第12部 ~ 風に吹かれて ~
幕間劇(31)「親不孝通り」
タンタタタ、タンタタタと三拍子のステップを踏み、竜ちゃんが親不孝通りに舞い戻ってきた。普段はヅッッチャッチャ、ヅッッチャッチャというウォーキングリズムの場合が多いが、緊張し気分を引き締めたい時は三拍子になる。本人は意識していないのだが、貧乏ゆすりのようなものである。
彼は、通りの北の外れにある小さな四辻を目指している。そこには、ヤッコ(秦靖子)が営む小さなスナック「クロスロード」がある。店内に流れているのはブルースだ。そのレコードは、竜ちゃんが出て行った時に置いていったものである。開店と同時に、ヤッコは毎日ロバート・ジョンソンの『クロスロード・ブルース』を流した。この曲が流れ出すと、ぼちぼちと若者が集まり始める。
飲み物はフォアローゼズとハイネケンビールだけ。竜ちゃんがいつも飲んでいた酒だ。酒の肴は小料理屋のように多彩で、腹を空かした若者には手作りカレーが人気である。玉ねぎをじっくり炒めた、本格的な味だ。スープカレーに近いが、トマトジュースとバターが旨味とコクを出している。具は鶏肉である。
博多の人間は、鶏肉にはうるさい。冬の定番料理は「水炊き」だ。水炊きのスープにキャベツを浸して食べると、酒でくたびれた胃には「いっちゃん(最も)良か」と誰もが思っている。ゆえに、腹が膨れた呑み助親父などは、キャベツばかりをつまんでいる。締めは二通り。鍋に残ったスープに素麺を入れて啜るか、ご飯を入れて卵でとじ、小葱をたっぷりと散らす。どちらも旨すぎて甲乙つけがたい。
鶏肉は煮込み料理なら「親鶏」に限る。若鶏では煮込みの味わいがまだ乏しいからだ。ヤッコは、郊外の養鶏場から親鶏を買い、自分で捌いている。もちろん店先でそれをやると道行く人が驚くので、解体作業は養鶏場の庭先を借りて行う。小っちゃな時からやってきた作業なので、手慣れたものだ。内臓も甘辛く煮込み、酒の肴にする。鶏がらはスープになる。柔らかく煮込まれた首の骨には、塩少々とブラックペッパーを振り、そのまま齧り付く。これは常連だけが知る限定の予約メニューだ。すっかり煮出された骨は砕き、店の前の花壇に肥料として漉き込む。鶏肉はカレー粉と、バター、ヨーグルトで下味をつけ、冷蔵庫で寝かせる。そのままオーブンで焼いたタンドリーチキンも人気だが、やはりチキンカレーが一番だ。
とにかく、ここは若者の街である。若者はいつの時代にも腹を空かせている。夢と空腹は背中合わせなのだ。竜ちゃんは店先で立ち止まって深呼吸をすると、ウォーキング・ブルースのリズムを踏んで店に入った。先客が「竜ちゃんお帰り」と小さく囁き、手を振った。竜ちゃんは気まずそうに微笑んで手を振り返すと、静かにカウンターに座った。
ヤッコは、ダークグリーンの瓶をカウンターに置いた。竜ちゃんはいつものように歯で栓を抜いた。それから瓶の口に軽く口付けると、旨そうにゴクリと一気に喉へ流し込んだ。さらに彼女は、グラスと氷、そしてフォアローゼズを竜ちゃんの前に置いた。ボトルのラベルには、マジックで『フライングタイガース1969』と書かれている。ヤッコが店をオープンしたのはその翌年だ。これはキープボトルではなく、開店の日にヤッコ自身が書いた記念のボトルだった。
竜ちゃんは何事もなかったかのように封を切り、ロックグラスに注いだ。バーボンの香りを楽しみ、舐めるように黄金色の酒を口に含む。竜ちゃんがヤッコに「書くもん」と言った。ヤッコがマジックの蓋を取って手渡すと、彼は『1969』を二重線で消し、その下に『1978』と書き加えた。
フォークギターを抱えた四人組の若者が入ってきた。先客がそのギターを手に取り、竜ちゃんの前に持ってきた。そして「竜ちゃん。一曲聞かせて」と言った。竜ちゃんは少し戸惑い、「オイ(俺)は昔から、美人の頼みは断らん主義やけんねぇ。ましてユリカちゃんの頼みなら断れんばい。まぁ遅くなった開店祝いたい」と言うと、『クロスロード・ブルース』を弾き始めた。エリック・クラプトンのアレンジである。
四人組の若者は「誰、この人? 上手すぎる」と、唖然として聴き入っている。曲を弾き終えると、竜ちゃんはハイネケンの瓶に手を伸ばした。しかし、素早くヤッコがそれを取り、自分の喉に流し込んだ。竜ちゃんは仕方なくバーボンを口に運び、ユリカちゃんに向かって聞いた。「久しぶりやね。常連?」「うん、民ちゃんに連れて来られたとよ」「あれから三年。もう三年か……」竜ちゃんは静かにバーボンを啜った。
ヤッコが「今は、浅田ユリカさんよ」と言った。「浅田ユリカ? もしかして、浅田先輩?」竜ちゃんが凝視すると、ユリカちゃんはこくりと頷いた。「そう、あの浅田先輩。仕事が終わったら、後から来るよ」「そうか、浅田先輩か。ジョーにも教えてやりたかったなぁ……」竜ちゃんは目を伏せた。ユリカちゃんが「ねぇ、追悼歌弾いて」とせがみ、若者たちも大きく手を叩いた。竜ちゃんは、ブルースロックのアレンジで『500マイル』を弾き始めた。竜ちゃんが歌い出すと、ユリカちゃんも、そして四人組も声を合わせた。きっとジョーや民ちゃんも聴いていることだろう。その夜、竜ちゃんは店が終わるまで弾き語りを続けた。
途中からは浅田先輩も加わり、さらには常連客も集まってきた。そして、浅田先輩は強引に次のライブを決めてしまった。竜ちゃんのギターを会社の若い連中に聴かせたいらしい。今年入社した若手にとって、竜ちゃんは「伝説のギタリスト」でしかなかった。生の演奏を聴いたことがない彼らに、いくら浅田先輩が凄さを力説しても「へぇ~」で終わってしまう。それが悔しくて仕方がなかったのだ。渋っていた竜ちゃんも、ついに根負けした。
店を閉めた後、ヤッコが聞いた。「どこか、行くとこ、あるの?」竜ちゃんが「ない」と素直に答えると、ヤッコは「来て、アパート変えたの」と歩き出した。表通りでタクシーを止め、「近くてすみません。唐人町の商店街までお願いします」と告げた。その夜から、竜ちゃんはヤッコのアパートで居候となった。
週末、ヤッコの店で竜ちゃんのライブが開かれた。二十名も入ればいっぱいの狭い店内に、浅田先輩は五十人近くを集めてしまった。そこで椅子とテーブルを外に出し、客は床の段ボールに座った。竜ちゃんのステージはカウンターの上である。胡坐をかいて、二時間ほど歌った。ギターはアコースティックだったが、それが逆にデルタ・ブルースの味わいを醸し出した。最後に歌ったのは『ドック・オブ・ベイ』。その声は悲愁を帯びていた。
もし父ちゃんの辰ちゃんが聴いていたら「やっぱりブルースはアメリカの演歌ばい」と言ったかもしれない。竜ちゃんはどこの入り江に佇み、生死を彷徨っていたのだろう。しかし、今の竜ちゃんは、どこか吹っ切れた表情をしている。“なるようにしか、人生はならんもんばい” そう思ったのだろうか。
♪ 海に抱かれて島がある。潮風が吹きつけ、街の明かりが波に揺れている。亡くしたものは永久に帰らない
もう心の泥船は沈めよう。この湾の底深く。そして、何もなかったかのように街明かりが揺れている。
オウ~能古・ベイ・ブルース ♪
♪ 潮は入り江を渦巻き、島を抱く。玄風が吹きつけ、木々のざわめきが心凍らす。
愛する人の声はもう聞こえない。潮汐が長い髪を揺らす。この湾の底深く。
そして、もう何も聞こえないお前の声も聞こえない。
オウ~能古・ベイ・ブルース ♪
♪ 桟橋に腰かけて船を見る。
ただ腰かけて、入り江を出ていく船を見ている。もう失うことは怖くない。
海の冷たさがやさしくつつむ。この湾の底深く。そして、すべてがオーケー。
何も失くしたものはない。オウ~能古・ベイ・ブルース ♪
翌年、マリーが竜ちゃんを東京に呼んだ。あの日から、竜ちゃんは唐人町のアパートにヨッシー(芳文)を呼び寄せ、三人で暮らしていた。四歳のヨッシーは甘えたがりの盛りで、ヤッコにべったりだった。東京には盟友の月丘流星君もいた。マリーはプロダクションに交渉し、流星君と竜ちゃんの新バンドを作る手筈を整えていた。だが、竜ちゃんの腰は重かった。音楽への情熱は冷めていなかったが、今の生活に満足していたのだ。
流星君は、長い、長い手紙を書いて、竜ちゃんを誘った。マリーと美香ちゃんも何度もヤッコの店に電話を入れてきた。ユリカちゃんと浅田先輩、そして「クロスロード」の常連客もメジャーデビューを後押ししたが、竜ちゃんは「オイは、博多が好いとう」と言って腰を上げる気配がなかった。
小春日和の大濠公園。ヨッシーが嬉しそうに走り回るのを、二人は芝生に腰を下ろして
穏やかに眺めていた。アパートから黒門川沿いをのんびり歩いてきたのだ。今日は店が休みなので一日ゆったりと過ごせるのだ。途中で煎餅と饅頭を買ったので、これがランチ代わりだ。竜ちゃんは煎餅が大好物で、ヨッシーとヤッコは饅頭が大好物である。「唐人町商店街を横切るのに、この煎餅と饅頭を買わないのは福岡市民ではない」というのが竜ちゃんの持論だった。
昼過ぎ、屋台の黄色いアイスクリンを舐めながら、突然ヨッシーが言い出した。「東京は、パパだけで行ってん。オイは、ママとここに居るけん」驚く竜ちゃんに、ヤッコが気まずそうに言った。「ヨッシーにも話したとよ」ヨッシーが「オイは博多とママが大好きやけん。東京には行かん。だけんパパだけ行って。良か?」子供に覗き込まれ、竜ちゃんは「あぁぁ」と呟く。「ママ良かったね。パパだけ行くてよ」とヨッシーが念押し、ヤッコは「竜ちゃん、夢ば諦らめんで」と言った。竜ちゃんは何かが吹っ切れたように「うん」と頷いた。
美香ちゃんの劇団の稽古場で、上京してきた竜ちゃんのミニライブが開かれた。細くしなやかなネックを竜ちゃんの掌が滑る。高音が連打され、ブラスが呼応する。レゲエのリズムが床を叩き、流星君のラッパが甲高くシャウトする。店の暗がりで、民ちゃんの魂がその波に身を委ね、エクスタシーを感じている。ドラムがスティックを打打ち、ギターが泣く。メロディは『君が代』アレンジだ。
♪ オイ(俺)が世はぁ。千代の流れに 棹さして 転がる石だぜ ロクッンロール
お前ん世はぁ。千尋の海の 中道を 駈け続けるぜ ロクッンロール
梅が咲き 愛するベイィビー 君が代は 花よ蝶よと 生き咲き乱れ
世界は愛に満ちている。世界は憎しみに満ちている。
世界は善に満ちている。世界は憎悪に満ちている。
転がる石だぜ ロクッンロール 苔のむすまで ロクッンロール ♪
竜ちゃんは小首をかしげ、目を閉じている。片隅で微笑む民ちゃん。竜ちゃんが幽玄の扉を開けると、民ちゃんが“竜ちゃん、さよならね”と囁いた気がした。歌い終わった竜ちゃんはウイスキーの小瓶を舐めて『能古・ベイ・ブルース』を奏で始めた。客席からため息がもれる。民ちゃんが、この世を去ってもう五年が過ぎた。ヨッシーが生まれた翌年のことだった。でも今日も民ちゃんは、竜ちゃんのギターを聴いていた。そして、悲しみの秋が暮れていく。
冬、竜ちゃんの腕は業界で注目されたが、楽曲はヒットしなかった。認めてもらえない日々。うまくいかない人生。竜ちゃんは徐々に酒に溺れていった。流星君が「竜ちゃん、焦ったらいかんばい。こん業界には運もあるとよ。じっくりそれば待とうやなかね」と諭しても、「とぜん(徒然)なかねぇ」と竜ちゃんのグラスは止まらない。「とぜんなかねぇ」とは、北部九州の言葉で、何もすることがなく独り寂しい有様のことである。もし、傍にヤッコとヨッシーがいれば、少しは抑えられたかもしれない。だが、このままでは博多には帰れない。海を越えてきた九州人にとって、何もなさずに帰ることはできないのだ。その精神的な隔たりは、朝鮮海峡と同じほどに深かった。
1981年初春、心臓の鼓動がワルツを刻む。笑顔に涙を浮かべ「良かった。兄ちゃんなぁこれでもう酒が止められる」そう呟き、男は朝の並木道を急ぐ。それから、長く暗い廊下の先にある霊安室に入った。遺体の横には、帰国中だった英ちゃんが立っていた。芳幸がドアを開け、英ちゃんの肩を叩いた。英ちゃんは振り返り、「彼が、弟です」と検視官に告げた。「林田竜巳さんで間違いありませんか」と彼は確認した。「はい、兄に間違いありません」 芳幸は自慢の兄の傍らに立ち、その手にそっと重ねた。「さあ兄ちゃん、帰ろうか。皆待っとるばい」と声を潤ませた。ヤッコと竜ちゃんは、まだ入籍をしていなかった。ゆえに近親者として芳幸が遺骸の引き取りにきたのである。
時代はバブル景気に浮かれ始めていた。学校もゆとり教育に浮かれ、70年代への批判が80年代を勢いづかせ始めていた。30代に入った全共闘世代は、うつむき黙々と働き、哲学は死に絶え、欲望が新しい資本主義社会の原動力となった。時代に取り残されるのは貧困者だけではない。うねりに適応できない孤独者が「とぜんなかねぇ」と呟きながら、無縁地獄に落ちていく。
道端に座り込んだ竜ちゃんがふと目を凝らすと、吸いかけのタバコが落ちていた。「もったいなかやぁ~ん」と言うと、その時化煙(しけもく)を拾い、口にくわえた。マッチを擦ったが、氷雨に濡れて湿気ったマッチは火が灯らない。火の付いていない時化煙を口にくわえたまま、そぼ降る夜空を見上げた。そして「ありがとう。ジョー迎えに来てくれたんかい」と呟いた。一息、ふ~っと息を吐くと、時化煙がぽとりと落ちた。もうこれ以上歩み続ける必要はない。寒風も今日は心地よい。嗚呼~ここは路地裏のルート66。 そこが、竜ちゃんのバニシング・ポイントだった。
路地裏の 風に吹かれて フォービート
雨打つも良し、打たれるも良し
~ ヨナパル(汰原)の『雀のお宿』 〜
生き残ろうとする種は分化する。多様化は生き残るための戦術である。滅びるものと、生き延びるものの違いは、偶 然か神の大いなる御心であろう。その答えを得ようとするのは無意味である。では、生き残ろうとする努力すら無意味なのか? そうではあるまい。その不可能性への賭けこそが、明日への活力である。
