著者プロフィール                

       
第十回 天使と悪魔と夢と僕/争いのDNA 〜 無邪気な猿は太陽を創る(その10)

竜崎エル

出身地:山と田んぼの町

My favorite
小説:アルジャーノンに花束を
漫画:金色のガッシュ!!
映画:ローマの休日
音楽:Don’t stop me now

どうか駄文を読んでみて下さい。

第十回 天使と悪魔と夢と僕/争いのDNA 〜 無邪気な猿は太陽を創る(その10)

第10回 天使と悪魔と夢と僕

 将来何をしたいか。人生のテーマであるこの難題に、僕は不思議と悩むことは無かった。子どもの頃に僕は感じたのだ。心の中で颯爽と青春の風が吹き、黄金に輝く太陽が昇り始めるのを。

 僕は裕福な家庭に生まれた。母は世界を股に掛けるピアニスト。父は文部科学省に勤めるキャリア官僚。自由奔放で天才肌の母と質実剛健で実直な父の愛と期待を一身に受けて育った。

 五歳になった頃、僕は僕という存在が僕以外で構築されていることを知った。きっかけは同年代の子どもたちと自分とを比べたことにある。何故だかピアノを弾けたり、音の高さが分かったり、日本語、英語、ドイツ語を話せたり、計算問題を解けたり、彼らに出来ないことが自分には出来る。

僕の生まれたての好奇心が、その理由を両親に尋ねさせた。しかし、ここで思いもよらぬ答えが返ってくる。ピアノの事は当然、母が知っていると思いきや、母は知らなかった。あっけらかんとした僕に、母が付け加えた。

「パパに聞いてみなさい。」

母の言葉を頼りに、父に同じ質問をしてみた。すると、父が答えてくれた。

「お前にはママのような音楽の才能がある。美しい音を奏でる演奏家になって欲しいんだ!」

これで、僕の謎は一つ解決した。どうやら教育熱心なのは父の方だと思い、この勢いでもう一つの謎も聞いてみた。

「何で僕は三つも言葉を話せたり、勉強できたりするの?」

父はそっと笑みを浮かべて、その答えは母が知っていると答えた。再び頭の中に霧がかかる。もう一度、母のもとに戻り、先ほどの質問をしてみた。すると、今度は答えてくれた。

「あなたはパパみたいに賢いのよ。今からその才能を最大限に伸ばして、パパと同じようにお国のために働いて欲しいの!」

 僕は知りたかったことを知ったはずなのに、知る前よりも頭の中が、違和感で一杯になった。僕はこの違和感をすぐにでも解消したかったが、ゴチャゴチャに散らかった頭の中では、言葉をうまく並べられず、何が知りたいのかを浮かび上がらせることができなかった。

 それからの日々は、消耗していくようだった。毎日の習い事にこんな感情を抱いたことは無い。音は濁り、指は固まり、舌が重く、頭が冴えない。地球の重力に押しつぶされそうな感覚が二十四時間続く。何もかもがうまくいかない。初めての感覚に戸惑い、両親に打ち明けることが出来ず、独り心の中で溜め込んだ。

 習い事を終え、両親とのコミュニケーションの時間になると、いつもより順調なフリをした。明るく、楽しいと偽る努力を自然と行ったが、背徳感から服は汗でぐっしょりと濡れていた。その不快感は風呂の湯で流せても、心に平穏が訪れることは無かった。

 やっとの思いで一日を終わらせ、眠りにつくが、夢の中でもこの苦しみは続いた。失敗を重ね、注意され、怒られ、期待に背き、呆れられる。夢の世界はそんな悪いイメージばかりで支配されていた。

そんなある夜、久しぶりに無重力だったあの頃に戻ることが出来た。鍵盤は軽く、音が躍る。指先は迷うことなく滑らかに次の行き先へ向かい、自分の音がよく聞こえる。自分の想像し得る最高のメロディに酔いしれた。

