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第5章 〜 消えた足音(その5)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第5章 〜 消えた足音(その5)

 昨日はまれにみる最悪の一日だった、と台所に立った雄介は思う。河川敷での二人の会話を思い返しながら、ため息まじりにサラダに盛り合わせるキャベツを刻んだ。昨日は彼女の言葉にムキになって言い返した。しかし一晩経って冷静になってみると、彼女の言っていたほうが正しいのでは、そう思わせる場面もたしかにあるのだった。

 一途に、祈るよう気持ちを込めて、何かを待ち続ける、そんな事態に直面することも人生には何度かあるだろう。しかし何かを待ち続けながら堂々巡りの悪循環の渦に落ち込んでしまうなら、たとえ一人になっても、誰の承認を得られなくても、さっさと新しく歩き始めたほうが良い結果にたどり着けることだってあるのだ。月曜の朝特有の重くうっとうしい気分の中で、雄介はそう考え始めている自分に気づかされた。

 雄介が勤める信用金庫は、隣町の駅前に本店を置いている。中級社員への登用試験を受けるよう何度か上司からも勧められたが、まだ良い結果は出せていない。それも、母の亡くなる際の彼女との約束で、今年は是が非でも合格しなければならない。雄介は大学時代、横浜の耕一郎伯父さんの家に下宿しながら東京都内の私立大学に通っていた。そして卒業と同時に地元の神戸へ戻り就職先を捜した。何社目かでなんとか今の信用金庫に就職することができ、父はさっそく祝いの品として腕時計を贈ってくれた。割と高価なオメガの時計だった。それ以来十年余り可もなく不可もなく、もちろんめざましい出世もすることなしに、雄介は無難に会社での仕事をこなしてきたつもりだ。

 出勤の日は午前八時頃、中古で買った白色のワゴン車を運転して家を出る。今朝も行きがけに玄関ドアを施錠していると、いつもとは違う気配に思わず後ろを振り向かされた。見ると庭の隅にある犬小屋から、アンサーがうずくまったままこちらをじっと見つめている。二年前、近くの河原で父に拾われた茶色の雑種犬は、父から〈アンサー〉という妙な名前をもらい、名付け親である父に家族で一番なついていた。反対に、息子の雄介の存在は、無視するような態度をとり続けた。アンサーのいつもとは違う様子に、雄介は犬小屋に近づき腰をかがめた。

「なあ、アンサー」

 吠え声を立てられないよう頭を撫でながら、犬の目をまっすぐ見つめた。 「答えてほしいんだ。あの日の朝、お前と親父は川原で、何を話したんだ? お前に、僕には語らなかった何かを聞かせたはずだ。 それから何時間かして、親父は家から忽然と姿を消してしまった。コツゼンって意味、わかるよな」

 犬のアンサーにその問いに答える言葉の持ち合わせはない。茶色い毛並みの喉の奥からくぐもった声がするだけだった。

 地方道と国道が交わる大きな交差点の手前で、信号待ちのためブレーキを踏んだ。この交差点を左に折れると、十分ほどで駅前のロータリーに出る。その一角に雄介の勤める信用金庫の本店があった。

 カーラジオから「朝のコーヒータイム」という通勤途上でよく聴くFM放送が流れている。なつかしいナンバーから一曲、とパーソナリティが告げた。古いロックのナンバーが流れ始めた。学生の頃何度も聴いたなつかしい曲だ、その曲に耳傾けながらルームミラーに目を遣ると、直属の上司である管理課長の車がすぐ後ろについていた。二人はたいがいこの時間帯に同じ交差点を通過して会社へと向かう。後ろの車も雄介に気づいている。四十をとうに過ぎた男が左手でVサインを作って、フロントガラス越しにその指を二三度振って見せた。

 その時、信号が青に変わった。雄介の両手はなぜか固まったようにハンドルを左に切れない。車は右折レーンから交差点の中央まで進むと、会社とは反対方向へと走り出していた。

 国道をそのまま走ると、白のタキシードに黒ぶちメガネをかけた恰幅のよいおじさん人形が店の前に立っている。見慣れたいつもの立ち姿だ。雄介は調子のよい朝はこの店で、おじさん人形相手に朝のミーティングをすることにしている。今朝は店に入る気分にもなれずそばの専用駐車場に車を留め、シートに腰を預けたまま窓を全開して車内の空気を入れ替えた。車止めのブロックの向こうには稲刈り前の田んぼが黄色く波打ち、その真ん中に両端を竹竿で吊るされた〈雀おどし〉の大きな目玉が風に揺れている。黄色いビニール地に黒い大きな目玉が、おいでおいでをするみたいに上下している。あんな眼を昔どこかで見た気もするが深くはこだわらず、その目を睨み返しただけで車のアクセルをふかせその場を離れた。

