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卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第6部 ~ 春秋の再来 ~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その22)

葦田川風

我が村には、昔から蛇が多い。輪中という地形なので湿地が多く蛇も棲みやすいのだろう。更に稲作地であり野鼠やイタチ、カエルと餌が豊富である。青大将は木登りが上手い。そのまま高木の枝から飛べばまさに青龍だろう。クチナワ(蝮)は強壮剤として売れる。恐い生き物は神様となるのが神話の世界である。一辺倒の正義は怪しい。清濁併せ飲む心構えでいないと「勝った。勝った」の大本営発表に騙される。そんな偏屈爺の紡ぐ今時神話の世界を楽しんでいただければ幸いである。

卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第6部 ~ 春秋の再来 ~ 〜 卑弥呼 奇想伝(その22)

 第6部 ~ 春秋の再来 ~

幕間劇(25)「ロックンロール・ベィビー

 プラットホームの外灯に、大きな蛾の群れが飛び交っている。それはもしかすると蝶かも知れない。しかし人々はそれを蝶の群れだとは思わない。蛾である。何故蛾であるかというと気味が悪いし嫌いだからである。

 鯨とイルカの分類が曖昧なように、蛾と蝶の分類も曖昧である。夜飛ぶ蝶もいれば、蝶より美しい蛾もいる。だから要は好きか嫌いかである。嫌われれば皆蛾である。つまり蛾とは主観的な名称である。しかし人々はそれを客観的な事実だと勘違いする。そして、それが世間という尺度の基である。

 大牟田行きの急行電車が停まると、世間という尺度に飲み込まれた竜ちゃん親子は、大善寺の駅で降り大川行きのバスに乗り換えた。それから暗くて何もない上城島のバス停で降りた。山の井川に映る心もとない月明かりを頼りに川辺を下り、田んぼ道をとぼとぼと渡し場に向かって歩く。浜の村内に入ると石段を登り堤防に上がる。堤防の上から目を凝らすと、川面に船灯が煌めき、まだ渡し船は動いていた。急いで堤防を下りると、人が歩けるだけの細い葦原の道を渡し場に急いだ。この渡し船に乗り遅れると、また町まで引き返し、下流の六五朗橋を渡るしかなくなる。大変な遠回りである。

 葦原の中に続く細い道は、夕暮れでも薄暗く不安にさせる。まして日が落ち、月明かりだけの暗い葦原の道は、更に不安が高まる。小さなヨッシーは、母親のカナブンの手をしっかり握った。渡し場に着くと、対岸で渡し船の灯が消えた。

 竜ちゃんは、思い切り大きな声で「吉松っあん小父ちぁ~ん」と叫んだ。今の時季、この時間帯の船頭はきっと隣の吉松っあん小父さんだ。小さい頃から良く遊んでもらっていたから、もしかして、自分の声なら聞こえるかも知れないと思ったのだ。

 葦の風音が竜ちゃんの声を川下に押し流していく。三度大きく呼んだ。川面の月明かりが心もとなげに揺れた。「やっぱ、聞こえる筈ぁなかばい」と、諦めて竜ちゃんは、引き返そうとした。すると渡し船の灯が再び川面を照らしだした。そして勢いよくディーゼルエンジンの音を響かせこちらに向かってきた。

 助かった。渡し船のライトが照らす川の光の道が眩しかった。「何か白か、スカートのんごだるとが(のような物が)揺れよるけん。念の為に来て見たったい。良かった。竜ちゃんば、乗せそこのうたら(そこねたら)、辰ちゃんに喧(やかま)しゅう言われるとこやったばい」と言って吉松船頭が笑った。

 昭和四十五年、竜ちゃんは、大学を卒業して地元福岡のスーパーに就職した。ヤッコ(秦靖子)とは卒業前に別れた。ヤッコは、天神の外れでライブが出来る小さなスナックを始めたようだ。竜ちゃんは、一度も顔を出したことはない。別れた理由は、自暴自棄に陥っていた竜ちゃんの方にあった。

 その夏、髪を切った竜ちゃんが帰郷した時の船頭も、吉松っあん小父さんだった。吉松っあん小父さんに、今度は何と言ってからかわれることだろう。堤防の樋口というガード下を潜る時、竜ちゃんは「この上の沖底さんの祠には、仙人さんが住んどらすばい(住んでいるよ)」と幼いヨッシーに言った。

 ヨッシーは、林田芳文というのが戸籍上の名である。しかし、普段はヨッシー(芳文)と呼ばれている。ヨッシーは昭和四十八年に生まれた。そして今は一歳の終わりである。だから、まだおぼつかない足取りである。そして、自分の名が芳文だとは理解していない。ヨッシーと呼べば振り返るので、自分の名がヨッシーだとは理解しているようである。

 当然、竜ちゃんの言葉もヨッシーには意味不明である。しかし、「仙人さんが住んどらすばい」という意味は、カナブンにも理解できない。仙人は中国の神話の人物である。それがこの田舎に住んでいるとは思えない。もし、本当に仙人が住んでいればこの村は仙郷だということになる。何のジョークだろうとカナブンは首を傾げた。

 カナブンの戸籍上の名は金田文子であった。今の戸籍上の名は林田文子である。金田文子だから、カナブン(金文)だったので、本来なら今はリンブン(林文)の筈である。しかし、竜ちゃんは、あまり細かいことにはこだわらない。だから、いまだに「おい、カナブン」と呼ぶのである。若夫婦も随分と歳を重ねたら「おい、リンブン」と呼ぶように成るのかも知れないが、今はカナブンである。

 金田文子は、昭和二十六年一月二十五日の生まれである。だから、マリーや美夏ちゃんと同学年である。つまり、竜ちゃんの方が歳上である。しかし、カナブンは高卒だったので、職場では先輩であった。だから、今でもこの若夫婦の関係性は、カナブンの方が上である。

 カナブンは高校を卒業すると、会社で一番大きな春日原店のレジのチェッカーさんになった。しかし、笑顔が素敵だと評判に成った為、一年ほどで、本社の窓口に呼ばれていたのである。そして、その頃カナブンは、箱崎の実家を出て、春日原のアパートで独り暮らしをしていた。小売業の世界は、スーパーマーケットの時代に成っても、従業員は高卒が主力であった。中卒、高卒から叩き上げて幹部職員を目指すのである。

 カナブンのスーパーマーケットも店舗数が増え、会社が大きくなるにつれて大卒採用を始めたところである。だから、竜ちゃんのような大卒者は、まだ少なかった。加えて、竜ちゃんは、あまり人目を気にしない性格である。言いたいことはズバリというので、どうも周りとはうまくやれなかった。特に高卒で叩き上げの課長とは、ギクシャクした関係が続いていた。そして、上司とうまくいかない竜ちゃんは、ヤケ酒ばかりを飲むように成っていった。

 ある日、長浜の屋台で憂さを晴らしていると、金田文子が暖簾をくぐって入ってきた。高校の同級生数人と一緒だった。竜ちゃんが、「おまえ、カナブンっちいうと、虫んごたる(虫のような)名前やね」と、カナブンに絡むと「あっ、林田さんいたんだ」と、カナブンも、竜ちゃんに気が付いた。

 同級生が「カナブンの知り合い」と聞いた。カナブンは「うん会社の人」と答えた。すると別の同級生が竜ちゃんを見とどけて「あっ!! あんたフライングタイガースのギターの人やなか」と言った。すると「それが何かぁ文句でもあるとか」と、竜ちゃんは既に酒乱状態に陥っていた。それでも同級生達は「カナブン、かっこ良か知り合いがおるとね」「昔は博多のスターやったとよ」「ギターのテクニックがすごくてさぁライトニングドラゴンっちも呼ばれとったよ」「当時の女子大生は、皆ドラゴン君にメロメロよ」と、賑やかな会話を屋台の中に花咲かせていた。しかし、話題の主は、泥酔状態だった。

 朝、目が覚めると、竜ちゃんは、自分のアパートにいた。昨夜のことは、ほとんど思い出せなかった。ガンガンする頭の中に、コンコンと小気味良く包丁をたたく音が響いて来た。霞む目を上げると、台所でカナブンが朝食を作ってくれていた。そして「ドラゴン君。ご飯出来たからここに置いとくね」と微笑んで出て行った。

 休み明けに出社すると「元気になった。ドラゴン君」と、カナブンが声を掛けてきた。その日から、カナブンは良く、竜ちゃんのアパートを訪ねてくるようになった。そして、二人は交際を始め、互いのアパートを行き来するようになった。

 ある日、カナブンのアパートの前に若い三人の男達が立っていた。どう見てもヤクザ者である。カナブンがその中の男に気づき、「あっ!! ジョンイル」というと背を向けた。男は、カナブンの背に向かい「ムンフィ(文姫)、近頃何故家に顔出さない。アボジが心配していたぞ」と言った。それから「お前誰?」と、竜ちゃんに凄んできた。

 カナブンがその間に分け入り「あんたには、関係なか(関係ない)」とジョンイルを睨みつけた。別の若い男が「あんた、フライングタイガースの竜さんやなかね」と聞いてきた。別の男も「あっ!! 間違いんなか。フライングタイガースの竜さんやん。オイ(俺)あんた達んバンドば、ガバイ好いとうたとばい。ライブにも何ベンでん行かしてもろうたばい」と浮き浮きとした様子で、竜ちゃんの周りを取り巻き出した。

 「サンジュン、そん男は、お前の知り合いか」とジョンイルが、サンジュンに聞いた。「知り合いも何も、お前は、フライングタイガースの竜さんば知らんとか。お前は、それでもロックばやりよるとか。フライングタイガースの竜さんぞ」とサンジュンがやり返した。二人の若いヤクザ者は、すっかり、竜ちゃんを兄貴分扱いしている。

 ジョンイルは「ふ~ん」というと、カナブンに向かい「オモニが、お前にキムジャン取りに来いと言っていたぞ。伝えたからな」というと、二人の男を急かせて去って行った。二人の男は、「竜さ~ん」と手を振りながら別れ惜しそうにジョンイルの後を追った。

 竜ちゃんが「誰?」と聞くと、カナブンは「従兄妹」と答えた。そして竜ちゃんは、カナブンには、キム・ムンフィ(金文姫)という、もうひとつの名があることを知った。翌年、竜ちゃんは、カナブンと結婚した。

 翌昭和四十八年、ヨッシー(芳文)が生まれたので、二人は千早の借家に引っ越した。千早陸橋の近くに公園があり、良く三人で遊びに行った。ある日池で小さな亀を捕まえると、カナブンは、泥亀ドンちゃんと名付けて水槽で飼い始めた。その時までが竜ちゃんにとって一番幸せな時だったかも知れない。

 出産に伴ってカナブンは退職していた。カナブンが居なくなった職場で、竜ちゃんは益々孤立した。社会人になるぞ!! と決心してギターを捨てた竜ちゃんだったが、その社会には、なかなか認めてもらえなかった。竜ちゃんはやっぱり酒に溺れ、絡み酒、涙酒、そして嘆き節の世界に浸かり始めた。

 カナブンは「ドラゴン君、会社辞めよう。そして、三人でお店をやろう」と言い出した。でも当てがあった訳ではない。カナブンは、いろんな伝手(つて)を当たってみたが、ぴったりするものがなかった。お盆に里帰りすると、父ちゃんの辰ちゃんが「ほんなら、当てが付くまで、家の手伝いばせんか。ばってん、こい(今後)から、こん田舎では、こん商売も長ご~は続かんぞ。だけん、次の当てが付くまでんこつやけどな」と言ってくれた。

 昭和五十一年秋、竜ちゃんは会社を辞め、三人で実家に帰った。弟の芳幸も今は大学生になり家には居なかった。だから、実は母ちゃん芳江さんも、竜ちゃんが帰ってきてくれて助かったのである。辰ちゃんは五十四歳になり、芳江さんも四十七歳である。二人は近頃、四十肩、五十肩に悩まされていた所であった。

 カナブンと竜ちゃんは、二人で行商にも良く行った。行商先でもカナブンは評判が良かった。何しろカナブンは、都会のスーパーマーケットでも、ナンバーワンチェッカーさんだったのである。ヨッシーは、すっかり祖父ちゃん祖母ちゃん子である。昼過ぎから夕方までの暇な時間には、親子三人で渡し場に行き水辺で川遊びをした。更に休みの前の晩は、一家で英ちゃんの両親が営む屋台にも良く出かけた。

 英ちゃんの父ちゃん美弥ちゃんは、カナブンのもう一つの名が、キム・ムンフィ(金文姫)であると知ると、カナブンにトラジという歌を聞かせてくれた。寡黙な美弥ちゃんは、歌うと驚くほどの美声だった。英ちゃんの母ちゃんの明子さんも初めて聞いて驚いたようである。

 カナブンの祖父ちゃんも祖母ちゃんも日本語が苦手だった。だから、カナブンの家では、小さい時から朝鮮の言葉が飛び交っていた。その為、美弥ちゃんは、カナブンと話す時だけ朝鮮の言葉を使った。そして、その饒舌さに皆は驚いた。本当の美弥ちゃんは決して寡黙な男ではなかったのだ。

 カナブンは実家に帰った時にその話をした。そして、美弥ちゃんに教わったトラジを歌って聞かせた。オモニがそれは悲恋の歌だと教えてくれた。恋人を失った男が、トラジ~、トラジ~、トラジ~ョと恋人の名を呼ぶ歌だというのだ。

 トラジは桔梗の花のことである。恋人桔梗を失った男は、その後どうしたのだろうか。男は恋人を奪った国を捨てたのかも知れない。英ちゃんの父ちゃんの屋台は、あの日以来、朝鮮の民謡酒場に成りつつある。でも客は、ヤマァタイ(八海森)国の末裔供が多いので、朝鮮の歌の意味は良くわからない。でもアリラン、アリランで良いのである。それからカナブンは、美弥ちゃんの朝鮮語の読みは「ミミ」だと教えてくれた。竜ちゃんは「ええっ、もしかすると、英ちゃんの父ちゃんは、沫裸党のタリミミ(多理耳)の生まれ変わりか……?」と唸り声を上げた。

 昭和五十二年の冬、突然、カナブンがこの世を去った。病院では急性白血病だと言われた。「ドラゴン君。さよならね」と、カナブンは、透き通るような青白い顔に、微笑みを浮かべて息を引き取った。四十九日が明けて、竜ちゃんは、大きくなった亀のドンちゃんをクリーク(堀)に放し、それから、仙人さんにでも会いに行くつもりなのか、ヨッシーを両親に託し独り旅に出た。

筑後川 清(さや)けき妻の 送り舟

~ 残された者の見る夢 ~

 コウ・ジャファ(孔嘉華)は、久しぶりに東海の青き開放感に安堵の胸を撫で下ろしていた。しかし、同じ晩秋でも随分と肌寒さを感じるものだと思って薄衣を纏った。故郷ジャオヂー(交趾)ならまだ薄着で過ごす季節だ。ここ揚州のグアンリン(広陵)郡の秋は、交趾よりひと月程早いようである。そして、これは逃避行である。ひと月以上の行軍で難民は心身ともに疲弊している。早く約束の地に向かわないと、心が折れてしまいそうな者も多くなって来た。特に傷病兵の傷付きようには目を覆うものがある。傷が痛むのではない。死地に仲間を残して来たという思いが、日に日に傷を開いていくのである。だから、一刻も早く気を晴らす必要がある。

 ジャファ(嘉華)は、広陵郡の河口に海越の船団を手配していた。しかし避難民の数は約六万である。ジャファが揃えたのは、大小三百隻の船である。老朽船もすべて駆りだした。しかし、この船団では、一度に運べるのは約一万五千人である。その為に全員を青洲に運ぶには、天候や往復の時間を考えると約一年の歳月が必要となる。

 幸い六万の避難民は一度に広陵郡に到着した訳ではない。到着したのは、リンシン(林杏)が率いてきた先頭集団の二万人である。後方集団は、まだ遥かジャンシャー(江夏)郡辺りである。したがって、傷病兵に子供達、そして身重の者等を優先に一万五千人が船で旅立った。残りの五千は、肝っ玉かぁさんスン・シャーホァ(孫夏華)が率いて陸路をハイシー(海西)県に向かうことにした。

 産み月が近いハン・ヂョン(韓忠)の妻ヤーリー(雅莉)は、ジャンドゥ(江都)に残り、随時到着する避難民の生活の確保と次の渡船の順番を差配することになった。指導者の男達は大半が戦死した。だから難民の命を守るのは女達の仕事である。そして、副総裁イェンソン(岩松)は、後方部隊を率いて防衛戦に追われていた。だからやはり先頭の守りは、女戦士ジャファの南越義勇軍が担っている。

 南越義勇軍は、南越族だけでなく、山越や海越も多く混じっている。つまり越民族義勇軍である。越族の勇猛さは、王都にまで響いている。だから、歴代の皇帝は越族の兵を欲した。そして、越族には女供の勢いが弾けている。越人の女は自分の力でたくましく生きていく。そんな女達が東海を北上し倭国の海女が生まれた。だから、目の前に嵐の海が待ち構えていても動じない。その代表が女戦士ジャファである。そして、越民族義勇軍の半数が女戦士である。だから、戦さ働きだけでなく傷病人の介護にも抜かりはない。もし、この越民族義勇軍が居なければ、ジンタイピンダオ(荊州太平道)の多くの難民が死に絶えたかも知れない。

 頼りなげに野菊の花が揺れている。東方より涼やかに海風が吹いてくる。丘を越え額に汗が滲む。初冬なのに皆汗だくだ。シャーホァ(夏華)は後ろを振り返った。長い人の群れが草木黄落の狭路を登って来る。後列は遠く見えない。独りで行くなら心許ない野辺の路である。しかし、五千もの群衆の息吹が奇妙な気を生み案外と皆の士気は高い。シャーホァは安堵して前を向いた。

 行く手を冥色の碧き木肌が塞いでいる。木立の路には淡黄に染まった葉がゆらゆらと落葉している。「ねぇ母さん。もうどれ位まで来たの」とヂャォ・シーハン(趙詩涵)が聞いた。シャーホァは、十三歳になる長女のシーハン(詩涵)を振り返った。春の乙女シーハンは、弟ヂャォ・ヂョンシュン(趙仲熊)の手を引いている。ヂョンシュン(仲熊)はまだ七つである。しかし、母親に似て元気者である。

 シャーホァは「この坂を下りて行くと程なくハイシー(海西)に着くよ。そこが、丁度ガオミー(高密)の中程になるから、もう半分だね」と答えると「ヂョンシュン大丈夫?」と次男の趙仲熊に声をかけた。「ふっ~」と大きく吐息をつき趙仲熊は「へっちゃらさ」と汗まみれの顔で答えた。どうやら趙仲熊は、元気者に加えて意地っ張りのようである。まだ幼い趙仲熊だが、兄ちゃんは今頃きっとこの世には居ないと分かっている。別れの朝、ヂャォ・ブォイン(趙伯寅)兄ちゃんは「これからは、お前が皆を守るんだぞ」と言った。そしてその後、兄ちゃんは父さん達と一緒に敵の隊列に切り込んでいった。だから、趙仲熊も弱音は吐けないと心に誓っている。

 シーハン(詩涵)が「歩けなくなったら、お姉ちゃんがおぶってやるからね」と声を掛けた。シーハンは、まだ十三歳だが、母親のシャーホァに似て身体が大きい。だから、大人の男達にも負けない丈夫さである。そして、父ヂャォ・ヂョンホン(趙仲弘)の血を引いて賢い眼をしている。

