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第4章 〜 消えた足音(その4)

庵 邦生

1947年生まれ  大阪府出身  同志社大学卒業

部分麻酔の手術を受けている間、無事生還できれば何をしたいか考えていたように思います。
その一つが長い間途中で宙ブラりになっていたこの作品を完成させることでした。
それからだいぶ時間は経ってしまいましたが、なんとかゴールへたどり着けたようです。
紙面の関係で一部にはなりますが、皆様に読んでいただければ幸いです。

第4章 〜 消えた足音(その4)

 明け方近くまで、吹き荒れる風の音は続いていた。その台風も未明には日本海へ抜けたようだ。庭でヒヨドリの啼き交わす声で雄介は目を覚ました。トーストとコップ一杯のミルクで朝食を済ませ、出かける準備にかかった。待ち兼ねた日曜だ。使い古しのジーンズにTシャツ、その上に紺のジャケットを羽織り自分なりのおしゃれを決め込んだ。約束の時間にはまだかなり間がある。こんなことなら、もう少し早めの待ち合わせにしておけばよかった、と身勝手な考えに思わず苦笑を浮かべた。

 キーを回すと白色のワゴンは機嫌の良い音で応えてくれた。この調子なら六甲の急坂もなんなく登り切ってくれそうだ。このまま春香のアパートへ迎えに行くには早すぎるので、丘の頂上付近にある公園まで車を走らせることにした。

 雄介の家の建つ集落をかすめて、舗装された歩車道が丘に並ぶ新しい住宅街へと延びている。反対に川沿いを進めば古い国道が通り、雄介の勤める信用金庫がある隣街へと通じている。隣街には鉄道の駅もあって、神戸の中心までそれほど時間はかからない。丘の公園には近くの山から切り出された木材で展望デッキが設けられている。当初こそ家族連れでにぎわったが、今では家に居場所のない悪ガキたちの夜のたまり場になってしまった。

 昨夜の強い雨風で展望塔のステップに枯葉が吹き溜まっている。塔に上がることはあきらめ、公園の縁から麓を見下ろした。ひとかたまりになった集落が足元に望める。その一角に、建て替えてまだ七年しか経たない我が家がかすかに見えてくる。以前はこの斜面も雑木や雑草の藪に覆われ、雄介が小学生の頃は、秋には野ウサギを追い上げる学校行事も行われた。

 アパートの前で春香を車に乗せ、武庫川の河川敷目指してしばらく走った。大きな商業施設や隣接するゴルフ練習場は、日曜のためか朝早くから人を集め、広い駐車場はすでに半分ほど埋まっている。廃業したパチンコ屋の窓にはベニヤ板が打ち付けられ、駐車場は枯れた雑草に覆われている。

 この日に備え数日前に洗車した愛車も、昨夜の雨風で窓の隅には泥や枯葉がこびりついている。助手席の春香は気にならないのか、雄介と目が合うと軽く笑みを浮かべてみせた。

 武庫川の堤防まで行くと道路脇に車を停め、二人はコンクリートの階段を河川敷公園へ降りて行った。日差しは柔らかで、秋らしい風が通っていく。河川敷は上流に向かって何か所か公園として整備され、遊歩道沿いにベンチやブランコが設けられている。そろいのTシャツを着てジョギングする若い二人連れや、よく手入れされたマルチーズを連れて散歩する老婦人など、昨夜の荒れ様とは打って変わったのどかな光景が広がっている。

 岸辺近くまで進むと、流れは山の水を大量に飲み込み、泥で濁った水が二人の足元で音を立てた。川の中ほどでは、黒く濡れた流木が浮いたり沈んだり、反転しながら川面を滑るように下流へと押し流されていく。見ていると波打つ流れに吸い込まれそうになる。そんな不安を感じて雄介は、春香の手を取り濁流寄せる岸辺から堤防の方へ戻ろうとしかけた。
「いいわよ、ここで。わたしこんなすごい川の流れ、見てるの好きよ」言いながら春香が、雄介の腕をつかんで引き留めた。

 意外な気がした。目の前の川の流れはいつもの女性的なおとなしさを捨て、粗野で荒々しい男の姿をしている。そんなむき出しの力を、彼女は心のどこかで嫌悪していたのでは。どちらが春香の気持ちに近いのか判然としないまま、雄介は近くの木製ベンチに腰を下ろした。春香も並んで座った。雄介は持っていたディバックのポケットを探り、父から来た手紙をおずおずと差し出した。
「一昨日、親父が東京から送ってきた手紙なんだ」
「わたしが読ませてもらってもいいの?」
「君にはぜひ、これを読んだ感想を聞かせてほしい。僕がこれからどうすればいいのか、君なりの率直な意見を聞かせてほしいんだ」雄介の声に思わず力が入った。
 入院していた母が自宅療養に切り替わった時、施設から派遣された春香に父も相当悩みの相談をしたはず。息子には見せなかった部分も、彼女には見せたかもしれない。