藜(あかざ)の杖を突き、山道を行く大男がいる。今はヨナパル(汰原)に落ち延びたアヒコ(阿彦)である。粗末な野良着 に身をやつし山菜を摘む哀れな姿だが、本人は案外、この浮き草のような生き様を楽しんでいる。藜は雑草であるが、人の背丈より高く伸びる。茎は固く丈夫なため、杖としては良い素材である。その若葉は食べられないことはないが、決して旨くはない。藜の羹(あつもの)などを啜る輩は、よほど困窮した者である。阿彦の暮らしもそこまでは落ちていないが、やはり落人の悲哀は拭えない。
ピミファ女王の暗殺は、稜威母と高志に業火を降り注いだ。倭国の須佐人大首長は、常軌を逸したかのように全面戦争に打って出た。倭国軍に加え、新たな女王チュクム(秋琴)に率いられた青洲黄巾軍は、実戦を潜り抜けた強兵(つわもの)である。その勢いの前に、稜威母と高志の連合軍はなすすべもなく敗れた。
阿彦は捕らえられ、オクニ(尾六合)も投降した。ヘキ(蛇亀)の娘オキナメ(沖那女)と息子オキノナアガ(翁之拿阿蛇)は、人質として伊都国に連行された。ヘキは、ヌナカワ(渟名河)から山の奥へと退き、捕縛を逃れた。阿人の王チュプカセタ(東犬)は中立の立場を取り、盟友の須佐人もそれを認めた。ゆえに、落人の安息の地は阿人国となった。倭国の大頭領チヨダ(智淀多)と阿彦は、共に須佐人の弟分であり、親友である。そのため、智淀多は密かに阿彦を逃がした。後年、その逸話は子供たちの遊び歌となった。
♪ カ~ガメ カ~ガメ ヒョウの中のツルは いついつ出やる~
夜明けの晩に ツルツルつうぺった 逃がしたの だぁ~れ♪
カガメ(蛇目)とは、木俣のカガミ(蛇海)一族の長である。この稜威母族の末裔が、イズモタケル(稜威母猛流) を名乗るサケミ(佐気蛇)である。ヒョウ(瓢)とは、辰韓国のソクタレ(昔脱解)王の幼名であり、王の出生地は高志である。つまり「ツル」は阿彦を指す。「つうぺった」とは、つるつるした平らな場所で滑った(辷った)様子を指す。夜更けにそっと罪人を滑り抜けさせた、すなわち「逃がしてやった」という隠言葉(かくしことば)なのである。そして逃がした「夜明けの番人」こそが、サケミのもとにいた智淀多であった。
智淀多は戦後処理のために倭国より派遣されていた。彼はヘキとタケル(健)の子である沖那女と翁之拿阿蛇を伊都国に連れて帰ると、自ら須佐人に裏切りを報告した。敵の大将を逃がした罪の重さに、重臣の多くが智淀多の罷免を願い出た。しかし、「良策ですね。これで反乱は治まりそうですね」と、女王チュクムは智淀多の罪を不問に付した。もし大将が斬首されれば、その恨みを糧に新たな反乱が生まれ、戦いは長引くはずである。
戦いを終息させるには「棲み分け」が良策である。阿彦が阿人国に逃れて残党をまとめれば、その地で新たな国造りが始まる。反乱の意欲は、やがて開拓の意欲へと変わるだろう。同じハヤの仲間でも、タカハヤは上流部に、アブラハヤは下流部にと生息域を分ける。さらにその上流にはサケの仲間であるイワナが、下流にはヤマメが棲む。それがそれぞれの生存戦略である。やがて交雑種が産まれ、次の世紀が始まる。
東の空が淡く黄色い朝霧に光り、湿った冷気が心地よい。「ビユーン」と弓鳴りが走った。一斉に鴨が羽ばたき、青墨の静寂を破る。鳥追いの男たちが矢を放ち、数羽の鴨が地上に落ちた。「誇りって何?」幼子たちが聞いた。「そうさなぁ~ 死ぬより辛いことに立ち向かう気力かなぁ」鴨の毛を毟(むし)りながら、阿彦は呟くように答える。ここは、ヨナパルの山里。屈辱の敗戦から三年が過ぎていた。どれほど屈辱の道を進めば、安寧の日々が送れるのだろうか。
あの日、誇りなど枯れ果て、髭を撫でる風を感じる気力も失せ、阿彦は敗軍の将となった。陽気な活力は消え、「もう~ どうでもいい」という無力感だけが、不思議な安堵感をもたらした。しかし、護送の途中で智淀多が籠脱けさせてくれた。ゆえに山中を逃げ延び、アズミ(安曇)を目指した。「阿人国に落ちれば、須佐人様はそれ以上、追手を向けない」智淀多はそう告げていた。
稜威母急進派のイブシ(稲撫士)と、阿彦の妹ヘキは、先に安曇に逃げ延びていた。彼らは復讐戦の機会を狙っている。ゆえに、阿彦の安住の地は安曇ではない。「もう戦う気力はない。風の吹くまま東へ向かおう」阿彦はただ、そう願った。
敗戦後、妻のピリカ(斐梨花)と娘のスズ(珠子)は、ムナカタ(宗潟)一族のミナカタ(美名方)が引き取った。美名方は須佐人に与した敵将であったが、阿彦はその人柄を慕っていた。ゆえに、我が身が刑死に処されようとも、家族への心残りはなかった。その後、ピリカとスズは高志北部のゲイハ(鯨波)で二年余りを過ごした。
高志北部は、南をヌナカワ周辺、北をオガヌマ(牡鹿沼)との中間地点としていた。牡鹿沼には須佐人の北方交易の拠点があり、隣接する勢力とは同盟関係にあった。鯨波はその中心地である。この地を阿人たちは「フムペコイ」と呼んだ。「フムペ」は鯨、「コイ」は波を意味する。鯨海に面したこの地は、海の幸と山野の恵みに溢れた良地であった。
美名方は、鯨波の南路にピリカとピタ(斐太)の民を住まわせた。その地をさらに南下すれば、安曇にもヨナパルにも通じている。彼らは虜囚の身であったが、美名方は彼らを緩やかに住まわせた。それがこの男の器量であり、周辺の阿人からの信頼も厚かった。阿彦が見込んだ通りの人物であった。
ヨナパルの野に強風が吹き荒れた。乾いた北西の風が幼子たちの髪を巻き上げる。男の子たちは風の神に掴みかからんばかりに飛び跳ね、女の子たちは地の神に慈悲を乞うようにうずくまる。阿彦はその娘たちを大きな体で包み込んだ。冬が近い。ヨナパルの冬は晴天が多く、亡民たちの心もひと時、晴れやかになる。
ピリカはヨナメノコ(米女孤)に代わり『雀のお宿』を切り盛りしている。まつろわぬ者カシケ(火斯気)の妻・ヨナメノコも、五十路半ばを過ぎた。そこで、カシケの盟友ケマハ(毛馬伯)の娘に後を託す準備を始めていた。カシケが戦死した同じ時、ピリカの夫になるはずだったウホピ(宇穂卑)も討たれた。そのため、彼女は十七歳の若さで嫁にも行かず後家となった。ヘキとピリカは双子のように息が合う。ツヌガ(津沼娥)の会談が終わると、阿彦はヘキの強引な勧めでピリカを娶った。ピリカにとって、二十五歳の遅い春だった。そして翌年、スズを授かった。
三十路半ばのピリカには、誰もが認める商才があった。スズは十一歳になったが、『雀のお宿』には以前と変わらず幼子たちの姿が多い。スズは母親に似て、しっかり者のお姉さんとして慕われている。宿にいる幼子たちは、母子で流れ着いた者もいるが、大半は捨て子である。ピリカは彼らにとっての「大地母神」であった。彼女が生計を担い、手伝い好きのスズも看板娘として評判が高い。おかげで阿彦は「高等遊民」のような隠居生活を送れている。雨が降れば学問に興じ、晴れれば山歩きに精を出す。
山歩きの余得が山菜摘みである。しかし、ただぶらぶらと歩いているだけでは閑人(かんじん)が過ぎる。そこで宿の食事に季節の彩りを添えようと思い立ったのだ。さらに最近、親しくなった猟師に罠の掛け方を習い始めた。弓矢での猟は戦さのように忙しないが、罠猟はじっくりと構え、生き物の息吹を身近に感じることができる。「さて、今日は野兎くらいは掛かっているだろうか」と、阿彦は藜の杖を手に、紅葉に染まる山野へと向かった。
椎の実をいっぱいに詰めた籠を背負い、数人の山女(やまめ)たちが『雀のお宿』を目指している。椎の実には渋くて食べられない種類もあるが、彼女たちが集めたのは栗のようにほくほくと美味しい実である。近くには先人が植え、村人が手入れを欠かさない美しい栗の人工林がある。下草も丁寧に刈られ、栗も拾いやすい。栗は甘すぎて男には飽きがくることもあるが、炒った椎の実は酒の「あて」にもなり、宿泊客の受けも良い。ピリカはこれを高値で買い取る。もっとも、山の民に貨幣は不要なため、米と物々交換である。
米は倭人から買い入れる。最近はシマヅ(志摩津)国から取り寄せる米が多い。志摩津の王は、ルルム(流留無)のイハチ(伊波智)である。彼はヨナメノコの息子であるため、格安で仕入れができる。さらにピリカは「屑米」を多く買い付ける。屑米でも味は変わらない。山菜飯に混ぜてしまえば、目利きの百姓でもなければ気づかないだろう。そんなピリカの堅実な経営により、『雀のお宿』は順風満帆であった。
阿彦と山女たちがすれ違うと、娘たちはクスクスと笑い合った。「岩のように大きな男の人」「岩男さんだ」「熊より強そうよ」「熊男さんね」そんなふうに囁き合う。晩秋の山歩きである。阿彦は薄着の上に熊の毛皮を纏っており、その姿はまさに熊そのものであった。冬を前に、熊は冬眠の備えで木の実をたっぷり食べる。そのため、熊肉の美味しい季節でもある。熊は人間と同じように雑食である。魚や鹿の肉なども食べる。しかし、鹿などの動物を仕留めるのは体力も消耗する。その点、秋の木の実は、せっせと拾い食いである。ゆえに、この時期の熊肉は癖が少ない。
猪鍋と熊鍋は、『雀のお宿』でも人気が高い夕食である。熊猟師にとっても、肉と毛皮は大きな収入源となる。ピリカは熊を丸ごと一頭買い取る。肉は食材に、毛皮は宿泊客である商人へと転売する。多角経営である。彼女はかなりの資産家となっており、その富の多くがヘキのもとへと流れていた。
山の斜面に、大きな骨が剥き出しで覗いている。どうやら古代象の骨である。少年たちはその骨を的に、投げ槍 をして遊んでいる。弓矢は技術が必要だが、槍は不器用な子供でも作れる。最も簡単な槍は竹槍である。そして、少年たちが投げて遊んでいる槍も短い竹槍である。まだ青いので切ってきたばかりであろう。
ずっ~と大昔の話であるが、倭国には多くの象猟師がいた。阿人のご先祖様である。象猟師の槍は長く、先端には鋭い石の鏃(やじり)が付いていた。ゆえに重く破壊力も大きい。そんな槍でなければ大きな象は仕留められない。
やがて倭国に深い森が広がると、草原の生き物である象は姿を消し、投げ槍の猟から、弓矢の猟に変わっていった。弓矢の良い点は、遠くまで飛ぶところである。そこで、熊や猪の猟でも最初に矢を射かける。数本の矢が刺さると動きが鈍るので、最後は手槍でブスリとやる。象猟師と同じように、熊や猪の猟師も集団で狩りを行う。ゆえに、小さな軍隊のように統制がとれている。百姓を兵士に駆り出しても、一定期間の武装訓練が必要だが、この集団は、即実戦に投入できる輩である。
今日も十数人の猟師が山に分け入っていく。若い猟師は阿倭人である。近頃、山の民にもこの混血が増えている。父親が阿人なのか母親が阿人なのかは千差万別である。その中でも徐家の一族と阿人の組み合わせが多い。純血の倭人、阿人、南洋海人はその容姿にも違いがあり見分けやすい。しかし若い阿倭人は、いずれの特徴も含んでいるので見分け難い。近い将来、倭国に住む大半の民は、阿倭人になる可能性が高い。
ピューピューと甲高い鳴き声が響いた。沼地はもう近い。阿彦は湖畔に腰を下ろし昼餉を食べようと考えた。籠には山菜が中程以上に摘まれているが、もう少し茸がほしいと思い、ここまで歩いてきた。そして、昼餉を済ませたら山深く分け入るつもりだ。湖畔には先客がいた。緋鳥(ヒドリガモ)の群れである。頭部が鮮やかな赤茶色なのがオス、さらにその赤頭に黄白色の被り物を載せ洒落ているのは、大人のオスである。「先ほどのさえずりは、こ奴らであったか」阿彦は笑みを浮かべて呟くと、倒木に腰を下ろした。そして、山菜の下に埋もれていた昼餉を籠の底から取り出した。粟飯のお握りと、熊肉の煮つけである。
緋鳥は、カモの仲間の中では小さい。それに肉もあまり美味しくないため猟の対象にはならない。人間とは贅沢でわがままな生き物である。緋鳥も神様のお恵み物だと思い、捕えて食べればよいものを、マガモだけを狙おうとするのである。時折、間違えて緋鳥を捕えてしまうと「な~んだ。不味い緋鳥か」と捨ててしまうこともある。「何という罰当たりめ!!」と思うのだが、致し方ない。人間とはそういう動物である。生き物の名は、呼び手によって変わる。成長に従って体形が変わる場合、その呼び名の変化は「出世魚」などという。また、呼び手の着眼点によって変わる場合もある。緋鳥は、その頭が赤いので、赤頭と呼ぶ人もいる。あるいは、長く水に潜ることができるため息長鳥と呼ぶ人もいる。息長は、イキナガ(息長)ともオキナガ(翁長)とも呼ばれる。
美しい緋鳥の姿に心惹かれながら、阿彦は山奥へと足を踏み入れた。平たく歩きやすい栗林では、茸にお目にかかることは少ない。目指しているのは松茸である。ゆえに藪をかき分け、赤松の林へと分け入った。
ビユ~ンと弓鳴りが走った。矢に射られたのは鴨ではない。矢は熊男の背に刺さった。「撃て、撃て、撃て」と声が響く。何本もの矢が飛ぶ。ビユ~ン ビユ~ン ビユ~ンと悲鳴のような木霊が山を騒がせ、冬を呼び寄せる。地上の長い道を歩んできた男は、天の海原に足を踏み入れる。それから、風に吹かれて安寧の時に身を委ねた。
黄泉醜女(よもつしこめ)が歯ぎしりをする。涙は浮かべない。深淵から湧き上がる怒りだけが、女の生気を燃やす。「阿波人か……。よくも、よくも兄上を」雪のように白い肌からは火炎が噴き出しそうである。血塗られた熊猟師の首が並べられている。イブシは「シマヅ国の奴らかどうか確かめろ」と配下に檄を飛ばす。伏し目がちの女が、娘を抱き寄せる。娘は涼しい瞳で空を見上げる。そして、ふ~っと息を長く吐くと「父様は、風になってしまわれた」そう、静かに囁いた。
天高く 風澄み渡り 緋鳥鳴く
熊鮮やかに 栗棚をかく
〜 ツノガ(角鹿)の花嫁 〜