 肝っ玉かぁさんスン・シャーホァ(孫夏華)が後列を振り返り「ゴンヨウ(公祐)~。梧桐子(ごどうし)は、どれ位残っている」と明るく大きな声で叫んだ。するとひょろりと背の高い若者が「は~い。百回分位残っていま~す」と元気良く手を振り返した。スン・ゴンヨウ(孫公祐)と呼ばれた青年は、シャーホァ(夏華)の族子である。ゴンヨウ(公祐)の父はスン・ジュンハオ(孫俊豪)という。父ジュンハオ(俊豪)は、幼くして父を亡くし伯父のスン・ビンシュォ(孫賓碩)に養育され農本家として育った。その伯父のビンシュォ(賓碩)が肝っ玉かぁさんシャーホァの父様である。

 だから、ゴンヨウ(公祐)の父ジュンハオ(俊豪)とシャーホァは兄妹のように育った。したがって、シャーホァにとって孫公祐は甥のような存在である。孫公祐は今十六歳である。そして農本家の卵である。しかし師匠は父ではなく荊洲太平道の四代目総帥スン・シャー(孫夏)である。つまり、師匠シャー(夏)と一緒にガオミー(高密)から荊洲に渡り、戦禍に巻き込まれたのである。

 梧桐子とは胃痛や腹下しに効く生薬である。今は拙悪な行軍の最中である。他国の水や食で腹を壊す者も続出している。そこで梧桐子の薬水は欠かせないのである。「百回位かぁ。やっぱり心もとないね」とシャーホァは呟いた。そして「ゴンヨウ~。ウートン(青桐)の木に登って実を取って来ておくれ」と、孫公祐に声を掛けた。孫公祐は元気に「は~い」というと、するすると青桐の幹を登って行く。黄色く色づいた青桐の葉が孫公祐に揺すられてハラハラと落ちていく。青桐の実を干して生薬にしたものが梧桐子である。どうやらシャーホァは、この生実を炒って薬水にしようという考えのようである。

 海西の港町が近づくと、道端に水仙の花がぽつぽつと出迎えてくれた。今年は冬が早いようである。海岸の高台からは大小幾艘もの船が見えた。しかし、ジャファの難民船団にしては数が少ない。シャーホァは、不思議に思いながら港町に降りて行った。驚いたことに海西の港町にはスン・ジュンハオ(孫俊豪)が笑顔で待っていた。ジュンハオ(俊豪)はゴンヨウ(公祐)の父である。「ジュンハオ(孫俊豪)兄さん。どうしてここに?」と開口一番、シャーホァは聞いた。孫俊豪は「お前は、相変わらず礼儀知らずだなぁ。再開の挨拶もなしに『どうしてここに?』か。シーハンよ。この母の非礼さは引き継ぐなよ。シャーホァは、昔からこうだから私は慣れっこだけどなぁ。元総帥の妻にしては礼儀を知らな過ぎる。単刀直入というのも良いが、少しは礼儀も身につけておかんとなぁ。おぉヂョンシュン(趙仲熊)も大きくなったなぁ」と幼い趙仲熊を抱き上げた。それから「御苦労」と息子孫公祐を一瞥した。それでも、孫公祐は父に会えて安堵したようである。

 孫俊豪は、息子に冷たい訳ではない。こよなく愛しんでいるのだが厳しいのである。孫俊豪は、幼い時に父を亡くしている。殺されたのである。それも些細なことで恨みを買い殺されたと聞いている。人を恨んで生きていく人間にとって恨みの大小は関係がない。そもそも恨みによって己が人生を生き抜く人は心が狭い。だから、「俺が気さくに声を掛けたのに、あいつは返事をしなかった。あいつは俺のことを馬鹿にしている」という位の理由でも殺すのには十分なのである。殺された側も「こんな理由で人を殺めるような人間はいる筈がない」と思っているので案外簡単に殺されるのである。

 孫俊豪は、そんな理不尽な世の中を身に染みて知っている。だから、礼儀にうるさい。礼儀とは我が身を守る処世術である。その為に身内以外の人間に出会ったら「こんにちは、暑いですね。お変わりありませんか」と、差し障りのない範囲で声をかけるのである。もし、相手が返事を返さなければ要注意である。あるいは「それがどうした」とでも言おう物ならすぐさま立ち去るか、立ち去れない状況であれば、防戦態勢で構えておく必要がある。しかし、中には懐に小刀を忍ばせ「いやぁ~暑くて敵いませんなぁ~。あんさんもお元気どすかぁ~」と、にこやかに近づきいきなりドズと刺してくる輩もまま居るので安心は成らないのである。その当たりの間合いを掴むには大勢の人と接して人柄を見抜く力が必要となる。だから、孫俊豪は、孫公祐を他人の中で育てようと考えているのである。

 その甲斐あって、孫公祐は、人当たりが上手い。だからシャーホァは、若い孫公祐を頼りにしているのである。スン・シャーホァ(孫夏華)に率いられている避難民は約五千である。それだけの数の人がいれば、些細な諍いも発生する。ましてや不安に駆られた逃避行なのである。諍いも起きやすい。それを孫公祐は上手く宥めていくのである。孫公祐は、農本家に成るより官僚の道を歩ませた方が性に合っていそうである。そうシャーホァは見ていた。

 孫俊豪の話では、戦況を聞いたチュクム(秋琴)が、ファンハイ(黄海)の海賊王と呼ばれる大商人バイフー(白狐)に救援隊を依頼したそうである。だから、沖に浮かぶ大小幾艘もの船は、白商船団であった。チュクムは、同じく東海の海賊王ジェン・シャンハイ(鄭山海)にも助けを頼んだそうである。シャンハイ(山海)の本拠地は夷洲国(台湾)である。だから、同規模の鄭商船団が夷洲国から、グアンリン(広陵)郡の入り江を目指し北上しているそうである。その三つの大船団をうまく運用すれば、ジンタイピンダオ(荊洲太平道)六万の避難民も春には、無事青洲に逃げ延びることが出来るようである。「やっぱりチュクム様には、私達には見えない何かが見えている」と、シャーホァは胸を撫で下ろした。

 チュクムを中心に青洲タイピンダオ(太平道)が立ち上がった時、シャーホァは既に趙仲弘に嫁いでいた。だから、故郷のガオミー(高密)には居なかった。しかし、その年、夫の上司張曼成大隊長が守旧派の宦官の縁者を取り調べ罰したことで武官を罷免された。そして、張曼成は友人の李博文に誘われ、太平道に入信した。それから、太平道の自衛団を強化し始めた。だから、張曼成を師と仰ぐ夫趙仲弘も、何の躊躇もなく武官を止めた。長男のブォイン(伯寅)は七歳、長女のシーハン(詩涵)は五歳に成っていた。

 収入の途絶えたヂャォ(趙)家の家計は逼迫したが、元来がくよくよ出来ないシャーホァは笑って見ていた。それに、故郷の高密での青洲太平道立ち上げには、伯父のスン・ビンシュォ(孫賓碩)や、弟孫夏の学問の師匠カンチョン(鄭康成)先生が加わっていた。だから、シャーホァは何の躊躇もなく太平道の信女と成った。夫趙仲弘と長男趙伯寅は、今頃はもうこの世には居ないだろう。でもシャーホァに後悔の念はない。皆でこの道を歩けば、いつか趙仲弘と趙伯寅にも会える筈だと信じている。

 冬の日差しが暖かい。杣人(そまびと)が落葉した山の斜面を登っていく。良く見るとそれは、フーチュン(富春)の瓜売りの男スン・ヂョン(孫鍾)である。どうやらこの山は、孫鍾の杣山のようである。あるいは村で共有する山かもしれない。いずれにしても人の手で植林された里山である。

 孫鍾は、百姓でもあるが杣人でもあるようだ。しかし、良く働く男である。杣山の役割は、材木や焚き木を取るだけではない。木の実や山菜などの食糧庫でもある。たまには有難いことに鹿や猪も獲れる。良く見ると相棒も居る。歳恰好が似ているので幼馴染かも知れない。きっと、隣のリー(鯉)しゃんか裏田のフー(鮒)しゃんか、あるいは前のマン(鰻)しゃんのいずれかだろう。であれば、やはりこの杣山は、村の共同管理なのであろう。持ち物から察すると二人は山芋掘りに来たようである。

 リーしゃん、フーしゃん、マンしゃんの三人はその名から察すると海越のようであるが、山歩きの腰付きも様になっている。だから、山越かも知れない。しかし、いずれにしても越人なので見分けはつかない。海越か山越かはその生活領域からの呼び名なので、富春の村人の大半は、山海越人と呼んだが相応しいようである。そして既に二人の山海越人は、かなりの量の山芋を背負っている。どうやら、幼馴染の宴会用ではなさそうである。きっとまた「フーチュンのシューユー(薯蕷)~」と売りに行くのであろう。

 孫鍾の思惑は、ジャンドゥ(江都)に溢れている難民相手の商売である。その難民は先頃までは敵だった荊洲太平道の信徒達である。しかし、孫鍾には関係ない。そもそも孫鍾に太平道への恨みはない。妻シー・タイユー(施台与)の族弟である朱公偉の役に立とうとしただけである。その甲斐あって息子二人は武人への道も開けた。結構なことである。

 孫鍾は、自分の生きる感覚だけに頼る男である。だから、世間が黄巾賊と悪党呼ばわりすることにも関心はない。正しき道は、どう明日への道を繋ぐかの判断だけである。下手に学問を身につけると、主義主張の為に人生を送ろうとする輩が出てくる。孫鍾は、それは馬鹿げたことだと思っている。

 主義主張は後から取って付けた方便である。主義主張があろうがなかろうが生き物は生きている。生きるのに必要なのは、目の前の困難を一つ一つ乗り越えていくことである。山芋を沢山掘るのに主義主張はいらない。目の前に広がる現実と、それを乗り越え生きようとする自分の息吹だけが確かなものである。だから、政教論争に関わる気はない。目の前に飢えた人がいれば、そこへ食物を売りに行き自分の生計を立てるだけである。

 富春から、江都までの行商の旅は二日と掛からない。王都洛陽や陽翟城までの旅に比べれば屁の河童である。但し今回は二人の息子が居ないので、リーしゃん、フーしゃん、マンしゃんの三人を伴った行商の旅と成った。売り物は、四台の荷馬車いっぱいの山菜に山芋。そして、もちろん富春の瓜漬である。今年は米の出来も良かったが、米は大量に出回っていると聞いたので積まなかった。ふと見ると瓜漬の桶の上に大鹿の角が載っている。山芋掘りの時に山で拾ったのであろう。形と言い大きさと言い見事な角である。

 さて、今回の売り口上は「フーチュン(富春)のシューユー(薯蕷)~ 元気盛り盛り フーチュンのシューユー~ 父ちゃんも倅も元気盛り盛り フーチュンのシューユー~」のようである。冬空の抜けるような青色の下で、陽気な四人の売り声が江都に木魂するのは程なくのことである。

 大鹿が角を落とした頃、ヂャォ・ヤーリー(趙雅莉)は子を産んだ。生まれたのは、元気な男の子と、可愛い女の子の双子である。男の子の名はハン・チイーリャン(韓淇良)。女の子の名はハン・チョウファ(韓朝華)という。二人の名は生まれる前から決まっていた。今は亡き父ハン・ヂョン(韓忠)が決めていた名である。外で山芋売りの売り声が響いている。ヤーリー(雅莉)の世話をしている老婆が山芋売りを呼び止めた。山芋の粥でも作るのだろうか。山芋は精がつく。産後の肥立ちには有難い食材である。

 突然女達の奇声が響いた。ヤーリーは何事かと、手伝いの少女を見にやらせた。少女が戻ってきていうには、山芋売りが、生きた鯉の頭を叩き割り捌いているのだという。鯉は頭を割られて死んでいる筈なのに、包丁が身に入る度に勢い良く跳ねているそうだ。それを見て女達が奇声を上げているのである。

 この山芋売りの桶には富春の瓜漬ではなく生きた鯉が泳いでいるそうだ。やっぱり富春の鯉だろうか。山芋売りならぬ鯉売りの男は、双子が生まれたと聞くと、鯉のおまけにと山芋を二本くれたそうだ。「鯉は仕入れたが、山芋は自分達で掘ったけん。良か、良か」ということらしい。老婆は捌いてもらった鯉と山芋を両手に持つと「これでお乳の出が良くなるよ」と満面の笑顔でヤーリーを見た。

 米は二十万人分をスン・シャー(孫夏)達が散り際に送ってくれた。だから、荊洲太平道の難民が飢えに苦しむことはない。しかし惣菜は各地で手に入れる必要がある。南陽太平国は崩壊したが、財貨はまだ十分にヤーリー達の手元に残っている。だから今は一時も早く、チュクムの庇護の許に逃げ延びることだけが、難民達の悲願である。

 遠くから「お~い。リーしゃん帰るばぁ~い」と声が聞こえる。どうやら孫鍾の声のようである。まだ日は傾いていないが、早めに商売を切り上げるのだろう。そして、幼馴染の宴会が始まる筈である。孫鍾は、何事も急がない。何事にも欲を出し過ぎない。何事にも賛否を見出さない。唯々、毎日毎日を着実に歩んでいくのである。しかし、そんな生き方が案外と難しい。やはりふらりふらりと流されて生きていく方が楽である。あるいは「やぁやぁ我こそは、かくかくしかじか」と切った張ったの人生の方が面白く気になるものである。そして、孫鍾の倅達もそんな人生に憧れているようである。やっぱり「フーチュンの瓜~ 甘味乗ったる フーチュンの瓜~」という人生は輝きに欠けて見えるのである。人生色々、人それぞれ、それもまた仕方あるまいと孫鍾は思っている。

~ 異国に散る ~

 花冷えの野路をシンナム(神男)父子が歩いて行く。突然ピリュ(沸流)が立ち止まり「父様、小便」と言って立ち小便を初めた。その小水の勢いにプーゴンイン(蒲公英)の白い花びらが大きく揺れた。シンナムも歩み寄ると父子で連れ小便を始めた。今年の苦菜はきっと栄養豊富だろう。その無礼さに土地の神様が怒ったのか遠くで春雷が響いた。「あと幾日歩くの?」とピリュがシンナムを見上げて聞いた。「歩き疲れたのか」とシンナムが聞いた。「歩くのは平気だけど、野宿は飽きた。今夜は宿に泊まって美味しいものを食べに行こうよ」と目を輝かせて懇願した。シンナムは笑いながら「軟弱な奴め」とピリュの頭を撫でて目を細めた。そして、「明日はジュルー(鉅鹿)に入る。だから、今夜は骨休めをし身綺麗にしておくか」と宿に泊まることを告げた。ピリュは「やったぁ~五日振りに床で寝られるぞ」と歓喜した。

 ピリュはシンナムの血を引いて逞しい。そして案外野宿暮らしも嫌いではない。それに、物心が付いた頃からシンナムに鍛えられているので、小刀一本あれば幾日も生きていける。幼いが既に立派な野性児である。

 対して姉の美しき灰神楽姫マンヂュ(曼珠)は、この年十二歳だが全く野宿の経験はない。もちろんヨンタバル(延陀勃)商人団は交易商人なので野営もするが、その際は立派な天幕が張られる。その天幕は貧しい民の小屋よりも遥かに豪華で過ごしやすい。ヨンタバル祖父ちゃんは、マンヂュ姫を蝶よ花よと慈しんでいるので、自分で蛇や蛙を捕まえて夕食にするなど想像だに出来ない。まして「はい、夕餉ですよ」と皿に盛った芋虫など出されたら卒倒することだろう。

 しかし、ピリュは自ら倒木を割り、中から芋虫を見つけては夕餉とするのである。美味いか不味いかは二の次である。ピリュにとっての食べ物とは、食べられる物か毒を持つ物かである。しかし、美味しい食べ物が嫌いなわけではない。もう五日も野生丸ごとを食べて過ごしていたのである。だから、今夜は歓喜の嵐である。

 シンナムは、ピリュにシャマン(呪術師)の技を教え込んでいる。そして、自分の生い立ちと同じように空拳も学ばせている。ヨンタバル祖父ちゃんは、全財産をマンヂュに託そうとしているが、シンナムは自分の生きて来た術を全てピリュに託そうとしている。

 ピリュは、幼い頃のシンナムに良く似ている。勿論ピリュは、育ちが良いので野良犬のような凄みはない。しかし、喧嘩度胸は有る。異国では、時より「何しに来た。この外人め!!」と喧嘩を吹きかけられることもある。しかし、ピリュは、無用に凄まない。にっこりと笑って防御の態勢を取るのである。専守防衛の構えである。そして、その防御の態勢に揺るぎはない。だから、殆ど喧嘩には成らない。相手は勝てないと悟り替わりに友情を求めてくるのである。この旅でも数人の悪童の友が出来た。ピリュはまだ九歳だが、もう立派に独りでも生きていける。

 夏めく朝にムォリー(茉莉)の白い花が照りかえった。今年も朝日楼は香りの館である。その館にシンナム父子は逗留している。朝日楼は妓楼であり遊郭も兼ねている。そして、時によっては宿坊も兼ねる。ある時期は、騎馬娘が逗留していた。タン・チュンイェン(檀春燕)の場合は、義父のバイロウ(白柔)が家屋敷を買い親子での暮らしを始める間のことである。白柔は、白商人団の取締役の一人である。だから、旅から旅の暮らしである。つまり白柔の家とはキャラバンサライであった。その為、自宅を持たないのであった。しかし今は自宅を持ち、定住している時間も長くなっている。いずれにしても、朝日楼の本業は宿坊ではないので、今の客はシンナム父子だけである。

 シンナムは、ジュルー(鉅鹿)に居を構える気はない。数か月の滞在予定である。だから、朝日楼に逗留していれば屋敷を借りる必要もなく、食事を作る心配もないので助かるのである。そのように察し、朝日楼を紹介したのはパンチュ(蒡楮)大将軍である。だから、連日のようにパンチュとオミナエシ(女郎花)がやってくる。オミナエシがやってくるので、リーリー(李梨)も帰ってくる。お姉ちゃん子のピリュは、すっかりリーリーに懐いてしまった。華やいだマンヂュ姉ちゃんと、質実剛健女であるリーリーとは随分と雰囲気は違うが、ピリュは、ふたりの凛々しさに共通点を見出しているようである。

 リーリーとオミナエシが居るので、リンツァイ(鈴菜)もやってくる。数日前には、シー・ユェファ(施越花)の舞踊団もやってきた。舞姫ユェファ(越花)が居るので、騎馬娘チュンイェン(春燕)も遊びに来る。朝日楼は本来旦那衆の遊び場である。しかし、その奥座敷は今や女子会の場である。

 初冬、ヂャン・ジャオ(張角)は、ファンジンチーイー(黄巾起義)を発した。そして激戦が始まったのは豫洲太平道の地である。そこは王都洛陽の喉元なので、漢王朝も必死である。だから、実直な軍神ホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)とヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)を差し向けた。この二人だけが本気で漢王朝を守ろうとしている。

 ジータイピンダオ(冀洲太平道)への対応は、まずルー・ヅーシー(盧子幹)である。ヅーシー先生は、改革派の地位安泰の為に仕方なく復職はしたが、王朝の半分の勢力とはいがみ合う関係である。加えて討伐を命じられた張角は、改革派の愛弟子である。だから、戦意はすこぶる低い。

