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第6章 〜 消えた足音(その6)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第6章 〜 消えた足音(その6)

 新大阪駅のコンコースは朝の通勤時間帯と重なりひどい混雑に見舞われていた。出勤を急ぐサラリーマンやOL、通学の学生達で身動きも取りにくい。そこに修学旅行の高校生の列が合流すると、広い通路もカーニバル会場のような熱気と喧騒に包まれる。新幹線の入口ゲートを目指した雄介は押し寄せる人波に抗しきれず、シャッターが下りたままの売店の前へと避難した。途切れなく続く人波を唖然と見送る雄介の瞼に、なぜかテレビゲームの一場面が浮かんでしまう。人波が広い通路にのたくっている一匹の巨大な〈龍〉見えてしまう。毎朝車を走らせ会社へ向かう雄介には、目の前に展開する光景は現実のものとは思えなかった。思わずリュックを肩から降ろし、両手で必死に胸に抱えてシャッターの前で身を縮めた。携帯電話片手にヒステリックな声を上げる婦人がじりじりと雄介のそばまで退いてくる。大きなキャリーバックを片手で引きながら婦人は雄介のそばまで押され、それでもケータイを離さず金切り声を張り上げた。

 「早くここまで迎えに来てよ。このままだとわたし、ぺちゃんこにつぶされてしまう」懸命に携帯電話に向かって声を上げた。「わたしがどこに居るかって? そんなこと訊かれても、わかるわけないわよ!」周囲を見回しおばさんは声をさらに張り上げた。

 ここに突っ立っていると二人とも押し潰されてしまう。そんな危険を感じて雄介は一歩足を踏み出した。その途端足の脛に痛みが走った、婦人のバックの角にまともにぶつけたのだ。床に倒れこみ尻を打ちつけた。リュックサックが前方に投げ出されている。転んだ拍子に床にぶつけたのか腕時計のガラスの蓋が割れ、むき出しの数字板の上で秒針が小刻みに震えている。ダリの絵に描かれた半分溶けかけの時計のように、それはもうこの世界の時間を刻む時計ではなくなっていた。

 この腕時計は信用金庫へ初出勤する前日、父から就職祝いにと贈られたオメガの時計だった。大学では専門の経済学とは別に、父の勧めるまま教職課程も取っていた。結局父の望む教職にはつかず、あえて真逆に近い、金を数える仕事を選んだ。それでも父は表立って反対もせず、割と高価な腕時計をプレゼントしてくれたのだ。その時計が旅を始めて早々壊れてしまった。嫌な気分に包まれながら雄介は、ガラスの割れた時計をハンカチでくるみリュックの奥へと押し込んだ。

 座席シートに揺られているうち昨夜からの緊張もほぐれてきた。車内の暖気のせいもあって、米原を過ぎたあたりから睡魔に襲われ始めた。意識はいつしか、浅い眠りの中に入り込んでいた。

 夢の中で雄介は一人、明け方近いどこかの空を飛んでいた…。

 淡いブルーに染った街並みが眼下に広がっている。飛行高度はそれほど高くない。タワーや高層ビルの屋上で、夜が白むまで赤く明滅している高度警告ランプのほんの上空を飛んでいる感じだ。遠く東の水平線が少し白んで、夜明けが近いことを知らせてくれる。

 オレンジ色の操縦服に身を包んだ雄介は、銀灰色に光るセスナ機に一人乗り込んでいた。機影は海岸通りの岸壁を越え、港のはずれに立つ灯台の明かりを目印に、ほぼ一直線に飛んでいる。操縦桿を握る手に、不思議に緊張感はない。

「これは一種の誘導飛行に違いない。居眠りしていてもこの機は、プログラムされた着陸地点まで自動的に運んでくれる」

 雄介はそう信じて疑わなかった。父が家から姿を消して以来感じていた、空中をフワフワ浮遊している感覚は、今の雄介には無縁だった。あれこれ詮索する隣近所の目も、親類中の視線も感じずに済むこの状態の方が、はるかに心地よくそして何より自由だった。