奇妙な船が進水式を迎えようとしている。赤漆の屋根に覆われた、亀のような姿の船である。四本の足の代わりに十二本の櫂と、六本の艪が突き出ている。艪櫂には鉄芯の補強がされており、なまじなことでは折れそうもない。艪や櫂が荒波で折れれば予備を使えば良いものだが、実に大仰な造りである。まさか刀や槍の代わりにでもするつもりではあるまいが、あるいは大嵐を敵とする造りかもしれない。
船が浮かぶのは、角鹿の造船所である。造船の指揮を執ったのは墨縄の稲辺だが、設計者は加賀女である。この娘は、稜威母王猛流が溺愛する姪である。王の後ろ盾がなければ、こんな奇妙な船は造らせてもらえない。蛇の目の旗印を掲げるその船の名はカガミノフネ(蛇海乃船)という。
帆は三角帆である。したがって船体はダウ船だと思われる。嵐の海では帆をたたみ、艪櫂で進む。波が高くなれば二本の艪だけで進み、残りの四本は海中に垂直に立てて固定する。つまり横流れ防止板の役目である。櫂は、先端に竹の浮きを付けて水平に固定し、転覆防止の役をやらせるらしい。そのために鉄心で補強しているのだ。
水夫たちは屋根の中で風雨と波しぶきから守られている。屋根は薄い板に漆で防水性を持たせ、垂木は竹で組み、支える柱も竹である。そうして低重心化を図っている。舟形の樽のような船なので復元力が高く、「冬の嵐の海も乗り切れる」と加賀女は主張している。つまり、冬の鯨海を難なく航海できる船らしい。老いた水夫の中には不安視する者もいるが、加賀女に睨まれたら反論はできない。所長の稲辺は「面白い船だ」と半ば呆れ、半ば感心しながら、加賀女の設計の未熟さをそっと補っている。
この船の発注者は、鯨海の徐家である。今は、宇良一族を名のる当主ウライキツ(宇良活津)は、娘婿となるスクネヒコ(少根毘古)への結納としてこの船を造らせた。少根毘古もこの奇妙な蛇海乃船に一抹の不安を抱いたが、可愛い妹が設計した船である。たとえ難破船になろうとも、海に乗り出し足とするしかなかった。
加賀女は本来、女官である。倭国女王チュクム(秋琴)に仕える身だが、今はチュクム女王と、叔父の猛流王の娘カズラギヒメ(葛城媛)の守り役である。役職的には王女と女官であるが、二人は血縁者であり歳も近い。ゆえに姉妹のような間柄である。そこで加賀女は、葛城媛を伴い、造船所に入り浸りなのである。
娘の婚期は十五歳頃であり、男の子もこの時期に成人式を迎える。そして二十歳くらいまでには妻を娶る。加賀女は、十七歳になった。ゆえに、やや妻になる時期を逸している。しかし天才少女は、婚期には興味がない。関心事はもっぱら「流体力学」である。加賀女の剣と学問の師匠は、チュクム女王の懐刀バイ・ヤン(白羊)である。彼は、加太の兄弟分である。ゆえに、流体力学についても基礎的なことは知っている。そのため、天才少女の発明熱は沸き立っている。
四百年ほど前、大秦(ローマ)国の隣にあるシーラー(希臘/ギリシャ)国に、アルキメデスという天才がいた。彼が得意とした分野こそ、加賀女の胸を躍らせるものだった。加太はその天才アルキメデスと友人であった……らしい?? まぁ加太は龍人である、あながち不思議な話ではないのかもしれない。そのアルキメデスの研究書が、加賀女の手元にある。アルキメデスから加太へ、加太からヤン(羊)へ、ヤンから加賀女へと渡ったのである……?ということらしい。蛇海乃船を我が足とした少根毘古の行動範囲は飛躍的に広がった。冬の鯨海をも乗り切るこの船があれば、小柄な男でも、大男に負けない速さを得ることができ、少根毘古はまさに神出鬼没の存在となった。
紺青(こんじょう)の海原と群青の空の間を、疾風(はやて)が吹き抜けた。海鳥は天高く舞い上がり、帆柱は大きく傾く。雷鳴こそないが、高波を切り裂くような悲鳴が響いた。蒼白な顔の美少女を、幼子が抱き留めている。十四歳の美少女はカグノコノミ(香具好海)。彼女を抱く気丈な幼子は、粟水軍の女頭領スズメ(海雀)の娘、カモメ(歌萌女)である。わずか七歳だが、水軍の血を引く娘はこれしきの波では動じない。
初夏、テンユウ(天雄)は従兄弟の少根毘古とオグナヒコ(於虞奈彦)を伴い、オクニ(尾六合)の訃報と生前のお礼を伝えるため志摩津国へ向かっていた。渡海を請け負うのは粟水軍である。先代頭領である木の国のコダマ(狐魂)は、年の初めに七十七歳の天寿を全うした。今は孫娘の海雀が頭領を務めている。女頭領を支える大番頭は、夫のヤソカシ(項八十柏)である。彼は剣の項権の長男であり、項家軍属の海援隊に属していた経験から、粟水軍を徐々に交易商人へと変貌させつつある。
船にはもう一人、すらりとした淑女が乗船していた。鯨海の徐家の娘ツキタチバナ(月立波凪)姫である。十九歳のこの娘は冬の荒海で育ったため、歌萌女同様、揺れに平然としていた。月立波凪姫が荒れる波間に向かって神歌を歌い始めると、不思議と海は穏やかになっていった。気を失ったように歌萌女の腕の中で伏せていた香具好海姫だったが、やがて故郷ミンタラ(珉多良)の港が見えてきた。
珉多良は、キグマ(紀球磨)国の国都である。香具好海姫は十二歳の時から、ここより南のミムロウタキ(魅牟婁御嶽)で巫女修行に励んでいる。今回の航海では月立波凪姫の案内役を務めていたが、彼女にとっては里帰りでもある。

玉のような肌を弾ませ、乳児が駆ける。叔母が目を細めて抱き寄せると、乳児は無邪気にその胸へ飛び込んだ。母と同じ匂いを感じ取ったのだろう。一歳になったばかりの男の子、トヨクモ(豊雲)の足取りはまだたどたどしいが、腰つきはしっかりとしている。母は鯨海徐家の娘アカテルメ(丹照瑪)であり、その美肌は母譲りだろう。しかし、たくましい足腰と濃い産毛は、父方の祖父であるツソ(対蘇)国のアソ(吾蘇)譲りのようだ。アソは黒潮の女王ヒムカ(日向)の最初の夫である。
ヒムカは、吾蘇との間にソツヒコ(蘇津彦)とミケヌ(巳魁奴)を儲けた。長男の蘇津彦は亡き父の跡を継いで対蘇国の民を率い、次男の巳魁奴は木の国を開拓し紀球磨国を立てた。したがって、この乳児・豊雲は将来の紀球磨国王となる定めにある。月立波凪姫の来訪の目的は、甥の元気な姿を見ること、父からの祝いの品を届けることだった。その品は「流星刀」という守り刀で、フォンショウ(豊受)一族に伝わる家宝の一つ、別名「斬鉄剣」という。王となる孫にはふさわしい逸品であった。
もう一つの目的は、兄ウラクスビ(宇良楠日)夫婦に会うことである。クスビ(楠日)は、丹照瑪姫の輿入れに伴い、多くの山師を連れて紀球磨国にやってきた。そして、宰相ヒキグマ(日紀隈)の次女ナーシー(娜汐)を妻となし、名をクマノクスビ(熊野楠日)と改めて、今や巳魁奴王の右腕として活躍している。
月立波凪姫は、十日を紀球磨国で過ごし、再び海雀の船に乗り込んだ。香具好海姫は、海が凪ぐまで豊雲の子守りをすることにし、一行は次の寄港地、志摩津へと向かった。珉多良を出港すると再び波は高くなったが、魅牟婁御嶽を回り込むと波がやや収まり、南西の風がゆるやかに吹き始めた。そして船足が速まった。志摩津国の伊勢御嶽を超え、アユチノウミ(東風茅之海)に入ると波はさらに穏やかになってきた。月立波凪姫が海原に流す歌は、まるで祓えの祝詞のようであった。
志摩津の国都ポルポロ(浦留保呂)の港が見えてきた。桟橋には王イハチ(伊波智)自らが出迎えに立っていた。その傍らには那智女が立っている。将来、黒潮の巫女女王になる娘である。那智女の養母ナライ(倣風)は、阿人の英雄アドモフ(率賦)の末裔である。粟水軍のヒバリ(雲雀)はその姉にあたるため、那智女と海雀は従姉妹分である。十九歳の歳の差があるため、那智女は海雀よりもその娘の歌萌女に親近感を抱いている。一方、那智女の父クマノクシビ(熊野奇火)はエミシ(愛弥詩)国の初代王にして黒潮の徐家十六代当主である。香具好海と那智女は叔母と姪の関係だが、五歳差の彼女たちは実の姉妹のように仲睦まじい。
宴の席、鹿毛の敷物の上に薄紅色の被衣(かづき)を纏った娘が座っている。顔は見えないが、どうやら那智女の異父姉ウララのようである。静かだが緊張した乙女の息吹が漂っている。その息吹を雅楽が包み込む。異父妹のミズハ(瑞波)と那智女が巫女の舞を披露する。母ヒムカの姿はない。放任主義の女王は娘の婚礼にすら立ち会わず、那智女を代理に立てたのだ。花嫁ウララの実父ウラト(宇羅人)は、すでにこの世にはいない。馬韓国で同胞ヨサミ(依佐見)族と共に戦死した。宇羅人の面前の敵は辰韓国軍であったが、真の敵は倭人嫌いの馬韓王チョゴ(肖古)であった。
ウララと弟サチヒコ(沙乳彦)を育ててくれたのは、志摩津国の伊波智王とチバリ(智鍼) 王妃である。伊波智王も父を倭国との戦で亡くし、チバリ王妃は依佐見国で宇羅人に可愛がられて育った。ゆえに二人は、ウララたちを実の子以上に慈しみ育ててきたのである。ウララの夫となるのは、ヨナパルのランケ(嵐気)という。その父カウラ(火浦)は伊波智王の従兄であり、彼らの祖母は「山の民」の頭領の一人、ライコツケ(来骨毛)の宇羅お婆である。嵐気は将来、アチュイモシリ(海国)の山の民を率いる存在となる。
ウララと那智女が拠って立つ地理的関係は、女王ヒムカの開拓領域をさらに広げていくことになる。その黒潮連盟の広大な領域を引き継ぐのは、将来「日巫女」として目覚めることが期待される那智女である。しかし、今はまだ九歳の幼い巫女に過ぎない。
祝いの席には、天雄、少根毘古、於虞奈彦の三人に加え、月立波凪姫、海雀、歌萌女も顔を揃えた。この宴席が終われば、天雄は再び粟水軍の船でチヌノウミ(茅渟之海)へと戻る予定である。舞を終えた瑞波が天雄の前に座り、「テンユウ様、お久しゅうございます。お元気そうですね」と挨拶した。十二歳の瑞波は少女から乙女へと移ろう時期にあり、その輝くような美しさに、天雄は眩しさのあまり言葉を詰まらせた。
「熊さえ素手で倒す男が何を戸惑っている。さぁ手でも握って『お美しゅうなられて』とでも言わぬか」と、従兄弟の少根毘古が背を叩いた。天雄は「ああ、おお……」としどろもどろになる。その様子を智鍼王妃は笑いながら眺め、伊波智王に目配せした。王は「もう四年だな。四年後には、稜威母の逸材が我が一族に加わろうよ」と嬉しそうに囁いた。
東風茅之海からの海風が一行の背を押した。藍実へ向かう山道で振り返ると夏の海が煌めいていた。月立波凪姫はその雄大さに天雄の面影を重ねた。本来、安曇磯良となるはずだった天雄が、木の国の北端に隠れ住んでいることに彼女は大層驚いたが、土まみれの手と腕に、確かな逞しさを感じ取っていた。そのことを少根毘古に話すと、「さすがに徐家の姫様はお目が高い。奴は隠れた倭国の王なのです」と称賛された。
東風茅之海の奥、ルルム(流留無)からは西へ向かうのが最短の帰路だが、少根毘古は、高志を回って帰る旅を考えている。そのため、アハウミ(淡海)とは反対の藍実を目指しているのだ。月立波凪姫は背が高く、カモシカのように美しく丈夫な脚を持っているので、この過酷な旅路に同行することを決めた。於虞奈彦や供の者たちも若く健脚だが、体力的には一番頼りなげな少根毘古が、最も大きな気概を抱いていた。彼の目的は、今の高志の王ともいえる美名方に会うことである。
美名方に最後に会ったのは、第四回「阿倭和平会談」の時だった。第三回は角鹿の堅固の屋敷で行われたため「ツヌガ会談」、第四回は稜威母の安曇館であったため「イズモ会談」と呼ばれている。当時、少根毘古と於虞奈彦の兄弟はまだ八歳だった。その後、ヘキとオクニが倭国女王の暗殺を謀り、戦が勃発したため、会談は途絶えている。しかし、十七歳になった少根毘古は今も和平への夢を抱いており、その可能性を美名方に説こうとしていた。青年ならではの大胆な行動だが、その小さな身体には、山より大きな大志が詰まっていた。
谷合を吹く風と深い夏の緑が、一行の疲れを癒やす。月立波凪姫の胸元に浮かんだ汗が芳香を放ち、天空へと昇る。彼女が眩しげに目を細め遠くの雷雲を見つめると、頬に笑窪が浮かんだ。少根毘古は彼女が背丈の違いから感じていた気圧(けお)されるような思いが、親近感へと変わるのを感じた。「なかなか、愛らしい女人ではないか。いつか本当に笑顔が見たいものだ」と彼は思った。
藍実では首長の真男を訪ね、宿を請うた。真男は斐太の首長ケマハ(毛馬伯)の長男であるが、アイミ(藍実)の首長ホニヒ(穂煮火)の一人娘アワミ(沫美)を妻とし、ホニヒの跡を継いでいた。かつて阿人の英雄ホピカ(穂卑河)の股肱の臣であったホニヒも、もうこの世の人ではない。時代は確実に次の世代へと受け継がれていた。
真男の弟真弥は斐太の首長であり、末弟の丹場の真純は、先の戦で阿彦に与して倭国軍と戦った。つまり少根毘古の父堅固とは敵対関係にあったのだ。敗戦後、真純は隠棲したが、美名方と堅固は彼の罪を問わず、高志南部の部族長に復職させた。三兄弟の妹は阿彦の妻ピリカである。したがって真純の敵対行為は謀反ではなく、妹の夫婦ための情によるものだと二人は判断したのである。幸い、高志南部と角鹿の間で大きな戦闘は起きず、民の間に憎しみの連鎖が広がることはなかった。
斐太と藍実は中立を貫いた。それは阿人国の王チュプカセタ(東犬)の意向であり、倭国の大首長須佐人との合意に基づくものだったため、両地域は戦火を免れていた。北の埜口から、アリソウミ(有磯海)の海風が吹いてくる。海の神である綿津見命と土の神である埴輪安命の息吹に抱かれたこの地は、豊穣の地である。かつて阿彦とヘキが治めていた奈護浦は、今では美名方が拠点としていた。
少根毘古一行が足を踏み入れたのは、先の反乱で激戦地となったイベツ(猪捌)である。阿彦軍が二年余りも持ち堪えられたのは、三方を山に囲まれた堅牢な地形に加え、食料が豊富だったからである。現在の猪捌は豊かさを取り戻しているが、随所に両軍の戦死者を弔う塚が点在していた。少根毘古たちはその一つ一つに手を合わせながら進む。猪捌での宿は真弥が手配してくれた。そして自らここまで道案内をしてくれ、今朝別れたところである。