 回り道をしてしまったが遅刻することもなく出退用の磁気カードを通すことができた。雄介は自分のデスクの前に来ると、小引き出しから〈休暇願〉の用紙を取り出し、行先、期間など所定の事項を書き入れた。先に席に着いていた課長のデスクに近づくと、〈休暇願〉をそっと差し出した。

「どうしたんや、さっきは?」

 交差点での出来事を課長も不審に思ったのだろう、届けに目を通しながら尋ねた。

「ちょっと、急に思い出した用事があって」彼はお茶を濁した。

 課長は届けにちらっと眼を通して眉を寄せた。

「ちょっと長いな。五日間とあるけど、土曜、日曜を入れると一週間か」

 説明する必要があると考え、雄介は口を開きかけた。すると課長は手で制するように、

「知ってるよ、お父さんのことやな」と訊いた。雄介は驚いて目を見張った。

「この手の話は、びっくりするほどの速さで世間に広がる」課長は内密の話でもするみたいに、耳を近づけるよう手招きした。「他人の噂話は、こんな風に昔は耳打ちして流したもんやけど、最近ではパソコンやケータイ、フェイスブックとかいうものまである。他人の噂話にラップはかけられんのや」

「ラップ、ですか?」意味をつかみかねて雄介は訊いた。

「透明なビニールのラップ。自分を隠してるつもりでも、やっぱり裸に近い格好で誰もが毎日暮らしてるってこと」

「一昨日、父から手紙が来たことも…?」

「そこまでは知らんよ。でもな、実際あったことより、あってほしいことの方が先に作られて、物事が進んでしまうこともありうる、そう言ってるんや」

考えれば怖い話だが、雄介の決心はもう揺らがなかった。丁寧に頭を下げ、自分のデスクに戻ろうとしかけた。それを追うように課長は、

「野木君は今年の昇任試験、当然受けるよな」と念を押した。

「受験の申し込みは済ませてますけど」雄介は応えた。

「試験の日まで、そんなに日数ないけど大丈夫やろな。この課にいたもので、今まで落ちた者は一人もいないんやから。いま話した、バンカー業務とソーシャル・ネットワークの今後について、今度の試験に出るかもわからんから家でもチェックしておくようにな」

 課長に向かって、雄介はどうにか笑顔を作って見せた。

 昼休み、社員休憩室のベンチで、春香にメールを入れておいた。「明日の朝、出発します。詳しいことは今夜、電話をくれたときに」
 メールを送信してから、東京でのホテルの予約も、新幹線のチケットの用意もできていないことに気づいたが、もう後戻りする気は起きなかった。

 会社を定刻に退社した雄介は、帰宅するとさっそく旅の支度にかかった。仏間に入り袋戸棚にしまわれた黒地のリュックサックを取り出した。亡くなった母がビニール袋を二重にくるんで保管してくれていた。七年前に家が建て替えられるまでは、天井近くまである仏壇が壁の中央に据えられていたが、新しく建て替えられたとき大きすぎる仏壇は居場所を失い、中古品としてタダ同然で仏具屋に引き取られた。現在、和室の隅にある仏壇は二回りも小さいものだ。白木の棚にフレームに入った母の写真が飾られている。彼女が亡くなって来月で丁度一年になる。雄介は写真の母に向き合うように腰を下ろした。

 母の調子が崩れ出したのは、古い田舎家から現在の新しい家に建て替えられて五年ほど経った頃のことだ。六十半ばの母に、脳萎縮症(老人ボケ)の兆候が出てきたのだ。見舞いがてら様子を見に来た実の妹の多恵叔母さんとケーキをつまみながら、翌日にはケーキを持ってきた実の妹のことを、「亡くなって、どれくらい経つのやろ」と、父に真顔で尋ねることもあった。その頃から母の頭蓋の細胞は消しゴムで消されるように日に日に消滅し始め、限りなく〈無垢(イノセント)〉の状態に近づいていった。痴呆の第三期症状になると、担当医の話では、〈見当(けんとう)(しき)〉の消失が始まるという。つまり最晩年の母は、〈今がいつなのか、ここはどこなのか、そして私とは何者なのか〉の識別ができていなかったのだ。そして免疫力の極端に低下した内臓の一番弱い部分に、遺伝子情報通りなのか悪性腫瘍が発生した。それまで派遣ヘルパーや介護センターの職員の手を借りて、どうにか家の中で寝起きさせることもできたが、父がどれほど手を尽くしても、もう限界に来ていた。母に肝臓がんの診断がなされてからは、病院施設のある老健施設〈コスモスの里〉へ再び移されることになった。それから三か月後に、母は入院先のその病院で誤嚥性の肺炎を併発して息を引き取ったのだ。