 少しためらった後、彼女は手紙を受け取り中身を開いた。雄介の視線も気にならないのか、ほつれる髪もそのままにじっと手紙の文面を目で追っている。しかし川の流れはとどまることを知らず、濁った水もろともあらゆるものを飲み込み下流へと押し流していく。

 雄介はすることもなく早い流れに目を向けていた。ぼんやり流れを見ているうち、中学一年になったばかりの夏休みの出来事が頭に浮かんだ。父に誘われ渓流釣りに出かけた時のことだった。

 その夏、父は職場の行き帰りに使うため新しく自動車を購入した。確か大衆車のカローラだった。そんな父が車の試乗がてら、兵庫の山奥へ渓流釣りに行かないかと雄介を誘ったのだ。父からそんな誘いも珍しく、声を出して小躍りしたことを覚えている。当時はまだ未舗装の道も多く、目的の川のポイントに着くのにかなり時間を要した。助手席の窓から見上げると、青い空に夏の入道雲がくっきりと湧き出ていた。道の途中、砂ボコリを巻き上げ、タイアが小石を撥ねる音も心地よく、雄介は山合いに響く蝉の声と、樹の間越しに聞こえる川のせせらぎに耳を澄ませた。両側から樹木がせり出す狭い道も、父はたくみにハンドルを動かしそれらをかわす。日頃見せない父の姿に、雄介はひそかに尊敬にも似た眼差しを向けていた。「やるやん、父ちゃん」当時はそんな気持ちだったのだろう。

 雑木や熊笹を踏み分けてやっと着いた川べりで、釣竿を組み立てる息子に父は諭すように声を掛けた。
「流れに揺れる浮きにではなく、手元の竿の握りに神経を集中すること。目をつぶって無心になると、水中の釣り針が見えてくる。その動きを自分の想像力でつかみ取るんだ。釣り針を引っかけたら、それでゲームセットだからな」

 父はそれだけ言い残すと、その場を残して立ち去ってしまった。自分だけの秘密のポイントへ向かったのだろう。父の振舞いは、初めての渓流釣りに浮かれる息子には不適切だった。指示だけ出して自分は安全な場所に隠れてしまう、行儀の悪い司令官のような印象を与えた。雄介は釣りどころではなくなった。竿をその場に置いたまま、父の去ったと思しき道を上流の方へたどり始めた。

 しばらく進むと大岩が、川原を塞いで行く手を阻んだ。雄介は岩を迂回するため土手を昇った。大岩の天辺まで来ると岩の上は平らに近く、縁まで進むとあたりが一望できた。こわごわ岩の縁へと近づき、足元を覗き込んだ。流れは底がえぐれて色も濃く、渦も巻いている。見ているうちに軽いめまいに襲われた。

 その時背後で大きく樹々がざわめいた。突風が岩場を吹き抜けたのだ。重心を崩くずした雄介は二三歩よろめき、気付いたら空中で手足をばたつかせていた。ディズニー漫画の一場面のようだった。あるつもりの地面は足下にはなく、空中で必死に手足ばかりを回転させている。それでも重力には逆らえず、水面までそのままの姿勢で落ちてしまった。

 渦に巻かれながら水底で一度足を着き、思いっきり底を蹴ると、反動でなんとか水面まで浮き上がれた。足を蹴らなければそのまま溺れていたかもしれない。小石だらけの川原にやっとの思いで這い上がると、何度も肩で息をした。捨てられた子犬みたいな気持ちだった。見上げると大岩の上に人影が動いている。日を背にした逆光の中で、黒い人影が岩場からこちらに向かって何やら喋っている。
その禍々しい声は、「お前なんて要らない、どこかに消えてしまえばいい」

 そう叫んでいるように雄介の耳に聞こえた。それは気のせいで、単に雑木の枝先が風に擦れる音だったのかもしれない。しかし雄介にはそう聞こえてしまったのだ。気づいたら、そばに転がる石を掴んで、その影に向かって力任せに投げつけていた。車に乗り込んでからも雄介の独り言は続いた。
「横に座ってるのは親父のニセモノに違いない。ホントの僕の父親はどっか別のところにいる」
「何を考えてるの?」