 演奏が終わり、椅子から立ち上がろうとした時、頭に数式が流れ込んできた。昼間悩んでいた問題の解への道筋が、無意識的に脳内を駆け巡った。

 しかし、その翌日の昼間、ピアノは昨夜とは全くの別物だった。鍵盤は重く、音が落ちる。指先は錆び付いたロボットのようにしか動かず、両耳からは鉛のような音しか聞こえてこない。

 この不調は、勉学の方にも響いた。頭のギアがいつまでたっても上がらず、問題を捌く時間が一向に縮まっていかない。徐々に溜まっていったフラストレーションが、自分のリズムを狂わせていく。乱れたリズムの中では、ケアレスミスが多くなり、足跡を振り返れば、赤線だらけだった。

 昼と夜。理想と現実。二つの世界を行き来する日々が続いた。しかし、日食がごとく甘い夢の時間が、再び苦い夢の時間へと浸食され始めた。暗い世界に移り変わっていく。僕は必死に明るい世界へ逃げ込もうと走った。しかし、いくら走ろうが雨雲から逃げられないのと同様に、暗い影の中へ取り込まれた。一気に心が重くなる。昼の出来事がフィードバックされる。そこに楽しさはない。あるのは使命感だけだった。徐々に目の前が滲んでくる。何かが落ちないように瞬きをするのを止め、指先に全意識を注ぎこもうとした。それでも、思い通りの音が鳴ることは無かった。

 一滴の涙が落ち、力なく右人差し指が最後の鍵盤を弾く。その時、小さな優しい音が小さな光の粒となって輝いた。小さな光の玉はフワフワ宙を漂い、指から腕へ、腕から胸へ、胸から顔へやって来た。

そして、僕の目の前でビックバンを引き起こしたのだ。その衝撃から涙は後方へぶっ飛んでいった。光の輝きは留まることを知らず、膨張する。僕の世界がはっきりと明確に二つに割れた。光と影に。

「さあ、ピアノを弾いて!」

光の中から声が聞こえる。その優しい声に導かれるまま、僕は鍵盤に触れた。重力に逆らうことなく、ゆっくり鍵盤を押し込む。ポーンと高い音が響き、音の波に合わせて、目の前の世界が移り変わる。メロディが床に伝わり、床から緑が芽生え、生い茂っていく。ピアノを囲う部屋の壁は、いつの間にか消え去り、青空の下に。

 自分の表現したい世界が、目の前に広がる。春の温もりから夏の力強さへと曲が移ろうと、僕を取り巻く世界は、緑が立派に育ち、流麗な川が大地を走り、太陽が歓喜する。思う存分エネルギーを発散させた後は、世界に落ち着きを取り戻させる秋。緑と青の世界から茶と橙の世界へ。川の水面の上を落ち葉が流れていき、木々はどこか寂し気な雰囲気を醸し出す。冬にはその寂しさが痛さに変わり、孤高の白銀の世界が訪れる。

 今までの苦しさを全て吐き出すように鍵盤を叩く。目の前の一匹のオオカミに全てを届けるため、かじかんだ指先に熱を送る。そうして、今までで最高の演奏が幕を閉じた。 「素晴らしかった!」

声に振り返ると、妖精のような天使が光の中から現れた。その小さな頭の上には黄金の輪があり、背中に真っ白な羽を生やしている。放心状態の僕は、天使が話し始めるのを待つことしかできなかった。

「どうだった?今の演奏、楽しかった?」

天使は微笑むように、されど、からかうように、声を弾ませて聞いてきた。

「…うん。楽しかった。こんなにピアノを楽しく弾けたのは初めてだよ!」

「良かった!あなたはもっと楽しむべきよ!そうしないと何事もうまくいかないものよ!」

「そうなの?」

「そうよ!」

「ピアノは楽しめるけど、勉強を楽しいと思ったことはないよ…」

「あら。なら、私が教えてあげる」

そう言うと、天使は両手に弓と矢を一瞬で出現させた。僕は天使から矢を向けられた。善良な天使であっても矢を向けられると怖い。小さな光の矢が僕の眉間に刺さり、弾ける。

 次の瞬間、僕は大きな時の流れの中へと飲み込まれていった。原始時代からの人類の軌跡を追従していく。莫大な情報が、まだ幼いコンピューターにぶちこまれていく。固い石を見つけ、石を尖らせ、棒に括り付ける。葉を集め、束ね、服や住家を作る。その中で意思疎通を図るため、言葉が洗練され、派生していく。火を操るようになり、水を貯えるようになり、金属を扱うようになる。争いの中で技を磨き、オリジナリティーや価値を創造する戦いが、新たに生まれる。