真弥は昨夜のうちに美名方へ早馬を走らせていたため、奈護浦では歓迎の準備が進んでいるはずである。今、美名方は鯨海沿岸の安寧に尽力しており、この一行は賓客であった。やがて川湊に到着した一行は、舟に乗り込んだ。この中型の川舟もまた、角鹿造船所で造られたものである。美名方が差し向けた舟に揺られ、ゆったりとした時が流れる中、半日ほどで奈護浦に到着した。港には、辰韓国の大型船が静かに停泊していた。
〜 ジンハン(辰韓)の春風 〜
さざれ石の広がる河原に砂塵が舞った。新しい年は明けたが、少女にその喜びはない。粉雪が舞い始めたが、寒さも感じない。ヨナパルの冬は厳しく春が待ち遠しいが、少女の心に春の息吹は訪れそうもない。霜枯れゆく心は当分、溶けてくれそうにはないようである。か細い歌声が聞こえる。
♪ 父様はどこへ行かれたのだろう。 母ぁ様と私を置いて
遥かな異国まで行かれたのだろうか? 母ぁ様と私を置いて
父様はどこへ行かれたのだろう。 安寧の地を後にして
そこは夢の国?それとも絶望の国? 安寧の地を後にして
朽ちた城跡には白い花が咲き乱れ 旅人の後悔を癒してくれる
草原を渡る風は海原に森の息吹を運び 折れた帆柱を蘇らせる
♪ 父様はどこへ行かれたのだろう。 母ぁ様と私を置いて
少女は娘になり 娘はやがて嫁ぐ 父様はその姿を知らず
父様はどこへ行かれたのだろう。 安寧の地を後にし
私が眠りに就くとき父様の姿はなく 山里は雪で埋もれる
眠りの丘を静かに吹き抜けて 風は大地に留まれない
風はどこから吹いてくるの? 天から海からそして地中から
静かに静かに風よ 父様の匂いを運んでおくれ ♪
寒風が山の木々をざわめかせ、山間の里は暗く沈んでいく。しかし、少女は河原を動こうとしない。唇は赤みを失 い、髪は白く雪を被っていく。氷の矢が少女の胸に狙いを定め、若き命を射落とそうとしている。少女は静かに目を閉じ、雪原に身を横たえる。
ライコツケ(来骨毛)の地鳴りが響く。ヘキの怒りは、その火山弾より熱い。阿彦の死は事故死なのだが、それでは吹き上げる感情の行き場がない。弱き民なら「山の神に連れて行かれた」と怒りを悲しみで溶かすだろう。だが、ヘキには復讐心だけが、悲しみを癒してくれる拠り所であった。
日が暮れて、薄明かりを灯した「雀のお宿」が悲しみを囁く。宿を切り盛りする女や子供ばかりか、宿泊の者たちも声を潜め陰謀を噂する。「黒潮の巫女女王が刺客を放った」と。採掘を主な生業とする山師たちが、ピリカに呼ばれている。少し酔いの回った男が「近くに毒の華がある」と呟いた。それは石の華である。
男は懐から一握りの石を取り出した。中央に心がざわめく赤い花が咲いている。「大した宝じゃない。採掘のズリ(屑石)さ。だが、不思議な石だろう。これを細工すると鼠殺しの粉が取れる。味も臭いもしないから、チュー公どもはイチコロさ」とピリカに手渡した。
大声を荒らげて「火を強く炊け!」と大男が入ってきた。腕にはぐったりとした少女を抱きかかえている。男の荒い息に隠れているのか、少女の吐息は聞こえない。玉肌は白く雪のように冷たい。男は囲炉裏端で上着を脱ぐと、熱き肌で少女を抱き暖め始めた。「スズ!!」と慌ててピリカが駆け寄る。
ヘキの目は見開かれ、紅蓮の炎が燃え盛る。しかし、怒りを押し殺し静かに瞼を閉じた。そして、神歌を唱える。
根の国に横たわる少女に、呼びかける声がする。「戻りなさい。お前にはまだ成すべきことがある。ゆえに今はまだ、父様のもとへ逝く時ではない。戻りなさい、スズ」それは叔母の声である。スズは黄泉の玉を掴むと飲み込んだ。そして息を吹き返した。
大粒の涙で目を濡らし、「許さん!! 末代までこの恨み、絶やさんぞ!!」と大男が吠える。姉オクニを亡くし、盟友阿彦を亡くし、多くの同志を亡くした。そして今また、阿彦の遺児スズを亡くしかけたイブシは、怨霊道に足を踏み入れた。赤銅色に焼けた火箸を掴むと、「この命ある限り、倭国に挑み続けよう」と己の腕に印を焼き入れ、怒号を発した。
海と空の境が見えない紺青の世界に、光が灯った。そこが水平線だと思われる。その小さな日輪は、海蛇を伴い稜威母の浜を目指している。冬にしては穏やかな海原である。浜の篝火が、カガミノ船(蛇海乃船)を導く。
舳先には少根毘古が立つ。筒状に覆われた船楼には、新妻・月立波凪姫に伴われ、香具好海姫が座している。深紅の被衣(かづき)が黒髪を覆い顔色は見えないが、乳白の衣裳(きぬも)が女の香りを包み込み、裳裾(もすそ)が幽かに揺れている。十六歳の娘は、程なく女になる。
稜威母の浜には早朝にも関わらず大勢の人が詰め寄せている。少根毘古と月立波凪姫の婚礼も関心を呼んだが、於虞奈彦と香具好海姫の婚礼は、さらに関心を高めた。それは新たな時代の幕開けではないかと、衆目を集めたのである。
徐家は、この島国の要である。阿人と倭人を取り持ち、ツングース族と倭人、さらには阿人とツングース族をも繋いできた。つまり徐家は和合の象徴である。その徐家が新たな関係へと発展した。少根毘古と於虞奈彦という双子の兄弟を介して、鯨海の徐家と黒潮の徐家が再び結び合ったのである。この結合のうねりは、敗戦に沈んだ稜威母を、新たな発展に導く予感を生んだ。
稜威母の猛流王が、兄である角鹿の堅固に宝剣を贈与する。その宝剣は「草薙の剣」と呼ばれている。天命の証は占いに使う「鼎(かなえ)」である。中華の各王朝では九鼎が王権の証だとされたが、祭器九鼎が天命の証であれば、宝剣は古来より「武王の証」である。
堅固は、母である北の大巫女様ハハキ(蛇木)に「草薙の剣」を手渡した。ハハキは、左手に鈴を持ち、振り鳴らすと、右手に剣を持ち、於虞奈彦と香具好海姫の周囲を薙ぎ払う。その所作は神聖な巫女舞であった。
九鼎は九つの杯に姿を変え、天と地と海原に押し頂き、神のご加護を注ぎ頂く。於虞奈彦と香具好海姫は交互にそれを繰り返す。天命が下ると、稜威母王・猛流が、四神に向かい、精気を込めた両手で空(くう)を打ち鳴らす。堅固は足踏み鳴らし、地神に縁が結ばれたことを告げる。
ハハキは草薙の剣を加賀女に渡す。これはハハキから加賀女への引き継ぎの儀式でもある。その剣の舞は若さに溢れ、婚姻の華やかさを一層彩る。これは「祓えの巫女舞」である。媛巫女の一群が鈴を振り鳴らし舞い始める。これは祝いの舞である。幼子の後には花香る娘たちが続き、その後には肝っ玉母さん連が続く。若衆が鐘太鼓を打ち鳴らし、美少年連が笛を吹く。鯨海と黒潮の徐家は、道々に酒樽を並べ、祝い酒を振る舞う。
この婚礼には、鯨海沿岸の族長たちはもとより、倭国女王・チュクムや総理マー・チャーホァ(馬茶花)の姿も見えた。阿人王チュプカセタ(東犬)は高齢のため、世継ぎの二代目ホピカ(穂卑河)を送り、高志王・美名方も世継ぎのフミルイ(芙海累)を代理に立てた。
鯨海の海賊王・須佐人は、長男のハラエド(胎穢土)を名代に立て稜威母に向かわせた。ニヌファ(丹濡花)の息子ハラエドは二十八歳となり、秦家商人団の次期総帥としての風格をたたえ始めている。
稜威母には、アメミチ(糖満)の息子コトシロ(胡渡白)がいる。アメミチはオクニの姪である。反乱の時はすでに須佐人の側室であり、稜威母の館を守っていた。したがって須佐人の次男・胡渡白は、十九歳のこの日までここで育ったのである。
ハラエドは異母弟に初めて会うことを楽しみに、ヤマァタイ(八海森)国を旅立った。同じようにこの婚礼の儀を「出会いの場」とする若き世代の息吹が、祝宴を一層盛り上げた。ただ、ただ、頑なに、この婚礼を祝う気がないのは、ヘキとイブシの一族だけである。
甘い淫欲の目覚めに、少年は大きな戸惑いを覚えた。夜具をめくり、そっと拭き清める。湿った朝の風に、栗の花の匂いが吹き流れていく。もう一年近く、異常な朝が続いている。しかし十六歳の少年は、自分の身体に起きている変調の原因が分からない。
花の蜜の甘い香りが漂った。姉の沖那女が不意に訪ねてきたのである。胸が高まり、少年は不思議な感情に包まれた。少年の名は、翁之拿阿蛇。父タケル(健)はすでに世を去り、母ヘキは阿人国の山奥で隠棲している。少年がこの世で頼れる存在は、美しきこの姉だけであった。
姉が手を取り囁く。「新しい女官が来ました。ヒソメ(火素女)という名の阿波女です」。少年は姉の真意が分からず戸惑う。「ヒソメは、稜威母の育ちですが、その父はヨナパルの山師です」と続けた。
少年に閃きが走る。かつて思兼命(オモイカネノミコト)といわれる神様がおられた。「カネ」は金のことではなく「兼」であり、二本の稲を手で併せ持つ所作である。つまり、様々な思いを併せ持ち、全てを解き明かす知恵を持った神様である。平たくいえば頭脳明晰。翁之拿阿蛇もまた、その類であった。
この姉弟は、徐家の血を引く子供たちである。そこで、秦家の須佐人は、伊家の儒理の後妻に沖那女を嫁がせた。したがって沖那女は伊都国王妃である。しかし父の面影が薄いため、姉弟は高志人の思いの方が強かった。だが人質の身であり、反逆の意思を表に出すことはない。
伊都国の北風は恐ろしく強い。夏の台風に匹敵する強風であり、若い木々を押し倒すこともしばしばである。だがその強風も、ソソギダケ(層々岐)岳やイワラ(磐羅)山の山々に遮られ、ヤマァタイ国へは届かない。
幼き王子が強風に押し倒されそうになるのを、少し年上の少年が遮り守る。少年は、人質として伊都国に連れてこられた翁之拿阿蛇である。まだ十一歳の、いたいけな敗軍の将であった。翌年、姉は伊都国王妃となり、翁之拿阿蛇は幼き王子の叔父となった。王子の名はイ・シュン(伊洵)である。
伊洵王子は、前年に母スヂュン(子洵)を流行病で亡くしていた。まだ三十路に入ったばかりの若さであった。この年は倭国を未曾有の大飢饉が襲い、疫病が蔓延した。人々は「日巫女様暗殺の祟りだ」と噂した。そして多くの民が鯨海を渡り、辰韓国に助けを求めた。
母を亡くした一人っ子の伊洵王子にとって、翁之拿阿蛇は唯一無二の存在となった。それは三つ年上の実の兄にも等しかった。幼き敗軍の将にとっても、自分を慕ってくれる王子は、敵地で唯一、心を許せる存在となった。
女官ヒソメが着任した翌年、儒理王が急死した。初春を迎えようやく暖かい風が吹く日の出来事であった。事故死や他殺ではないが、不審な死であった。伊都国の民は、これを変死であると憤った。
王妃・沖那女は「何故?」と呟き泣き崩れた。そしてヒソメは不首尾を恥じ、どこへともなく姿をくらました。ヒソメの狙いは、伊家の洵王子であった。ヒソメを放ったヘキは、実の娘である沖那女が生んだ王子を王位に座らせるつもりであった。「掠め取り」の戦略である。
その策を遮ったのは、翁之拿阿蛇である。洵王子に運ばれた「毒の華」を、彼は素早く王の夕餉と取り換えたのである。王への殺意があったわけではないが、母の謀略よりも王子への情が勝った。それに母の策は下策に思えた。「天知る、地知る、汝知る、我知る」という言い伝えがある。無理な謀略が露見しないはずはないというのが彼の考えであった。彼は、より緩やかに流れを変えていく策を練ろうとしていた。
水仙の白い花が野を染めた。初春の風が、稜威母から猛流王と加賀女を運んできた。儒理王の魂送りの儀式は、加賀女が執り行う。哀愁を帯びた「魂呼ばい」の声が、伊都国の山々まで響き渡った。
倭人やツングースの民の葬儀はシャマン(呪術師)が執り行うが、中華の巫女は葬儀には関わらない。葬儀を司るのは導師である。したがって、チュクム女王にとっても魂送りの儀式に立ち会うのは初めてであった。
通常、筑紫之島の王や族長の葬儀は、南の大巫女様が執り行う。だが南の大巫女様ニヌファは前年より伏せっていた。ピミファ女王が身罷って以来、彼女は著しく生気を失い、この十年の間伏せることが度々あったが、今回は重篤であった。そのため、次の大巫女である世織津は母に付き添っている。そこで南の大巫女様の夫である須佐人は、加賀女を呼び寄せた。北の大巫女・ハハキは、これも孫娘への引き継ぎの儀式だと、喜んで猛流王に託したのである。
霜柱を踏む音がする。白い被衣(かづき)が早朝の中庭を進む。その後ろに白鼠色の衣袴(きぬばかま)が続く。幽玄の道を歩むのは、沖那女と翁之拿阿蛇の姉弟である。二人は、チュクム女王と猛流王に拝謁する。
尹家の巫女は「戦場(いくさば)の巫女」である。そのため女王は怪しき匂いをこの姉弟に感じとっていた。しかし確証はない。そこで、二人を辰韓国のソク・ネへ(昔奈解)王のもとに送ることにした。拒否すれば疑いは強まる。
ネへ王の本当の名はパク・ネフェ(朴奈海)であり、実父は儒理王である。祖父の阿逹羅王が没した時、密約を交わした父は国を去り、キドン(箕敦)は、ソク・ポルヒュ(昔伐休)を王に擁立した。
昔伐休には子種がない。パク・ネロ(朴奈老)の反乱の際、大傷を負ったのが原因である。ゆえに彼は、私欲を捨て、仙人のように暮らしていたが、そこをキドンに引き出されたのである。キドンが、儒理に示した条件は、「後継者の儒理王子が身を引けば、息子のネフェを次の王に擁立する」という密約であった。そして確証を得るために、娘のミョンウォル(明月)をネフェの妻とした。
儒理王子は戦に翻弄された人生を歩んできたため、辰韓国での内乱は避けたかった。そのためキドンの条件を飲み、倭国に引き揚げた。その約束通り、四年前、息子の昔奈解は二十一歳の若さで王位に就いていた。チュクム女王は、叔父である儒理王からこの話を聞かされていた。したがって女王は、昔奈解王が従姉弟であることも承知していたのである。