 その当時を思い返しながら雄介は、改めて仏壇の前に座り直した。

「明日の朝、父さんを捜しに東京へ行くよ」と写真の母に語り掛けた。「自信はない。自信はないけど、助けてくれる人は何人かいる。母さんも世話になった、あの金沢春香さん。彼女に家の留守を預かってもらおうと思う」

 顔を上げ、もう一度母の写真を見つめた。

「それでいいよ、お前が決めたことだもの」母がそう言っているように思えた。  旅支度が思うようにはかどらず、春香からの連絡もない。忘れ物がないかリュックの底まで手を入れ確かめてみる。心に乱れが出ているのだろう、整髪料の瓶は入っているのに、電気カミソリは洗面所の棚に残したまま。近くのコンビニでコピーしてきた健康保険証の写しも、食堂のテーブルに置き忘れている。雄介の頭と手はつながりを欠いて、それぞれ勝手な方向に動いている。東京で会うことになっている春香の妹の金沢夏美にも、何を頼みどう手伝ってもらえばいいのか、頭の中を取りとめのない考えが無方向に飛び交った。

 八時を過ぎた頃、春香からようやく電話が入った。彼女の声は、河川敷で声を荒げた時とは明らかに違い、やらかな声音に変わっていた。雄介の決心を好意的にとらえてくれているのが、その響きからもうかがえた。

「ミーティングの途中で連絡入れようと思ったけど、どうしても抜けられなくて。今からそっちに向かうから、あと十五分くらいしたら着けると思う」

「大丈夫なのか、仕事で相当疲れてるのに」

 どうして素直に、早く来てほしいと言えないのか、とも思う。心にもない言葉を口にして、自分の何を守りたいのか、雄介自身にもよくわからなかった。

「旅立つ前夜は、大いに盛り上がるものなの。ね、これからふたりで乾杯しよう」

 そう言って、春香の方から電話は切られた。

 しばらくして玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けるとスーパーのビニール袋を片手に提げた春香が立っている。ここへ来る途中スーパーへ寄ってくれたのだ。玄関の内へ入るなり、

「もう、迷うことは何もないわね」と彼女は白い袋を提げたまま尋ねた。

「今朝、会社へ向かう途中、車のハンドルを右に切った。そしたら大きな目玉が、おいでおいでをしてたんだ。それを見て決めたよ、出発しようと」

「目玉のことはよくわからないけど、わたしは大賛成よ。このまま家でお父さんの帰りを待っていても、あなたはたぶん…」

 そこまで言って彼女はふっと口をつぐみそのまま台所へ入っていった。

 しばらくすると大ぶりのトレーに何枚かの皿を載せて、彼女がリビングへ戻ってきた。ローテーブルの真ん中には、チーズたっぷりのミックスピザが湯気を立てている。レンジて温め直してくれたのだ。色鮮やかに盛り付けた野菜サラダもあり、その上にサラミやアンチョビも盛られている。小さなボトルのワインがささやかすぎて拍子抜けするほどだった。

「さっき、僕のことで何か言いかけたみたいだけど」小皿に取り分けてくれたサラダを口に運びながら、雄介は思い切ってその続きを訊いてみた。

「昨日からわたし、言いすぎてばっかり。気にしないで」彼女は控えめに言葉を濁した。

「何を言われても気にしないよ。途中でやめられるより、そのほうがよっぽどすっきりする」

 東京へ行ってしまえば当分、こうして顔を合わせて話をすることもかなわない。伝えたいことがあるなら、この場ではっきり話し合っておいたほうがいい、それが雄介の正直な気持ちだった。

「そんな大げさなことじゃないけど、このまま家でお父さんを待っていても、あなたはたぶん変われない、そう言いたかったたけ」

「僕が、変われない?」雄介は口の中で呟いた。彼女なりの励ましの言葉だと思いたかった。

「僕を心配して言ってくれた、そう受け取ってもいいんだね」

「あなたを、心配したわけじゃないわ」と春香は切り返した。「わたしと同じ失敗を、あなたにしてほしくないだけ」

春香は話を変えるように、空になった雄介のグラスにワインを注ぎ足した。互いを見やりながら二人はしばらく食事に専念した。やがて雄介は、姉の見つけた年賀状をテーブルに置いた。

「姉が見つけた、今年の正月父宛に送られてきた年賀状の一枚なんだ。差出人は品川区に住んでる藤波公平さん。僕の全然知らない人だ。添え書きに、学生時代の居酒屋は今でもやっている、こちらにお越しの節は連絡を、と書かれてるだろう。その人に一度会ってみようと思っている」

「お父さんがこの人に会うために東京まで行ったとは思えないけど、実際に当たってみる価値はありそうね。妹の夏美にもそのことは伝えておく。あなたにすごく会いたがってるし」