 これまでの技術感覚を数字に置き換え、見える化を進める。それは人類の文明を飛躍的に発展させていった。宇宙からでも分かる巨大な建造物、大海原を超えていく戦艦、大空を飛び回る銀翼、音を置き去りにするロケット。

 そして今では、光を操り、原子を操り、遺伝子を操る。その発見、創造をしてきた人々の苦悩や葛藤、そして、歓喜と幸福が頭と心に猛スピードで注ぎ込まれていく。僕のコップはずいぶん前から溢れかえっているのに水は注がれ続けた。学問や技術の詳細な事は理解できていない。ただ、その人たちの熱量だけが伝わった。

「どうだった?」

あまりの凄すぎる体験に声をかけられるまでは、我を忘れていた。自分が何かを成したわけではないが、学びの楽しさが体中に溢れている。

「分かった気がする!」

「それじゃあ…」

「おい!」

天使の言葉を誰かが遮った。

「あら、どうしたの?」

天使は僕から視線を外し、もう一つの影の世界へと目をやった。

「どうしたもこうしたもねーよ!」

荒々しい声と共に影から悪魔が現れた。頭から二本の角が伸びており、背中に真っ黒な羽を生やしている。

「お前は甘やかしすぎなんだよ!これじゃあ、この子のためにならないだろう!」 「いいえ。今の時期なんて、何でも楽しいと思うことで成長していくものよ!あなたのやり

方は無駄にプレッシャーばかり与えて、せっかくの才能が潰れてしまう!ピアノも勉強も嫌いになったら本末転倒だわ!」

「いいや、俺のやり方は間違っていない!最終的な分かれ道で大切になるのは、精神力の差だ!早い段階から期待と不安のプレッシャーを跳ね返す練習をしておくべきなんだ!人を真に成長させるのは、恐怖心だ!」

「違うわ!好奇心よ!」

天使と悪魔の会話に中々ついていけなかったが、途中で全てを理解した。今まで見ていたあの暗い重い夢は悪魔の仕業だったのだ。

「好奇心なんて生易しいものじゃ、この子を守れない!ピアノの道に進むにしろ、官僚の道に進むにしろ、この子を取り巻く世界は、心が壊れてしまうほど大きなプレッシャーを感じる舞台なんだ!今のうちから自分の心を自分で守れるように、強靭な鋼のメンタル作りをしていくべきなんだ!」

「それが、失敗した箇所をわざわざ夢の中で思い出させたり、親の期待を意識させたりすることなの?」

「そうだ!そうすることで、この子は失敗を乗り越え、勝者のメンタリティーを培っていくんだ!」

「呆れた…そんなことをしていたら、この子が持っている才能の半分も引き出せやしないわ!この子に必要なのは、自由な創造力よ!子どもは皆、可能性に溢れているの!今までに見たことのない全く新しい世界を作っていける唯一の存在なのだから、型にはめない方が良いの!」

「基本の型を知らずして自分の型を持つなど百年早い!」

「だったら、プレッシャーだって真っ向から跳ね返さなくても、気にしなければいいだけの話じゃないの?」

僕の心の中で天使と悪魔の喧嘩が何日も続いた。僕の精神状態は決して平穏なものではなかったが、今まで以上に全てがうまくいくようになった。もちろん楽しみながら、プレッシャーを跳ね除けながら。