 戦意の薄いヅーシー先生が更迭された後は、ドン・ヂョンイン(董仲穎)である。しかし、唯我独尊のヂョンイン(仲穎)は更にやる気がない。董仲穎には、マー・ユェンイー(馬元義)が思い描く太平国の方が、腐敗した漢王朝よりも魅力的に映っていた。したがって、冀州には平穏な時が流れている。張角は、ヅーシー先生との直接対決を避けて広宗の城に立てこもっているが、そういう次第で鉅鹿も邯鄲も普段と変わりない。

 長雨が続いている。蛙だけが元気良く皆は憂鬱に包まれている。特に張角の体調は優れないようである。人は水がないと生きていけないが湿気の中で暮らすのも苦手である。自然は人間だけの都合では営まれていない。湿気が好きな生き物も多いのである。だからこの時期は、その生き物達の為にある。

 その生き物の中で人間が一番嫌いな生き物は黴(かび)である。実は人間は黴によって生かされているのだが、普段、黴は厄介者で嫌われている。特に黒い黴はいけない。びっしりと黒い黴に覆われた物を見ただけで病気に成りそうである。

 リーリーがうっすらと黴に覆われた壁を拭き上げている。ここは、広宗城の張角の部屋である。この薄暗い湿った部屋に数日前から張角が臥せっているのである。加太の見立てではシーアオチャオ(哮喘)という病である。実は張角には幼い時からの持病がある。それが哮喘である。幼い時には何度か死にかけている。

 哮喘は気の病である。難病ではあるが、呼吸法を習得することで幾分和らぐ。そこでカロ(華老)父さんと、ウェン(文)母さんは、幼い張角に武道を習わせた。武道は間合いの技である。そして間合いを整え図るのは呼吸である。だから、一番の呼吸訓練は武道である。張角には武道が向いていたようである。十歳を過ぎると、ほぼ哮喘の症状は出なくなっていた。

 元気になった張角はガキ大将に成っていった。それから今日まで、哮喘の症状は治まっていた。しかし、このところの心労と深い悲しみが呼吸を乱したのだろう。また、酷い哮喘に襲われるようになったのだ。その様子を見て、数日前に加太がマーファン(麻黄)を大袋に入れて持ってきた。麻黄は、哮喘の症状を和らげる薬草である。

 麻黄は、ここ中原には生えない草である。麻黄が自生しているのはウーファン(烏桓)やシィェンビー(鮮卑)が暮らす北の最果てか、西域の不毛の地である。だから、高価な薬草であり庶民には手が出ない。

 張角は医術師でもある。だから、加太は「薬は自分で調合しろ」と渡したのである。しかし、張角は麻黄を大袋ごと、薬剤部に届けた。薬剤部は病に苦しむ信徒の為に薬剤を作る部署である。つまり張角は、自分の薬とはせずに、信徒を助ける為に使ったのである。麻黄は大変高価な薬剤ではあるが、加太は金品で買い求めた訳ではない。自分で空飛ぶ船で採りに行って来たのである。だから、遠慮はいらないと張角に渡したのだが、張角の性分までは治せなかったようである。

 天灯は風任せの乗り物である。牛馬のように意のままに扱えれば、何度でも採りに行けただろうが、そうもいかない。雨脚の勢いが治まり始めた夜半、張角は息を引き取った。しかし、その昇天は伏せられチュクムや張梁等数名の身内だけで密かに執り行われた。信徒達には「大師は様態がすぐれぬので、張梁が大師の代行をする」と告げられた。信徒達の間で張梁の人望は極めて高かった為、大きな動揺は起きなかった。

 稲田に、稲株の柔らかな道が出来た。悪童達はその稲株を踏みながら田を駆けていく。その切り株からも春になれば蘖(ひこばえ)が伸びてくる。南方の稲田ではそのまま蘖を伸ばし収穫するところもあるようだ。しかしここでは、もうしばらくすると田起こしが始まり麦の種が播かれる。それまでの奇妙な風景である。

 奇妙だと云うのは、自然の景色ではないということである。それは人の営みが作り出す景色である。だが都会に生まれ育った者にはそれが自然豊かな風景に見える。王都洛陽で生まれ育ったリンツァイ(鈴菜)にもそう映る。絵師リンツァイは、永久の眠りに就いた張角の部屋に、秋の稲田の絵を描いた。それは、眩いばかりの黄色の世界である。その中に、一本緑の芽が伸びる。蘖である。その蘖はチュクムだろうか。やがて蘖は、幾本も緑の芽を天に伸ばしていくに違いない。刈られた稲田の下では、リンシン(林杏)が、ヤーリー(雅莉)が、そして大勢の太平道の女達が次に芽吹く蘖を孕んでいる。そして、ピリュもまた蘖であろう。

 晩秋、パンチュ(蒡楮)とオミナエシ(女郎花)は、手を取り合って討ち死にした。朝日楼の女将リュ・ムォリー(呂茉莉)も五人の侍を盾として幾本もの矢に刺し抜かれた。敗戦を悟ったフェ・シャオ(何邵)は、自室で毒杯を煽った。カンチョン(鄭康成)塾の三羽鴉で生き残ったのは、豫洲太平道の軍師ファン・シャオ(黄邵)だけになった。張梁は、白兵戦で足を負傷して歩けなくなった。しかし、漬物樽に腰掛け刀を振るい皆を叱咤激励した。そして、最後は農家の納屋に籠り自ら火を付け自刃した。シンナムは、朝日に顔を向け切り込んで息絶えた。そして、初雪を見ることなく冀洲太平道は、皇甫義真の手で殲滅された。だが、蘖達は青洲に逃れ次の物語を紡ごうとしていた。

 菊華黄乱、野の花達は咲き乱れ大地を黄色く染め上げた。その大地の上、初冬の蒼い空に天高く絹雲がすじを描いた。その空を青洲へ向かう道すがらのリンツァイが見あげた。そして、次の絵は、春の青空に春蘭を描こうと考えた。野にあり華やぎを知らずひっそりと咲く一茎一花(いっけいいっか)は、太平国にふさわしい花だと思ったのである。「そうだ。今夜は酒を止めて蘭茶にしよ」そう思い、ピリュの手を引くリーリーの後ろ姿を追いかけた。

蒼空に 秋嵐呼ぶ 絹の雲

~ 春秋の再来 ~

 あまりにも多くの一族を奪われたチュクムには、悲しみの感情が湧かなかった。チュクムを襲っていたのは張り裂けんばかりの怒りの感情である。その烈火がチュクムの赤毛をますます紅蓮の炎のように燃え立たせた。マー・チャーホァ(馬茶花)やカンチョン(鄭康成)先生が宥めなければ、チュクムは、一人でも王都洛陽に切り込みそうな様子である。馬元義の悲報を聞いて以来、漆黒の戎衣(じゅうい)に身を包み片時も倭剣を手放さない。その姿は、既に戦場(いくさば)の巫女どころか赤き軍神である。そのチュクムの戎心(いくさごころ)を抑えるかのように、続々と避難民が青洲に押し寄せてきた。その憐れみは怒りに勝った。チュクムは、青洲の各地を奔走し、ウタキ(御嶽)を設けては、戦さから逃れてきた民を慰撫して回った。

 猛暑の風を掻い潜りリュ・ヤーイー(呂芽衣)が、豫洲太平道の難民を率いて到着した。総帥のボーツァィ(波才)は討取られたが、老革命家ポントゥォ(彭脱)ことリー・ブォウェン(李博文)は瀕死の重傷で生き延びている。ヤーイー(芽衣)の話では、今は妻ポン・リーファ(彭麗華)の実家ポンチョン(彭城)で傷を癒しているようである。

 軍師ファン・シャオ(黄邵)は、退却軍の指揮を取り、フェ・イー(何儀)等とまだ抵抗戦を続けているそうである。チュクムは、曹孟徳が「ブォウェンを庇護し太平道の逃亡集団を見逃してくれた」と聞かされたが、特段の感情は湧き上がらなかった。曹孟徳はチュクムにとって吹き去った春の嵐のような存在である。ただ、二歳になるフーミー(狐米)だけがその形を残している。

 フーミーに父の名を告げる気もない。父親など生きていく上で大した意味は成さない。チュクムは小さい時からそう思っている。チュクムの身体を成しているのは、革命家の血肉ではない。チュクムの身体を成しているのは、巫女の系譜である。巫女は神様がこの世に使わした御使いである。だから天命も、それを変える革命の意志もない。

 チュクムは“私”というものをあまり意識しない。だから、“私の志”や“私の望み”などもない。しかし、人間は“私”がないと人間として生きていけない。人間は独りでは存在しないのである。特に男はそうである。神様から子という新しい命を預かる女と違い、男はそのままでは、地上の塵でしかない。風に吹かれれば何も残らない。否、残せないのである。だから、“私”という自覚が必要である。

 “私”が存在すれば“他人”が存在し切磋琢磨し生きていける気がするのである。でもそれは勘違いかも知れない。例え勘違いであれ、そう思わないと“何の為に生れてきたのか”納得がいかないのである。その足掻きを努力という。もがいてのたうちまわっているのである。だから、男は神様に近づけない。そして、神なき世を創り出していく。神なき世では人間が神である。

 カンチョン(鄭康成)塾の池泉庭園を一面に露時雨が覆った。大きな蓮池の中では鯉や鮒や鯰が食べごろに太っている。田畑の収穫もほぼ終わりひと心地が付いた。フーミーは元気良く庭駆け巡り、カンチョン先生は目が離せない。大男のカンチョン先生がまだ二歳の小さなフーミーの後を追って駆け回る様は、塾生達の憩いの光景と成っている。

 チュクムは、各地での黄巾軍の戦況に神経を尖らせている。自身が先陣を切って飛び出したい様子だが、破れた各地の黄巾軍と太平道の信者は、皆青洲に逃れてくる筈だ。だから動けない。

 そして秋深く、冀洲太平道の避難民群が次々に押し寄せてきた。避難民群は大きく青洲の三郡に分かれている。バイロウ(白柔)に率いられた壮健な者が多い群れは武装しジーシュイ(済水)の河辺ジーナン(済南)に防衛線を引いている。冀州黄巾軍の生き残り約三万である。白商人団取締役のひとりである白柔に率いられたこの部隊は、餓えた難民集団ではない。豊富な物資を背景に強固な防衛線を築いている。加えて、大河済水の湿地が王朝軍の騎馬隊の動きを止めるので討伐軍も迂闊に攻撃できない。

 白柔がここに留まっているので妻のイン・シャーユェ(尹夏月)と娘達も一緒である。長男のバイ・ブォエン(白伯燕)は生まれて間がなくやっと一歳である。シャーユェ(夏月)は、冀州黄巾軍の大将軍を務めている夫白柔の補佐に負われている。そこで、異父弟ブォエン(伯燕)の世話は、姉のタン・チュンイェン(檀春燕)とタン・メイエン(檀美燕)の役目である。しかし、十七歳に成った騎馬娘チュンイェン(春燕)は、黄巾軍の騎馬隊長も兼任している。騎馬軍団が活躍できる地形ではないのだが、王朝軍の騎馬軍団に対するには騎馬部隊も鍛えておく必要がある。したがって、ブォエン(伯燕)の世話は、もっぱらメイエン(美燕)の役目である。

 十四歳に成ったメイエンには若衆達の熱い視線が降り注いでいる。じゃじゃ馬の姉チュンイェンとは違い、メイエンの立ち振る舞いは嫋(たお)やかである。メイエンは容姿も母シャーユェに似て優美である。

 イン・シャーユェ(尹夏月)の父は、漢の商人である。母は高句麗のソノ(涓奴)部族の娘であった。当時、漢王朝は度重なる北狄の侵略に悩まされていた。特に冀州の北部から幽州は毎年のように侵略された。北狄の目的は狩りである。だから領土拡張の意識はない。欲しいのは中原の物資である。漢王朝にとっては侵略戦争であるが、北狄にとっては、ただの狩りである。

 狩りであるという感覚は、日々の暮らしの行動であるので、政治的な慎重さもなくちょくちょく侵略してくる。そして、漢王朝が大軍を送り追い払えばさっと逃げる。戦争をしているという自覚がないので勝敗へのこだわりもない。ヤバイ!! と思えばさっさと引くし、大丈夫と思えばまた狩りの行動に出るのである。こういう輩が一番始末に困る。

 そこで、当時の漢王朝は狼に餌を与え手懐けようとしたのである。餌は宝物と美女である。その美女の中のひとりにシャーユェ(夏月)が含まれていたのである。餌としての美女は皆高貴な王族である。したがってシャーユェもお姫様のひとりであるということに成っている。しかし、本当は商人の娘である。

 他の美女達もほぼそうである。王族が自分達の娘を蛮族の餌に差し出す筈はない。北狄の頭目もそうであると知っているが、漢王朝の身分などはどうでも良い。漢王朝は刈り場である。だから、太った豚のようなものである。そこに高貴さなど求めてはいない。美女であれば良いのである。そして、シャーユェは嫋やかな娘であった。

 シャーユェは頭目の子をふたり産んだ。タン・チュンイェン(檀春燕)とタン・メイエン(檀美燕)の姉妹である。そして、ふたりはタンハンシャン(弾汗山)の麓シィェンビーユー(雹碧玉)の都で育った。チュンイェン(春燕)が十四歳の時、父タン・シーファイ(檀石槐)が亡くなった。頭目には、チュンイェンの異母兄ホーリェン(和連)が納まった。異母兄和連は、チュンイェン親子が中原に帰ることを許してくれた。そこで、母イン・シャーユェ(尹夏月)の生地、幽州広陽郡の燕国に帰郷し商人の娘に戻った。

 チュンイェンに乗馬を教えてくれたのは異母兄和連である。和連は、年の離れた妹チュンイェンをとても可愛がっていたので、沢山の宝物を持たせて帰郷させた。だからこれまで、生活に困ることは一度もなかった。その為、チュンイェンとメイエンの姉妹はお姫様育ちである。

 しかし、チュンイェンはじゃじゃ馬なので、お姫様には見えない。北狄の騎馬武王と呼ばれた方が似合っていそうである。対して妹のメイエンは、養父白柔の優雅さを身に浸みさせ麗しい娘に成っている。白柔は、大商人バイチュウ(白秋)の甥である。その為、育ちの良さが滲み出ている。蛮族の頭目実父檀石槐とはずいぶんと様子が違う。つまり、姉チュンイェンは実父の勇猛さを身に着け、妹メイエンは、養父の育ちの良さを身につけたようである。したがって、今のところチュンイェンに男っ気はない。その点で、チュンイェンと男装の画師リンツァイはどことなく気性が似ているようである。

 ガオミー(高密)まで下がってきたジータイピンダオ(冀洲太平道)の避難民群は、約二万である。この集団は、傷病人と幼い子供を連れた母子が大半である。また、孤児と成った子供達も多い。そこで、この集団を率いてきたのは、冀州黄巾軍の看護部隊隊長のリンツァイ(鈴菜)である。護衛隊長はリーリー(李梨)が務めている。高密には太平道の医療団本部があるのでここまで来たのである。

 冀洲太平道の避難民群の主力約五万は、州都リンズー(臨淄)の郊外に留まっている。この本隊五万を率いているのは、通称巳の親方ことツァンロン(蒼龍)である。蒼龍の本業は、舞姫シー・ユェファ(施越花)の舞踏団団長である。団長は用心棒の親分も兼ねているので腕っぷしも強い。そして、嘗ては漢王朝の武官でもあった。しかし、今はアル中のロン(龍)ともあだ名され日頃は酒臭い。腰にはいつも酒の入った瓢(ふくべ)をぶら下げている。だが、いざという時はとても頼りになる男である。身を持ち崩していなければ、漢王朝軍の将軍に成ってもおかしくないほどの武官だったようである。

 しかし、今はアル中のロンである。それでも非常事態であるので約五万を束ね隊長を引き受けている。十歳になる娘と八歳の息子がいるが、子供達は懐いていない。酒臭いので嫌いなのである。娘はファン・シャオレイ(黄暁蕾)、息子はファン・シィァン(黄香)という名である。ファン(黄)は亡くなった蒼龍の妻の姓のようである。シャオレイ(暁蕾)とシィァン(香)は、ユェファ(越花)の母シュー・バイルー(許白露)に育てられている。だから、舞姫ユェファをお姉ちゃんと慕っている。

 臨淄は斉国の古都である。古くはインチュウ(営丘)と呼ばれていた。営丘を都とし国を開いたのは太公望と呼ばれたリュシャン(呂尚)である。字(あざな)はズーヤー(子牙)という。子牙は、シャー(夏)王朝を倒した商王朝のイーイン(伊尹)のような人である。その商王朝を打ち倒し、周王朝を建てた功労者である。

 商王朝は商業国家である。商業は農業や工業のようにこつこつ生真面目に行っていても上手くいかない。商業には博才が必要である。利益を生むには、種を植え、水を撒き、自然に祈っているだけでは駄目である。一か八かの賭け心がないと利益は生まれない。だから、占いが生まれた。当たるも八卦、当たらぬも八卦ではあるが、何か決心を促すものが必要なのである。

 天の恵みは神様が与えてくれるが、利益は人間が生み出した欲の現前化である。だから、神様の領域にはない。その為、祈っているだけでは始まらない。エィヤッと気合一発が必要である。しかし、それには集団の生死がかかっている。そこで「一応神様にお伺いした」ということにするのである。占い師は巫女やシャマン(呪術師)の必要はないが、常人であっては有難味がない。だから、神懸かりの儀式や修行が必要になる。つまり、占い師は職業である。チュクムの力とは異なものである。

 子牙の一族は姜姓を名乗っていた。姜は羌と同じ語源である。羌族は羊を飼う民のことを表している。つまり遊牧民である。その遊牧の民が中原に出て農耕を国営の柱としたのが周王朝である。しかし国都は、中原経営に有利な邯鄲周辺ではなく、昔は鎬京と呼ばれた長安の都や、商都洛陽を中心とした。

 中原は、ファンホー(黄河)中流域の氾濫が手に負えないからである。特に下流域のジーシュイ(済水)辺りは異界の有様である。そこで、太公望リュシャン(呂尚)が開拓にやってきたのである。つまり、歴代王朝にとって青洲は東夷の領域である。しかし、舟を操る河童衆や 海洋民にとっては天国のような地である。

 海越を中心に海洋交易は非常に盛んだった。東海沿岸で漢人と混血した海越は倭人と成った。倭人は東海の東の島々から、コグリョ(高句麗)の沿岸域にまで広がった。但し、北狄と同じように国家を形成しようという発想はないので東海帝国として覇権を争うことはない。それぞれに自由な海洋民なのである。王を名乗る者も出ては来るが、それは部族国家或いは海賊王で留まっている。だから、法や制度で社会を成すものではない。基本はあくまでも集団の長による合議制である。したがって決定事項にも一貫性はない。明確に、国家という概念を持ち帝国を打ち立てたのは始皇帝である。

 そして始皇帝の死後、真っ先に反乱を起こすのも、越人や倭人達である。どうも、法や制度で整然と縛られるのは嫌いな種族のようである。越人や倭人達は国民ではないのである。彼らは海の民であり商人達である。但しここでいう商人とは、商売人というより商王朝の末裔である。それが武装すれば海賊と呼ばれる。

 農耕社会が根付いてきた周王朝あたりから、集団運営が課題となり組織論が生まれ、国家観が出てくる。それを集大成し中華帝国を造ったのが始皇帝である。しかし、周辺の民が皆そのことを了解している訳ではない。だから、ふとした弾みで春秋の世に戻ることもあり得るのである。

