著者プロフィール                

       
長谷川 漣の何処吹く風 〜(その12)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その12)

トゥルーマン・ショウ

 「真実を語るために必要な嘘がある。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます。」これはある少女が、学校の先生から「物語」について教わる場面です。その女の子はそれを聴いて「私は作家になろう」と決意します。村上春樹氏の好きな場面だそうです。(『ブルックリン横丁』エリア・カザン監督。1945年)

  「真実を語るために必要な嘘がある、それは嘘ではなく、物語と呼ばれる。」

さて、ここにも一つ「嘘」をテーマとした映画があります。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが・・・。

『トゥルーマン・ショウ』(1998年)(ジム・キャリー主演)です。あらすじとしては・・・。

 《トゥルーマンは生まれた時から、リアリティショーの主人公として育ちました。彼の生活は24時間、全世界に向けて生放送されていますが、彼はそのことを知りません。家族も親友も、周りの人全てが役者で、巨大セットの中で生活するトゥルーマン。生まれ育った島から出て、広い世界を見に行きたい、と願っているものの、テレビプロデューサーのたくみな仕掛けで、彼の思うようにはいきません。ジム・キャリー演じる主人公トゥルーマンは、「おはよう!そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!」が口癖です。TVショーというだけあって彼の生活はコメディのようで、世界中で愛されていました。トゥルーマンの家族や友達、同僚全員がキャストなのですが、ところどころで彼らはカメラ目線になり、コマーシャルのように商品の宣伝をします。また、トゥルーマンが行く先には常に大勢のキャストがスタジオセットと共に準備をしており大忙しです。そんな事など知らずトゥルーマンは生活していたのですが、あるときに偶然全てを知り、島の外に出ようと奮闘します。このへんもまだコメディ色が強いです。荒れ狂う海をなんとか超え、トゥルーマンは世界の端、つまりセットの出口にたどり着きます。視聴者も涙ながらに海を越えようとする彼を応援してきました。出口でトゥルーマンはいつものあのセリフ「おはよう!そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!」を言いお辞儀し、外の世界に出ていきました。トゥルーマンを応援していた視聴者たちは歓喜し、また涙を流し番組は終了しました。画面は砂嵐に変わります。そしてひたすら歓喜した視聴者たちは何事もなかったかのようにチャンネルを変え、次の番組を見るのでした。ひとりの人生に涙を流し、消費するだけ消費した後は、また次に消費するコンテンツを探すという、皮肉です。そんな視聴者の愚かさが描かれています。序盤のコメディ色から一変、最後は痛烈な風刺が効いている映画でした。》(以上シネマライズより抜粋)

 与えられた温室の中で生きていれば何不自由ない生活が送れる、しかし、どんなに困難でも自分の足で歩いてこそ人生には意味があるのだという強烈なメッセージがこの映画には込められている。そして最後トゥルーマンのセリフが何とも言えずスカッとする。彼はこれまで自分を欺き続けてきた俳優(友人や家族)・視聴者やプロデューサーに「僕の人生は、見世物じゃない!」などと怒りをあらわにはしない。いつもの挨拶「会えないときのために、こんにちはとこんばんは!」と言って深々と一礼して巨大なセットの出口から悠然と出ていく。最後の最後、怒りでなくユーモアでもって別れを告げるトゥルーマンに私は魅せられた。

 実はこれと同じテーマが1990年代のサイバーパンク漫画である『銃夢』(木城ゆきと)でも描かれている。生きたままメリーゴーランドにつながれた本物の馬が、体を固定させる器具を引きちぎって数歩歩いて息絶えるという場面がある。生きた馬による回転木馬を作成したデスティ・ノヴァ教授は「愚かな、メリーゴーランドの上を回っていれば死なずにすんだものを。」とそれを見て憐れむ。それに対して彼に敵対する息子のケイオスは「この馬は最後の数歩を好きなように歩いて死んだのだ。」と反論する。印象的な場面だ。

 さてひるがえって、現代資本主義社会に属する我々は「自分自身の足で歩いているだろうか?」それとも、トゥルーマンの如く与えられた温室の中でぬくぬくと生きているのだろうか?私にはどちらがいいのかはわからない。ただ、誰にでも訪れる人生の終わりには「十分生きた」と納得して死んでいきたいと思うのです。

 この文章を読んでいただいた皆さん、実はあなた方一人一人が実在する現実のトゥルーマンなのかもしれませんよ!自分を取り巻く現実を今一度疑ってみてはいかがでしょうか?最後に私が気になるのは劇中のトゥルーマンと彼に扮したジム・キャリーの給料、出演料(ギャラ)はいくら位だったのかという事。下世話な話で申し訳ないのですが気になって仕方ないのです。(何々、えっそんなに!とほほ(泣))

 まだご覧になられていない方は是非!一見の価値のある作品だと思います!