 雄介は春香の心配りに頭を下げた。 春香は持っていた皿を置いて、壁時計の方にちらりと視線を向けた。

「旅の支度も残ってるでしょうから、今夜はこれで失礼させてもらうわ。明日は何時? あなたにとって大事な日だもの、休みを取ってでも見送りに行く」 「必要ないよ」と、雄介ははっきり口にした。「今夜たっぷり見送ってもらったから、明日の朝は一人で出発する」

 ソファから腰を浮かせた春香は、雄介の顔をいとおしげに見降ろし顔に笑みを浮かべた。

4

 カラスの声が、夢の中にいる雄介のまどろみを破った。回りに人家が増えるにつれカラスの数も年ごとに増え、最近では夜明け前から縄張りを主張してかまびすしい。目覚ましをセットした時間より、一時間も早く目覚めてしまった。

 樹の間越しに朝の光りが差して、東の空が薄桃色に変わり始めている。「悪くない朝だ」とベッドから半身を起こしながら雄介は呟いた。旅に出るにはとっておきの一日になりそうだ。パジャマから旅支度に着替えながら、いつもとは違う緊張感と興奮が体中に満ちてくる。

 階下に降りて台所の小窓を開けてみた。丘の街にはまだ夜の気配が残り、人気のない坂道に街灯だけが侘しげに灯っている。いつも見慣れたそんな風景でさえ、今朝は染みるように鮮やかに目に映ってくる。

 そう言えば雄介は小さい頃何度か、父の手に引かれてあの坂を上ったことがあった。父と二人で頂上近くの公園まで散歩したのだ。公園の縁に立つと父は雄介を肩車して、麓に広がる集落の方を指さした。我が家の姿もかすかに望めた。息子を肩車しながら父は独り言のように呟いた。

「あの家も私の代でいずれ建て替える。無くなる前に、おまえの目にしっかり焼き付けておくんだな」

 父の言葉の意味はよく分からなかったが、父に肩車されながら見下ろす風景は、七歳の息子にとっては、それが世界のすべてだと思えた。それ以外の世界は無いに等しい〈異界〉に過ぎなかった。その頃の雄介は父親の目を通して、世界のあらゆるものを観ていたのかもしれない。

 今朝、そんな父の後ろ姿を追いかけて、我が家を出発することになった。こんな日が来るとは夢にも思わなかった。丘の上から冷たい風が吹き下ろしてくる。その風に身をすくめながら雄介は、不安を拭うように両手で何度も顔を擦り気持ちを引き締めていった。体の底から身震いするような力が湧いてくるようだった。

 ジャケットの上に薄手のアノラックを羽織った。黒地のリュックサックを背に、駅前ロータリーでタクシーを降りた。

 気温が下がっているせいか吐く息が白い。時間が早いため駅舎のまわりに乗降客はほとんど見かけなかった。

 路線バスの発着場に、行き先ごとのベンチが据えられている。そのベンチの脇に、段ボールを敷いて腰を下ろしている初老の男がいる。履いている靴や汚れたシャツから、こんな生活がかなり長期に及んでいるのをうかがわせた。寒さのためか顔は土気色に近く、その目が雄介の方に向けられた。

「勘弁してくれよ、こんな時に」

 雄介は嘆息した。普段なら無視してやり過ごす情景だった。しかしよく見れば老人の顔かたちがどこか父に似ている。あご髭をきれいに剃って髪を整えれば父の表情に近くなる。雄介は腕時計で現在時間を確かめてから、その老人に近寄った。

「寒そうだけど、どっか調子悪いの?」

 腰をかがめながら雄介は訊いた。老人は段ボールに腰を下ろしたまま力なく首を横に振った。話などいらん放っておいてくれ、そう言っているようだった。

「必要なら救急車でも呼びますけど。家族の人は近くに?」雄介はさらに訊いた。

 早くここを切り上げて、プラットホームに立たねばならない。始発電車が来るまでにそれほど時間の余裕はない。急いでリュックのサイドポケットから携帯カイロを取り出し、包装紙を破いて老人の腹に差しいれてやった。温もりが伝わるのか老人は表情を和らげ、口を開いた。

「ワシはな、面倒なものは全部捨ててきた。金も名前もみんなだ。生きながらの幽霊みたいなもんだ」

 老人はそう呟きながらベンチの端に手をかけそろそろと腰を上げた。そしておぼつかない足取りでロータリーを横切り出した。

「そんな格好で、どこへ行くんです?」雄介は老人の背中に声を掛けた。

 老人は足を止め、片手を力なく伸ばし道の向こうを指さした。口の中で何か呟いている。それが「西の方へ」と言いたいのか、「家の方へ」と言っているのか、離れて立つ雄介にはよく聞き取れなかった。老人は薄闇のまだ残る通りの向こうへそのまま姿を消してしまった。  改札を入った雄介は始発電車の来るのを待ちながら、遠ざかる老人の後ろ姿をプラットホームからしばらくの間見送った。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日