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第2章 〜 消えた足音(その2)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第2章 〜 消えた足音(その2)

「なあ、雄介」伯父の声に雄介は我に返った。壁時計の音が再び耳に届き始めた。「父親の携帯電話に、連絡は入れてみたんだろうな」伯父が訊ねた。

「ケータイに電話も入れたし、メールも何度か送りました。それでもまったく応答はなかったんです。これは後でわかったことですけど、父は自分の携帯電話を机の中に置いたまま家を出ていったんです」

「ケータイを家に置いていった?」伯父は信じられないというふうに目を丸くした。

「置いていったのはケータイだけではないんです。銀行のATMカードとか運転免許証、そんなものまで机の引き出しに残したままでした」

 父の部屋に踏み込んで、机の引き出しを覗いた時の印象は強烈だった。普段から父の許可なしに部屋に入ることはほとんどなかったが、その時は雄介も必死だった。入室の許可をもらうにもその人物は家にはおらず、いわば無断で部屋に踏み込むしかなかった。机の小引き出しを次々と開けていくと、引き出しの一つに父の普段使いの携帯電話が残されていた。個人情報など配慮する暇もなく、震える指で画面を検索していった。しかし画面には雄介が慌てふためいて送った一両日の受信記録が残っているだけで、電話帳などめぼしいデータはきれいに消されていた。父が家を出て行く前に、自分の手で消したとしか考えられなかった。いわば父が自分の手で、アクセス拒否の状況を作り出したのだ。自分の後ろを追うな、そう宣言しているようなものだった。

 家に残されたのは携帯電話だけではなかった。銀行カードや健康保険証、運転免許証までがわざとのように目に付く場所に置かれていた。これらは街中を歩く際、財布の次に欠かせない小道具(ツール)のはず。いわば都会の深い森に分け入るためのコンパスでありパスポートのようなものだ。それらがなければ街は富士の樹海より深い、二度とは外へと出られない迷路の連なりに変わってしまう。

「家を出る時慌てて、置き忘れていったんじゃないのか」伯父は重ねて訊ねた。

「それならこんなにきれいに、ケータイのデータを消す必要もないでしょう。手がかりになりそうなものを、父は自分の意思であえて消していった、そうとしか考えられないんです。それが何のためかはわからないけど」

 GPSの位置情報を検索すれば、その人の居る場所など簡単に突き止められてしまう。そんな事態を想定してやったことなら、これらも不自然なことだとは思えなかった。

「ケータイも奇妙だが、この手紙はもっと訳が分からんな。何度読み返しても同じ個所でつかえてしまう」

 伯父は手に持った便箋の一行を指で示した。雄介と同じ箇所でつかえている。

(リクエスト・ポジション)

 直訳すれば、「どこにいるのか、教えてほしい」くらいの意味なのだろう。そんな暗号とも呪文とも取れそうな一行に、雄介も伯父もが手こずり前へ進めない。聞き流せばいずれは耳から消えてくれる言葉のはずなのに、なぜか父は深く迷わされ続けている。雄介が手紙を何度読み返しても、その真意は浮かんでこないのだった。

「息子にも分からないというなら、長らく英語教師していた父親本人に、これが何の意味なのか直接当たってみる以外なさそうだな」

 伯父は深くため息をつき、万事休すの合図に頭を掻いた。それでも雄介は、この意味不明の言葉を訳せる〈辞書〉のようなものが、家のどこかに、しかもとても身近なところにしまい込まれていそうな気がするのだった。

 吹きつける風に庭の樹々が騒いだ。つけっぱなしのテレビから、この地域目がけて台風が近づいていると報せている。ガラス窓の向こうで、白木蓮の黄ばんだ葉が一枚風に舞った。この樹は母のたっての願いで家を建て替えてからも、移植はされたが同じ庭で元気に育っている。その枝が時折り強い風にしなり大きく揺らいだ。

 伯父は手紙をテーブルに戻すと、気分を変えるようにソファから立ち上がり、飾り棚の上に置かれた家族写真のフレームを手に取った。写真は野木の家の新築記念に撮ったもので、両親も、大阪の消防士のもとに嫁いだ姉も、そして雄介もが真新しい我が家の前でにこやかに顔を寄せ合っている。

