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第9章 〜 消えた足音(その9)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第9章 〜 消えた足音(その9)

 通された部屋は所長室兼会議室だという。部屋の片方に大きな木製デスクが据えられ両肘椅子に五十がらみの男が座っている。この男か先ほど電話に出た所長らしかった。デスクには大きめのパソコンが置かれ、そこに四分割した画面が映っている。雄介が階段を上がる姿もドアを開ける様子も、この画面でモニターされていたことになる。

 所長は雄介と二回りほど歳は離れていそうだが、見た目は若作りにしている。髪を丁寧に撫でつけ、カラーシャツの上に高級そうなスーツを着て。顔の色つやも良い。デスク近くには本皮張りの黒のソファセット、その向こうには長細い会議机が並んでいる。長机の上を携帯電話の充電用コードが、絡まりながら何本も走っている。

 ソファに移動した所長は、雄介にも座るよう促し名刺を差し出した。金融情報センター所長、田崎昭雄である旨印刷されている。

「あんたが野木さんの、息子さん?」
田崎所長は雄介の顔に探るような視線を注いだ。表向きの物腰は柔らかで、時折り口の端に笑みを浮かべる。しかしその眼は少しも微笑んではいなかった。

「神戸の僕の家に、電話をもらったそうで」雄介は精一杯平静を装って口を開いた。

 所長はおもむろにうなずいた。

「先ほどの電話で、父の答えを早く欲しい、そう言いましたよね」雄介は重ねて訊いた。

 事務所の名称から、仕事内容のおよその見当はついていた。金融を扱う業者に呼び出されて一番に(ただ)されることは、借金の返済方法に決まっている。ところが所長はそれには関心がないような話の運びだった。いつまでも本論に入ろうとはしないのだ。

〈何のために僕を、こんな所まで呼びつけたんだ〉

 大声でそう叫び出したい気分を必死て押しとどめ、気を鎮めながら胸ポケットに指を差し入れた。

「僕の父です。最近ここへ訪ねてきましたよね」

 所長は差し出された写真を仕舞うように、手を横に振ってみせた。

「あんたの父親の写真を見せられても、私には別段意味はないんだ」

「意味はない?」所長の意外な言葉に、雄介は訊き返した。

「これまで一度も、あんたの父親の実物(リアル)にお目にかかったことはないんでね」

「そんな人がどうして、神戸の家の電話番号まで知ってるんです?」雄介は気色ばんでおのずと声が大きくなった。  所長は手で制しながら言葉を継いだ。

「会ったことは一度もないが、あんたの父親の情報なら大体のことは掴んでいる。息子の知らないことでもな。それに神戸の信用金庫に勤めているあんたのことも、ある程度の情報は集めさせてもらった。何なら配属先の課長の名前を言ってみてもいい」

 雄介はぞっと体が縮まった。所長は余裕の笑みをその顔に浮かべた。どんな秘密でもたちどころに集められる、そんな優越の表情を隠そうともしない。

「あんたの父親が数日前から姿を消しているのは、私も承知している」所長は答弁書を読み上げるような調子で淡々と続けた。「それでも父親と息子なら何か秘密の方法で連絡を取り合っている、そんな可能性も捨てきれんのでな」所長はそう言って、鋭い視線を雄介に投げかけた。

 父と一度も会ったこともないのに、父の情報のかなりな部分を掴んでいるという。雄介は思わず、父から来た手紙のことをこの場で持ち出そうかと考えた。しかし会ったばかりのこの男に見せるのは危険すぎると思い直し、あえて手紙のことには口をつぐんだ。いらぬ詮索をされれば、事はさらに面倒になっていきそうだった。相手の出方を図るようにお互い口が堅くなった。やがて所長が、

「ここはひとつ相談なんだが」と、にこやかな笑みを浮かべながら口を開いた。
「あんたも神戸からはるばるやって来てくれたんだ。こちらの手数もだいぶ省けた。このまま手ぶらで返すのも悪い。よければ、ためになる書類を見せてもいいんだが。父親に関するとびっきりの情報だ。お互い困った時は助け合わねばな」

 所長はしばらく雄介の反応を待った。雄介が望めば、この場で有力な情報を提供してくれるつもりらしい。雄介は即答しかねた。ためらいながらさして広くもない部屋を見まわした。入口の部屋もこの場所もどこか胡散臭げな雰囲気で、あれほど借金を嫌う父とはおよそ対極にある場所のように思えた。

 さっさとこの部屋から出て行きたかった。これ以上の係わりは持ちたくなかった。所長の口車に乗れば、その先にどんな罠が仕掛けているかわからない。甘い言葉に乗せられて後で泣くのは、いつも弱い方なのだ。考えればひと月ほど前、神戸の我が家の写真を撮らせたのも、この所長の指示ということもありうるのだった。

態度を決めない雄介にいら立った所長は、

「こんな簡単の答えも、すぐには出せないのか」と恫喝するような調子て迫った。

「書類を見せてもらうか決める前に、はっきりさせておきたいことがあるんですが」雄介は慎重に言葉を選んだ。

「何のことだ?」所長は鋭い視線を向けてきた。

「ひと月ほど前、うちの家の写真を撮ってた人がいたんです」

「それが?」

「ですから、地元の不動産屋に頼んで写真を撮らせたのは、この事務所の指示かと思ったもんですから」単刀直入に雄介は訊いた。

 所長は悪びれたふうもなくすぐさま、

「写真一枚にえらくこだわってるが、今時カメラに映るのが嫌なら、一歩も街中を歩けやしないぜ」と切り返した。

 雄介は天井の隅に目を這わせながら語調を強めた。

「父がここへ来たことはないと言いましたよね。それならあのカメラにも父の姿が映ったことはないんですね」

 所長は曖昧にうなずきながら言葉を足した

「父親の映った映像はない。それは誓って言える。しかし父親の名前の載ってる書類なら、この場であんたにも見せられる。せっかくここまで来たんだ、その書類を見ていかないか」

