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第五回 目に見えぬ鎖 〜 無邪気な猿は太陽を創る(その5)

竜崎エル

出身地:山と田んぼの町

My favorite
小説:アルジャーノンに花束を
漫画:金色のガッシュ!!
映画:ローマの休日
音楽:Don’t stop me now

どうか駄文を読んでみて下さい。

第五回 目に見えぬ鎖 〜 無邪気な猿は太陽を創る(その5)

 真夜中、闇の中から影が一つ現れた。揺蕩う影は伸び縮みを繰り返しながら地面を這いずり回る。影は富裕層住宅街のある一軒に吸い込まれていった。理由はない。直感的なものだった。影は庭の窓から家に侵入した。そして、家内の暗闇に紛れた。

 時々月明かりに照らされ、影が姿を見せる。音を立てることなく、素早く物色する。目当ては持ち運び易い現金か貴金属。高価そうな家具やインテリアには目もくれない。そんな暇はないのだ。徐々に焦りと不安から手のひらに汗をかく。そんな時、背後から音が近づいてくるのを感じた。一気に脳内ホルモンが活性化され、影の行く先を決定する。

 住人は寝起きのせいか、酒のせいかは分からないが、覚束ない足取りでキッチンを目指した。日々の習慣を頼りに感覚だけでグラスに水を注ぐ。体内に取り込まれた水は脳を少しだけ正常に戻した。そして、住人に部屋の異変を知らせた。

「何だ、これは!」

恐怖はグラス一杯の水よりもはるかに脳を刺激した。地に足がつき、視界が広がっていく。住人は恐る恐る一歩一歩を踏み出し、状況を確認する。住人は月明かりに照らされ、住人の影が部屋に伸びていく。すると、住人の影が別の影に飲み込まれた。

「動くな!」

住人は背後からナイフを突き付けられた。影が静かに口を開く。

「下手に抵抗するなよ!容赦なく刺すからな!金はどこだ?」

この言葉で、住人の脳は一気に加速し、トップギアに入った。

「泥棒か…いくら欲しいんだ?」

「百万!」

「ははははは!」

命が危険に晒されている状況下で住人は笑った。

「何が可笑しい?」

「現金で百万は置いてないな…」

「なぜだ?」

「使う当てもないのに、そんな大金、家や財布に常備しないだろ。」

「そうか…」

「銀行が開く朝まで待つか!はははは!」

「そんなわけないだろ!貴金属があるだろ!それをよこせ!」

「わかった。ついてきなさい。」

二人は二階へ向かった。影は後ろにべったりと張り付き、住人の動きという動きを監視した。腕の振り方、足の上げ方、息遣い、首の傾き具合まで。先を行く住人が階段を上りきると、急に足を止めた。最後の足音が家の隅々まで響くのを感じる。影は警戒心を高めた。

「お前さんは、スラムの人間か?」

「だったら何だ?」

 男はスラムで生まれた。お腹一杯になるまで食事をしたことも不満を募らせながら義務教育を受けたことも安心して睡眠をとったこともない。生まれた時点で最底辺の生活と人

生が約束されていた。男の日々は毎日毎日同じことの繰り返しである。ゴミを拾い、ほんのわずかな金を受け取ること。大量のゴミをあさり、使えるものを探すこと。町を徘徊し、小銭を見つけること。やることはただそれだけ。あとはただただ膨大な時間を耐えるのみ。

「やってらんねぇ…」

ゴミの世界で男は一人呟くが、彼の声は誰にも届かない。死んでもいい。むしろ、なぜ生きているのか。男はそんな考えを到頭抑えきれなくなった。悪いのは自分か、それとも世界か。いや、そんなことはどうでもいい。ただ、この生活を終わりにしようと男は一大決心をする。

 月の出ない夜、男は闇に溶け込んだ。夢や希望を持ち合わせてはいない。あるのは反抗心だけである。暗闇の中で男は右手を力強く握りしめ、呼吸を整えた。

「金を出せ!」

一人で歩く人間を発見した男は、瞬時に背後から近づき、ナイフで脅した。その獲物が男なのか、女なのか、同年代か、年配か、何一つとして理解しないまま金を奪い取った。その夜、男は三人を襲った。