「新しく建て替えた記念の写真なんだろう。みんな元気そうな、いい顔してる」伯父は写真に目をやりながらしみじみとした表情を浮かべた。「それから七年しか経ってないのに、こんなことが起こるとはな」と独り言のように付け加えた。

 母は去年の暮れに亡くなった。そろそろ一年になる。その母が生まれ育った建て替え前の家は、実祖父が地元の棟梁に頼んで建てただけあって、雨風に(さら)されながらもどっしりと地面に根付いた風格があった。

 そんな家を父は、取り壊して新しく建て替える道を選んだ。最後まで反対したのは母の千賀子だけで、雄介も姉の冴子もむろん父も、古い家を見限るように現代的な意匠の家に住み変える方を選んだ。父は定年退職を待ちかねたように建て替え工事の依頼をした。自分に課したノーローンの条件を守るため退職金を手にするまではと、温めてきた建て替え計画をこれまで先延ばしにしてきた。それがやっとかなったのだ。

 指で数えられるくらいほんの数日のことかもしれないが、家族それぞれが新しい我が家で、それぞれの時間を順調に刻んでいるように思えたのだ。仮住まい先から戻った父は、人生の大仕事をようやく成し遂げたという自負に溢れた表情を浮かべた。その父が今頃になって、何の前触れもなく家から姿を消してしまった。

「野木の家に婿入りして、ようやく浮かべた弟の会心の表情なのに」

 伯父は写真に目を落としながら呟いた。雄介は入り婿という言葉の意味も朧げにしか知らず、あえて両親に詳しく聞くほどの関心も持たなかった。雄介にとっては両親がともかく仲良くしてくれればそれでよかった。

 結婚前までは父は横浜市内の〈吉川〉の実家で育ち、その家から都内の大学へ通ったことは聞いている。卒業してからしばらくは横浜市内の中学校で英語を教え、生まれも育ちも横浜ということも。それが何の縁からなのか神戸の高校へ職場を変えて、住まいも神戸市内に移すことになったという。次男という身軽さゆえにできたことだろう、と回りの者は口々にそう言っていたらしい。

 和室の調べも片付いたのか、姉の冴子がお盆に湯気の立つ湯呑を乗せてリビングへ入ってきた。彼女も子供を保育園に預けたその足で、大阪市内から車を運転して朝から駆けつけてくれたのだ。湯呑みをテーブルに並べ終わると姉は、雄介に顔を向けて口を開いた。

「覚えてない? 母さんの形見分けしてた時、わたし、父さんからひどく叱られたことがあったこと」

 それなら雄介も今でも覚えている。回りにいた誰もが唖然とするほどの剣幕で、突然父は娘に食って掛かったのだ。

「たしか、古い懐中時計を欲しいと姉さんが言い出した時だったよな。あれだけ本気で起こった父さんを久しぶりに見た」

「ねじも巻けないほど古臭い懐中時計やのに、わたしが欲しいと言った途端、それは母さんの形見ではない。欲しいなら私が死んでからにしてくれ。そう言って、体中から煙が出そうになったんやから」

 たしかに誰もが息を飲むほどの剣幕だった。

「その時計がどうかした?」雄介は訊いた。

「今見たら、しまったはずのタンスの小引き出しから、その時計がなくなってた」

 単にしまう場所を変えたのかもしれないし、不用品としてほかのゴミと一緒に捨てたのかもしれない。

「あんな壊れかけの時計に、それほど騒ぐことではないと思うけど」雄介はさらりと言った。

「引っかかってるのは、あなたが家から持ち出したのやなかったら、父さんしかいないと思って」

 そんな時計に余計な時間は割きたくなかった。姉の言葉に取り合わず雄介は話を進めた。

「それよりつい最近、ご近所の奥さんから、ちょっと気になる話を聞かされたんだ」

 伯父と姉が同時に雄介に顔を向けた。

「ひと月ほど前、朝早く(うち)の写真を撮ってた男がいたらしいんだ」

 向かいの野々宮の奥さんが出勤前の雄介を呼び止め、そんな話を聞かせたのだ。奥さんが男に近づくと、慌てて止めてあった車で逃げ去ったという。空き巣狙いの下見かとも思われたが、男二人が住む家だ。本気で狙うとは思えず、雄介は噂話程度に受け流した。しかし父が家から姿を消してからは、その話がなぜか妙な現実味を帯びて頭に浮上してきた。些細な出来事でしかないのだが、今思うと野木の家に何かが起こり始める、その前触れだったかもしれなかった。