 いつからか心の中の天使と悪魔が消えていた。今にして思えば、彼らが消えた瞬間が、僕が僕の人生を決心した瞬間だったのだろう。

 僕は今もピアノを弾き続けている。ただ、小学校を卒業する頃にはピアノの道に進まないことを父に伝えた。父はすぐに納得してくれたが、やはりどこか寂しそうだった。それを横で聞いていた母は、どこか安心した様子だった。

 僕は勉学の道を選んだ。母は熱心にそれを支えてくれた。父もその姿を応援してくれた。大学卒業時、僕は大学院の道へ進み、研究に人生を注ぐことを母に伝えた。それを聞いた母は大激怒した。しかし、すでに僕は覚悟を決めていた。男の道は男には分かるものなのだろう。父が母を宥めてくれた。長時間の話し合いの末に、僕は我を突き通し、母が折れた。

 僕は夢の研究をすることに決めていた。あの素晴らしい時間を人類が意図的に生み出すことが出来れば、全人類の人生を豊かにすることが出来ると考えたのだ。この世界で苦しんでいない人はいない。たとえ苦しくて、辛くて、痛い生活を余儀なくされても、夢の中に入れば、必ず天使と悪魔が助けてくれる。僕はそんな世界を作っていく。迷いはない。

第10回 争いのDNA

ある一枚の絵が王のもとに届いた。誰が描いたのか、何の目的でここに送られてきたのかは分からない。ただ、その絵は王を含む見た者すべての心を魅了する不思議な絵だった。

 白銀の鎧を身に纏った騎士が剣を真っ直ぐ前に突き出している。柄、鍔、剣身と視線が誘導されたその先には、真っ白い柔らかそうな肌を露出した全裸の女性が刺されていた。丁度胸の間にある心臓の位置を剣が通過している。そして、さらに視線を進めた先には、切っ先から赤い血が数滴地面に向かって落下している。右側に立つ騎士の頭上には悪魔、左側に立つ女性の頭上には天使が描かれており、彼らのさらに上には太陽が輝いている。

 ある者は無垢な女性の無残な姿に心を打たれ、ある者は顔の見えない騎士の不気味さに心を奪われた。

 王はその絵を大変気に入り、玉座の背に飾ることを決めた。そして、臣下たちにこの画を描いた者をここに連れてくるように命じた。あれほどの絵を描く人物は国の宝として囲い、多くの名作を描かせ、世界中に我が国の芸術力を見せつけようと、王は企んだ。

 半年間、臣下たちは国中を探し回ったが、作者を見つけることはできなかった。王はその現実を非常に残念がったが、心のどこかではこの結果を都合よく考えていた。

つまり、この絵は作者不明のたった一枚の絵として世界に存在しており、とてつもなく価値の高いものであると言える。そして、それを手にしているのが自分であるということに、王の心は高鳴っていた。

 それからの王は、各国の王を招いてはこの絵を自慢する毎日となった。

「素晴らしい!」

全ての王が口を揃えて、絵を賛美した。王は、羨む彼らの顔を見ることで優越感に浸った。

 どの王もその一枚の絵を手に入れるため、様々な取引を持ちかけた。王は彼らの条件に心が揺れる素振りを見せながらも、初めから手放す気などなかった。結局、各国の王は歯を食いしばりながら帰っていくのだった。

 そんな自慢の日々は急に終わりを迎えた。その日、王は慌てふためく臣下の声で目覚めた。急いで玉座へ向かうと、絵が奪われていた。絵の見張りをしていた三人の護衛兵のうち、二人の死体が玉座の前へ転がっている。二人の顔は焼かれ、誰が誰だか分からない。王は怒り狂い、見るも無残な遺体に蹴りを入れ、すぐさま臣下たちに命令を下した。

 昨夜、三人の護衛兵の目的は一致していた。王の絵を盗み出し、大金を得ること。しかし、そんな仲間意識はいとも簡単に砕け散った。山分けされた報酬であれば、これからの生活に困ることはないだろう。しかしながら、山分けされずに報酬を貰うことが出来たならば、それは平民から貴族へ悠々と生まれ変わることが出来る。そのことに気が付いた一人の護衛兵は背後から躊躇なく二人を襲った。