 倭人や越人の港町を歩いていると騒々しい。それぞれが、それぞれに自己主張をしているのである。そして、その主張に一貫性はない。いたって感覚的な主張である。だから、会話になっていないことも多い。そこが、王都洛陽とは様子が違う。王都洛陽で育った者が、東海沿岸の港町を歩いていると、その喧騒に頭が割れそうに感じる。良く言えば、それほどに活気があるとも表現できる。

 そんな青洲の風土は、傷病の治りも早いようである。きっと静かに病んでいる暇もないのだろう。加えて気候風土も良いので、高密に集められた太平道の傷病人は見る見る内に回復していった。もちろん、リンツァイ(鈴菜)の看護部隊が活躍したのはいうまでもない。

 高密には、冀洲太平道、豫洲太平道、荊洲太平道から総勢約十万の避難民が押し寄せた。そして、その内の約四万が傷病人であった。しかし、翌年には約八割が回復した。チュクムは、リンツァイを中心に改めて看護部隊を強化した。そして、その看護部隊を中心として、青洲各地に青洲黄巾軍を配置した。

 この戦い方は、青洲に根付く墨家の伝統である。その為、青洲黄巾軍は、武装防御集団である。だから、命を粗末にしない。戦い傷ついても必ず看護される。その安堵感は、青洲黄巾軍を無双の戦闘集団へと育てていくことになる。

 ジーナン(済南)に防衛線を引いたバイロウ(白柔)は、冀州常山郡を本拠地とするヘイシャンダン(黒山党)のフェイイェン(張飛燕)と連絡を取り合った。張飛燕は張角の盟友でもあったので、既に漢王朝に反旗を翻している。常山郡は邯鄲の北に位置している。

 邯鄲は、嘗て趙国の都だった中原の要地である。常山郡も中山(ちゅうざん)とも呼ばれ同じく要地である。その中山で、張飛燕が暴れているので、漢王朝軍は、邯鄲から動けない。各地の黒山党を束ねていたのはニィゥジャオ(張牛角)だったが、張牛角は先頃戦死し、今は養子の張飛燕が、黒山党五十万を束ねている。

 黒山党の本性は山賊なので、正面切って戦えば、ホワンフー・イーヂェン(皇甫義真)が鍛え上げた漢王朝軍の足元にも及ばない。しかし、皇甫義真が信念として持つ武人の誇り等はないので卑怯な戦いも厭わない。その戦い方は北狄と同じである。だから、漢王朝軍も手を焼くのである。その上に、五十万が常山郡に固まっている訳ではなく、冀州を中心に各地に散らばっている。それも要害の地と呼ばれる辺境を各拠点にしている。だから、形勢が不利に成ると、さっさとその地に逃げ去るのである。そこで、漢王朝軍は青洲太平道の討伐には手が回らないのである。

 初冬、身重のリンシン(林杏)が荊州太平道の難民一万五千を率いて青島の入り江に到着した。そして年が明ける前夜元気な男の子を産んだ。亡き張梁の三男である。チュクムはヂャン・サーフォン(張疾風)と名づけた。張疾風は、チュクムにとって歳の離れた従姉弟である。そして、張梁の面立ちを良く写していた。

 父の張梁はチュクムにとって叔父だが、十二歳しか歳が離れていない。だから、兄のような存在だった。チュクムには、父の張角と遊んだ記憶は殆どない。しかし、張梁との思い出なら数多ある。張梁が一番身近な親族だったのである。だから、張疾風が愛おしくて仕方なかった。そして、二歳のフーミー(狐米)は弟が出来たように喜んでいる。

 リンシン達をここに導いてくれたのは南越義勇軍である。そして、南越義勇軍の女首領コウ・ジャファ(孔嘉華)にチュクムは同じ波長を感じた。ジャファ(嘉華)は碧の長い黒髪に二重の黒い瞳である。そして小麦色の肌が力強さを引き立てている。赤毛で雪のような白い肌のチュクムとは好対照である。しかし、二人の気概は同じ波長をしている。周囲は、ふたりに東夷の女王と南越の女王を思い重ねた。

 ツングース族のシャマン(呪術師)を祖母に持ち、伯母が倭国の巫女女王であるチュクムに巫女女王の片鱗が有るのは間違いない。但しパンチュ(蒡楮)とその手下は妖怪女王だと思っていた。それもある一面正しい。しかしそれは霊力においてではない。その発想においてである。チュクムは、男供の作り出した社会感や、「世間の常識」には囚われない。肌身で感じたことを元に行動するのである。だから理(ことわり)では説明がつかない。妖しいのである。

 その倫理観や価値観が常人と違う世界を作り出そうとしていることは、大学者カンチョン(鄭康成)先生だけが、おぼろげに掴みかけている。革命は理念によって生じる。張角は実践的な哲学者である。そして、理念とは人が生み出すものだ。だから、革命で得られるものは人の世界に留まる。どんな革命が起ころうと牛馬が自由に成れる訳ではない。家畜が喰われずにすむ訳ではない。だから、革命とはあくまでも人間の身勝手である。そして、変貌する。

 チュクムの行動には理念が感じられない。カンチョン先生の教えにも馬耳東風である。学問を理解していない訳ではない。知識の豊かさでなら、カンチョン塾で右に並ぶ者はいない。しかし、智に生きようとはしないのである。カンチョン塾の三羽鴉で、智の人と呼ばれるフェ・シャオ(何邵)には、そこが理解できなかった。妻のマー・チャーホァ(馬茶花)には良く理解できたが、それを言葉で説明するのは難しかった。あえて言葉にすれば「チュクムは自然態」だと言える。そして普通に生きているのである。

 鳥や獣がぶつぶつと理屈を並べながら生きている様は見たことがない。人間の方が特殊な生き物である。人間界の異界に生きるのが妖怪の世界であれば、妖怪女王チュクムの方が神様の世界に住んでいるのかも知れない。パンチュとその手下はそこに憧れチュクムに魅せられたのだろう。

 国家という理念は、神様の世界から離れていくことである。人間の欲望を最大限に導きだす装置が国家である。だから、国家は牛馬や家畜や、鳥や獣の生き方を守ろうとするものではない。国家が追い求める物は限りない人間の欲望である。その欲望が公平に分配されるか少数の者に独占されるかは、牛馬にとってはどちらでも良い。革命とはその装置を作りかえる行為である。だから天命とは人の欲望である。牛馬のように、天命と無縁に生きてきたパンチュとその手下は、革命に寄ってもたらされた世界より、チュクムの神様の世界に生きたかったのである。

 コウ・ジャファ(孔嘉華)を突き動かしてきたのは、恨みである。その恨みの対象はヂュ・ゴンウェイ(朱公偉)である。彼女にとっての漢王朝は朱公偉である。朱公偉を倒すことは、漢王朝を倒すことである。しかし革命の志はない。だから、漢王朝を倒した後の世界は思い描けていない。「越人の自由な世界が開ける」という漠然とした思いだけである。しかし、大半の反乱とはそういうものである。

 多くの場合、反乱に成功した後が大変である。新たな世界や国を創造するために破壊した訳ではない。とにかく今の状況が気にいらないので破壊したのである。破壊された世界をどう創造するかを思い描くのは至難の業である。横暴な独裁者を打倒した後に、新しい独裁者が生まれることも多々ある。万民が満足のいく世を作り出すのは容易ではない。

 ジャファ(嘉華)はチュクムと接しているうちに、まったく新しい考えに気が付き始めた。それは、女達が生み出す社会である。人間の欲望を最大限に導きだす装置が国家であれば、不幸を生み出す源泉は欲望である。そして、これまでの国家は男達が作り出す欲望で形作られてきた。もし、女達の欲望でその装置が形作られたらどうなるのだろう。その不確かな疑問がチュクムの「自然態」の中に潜んでいそうな気がしてきたのである。そもそも南越は女達が元気な世界である。この思考は女戦士ジャファに新たな戦いの目的をもたらしたようである。春の娘は恋し、男達の悲愁が訪れようとしていた。

~ 天下三分の計 ~

 突然、南の空に稲光が走った。先頃まで残暑の空が青々と広がっていたが、俄かに曇天と成り雨を降らせそうである。この時期の雷は豊作の予兆だと言われているので、喜ぶべきかも知れない。それに少しは気温も和らぎそうだ。しかし台風が近づいているのかも知れない。生き物達がざわめいている。それでも夕餉の支度は始まったようである。各家々からは薄紫の煙が棚引いている。

 そんな夕景色の中をファン・シャオ(黄邵)は、徐州の州都東海郡チュ(朐)県に向かって馬を進めている。護衛の供は三騎だけである。ふと空腹を覚えた。護衛の兵を振り返り片手で腹を押さえ、片手で詫びた。三騎の兵は苦笑し大丈夫だと手を振り返した。

 考えてみれば朝から何も食べていない。さほどに気の急いた旅であった。ヤンディ(陽翟)城が落城し豫洲太平道の黄巾軍は敗北した。更に、シーファ(西華)で壊滅的な事態に陥った。しかし、この半年余りでシャオ(邵)は、残党を集めてその勢力を五万にまで戻していた。そして、青洲を守るべく、徐州や豫州で遊撃戦を用い漢王朝に抵抗を挑んでいる。

 冀州では、フェイイェン(飛燕)達のヘイシャンダン(黒山党)が暴れていてくれる。だから徐州や豫州で抵抗戦を行えば、漢王朝軍は青洲までは足が伸ばせない。そこで、軍師黄邵自らが先陣を切って闘っている。

 黄邵は、漢王朝打倒の望みは潰えたと悟っている。それに代わり、シャー(中華)の東北部に太平道と黒山党の自由東北連盟を打ち立てようと目論んでいる。しかし、東北部だけの存在では、いずれ漢王朝に討伐されるだろう。そこで、東海地域に反漢王朝の動きが作れないかと模索中である。もし東海連合が形を成せば、更に手堅く漢王朝の動きを封じ込めることが出来るだろう。

 黄巾起義に寄って漢王朝で勢力を盛り返したのは、改革派である。漢王朝を死守しようとする王党派と違い、改革派の中には革命の危うさを秘めた輩も多い。董仲穎がその最たる存在である。黄巾軍に真っ向勝負を挑んだ皇甫義真は、生真面目を絵に描いたような男である。だから、漢王朝を倒そうという野心は持たない。しかし、同じように敵対した朱公偉は、やや複雑な人生を背負っている。朱公偉は越人なのである。だから、漢王朝からの独立を目指して戦う越人同胞にとっては裏切り者でもある。そして、朱公偉はそのことを自覚して生きている。だから、皇甫義真のようには誇り高く生きられない。

 朱公偉のような生き方を強いられている者は案外多い。夷狄(いてき)の血筋を引くものは大なり小なりその負い目を背負って生きている。ただ、西戎(せいじゅう)の血を引く董仲穎は狼のように誇り高く、東夷(とうい)の血を引く朱公偉は狐のようにしたたかなだけである。

 中華の東海沿岸は東夷の源郷である。ここで、越人や漢人が交わり東海沿岸に広がった海の民が倭人である。だから、倭人とは東海人とも言える。いずれにしても歴代の中華の王朝から見れば東夷である。しかし、蛮族ではない。海洋民は概ね豊かな民である。もちろん不漁に泣かされる漁民もいるが、大海は自由な道でもある。だから海洋交易が豊かさをもたらすのである。河川で使う小さな河舟ではなく、海洋民は大きな外洋船を使った。だから、荷馬車での運搬の比ではない。そうして、南越は栄えた。

 必要は発明の母である。河を漕ぎ渡る小舟を作れれば、海洋を乗り切る大型船を作ることも無理な話ではない。人間はしたたかな生き物である。生き残る為には不可能と思えたことも可能にするのである。

 豊かな海と森と、新天地に恵まれた東夷は、厳しい環境に生きる西戎や北狄(ほくてき)のように、中華に攻め入り狩りをすることは殆どない。東夷と中華の王朝との間で起きる戦いは、全て、中華王朝の侵略行為に端を発している。そして今、中華の東海沿岸は、ほぼ秦王朝に、そして漢王朝に組み込まれてしまった。だから、自由に生きる東夷は、東海対岸の島々や辺境の半島に暮らしている。しかし、漢王朝に組み込まれてしまった東夷が、その処遇に満足している訳ではない。だから、南越義勇軍は、漢王朝に反旗を翻した荊州太平道に与した。そして、揚州や徐州にも反旗を内に秘めている東夷が居る筈だと黄邵は思っている。

 海風が和らいできた。風向きが変わるようである。夕凪が逸る気持ちを落ち着かせてくれた。黄邵は大きく深呼吸すると屋敷の門を潜った。高い石壁に囲まれたこの屋敷はまるで東夷の城である。この城のような屋敷の主(あるじ)は、この一帯の船主である。家人は一万人ほどだというから相当な分限者である。

 チュ(朐)とは、干し肉の曲がったものである。そこから転じて曲がりくねる遠い処を指すそうである。そして、秦王朝の時代、この東海の浜は朐界(くかい)と呼ばれていた。その海上に皇帝は石柱を建て、中華の東門としたのである。だから、この海の先は異界である。しかし、それは中華の人々にとってのことであり、東夷にとっては、ここからが自由の海である。

 その大海を根城に、この屋敷の主は、代々栄え非常に裕福なのである。当代の船主の名は、ミィ・ハイヂョウ(糜海舟)という。ハイヂョウ(海舟)は小柄な男ではあったが舟だけではなく弓馬に長け俊敏な男である。しかし、武人ではない。嗜(たしな)みである。弓馬は舟の上からも行うそうである。もちろんその際は弓舟であろう。

 弓舟では、沖に浮かべた小舟の的を射るようである。あくまで嗜みである。それで豊漁と成る訳ではない。ただし、ビンビンと響く弓鳴りの音に、海の魔物が静まるという人もいる。しかし、海舟は呪術師ではない。どちらかというと白商人団の白狐に近い存在である。

 その奥方は漢人でファン・チィァンファ(黄薔華)という。黄邵の一族である。つまり、黄邵は大叔母を頼ってきたのである。大叔母を頼り海舟に会いに来たのは、ある男を紹介してもらう為である。その男の名はタオ・ゴンズー(陶恭祖)という。今は徐州刺史である。つまり、徐州の軍長官であり黄巾軍討伐が責務である。だから、いきなり州都に出向いて会える関係ではない。そこで、徐州の有力豪族である海舟に仲介を頼みに来たのである。

 実は陶恭祖も改革派の官僚である。そして、老革命家ポントゥォ(彭脱)こと李博文の兄貴分であった。しかし、今は敵味方の関係に陥っている。歳は、李博文より六歳年上だと聞かされているので五十路に入り込んでいる。二人は太学の同期の学友である。入学が一緒なので同級生であるが、陶恭祖の方が六歳年上なので、兄貴分なのである。それに当時十七歳だった李博文は、母や兄弟と離れて暮らしていたので、陶恭祖の屋敷に上がりこむことが多かった。

 陶恭祖は既に妻帯者であった。妻はカン・ハンメイ(甘寒梅)と言い高官のお嬢様である。李博文も格式高い家柄の出ではあるが、今は独り身の無頼派である。だから、深窓の令嬢であるハンメイ(寒梅)は、当初李博文を訝しがっていた。しかし、徐々に李博文の人柄を知るにつけて姉のように振る舞ってくれるように成っていった。

 陶恭祖は、甘寒梅の婿養子である。陶恭祖の父は揚州会稽郡余姚県の県長であったが、陶恭祖が幼い頃に亡くなっていた。越族の反乱に巻き込まれ命を落としたようである。母もその時に亡くした。孤児に成った陶恭祖は、祖父母に引き取られ丹陽郡の丹陽県で育った。裕福な暮らしではなくなったが、日々の暮らしには困らない位の家柄である。

 父母を戦火で亡くした陶恭祖は、変人に育った。たいそう賢いのだが、どことなく落着きがない。加えて反抗的である。目上の者や強者にはどうも突っかかって行きたい性分である。所謂食ってかかる性質(たち)である。だから、塾の先生や先輩達からの評判は芳しくない。しかし、目下の者にはとても優しい。虐められた子が居れば、虐めた奴がどんなに強くても殴りこみに行くのである。その為、後輩達は兄貴分として頼ってくる。好きな遊びは戦争ごっこであった。戦禍が歪んだ性癖を育てたようである。

 しかし、その拙い軍略は、なかなか面白みがある。ある時、甘公という太守がその様子を見止めた。甘公は、丹陽県からは遠く南に離れたジャオヂー(交趾)の太守であった。しかしこの時は、任期を終え故郷に帰るところであった。眺めていると、子供の遊びではあるが、陶恭祖の用兵は巧みであった。興味を惹かれた甘公は馬車を止め陶恭祖と語り合った。聞けば陶恭祖は十四歳でそろそろ成人の頃である。しかし、仕官への意欲も持たず、のうのうと日々を送っているようである。県長であった父の気苦労を見ていたのかも知れない。甘公は、陶恭祖が兵法を学んでいることに気がついた。どうやら独学のようである。

 陶恭祖の向学心を認めた甘公は、陶恭祖を屋敷に招いた。そして、屋敷の書庫を自由に使って良いと伝えた。その日から、陶恭祖は甘公の書庫に日参するようになった。そんな陶恭祖の様子を見定め、甘公は、陶恭祖を養子に迎えようと思い始めた。

ある日、十二歳になった長女のカン・ハンメイ(甘寒梅)に「あやつを婿にしたいが、どうだ」と聞くと甘寒梅は「別に~」と、どうでも良いという風に答えた。そこで、甘公は、早速この縁組を進めることにした。

 しかし、陶恭祖の評判を聞いていた甘公夫人は、難色を示した。陶恭祖の評判は「しっかり者」という評判と「遊びほうけてばかりいる」という悪評とが半々なのである。代々県の役人を出している陶家の家柄には、問題がない。加えて陶一族の評判も良い。しかし、彼だけが、一族の問題児なのである。悪評から察するに陶恭祖は偏屈者のようである。「偏屈な夫を持って娘が幸せに成れる訳はない」と、甘公夫人は反対なのである。

 そして、それはもっともな話である。しかし、甘公は「これは奇貨なり、居くべし」と、呂不韋の話を持ち出し譲らない。そこで、甘公夫人も「しっかり者」という良い評判の方に賭けてみることにしたのである。そして、甘公夫人の賭けは当たった。陶恭祖は、婿養子になると、子供じみた遊びは慎み、勤勉な生活を送るように成ったのである。甘寒梅が十七歳に成った時には子宝にも恵まれた。陶恭祖は県の役人となり仕事に精を出していた。しかし、その子は三歳を待たずしてこの世を去った。

 甘寒梅は酷い気鬱の病に陥った。甘寒梅は近隣でも名だたる美女である。そして、多少おてんば娘であった。その快活な美女が、何をする気も起きずけだるい表情で、日々を送るようになったのである。その嬾(ものう)いようは、艶やかにも映るが身内の者達には困った事態である。

 そしてある日、二十三歳に成っていた陶恭祖は、甘公夫妻に「洛陽に出て太学に通いたい」と申し出た。陶恭祖の学問欲も有ったが、妻の気分を異郷の地で晴らしたいという思いが働いたようである。甘公夫妻は、その意を察し遊学の援助をしてくれることに成った。

