電話というのも引っかかる。壁の掛け時計に目をやると、昼休み時間はあとわずかしかない。ここはひとまず職場へ戻り、彼には午後の仕事がひと段落した時点で連絡を入れることにした。

 雄介はJRの渋谷駅でいったん電車を降り、駅ナカのスタンドで軽い昼食をとった。サンドイッチとコーヒーで適当に済ませて、時間調整も兼ねこの辺りを歩いてみることにした。

 駅前は再開発が進み、大学時代何度も足を向けた風景とはかなり様変わりしている。スクランブル交差点の向こうに建つビルの壁面に、大型の液晶ビジョンが据えられている。雄介は足を止めその画面に見入った。ビートのきいた音をバックに、タイツ姿の若い女性たちが軽快なステップを踏んでいる。彼女たちは次々と画面から飛び出し、歩道に飛び降りてきそうな迫力だ。カメラの目はそのうちの一人にフォーカスして顔の大写しになり、さらに二つの目だけをクローズアップする。青色の濃いシャドウに金粉で縁取られた瞳が、まばたき一つせずじっと交差点の手前で立ち止まる雄介を見つめている。それは、催眠術をかける魔術師の眼を連想させた。見ていると思わず意識が遠のいていきそうだった。雄介は一度スクリーンから目を逸らせ、再び視線を戻した。するとダンサーたちの姿は画面から消え失せ、入れ替わりに牙をむき涎を垂らしたグレートハウンド犬が何匹も画面の中をうろついている。どこかで指笛が鳴らされた。その音を合図に黒い犬達は獲物目がけて飛びかかるように、画面のこちら側へとジャンプしてくる。奥には黒いコートを羽織った初老の男が一人、こちらに背を向けてたたずんでいる。その男がもう一度指笛を鳴らすと、牙をむいた犬達は途端に猫のようにおとなしくなって、男のそばにじゃれるように集まりだした。 目の前の信号が青色に変わった。流れ出した人波に、画面を見上げていた雄介一人が取り残される形になった。追い越していく若い男が、ちっと舌打ちしてそばを通り過ぎた。その舌打ちに雄介はなぜか、これ以上渋谷の雑踏へ紛れ込む気は失せてしまった。踵を返すと駅前の公衆電話ボックスへと入り込んだ。気持ちを鎮めるように何度か肩で息をした。そして用意したメモを取り出すと、二子玉川に住む藤並さんに電話を入れた。長い呼び出し音が続いたが、電話はようやくつながった。老婦人らしい声が受話器から流れた。

「もしもし、藤並ですけど」

「神戸の野木の息子で、雄介といいます。藤並公平さんが在宅でしたら、変わっていただけないでしょうか」

「どんな御用なの?」警戒するような低い声が聞こえた。

「父宛に今年の正月、賀状をいただいたんです。その件で、お聞きしたいことがあって」

「あら」と少し驚いたふうな老婦人の声が返ってきた。
「うちの人は、お正月の松の内が開けると間もなく、亡くなったのよ」

「亡くなった?」
思わず強い調子で聞き返した。

「脳溢血で、お風呂場で倒れてそのまま。あなた、神戸の野木さんの息子さん?」

「そうです、父をご存知ですか?」

「お名前は、亡くなった主人から」

「名前、だけ?」

「いいえ一度、家に来られたことがあってね。あなたのお父さんは神戸へ移られてすぐに結婚されたでしょう、その報告も兼ねて。その時たしか、金の懐中時計を見せられた記憶があるからよく覚えてるの」

 金の懐中時計? 雄介はその言葉をもう一度口の中で繰り返した。まさか婦人から〈懐中時計〉という言葉が出てくるとは予想していなかった。父は結婚式を挙げてから、その時計を携えて報告がてら藤波氏の家を訪ねたというのだ。雄介が知りたいのはむしろその懐中時計を贈った人の名前の方なのだ。古い話のためか婦人の言葉は途切れがちで要領を得なかった。雄介があきらめかけた時、

「わたし、どうして早く気付かなかったのかしら」
と婦人の声が再び流れた。

「三人は大学で同じゼミ仲間だと言ってらしたから、同窓会事務局へ行けば、主人や何人かの卒業生が手分けして作った、同窓会名簿の最新版があるはずよ」

「お宅で見せてもらえませんか、その名簿。ほかにも効きたいことがいろいろありますし」

「それがだめなの。個人情報とかで事務局でまとめて管理することになってるみたい。時代よねえ」
そう言って婦人は、
「名簿はないけど、何なら今からこちらに寄りなさいよ」と付け加えた。
彼女の気持ちはうれしかったが、後日の訪問を約束して電話を切った。

 電話ボックスを出た時は気分も幾分鎮まり、駅前の雑踏もそう気にならなくなっていた。時間を確かめようと左腕を見ると、いつもの腕時計がない。新大阪駅でころんだ拍子に壊れてしまったのを思い出し、慌てて携帯電話の画面から現在時刻を確かめた。春香の妹の金沢夏美と会う予定時間までかなり間がある。横浜の伯父がぜひ一度は行ってみるべきと勧めた新宿の中央公園は、ここからさほど離れていない。今からそこへ出向いても時間的には十分間に合いそうだった。

 タクシーで行ってもよかったが渋滞に巻き込まれる恐れもあり、目の前のJRの改札に入り新宿行の電車に乗り込んだ。ほどなく回りのビルからさらに図抜けて高い都庁舎の一部が見えて来た。その建築物を目印に、すぐそばに広がる中央公園まで歩いた。途中春香から事務連絡のようなメールが入った。(伝えたいことがあります。手が空いたらこちらから電話するので、しばらく時間をください)