 しり込みすればするほど、所長は語気を強め迫ってくる。ここへ雄介を呼び出したのも、父親の名前の載っている書類を見せたかったためだろうと気づいた。息子と手を組めば、父を早く見つけた出せる、そう踏んでのことかもしれない。

「その書類の中に、父の足跡がはっきり残ってる、そういうことなんですね」

「相当古い書類のコピーだが、目を通す価値は十分ある。見て後悔することはない」

「コピー?」雄介はさらに問うた。

「オリジナルは別の場所に保管されている。原本が見たいなら、父親に頼めば何とかなるはず。あんたの家のどこかにも、原本の一通はあるはずだから」

 回りくどい話などさっさと切り上げ、この場を後にしたかった。

「さっさと決めたらどうだ。時間はいつまでも待ってくれないぜ」

 その言葉に雄介は首を縦に頷けた。父の名前の出ている書類を見せるという所長の言葉に抗しきれなかった。所長はさっそく壁際に設けられた最新式のスチール金庫の前に立った。ずいぶん高価そうな指紋認証式の真新しい金庫だ。所長が扉のキープレートに指を置くと開錠される仕組みらしかった。

 書類のコピーが、テーブルの上に広げられた。雄介は手を伸ばして近くに引き寄せようとした。すると所長は何を思ったのかテーブルの端にあったガラス製の灰皿を書類の真ん中にどんと置いたのだ。最初何をしているのか分からなかった。しかしすぐに書類の真ん中を隠すためだと理解した。クリスタル製のかなり大きめの灰皿だった。そのせいで書類のほとんどは隠され見えなくなった。わずかに冒頭の〈借用書〉の文字と、末尾の数行の署名欄がが読み取れた。末尾には連帯保証人の欄があって、住所と氏名、押印までされている。目を凝らすとそれはまぎもなく父の旧姓〈吉川耕市〉のサインだった。〈吉川〉は父の結婚前の姓であり、筆跡もコピーとはいえ見慣れた父の字に違いなかった。住所も横浜の実家の住所になっている。どうやらこの書類は、父が神戸の野木の家に婿入りする前に作られた借用書のコピーらしかった。真ん中に置かれた灰皿のせいで、肝心の借主が誰なのかは読み取れない。所長が灰皿まで使って、それでもこの書類の存在を見せたかるその意図が、雄介にはまるで理解できなかった。

「灰皿を、どけてもらうわけにはいかないんですか? 書類の全部に目を通したいんで」
雄介は灰皿を指で示しながら口を尖らせた。

「オーナーの指示で、これ以上は見せられない。いずれ指示が出れば、全部見せることもあり得る」

 所長の口から「オーナー」という言葉が出てきた。所長の話しぶりから、その人物が事務所の実質的な経営者だと思わせた。

「こんな古い書類を見せて、オーナーという人はいったい僕にどうしろというんです?」

 雄介は不信感をあらわにした。目の前に展開している事象がうまく呑み込めず、バラバラのまま頭の中で一向につながっていかない。所長は、用意していた文章を読み上げるように言い渡した。

「父親と連絡がついたなら、宿題の答えを早急に出すよう、あんたからも本人によく頼んでほしい。それがオーナーのたっての願いだ。残された時間は少ない、ぼやぼやしてたらすべては終わってしまって、あんた達もせっかくの好機を失くしてしまうことになる」

 所長は一方的に、まるで判決文を読み上げるような調子で言い渡した。

「そんなに急ぐんなら、僕をこんな所まで連れ出さなくても、あなたが直接父に会って頼めばいいことでしょうに」
雄介は皮肉げに声を高めた。

 所長は動じる気配もなく続けた。 「それができないのは、あんたが一番よく知っているはず。父親がどこに姿を隠したのか、実の息子でもつかめないんだ。念のため言っておくが、このままいくと父親の名前が、不良債権者として信用情報に載ることになる。いわゆるブラックリストだ。そうなれば金融関係に勤める息子のあんたの仕事にも影響してくる。そんな事態を避けたいなら、答えを出すのを急がせることだ」

「僕を脅してるんですか」雄介はさらに声を荒げた。

「脅してるんじゃない、急いでるんだ。そこをわかってほしい」

「それなら灰皿で書類を隠すような真似などせず、もっとオーブンにすればいいじゃないですか」

「私もあれこれ努力はしている。しかし今のところ、ここまでで精一杯だ。いずれオーナーの指示が出る。その時までは、これから始まる本編の、それの予告編を見せられたと思ってくれたらいい」

 一部を見せただけの書類は、これから雄介親子に降りかかる本編のための、その予告編だということらしい。ところか、肝心の本編がいつどんな形で始まるのかーそれとも本人達が気づかぬうちに、それはすでに始まっているのかーそれ以上は口をつぐんで何も応えてくれない。所長の言う、〈オーナー〉というのはどんな人物で、なぜそれほど答えを急ぐのかもわからない。そもそもオーナーが父に出した宿題とはどんなものなのか、そのヒントさえ掴めないのだ。問題がどんなものかわからないなら、雄介にもその答えを導きようはないのたった。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日