鯨海が吠えている。初春の海はまだ穏やかではないが、アマノサラフネ(海之冴良船)なら乗り切れる。沖那女は、悔みながら海峡を越える。「優しい方だったのに、父様のような方だったのに」。その思いの沖には、次の荒波が沸き立っている。
翁之拿阿蛇は、「女王は、異国の地で我ら姉弟を亡き者にしようと考えているのではないか」と命の縮む思いで北の空を眺めていた。王宮で拝謁したのは、昔奈解王のほか、ミョンウォル王妃、ソク・ウロ(昔于老)王子、ソク・リウム(昔利音)王子、そしてキム・チヨン(金智妍)皇太后であった。
金智妍皇太后の穏やかな微笑みに、翁之拿阿蛇は、「生きて帰れる」と安堵した。しかし、王から向けられた鋭い洞察眼に萎縮する。だが姉の沖那女は動じることなく、粛々と事の次第を報告した。昔奈解王は静かに父の死を受け入れ、報告の礼を沖那女に返した。その傍らで、金智妍皇太后は目を伏せて静かに聞いていた。
翌朝、金智妍皇太后が訪ねてきて、儒理王の晩年の様子を尋ねられた。そこで沖那女は、儒理王追放の真相を知ることとなる。昔奈解王は、チュクム女王への親書を沖那女に手渡し、それから紅梅の苗を翁之拿阿蛇に託して、伊都国の丘に植樹を頼んだ。北風は止むことがなく、帰路も冷たき旅路であった。
雪吹雪が海風に煽られ悲鳴を上げる。崖の巌(いわお)は苔の生す間もなく荒波に身をたれる。金智妍は、遠く離れた倭国に目をやった。初春の伊都国には、きっと白梅が咲いていることだろう。そう信じて、波の花の舞い上がる海中に身を投じた。
君待つや 海越え香る 白梅を
〜 馬韓の夏風 〜
悪女の深情けという言葉がある。この悪女とは醜い容姿の女である。「醜女(しこめ)」ともいう。その出自は黄泉の国の女「黄泉醜女(よもつしこめ)」である。化粧でその姿を変え、
「♪今夜だけでも きれいになりたい」と思い
「♪いつも目覚めれば独り」になる切ない女である。
「♪涙も捨てて 情も捨てて」薄情な男を見限ろうと思うのだが、
「♪行かないで」と月夜にすがってしまうのである。
したがって、黄泉の国の入口は、川に挟まれ孤島となった中之島にあり、深く降り積もった雪原に隠れているのかもしれない。その中は「深情け」という母の懐と同じ温もりなのだが、どうもそれを訝しいと思う男も多いので困ったものである。
神々の世でさえ薄情な男は多かった。ゆえに黄泉醜女は、憎み、恨みながら、黄泉平坂(よもつひらさか)まで薄情な男を追って行き、呪い殺そうとする。しかし最後には、深情けが勝って男を見逃してやるのだ。それを「醜女の深情け」という。実に哀れなものである。
沖那女は、聡明で優しい容姿をしている。だがその美しさは、傾国の美女に備わったものである。伊都国の野原を白い水仙が飾った。その控え目な美しさは人々の心を和ませるが、水仙は毒草でもある。曼珠沙華も水仙の仲間である。その荘厳な花姿と妖艶な深紅に、人々は毒の存在を感じ取る。しかし、水仙の可憐さの前では毒の存在を忘れてしまう。沖那女の本性は、母ヘキと同じように激しく奔放な気性である。一見すると、そこには醜女の深情けの欠片もない。しかし、沖那女は間違いなく黄泉醜女の化身であった。
都国の王には、尹家の血を引く洵王子が就任した。伊氏は代々、尹家の男が継いできた。それが伊佐美王からの習わしである。ゆえに、臼王の後を儒理王が継ぐことに不自然さはなかった。そして、やはり次の伊都国王にも伊氏の男が選ばれた。後見人は倭国のチュクム女王である。沖那女は伊都国の王妃であったが、王権に関与することはできない。今の地位は皇太后である。そして、十四歳の洵王の宰相には、十七歳の翁之拿阿蛇を付けた。ゆえに実質的に、沖那女は、女王に等しい権力を持っていた。
初夏の陽光を浴びて、伊都国の畦道を黄色い鏡草の花が覆った。噛むと酸っぱさが広がるので「スイバ」とも呼ばれる。お天道様の申し子のようであるが、所詮は雑草である。そして根深く、絶えることを知らない。そのため、沖那女はこの花を大層好んでいる。沖那女の美意識は、他人とは少し異なっている。雑草の鏡草を王宮の庭に植えさせ、春には野アザミも植えさせた。棘の多い草木を植えられて女官たちは大変である。しかし、沖那女はその赤紫の花に孤高の美を感じるのである。
路傍に苦菜の花が咲いている。その可憐な黄色の五弁花を、沖那女がじっと見つめている。ここは女王国への道すがらである。「また、あの雑草を王宮の庭に植えるのかしら」と女官たちは不安げに見守る。沖那女はその茎を折り、白い樹液を舐めた。女官たちが「苦そう」と顔をしかめる中、沖那女はじっと思案顔である。
女王国の王宮に上がると、チュクム女王だけが出迎えた。猛流王は、加賀女と共に再び稜威母に帰っていた。幼い王女、葛城媛が待ちかねているのである。女王を前に、沖那女は昔奈解王からの親書を手渡し、辰韓国での様子を報告した。それから「女王はご存じかもしれませんが」と前置きし、怪しげな話を始めた。
・・・・・ 沖那女の怪しげな話 ・・・・・
馬韓国のチョゴ(肖古)王は、大層な倭人嫌いであるという噂があります。辰韓国に攻め入る時は、必ず前線に倭人兵を立たせるそうです。この倭人兵は、倭国の民ではありません。馬韓国に先住していた倭人です。王の一族はコグリョ(高句麗)から来たといいます。つまり、支配層と民は異なる民族です。さらに中華から渡ってきた漢人もいるため、異民族国家といえます。
倭国の地にも先住民の阿人がいますが、倭国では阿人と倭人の混血が進んでいます。しかし馬韓国は、明確に三つの階層に分かれています。さらに、この民族移動は何世代にもわたって行われているため、実情はさらに複雑です。チョゴ王が倭人嫌いなのは、そうした背景があります。本当は漢人も嫌いなのかもしれませんが、そのことは伏せています。きっと、辰韓国にいる秦帝国の末裔である漢人たちが嫌いなのでしょう。
チョゴ王の妻、ゴンスン・チンファ(公孫清華)王妃は、リィァォドン(遼東)郡の出身です。父の名はゴンスン・シォンジー(公孫升済)。遼東郡の太守です。しかし今は高齢で伏せがちなため、実権は息子のゴンスン・チャンカン(公孫長康)に移っています。清華王妃と長康は親子ほど離れているため、王妃は彼を息子のように扱っているそうです。つまり、遼東郡と馬韓国は同盟関係にあると推測できます。
公孫長康は父の遺志を継ぎ、漢王朝からの独立を進めているようです。女王様がご存じのように、今の漢王朝は群雄割拠状態です。しかしいずれは、ユエン・ベンチュ(袁本初)かツァオ・モンドゥー(曹孟徳)が新たな覇者になるでしょう。長康はそれを見据えています。
西の漢王朝から圧迫されれば、遼東郡だけでは耐えきれません。そこで公孫長康は、ウェイムォ(濊貊)の地を攻略しようと目論んでいます。さらに馬韓国と結んで、弁韓国、さらには倭国までも視野に入れているでしょう。辰韓国の昔奈解王はこれに対抗するでしょうが、岳父のキドンはチョゴ王と通じています。儒理王子を辰韓国から追放したのも、この関係による力です。そう、金智妍皇太后に教えていただきました。
濊貊と辰韓国、弁韓国、そして倭国が連合すれば、キドンやチョゴ王にとっては厄介な事態になります。そこでキドンは何らかの謀略を考えるはずです。もう一つ、興味深い話を耳にしました。辰韓国の北部にある蘇志摩利に、呪詛の力の強いシャマン(呪術師)がいるそうです。彼は蘇志摩利にいながらにして、辰韓国内であれば標的を呪い殺すことができるといいます。私自身は呪詛に対しては懐疑的なのですが、この話を聞かせてくれた者によれば、彼は呪いの力を鳥に宿らせて放つのだそうです。ゆえに、実体は「影の暗殺集団」ではないかと私は思うのです。もちろん、確証はありません。
このシャマンを、少し前にキドンがチョゴ王のもとへ送り込んだそうです。さらにそのシャマンは、チュホ(州胡)に渡ったようです。それが我が夫の急死に何らかの因縁があるのかは、今のところ定かではありません。しかし、チョゴ王、キドン、そして公孫長康の動きには注意を払う必要がありそうです。
昔奈解王はこの件に関して何もおっしゃいませんでしたが、聡明な王ですので、察してはおられるはずです。きっと、ミョンウォル王妃と昔于老王子、昔利音王子の身を案じておられるのでしょう。一方で昔奈解王は、叔父のキム・ナムス(金南修)様を頼りにされています。金南修様は金智妍皇太后の弟で、パンパ(伴跛)小国の族長です。そして弁韓国のテチョンガン(大天干)でもあります。王にとっては、岳父キドンよりも叔父の方が父代わりのように感じられるのでしょう。私たちの帰路でも、金南修様には大変お世話になりました。誰もが「聡明で正直な方だ」と認めるような御方です。この二人の後見人の仲は良くないようです。特に弁韓国が辰韓国に友好の意を示していることは、チョゴ王やキドンにとって不都合な情勢です。この点は、我が国としても考慮しておく必要があります。
以上が、私の報告です。役目以外の情勢にまで口を挟み、申し訳ございません。どうぞお許しください。
沖那女は報告を終えた。チュクム女王は、同伴している翁之拿阿蛇をしばらく注視し、それから「貴方からは、何か補足することはありますか」と尋ねた。彼は一瞬驚き「何もございません」と答えた。女王はフンと鼻で笑うと「御苦労でした」と二人を下がらせた。
女王の間を辞すと、沖那女は唇を噛み、いきり立つ気持ちを抑えられず、踵をドンと踏み鳴らした。そしてチュクム女王と覇権を争うことを決意し、翁之拿阿蛇の手を取ると、引きずるように王宮を後にした。その剣幕に恐れをなし、穏やかな弟はうなだれて歩いた。

道化師が跳ね、歌っている。人々は大笑いし、その遊行の一団を取り囲んでいる。滑稽にお尻を振りながら、「モンガ~ モンガ~」と意味不明な掛け声を発するが、それが不思議と小気味よい。道化師の四人組は若い娘たちであった。
ここは馬韓国の王都ハニャン(韓陽)の街である。ソウル(瑞蔚)城の門前では多くの露天商が立ち並び、市が開かれている。近郊の農家からは新鮮な農産物が運び込まれ、肉屋には腸詰などの加工品が吊るされている。交易商人たちは異国の品々を並べ、家畜や奴隷も売られている。人だかりの中で、黄金色の銅剣を煌めかせ、五人組の若者が剣舞を始めた。黄色い歓声が飛ぶ。互いの切っ先を危うくかわし、俊敏な若衆は飛び舞う。年頃の娘たちは、その危うさに心をざわつかせ、恋心を湧き立たせる。
大木の間に太綱を張り、華奢な少女がその上を渡る。二階建てほどの高さがあるため、落ちたら大怪我では済まない。少女は綱の反動を利用し、高く宙に舞い上がる。「嗚呼~天女だぁ……」と少年たちは嘆息し、見上げる。身体の芯に太鼓が響き、腰が揺れる。笛の音が心の臓を小躍りさせ、手足が踊り出す。そして小気味の良い早鐘が、土踏み鳴らす行列を率いる。街は夏祭りの至福に熱く酔っていた。
この遊興の演出をしているのは、美しき「灰神楽(はいかぐら)姫」ことヨン・マンヂュ(延曼珠)である。しかし、興行師に転身したわけではない。本業はやはり交易商人である。そして今回率いているこの商人団は、数百人の規模という桁外れの大きさであった。
頼りにしていたペダル(倍達)祖父ちゃんは十年ほど前に、慈しんでくれたソンロ(松露)祖母ちゃんも三年前に亡くなった。母のソルファ(雪花)は五十路を前に、体調の優れない日が多くなっている。そのため、末の弟オンジョ(穏祚)が面倒を見ている。「ファンジンチーイー(黄巾起義)」で、父シンナム(神男)は戦死したが、弟のヨン・ピリュ(延沸流)はなんとか生き延びていた。ゆえに今、ヨンタバル(延陀勃)商人団はマンヂュ(曼珠)が率いている。
加太の弟子でもあるピリュは、チュクムと共に一旦は倭国に逃れた。しかし、残されたタイピンダオ(太平道)の信徒たちを逃がすために、青洲に戻った。それから皆を率いて高句麗まで逃げてきたのである。姉のマンヂュと再会すると、太平道の民を高句麗からさらに馬韓国に逃がした。その前年には、マンヂュがマー・チャーホァ(馬茶花)の率いる第一波の避難民を倭国へ導いていた。
ペダル祖父ちゃんが亡くなった年、十八歳になったマンヂュに、祖父ちゃんの盟友である公孫升済は、馬韓国のクス(亀久)王子を添わせていた。しかし喪に服したため、実際に馬韓国の姫となったのは二十一歳の時である。この年、美しき女軍師リンシン(張林杏)が第二波の避難民と青洲黄巾軍の千人隊を率いて逃げてきた。彼らを導いたのも、マンヂュとピリュ、そしてクス王子である。チョゴ王はそれを黙認した。その経緯を、チュクム女王はよく承知している。
「東夷の魔王」と呼ばれる公孫升済とチョゴ王は、太平道の民を倭国に逃がす手伝いをしたのであるが、公然と漢王朝に知れるのはまずい。そこで避難民は交易商人の身なりをして、幾度となく倭国に渡った。それが夏祭りの一団であり、その中核がヨンタバル商人団であった。
戦争は経済の活性化を誘発する。いわゆる「軍需景気」である。マンヂュはその好景気の波を、遼東郡と馬韓国にもたらした。ゆえに、この偽装交易商人群は両国にとって「福の神」であった。その終焉の地を治めていたのは儒理王である。したがって、チョゴ王には儒理王を呪詛する動機など何もない。公孫升済からチョゴ王へ、チョゴ王から儒理王への道は、互いに利益を生み出す道なのである。この国際情勢が掴めていなかったのは、沖那女ただ一人であった。それを、チュクム女王は愉快そうに鼻で笑ったのである。
大きな産声が王宮ソウル(瑞蔚)城に響き渡った。声の主は玉のような男の子である。名をウボク(優福)という。母は二十八歳になったマンヂュである。後年のことになるが、ウボクはオンジョ(穏祚)の婿養子となり、南部商人団を率いることになる。