身元で春香の声がする。雄介は気持ちを切り替え声のする方へ視線を向けながら訊ねた。
「どう思う、その手紙?」

 春香は便箋から目を離しながら応えた。
「わたしの意見より、この手紙を読んだあなたがどう思ったのか、それを聞きたいわ」

 手掛かりを求めて雄介は手紙をもう何度も読み返した。ほとんど全文を暗記したほどだ。それでも、父がこの手紙に託したものが何なのか、なぜ黙って家を出たのか、肝心なことはまったく浮かんでくることはなかった。横浜から駆けつけた伯父も大阪の姉も首をひねるばかりだった。
「ひとまずここはむやみに騒ぎ立てるより、静観してしばらく様子を見ようということになった」

 一呼吸置いて春香が訊いた。
「お父さんの帰ってくるのを、あなたはただ黙って家で待ってるだけということ?」

 春香は明らかに出された結論に不満そうな気持ちを隠さない。
「家には僕しかいないんだ。その僕が家を離れたらあの家はたちまち無人の家になってしまう。黙って出て行ったんだ、こっちも黙ってたってバチは当たらないと思う」

 雄介だって父が物見游山の旅に出たとは思っていない。しかし父が家に残した手掛かりはなさ過ぎるのだ。父の携帯電話もデータはほとんど消されていたし、父との話のやり取りで、手掛かりに結び付きそうなものは雄介の記憶にはまるで残っていない。こんな状態で会社から長い休みを取り、東京まで出向いていくのは無謀としか言いようはなかった。それとも女というのは、自分のひらめきや直感だけで行動に移れるのだろうか。雄介にしても会社からまとまった休暇が認められれば、父を捜しに東京まで出向いていくことに異存はない。しかしそれができるのは、父を捜し出せる可能性が高い場合だ。最低でも一週間の旅にはなるだろう。一週間も会社を休んで、おまけにその旅がまったく無駄で、手ぶらのまま神戸へ戻ってくることになってしまったら…。
「それなりの準備をしてから出発しないと、計画はおそらく失敗する」雄介は封筒を受け取りながらそう答えた。
「誰もが納得できる方法が欲しいんなら、プロの第三者に頼んでみたら」春香が切り返した。
「プロの第三者?」
「警察に頼むのは無理でも、探偵さんがいるわ。その道のプロにぜんぶ任せてしまうの。結果だけ知りたいのなら、その人たちの方がずっと迅速・丁寧、しかも確実にやってくれるわよ」
「僕が東京へ行ってしまったら、家には犬のアンサーしか残らないんだ。誰がアンサーの世話をしてくれるわけ?」思わす雄介の声に力が入った
「あなたの家の留守くらい、わたしでよければいつでも見てあげる。犬の世話だって、毎日の散歩だって、ぜんぶ面倒見てあげるわよ」
「これは、犬の散歩や餌やりの次元とは違うよ」
「当たり前でしょう。そんなことわたし、少しも言ってない」

 春香はベンチから立ち上がると、足早に堤防の方へ戻り始めた。
「どうしたんだ、何を急に怒りだしてしまったんだ?」
 雄介の声が耳に届いたのだろう、春香はその場に立ち止まって後ろを振り返った。
「あなたは慎重になってるつもりでしょうけど、わたしから見たら、ただ迷っているだけ。代われるものなら、わたしがあなたのお父さんを捜しに東京まで出向きたいくらいよ」

 春香は堤防の階段を勢いよく駆け上がった。そして道沿いに止めた車のドアを力任せに開けると、トートバッグの中から竹で編んだ弁当箱を二つ取り出した。
「せっかくだから、食べてちょうだい。誰かもう少しおっとりした女の子でもその辺で見つけて、一緒にどうぞ」

 言い終わると背中を向け、堤防沿いの道を一人で歩き始めた。
「どこへ、行くんだ?」
 雄介は弁当を二つ抱えたまま車の前にたたずみ、遠ざかる春香に声をかけた。「あそこから電車に乗って、一人で帰るわ」
 春香の指さす方を眺めると、武庫川にかかる鉄橋を電車が走り、その向こうに私鉄駅のプラットホームがあった。

消えた足音 【全13回】 公開日
(その1)第1章 2020年7月31日
(その2)第2章 2020年8月31日
(その3)第3章 2020年9月30日
(その4)第4章 2020年10月30日
(その5)第5章 2020年11月30日
(その6)第6章 2020年12月28日
(その7)第7章 2021年1月29日
(その8)第8章 2021年2月26日
(その9)第9章 2021年3月31日
(その10)第10章 2021年4月30日
(その11)第11章 2021年5月28日
(その12)第12章 2021年6月30日
(その13)第13章 2021年7月30日