「こんな簡単に手に入るのかよ…」

男は暗闇に呟いた。

 敵意むき出しの返答など気にも留めず、想像よりもはるかに明るい、軽いトーンで住人は会話を続けた。それは薄暗い部屋に明かりが灯ったかのようだった。

「そうか!私もスラムの出身だ。お前さんから懐かしい匂いがするもんでな。ははは!」

「アンタもそうなのか!」

「あー、そうだった。」

「どうやったらこんな生活ができる?」

「なに、本を読んだだけだよ。勉強して、何とか社会に入った。」

「そうか。」

影は自分と目の前にいる五十代後半くらいの中肉中背男の人生の歩みの差を自然と思い浮かべた。住人は影の姿を見ることはできず、ましてや頭の中を覗くことなどできるはずもないが、スラムというシンパシーが住人と影を見事にシンクロさせる。住人は懐かしさから自分の人生をさらに語り始めた。

「初めて貰った給料で、私はやっとスラムから抜け出せた。今思えば、あのレストランで食べた肉は大したものではなかったが、あの時あそこで食べた肉の味は忘れられない。メニューを選ぶ時間はドキドキとワクワクに溢れ、待ち時間は何故だか緊張したよ。料理が到着すると鉄板の熱気と匂いで気が狂いそうになった。スラムでは温かい料理も食欲をそそる匂いも存在しないから。肉を口に入れる前から唾液が溢れ、無知な私は口の中を火傷しながら肉を頬張ったよ。私が人になった瞬間はあそこだな。」

影には住人の後頭部しか見えていなかったが、住人が満足そうな表情をしているのが分かった。影の心はグチャグチャに乱された。自分の経験と彼の経験は似たもののはずなのに、振り返った時の感じ方がこうも違うものかと。

 たった一日で、男は数年分の金を手に入れた。しかし、この金を数年にわたって使っていく気はなかった。男はこの金で少しでも人並みの生活を経験しようと最初から決めていた。

生まれて初めて、お店で食事をした。これを食べてしまうと、もうあの食事には戻れないかもしれないと思いながらも欲望を抑えることはできなかった。目の前に運ばれてきた料理自体は素晴らしかった。この時間のために人は生きているのではないかと錯覚するほどだった。しかし、素晴らしい食事だとは思えなかった。口に出さなくとも人の表情を見れば、ある程度の心を理解してしまえるものだ。男は自分がこの店で疎ましく思われているのにすぐ気が付いた。店の全員がスラムで染みついた匂いとボロボロの服装を嫌っていた。男は店を後にし、服を買いに行った。服は簡単に買えたが、ここでもあの感情に襲われた。そして、男は風呂へ向かった。温かいお湯に初めて浸かり、石鹸の匂いに酔いしれながら最高のひと時を過ごした。風呂をあがると先ほど買った服に着替え、今まで着ていた服は風呂屋のロッカーに残した。外の世界へ戻ると、自分の世界が生まれ変わっていた。

「これが、人並みの生活か…」

人ごみの世界で男は一人呟くが、彼の声は誰にも届かない。

 男は罪を犯すと決意した時、捕まることを前提としていたので、こんなにも同じ日常が続くとは考えていなかった。人並みの世界を知ってしまった以上、今までの生活に満足することなどできない。その上、今まで以上に生きる痛みを心が感じるようになった。しかし、戸籍も家も仕事も金もない人間が、人並みの生活を続けてなどいけるはずがなかった。数日スラムで過ごすだけで、すぐに魔法は解けてしまう。呪われたように、男は脅迫しては金を使う日々を繰り返したが、捕まることはなかった。自分が罪を犯そうとも社会は何一つ変わらない。男は自分の存在が人間ではない何かだと押し付けられたが、それを認めることはできなかった。

 男はこの地獄から抜け出せずに苦しんだ。孤独な男は、ゴミの中で星空を見上げた。こんな場所からでも美しい世界が広がっている。人間に憧れる男はもう一度決心した。今までの小遣い程度ではなく、生活を変えるだけの大金を奪うことにしたのだ。そうして、男は闇に消えた。

「お前さんは、この金で何をするんだ?これで一生生きていく気か?」

「違う!俺もスラムから抜け出すんだよ!真っ当な人間の生活をするのさ!身だしなみを整え、戸籍を作り、口座を開設して、保険に入って、ボロい家を借りて、安月給で働く。」