マンヂュは、ヨンタバル商人団を五つに分割するつもりでいた。本拠地のチョルボン(卒本)に総本部を置いたまま、四方に商人団を広げる構想である。その南部商人団をオンジョに率いらせる。東西南北の商人団が力をつけた時、それは国境なき経済大国となる。ゆえに王妃を務める馬韓国ばかりか、東夷世界全体の経済を牽引することになるのだ。そしてそれは、チュクム女王との連携により、より確かなものとなっていく。
大帝国である漢王朝を見限り、東へ東へと移動する太平道百万の避難民。それは中華の富が東夷世界へと流れていく現象であった。彼らが踏み固めた道は、新世界の大きな交易の路(みち)となったのである。
〜 高句麗の秋風 〜
びゅーっと寒風が吹きぬけた。ジャン・リンシン(張林杏)が思わず「さむ~い」と身震いする。山苞(やまづと)の道では、トラジ(桔梗)の青紫の花が目に鮮やかに映る。ゆえに、凍えるほどの寒さではない。むしろ藁(わら)に包まれる温かさを楽しめる季節であるのだが、南方育ちのリンシン(林杏)には、真冬の寒に感じられた。
ここは幽州東北部の山里である。数万もの旅団が長い行軍の列を作っている。目指しているのはシェント(玄菟)郡である。その先頭を行くのは、ヨン・ピリュ(延沸流)である。旅に慣れている好青年であっても、これだけの旅団を率いるのは緊張を強いられる。
大きな栗林のある屋敷の前に差し掛かった。ピリュは満面の笑みを浮かべて屋敷に入って行く。数人の使用人に付き添われ、白い肌の老女が出迎えた。どうやら彼女がこの屋敷の主のようである。老女は、ピリュの姿を認めるとしっかりと抱き寄せた。そして「生きておったのか。良かった、本当に良かったのう」と涙した。
この旅団は浮浪者の群れではない。金銀財宝に加え食糧も十分に備蓄しての逃避行である。したがって衣食に困窮することはないのだが、「住」だけは旅の先々で厄介をかけることになる。もちろんこれだけの人々を収容できる宿はないので天幕暮らしとなるが、その設営場所については各地の人々と折り合いをつける必要がある。幸い、収穫の時を終えた田畑や牧草地が点在しているため、そこを一時の間、借りるのである。
老革命家ポントゥォ(彭脱)ことリー・ブォウェン(李博文)は、中華をこれ以上内乱の地にするのは益がないと判断した。そこで、チュクムが先に逃げ落ちた倭国への大移動を考えたのである。帰国した加太とピリュの話によれば、教祖は倭国の女王になっているという。ならば、その地こそが太平の夢を描ける国である。
優秀な官僚であった李博文は思案を巡らせ、旧知のツァオ・モンドゥー(曹孟徳)との折衝を行った。李博文が欲したのは、安全な避難路とそれに要する財源である。この頃、曹孟徳に不足していたのは軍力であった。曹孟徳は三十万を擁した青洲黄巾軍より、精鋭十万の兵とその家族を得た。それは一つの小国に匹敵する規模である。したがってその対価も巨額であった。ゆえに、この旅団は決して困窮した群れではないのである。
大移動には陸路と海路を用いた。海路は、チンダオ(青島)から出港し東海を渡るシューフー(徐福)の大航海航路と、ジンメン(津門)から出港しポーハイ(渤海)を渡りラーラン(楽浪)郡へ向い、それから沿岸を南下する二つの航路である。青島からの船出は、男装の絵師グー・リンツァイ(顧鈴菜)と、海越の舞姫シー・ユェファ(施越花)が率いた。船を出すのは、東海の海賊王ジェン・ティェンハイ(鄭田海)である。
津門からの船出は、月氏商人団の末娘ユェ・ズーラン(月紫蘭)が率いた。彼女の実父は、渤海の海賊王シェン・ウーハイ(玄武海)であり、夫は青洲太平道の水軍を束ねていたフェァ・イー(何儀)である。したがって、こちらも準備に抜かりはない。
海路で倭国に向かう信徒は、老人や子供たちが大半である。船の定員にも限界があり、数万の民を一度に運ぶのは不可能であった。太平道信徒の総数は約三百万。その大半は冀州、豫州、荊洲の各地に潜伏している。それでも青洲に逃れてきたのは百万にのぼる。曹孟徳のもとに降った精鋭十万とその家族三十万を差し引いても、倭国を目指すのは六十万の信徒たちである。
徐福が倭国に渡った時の数は五千程と言われている。それに匹敵する大船団を津門と青島から出したとしても、一度に運べるのは一万。一往復に一年を要することを考えれば、十年かけても海路で渡れるのは十万である。残る五十万の信徒を陸路で率いるのはリンシンであるが、これも一斉に移動するには無理がある。十万の避難民団に分け、各一年を要しても五年の歳月が必要である。そのため、各地に留まる「残留組」を束ねる世話人が必要であった。
これに真っ先に手を挙げたのが、老革命家の李博文である。次に、バイ・ロウ(白柔)とタン・チュンイェン(檀春燕)の一家が名乗りを上げた。白柔の養女である檀春燕は、ヂャン・ファン(張方)を夫としていた。張方は、ヘイシャンダン(黒山党)の大頭目ヂャン・フェイイェン(張飛燕)の跡取りである。したがって、各地の潜伏信徒たちは黒山党が守ることとなる。
先発隊約十万の先導者はピリュである。ピリュは遼東郡や高句麗の知人を頼り、ヨンタバル商人団の本拠地チョルボン(卒本)を目指している。そこが今回の越冬の地となる。最後尾はリンシンが率いているが、先頭のピリュ部隊とは十日の開きがある。つまり、野営地に一泊するのは一万の人々である。その場所は毎日住民が入れ替わる「一万人の町」となっていく。天幕は徐々に家屋に代わり、集会所や市も立っていく。こうして、高句麗から倭国の間に三十余りの町が出来上がった。中華の町造りは、防壁に囲まれた城塞都市である。したがって、それは漢王朝との間に立ちふさがる防衛線の役割も果たすことになった。
蹴轆轤(けろくろ)を回す小気味よい音がする。小川のせせらぎに混じり、ギーッ・ドスンと大地を打つ音が規則正しく響く。狭い山の小道には子供たちの笑い声が弾んでいた。子供たちは頭の上や背に薪を背負い、坂道を駆け上がる。お手伝いをしているのである。
素焼きの器を幾層にも重ねて運ぶ女たちがいる。彼女たちが目指しているのは、緩やかな斜面に伸びた長い窯である。中華ではその形状からロンイャォ(龍窯)と呼ばれるが、高句麗の人々はサヨ(蛇窯)と呼ぶ。いずれにしても、細長く斜面を登っている窯の形状からそう呼ばれるのである。ただ細長いだけなら「長芋窯」でも、「鰻窯」でも良さそうなものだが、窯とは火を噴き、濛々たる煙を立ち昇らせるものである。ゆえにこそ火を噴く龍や、赤い舌を出す蛇の印象が勝るのである。大蛇であれば火を噴くという伝承もあり、言い得て妙であった。
太平道の信徒は、多彩な顔ぶれである。元は漢の役人、武人、農民、漁民、山師、左官、工人、商人、学者、芸能人と、あらゆる職業人が揃っている。その内訳を細分化すれば百種にも及ぶ。この「百の技術」をすべて併せ持つ者こそが百姓と呼ばれる。したがって、ただ田畑を耕せるだけでは「百姓」の称号は得られないのである。
その百姓の首領(ドン)がいた。名をリィゥ・ビー(劉辟)という。彼は玄菟郡の貧農に生まれた。小さな時から体格に恵まれ腕っぷしも強かったが、頭脳明晰な子供でもあった。両親の手伝いをしながら独学で生物学に目覚めた。父親は、働いているか酒を飲んでいるか、さもなくば蚤(のみ)を潰しているかという男で、学問も趣味もなかった。父との会話は皆無に等しく、何かを尋ねても「俺は忙しい」とぶっきらぼうに返されるだけだった。“蚤をつぶしているだけじゃないか”と反感を覚えた劉辟だったが、奇妙なことにその蚤の生態自体に興味を惹かれた。それが彼の生物学への入口となった。
蒸し暑い風が吹き、汗にまみれる。土埃が田畑の張り付き、労働意欲も萎えるような日。「川で汗を流してくる」と母親に告げ、劉辟は河原に向かった。夏草に覆われた河原で、悪童たちに苛められている少年を見かけた。服装からすると裕福な家庭の子のようである。“汗を流しにきたのじゃあるまい”と眺めながら、長い爪楊枝をくわえ“金持の子なんざぁ、アッシ(私)にゃは関わり合いのないお人でござんす”と少しすねた心構えである。悪童たちは、劉辟と同じ貧農のガキ供である。彼らが裕福な子を苛めたい気持ちも分からなくはない。しかし「多勢に無勢」は許せない。それが劉辟の性分であった。彼は割って入り、少年を助けた。
少年の名はシュ・ユー(徐誉)といった。華奢な体つきだが劉辟と同じ年であった。虫集めが趣味らしく、珍しい虫を追って郊外までやってきたのだという。劉辟は虫の生態にも詳しかったが、独学ゆえに名前を知らない。知っているのは蚤や虱(しらみ)、蠅(はえ)ばかりである。徐誉はその詳しさを不思議に思い、劉辟に惹かれた。
仲良くなって程なく、劉辟は徐誉の屋敷に招かれた。昆虫標本を見せてもらう約束だった。徐誉が嬉しそうに名前を教える様子を見て、父のシュ・ミン(徐敏)は驚いた。劉辟は一度聴いた名前を即座に覚え、その生態を生き生きと語って聞かせたのである。それは「書物で学んだ知識を凌駕する生きた学問」であると、徐敏には思えた。
徐氏は玄菟郡の名家であり、徐敏は郡の高官であった。つまり金持ちである。彼は劉辟の両親に話を通し、学問を受けさせた。学友を得た息子・徐誉は、以前にも増して勉学に励むようになった。徐敏には、徐誉の三つ上に長男のシュ・ロン(徐栄)がいた。彼は武人として立派な体格をしており、劉辟はその容姿と気性に憧れを抱いた。十六歳になった劉辟は、既に郡守備隊の将校になっていた徐栄の後を追うように入隊した。もちろん、名家の徐栄とは違い一兵卒であった。しかし彼の知能を知る徐栄は、以前より兵法と武芸を仕込んでいた。一方、親友の徐誉は太学入学を目指して帝都・洛陽へと向かった。
二十一歳の時、玄菟郡太守ゴンリン(耿臨)が高句麗への東征を行った。ペクク(伯句)王が降伏し、高句麗は玄菟郡の傘下に入った。この大勝利で徐栄は手柄をたて、漢王朝の中央へと進んだ。そこで彼は、西戎の魔王に見出されることになる。
徐栄が玄菟郡を去った翌年、劉辟は守備隊を除隊した。将校への道を示され引き留められたが、憧れの徐栄がいない軍隊に魅力は感じなかった。再び田畑に戻った彼は、軍隊で得た土木や工学の経験を活かし、新田開発に情熱を注いだ。三十を過ぎても独り身だったが、「自分は平凡な家庭を築けそうもない」という妙な確信があった。それは貧農の生まれゆえにではなく、時折、神様が耳元で「人民のために死ね」と囁くように感じられたからである。
いつしか、劉辟は農民たちの絶大な信頼を集める存在となっていた。農業指導のみならず、諍いの仲介や加工品の開発依頼も舞い込む。劉辟は発酵学にも精通し始めていた。だが相変わらず貧乏で、高価な書物は買えなかったが、都の徐誉が学術書を贈り続けてくれていたのである。
三十四歳の年、太守の耿臨から召集令状が届いた。農民部隊の指揮官として参軍せよとの要請である。耿臨は、前年に再び背いた高句麗の討伐を準備していた。しかしその翌々年、チャウォン(坐原)の戦役にて、耿臨は高句麗のジス(稷須)太子と刺し違えて戦死した。劉辟は再び退役し、田畑に戻った。その頃、徐栄は董将軍の右腕に昇格し、親友の徐誉は、故郷に戻り父の跡を継いで役人になっていた。
さらに翌年、黄巾起義が勃発すると、劉辟は義憤に駆られて仲間と共に冀州へと向かった。しかし冀州黄巾軍は敗れ去り、虚しく故郷に帰ることとなった。それから十年余り、黙々と野を耕し続けたが、彼が「百姓の首領(ドン)」であるという名声は揺るぎないものとなっていた。
勢いよく薪の燃える匂いが山里を流れていく。色づき始めた山の斜面を、煙は昇り龍のごとくうねり、窯の周りだけが灼熱の夏を留めている。山のような薪を背負った男たちが龍窯を目指して登り、最後尾には家畜を引き食料を担いだ女たちが続く。彼らは近隣の農民たちであった。
避難民団を率いたピリュが訪ねたのは、徐敏の妻、ウォン・ルォシー(王若熙)であった。徐敏は、息子・徐栄の後を追うように前年に没していた。残された王若熙は六十五歳の高齢ながら、至って元気であった。ピリュが旅立った後も、彼女は次々とやってくる信徒を援助し続け、その実務の一切を劉辟に任せていた。息子の徐誉もまた、郡都から助力を惜しまなかった。つまり、玄菟郡は郡を挙げて太平道の避難民団を守っていたのである。
この謀反ともいえる事態を咎める力は、もはや漢王朝にはない。群雄割拠の様相は激しさを増し、袁本初と曹孟徳の力が抜きん出始めていた。今は同盟関係にある二人だが、対峙する日は近い。いずれにせよ、彼らには東夷の世界に目を向ける余裕はなかった。
秋が深まった頃、何儀が水軍で避難民を運んできた。彼は一旦、妻の月紫蘭と子供たちを連れて倭国へ逃げ延びたが、再び民を運ぶために中華に舞い戻ったのである。彼は大いなる旅人であった。西域のヤルホト(交河城)で生まれ、十一歳で父を亡くしてからは、伯父のサラクマ(沙羅隈)を頼り鬼国に渡って育った。十六歳で商人としての道を学び、やがて青洲で水軍を組織した。三十五歳、男盛りの彼は、ここ玄菟郡で劉辟に出会った。二人は意気投合し、何儀は劉辟を豫州へと誘った。引き合わせたい男がいたのである。豫州には劉辟に劣らぬ虫好き、ファン・シャオ(黄邵)がいた。黄邵は抵抗戦を続けながらも、合間には昆虫採集に精を出しているという。話に可笑しみを覚え劉辟は、晩秋、同志と共に何儀の舟に乗った。
高句麗の丘に、トラジ(桔梗)の花が青い道を作る。その「青の街道」を荷馬車の群れが途切れることなく進んでいく。びゅーっと寒風が吹きぬけたが、寡黙な兵法家、リー・リー(李梨)は「さむ~い」などと可愛い悲鳴は上げない。リンシンとは違いハンダン(邯鄲)育ちの彼女は寒さに慣れており、また、激戦地で生死の境目を何度も潜り抜けてきた経験が、彼女をいっそう寡黙にさせていた。