 そういう事情で、陶恭祖は年を食った新入生だった訳である。三年後には、後に青洲の長官になるファン・ズーイェン(黄子琰)も入学してきた。太学は改革派の砦の様相を帯びていた。陶恭祖も改革派に名を連ねたが、李博文やズーイェン(子琰)のようには、あからさまには動けなかった。次男のタオ・ヂョンシャン (陶仲商)が誕生したのである。それに援助していてくれる甘公夫妻のことを思えば、革命家への道へは進めなかった。翌年、太学を卒業すると故郷に戻り役人に復職したのである。偏屈者であることは治らないが、太学で学び秀才であった陶恭祖は、甘公夫妻の期待を裏切らなかった。そして、今や徐州の役人を束ねる郡長官である徐州刺史と成った。

 青嵐(あおあらし)が、山アジサイの白い花びらを揺らして落とした。せっかく風の当たらない、やや日陰に咲いたのに可哀そうなことである。陶恭祖の屋敷への案内はミィ・ズーヂョン(糜子仲)が行ってくれた。海舟の次男である。今年十七歳になり、州の役所に仕官することに成っている。その為長官の陶恭祖に挨拶をすることも兼ねている。

 糜子仲の母は黄邵の大叔母ファン・チィァンファ(黄薔華)である。つまり、糜子仲は黄邵の身内でもある。だから黄邵も気兼ねがなく助かった。糜子仲は、とても賢く人当たりも良い。しかし、少し内気のようである。そこが少し黄邵に似ている。しかし黄邵は、糜子仲に、先だった親友何邵を思い重ねた。だが黄邵も、すこぶる陽気な馬元義に感化されなければ、未だに昆虫集めがだけが生きがいの変人のままだったかもしれない。人も昆虫のように脱皮し大きく様変わりする生きものかも知れない。

 陶恭祖と黄邵の会談は密かに行われた。敵将との会談なので当然である。黄邵は、海舟の甥という扱いである。黄邵は、学士然とした風貌なので、州の役人達も、この男が賊徒の親分だとは気付かない。役人達が思い描く黄巾族の親分は、ヘイシャンダン(黒山党)の大親分張飛燕のような山賊面である。

 会談は夕餉の席で行われた。だから同席しているのは、陶恭祖の妻甘寒梅と糜子仲だけである。陶恭祖は開口一番、黄邵に李博文の容態を訊ねた。「重症だったが回復に向かっている」と伝えると彼の姉替わりだった甘寒梅が「良かった」と安堵の声を上げた。

 黄邵の要件は停戦交渉である。「徐州からは黄巾軍を引くので、漢王朝軍は徐州に留まっていて欲しい」という話である。つまり官軍は、青洲までは軍を進めるなという話である。虫の良い話のようだがこの話は陶恭祖にも有難い話であった。漢王朝軍とは言っても正規の国軍は僅かばかりで、寄せ集めの俄か軍隊である。だから、命がけで向ってくる黄巾軍には手を焼いているのである。だから、虫の良い話の三尸(さんし)の虫は、漢王朝軍の体内の中の虫でもある。

 黄巾軍が徐州から引けば、陶恭祖は、徐州の黄巾残党を討伐したと手柄にすれば良い。黄邵にとっては、徐州を非武装地帯に出来れば優位に攻防戦を戦うことが出来るのである。州の役人や州軍にとっても徐州の治安維持に専念するという話は違和感のある話ではない。だから、この密約は難航することなく話が治まった。

 更に、黄邵は東海連合の構想を陶恭祖に語りかけた。ただし「今すぐの返事はいらない。ただ聞いておくだけで良い」と前置きをしての話である。それは、暗に「東海革命を起こせ!!」と陶恭祖をそそのかす話であったが「時を選んで」という話を含んでいたので、陶恭祖も聞き流しながら耳を傾けた。

 その話を傍らで聞きながら、甘寒梅は奇妙な懐かしさを覚えた。それは青春の日々への懐古だったのかも知れない。若い李博文や黄子琰の顔が思い浮かんだ。そして自身も若返る気分に襲われた。翌朝、黄邵は、「近いうちに李博文を見舞って欲しい」と甘寒梅に言い残し帰って行った。

 それから、数日後、黄巾軍の影は徐州から消えた。そして、王都には「徐州平定」の報が届き、大将軍何遂高は、陶恭祖の業績を王朝内で喧伝した。漢王朝の危機を救っているのは「俺様が召喚した改革派の官僚達だ」と、言わんばかりの喜びようであった。そして、陶恭祖は、西羌討伐の為に涼州に派遣された。皇甫義真と並び立つ将軍として高評価を得たのである。

 暴風は、西南に向きを変えた。どうやら台風は過ぎ去っていくようである。台風の進路の東側だった揚州のグアンリン(広陵)郡は家屋の倒壊も激しい。その倒壊した家屋の中から布で顔を覆った一人の男が這い出して来た。下敷きに成っていたようではなさそうである。服装が土まみれではない。脇には小さな女の子を抱きかかえている。倒壊した家屋の下敷きに成っていたのはこの幼子のようである。ぐったりとしてはいるが、息はある。まだ一歳と少しだろうか。

 男は白い和田玉(ホータンギョク)の首飾りを懐に入れると川辺に急いだ。そして、幼子に水を含ませると幼子はうっすらと目を開けた。きれいな切れ長の目である。北方の民の血を引いているのだろうか。越人とは少し違った顔立ちである。幼子の正気が戻ると、男は腰袋から茶褐色の粽(ちまき)を取り出し、糸で小さく千切ると幼子の口に運んだ。幼子は可愛らしい口で粽を飲み込んだ。数個食べさせると、男は幼子を馬の鞍に乗せ西に向かって進みだした。その突風が舞い上がる道は荊州への道である。

 和田玉の首飾りは、幼子の母親が身に着けていたものである。とても高価な宝石でちょとした家屋敷が買える程である。町外れまで来ると男は顔を覆っていた布を取った。ここまで来ればもう埃っぽくはなくなったのである。町には大勢の被災民が溢れ、復旧に負われていたが男は、気にも留めず荊州への道を急いだ。覆面を外した男は巳の親方ツァンロン(蒼龍)である。

 蒼龍は、先頃まで、青洲のリンズー(臨淄)で冀洲太平道の避難民群を束ねていた筈である。それが、何故遥々揚州の広陵郡まで南下して来たかというと、黄邵に頼み事をされたのである。それは、「東海地域に反漢王朝の動きを作れないか」という話である。この策略は太平道の幹部達の間では「ファン・シャオ(黄邵)の天下三分の計」と呼ばれている。そして「それはなかなかの上策だわい」と、カンチョン先生からもお墨付を得た。

 中華の東北部に打ち立てる自由東北連盟は、太平道と黒山党の関係なので何ら問題はない。冀州、青洲、幽州の三州は程なく漢王朝の支配から脱することが出来るだろう。そして、その背後では各地の東夷が陰ながら支えてくれることだろう。既に、高句麗と馬韓国からは明確に支援の手が差し伸べられている。倭国はチュクムの伯母さんが治める国だ。遠方過ぎる為に直接的な動きはないが、最悪、中華で敗れれば倭国に逃げ延びる手は残されている。だから、課題は徐州、揚州と交州の東海沿岸三州の動きをどう作り出せるかである。

 交州は、そもそも中華の九つの州には入っていなかった。漢王朝の武帝が交州を開くまでは、この世の華ではなく蛮族の地である。だから交州の民も中華への帰属意識は薄い。更に今は、第二の『交趾の反乱』を企てるべくコウ・ジャファ(孔嘉華)達南越義勇軍が力を付けて来ている。そして、チュクムは南越義勇軍への全面支援を打ち出した。だから、青洲へ荊州太平道の難民を運んだ海越の返り舟には、沢山の物資が積まれている。南越義勇軍が独立解放軍に変わる日も長くはかからないだろう。そして、徐州の密約も目処が立ったので、残るは揚州である。

 しかし、今や揚州は、ジャファ(嘉華)の宿敵朱公偉が覇権を握っている。加えて、漢王朝の越人部隊への待遇も良い。だから、揚州で反旗を挙げるのは容易ではない。そこで、揚州出身である蒼龍の出番と成ったのである。

 蒼龍の生まれは呉郡の富春県である。あの富春の瓜売り孫鍾の住む富春県である。そして、蒼龍の本当の名はスン・ロン(孫龍)という。つまり富春の孫一族である。しかし瓜売りではない。元は官軍の武官である。勇猛果敢で知られる越人の武官は、漢王朝軍での処遇も良い。そこで、妻を娶り屋敷も持っていた。妻は、漢の役人の娘でファン・レイナ(黄蕾菜)と言った。

 黄家は汝南の名家であったので、蒼龍は黄家の婿養子に成った。黄家は資産家であったが、両親は老体で病がちだった。そこで、蒼龍が一家を支えた。蒼龍が二十三歳の時、妻レイナ(蕾菜)の父親が先立ち、母親も亡くなった。その頃から黄蕾菜の様子が少しおかしくなってきた。しかし、武官として出世の道を駆け上っていた蒼龍には、黄蕾菜の様子に目を向けるゆとりがなかった。そして、ある日役所から帰ってくると庭の木に黄蕾菜の身体がぶら下がっていた。ゆらり、ゆらりと風に揺れる黄蕾菜を見つめながら、蒼龍の中から何かが剥がれ落ちた。

 長女のファン・シャオレイ(黄暁蕾)は五歳だった。長男のファン・シィァン(黄香)は三歳である。だから、妻の後を追う訳にもいかなかった。子供達は、近所に住んでいたシー・ユェファ(施越花)の母シュー・バイルー(許白露)が面倒を見てくれた。バイルー(白露)の一族は、反乱軍として官軍に殺されていた。蒼龍が直接手に掛けた訳ではない。しかし、許白露にとって官軍の武官は、憎き仇の筈である。それでも、同じ山越の蒼龍を許してくれたのだろう。

 蒼龍は、酒に溺れることが多くなった。嘆き節、絡み酒、喧嘩酒。酩酊した頭の片隅で、徐々に越人としての思いが強まって来た。二十六歳に成った時、ユェファ(越花)が、ウーシー(無錫)舞踊団から帰って来た。七年の年季が開けたのである。そこで、ユェファ(施越花)の母許白露は、ユェファを旗頭にして一座を起こすことにした。そして、許白露は、蒼龍に舞踊団の用心棒兼親方を頼んだ。

 許白露と蒼龍は、十五歳程歳が離れている。その為に蒼龍には、許白露が母親のようにも思える。だから、蒼龍は官軍の武官を辞め、一座と旅に出ることにした。一座三十数名は、皆反乱の生き残りだった。各地での公演では山越族が支援してくれた。でも、彼は「アル中のロン(龍)」と呼ばれるようになった。

 越人としての誇りを取り戻し生き方は定まったが、妻黄蕾菜を失った悲しみは消えないのである。だから、飲まずにはいられない。飲んで暴れてそれから、許白露に愚痴って眠りについた。「ふた親が先立った辺りから、良く『右腕が痺れたように痛い』って言うんだ。俺は『揉んでりゃ治るさ』としか言ってやらなかった。あれはきっと静かな悲鳴だったんだなぁ。ちょっとだけ擦ってやれば良かったんだよ。ただ、擦ってやればなっ」と、ろれつの回らない様で蒼龍がつぶやく。

 許白露が「そうだよ。擦ってやれば良かったんだよ」と母親のように、やさしく相槌を入れる。「そうだよなぁ。あの日、ゆっくり蕾菜の冷たくなった体を抱き床に寝かせたんだ。それまで俺は何もしてやらなかった。好きなことを好きなようにやりながら暮らしてきた。蕾菜や子供達のことなど振り向きもしなかった。蕾菜は、両親の世話に疲れていたんだ。そして、心が折れた。直接は俺のせいで死んだんじゃない。そうは思うんだ。でもなっ。良く考えるとやっぱり俺のせいで死んだ気がするんだ。なぁそうだろう」と淋しがり屋のロン(龍)は、眠りに入りながらつぶやく。「そうだよ。あんたのせいだよ。だからね。もう蕾菜に心配かけちゃいけないよ」と、許白露が、薄衣を掛けてやる。そして、「やっぱり、そうだよなぁ」と、蒼龍はつぶやき眠りに入るのである。

~ 流転の幼子 ~

 吹き返しの風が激しく丘の草を薙いでいる。しかし、風には鋭利な刃がないので切れない。風は苛立つかのように何度も何度も草を薙倒そうとするのだが、草は風に身を任せしぶとく生き延びていく。そんな草の波間を蒼龍は馬を急がせた。日暮前には富春に着きたいのである。蒼龍だけなら野宿も厭わないのだが、この幼子はゆっくり夜具に包んで寝かせてやりたかった。フーチュン(富春)のスン・ヂョン(孫鍾)の家に行けば、泊めてくれるはずだ。

 孫鍾は蒼龍の大叔父である。蒼龍の両親は他界し、今富春で頼えるのは大叔父の孫鍾しか居ない。孫鍾は、今年で五十六歳に成り、そろそろ孫守に専念しようかと考えている。跡はしっかり長男のスン・シォンタイ(孫聖台)が継いでいる。三男二女の子にも恵まれて孫家は安泰である。

 孫聖台は、蒼龍よりひとつ年上で兄のような存在である。次男は今や飛ぶ鳥を落とす勢いのスン・ウェンタイ(孫文台)である。孫鍾爺は「ウェンタイ(文台)もヨウタイ(幼台)も朱公偉様の許で手柄を立てておる。じゃで、我が家は安泰じゃ。のうタイユー(台与)よ」と、妻の台与に笑いかけ、三人の息子達の行く末にも不安はない。

 ただ一人心配なのが可愛がってきた族子蒼龍である。今では黄巾賊の大頭目に成っていると聞いた。蒼龍と孫文台は同じ歳で、まるで双子のように育った。孫鍾は、無学な百姓であったが、その妻で孫文台兄弟の母シー・タイユー(施台与)は、元は名家の娘である。だから学があった。その為、孫文台兄弟や蒼龍達族子は、施台与に読み書きを習っていた。これは、孫鍾の強い望みだった。

 孫鍾は、幼い時に父を亡くし、母と二人で苦労して生きてきた。だから学問などをやるゆとりはなかった。ひたすら「フーチュン(富春)の瓜~ フーチュンの瓜~ 甘味乗ったる フーチュンの瓜~ 噛めば染み出す涼やかな フーチュンの瓜~」である。そうやって越の瓜を育て一家を養ってきた。その生き方に悔いはない。しかし、本当は学問がやりたかった。先祖には高名な学者もいたようである。零落した名家の娘施台与もそのことに気がついていた。だから、子供達には熱心に教育を施した。その為、蒼龍と孫文台は唯の悪童ではない。二人とも共に賢く先祖の兵法も学んでいた。

 二人が十六歳になった時にチィェンタン(銭唐)県で海越の反乱が起きた。銭唐は、富春の東にある港町である。そしてそこが孫文台の祖母ヂュ・メイファ(朱美華)の郷里である。この時、孫文台と蒼龍は、たまたま祖母メイファ(美華)の使いで銭唐に出向いていた。そこで、騒動に遭遇したのである。

 祖母の実家は、海鮮問屋を営んでおり裕福な家だった。そこの家人にウー・シーエン(呉史燕)という美しい娘がいた。娘の両親は既に他界し、弟と二人で、海鮮問屋の下働きをしていたのである。その娘に孫文台は一目ぼれをしていた。悪童の孫文台であったが、色恋にはまだ初心(うぶ)であった。祖母の頼み事は大した要件ではない。だから、孫文台ひとりでも十分な使いである。ところが、孫文台は、今こそシーエン(史燕)に胸の内を打ち明けようと決心していた。しかしまだ、初心な少年である。一人では自信がないのである。そこで、蒼龍を伴ってきたのである。

 蒼龍は、初心という言葉にはまったく縁のない男である。綺麗な女性を見れば年齢に関係なく声をかける性分である。若い娘であれば「花も恥じらう」で始まり、初老の婦人であれば「ますます艶が増し眼が眩むほどの」と始まるのである。たいした他意はない。蒼龍にとっては「お早うございます」という挨拶と変わらないのである。早くに両親を亡くし孫一族の間を巡りながら育った蒼龍は要領が良いのである。だから、孫一族の女性達からはとても可愛がられて育った。

 そんな蒼龍だから、呉史燕に声を掛け孫文台との仲を取り持つのは容易いことである。孫文台は、蒼龍の腰帯を引きながら「頼んだぞ。頼んだぞ。本当に頼んだぞ」と何度も頼んでいる。その度に「おう、おう」と蒼龍は軽い返事である。

 二人が海鮮問屋の近くまで来ると、何やら通りが騒がしくなってきた。州兵の小隊がひっきりなしに駆けていく。道行く人に尋ねると「海賊が大舟団で襲撃に来る」ということである。そして対する州兵はまったく足りていないらしい。その為、役所は大騒動になっているそうである。住民も皆避難の準備を始めた。蒼龍と孫文台は、その様子に興味を惹かれ役所の様子を見に行くことにした。

 忙しい最中に現れた若造ふたりを門衛の役人は「じゃまだ」と邪険に扱った。孫文台は、呉史燕の件に心が急かされているので「おい、行くぞ」と蒼龍の手を引いた。しかし、蒼龍は「待て、待て、呉史燕の心を鷲掴みにする策を思いついたぞ」と言って、門衛の役人を押し切り役所の門を潜った。「呉史燕の心を鷲掴みにする」と言われたので、仕方なく孫文台も後に続いた。

 役所の玄関先でも案の定「じゃまだ。どけ!!」と遇われた。しかし、蒼龍は大声で「我らふたりは、孫子の兵法で名高い孫氏の一族である。かかる事態を見かねて加勢に参った。県令殿にお目通り願いたい」と叫んだ。蒼龍は普通の十六歳の少年だが、孫文台は、大男で海賊の十人位ならひとりで投げ飛ばしそうである。そこで半信半疑の小役人は県令を呼びに行った。

 出てきた県令は初老の男で、人が良いのが取り柄のような風体である。「孫子の兵法で助けてくれるというのは、お前達か」と初老の県令は、藁をもすがるような目で二人を見た。蒼龍は「さよう。我が名は孫龍。友は孫堅と申す。我らは共に孫子の末裔。幼き時より兵法を叩き込まれて育った次第である」と大仰な身振り素振りで答えた。

 その怪しげな口上に押されて県令は「それは、それは有難い。さぁ先生方、まずは奥へ」と座敷に通された。県令の説明では、敵軍は三倍にも及ぶそうである。このままでは州兵は皆殺しにあい町も蹂躙されるだろうと県令はため息をついた。

 そこで、蒼龍は三つの兵法を説いた。それは「声東撃西」「無中生有」「暗渡陳倉」という名の策である。蒼龍はその内容を滔々と語って聞かせたが、県令には何のことだがさっぱり理解できなかった。しかし、孫文台には、もちろん理解できている。そこで、「『声東撃西』と『無中生有』を複合し『暗渡陳倉』で止めを刺すのはどうだ」と言った。蒼龍は「ふむふむ、それはなかなか面白い」と答え二人は詳細の相談を始めた。やっぱり県令には何の話か理解できなかったが、何となくこの若造ふたりが頼もしく見えてきた。

 普段は静かな港町である。獰猛な北狄が絶えず攻めてくる長城の街ではないのだ。だから、兵も勇猛な者はいない。三倍の海賊に逃げ出そうとする兵も居るぐらいの脆弱な官軍である。だから、県令ばかりが責められるところでもない。