「この家、売る話でも出てるのか?」伯父は思わず身を乗り出して訊いた。雄介は首を横に振りながら応えた。

「あり得ない話です。建て替えてまだ七年しか経っていない新築同然の家ですよ。その家を僕らに相談もなしに手放す話を進めるなんてあり得ないことです」雄介は首を横に振りきっぱりと言い切った。

 新築当時を思い出しても、祝いに訪れた元の教え子や同僚との会話の節々に、新しい我が家への父なりの思いが滲み出ていた。何よりノーローンだと言うのが父の自慢だった。その父がたった七年で、この家を売りに出すなどまったく考えられなかった。

 伯父は姉と雄介を交互に見やりながら、頃合いを見計らって言葉を継いだ。

「二人の考えはじっくり聞かせてもらった。その上でのワシの判断だが、ここは頭を冷やす意味で、しばらく様子を見ることにしては。その内すっきりした顔付きでふらりと家に帰ってくるかもしれん」

 伯父の提案に二人は顔を見合わせた。伯父はさらに被せるように続けた。

「右往左往して騒ぎ立てるより、ここは腹をくくって冷静に構えることだ。野木の家の(あるじ)が、魔法使いの親玉にさらわれ家から消えてしまった、そんな根も葉もない噂が立って困るのは、銀行務めしている雄介の方かもしれんからな」

 伯父の言う魔法使いの親玉が、何を差しているのかわからないが、そんな噂が隣近所に流れて一番困るのは、確かに雄介には違いない。ここはヘタに動くより、頭を冷やして事態を見守る方が賢明なのかもしれなかった。

 テレビ画面には、波のしぶく博多港の岸壁で、激しい風雨に耐えながらマイクを両手で握るアナウンサーの姿が映っている。伯父は湯気の消えたお茶を飲み干しながら、

「今日の所は、これでいったん横浜へ帰らせてもらう。こんな台風がまともに家を直撃したらひとたまりもないからな」と、姉弟の顔を交互に見ながら言った。

「それやったらわたしの車で、伯父さん駅まで送っていく。そろそろ保育園に子供迎えにいく時間やし」

 言いながら姉の冴子も、テーブルの茶碗を片付け台所へ運んでいった。

 上がり框に立って雄介は、靴を履く伯父と姉を見送った。姉は黒皮のポーチに入った車のキーを指で探りながら、思い出したように雄介に顔を上げた。

「整理ダンスの引き出し、自分の目でもう一度確かめておいて。間違いなくあの懐中時計は家から無くなってる」

 雄介はあいまいに頷いておいた。あんな古い時計が、今度の父のことにつながるとはどう考えても思えなかった。竜頭を蒔くこともできず、金色の蓋には長い年月のシミが世界地図のように広がっている。いわばスクラップ同然の懐中時計なのだ。そんな時計を父が家から持ち出したとは到底考えられなかった。

「明日はうちの(ひと)休みやから、もう一度昼から来てみる。日曜やから、あんたも家にいるよね」

「明日?」雄介は訊き返した。「明日は予定が入っていて、朝からたぶん留守にする」遠慮がちに応えた。

「たまの日曜やから仕方ないけど、いつでも連絡取れるようにしといて。そう言えば会社の昇進試験、もうすぐやないの? 母さんとあれほど約束したんやから、今年は大丈夫やろうね」

 雄介は自信なさげに笑みを浮かべた。新幹線の時刻が気になるのか、伯父も何度も腕時計に目を落として車が動くのを待っていた。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日