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第10章 〜 消えた足音(その10)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第10章 〜 消えた足音(その10)

 書類を前に雄介はひどく混乱していた。現実に起こっていることだとは信じられなかった。昼日中、悪い夢の中に突然押し込められた気分だった。テーブルの陰で片手をズボンのポケットに差し入れ、内股の一番敏感な部分をそっとつねってみた。鋭い痛みが下半身を走った。間違いない、これはやはり現実に起こっていることなのだ。

「さっきからあなたがしきりに口にする、オーナーというのはどんな人なんです? その人に頼めば、原本の全部を見せてもらえるんですか?」雄介はなおも食い下がった。

「心配しなくてもあんたの意向は、私が責任を持ってオーナーに伝える」

「その人を、父もよく知ってるんですね? あなたみたいに、リアルで会ったことはない、書類の中で会ったまでだ、そんなことはないですよね」

「私がオーナーから聞いてる範囲では、二人は若い頃の、遊び仲間だったということだ」

「遊び仲間?」雄介は目を丸くした。

「その言葉に抵抗があるなら言い直してもいい。齢はだいぶ違うが、一緒に人生勉強した気の合う仲間だったと聞いている」

 その時デスクの電話が鳴った。電話の音を潮に、雄介はソファから腰を浮かせかけた。所長は受話器の向こうの相手に話し始めた。相手は客の一人なのだろう、その横柄な物言いに、雄介の気持ちは不愉快さを増していく。受話器の向こうで父が口汚く罵られているように響いた。所長は電話口を手で押さえ、隣の部屋に向かってイライラと声を荒げた。

「休憩してる暇があったら、さっさと出かけて仕事してこいや!」

 所長の怒声に隣室からたちまち人の気配が消えた。雄介もその後ろを追うようにソファから立ち上がり、ドアのそばまで近づいた。そして大事なこと思い出したように所長の方を振り向いた。

「最後に一つだけ聞かせてください。見せてもらった借用書の借入額はいくらなんです?」

 所長は一瞬ためらったが、やがて指を二本立てた。

「二百万も!」雄介は信じられないというふうに訊き返した。

「ケタが一つ違う」

所長の張りのある低い声が、即座にそう言い放った。「そんなに驚かなくても、借主のイゾクが今でも少しずつ利息も含めて返してくれている」

 雄介はしばらく足が完全に止まり、口もきけなかった。先ほど見せられたあの紙切れは、二千万もの金を借り入れた(あかし)だというのだ。そんな書類に、三十歳になってそれほど経たない当時の父が、連帯保証人として名前を連ねた。所長はほかにも、〈借主のイゾク〉などとわけの分からない言葉を漏らした。それが何を意味するのか、雄介の頭は空転するばかりだった。頭の中が真っ白になって、これ以上借用書に関わる気力は失せていた。一時も早くこの忌まわしい場所から脱け出したかった。最後の力を振り絞るように雄介は、階段を駆け下りていった。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日