 県令はだんだん頼もしく思え始めたこの若造ふたりに兵を託すことにした。蒼龍は東岸に立ち、孫文台は西岸に立った。そして、蒼龍が采配を振ると東岸に数多くの軍旗が翻った。湾に押し寄せた反乱軍は、東岸には大軍が伏せていると思い西岸から上陸しようとした。すると、東岸の軍旗が四本同時に倒れた。

 帆柱の上の見張りが叫んだ「張りぼてだぁ~」上陸隊の親玉が「何がだぁ~」と下で聞き返す。「官軍はいねぇ~。一人が四本の軍旗を揺すっているだけだぁ~それも子供だぁ~」と叫び返す。反乱軍の親玉は直ぐに銅鑼を鳴らし、東岸を攻めるように合図をした。

 すると今度は、西岸に孫文台が立ち采配を振ると西岸にも数多くの軍旗が翻った。しかし、これも「張りぼてだぁ~」と察した親玉は「無視しろ。東岸から一斉に攻め上がるぞ」と全軍を東岸に近づけた。ところが海賊舟団が弓矢の至近距離に入ると、東岸に官軍の弩弓部隊や弓部隊が大勢出現し大量の矢を豪雨のように射かけてきた。「張りぼてだぁ~」と思っていた反乱軍の親玉は仰天し舟を沖合まで引かせた。

 そして、皆で頭を突き合わせたが、西岸の張りぼても正規の官軍の可能性が高い。どうも事前に探っていた官軍の数の倍以上は居そうである。どうやって増員したかは分からないが、へたに仕掛けると矢の的になるのが落ちである。そこで軍議は「一旦撤退」ということになった。反乱軍の海賊船団が沖合に消えると群衆は喚起し、蒼龍と孫文台のふたりの若造を称賛した。県令は飛び上がらんばかりに喜び、二人を仮の県尉に任命し守備隊を任せた。孫文台の初恋が実を結び呉史燕という愛らしい頬美を手にしたのはもちろんのことである。

 鞍の上で幼子が震えた。寒くて震えた訳ではない。季節は初夏である。幼子が震えたのは風の音だろう。時折、地響きのような唸りを立てて風が吹き荒ぶ。孫鍾大叔父は、余りある程の食料と衣類を持たせてくれた。だから難儀な旅を強いられることはない。竹馬の友孫文台は、今ジャンシャー(江夏)に駐屯しているようである。江夏郡は、この幼子を送り届ける荊州南郡のジャンリン(江陵)城の途中である。

 蒼龍の旅の目的は三つあった。もっとも大きな目的は、孫文台に会うことである。彼とは腹を割って越人の行く末を語り合って置きたいのだ。孫文台に、すぐさま「コウ・ジャファ(孔嘉華)達の南越独立に与しろ」と迫るつもりはない。しかし考えておいて欲しいのだ。昔、二人は官軍に与し越人の反乱軍を討伐した。だが「俺達は呉越の末裔だ」と心の隅にでも置いていてほしいのだ。

 手柄を立てて自身の力を高めていくのは実に爽快で男冥利に尽きる。しかし、気がつくと失っているものも多い。「俺達は何者だ」という問いが虚しく心に響く時がある。どれだけ優遇されても漢王朝では、俺達は東夷なのだ。漢王朝は漢人の王朝であり東夷や北狄や南蛮が中央に立つことはない。中華は漢人だけのものなのか。漢人が中華なのか。そうとも限るまい。ドン・ヂョンイン(董仲穎)ならきっとそう考えている筈だ。そんな話を孫文台としておきたいと思っているのだ。

 ふたつめは、ジャファ(嘉華)達と今後の行く末を語り合っておくことである。程なく中華は戦国の世に戻るはずである。漢王朝に中華を統率する力は残っていない。それぞれの春秋が時を刻み始めるだろう。きっと複雑な情勢になる筈である。だから綿密な連携が欠かせない。

 最後の三つ目は、私用に近い用件だった。だから、最も軽い用件の筈だった。しかし、今はそれが最も重要な用件に成ってしまった。それは、この幼子を江陵城に届けることである。この幼子の名はグゥォ・シァリン(郭夏玲)という。そして冀洲太平道の信徒の娘である。両親の名はグゥォ・トン(郭謄)とドン・ヂュン(董純)という。蒼龍の親しい信徒であった。

 広宗城が落城した後、郭謄と董純の夫婦は、夫の父の教え子を頼って兗州山陽郡のガオピン(高平)に逃げ延びた。高平は任城のすぐ南の県である。しかし、頼って行った教え子は、大将軍何遂高に召集され王都に引っ越していた。教え子もまた改革派であった。張角の先輩で青洲の長官だった黄子琰とも同志の仲である。だから、黄子琰が何遂高に呼ばれたように、この教え子リィゥ・ジンシォン(劉景升)もまた漢王朝改革に駆り出されたのである。

 この劉景升も張角の先輩であり周知の仲であった。そして、郭謄の父は、三人の太学の先生である。しかし、ドウ・ヨウピン(竇游平)の後を追うように同年に他界している。郭謄と董純の夫婦は、赤子を抱え暫く高平で養生した。その頃、蒼龍は一度この家族を訪ねた。そして、「荊州南郡の江陵に居る従兄を頼ろうと考えている」と聞かされた。そこで、南越義勇軍の帰り船に乗れるように手配してやった。

 揚州の広陵まで船旅を行えば随分楽な筈である。郭謄と董純の夫婦は、そこで、一息つき情勢を見極めながら江陵に向う予定であった。その直後、揚州の情勢を探るために旅立った蒼龍は、広陵の郭謄夫婦の様子を見ようと訪ねたのである。しかし、郭謄は既に倒壊した家屋の下敷きになり息絶えていた。妻の董純はどうにか息があったが、蒼龍に幼子シァリン(夏玲)を託すと安心したように息絶えた。

 広宗城で生まれたシァリンは、高平で難民生活を送り広陵で父母を亡くし、今は江陵に向かおうとしている。一歳の幼子には余りにも長い旅路である。蒼龍は、同じように幼い頃に父母を亡くした我が身と思い重ね、幼いシァリンが哀れでならなかった。しかし、難題もあった。シァリンの大伯父は太守である。逆徒黄巾の頭蒼龍が表から訪ねていける相手ではない。そこで孫文台にこの子を託そうと、江夏郡に向かっているのである。

 百日紅の縮れた紅花が、青色に散りばめられ、眩しい空が広がっている。ぴゅ~ん、ぴゅ~んと伸びだした枝が風にそよぎ自由気ままな花木に思える。久しぶりの再会だが、孫文台は変わらずに快活である。直に漢王朝の軍宿舎を訪ねる訳にはいかないので、人を介しこの川宿に呼び出した。

 百日紅は南方に良く似合う花木だ。深い翳りがなく、そして病害虫にも強く丈夫な木である。川宿の女将の好きな花らしく宿の南面一面に植えられている。よちよち歩きのシァリンがその木によじ登ろうとするのだが、枝先によじ登れば、この娘も負けない位の華やかな花になろう。

 孫文台は、随分と出世していた。もうすぐ参軍事になって北方に赴くそうである。北方で大きな反乱が起きたのだ。三公自らが将軍となり討伐に赴くようである。その将軍に直に引き立てられ参軍事になったそうである。どうやら、朱公偉の引き立てのようである。その為慌ただしい様子であった。

 孫文台が「来るか」と言った。武官に復職しないかという誘いである。「いや、俺にも生きる目的が出来た」と、蒼龍は答えた。「そうか。それなら南郡のジャンリン(江陵)まで、俺の兵を着けてやろう。そうすれば道中で面倒なことには巻き込まれまい」と、孫文台は言い、幼いシァリンを抱き上げた。そして「お前より、俺の方が子をあやすのは慣れているのだがなぁ。御覧の通り遠征の準備で忙しいんだ。すまんな」と、蒼龍を振り返った。「いや、それで十分助かる」と、蒼龍は返した。その夜は久しぶりに遅くまで酒酌み交わした。寝入る前に孫文台がぼそりと「呉越の末裔か」と呟いた。

 翌朝、五人の官軍の兵が川宿に派遣されて来た。更に孫文台は、馬車と馬も新しいものを手配してくれていた。そして、蒼龍には漢の役人の服を着せた。これなら南郡の役所にも難なく入っていける筈である。そして二人は「ホウ フゥイ ヨウ チー(后会有期)」と言って別れた。今生の別れかも知れない。しかし、また会おうと言い交わし族兄弟は分かれたのである。

 江夏城から南郡の江陵城までは馬と馬車の旅なら約五日の行程である。そして、馬車には天蓋も張られている。だから幼いシァリンにも楽な旅になろう。蒼龍も少し気が楽に成ったように感じた。しかし、この娘の旅は始まったばかりのような気がする。そして、平坦な道ではないような気がした。だから「俺にもう少し甲斐性があれば」とも思ったりもしたが、我が子さえまともに育てられなかった父親である。無益な心づかいだと諦めるしかなかった。

 官軍の兵に護衛された五日の旅は無事に終わった。南郡太守の屋敷では、色鮮やかな百日紅が咲き乱れ迎えてくれた。蒼龍はふと百日紅の愛らしい花がシァリンに重なって見えた。南郡太守の名は、グゥォ・ヨン(郭永)と言った。妻はドン・ヤン(董陽)という名で、シァリンの母董純の姉であった。だから、董陽はシァリンの伯母である。

 郭永と董陽の夫婦には一男一女の子がいたが、二人の子もシァリンの従兄姉である。だから、シァリンは幸せに育つことが出来るだろうと蒼龍も安堵した。蒼龍は、和田玉(ホータンギョク)の首飾りを、幼いシァリンの首に掛けると再び独り旅に戻った。

 この和田玉は、頼み事の代貨だとシァリンの亡母董純が蒼龍に手渡した宝である。しかし、この白さは自分には不釣り合いだと蒼龍は感じた。この白い和田玉が似合うのはシァリンである。そして百日紅のような愛らしいシァリンの首を飾ると思った通りだった。蒼龍は満足しシァリンと別れた。

 江陵城から交趾へは、まっすぐ南下して山越の土地を旅した。そこは先頃まで荊州太平道の南陽太平国だった所である。そして、隠れて暮らす太平道の信徒も数多くいた。それに、張曼成や、岩松が青春を過ごした土地でもある。だから、蒼龍も、岩松から詳細に地理情報を受けており、不安はなかった。岩松も李博文と同じように、一時は瀕死の重傷だった。しかし、今はふたりとも回復に向けて養生中である。

 先頃コウ・ジャファ(孔嘉華)とリュ・ジャレン(呂嘉仁)は、青洲から交趾へ戻っていた。ジャファ(嘉華)がジャレン(嘉仁)の子を身籠り出産する為であった。蒼龍が交趾に着いた時には元気な女の子が生まれていた。名はリュ・メイアン(呂美杏)と言いジャファ似の女戦士の卵のような娘である。蒼龍は心行くまで南越義勇軍と話し合い、東海連合の構想を深め帰路についた。時代は幼い娘達に引き継がれながら華々しく進んで行くようである。

~ 黒山の飛燕 ~

 張牛角こと張勲が冀州の山賊供をまとめあげ、黒山党という山賊同盟を立ち上げた時の規模は約五十万であった。この数は山賊供の妻子や父母も含む数なので、兵力としては約五万である。これは漢王朝軍の州軍より遥かに大きい兵力である。皇甫義真が黄巾軍鎮圧の為に率いてきた漢王朝の主力軍が約四万であったことを思えば、この約五万の兵力はただの山賊集団ではない。既に小国の規模を凌いでいる。

 当初の黒山党は雑民の集まりであった。張勲のように大意を抱き漢王朝に叛旗するものも居れば、貧しさゆえの追い剥ぎ集団の山賊団もいた。そして中には後に大化けしたドウ・パンチュ(竇蒡楮)と同じようにすぐれた指導者となる者もいた。黒山党の六人の頭目達もそうである。

 追い剥ぎ山賊のパンチュ(蒡楮)は、チュクムとの出会いで化けた。そして、フェイイェン(飛燕)ことヂュ・イェン(褚燕)も同じように張牛角との出会いで化けた男である。褚燕は捨て子である。幾つの時捨てられたのかも分からない。だから、親という生き物を見たことがない。物心着いた時は路上で物乞いをしていた。

 そんな褚燕は人間ではない。生き物の種類としては、犬でもなく猿でもなく人間種である。しかし、人間らしい価値観や心はない。世間からすれば、盗む殴りかかる奪うと、りっぱな悪人であるが、褚燕には善悪の価値観はない。生き残る為に盗む、殴りかかる、奪うのである。そして、いつも腹ぺこだった。だからいつも苛立っていた。

 そんな捨て子の褚燕を拾い救ってくれたのは張牛角こと張勲である。張勲に出会わなければ褚燕は、ただのゴロツキだった。張勲は褚燕に食い物以上のモノを与えてくれた。学問である。もちろん褚燕は太学で学んだ訳ではない。でも張角と十分に語り合える位の学を身につけていた。張勲がファンジンチーイー(黄巾起義)の際に戦死すると、二代目同盟首領を褚燕が継いだ。名もヂャン・フェイイェン(張飛燕)と改めた。

 黄巾起義で黄巾軍が敗れると張飛燕は、その残党を収容し黒山党を約百万の大集団に押し上げた。その兵力は約十万を上回った。孫文台が軍参事として赴く北伐の大軍団が約十万である。だから、この北伐の大漢王朝軍でも、張飛燕の黒山党は攻めあぐねる筈である。漢王朝も青洲太平道と黒山党の自由東北連盟にはへたに手が出せないでいる。したがって中華の東北部は案外平和で長閑な時間が流れている。

 初夏の涼やかな風がムーダン(牡丹)の花びらを揺らす。牡丹は中華の西北部に自生する花である。だから、東北部では珍しい花である。そして艶やかであり見る者の心が浮き立つ。ここは、張飛燕の屋敷の庭である。今、張飛燕は開花した牡丹をうっとりと眺めている。それは五十路に入った初老の山賊には似合わない姿である。

 妻のホラン(浩蘭)は苦笑しながらタン・チュンイェン(檀春燕)に「変でしょう」と同意を求めた。チュンイェン(春燕)は、まだ十八の乙女だが、シィェンビー(鮮卑)族の中で育ったので馬の乗りこなしは巧みである。そしてじゃじゃ馬で元気が良い。だから、チュクムの使いで青洲からここまで馬を飛ばして来た。もちろん護衛も五騎伴っている。

 この五騎は皆パンチュの手下である。あの激戦の中を生き残った者達なので歴戦の兵でもある。それに元は五人とも山賊である。だから、襲われる心配はいらない。それに尋ねる先も山賊の大親分張飛燕の屋敷である。

ヘイシャンダン(黒山党)主要五党 党員100万人 
名 称首 領生 没備 考
博陵黒山党張牛角113年~184年常山の張氏 張角の大伯父
常山黒山党張飛燕135年~192年捨て子 張牛角の養子
中山黒山党スンチン(孫軽)138年~215年張牛角の秘蔵っ子
邯鄲黒山党バイ・ロウ(白柔)147年~194年檀春燕(鮮卑族)の養父
河内黒山党ユー・ヨウドゥ(于幼読)153年~193年鮮卑族 誕生地:弾汗山

 張飛燕の妻のホラン(浩蘭)は、ウーワン(烏丸)族の女である。だから、同じツングース(東胡)のチュンイェン(春燕)には同朋の香りを感じている。ホランは、チュンイェンとは初めて会ったのだが、その馬の乗りこなしで漢人育ちの娘ではないと気がついた。実はホランも黒山党の誰よりも馬の乗りこなしが上手い。そして、ホランは四十路の手前である。女盛りのホランは騎馬戦なら、張飛燕さえ打ち負かせるかも知れない。そんな女将軍ホランなので、一目見るなりじゃじゃ馬娘チュンイェンのことを気に入った。

 張飛燕の屋敷には先客が居た。ホランと同じ位の年端の男達である。しかし、山賊には見えない。どちらかというと役人風情である。すると「チュクムは健やかにしていますか」と役人風情がチュンイェンに問いかけた。予期せぬ問に騎馬娘チュンイェン(春燕)が戸惑っていると「チュクムと最後に会ったのは、かれこれ十年程昔のことです。ちょうどチュクムを教主に高密で太平道が立ち上がった年です。私は、太守を罷免になり、故郷のユーヤン(漁陽)に戻るところでした。そこで、しばらくチュクムとも会えまいと思い、フォンガオ(奉高)から高密に立ち寄り帰郷したのです」と役人風情が詳細を告げた。

 するともう一人の役人風情が「こいつは、青洲の隣の兗州で郡太守をしておってな。長くタイシャン(泰山)郡の奉高に暮らしておったのさ。奉高から高密までは四日程の道程だが、漁陽に戻るとその十倍位の遠さに成るからな。チュクムの可愛い顔を見ておこうと思った訳さ」と説明を加えてくれた。

 すると張飛燕が「こいつは、ヂャン・ヂュン(張純)というて、元はここの隣のヂョンシャン(中山)郡の太守だった。十年程前に素行不良で罷免に成って、今は漁陽のゴロツキだ」と紹介してくれた。

 張純は慌てて「おい、おい叔父貴よ。変な紹介はやめてくれよ。可憐な乙女が誤解をするではないか」と抗議したが「まぁ、良いではないか」と張飛燕は意に介しない返事である。そして「チュクムに恋しているこの中年男は、ヂャン・ジュ(張挙)というて、元は泰山郡の太守だった。同じように十年程前に挙動不審で罷免に成って、今は張純と一緒に漁陽で仲良くゴロツキだ」と今度は張挙という元役人を騎馬娘に紹介した。黒山党の拠点に元役人とは変な取り合わせである。

 騎馬娘タン・チュンイェン(檀春燕)が戸惑っていると「このふたりは、常山の張氏なのよ。だから、旦那様の養父張勲様の一族なの」とホランが教えてくれた。そこで「そうか、このおふたりはチュクム姉様のお身内だったのか」とチュンイェン(春燕)は納得した。

 張飛燕がチュンイェンを呼んだのは、騎馬娘の異母兄ホーリェン(和連)を紹介してもらうためである。和連は鮮卑族を束ねる族長である。鮮卑族が闊歩する東には烏丸族が居る。鮮卑と烏丸は共にツングース族なのだが微妙な関係である。決して連合し漢王朝に対抗しようとする関係ではない。

 今、烏丸族を束ねる族長はチュウリージュ(丘力居)という。丘力居は老練な族長であり、和連はまだ年若き族長である。だから、鮮卑と烏丸が手を結ぶ可能性は今のままではない。張挙と張挙の二人は、丘力居と懇意な関係である。二人の母は、烏丸族で姉妹である。詳しくは分からないが丘力居との縁も深いようである。そこで、張飛燕は、黒山党と太平道で作る自由東北連盟の後ろにツングースの厚い後壁を作ろうと考えたようである。

 額面上、漢王朝は冀州、幽州、そして高句麗や馬韓国と接する地域まで治めているようになっている。しかし、幽州は鮮卑や烏丸の力が強い。そこで、ツングースとの連合を作っておけば、漢王朝は中華の東北部に力を及ぼすことが出来ないという算段である。中華の領域に暮らす鮮卑や烏丸は、黒山党のようにあからさまには漢王朝への敵対行動は見せていない。しかし、心の底から漢王朝に服従する気もないので危うい地域なのである。

 青い空と、青い山々の境界を白い雪の頂が区切っている。白い雪の罫描きが無ければ天高い山も青い空に溶けてしまいそうである。ここは既に中華の結界の外である。目の前に広がる緑原の先にはひときわ高い山がある。タンハンシャン(弾汗山)である。そしてそれが騎馬娘を育てた山である。