 灰色の雲と金色の月が混じり合う夜、王都正門にて、護衛兵は大事に抱えた一枚の絵を依頼者に手渡した。そして、犬のように褒美を与えられるのを待った。その暑苦しい視線に依頼者が応える。

「受け取れ!」

依頼者は手に持っていた小袋を護衛兵の前へ落した。ギャランと音を立て、大量の金貨が袋から顔を出す。

「ありがとうございます!」

護衛兵は餌に飛びつき、膝を曲げ、頭を垂れ、両手で金貨をかき集めている。護衛兵が喜びを実感し始めた次の瞬間、彼の目に映ったのは今にも雲隠れしそうな月の姿だった。跳ね上がった赤い雫と共に彼の頭は宙を舞い、地面へと落ちていく。コロコロ転がった頭部は地面を血で染め上げた。

 絵は見つからない。各国の王たちはこの出来事を大いに喜び、王を嘲笑った。

 今までの無礼が全て自分に返ってくる羽目となり、王はその羞恥心から取り憑かれたようにあの絵を探させた。あの日を境に兵士たちは、訓練、防衛の業務に追加して、国門での荷物検査に駆り出されている。どんな荷物であろうと封を開け、中身を確認する。一方、臣下たちは全員町へと繰り出し、一軒一軒家宅捜査を行っていた。

 一週間もすれば、兵士も商人も国民も苛立ちを隠せなかった。絵を見たことのない彼らにとっては、いい迷惑である。いつまでも王の我が儘に振り回されるのは、耐えられない。この状況を危惧した一人の若い臣下が王の説得を試みたが、無駄足だった。彼の声は届かず、王は癇癪を起しながらあの絵を探し続けることを命じた。

 日に日に、王の命令を無視する者が現れ始めた中、王のもとにとんでもないニュースが舞い込んでくる。なんと隣国で戦争が始まった。さすがの王もこの出来事には関心を示した。

隣国に忍ばせている密偵に戦争の引き金を調べさせたところ、再び王を狂乱させる答えが返ってくる。

 絵は何かしらのルートを辿り、隣国に渡ったらしい。そして、その情報をいち早く嗅ぎつけたとある国が絵を奪うため、戦争を始めたのだ。

 それを知った王は、すぐに命令を下した。

「戦争をする…あの絵を取り返す!」

 一人の画家が故郷に帰還した。十年ぶりに足を踏み入れた大地は当然変わっていて、町の賑わいが空っぽの心に良く響いた。色とりどりな観光客の服装は、この国が芸術の国へと生まれ変わったことをより一層実感させる。世界一の名画が展示されているという美術館への道中、何人もの芸術家の卵たちとすれ違うたびに、なぜ自分はあの眼をしていないのかと自問自答を繰り返した。

 画家の一番古い記憶は、目の前に映る自分の下手糞な絵である。どうやら物心が付くずっと前から絵を描いていたらしい。十歳になる頃には町中に噂が広まり、二十歳前にはどんな絵だって描くことが出来るほど、彼の手は成熟した。

 そんなある日、画家は王宮へと招待された。突然の出来事に、言われるがまま玉座の間へと向かった。

 空の玉座の背に飾られた絵は、一瞬で画家の心を奪った。画家の頭はすぐに、この絵を自分が描くことが出来るか、夢想した。

「君にこの絵を描いてもらいたい。」

背後からの声に、画家は二つ返事で返した。

 絵は画家の才能を何段階も上へ引き上げたが、彼の描いた絵が同等のレベルに達することは無かった。

 約束の日、画家は一枚の絵と引き換えに大金を手にしたが、黄金の輝きを目にしても彼の心は曇ったままだった。

 彼もまた、一枚の絵に呪われたのだ。自惚れた自尊心を傷つけられ、冷め切っていた情熱に火をつけられた。その日、画家は国を出た。

 国を大きく変えたのは、やはりあの絵だった。一時は王の世迷い事に振り回されたが、王が死んだことで、何とか戦争を回避することが出来た。

 しかし、急な王制撤廃により、臣下たちは権力に目が眩み、醜い蹴落としあいを始めた。彼らの胸中にあるのは、殺される前に殺す。彼らは周りに怯えながらも、薄っすら感付いていた。誰かが王を殺したのだと。