それでは、「会えないときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみ。」

自分の言葉

 「いいこと言うじゃないか!知識偏重のナンセンスさは俺が学生時代から主張してきたこと。用語を覚えるよりも仕組み・からくりを理解することの方が百倍重要だ。俺は頭は良くないが、ただ一つ誇れるとすれば悪いなりに自分の頭でいつも考えてきたって事。どんなに拙くとも自分の言葉で語る方が単なる受け売りよりもはるかに価値がある。」

 これは先日行われた大学入試センター試験の地理の問題を解いての友人との感想。なんでもムーミンがどこの国の話かを知っていないと解きづらい問題だったとか。ちなみにムーミンはフィンランドの妖精。とってもちっちゃな。友人に返信をした際「どんなに拙くとも自分で考える事の方が受け売りの知識よりも価値がある」と私は直感的に述べたが、それはなぜか?自分の直感が何にもとづくのか?寝ながら考えた。

 結論から言うとそれが民主主義の根幹をなすからだ。どんなに、学識の豊かな専門家の言葉だろうと、どんなに社会的地位の高い方の台詞だろうと、どんなに優秀な人の言う事だろうと、あの人が言っているのだから間違いないと、自ら考えることを放棄してしまったら、それは直接であれ間接であれ民主主義とはいえない。確かに組織、特に軍隊などでは上の命令を下に正確に伝えることが必要で、命令にいちいち疑問を持つようでは戦場では話にならない。それはもっともだ。と言いたいところだが本当にそうか?太平洋戦争上最も過酷でむごたらしい有様となったインパール作戦では「味方を5000人殺せばあの土地を占領できる」といったあまりにもずさんで、どう考えても実現不可能な作戦が上層部から命じられた。当時現場を知る中堅の軍人はそのことを嫌というほど理解していたが上層部に対して反論できない空気が出来上がっていたという。結果、補給線を無視した軍隊には戦死以上に疫病や飢えで死ぬ兵士があふれ、生き残った者たちは死んだ自軍の兵士たちの肉を食して飢えをしのいだ。とNHKの特番で当時の兵士が述べていた。耳をふさぎたくなるような、しかしこれは現実だ。組織から自浄作用が失われてしまっている一例と言える。トップダウンが凝り固まった組織では下位に属するものは自ら考えることを放棄してしまう。それが染みついている人にとっては逆もまた然りだ。自分よりさらに下位に属するものが何を言ってもそれを退けてしまう。私が学生時代に師事した先生はそれがどんな拙い論理であれ、生徒自らが考えたものであればきちんと耳を傾けて下さる方だった。そこには知的な意味での上下関係などなかった。その先生の薫陶を受けてか私も教師時代、自分が知らないこと・解らないことは正直に知らない、解らない、と伝え、その場で考えた。それが組織の信頼と自浄作用につながっていたのではないかと今にして思う。話はそれたが民主主義とは一人一人が自分の頭で考えることを前提として成り立つ仕組みだ。うちは代々あの人の地盤だからとか、若くてルックスがいいからとか、みんなあの人に投票するからだとか、そういうレベルで貴重な一票を投じるのは本当にナンセンスだ。その意味で、誰が言ったか知らないが選挙のたびに出てくる「○○劇場」という言葉は、我々大衆をこれ以上ないほどに侮辱にしているのではなかろうか?この言葉が平気でメディアに取り上げられる光景に我々大衆はもっと憤りと情けなさを感じるべきだ。我々大衆も勉強しなければならない。そして自分の頭で考えねばならない。ただ、中には日々の仕事や介護、育児に追われて、とてもそんな余裕はないという方々がいるのも事実だろう。そういう方たちの為にも政治家と言われる人たちは、難しい言葉や専門用語をかみ砕いてやさしく解りやすい言葉で説明する責任がある。無論良い面も悪い面も含めて本音で。私も難しい事は解らない。ただ池上彰さんのような方が難しい内容をやさしい言葉でかみ砕いて我々大衆に伝えてくださるのは本当に有難いと思う。うがった見方をすればこの国の教養が底上げされてきたからこそ池上彰さんのような方が脚光を浴びる土台ができたのかもしれない。無論、池上彰さんの個人的な努力と理念には敬意を払う。そこでだ、解りやすい言葉で情報を得たからには、そこから先は我々一人一人が自身の頭で考えねばならない。そもそも考えるとはどういうことか?考える人と考えない人の違いは何か?私の経験上そのカギとなるのは「言葉」だ。我々は物事を考えるうえで、その道具として「言葉」をいやがおうにも使わざるを得ない。日本語で言うなら、て・に・を・は、しかし、何故なら、だから、また、その上、等々、小学校低学年で覚える基本的な接続詞や助詞が物事を考えるうえで非常に重要な役割を果たす。ジョージ・オーウェルの「一九八四年」を読むと解るのだが、かの小説の舞台となっている監視社会では為政者側が言葉をどんどん簡略化して最終的には言葉そのものを消滅させようと図っている。つまり物事を考えるための道具を奪おうとしている。もっと言うと「考えない・考えられない人間」をつくろうとしているのだ。一九四八年の段階でこのような着想を得ていたジョージ・オーウェルはすごい。またまた話はそれたが、何を言いたいかと言うと「自分の頭で考えよう」そのためにも「日本人ならまずは日本語」をしっかりと身に着けよう、という事。そして親なり教師なり教育に携わるものならば、それがどんなに拙いロジックでも子供が自分の言葉で述べる時、それに耳を傾けるべきだ。ここまで述べてきた通り、そうすることが民主主義のはじめの一歩になると思うからだ。