「おお!そうか!なら、これを持っていきなさい。妻への結婚指輪と婚約指輪だ。」

「え?」

影がゆれる。

「去年、妻が死んでしまってな…どうすればいいか分からず、取っておいたものだ。これを売れば数百万にはなるだろう。」

「いいのか?」

「ああ、どうせ使い道はもうない。」

「そうか。ならそれを奪っていく。」

住人の後ろから手が伸びる。

「待ちなさい!」

「は?」

「今からお前さんはこの指輪を私から奪うのではない。私がこの指輪をお前さんに譲るの

だ。この違いが分かるか?」

「…」

「いいか。お前さんがスラムで辛い思いをしているのは良くわかる。しかし、誰かを傷つけておいて、自分だけが悠々と幸せになれることなんてない。だから、私がこれからのお前さんのために教えてやる。生きていく上で大切なのは助け合うことだよ。奪うことではない。しかし、助けられたことのない者に誰かを助けることなどできない。つまり、今日お前さんは私に助けられなさい。この指輪を私から貰い、真っ当な人間となり、人生を謳歌してみなさい。そうすれば、これからの人生できっと誰かを助けることが出来る。そして、自然と誰かから助けてもらえる。きっとお前さんが死ぬ時、良い人生だったと思える!」

「…」

人生で初めて他人から想われ、救われようとしている。影の中の男は、不思議な気持ちで心が一杯になった。男は影から姿を現し、指輪を受け取った。しかしまだ、住人にナイフを向けたままである。

 住人の頭の中は悲しい記憶で埋め尽くされていた。あの日から一度も開かないようにしていた妻との思い出。それが今になって溢れかえってくる。星の数ほど存在する煌びやかなページが最後の一ページで台無しになる。全てが血の味になってしまうのだ。

「恨んではいけません。」

妻が最後に残した言葉がずっと住人の心の中で反芻されている。

「玄関から出ていきなさい。」

住人は侵入口から出て行こうと考える男を制し、玄関に案内した。指輪を手にしてから男の警戒心が弱まっていることを住人は察知している。玄関の前で再び男は住人の背後から正面へ姿を現し、ドアノブに手を掛けた。半身の姿勢でナイフを住人に向けているが、二人の距離は突き刺すまでには二歩必要な距離空いている。今の今までは、住人はあの優しい妻ならどうするか、だけを考えて、ここまで行動してきたと思っていたが、確実に男を殺すことが出来るこの瞬間のために全てを取り繕ってきたのだとも思い始めた。住人は途中から銃を隠し持っていた。目の前の男が妻を殺したわけではないが、男も奴らと同類なのには違いなかった。誰かから平気で大切なものを奪える最下層の生き物に復讐してやりたい。奴らの存在を否定したい。住人の心が愛と憎悪に揺れ動く中、住人の世界がスローモーションになる。ゆっくり扉が開き、男が外の世界へ舞い戻ろうとする。視線が切れ、肩が扉に向かって回転し、右足が地面から離れ、背中が見え始めた。住人の瞳孔が開く。心では妻の声が体を引き止めている。しかし、瞳に映る現実が復讐心を駆り立て、右手を銃へと導く。住人は自らの意志でスローモーションの世界から脱出した。素早く銃を構え、間髪入れず引き金を引く。手から肩にかけて衝撃を感じ、目の前では赤い水玉が宙に弾け、男は地面に崩れ落ちる。そんな未来を瞼の裏に思い描きながら住人はただ時が過ぎるのを待つことにした。

 扉の向こうには夢のような世界が広がっていると男は想像していたが、現実は違った。扉の向こうは今まで以上に真っ暗闇だった。もし一歩でも踏み出せば、地面は崩れ落ち、平衡感覚を失い、闇黒の中へ引きずり込まれる。男の体は恐怖で凍り付いていた。

 住人が目を開くと、まだ男が目の前に立っている。住人はまた時の流れが遅くなったのだと錯覚したが、そうではなかった。男の葛藤が終わり、ゆっくり住人の方へ振り返る。住人は男の一挙手一投足を見逃さなかった。右手が震え始め、ナイフがこぼれ落ちる。ナイフを追うようにして、目から涙が零れていく。男の顔は歪み、膝から地面に崩れ落ちた。

「すいませんでした……罪を償います…」

男はそっと指輪を住人に返し、手を握りながら感謝を述べた。

「あなたの言葉に救われました。」

男は苦しくても正しい道を歩むことを選んだ。その夜、男は警察に自首した。その姿を目の当たりにした住人は、何故か妻を喜ばせることが出来たと思った。最低な出会いは、男を人間にし、住人の心の奥深くに眠っていた復讐心を浄化した。