 順調に飛び続ける雄介は、操縦席のスイッチを自動()操縦(ート)から手動(マニュ)操縦(アル)に切り替えた。すると機体は、風のあおりを受け乱高下を繰り返し始めた。夢の中の雄介は小刻みに揺れる機体を立て直そうと、操縦桿をつぶれるほど手前に引いてみた。それでも高度は下がり続け、ついには不規則に旋回し始めたのだ。何度やり直しても制御はかなわず(きり)もみ状態になってきた。冷や汗が首筋を流れ落ちる。目は必死で盤面の〈リセットボタン〉を捜した。しかし一からやり直せる便利なボタンなど、どこにもありはしなかった。セスナ機は現在位置もつかめないまま方向感覚を失い、真っ逆さまに海面へと落ちていく。雄介は声を張り上げた。

「誰でもいい、僕は今どこを飛んでいるのか教えてほしい!」

制御(アンコント)不能(ロール)制御(アンコント)不能(ロール)

 無線交信ボタンを必死に押しながら何度もそう叫んだ。

 岸壁に建ち並ぶ工場の屋根が近づき、銀色のパイプが伸びる製油工場の煙突が見えてきた。真っ赤な炎を吐き出す煙突はすぐ目の前だ…。

 ()ちていく中で、肩を軽く叩かれた気がした。

「お休みのところ恐縮ですが、乗車券を拝見します」

 耳の奥で、男の声がする。雄介ははっと我に返って、座席シートから半身を起こした。黒の制服に身を包んだ列車乗務員が、片手に運賃精算機を持ってたたずんでいる。

「ここは、どこなんです?」雄介はあたりを見回しながら尋ねた。

 笑顔を見せる乗務員は、乗車券の代わりに出てきた乗客の言葉に一瞬いぶかったが、笑顔は絶やさなかった。

「静岡を過ぎましたから、間もなく小田原です。東京駅には11時40分頃到着予定です」

 雄介は新幹線が走っている現在位置を確認したいわけではなかった。それは、車窓を流れる風景からおよその見当はついた。それでも、(僕はなぜこの列車に乗って、こんな風景の中を走っているのか) その理由を確かめたくてつい口から出た言葉だった。乗務員にはそんな質問に答える義務はない。一礼すると後方へと去っていった。

 雄介は流れ去る車窓越しの風景に目をやった。どの田圃でも稲刈りが終わり、稲架に吊るされた稲束が冷気を吸い込んで重そうに垂れ下がっている。のどかなとても穏やかな田園風景だ。

 座席シートに伝わる揺れが変化しだした。長い鉄橋を通過している。窓の外に目をやると広い河原が見えてきた。水かさが減って地肌を見せる中州には、青いビニールシートや段ボールの切れはし、枯れ枝のかたまりなどが乾いた泥にまぶされあちこちに散らばっている。

 「昔から人は見た夢から、その日の吉兆を占ったという。長い旅に出るときは特に、前の晩見た夢が大事にされた。それではさっき見たセスナ機の夢には、どんな意味が隠されてたんだろう…?」そう呟きながら雄介は目を細め、鉄橋の向こうに広がる河原に目をやった。

 水嵩の減った中洲では一羽の白鷺が身じろぎもせず浅瀬の一点に見入っている。白鷲は悟りを得た老太師のように動かず、何かを考えているふうに見える。たとえば人生のはかなさについて、川の流れの無常について。実際は、視線の先にある川魚に意識を集中しているのだとしても、白色の鳥は雄介にとって何より好ましいものに映った。

(あの夢は、やはり吉だ! )と胸の内で呟いた。

 その時、鉄橋と交差するように細長く伸びた堤防が見え始め、土手沿いに植わった葉桜の陰からカラスが二羽大きな羽を広げて飛び立った。彼の目は今度は黒いカラスを追い始めた。もう吉の(しるし)でも凶の徴でもどちらでもよかった。旅の初めから弱気にだけはなるまい、そう心に決めて飛び去るカラスを目で追っていた。