 凛とした気概を感じさせる山の姿が騎馬娘タン・チュンイェン(檀春燕)そのままである。チュンイェン(春燕)の故郷シィェンビーユー(雹碧玉)の都はもうない。和連の城は、弾汗山の麓ではあるが別の場所にある。それに都や城とはいっても、中華の城のように城壁で囲まれてはいない。草原に数多くの丸い天幕が立ち並んでいるだけである。だから、チュンイェンが育った都雹碧玉も今は草原である。

 農耕に生きる中華の民とは違い鮮卑は土地に固守しない。その為に一ヶ所の地を守り抜くという一所懸命の発想が湧かない。だから柵も堀も城壁も造ろうとは思わないのである。ここは仮の都なのである。しかし、馬車や馬具の製造修理をする職人、衣類を作る職人、生活雑貨を作る職人の工房や、交易商人達の商店も建ち並ぶ。また交易商人は各地から遥々長い旅をして集まってくるので娯楽の店も建ち並ぶというように、やはり中華の都のように賑やかな都市ではある。

 都の名はフフクリエン(狐呼枯日唔)と呼ばれている。が、チュンイェンの説明では、地名ではなく「青い都」という意味で、とりあえずそう呼んでいるだけのようである。だから、もし都が湖の近くに移れば、ノールクリエン(湖都)やノールフレー(湖都)或いはノールホト(湖市)に呼び変わるだけである。

 鮮卑の族長和連は、チュンイェンと七歳違いなのでまだ二十五歳の青年である。偉大な父タン・シーファイ(檀石槐)の後を継いで族長に成ったが、まだ老練な部族長達からは真に認められている訳ではない。しかし優秀な男である。だから、部族長達も様子見の状態である。

 父の檀石槐は、漢王朝に真っ向勝負を挑む果敢な男であった。だが漢人を母に持つ和連は、穏健派である。そこが、檀石槐と共に戦場(いくさば)を渡り歩いてきた部族長達には物足りないのである。

 騎馬娘タン・チュンイェン(檀春燕)の帰郷の知らせに各地から部族長達が集まってくれていた。昔からチュンイェン(春燕)は、部族長達に人気があった。美しく可愛いからではない。幼い時から勇猛な気性なのである。だから部族長達は「チュンイェンが男なら」と思っているのである。その騎馬娘が、漢王朝の反逆児達を引き連れて帰郷して来ると聞かされてワクワクと胸躍らせて集まったのである。

 和連に再会するとチュンイェンは「王者の剣です」と倭剣を手渡した。チュクムが選び抜いてくれた倭剣である。チュクムは自分と気性が似たチュンイェンをとても可愛がっている。だから兄への土産の品をチュクムが選んでくれたのだ。もし、兄への土産の品をチャーホァ(馬茶花)が選んでくれたら上質の錦であったろう。絹の織物はツングース族の憧れの品である。しかし、チュクムが選ぶと倭剣になる。リンシンやリーリーに選ばせてもやはり倭剣に成りそうである。どうも太平道には勇猛な女が多いようである。

 だが、倭剣もまたツングース武人の憧れの品である。なかでも弁韓製は最高級品である。特にヒルス王の手によるものなら宝剣である。海や川に生きる倭人は、針や網を扱う為か手先が器用な種族である。その為精錬の技術が高いのである。倭国の巫女女王が姪のチュクムに贈った守り刀も弁韓製の鉄剣である。そして、弁韓国のスロ(首露)王が自ら選んでくれた品である。だから宝剣である。

 騎馬娘タン・チュンイェン(檀春燕)が兄和連に手渡した倭剣も弁韓製の鉄剣である。和連がその倭剣の鞘を抜くと、高々とさし上げられた刀の波紋が青天の雲となって映った。部族長達が一斉に歓喜の雄叫びを上げた。張飛燕の目が物欲しそうに波紋に泳いだ。

 歓迎の宴は騎馬戦から始まった。もちろん模擬の騎馬戦である。しかしその攻撃の速さと嵐のような壮絶さに、元中山郡太守の張純も元泰山郡太守の張挙も目を見張った。これは漢王朝軍も苦戦を強いられそうである。これだけ素早く右へ左へと態を交わされては、弩弓の的も定めようがない。何とも恐ろしい敵である。まだ、その戦い方を目にしたことがないが、烏丸の丘力居の軍もこんな戦い方をするのであろう。二人は改めてツングース族の戦法を評価した。

 夕刻の闇が目の前に立ちふさがった。長城の壁である。その門を潜ると張純と張挙の二人は、ふと深い吐息をついた。安堵の吐息である。張飛燕が目頭を細めチュンイェンに笑いかけた。二人は元とはいえども漢王朝の役人だった男達である。それが北狄の領域に入りこんだのである。騎馬娘が同行しているので危害は及ばないと分かってはいるが、やはり大変な緊張に包まれていたのであろう。

 和連との会談はうまくことが進んだ。部族長達は「嗚呼~チュンイェンが男なら」と思い騎馬娘を見送った。いずれにしても張飛燕が思い描く自由東北連盟の後壁は立ち上がった。皇甫義真が攻めてくるのか、朱公偉が攻めてくるのか、或いは今度も二人で攻めてくるのか、どちらにしても準備は万端である。ドン・ヂョンイン(董仲穎)が張純に便りを寄こした。中華の北西部で不穏な動きがあるようだ。董仲穎と張純は太学の学友である。張純と張挙は張角と同じように改革派として学生運動に明け暮れたが、董仲穎はその運動には冷ややかだった。しかし否定していた訳ではない。もう少し遠い視点で見ていただけである。だから、董仲穎と張純は懇意な仲だった。今、王朝では改革派の復権が盛んである。董仲穎は張純と張挙の復職を密かに後押ししていたのである。戦いの時代は第二幕目を開けようとしていた。

~ 蒼白の狼 ~

 美しき灰神楽姫マンヂュ(曼珠)が大きく伸びをした。退屈なのである。山賊王張飛燕があきれ顔で、まじまじとマンヂュ姫を見つめた。傍らでその姿を張飛燕の妻ホランと、じゃじゃ馬娘のタン・チュンイェン(檀春燕)が笑って見ている。チュンイェン(春燕)はチュクムの名代として、当分の間、黒山党に留まることに成ったのである。謂わば太平道の全権大使である。

 しかし、特に大変な仕事をしている訳ではない。張飛燕の妻ホランのお茶の相手と、山賊集団黒山党の騎馬隊作りを手伝っているだけである。黒山党は山賊集団とはいっても、今や約百万の大所帯である。それは一国の規模に値する。そして、その内の半数以上は冀洲太平道の避難民である。兵力は約十万である。兵も黄巾軍だった者が多い。黄巾軍は張曼成が鍛え上げた漢王朝軍にも勝る軍隊である。だから漢王朝の正規軍よりも軍律は行き届いている。つまり官軍に勝る賊軍なのである。しかし、大将軍のパンチュを始め優秀な指揮官は大半が戦死している。その為、まだ十八歳の小娘だが騎馬戦に秀でたチュンイェンも軍参事の扱いなのである。

 退屈そうな美しき灰神楽姫マンヂュの傍らには、ヨン・ペダル(延倍達)祖父ちゃんではなく、母親のヨン・ソルファ(延雪花)が寄り添っている。ソルファ(雪花)は、夫シンナム(神男)の終焉の地を訪れようとしているのである。そして何よりも長男ピリュ(沸流)の安否を確かめたかった。そこで、まだ七歳の次男オンジョ(穏祚)は、ペダル(倍達)祖父ちゃん預け、十三歳のマンヂュ姫を伴い旅に出たのである。

 姫の来訪に、黒山党は大変な騒ぎである。漢王朝が全軍で攻めて来てもこんなには湧きあがらないかもしれない。マンヂュ姫は、透き通るような白い肌をしている。そして切れ長のキツネ目は、鋭く未来を見つめているようである。またその瞼は、ツングースの娘には珍しく二重である。どこかで少し漢人の血が混じっているようである。その為漢人の美的感覚からしても美しい。

 中華広しといえどもマンヂュ姫を上回る美女を見つけ出すのは至難の業であろう。春秋の西施、末の虞美人、前漢の王昭君と、歴代の美女を黄泉の国から呼び戻したとしても、引けを取らない。だから、黒山党の男供が浮足立つのは無理がないことである。女達でさえ、まるで上質の絹織物を眺めるかのようにうっとりと憧れ眺めているのである。

 そして、姫は中華の美女達とは違い、男供のお飾りや政争の道具には成りそうもない。まるで南越や倭人の女達のように誇り高い面構えなのだ。どこかで、呉越の血も混じっているのかも知れない。何しろ延陀勃商人団も、白商人団と同じように一天四海を渡り巡り商いを行ってきた集団である。だから五色の民の血が混じっていてもおかしくはない。

 マンヂュ姫の退屈は今に始まったことではない。二年前からこの世は退屈なのである。二年前に姫の初恋の人がこの世を去った。戦死である。その初恋の人は高句麗のジス(稷須)王子であった。漢王朝の侵略軍をチャウォン(坐原)の戦いで撃退したが、自身も大地に散ったのである。その報を聞いてマンヂュは生きる全ての喜びを失くした。だから、生きていること自体が退屈なのである。十三歳にして世を儚むとは哀れなことである。しかしこれも乙女心、大人達にはどうしようもないのである。

 チュンイェン(春燕)が乗馬に誘った。五歳年上のチュンイェンの促しにマンヂュ姫は、やる気なさそうに従った。母親のソルファは強く背を押した。彼女は、長男ピリュ(沸流)の安否も心配なのだが、姫の覇気のなさも同じように気がかりなのである。

 馬は、山賊王張飛燕が飛び切り覇気に溢れた汗血馬を引いてきた。牝の二歳馬である。だから、マンヂュ姫と同じ位に若い。しかし、覇気では十倍勝っている。その灰白色の牝馬に姫はスンスという名をつけた。北方の民の言葉で、幽霊という意味らしい。灰白色の毛並みが幽霊を思い浮かべる色だとも思えるが、本人の命名の意図を尋ねると「さぁ~」という返事である。命名の意図そのものが幽霊なのかも知れない。マンヂュ姫はそんな変わり者の面を持つ乙女である。

 しかし、汗血馬スンスとの相性は良いようであり上達も早い。汗血馬スンスは気性が優しく賢い馬のようである。だから、気まぐれな姫にはとても良い相棒に成りそうである。チュンイェン(春燕)にはマンヂュ姫が女戦士に成るとは思えないので、長く遠くまで旅が出来るような優しい乗馬を教えている。しかし、その動きは軽快でもある。だらだらと乗っていては人も馬も楽しくないからである。チュンイェンは時より踊るように馬を進める。マンヂュ姫はその技法に強い興味を覚えたようだ。

 ソルファが張飛燕を訪ねて来たのは、シンナムの最期を知る者が黒山党に居るらしいと聞いたからである。そして今、山賊王張飛燕は、その手がかりを探してくれている。その間、ソルファとマンヂュ姫の親子は張飛燕の館に世話になっている。それにソルファは、延陀勃商人団の頭目でもあるので、百人以上の商人団を同行している。そして今その商人団は、各地の黒山党を廻り商い中である。つまり黒山党の経済を支えてくれているのである。だから、ソルファとマンヂュ姫は張飛燕の賓客でもある。

 手水鉢(ちょうずばち)の水が凍った。汗血馬スンスの馬体からも湯気が出ている。マンヂュの吐く息も白い。そろそろ冬籠りの支度も始まった。庭の木々には冬囲いを施している。小さな草木は縄巻きで小枝を守り、少し大きな木々は竹囲いで雪の重みから枝を守っている。草花を寒さから守るためには藁囲いで大丈夫だ。屋敷の軒下には雪囲いを施しているが、これは冬の冷たい風を遮るのにも役に立っている。それらの作業に屋敷の家人達は大わらわである。

 そんな慌ただしい冬支度の最中に、張飛燕の手代が探索を終えて帰ってきた。そしてシンナム(神男)と最後の行動を共にしていたのは、ユー・ヨウドゥ(于幼読)という男だと分かった。するとチュンイェン(春燕)が「ヨウドゥ小父さんなら、父さんの友達です」と言った。于幼読は、張角の弟子で太平道の信徒であった。チュンイェンも良く知る仲なのだという。

 于幼読は黄巾軍の残党として官軍に追われている。その為に定まった居所は分からなかったと手代は報告した。しかし、豫洲に留まり抵抗戦を続けているようである。更にはホーネイ(河内)郡辺りに良く出没しているようだと付け加えた。そこで翌朝、チュンイェンがソルファとマンヂュを伴い、ホーネイ(河内)郡に向け旅立つことになった。

 山賊王張飛燕は心配して一個部隊を護衛に付けようとした。しかし、そんな旅団ではかえって官軍に怪しまれる。そこで精鋭五人に絞り王都洛陽の高級官僚の家族だということにした。つまり、「王都の屋敷へ帰る道中である」という設定である。ソルファは気品があるので高級官僚の妻でも違和感がない。そして、チュンイェンとマンヂュは姫様である。更にその高級官僚は架空の人物ではない。実在の高級官僚である。

 名をファン・ズーイェン(黄子琰)という。チュクムの茶飲み友達である。先頃まで青洲の長官をしていたが、王宮の妖怪ヤン・ブォヨウ(楊伯猷)に召喚されて官僚に返り咲いている黄子琰である。

 大胆にもチュンイェンは、本当に黄子琰に会いに行こうと思っているのである。こんな騎馬娘の豪胆な所が鮮卑の部族長達をして「チュンイェンが男なら」と惜しむところである。もし、彼女が男なら鮮卑の国は、漢王朝にも劣らない強国に成るかも知れない。そう思える豪胆な女振りである。

 タン・チュンイェン(檀春燕)の考えでは、黄子琰も青洲の様子を知りたいと思っている筈だ。懐かしさからではない。青洲、冀州、幽州の情勢を掴んでおくことは、真に優秀な漢王朝の臣なら必ず望んでいる筈である。勿論、懐かしさからチュクムの近況も知りたいだろう。それもまたチュンイェン(春燕)には有意な状況になる。そして、黄子琰から直に于幼読達反乱軍の情報が聞き出せれば、これほど確かなことはない。このじゃじゃ馬娘の戦略に山賊王張飛燕は腹を叩いて笑いそして感心した。

 汗血馬スンスの吐く息が白く若々しい。マンヂュは騎馬で旅をしている。もちろんチュンイェンも騎馬である。お姫様が騎馬で旅をするとはいささか異様ではあるが、勝気な娘ぶりを見れば周囲も合点がいくことであろう。

 女主人ソルファは二頭立ての馬車である。御者も良家の家人らしく品のある顔立ちである。それに始皇帝の轀輬車(おんりょうしゃ)とまではいかないが、車両には屋根も壁もあり小さな御殿である。その豪奢な馬車にもソルファの気品は劣らない。護衛の兵五人も官軍に見劣りしない精鋭である。実は元は皆張曼成の討伐隊の兵士である。だから元が付くが本物の官軍の兵である。

 高級官僚の家族は、偽りの旅揃えだが偽りには見えない。黄巾軍の残党を取り締まる官軍も不審に思うどころか、要所々では道案内と護衛まで行ってくれる親切さである。だから、じゃじゃ馬娘檀春燕には退屈な旅であった。美しき灰神楽姫マンヂュは、そもそも人生に退屈している。だから、二人は退屈でウトウトと馬上で居眠りをする始末である。

 数騎の伝令兵が王都に向かい慌ただしく駆けていく。各地ではまだ黄巾軍の残党が戦っている。そして、黄巾起義に義憤を駆り立てられた各地の不満分子も散発的に反乱を繰り返している。だから世情はいたって不安定である。王都洛陽の街に入ってもその慌ただしい雰囲気は変わらなかった。

 黄子琰に面会すると、黄子琰は老革命家彭脱こと李博文の安否を尋ねた。李博文は、黄子琰の太学の先輩である。そして随分可愛がってもらった。だから、革命に身を投じた李博文先輩のことが一番の気がかりだったのである。

 李博文は、今は高密に居り加太とチュクムが見守っていると言うと、黄子琰は安堵の顔を浮かべた。チュクムの不思議な力は、茶飲み友達の黄子琰も良く知っている。だから、李博文先輩の安否は気遣う必要がなくなった。後は、漢王朝の高級官僚として国家の行く末が気がかりなだけである。

 タン・チュンイェン(檀春燕)が予想したように漢王朝の危惧は四夷の動静だった。中でも北狄の動きが掴めていなかった。西戎は、皇甫義真と董仲穎がいる限り大丈夫である。南越も朱公偉がいる限り押さえておくことが出来るだろう。東夷は漢帝国の準構成員と言ってもおかしくはない存在なので、余程ひどい扱いをしない限り刃向うことはないだろう。秦の始皇帝の時代から東海の東夷には気を使ってきている。

 注意すべきは北狄である。この蒼白の狼の末裔達は、勇猛で誇り高い。だから真にまつろうことのない者達である。これが漢王朝への不満分子と同調し戦火を上げると厄介である。その為どうしても青洲、冀州、幽州の情勢把握は欠かせない。だから黄子琰にとってチュンイェン(春燕)のもたらした情報はとても有難かった。

 しかし、チュンイェンは漢王朝の為に中華の東北部情勢を漏らしたのではない。そのことは黄子琰の上司で漢王朝の妖怪楊伯猷には良く分かっていた。これは、意図して情報を漏らし、相手の警戒を誘うという戦法である。きっと太平道の軍師黄邵の考えであろう。

 世にいう黄巾賊が、漢王朝の世に不平を抱く賊徒の集団ではないことを一番理解しているのは、楊伯猷である。だからこそ漢王朝にとっては最も警戒すべき集団であり、ここを革命の目にしないことに楊伯猷は心血を注いできた。だから、黄邵のような優れた人材が太平道にいることも十分承知している。

 また黄巾起義に寄って引き起こされた漢王朝の混乱が守旧派を抑え、改革派との均衡を保ったとも言える。王朝の安定化にはどちらか一方が突出することの方が問題である。今、楊伯猷が最も危険視しているのは太平道ではなく董仲穎である。この男は狼である。主人といえど弱れば食い殺す最も危険な猛獣である。そして、今漢王朝に潜んでいるこの狼は、この西戎の血を引く蒼白の狼である。

~ 黄雀の恩返し ~

 腹を空かせた悪童供が寒雀を狙っている。どうやら小学の敷地の中に数か所の罠を仕掛けているようである。貧しい家の子供達ではないので勉学の合間の気晴らしかも知れない。それとも解剖し医学の勉強をするのだろうか。しかし、まるまると太った寒雀は美味しそうである。

 目を猫のように鋭くした男の子が、罠に落ちそうな黄色い雀を見つめている。まだ涎は垂らしていない。懐には小刀を忍ばせているようである。腹から割いたら串を打って焼かないといけない。砂糖を入れて甘くしたジャン(醤)を刷毛で塗りながら焼くと香ばしくて更に食欲をそそる。焼き加減はしっかりと骨までパリパリである。酒はやっぱり白酒が良い。しかし、悪童供はまだ学童供なので酒を飲むわけにはいかない。もったいない話である。

 黄色い寒雀が罠に落ちた。猫目が懐から小刀を取り出し素早く駆け寄る。まずは首筋を切って血抜きをしないといけない。十分血抜きをしないと臭みが残る。猫目は黄雀をそっと掴むと、小刀で足に絡まった紐を切った。そして首筋は切らずに冬の青空に戻してしまった。何というもったいないことをする悪ガキであろうか。そして、その悪ガキは校舎の陰に素早く隠れた。