 資源の乏しさ故に、国の状況はどんどん悪化していき、完全に混乱と混沌の波に飲み込まれていた。統制無き国は、真っ逆さまに落ちていく。覇権争いなどしている場合ではないと彼らが気づいた時には、誰もが王になることを拒むほどだった。誰だって沈むとわかっている船に乗りたくはない。今までの争いが嘘のように、彼らは一歩退いた。

 そんな中、あの日の記憶が甦る。あの一枚の絵が臣下たちのもとに届いた。その場にいた全員の顔が、青ざめる。あれからどれだけのことが変わったことか。それなのに、目の前の絵だけは、何一つとして変わっていない。その不気味さに誰もが口を閉ざした。

そんな中、恐怖に耐えられず、一人の臣下が静寂を破る。彼は必死に震えを抑えながらぼそぼそと口に出した。

「燃やそう…」

その言葉はゆっくりと周りの体に染み込んでいき、時の砂を再び落とし始めた。

「そうしよう。」

「絵の存在がバレたら、戦争に発展する。」

「待て!燃やさなくても売ればいいだろう!」

「売るよりも貿易の交換条件に使おう!」

先ほどまでとは打って変わり、保身のためならいくらでも積極的に、彼らは行動する。白熱する議論の最中、若い臣下が新たな提案をする。

「この絵を美術館に飾り、一般公開しませんか?」

彼の短い言葉に、他の臣下たちは未来を見せられた。間違いなくこの絵には凄まじい力が宿っている。なら、それを見す見す手放すのは、勿体ないのかも知れない。一般公開することで反感ではなく、共存意識を与え、さらに観光地へと展開させていくことで国力の強化を見据えたその案は、全会一致で承認された。

 数年後、国立美術館は世界一の美術館と評され、芸術の国と呼ばれるまでに発展した。

 私は誰よりもこの国を愛している。だからこそ王ではなく、自分が国のトップに立つべきだと考えた。長年、先代たちが築き上げてきた各国との関係を、絵に取り憑かれた王は簡単に踏みにじっていく。私たち国民の事など王の頭には存在していなかったのだ。王が愛したのはあの絵だけだった。

 今日も各国の王たちが、人でも殺すような目つきで帰っていく。私は彼らを送るたびに、ある思いが徐々に膨れ上がっていった。このままではこの国が痛い目に合う。それは時に貿易で、時に戦争で、時に反乱となるのだろう。そんな思いに駆られる中、ある王が参られた。

 彼を一言で言い表すなら七光り。バカなくせにプライドだけは高く、我が儘である彼は、王の態度に腹を立て、今までの王とは比べ物にならないほど喚き散らして帰っていった。その姿を目にして、私はすぐにある計画が思い浮かんだ。

 すべてが順調だった。画家はこの出来事を他言することなく、絵の道に没頭し、自分に足りない何かを見つけるため、旅に出た。

 そして、金に飢えた亡者たちは簡単に王を裏切り、仲間を裏切り、何とも扱いやすい駒となった。

 さらにそれに加えて、期待以上の働きをしてくれたのが七光りだった。見事に贋物の絵を本物と勘違いしただけでなく、その喜びからあっという間にその噂を近隣諸国に流してくれた。おかげさまで、今まで王へ向けられていた憎悪が一気に七光りへと移り、絵を奪い合う戦争が始まった。

七光りは、我が王が辿るはずだった未来をそのまま見せてくれているようだった。兵士が殺され、民を穢され、土地を侵略される。しかし、七光りの心にあるのは勝ち負けではない。たった一枚の絵の事しか考えていなかった。この絵を誰にも奪われたくない。その思いしかなかったのだ。