黙して死地に突撃できる者は手練れの兵である。叫んだところで死を免れるわけではない。だが、新兵は叫ばずには突撃できない。四股を踏みならし、猛々しく吠えるのは勇者の威嚇であるが、若き兵は悲鳴に近い咆哮を上げて死に向かう。死神は無情であり、冀州の地にも多くの若者の屍が晒された。
十八歳の娘が失ったのは、朝日楼と両親だけではない。多くの幼馴染も戦場に伏し、共に歩む者は少なくなった。しかし、青洲での九年の戦いは李梨を強くした。二十七歳になった彼女は、十万の第三次避難民団を率い、遥かなる倭国を目指している。彼女は独り身である。家族が欲しいとは思わない。得たものを失う辛さを知っているからだ。だが、寂しくはない。心の中では両親やオミナエシ(女郎花)が今も生きている。そして今、彼女は「十万の大家族」を抱えている。何としても同志を倭国へ導かねばならない。今はその一念のみであった。
後続部隊をまとめているのは、ヂャォ・ヤーリー(趙雅莉)である。双子のハン・チイーリャン(韓淇良)とハン・チョウファ(韓朝華)は九歳になり、雅莉も三十八歳になった。夫のハン・ヂョン(韓忠)の生死は分からず、処刑されたという噂はあるが遺体は確認した者はいない。元気な双子の兄妹は、父の顔を知らずに育った。
それから約十年をかけ、約百万の信徒が波状的に倭国へと渡った。それまで筑紫之島の人口は約二百万。そこに渡った百万の信徒は、いわば「先進国」の技術を持つ人々であった。倭国の国力は爆発的に伸び、東部への開拓は、否応なしに加速していくことになる。
〜 遼東の冬風 〜
どんよりとした空の彼方から、うねるように強風が吹き付ける。草原は深緑の髪を振り乱し、木々の細い枝は嬌声を発する。丘の上から眺めるポーハイ(渤海)は、波頭が白く砕け、浜に打ち捨てられた老朽船を、容赦なく波の華に沈める。
ヂャォ・ヤーリー(趙雅莉)は、十万の難民団を二手に分けようとリー・リー(李梨)に提案した。それは危機管理の面と、新しい避難路の開拓という二つの意味を持った提案だった。マハン(馬韓)国経由の避難路は、チョゴ(肖古)王も容認している安全な避難路である。しかし、毎年十万もの人々が通過していくのは、現地の負荷も大きい。中華の情勢は群雄割拠が激しさを増し、海を渡り馬韓にまで追撃の手を伸ばすゆとりはない。だが、新たな皇帝が立てば、反逆者追討を名目に、リィァォドン(遼東)から馬韓へと兵を進めるだろう。その時に備え、ジンハン(辰韓)国経由の避難路を作っておこうというのである。
今のところ安全が保障されている馬韓路は、老いた者や病人を中心に趙雅莉が率い、壮健な者を中心に李梨が新路を切り開くことにした。特にウェイムォ(濊貊)の地の情報はほとんど届いていない。ゆえに戦になる可能性もある。この計画がまとまると、趙雅莉の旅団は遼東の村々に留まり、李梨の旅団はヨン・ピリュ(延沸流)の知人でシェント(玄菟)郡のウォン・ルォシー(王若熙)を訪ねて旅立った。
冬を前に、趙雅莉は五万の旅団の先頭をラーラン(楽浪)まで進め、五つの集団に散開して越冬することにした。そして、自らも郡治所が置かれたウォンシィェン(王険)まで足を延ばした。後に公孫度(こうそんたく)と呼ばれる遼東郡の太守ゴンスン・シォンジー(公孫升済)は、マー・チャーホァ(馬茶花)が率いた第一波の避難民団以来、一貫して黙認を貫き、反乱者を取り締まる気配はない。既に彼は、漢王朝への忠誠心を放棄している。ゆえに、漢王朝から任命された太守としての役割も果たす気がないのだ。彼の目下の関心事は、東夷世界の安定化である。
太平道の信徒たちが作る避難村は、東夷世界に新たな経済的な活性をもたらしている。さらに技術革新も進み、彼に不利益をもたらす要素はない。唯一、手を焼いているのはコグリョ(高句麗)の謀叛である。帰順しても直ぐに謀反するのである。直接的に、高句麗の謀反に対応しているのは、娘婿のクテ(仇台)王が統治するプヨ(夫余)国と、同門一族が統治する玄菟郡であるが、公孫升済も傍観しているわけではない。
反抗心大盛な高句麗のイイモ(伊夷謨)王であるが、頼りにしていたジス(稷須)王子をチャウォン(坐原)の戦役で亡くしている。前任の太守ゴン・プーイェ(耿溥曄)と相討ちになったのである。その翌年に公孫升済は太守に着任した。稷須王子の評判は、亡くなった今でも実に良い。この王子が生きておれば、公孫升済の今はなかったかもしれない。そう彼は胸を撫でおろしている。
嫡男を亡くした伊夷謨王の後継候補は、王の異母兄と異母弟である。異母兄の名はパルキ(抜奇)、異母弟の名はヨンウ(延優)という。兄の抜奇は親中派であったために王位を逃した。彼らは勇猛果敢であり、中華帝国の支配を嫌う。ゆえに、親中派の抜奇は部族の信望を得られなかった。しかし、高句麗の民の中にも、戦続きによる厭世感が満ちている。老獪な公孫升済はそこを狙っている。
李梨が鯨海沿い、趙雅莉が黄海沿いに南下し倭国を目指していた頃、公孫升済は七十五歳を超え始めていた。そこで、東夷世界を三人の後継者に託す準備を進める。一人は長女の婿である馬韓国のチョゴ王、次に次女の婿である夫余国の仇台王、三人目は自身の長男、ゴンスン・チャンカン(公孫長康)である。今、長康は楽浪郡に着任している。そこは、公孫升済の盟友であるウォン・シャー(王侠)一族が実質的に治めている地である。つまり、若輩の息子を盟友に託し、修業させているのである。息子は後に公孫康と呼ばれる。
遼東の山野を晩秋の風が凍らせる。初霜を踏み鳴らす音に、双子の兄妹は楽しみを覚え、屈託がない。兄のハン・チイーリャン(韓淇良)は、洟垂れ小僧の悪童だが、その瞳の奥に、理知的な光を秘めている。それは母方の一族、法家の血筋かもしれない。妹のハン・チョウファ(韓朝華)は赤いほっぺの貧民の子のようだが、その立ち振る舞いには王族の気風がある。それは父方の一族、韓の旧王族の血筋かもしれない。しかし、今の二人は避難民団の子供であり、流民の悪童である。元気だけが取り柄であった。
兄妹の父は、荊洲太平道の三代目総帥であったハン・ヂョン(韓忠)である。彼は官軍時代の上官、チン・チュチー(秦初起)に切られ、川に流されたと伝えられている。しかし、誰もその遺体を見ていないため、正確には生死不明である。韓忠の先祖は法家である。したがって、兄弟は両親共に法家の血を引いている。流浪の悪童ではあるが、学問も母に厳しく叩き込まれており、いわば「知識人的悪童」なのである。
川岸で野営をしていた時のことである。韓淇良の悪童たちが、朽ちた川船を川面に乗り出し、溺れかかったことがある。舟体の穴を、葦を練りこんだ泥で塞いだ「泥船」であった。しかし、泥は水圧に耐えきれず流れ出し、水没したのである。「幼子の命を粗末にしてはいけません」と、母に厳しく叱られた韓淇良は、「今度は沈まない方法を考えるぞ」と反省する賢い子であった。
春風が木々を揺らし、無数の葉が陽光を煌めかせる。広場で祝言の声が響き渡る。祝辞を述べているのは馬韓王である。傍らには、ゴンスン・チンフア(公孫清華)王妃が立っている。王妃は花婿の付き添いである。花婿の名は公孫長康。つまり、姉が付き添い役を行っている。父の公孫升済は体調が優れず出席が叶わなかった。それに、姉とはいっても二人の年の差は三十三歳である。清華王妃にとっては、弟というより息子に近い。母のシュ・シーシー(徐詩施)は父に付き添っているため、姉が親代わりなのだ。

花嫁の付き添い役には、公孫長康のもう一人の姉であるゴンスン・リーチュン(公孫麗春)と、その夫の仇台王が付いている。その傍らにひっそり寄りと添う女がいる。彼女が花嫁の実母、ウォン・オウ(王鴎)である。彼女は王侠の娘であり、夫は「西戎の魔王」の右腕と呼ばれたシュ・ロン(徐栄)であった。徐栄は前年に戦死しているため、花嫁の父もここにはいない。そのため、仇台王が父代わりを務めている。
花嫁の名はシュ・フォンラン(徐風蘭)、歳は二十一になる。戦乱に翻弄され嫁ぎそびれていたが、漢王朝の将軍・徐栄の娘として帝都・洛陽に育ったため、辺境の野暮ったさは微塵もない。だからといって、高ぶったところもない。花婿の公孫長康は辺境の地で育ったため、徐風蘭の放つ光を眩しく感じている。しかし、花嫁は三つ年下の従姉妹でもある。徐栄は、彼の母の兄であり、伯父に当たる。ゆえに、徐詩施にとっても、嫁となる徐風蘭は兄の忘れ形見であった。
徐栄は「剛の者」であったが、妻の王鴎は、「知の者」である。公孫升済の長女・清華王妃より一歳年上の四十七歳だが、その美貌に衰えはない。清華王妃の妹(麗春)は四十三歳である。東夫余国は、発祥の地から徐々に南下し、今はペクチェ(百済)とも呼ばれる。その位置は遼東の東、楽浪郡の東北部である。そのペクチェ王妃の公孫麗春の美貌もまた、衰えを知らない。
公孫清華、公孫麗春、そして王鴎。この三人は「リィゥイン(劉嬰)の三天女」とも称され、その美貌は東方世界に轟いていた。それは容姿ばかりではない。公孫姉妹は既に国母としての才を発揮しているが、王鴎の力も計り知れない。帝都の動乱で夫を亡くした彼女は、叔母(夫にとっては母)である王若熙を頼り、玄菟郡に身を寄せた。
徐栄と王鴎には二人の子がいた。長男のシュ・ルイ(徐睿)は、帝都の動乱で父と共に戦死した。二十七歳の若さであった。後には若い妻と幼い子供が残された。若妻の名はバオ・シュェリー(鮑雪麗)。公孫長康の妻となる徐風蘭の幼馴染である。父は西園八校尉のバオ・ホン(鮑鴻)である。鮑鴻と徐栄は、共に董将軍の配下であり親しい間柄であった。そのために家族ぐるみの付き合いであり、鮑鴻の一族もまた鮑雪麗を残して動乱の中に消えた。鮑雪麗が頼れるのは、姑の王鴎と親友の徐風蘭だけとなったのである。
徐睿と鮑雪麗の間には、長女のシュ・シュエメイ(徐雪梅)がいた。父が戦死した時、彼女はまだ二歳で、父を失った悲しみを知らなかった。そしてその時、鮑雪麗は第二子を身籠っていた。それが長男のシュ・ジン(徐静)である。夫と息子を亡くした王鴎は、素早く混乱を切り抜け洛陽を後にした。産み月だった鮑雪麗は、逃避行の牛車の荷台で徐静を産んだ。
一行には、徐栄の部下だった数人の兵士が付き添っていたが、それでも不安は消えなかった。そんな危うい道中で、ピリュ(延沸流)が先導する太平道の避難民団に出会い、どうにか玄菟郡に辿り着いたのである。王鴎は、幼い面影しかなかったピリュが逞しい男になっていることに驚いた。ピリュもまた王鴎との再会を喜び、玄菟郡への旅に心強さを感じた。ヨンタバル(延陀勃)商人団のソルファ(延雪花)やマンヂュ(延曼珠)にとって、王鴎は劉嬰一族の大姉である。ピリュにとっても大地母神のような存在であった。この後、ヨンタバル商人団は東夷世界で飛躍的な発展を遂げるが、その土壌を作ったのは、「北の政所」となる王鴎であった。
王鴎の祖父は、ウォン・ジン(王静)という漢人であった。若い頃に鯨海沿岸を旅し、濊貊の娘と結ばれた。その族長の娘ミモ(美毛)が王鴎の祖母である。濊貊は気高く誇りを重んずる種族であり、その面影は王鴎に強く受け継がれている。母の名は玉緒といい、倭人の女である。ただし、倭国の倭人ではなく、馬韓国に住む倭人である。玉緒には黒潮南洋民の血が混じっているようで、美しい二重瞼をしていた。父の王侠はその瞳に魅せられたという。兄嫁も倭人の女で、鵜瑠女(うるめ)という。やはり潤んだ二重の瞳に、兄のウォン・シィァン(王享)は惹かれたそうだ。どうやら王家の男は「潤んだ二重」に弱いようである。
王鴎と妹のウォン・イェン(王燕)もまた、二重の瞳を持つ。王燕は徐栄の弟、シュ・ユー(徐誉)に嫁いでいる。兄弟と姉妹が従兄妹婚をした形である。岳父の徐敏と父の王侠は盟友であり、その妻の王若熙は二人の叔母であるから、自然な成り行きであった。王若熙から見れば、息子の嫁たちは自身の姪にあたり、嫁姑の争いとは無縁であった。そして、徐家の男たちもまた「潤んだ二重」に惹かれる性質のようである。一方、祖母ミモは濊貊の女に多い「キツネ目」であった。その妖艶な瞳は、王鴎の娘である徐風蘭に受け継がれた。遼東の覇者となる公孫長康は、その妖艶な瞳に魅せられたのである。
冬の突風が、韓朝華の緑の黒髪を巻き上げた。それは龍雲のように青天に舞い、運気を高めるかのようであった。兄の韓淇良が両手で優しくその髪を整える。双子の兄妹の阿吽の呼吸は、愛らしくも美しい。母の趙雅莉がその光景に目を細める。傍らでは、遼東の若き覇者・公孫長康が、少しの嫉妬を交えた笑みを浮かべていた。彼の姉たちは二人とも年が離れ、母のような存在であるため、同世代の兄弟が羨ましいのであろう。
若妻の徐風蘭が茶を運んできた。赤い実が鮮やかな枸杞(くこ)の茶である。枸杞子は冬の乾燥した冷気から喉を守り、疲れ目にも効く。夫の公孫長康は、この冬、勉学に勤しんでいた。趙雅莉から法家を学び、国造りに役立てようと考えているのである。
徐風蘭の腹は少し膨らんでいた。韓朝華がその腹に耳を当て、新しい命の鼓動を聞いている。初春、珠のような美しい娘が生まれた。その瞳は蓮の花のように細く、青海原のような潤いを湛えていた。公孫長康は名付け親を趙雅莉に頼み、娘は「ゴンスイ・チンリェン(公孫青蓮)」と名付けられた。韓朝華と韓淇良の兄妹は、公孫青蓮の頬にそっと触れると、春の野を倭国に向けて旅立っていった。
〜 鯨海の風 〜
♪ ドーオォ ドーオォ ドーオォ ヅッドンドン
ドーオォ ドーオォ ドーオォ ヅッドンドン
ギャォ ギャォ ギャォ ギャォ
ボウォ ボウォ ボウォ ボウォ
♪ ドーオォ ドーオォ ドーオォ ヅッドンドン
ドーオォ ドーオォ ドーオォ ヅッドンドン
ギャォ ギャォ ギャォ ギャォ
ボウォ ボウォ ボウォ ボウォ
