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長谷川 漣の何処吹く風 〜(その9)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その9)

「美」と「死」。そして「優しい国」 

 ○人の嫉妬心は、○人の野心より始末が悪い

 この2つの○に意味の相反する漢字2文字を入れよ。これは私が教員時代に出した問のひとつだ。元ネタは以前に読んだことのある小説から。嫉妬と言う漢字を黒板に書けなかったのが我ながら情けなかった。

 意外と早く正解が出たので驚いた。答えたのはとびきり利発でユーモア抜群の生徒。善と悪がその答え。『善人の嫉妬心は、悪人の野心より始末が悪い』。このフレーズを初めて読んだとき確か高校生だったと思う。ハッとさせられた。真面目であろうとする人、こうあら「ねばならない」という人、いわゆるmustの強い人ほど嫉妬心が強い。逆にまあこれくらいいいだろう、というおおらかな、言い方を変えるとちょい悪な人ほど嫉妬心が希薄だ。なるほど真面目過ぎるのもなんだな。と思ったのをよく覚えている。そうなんだ、きちんと生きようという思いが強い人、真面目過ぎる人ほど、自分に対しても他者に対しても厳しくなってしまう。そしてそれが自身と他者を比較した際、嫉妬心という形で現れるのではないか?

 「美しい国」という言葉を昨今よく聞く。そりゃあ汚いより美しい方がいいに決まっている。だが本当にそうか?それは何も物質面に限った話ではない。精神的な意味においてもだ。外見的に美しく生活することはともかく、内面的な意味で美しく生きるという事は非常に困難でストレスを伴う。そもそも美しく生きるとはどういうことか?すぐ思い浮かぶのは、親切にする。陰口を言わない。ねたまない。卑怯なことはしない。長いものには巻かれない。自分に正直に生きる。他者に公平に接する等々。それらがどれだけ大変なことか?実際に美しく生きている人にはわかるだろう。善人て大変だ。もちろんというべきか、私はテキトーに生きている。その私が言うのもなんだが、美しく生きるという事はとても「死」に近い。論理が飛躍しているがまさにそうなのだ。美しく生きるという事を突き詰めていけばそこには「死」が待っている。これは私が説明するよりも北野武監督の『HANABI』 や『アウトレイジ3部作』をご覧になられた方がピンとくると思う。本当に美しく生きたいと思うなら究極的には死ねばいいのだ。何故なら生きるという事は恥を重ね、罪を重ね、後悔を重ねることに他ならないから。北野武監督は非常に美意識の高い方だと思う。その美意識に世界が共感したのではないだろうか。

 さて美意識も自意識もましてや目的意識などほとんどない私としては、気楽にいこうや、という気分だ。昔、放送大学のある講座で述べられていた。「究極のおしゃれとは、究極の窮屈だ」と。首長族の例や、あごに木枠をはめる民族の例、それに纏足なども、その時代、その場所での美しさの例として紹介されていた。どれもこれも窮屈極まりない。そう、やせ我慢こそ究極の美だ。武士は食わねど高楊枝?腹が減ったら「腹減った」むかついたら「ムカつく」と口にできたらどんなに楽なことか。だが、そこに美はない。では美しければよいのか?そうではない。美しいのもいいが、あんまり美を追求しすぎると、それは窮屈だ。それに見かけだけならともかく、生き方にまでそれを求めたら、いきつく先には「死」が待っている。

 いいじゃないか。少しくらい不格好でも、いいじゃないか、人の事を羨ましがって陰口をたたいても、それがいじめや差別につながるほどで無ければ・・・嫉妬して、やっかんで、それが人間というものかもしれない。そう思わないでもない。だからと言っては何だが、いわゆる嫉妬深いといわれる方々を私は心の底から憎む気にはなれない。基本的に皆善人だ。と思いたい。それをお人よしというならばその通りだろう。ただ何と言われようと「対話」ってそこからではないか?と思う。

 話は戻るが、昨今この国は「美しい国」をかかげている。私などは、美しさはほどほどでいいから、ちょい悪くらいおおらかに受け入れる、山田洋二監督がおっしゃるところの「優しい国」を目指してほしい。美人は3日みると飽きるともいうし・・・(笑)。

 おっと危ない、あやうく政治的な発言をしてしまうところだった。私は政治に興味はない。何せ「興亡は一瞬、芸術は永遠」だから。自称とはいえ芸術に身を捧げたものとしては畑違いな発言だった。やれやれ。自称「芸術にその身を捧げた元社会科教師」より(笑)。

真剣勝負

 もうずいぶん前の話だが、北野武さんがあるTV番組の中で相撲の八百長騒動について「相撲は豊作を祝って神様に捧げる儀式である。つまりスポーツではないのだから、八百長は非ではない。」という意味合いの発言をされていた。その場はなんとなく聞き流してしまったのだが、何かがずっと頭の奥の方で引っかかっていた。今日TVを観ていたら、ふとそれが何だかわかった。以下に記す。

 スポーツではなく儀式だからと言って、真剣に応援している人達を裏切ってもよいものか?否、それは相撲に対して真剣に自身の想いを託している人達に対して失礼だ。では、勝負事に自身の想いを託すとはどういうことか?どうして勝負事に人は熱くなるのか?そもそも、真剣勝負とは何なのか?と考えた時ピンときた。真剣勝負とは本来は文字通り真剣での勝負である。やばいのである。何がやばいって真剣で勝負したら人死が出てしまう。この令和の平和な世に勝負事で人が死んだらやばいのだ。裏返せば、平和な時と場所に暮らす人々は真剣勝負に飢えているとも言える。ローマ時代に剣闘奴隷がいたのも、現代社会で各種勝負事、サッカー、野球、ボクシング、囲碁、将棋等々が盛んなのも、これら真剣勝負に飢えた人たちが、自身の満たされない思いを各々に託しているからではないだろうか?過去においても現代においても、それがいわゆる見世物としての勝負事の存在意義なのではないか?であるならば、相撲がスポーツであれ、儀式であれ、肝心なのは

「相撲に想いを託す人がいるかどうか?」

 ではないか?そこに想いを託している人がいるならスポーツであれ儀式であれ、その想いを裏切ってはならない。そして相撲に想いを託す人は、いる。つまり八百長は非である。というのが私なりの結論だ。北野さんの意見を伺ってみたい。

 私も勝負事は好きだ。特に「全国高校サッカー選手権」が毎年冬の楽しみだ。ちなみに私の祖父は生前「甲子園」が何よりの楽しみだった。祖父がよく言っていた。「甲子園は負けたら終わりだからな」と。野球とサッカーと畑は違えど、愛される理由は同じだ。「負けたら終わり」つまり真剣勝負がそこにはある。