 七光りは、王宮へ敵が攻め込んでくる前夜に、絵を抱きしめながら焼身自殺をした。私は、私の犯した罪の証拠を地獄へ同伴させた七光りに感謝した。

 美術館の中に入ると、そこには世界というものが凝縮されていた。様々な肌の色や眼の色や髪の色をした人々が、一枚の絵を見るために列を成している。列の中は待つのが苦ではなく、これも楽しみの一つであると考える老人から何故ここにいるのかを理解していない幼児まで、実に幅広い年齢層で構成されていた。当然、身分や立場は異なる。綺麗に粧し込んで品位を出す者、高価な装飾品を身に着けている者、仕事帰りや学校帰りの者、見るからにだらしない服装の者たちが何とも言えないコントラストで入り混じっている。聞こえてくる言葉は何一つ理解できない。その声の中には画家の母国語も含まれているのだろうが、他の声に紛れ、別の何かに生まれ変わっている。

 画家は一つの共通意識を共有するだけで、こうも人は平和に生きていくことが出来るものなのかと感心したが、絵の前まで行くと、あの絵が放つ特有の瘴気にあてられ、人の醜さが浮き彫りになるのを目の当たりにした。彼らは奪い合うようにして、絵が見えるポジションを確保しようとする。おまけに譲り合いの精神など皆無で、その眼に絵を焼き付けることしか頭にないのだ。最後尾で子どもが肩車をしてもらい、小さな絵を不思議そうに眺めている。

 画家に順番が回ってきた。自分の人生を狂わせた一枚を十年越しに眺める。たった数十秒の鑑賞時間は、三十代半ばに至る十年間の濃密な時間を一瞬で振り返らせた後、将来への不安と絶望を空っぽの心に残していった。自分がどんなに足掻こうとも、これだけの人々を呼び寄せ、心を乱れさせる作品を生み出すことが出来るのか。その問いに答えを出した画家は、足取り重く出口を目指した。  美術館の外に出るとそこには大勢の人だかりができており、どこかで聞いたことのあるような声に画家は立ち止まった。

 何と今日は、大統領選挙の最終活動日らしい。どうやら選挙活動最終日には、この美術館前で最終候補者二人の演説を行うのが、恒例となっているようだ。壇上には左右に一人ずつ政治家が立っている。

 一人は、画家と同世代の政治家だった。立派な姿で、真っ直ぐな視線で、淀みなく話す彼の姿を見た時、画家は無意識のうちに自分と彼とを比べていた。彼のあまりの正しさに、自分が選択してきた人生が、全て間違っているように思えてしまった。

 もう一人は、五十代から六十代の政治家だった。彼は若い政治家とは対照的に、勢いや誠実さではなく、落ち着きと経験をもってして、民衆に声を届けていた。

 何故だかわからないが、画家は彼から視線を外すことが出来なかった。遠く離れた位置からでも、はっきりと彼の表情が見える気がする。そんな不思議な感覚の外側から銃声が聞こえてきた。画家はその音に動じることはなく、ただ目の前の変化だけを脳裏に焼き付けていた。立派な壇上で大統領になるかもしれない一人の男が、狙撃された。群衆雪崩の最中、唯一画家だけが、あの絵の事を思い出していた。

無邪気な猿は太陽を創る 【全12回】 公開日
(その1)第一回 マルバツ教祖 2021年1月29日
(その2)第二回 解放 2021年2月26日
(その3)第三回 神は人を救わない 2021年3月31日
(その4)第四 万華鏡ミラージュ 2021年4月30日
(その5)第五回 目に見えぬ鎖 2021年5月28日
(その6)第六回 Dreamers 2021年6月30日
(その7)第七回 光影 2021年7月30日
(その8)第八回 Dr.メカの挑戦状  2021年8月31日
(その9)第九回 鬼鬼恋恋 2021年9月30日
(その10)第十回 天使と悪魔と夢と僕/争いのDNA 2021年10月29日
(その11)第十一回 代謝/表裏一体紙一重 2021年11月30日
(その12)第十二回 血/芥川龍之介に殺される 2021年12月28日