天地に血の飛沫が撒かれ、裁きの神の仮面をかぶったシャマン(呪術師)が大地を踏みならし清める。大麻草の煙が霧のように丘を漂い、人々は天の神、大地の神、風の神、泉の神に許しを請い、歌い舞う。この地を不逞の輩が汚したのであった。
鯨海の北方沿岸は貧しい土地が多い。その貧民の部族は盗人として生計を立てる。その拐(かどわ)かしの民を、周辺部族はオロチ(大蛇)と呼んでいる。土蜘蛛と同類の蛮族であった。数日前、村がオロチ族に襲われた。そして、多くの食料と幼子が奪われた。しかし、命までは奪わない。村人の命を奪えば、襲うべき村が絶え、自らの食糧難を招くのであった。したがってこれは善意ではない。重ね合わせた悪行であった。
この悪行に報いるのは死罪であった。ゆえに、ボドフ(思考金)族長は、追討部隊を放とうとしていた。部隊は息子のシャルチョン(黄狼)が率いる。シャルチョンは二十一歳の精悍な青年であった。母はハル族の女で、名をドーラフ(歌姫)といい、ハル族のアヤンガ(雷力男)族長の姉であった。熊漁師でもあったアヤンガ族長は大男で、雷鳴のような大声の持ち主であった。
アヤンガ族長の姉であるドーラフも大女であり、良く通る美声の持ち主であった。その血を引き、シャルチョンも立派な体格を備えていた。父のボドフは、小柄な男であったが、大きな頭には百科の知恵が詰まっている。ゆえに、シャルチョンは賢い男でもあった。
シャルチョンには、はねっ返り娘の妹がいる。思慮深い父も、この妹にだけは盲目的な愛を注いだため、自由奔放に育った。すらりと背が高く、山猫のような身のこなしには艶(つや)があった。それでいて緩慢な動きではない。妖艶さが漂っているのだが、本人は男や色恋に興味がない。そのため十九歳になるが、まだ嫁いではいない。妹の名はコポン(鼓煩)という。シャマンのオドツァガーン(星白)は、この娘にシャマンの業を教え込んでいる。オドツァガーンはボドフ族長の妹であり、コポンにとっては叔母にあたった。

自然を敬い、自然信仰を暮らしの杖とする彼らは、天の声をシャマンに尋ね、その声に従い行動する。そのため、族長とシャマンは血筋の者が多い。ボドフと妹オドツァガーンがそうであったように、次の族長シャルチョンの代のシャマンには、コポンがふさわしいと皆は考えている。ゆえに、部族の中にコポンの婚姻を急かす者はいなかった。
早春の野を踏み、旅団の長い列が雪解け水の小川のようにハリムダラエ(夏里霧多羅涯)の港に迫ってきた。村人は、オロチ族の大軍かと色めき立ったが、黄色い幟(のぼり)が数十本ほど揺らめいているのを見て、災いを呼ぶ集団ではないと安堵した。その先頭集団が郊外に止まると、使者が村の門に立った。門が開き、村の中からシャマンの一団が出てきた。先頭に立つのは魔女オドツァガーンであった。従えているのは黒ずくめの男たちである。
全身に白土を塗り、膝下まで伸びる黒髪を下ろしたオドツァガーンは、半裸に近い姿であった。大黒烏の羽の頭飾りと、狼の毛の腰巻だけが白塗りの裸体を覆っている。男たちが太鼓を打ち鳴らす中、彼女は足踏み鳴らし、使者の周りを舞い踊る。
ピューッと笛が木魂し、コポンが鷹を放つ。青空を高く旋回した鷹は、使者を目がけて急降下し、使者の旗竿の上に留まった。オドツァガーンが舞を止め、鷹を腕に戻す。そして「ドゥルグーン」と唸り声を上げ、使者の真正面に立った。使者は黄色い幟を旗竿から外すと、オドツァガーンの裸体に恭しく掛けた。それから、使者は村内へと導かれた。
蓬の葉が蒸され、室内は白く霞んでいる。長老たちは円座になり、その中央にリー・リー(李梨)の姿があった。寡黙な兵法家は自ら言葉を発することなく、静かに目を閉じている。その威厳に、長老たちも言葉を抑えていた。一時(いっとき)が流れ、ボドフ族長が言葉を発した。シャルチョンがその言葉を通訳する。「フンドゥの使いが来て話は聞いておる。我らに手助けできることがあれば遠慮なく言ってくれ」と族長は伝えた。フンドゥ(重玉)とは、ツァガーン(白)族の族長で、オドツァガーンの夫でもあった。そして彼もまたシャマンであった。
| 領域 | 部族名 | 族長名 | 妻 | 息子 | 娘 |
| 北部 | ハル族 (黒) | アヤンガ族長(雷) 大男の猟師(天手力男) | ソロンゴ (虹) | ムンフ (新しい) | ゲネン (無邪気) |
| 東部 | フフ族 (青) | トゥルム族長(鉄) 鍛冶屋(天津麻羅) | ムング (銀) | フフハリム (青鯨) | ボルジモル (ひばり) |
| 中部 | シャル族 (黄) | ボドフ(思考金)族長 知恵者(思金神) | ドーラフ (歌う) | シャルチョン (黄狼) | コポン (鼓煩) |
| 西部 | ツァガーン族 (白) | フンドゥ族長(重い) (太玉命) | オドツァガーン (星白) | ツァガーンバル(白虎) | タヒア (鶏) |
| 南部 | オラーン族 (赤) | ガル族長(火) 司祭(天児屋命) | ツァス (雪) | ソリル (流星) | オーリ (梟) |
ツァガーン族はラーラン(楽浪)郡の北方に暮らしている。そのため、李梨の難民団は彼らの縄張りも通過してきた。シャマンは人の外観ではなく中身を見る。ゆえにフンドゥ族長は、李梨の人柄を信頼した。そして太平道の理念と、彼らの生き方にも共感する部分が多くあった。そのため、李梨の避難路開発は、当初の危惧に反して順調であった。
鯨海の春風が、李梨の前髪を巻き上げた。その聡明な額からは汗が流れている。その汗以上に喘いでいる若者がいる。シャルチョンであった。大きく俊敏な若い狼は、李梨の前で怯んでいた。打ち込んでも、打ち込んでも勝てないのである。シャルチョンは、寡黙な兵法家に剣の教えを請うていたが、無言の太刀筋に全ての攻撃を封じられ、難儀をしていた。ボドフ族長とオドツァガーンは目を細めてその光景を眺めている。その傍らで憧れの目差しを向けているのは、はねっ返り娘のコポンであった。
静かに構えた李梨の正眼には隙がない。既に、剣聖リー・ヂョンチェァ(李仲車)の域に達している。父・李仲車は、母のリュ・ムォリー(呂茉莉)と共にハンダン(邯鄲)の土となったが、その剣は娘がしっかりと受け継いだようである。
夜会の席で、族長はオロチ族追討部隊への助勢を請うた。シャルチョンが率いる追討部隊は三百ほどであったが、敵は千を超えると斥候から情報がもたらされていた。李梨は恩義を返すため、二百の黄巾軍精鋭と共に追討部隊に加わった。
温かい南風が、ハリムダラエの港に吹き付けてきた。その風をはらみ、三艘の大型船が入港してくる。その旗印は鯨海の海賊王スロ(首露)船長の太極旗であった。そして今は、その娘キム・アヘン(金芽杏)の旗印となっている。
ボドフ族長は、五百の追討部隊を船で北上させ、さらに二百の援軍をハル族のアヤンガ(雷力男)族長とフフ族のトゥルム(鉄磨羅)族長に依頼した。この二百は陸路で攻める騎馬隊であった。オロチ族の拠点は、ウェイムォ(濊貊)の源郷カソプウォン(迦葉原)よりさらに北上した深い入り江の奥にあった。交易の民にはダラェジジグトスゴン(海小村)と呼ばれている古い村であった。通常は千人ほどの村だが、襲撃を警戒し、今は周辺から千人もの荒くれ者が集まっているようであった。
ハリムダラエの港は、「鯨海の白い狼」と恐れられる女海賊アヘンの北の拠点港であった。その南、蘇志摩利は須佐人の拠点港だが、彼は今、高志攻めでジンハン(辰韓)国にはいない。そこでボドフ族長は、ピョンハン(弁韓)国のアヘン王女に追討部隊の輸送を依頼した。
倭国と弁韓国には、先祖を海越人に持つ倭人が多く暮らしている。ゆえに造船技術に優れ、海戦にも強い。しかし、マハン(馬韓)国と辰韓国の戦いは国境を挟んだ陸戦であったため、海軍力は乏しかった。造船技術もまた同様である。ゆえに海運は、弁韓国に依存していた。
濊貊も沿岸民ではないので、川船は多く所有しているが、大海を行く大型船は持っていない。そのため、海を渡り大量に人や物を運ぶ時には、アヘン王女か須佐人の海洋交易船に頼るのであった。
鯨海の海洋交易でもたらされた莫大な富は、サンベ(蒜辺)愛護園にも注がれている。創設者であったオハ村長は、この交易団の庇護者でもあった。持ちつ持たれつの関係であり、遠慮は無用であった。
オハ村長ことウォン・レン(王仁)は二年前に亡くなり、サンベ愛護園は、チク(智亀)とヂュシー(朱実)に受け継がれた。二人は自身が孤児であったため適任であった。また、チクは濊貊の出身ゆえに、周辺の民との馴染みも良い。
小さな集団で勝手気ままに暮らしていた濊貊をまとめ、周辺国とも対等な関係を結べる今の状態を作り出したのは、王仁であった。幼い時に人攫いに遭い、奴隷の身で生きていた王仁は、楽浪郡の大豪族・ウォン・シャー(王侠)の弟であった。ゆえに、兄と同じく王者の気風を備えていた。
濊貊は国をなしていないので王は居ない。王仁は自由民である彼らの意思を尊重した。ゆえに中央集権国家ではなく、合議制による自由連合体として皆をまとめた。その意志は、五人の族長に受け継がれている。
| オハ村長=ウォン・レン(王仁)の遺志を継ぐ五部族 | |||||
| 領域 | 北部 | 東部 | 中部 | 西部 | 南部 |
| 部族名 | ハル族 (黒) | フフ族 (青) | シャル族 (黄) | ツァガーン族 (白) | オラーン族 (赤) |
| 族長名 | アヤンガ (雷力男) | トゥルム (鉄磨羅) | ボドフ (思考金) | フンドゥ (重玉) | ガル (火児屋) |
| 職業 | 大男の猟師 | 鍛冶屋 | 合議の長 | 呪術師 | 鬼道の祭司 |
初夏の海風が、ダラェジジグトスゴンの浜を吹き抜けていった。湿気を含んだその風に、オロチ族の民は身震いした。北の山野は、ハル族とフフ族の騎馬隊が封鎖している。千の荒くれどもは、いきり立ち防戦態勢に入った。
シャルチョンは五百の海兵団を上陸させると、縦深攻撃の体制を取った。縦深攻撃は敵より勝る兵力を持つ時に有効な戦法である。数だけなら敵は千、自軍は七百であったが、ハル族とフフ族の騎馬隊は、歩兵五百以上の戦力がある。さらにアヘン王女の大型船から弩弓や火炎弾が投げ込まれるため、実質的な戦力は追討部隊の方が圧倒的に勝っていた。
浜の東岸に小高い岬がある。草むしたその頂上を李梨が登っていく。浜茄子の赤い花が足元を飾り、甘い香りで包む。潮騒に背を押され、足取りは軽やかだ。その背を追い、山道を駆け上がる元気な娘がいる。コポンである。長い黒髪が風にうねり、早瀬の渦のように青空に舞う。髪の乱れも気に留めず、はねっ返り娘は勢いよく進む。頂上に着くと「寡黙な兵法家のお姉さん。何をしようというの」と声をかけた。李梨は振り向き、「地の利を見る」と答えた。
遠浅の浜は葦に覆われ、中央に砂地の白い道が続く。奥には急ごしらえの柵が横長く伸びていた。低木の森の先、丘の上に村の家屋が見える。「地の利って何?」とコポンが聞いた。李梨は、ぼそりと「天の時は地の利に如かず」と言った。「はぁ~?」とコポンは首を傾げる。さらに李梨は、「地の利は人の和に如かず」と付け加えた。コポンは狐につままれた顔をして、李梨の後を追い小山を下った。
矢が黒い雨のように防柵を超えて降り注いだ。数十人の荒くれが地に伏し、生き残った者は柵に隠れた。シャルチョンは自らが先頭に立ち、縦隊を組んだ長槍部隊を前進させようとした。そこへ李梨の伝令が駆け寄り、部隊を止めた。
李梨のもとに戻ったシャルチョンに、別の指示が出された。彼は縦隊を解き、鶴翼の陣を布いた。コポンは兄の背を小突き、「なんでいきなり陣形を変えたの?」と聞いた。兄は「地の利と人の和だ」と答える。「だから、それって何?」とコポンは、兄の背を駄々っ子のように叩いた。「城攻めをする際の心得だ。天の時とは運気や好機、あるいは勝機のことだ。いくら勝機が高まっていても、地形を見誤ると勝てない。この葦に覆われた海浜の道は畷(なわて)になっている。ゆえに縦隊で進むしかないが、もし葦原に伏兵が潜んでいたら、横腹を突かれる。それに敵はよくまとまっている……人の和だ。これを突き破るには、こちらの犠牲も大きくなる公算が高い。ゆえに、こうやって敵を閉じ込めて、兵糧攻めをするのさ」と兄は丁寧に説明した。コポンは「ふ~ん。面倒臭い!!」と再び小山に向けて歩き出した。
十日目、両手を上げた使者が柵の前に立った。食糧が底をつきはじめたのだろう。千人の村に二千の民がおり、その半数が荒くれ者であったため、備蓄は三倍の速さで尽きたようである。つまり、一ヶ月の籠城戦をしていたに等しい消耗であった。
李梨は幼子たちを奪い返すと、奪われた物資の半分を取り戻し、残りの半分は貧民に分け与えた。そして荒くれの中から壮健な者五百を捕虜とし、他の者は釈放した。捕虜五百は二百と三百に分け、三百を騎馬隊に引き渡し、二百を大型船に乗せた。さらに、シャルチョン率いる部隊の中から二百を騎馬隊に加えた。二百から七百に膨れ上がった軍団が山野を引き上げると、オロチ族は完全に抵抗心を失った。
秋風が吹き、李梨は避難民団を辰韓国の国境まで進めた。蘇志摩利であった。アヘン王女と知り合ったことで、ハリムダラエから角鹿への海路が開けた。李梨は避難民団を、陸路部隊四万と海路部隊一万に分けた。避難民一万の船賃は、あの二百の荒くれ者たちであった。アヘン王女なら、彼らを立派な船乗りに叩き直すことだろう。
李梨の傍らにコポンの姿があった。どうやらこのじゃじゃ馬娘は、倭国に向かうつもりのようである。寡黙な李梨と違い、社交的な彼女は避難民の人気者になっていた。母の血を引き、歌も踊りも上手なコポンを中心に、演芸団が生まれつつある。さぁ~て、倭国に着いたらチュクム女王がどんな顔をするか楽しみである。
⇒ ⇒ ⇒ 『第2巻《自由の国》13部《~海と大地と太陽~》』へ続く