 文面はそれだけだった。丁度公園へ向かっている最中なので、彼女からの電話を受けるには都合の良い場所に思えた。

 遊歩道に沿って園内を奥へと進んだ。樹に立てかけた金属梯子の上で、枝の剪定に精を出す職人の姿が目に付いた。年越しの準備がすでにこんなところでも始まっている。刈り込まれた躑躅(つつじ)の玉がさっぱりした風情で遊歩道沿いに並んでいる。雄介はリュックを担ぎ直して、木漏れ日の差す樹の間を通り抜けて行った。

 奥へ進むにしたがいブルーシートと段ボールの粗末な小屋が目に付いた。樹々の間にかなりの数のシートが張られている。にわか造りの避難所(シェルター)の多さに、雄介は改めて驚かされた。これらの小屋に父が潜り込んだとしたら、捜し出すのはほとんど不可能に思われた。

 遊歩道沿いの木製ベンチに、頭を少し前傾して初老の男が座っている。歩道に映る自分の影となにやら無言の会話中らしく見えた。あずき色のニット帽、手入れされてないゴマ塩の髭、紺色のジャージの上下を着こんでいる。同じベンチのもう片方に雄介は腰を下ろした。ポケットに残っていたのど飴が何個かポケットに残っていたので、その一つを先に自分の口に含み、もう一つを老人に差し出した。タバコの方がよかったかもしれないが雄介にタバコを吸う習慣はない。老人は手のひらに乗った飴の一つをつまむと紙をむきだした。雄介は頃合いを見て、胸ポケットから父の写真を取り出した。

「この公園で、最近こんな人を見なかったですか?」
 人探しのためこの公園を訪れる人は珍しくないようで、老人は慣れた素振りで目の前に出された写真に一瞥をくれた。しかし写真にさして興味も示さず首を横に振るだけだった。

「僕の父親なんです。最近この公園で寝泊まりを始めた人の中に、写真の人物はいなかったですかね」

 普段なら抵抗のあるこんな言葉が、場所柄なのかすらすら口をついて出た。雄介は座る距離を縮めて、もう一押ししてみた。すると老人は、あいつに訊いてみな、と呟きながら、視点の定まらない目をしてたたずむ中年の男を指さした。上等のスーツを着込んで、ゆるめたネクタイを首に掛けたサラリーマン風の男だ。噴水池の滝の落ちる様子にぼんやりした視線を向けている。山手線で普通に見かける中年男性なのだが、公園での寝泊まりが続くのか、その顔はやつれて生気がなかった。

「もう三日も、ああしてうろうろしてる。そのうちそこら辺の樹にぶら下がるな」

 老人は何でもない事のように言葉を吐いた。写真を手に雄介が近づくと、スーツ姿の男はポケットから携帯電話を取り出し、どこかへ掛ける仕草を始めた。よほど言葉を交わしたくないのだろう、遠ざかる際男のケータイの画面に目を走らせると、画面は真っ黒で電池切れなのはすぐに分かった。その男自身が電池切れにならなければいいが、と雄介はいらぬ心配をしながら公園を後にした。

 このまま予約したホテルへ(おもむ)くか、藤並氏の奥さんから聞いた大学の事務局へ向かうか、

迷っているうちに神戸の春香から電話が入った。

「留守電に入っていたメッセージを伝えるから、何かのメモに書き留めてほしいの。メモの用意はいいわね」
彼女は素っ気ない調子で要点だけを手短に伝えた。

 昨日の夜家で見送ってくれたばかりなのに、距離が離れたせいか、彼女の声は懐かしい響きで耳に伝わる。彼女の方はそんな感慨にはまつたく無頓着に、留守電に録音されていたというメッセージを読んで聞かせた。

〈金融情報センター〉の所長と名乗る人物から、横浜のオーナーが会いたがっている、と留守電に伝言が残されていたというのだ。いかめしい名称の事務所だが、雄介には初めて聞く名前だった。これが父宛の用件なのか、それとも息子の雄介宛なのか、録音されたメッセージからは判断できなかった。彼女の言葉通りに雄介は会社の所在地と電話番号を、メモの持ち合わせがなかったので、ボールペンで自分の手の甲に直接書き留めた。

「アンサーはどうしてる?」と訊ね返した時には電話はすでに切れていた。

 電話の主にまるで心当たりはなかった。父宛に掛けてきたのなら、その人物は、父が家から姿を消した事実を知らないことになる。ただの間違い電話か他人の勘違いか、こちらから電話を入れて確かめることもできるが、教えられた事務所の所在地が、今居る場所と同じ新宿にあるという。結局大学の事務局と赤い鳥居は明日行くことにして、この足で春香から知らされた事務所を訪ねることにした。うまくいけばその事務所で、父の足取りに関する手掛かりの一つもつかめるかもしれない。今夜春香の妹に会う予定になっているが、その時刻までには十分ホテルに着けると判断した。

 気持ちにも多少余裕が出てきた。その場で足を止め大きく伸びをした。澄んだ秋の空を振り仰ぐと、視線の先に二つの塔を一つにつなげたようなM字型の高層ビルがそびえている。竣工して十年ほどの東京都庁舎だ。そのビルを見ながら雄介は、幼い頃丘の公園で父に肩車されて眺めた我が家のことを思い出した。父はその時、私の代であの家を新しく建て替えて見せる、とその決意を息子に伝えたのだ。その夢を実現して数年しか経っていないのに、父はひそかに家から脱け出し、この街のどこかへ姿を消してしまった。父に肩車された気分を思い出しながら雄介は、庁舎の展望室から父が潜んでいる街の風景を見渡してやろうという気持ちになっていた。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日