 罠を掛けていた悪童供が楽しみに罠を見ると、もぬけの殻である。可哀そうに美食を逃してしまった。マンヂュは美食を逃した悪童供を手招きした。当初は罠を壊され憤慨していた悪童供も、絶世の美少女に手招きされ嬉々として駆け寄って行った。やはり食い物の恨みを直ぐに忘れてしまうこの悪童供は、裕福な家の子供達なのであろう。集まった悪童供に、洛陽の街を案内してくれる者はいないかマンヂュは訪ねている。悪童供は、我先にと案内人に名乗りを上げている。困った奴らである。まるまると太った寒雀はどうするのだ。せっかく罠の紐に絡め捕った雀を、むざむざと猫の餌にするのか。なんて奴らだ。困ったものである。

 朝夕の冷え込みが増してきた。雪が舞い落ちる前には、ユー・ヨウドゥ(于幼読)の許に行きたいのだが、チュンイェン(春燕)一行は、まだ黄子琰の屋敷に厄介をかけている。于幼読の居所が不確かなまま冬の旅に迷う訳にもいかないだろうと、黄子琰が気に掛けてくれたのである。黄子琰の好意でチュンイェン一行が寒い冬を過ごすことはないようである。騎馬娘には旅立ちは春に成りそうだという予感がしていた。

 タン・チュンイェン(檀春燕)は可愛らしい顔立ちである。しかし、十八歳なので周りの娘達からするとやや嫁に行き遅れている。同じ年齢の娘達には、既に二~三人の子を持つ母も多い。それでもチュンイェン(春燕)は十分に若々しく、顔の笑窪があどけなさを強くが残している。美し過ぎて近寄りがたいマンヂュに比べると、親しみやすい。四十路の半ばを迎える黄子琰でさえ心ときめく程である。

 辺境の地青洲の長官に左遷されていたとはいえ、黄子琰は名家の子息である。したがって奥方も生粋の貴人である。そして、非の打ちどころもない。貴人の女性に囲まれた黄子琰から見えるチュンイェンの姿は、野の花である。黄子琰の茶飲み友達チュクムには、女人を感じたことはない。小さい時から黄子琰に懐つき抱擁することも多かったが、チュクムは常人ではない。さすがにパンチュ一派のように妖怪女王だとは思っていないが、チュクムは神々しくの人の容姿では語れない。しかし、チュクムの側近チュンイェンは庶民的で接しやすい。

 だが、その性根はチュクムと同じように鬼神を潜ませている。だから、黄子琰には鮮卑の族長達が「チュンイェンが男なら」と思う気持ちが良くわかる。中華は男社会である。歴代の皇帝も皆男である。国を司れる力量を備えた皇后も多々いたが、女帝は生まれない。常に影の存在である。しかし東夷や南蛮には国を率いる女王も多々いる。だから女が国を治められないということはない筈である。しかし、中華の歴代王朝は女帝を拒んできた。漢王朝の高官の家柄で育った黄子琰もチュクムに会うまでは、そのことを不思議と思わなかった。しかし、妖怪女王チュクムと接するようになって「女帝を拒むことの方が理不尽」に思えてきた。そこで、鮮卑の女王になってもおかしくないタン・チュンイェン(檀春燕)に政界を覗かせてみようといういたずら心に似たものが芽生えてきた。

 具体的には、黄子琰の友人達に密かにチュンイェンを引き合わせ、その人物評をさせてみようという企みである。そして、最初の人物はワン・ヅーシー(王子師)という者に決めた。ヅーシー(子師)は、黄子琰より四歳年上であるが極めて親しくしている友人である。王佐の才ありと評される逸材であり、先頃までは豫州の軍長官、豫州刺史であったが、目下は謹慎の身である。何か悪しき行いや大失態をした訳ではない。黄子琰と同じように守旧派を批判して冤罪に落と入れられたのである。

 守旧派の大物中常侍のヂャン・ラン(張譲)は太平道の信徒である。もちろんこのことは秘密である。しかし王子師は、これを暴き「ヂャン・ランが太平道に内通し黄巾起義を招いた」と皇帝に直訴したのである。ところが張譲は「張角は張一族の族兄弟です。その為、張角が太平道を立ち上げた時には張一族のひとりとして協力しました。お許しください。しかし、当初は帝に仇なすとは考えてもいなかったのです。だから、決して、内通し帝の不利に成る行いは働いておりません。死してお詫びします」と素直に皇帝に詫び自ら刑死を申し出たである。

 当初は張譲が太平道の信徒であったことに激怒した皇帝だったが、張譲が謝ると刑死を免じすんなり許してしまった。そして、逆に王子師の方が反逆罪で刑死されそうになったのである。改革派と王党派の双方から働き掛けがありどうにか刑死には成らなかったがそれでも謹慎中なのである。理不尽な話ではあるが、どうも皇帝は自己主張が強い改革派の方が煙たいようである。そういう事情で、王子師は目下悠々自適の日々である。

 赤い花が長い生垣を飾っている。日は暖かく薄着でも過ごせそうな小春日和である。黄子琰は、チュンイェンとマンヂュの二人を伴い、この赤い館の主人を訪ねた。赤い花に囲まれた館の主は王子師である。謹慎中であるといっても王子師はタイユェン(太原)の豪族なので暮らしには困らない。

 屋敷の中では大勢の家人が働いている。王子師は読書中であった。黄子琰は、三種類の花茶を持参してきたので茶会を開こうと王子師を誘った。そして、チュンイェンとマンヂュを隠し子だと紹介した。王子師は一瞬驚き「お前も普通の男であったか」と豪快に笑った。どうやら黄子琰は堅物で通っていたようである。それは、黄子琰が兄事する楊伯猷との引き合いも含んでいる。

 楊伯猷には数多の妾が居る。そしてそれは女好きというよりは政略的な要素が強い。楊伯猷には親族でさえ策略の道具である。そのしたたかな楊伯猷と釣り合いを取るかのように、黄子琰は実直である。したがって誰も黄子琰に妾がいるとは思ってはいない。そして事実居ないのであるが、今日ばかりは妾持ちである。それもこんな美しい娘が二人いるのだから妾も美しい筈である。一瞬王子師は嫉妬を覚えた。

 茶会は優雅な時を作り出してくれ、昼餉まで御馳走に成って帰路に就いた。夕餉を囲み早速黄子琰はチュンイェンに、王子師の人物評を訪ねた。王を佐(たす)け国を富ます王佐の才を、じゃじゃ馬娘は何と評するであろう。黄子琰は心湧く思いで待った。すると「策士、策に溺れる。という印象を持ちました」と思いもよらぬ評をチュンイェンは下した。「王佐の才が策に溺れる。か」黄子琰は深く考え込んでしまった。

 数日後、今度は董仲穎を館に招待した。庭の黄梅も蕾を膨らませポツポツ花開かせ始めている。黄梅はインチュンファ(迎春花)とも呼び、春を予感させる花である。桜や梅と同じように葉は花の後に出てくる。だから黄色い花が冬空に冴える花木である。董仲穎は身体が大きく、乱暴者の印象をもたれるが、意外と昔から花を愛でるのが好きである。季節の花が咲くと、黄子琰は良く花見に誘われたものである。

 董仲穎は黄子琰より三歳年上だが、太学は同期入学である。董仲穎とは、老革命家彭脱こと李博文ほど親しくはなかったが、友人の少ない董仲穎にとって黄子琰は数少ない友人の一人だった。本来董仲穎は坊ちゃん育ちが嫌いである。しかし何故だか坊ちゃん育ちの典型のような黄子琰とは気が合った。黄子琰の一途さが気に入ったのかも知れない。

 董仲穎は空威張りする人間が嫌いである。「俺は賢い、俺は正しい、俺は立派な人間だ」と根拠もなく思い込んでいる人間である。坊ちゃん育ちにはこれが多い。「お前が賢く、お前が正しく、お前が立派でいられるのは、お前が金持ちの家に生まれたからだけのことだろう」と、董仲穎は反発心を抱くのである。だから先の王子師等とは馬が合わない。もちろん王子師も西戎の血を引く乱暴者の董仲穎など大嫌いである。しかし、黄子琰は、そのどちらとも仲が良い。

 昨年末、董仲穎は、やはり馬が合わない皇甫義真と共に北方で起きた反乱の鎮圧に向かった。しかし、反乱鎮圧に失敗し更迭され王都洛陽に戻って来ていた。その総大将は皇甫義真だったので彼も更迭された。程なく漢王朝軍は、ヂャン・ブォシェン(張伯慎)を総大将として再び反乱鎮圧に向かうことになった。そして董仲穎は将軍に返り咲いていた。今はその慌ただしい最中ではあったが、董仲穎は、黄子琰の誘いに応じた。

 実は、今回も董仲穎は、戦意が薄いのである。董仲穎の兵の多くは涼州の兵である。涼州の兵には董仲穎と同じように西戎の血を引く者も多い。だから総じて勇猛な兵力である。そして、董仲穎も猛将である。したがって戦さが嫌な訳ではない。黄巾起義の鎮圧の時とは別の要因ではあるが、どうにも戦意が湧かないのである。しかし、董仲穎は武人の家柄である。戦いがあれば行かなければ成らない。もし皇甫義真のように素直に忠犬になれれば良いのだが、董仲穎は狼犬である。狼犬も主人がりっぱであれば忠犬と成る。しかし、主人が尊敬に値しないと感じると忠心が薄れるのである。董仲穎の今の様子がそれである。したがって董仲穎は鬱々とした日々を送っている。

 そこで気晴らしにと、黄子琰の誘いに応じたのである。董仲穎は、マンヂュの美しさに目を見張った。若ければ妻に迎えたい位の思いであったが、孫娘程に歳が離れているので、眺めて楽しむことにした。騎馬娘タン・チュンイェン(檀春燕)には強い親しみを感じた。そして、このじゃじゃ馬が鮮卑の血を引く娘だと知ると合点がいった。董仲穎と同類である。董仲穎は夷狄(いてき)には親しみを感じ安らぎを覚えるのである。マンヂュとチュンイェンが黄子琰の隠し子であれば、その妾は夷狄の女だということになる。董仲穎は愉快な気持ちになり改めて黄子琰を好ましい友だと感じた。その夜の董仲穎は上機嫌で酔った。

 翌日、黄子琰はチュンイェンに董仲穎の人物評を訪ねた。檀春燕は「情の深さが災いを招くかも知れません」と言った。猛獣と恐れられる董仲穎を「情が深い人」だと評したのはチュンイェンだけかも知れない。黄子琰はじゃじゃ馬騎馬娘の人物評を面白く感じ始めた。

 人の縁とは不思議なものである。どうやら、楊伯猷の弘農楊氏と中華南部の黄氏との間には些かの縁があると思われる。弘農楊氏は四百年を遡れる稀代の名家である。高祖劉邦の末裔を名乗る劉氏は中華に溢れている。「俺は劉邦の末裔だぞ」と自称する輩は溢れているのである。皇帝に繋がるりっぱな家柄が貧しい百姓をしているのだから「俺は劉邦の末裔だぞ」と自称しても「ふ~ん」と見下される劉氏も数多ある。しかし、弘農楊氏の由緒は正しい。

 楊伯猷の父ヤン・ビン(楊秉)は『三不惑(三つの惑わされないこと)』で語られる清白寡欲の人である。祖父のヤン・ヂェン(楊震)は「天知る、地知る、我知る、汝知る」の『四知』の諺を生んだ偉人である。その父で楊伯猷の曾祖父はヤン・バオ(楊宝)という名であり『楊宝黄雀』の伝説で語られる人である。

 その伝説とは楊宝が七歳か九歳の頃、長安と洛陽の間になる弘農郡の華陰山の北で、一羽の黄雀が梟に襲われ傷ついていた。そして蟻に集(たか)られていた所を助けるのである。その後、黄雀は西王母の眷属と成り感謝の意にと白玉の環を四つ楊宝にくれたそうである。そして、その四つの白玉の環は、楊宝の子孫が四代にわたって三公の位に登るということを示唆しているという伝説である。つまり黄雀の恩返しで楊伯猷の一族は王宮の重職を得る訳である。

 しかし、楊伯猷の一族は安閑と高座でうたた寝をして来たわけではない。王朝を貶める不正を正し王道を守ってきた一族である。その為に祖父楊震は讒言され無念の自決を遂げている。父楊秉もまた不正を正し王宮から追放された時期があった。その時に楊秉を擁護し復職させたのは時の太尉のファン・チォン(黄瓊)である。

 黄瓊は字をファン・シーイン(黄世英)という。黄子琰を育ててくれた祖父である。つまり、左遷された楊伯猷の父ちゃん楊秉は、黄子琰の祖父ちゃんに助けられたのである。そして左遷されていた黄子琰を王宮に呼び戻したのは楊伯猷である。そういう因縁を思う時、先の黄雀とは、黄子琰の先祖だったのかも知れない。

 黄子琰の曾祖父にファン・シィァン(黄香)という人がいる。字をファン・ウェンチィァン(黄文彊)という。孝子として名声を残している人である。黄文彊は九歳の時に母を亡くしている。喪が明けても母の弔いを怠らず人々はその姿に感心した。しかし、黄文彊の家は貧しかった。そこで黄文彊少年は働き父の面倒を見た。しかし勉学も怠らずその評判は郡太守の耳に届き、太学に進むことができた。洛陽に出て名声は更に高まり皇帝より直々に賞賛の言葉を貰った。その黄文彊の人生は清白に尽きる。最後は災害に苦しむ農民を助けながら自らは病で亡くなった。その子が太尉のファン・チォン(黄瓊)である。

 そこで、先の黄雀を黄香に置き換えて読み解くと面白い。黄子琰一族の出身地は荊州の江夏城郡アンルー(安陸)である。楊伯猷一族の出身地は弘農郡の華陰である。黄雀が傷つき蟻に集(たか)られていたのは華陰山の北である。つまり黄子琰の曾祖父黄文彊が行き倒れていたのは弘農郡の華陰である。しかし、華陰と安陸の間はひと月以上の旅を強いられる距離である。そこを九歳の子供が独り旅をして来たとは考えづらい。ところがもうひとつ考えさせられる話がある。

 四つの白玉の環は、銜環(ハミカン)であったというのである。銜(ハミ)とは馬に銜(くわ)えさせて手綱を結ぶ馬具である。轡(くつわ)ともいう。そこに付ける輪を銜環と呼ぶ。したがって四つの銜環は、二馬分の玉である。二馬分のお礼の宝玉を二人分と読み替えると、母子二人という光景が浮かぶ。そして母が行き倒れ死んだのであろう。

 では何故母子は長い旅をしていたのであろう。黄文彊の家は貧しかったので働いたとあるが、黄文彊は読み書きが出来る。だから貧しい家に生まれたわけではない。そのことを考え合わせると母が亡くなる前後に家庭崩壊をしたのではないか。大家が没落したのである。そこで母子は仕方なく母の郷里に帰ろうとしたのではないか。その途中に夜盗(梟)に襲われた。そして、群衆(蟻)に愚弄されている所を、楊伯猷の曾祖父楊宝が助けたのである。

 更に踏み込んでみると黄文彊の母の実家は弘農楊氏だったのではあるまいか。その推測が的外れでなければ、楊伯猷と黄子琰の出自は重なってくる。そうであれば、二人の清白な気質が似ていることも不思議ではない。違いは、楊伯猷は、巧みでしたたかな策を用いるが、黄子琰は実直であることだ。その実直さが後に黄子琰の死を招く。しかし、それはまだまだ後の話である。

 白い水仙の花が田の道を飾っている。その道を黄子琰は、チュンイェンとマンヂュを伴い歩いている。野遊びではない。楊伯猷の屋敷に向かっているのである。楊伯猷の屋敷は王都洛陽の郊外にある。周りは田園で空気も清々しい。普段なら馬車で出かけるのだが今日は天気が良い。そこで、野遊びを兼ねての訪問をすることにしたのである。

 楊伯猷からの呼び出しの用件は、黄子琰の赴任祝いである。しかし、まだ公にはなっていない。この春、黄子琰は豫州牧に昇格する予定である。豫州の州長官であるが、青洲の州長官に比べると同じ州長官でも随分と栄誉な職位である。青洲は東夷も多く暮らす辺境の地だが、豫州は中華の中心地であり中華文明の発祥地である。先頃までは王子師が軍長官を務めていた州である。したがって、豫州刺史から一気に無役に落とされ謹慎処分に成った王子師の身の不幸は計り知れないものがあると言えよう。

 豫州は王都洛陽の東隣であり、豫洲太平道が戦った長社や陽翟は、豫州の西に位置する潁川郡である。老革命家彭脱こと李博文が瀕死の重傷を負った西華は、潁川郡の南に位置する汝南郡である。州の都はそれから更に東に向かった沛国のチャオ(譙)である。

 譙は曹孟徳の故郷であり李博文が傷を癒した地である。その曹孟徳は今、故郷譙で病気療養中である。青洲の済南郡から兗州東郡の郡太守に昇進したのだが、病気を理由に赴任を拒否し、故郷沛国譙に帰ったのである。しかし、この病気は仮病である。

 漢王朝の腐敗は著しく宮廷の内外での怪しい動きも多い。曹孟徳は周囲から改革派の若頭だと目されている。そこで、怪しい動きからの誘いも多い。それに、彼も三十路に入った。ここはじっくり腰を据え将来を熟考する時であると思ったのである。だから病気療養中にも関わらず日々文武の鍛錬に精を出している。曹孟徳と黄子琰は面識がない。しかし、李博文先輩が世話になったと聞いている。だから、譙に赴任したら会いに行き、礼を言おうと思っている。

 楊伯猷は近しい者数名だけを招き祝いの席を設けてくれた。その席には隠し子の孫娘ヂャオ・チュンユー(趙春嫗)の姿もあった。黄子琰が隠し子を伴ってくると聞いたので、話し相手にと呼び寄せたのである。趙春嫗はチュクムと同じ歳なので二十歳である。だから、ふたりの話し相手には丁度良い年齢である。しかし、黄巾起義では敵味方の関係であったことは、騎馬娘タン・チュンイェン(檀春燕)も趙春嫗も知らない。祝いの席は日暮れ前にお開きとなり、黄子琰一行は楊伯猷家の馬車で送ってもらった。帰路、黄子琰は早速、チュンイェンに楊伯猷の人物評を訊ねた。彼女は「悲しみを噛み殺すと非情に成れるのですね」と短く評した。黄子琰は深く嘆息した。

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卑弥呼 奇想伝 公開日
(その1)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 2020年9月30日
(その2)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 2020年11月12日
(その3)卑弥呼 奇想伝 | 第1巻《女王国》 2021年3月31日
(その4)卑弥呼 奇想伝|第1巻《女王国》第4部 ~棚田の哲学少年~ 2021年11月30日
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(その17)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第1部 ~革命児~ 2024年11月29日
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(その20)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第4部 ~黄巾の男と女~ 2025年5月30日
(その21)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第5部 ~ 黄巾心中 ~ 2025年6月30日
(その22)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第6部 ~ 春秋の再来 ~ 2025年7月30日
(その23)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第7部 ~ 静と激 ~ 2025年9月30日
(その24)卑弥呼 奇想伝|第2巻《自由の国》第8部 ~ 北風と南風 ~ 2025年11月30日