 終着の東京駅まで乗らずに、品川駅で新幹線を降りることにした。父に年賀状をくれた藤並氏の住む街が、車中で広げた区分マップによると二子玉川駅から近い場所にあることがわかった。そのため品川駅で在来線に乗り換え、渋谷駅へ向かう方が早いと判断した。新幹線の自動改札口を通るとすぐに雄介は、さあこれから始まるぞと腹に力を入れ気持ちを引き締めた。

 品川駅の広いコンコースを在来線のホームへと急いだ。時折り背後に視線のようなものを感じて、出て来たばかりの新幹線改札口を何度か振り返った。父の後ろを追いかけてここまで来たはずなのに、いつの間にか自分が何者かに後ろを追いかけられている、そんな視線を感じて仕方なかった。いつもとはまるで違う場所に立っているという緊張感がそう思わせたのかもしれない。コンコースに設置されたカメラが、自分だけに照準を合わせている気がしてきて、物見游山の旅には無縁のずしりと重い緊張感に体中が包まれていく。

 エスカレーターで在来線のホームに降りる前に携帯電話を取り出し、横浜の耕一郎伯父さんに連絡を入れた。

「雄介です。今、品川駅に着いたところです」

「思ったより早かったな。さっそく今夜にでも家へ寄ってくれんか、話したいこともいろいろあるし。夕飯は用意しておく、久しぶりに一緒に食おう」

 雄介の早い動きに、心配した伯父もどうやら喜んでくれている。

「伯父さんが帰ってから、東京に住んでいる藤波さんという人からの年賀状が見つかったんです。親父の大学時代の友達らしいんで、これからその人を尋ねようと思ってます」

「その線を追うのもいいが、時間が余ったら新宿の中央公園へ行ってみてくれんか」

「新宿の中央公園ですか?」雄介は予想もしない言葉に思わず訊き返した。

「こっちへ帰ってから、近所の人の噂話を集めてみたんだ。中に、一年ほど父親が姿を消した家族があって、都内を捜し歩いているうちその公園で、一年ぶりに行方不明の父親が見つかったというんだ。あの公園はとても住みやすかった、と本人は言ってたそうだ」

 そんな話が実際にあるのなら、一度行ってみる価値はある。ただ雄介にも心づもりの場所がいくつかあり、特に父の手紙に書かれた赤い鳥居の立つ場所にまず行ってみたいと思っている。その場所に実際に立って、飛行機が空中に貼り付いて見える場所を特定できれば、父がその先たどった道筋が見えてくる気がしていた。

「赤い鳥居が見つかったら、近くの宿を何件か当たって見るつもりでいます」

「銀行のキャッシュカードまで家に置いていってるんだろう、旅館にずっと

 泊まるのは無理かもしれんが、それでも当たってみてもいいかもしれん。わしももう少し足腰がしっかりしてれば、一緒に動けるんだが」

「足で稼げることなら遠慮なく言ってください。明日にでもさっそくその公園に行ってみるつもりです」

 途中で何かあればすぐに連絡する旨伝えて、雄介は電話を切った。

 そう言えば、新宿の中央公園には今でも相当数のホームレスが暮らしているとテレビでやっていた。長く居そうな住人を見つけて、父の写真を見せれば何かの反応が返ってくるかもしれない。自分の足跡を消したいなら旅館やホテルは使うな、公園で野宿するに限る、そんなセリフを聞いた覚えもある。中央公園へ出向くにしても、その前に父と毎年年賀状の交換をしている藤並氏と連絡を取りたい。底も父の立ち寄り先としては可能性の高い場所だ。今夜のホテルの予約もまだ入れていない。東京へ着いても片付けなければならない細かな作業は山済みだった。ホテルが決まれば、春香の妹がそこへ訪ねてくる手筈になっている。あまり貧相な宿泊場所では格好がつかない。かなり奮発してその場から携帯電話で予約を入れた。今夜泊まる場所も決まり、雄介は新幹線を降りて初めてほっと大きく息を付くことができた。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日