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長谷川 漣の何処吹く風 〜(その10)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その10)

シンクロ

 先日、Jリーグの試合をテレビ観戦していると、川崎の選手が蹴ったダイレクトパスを別の選手が胸で落として、3人目の選手がこれまたダイレクトでシュート、ループ気味にゴールに決まるという場面があった。「感じているな」と思わずうなってしまった。
ほんのコンマ何秒かの間に3人の選手がお互いの意思を通じ合わせてゴールが生まれている。決して言葉で示し合わせたわけではない。そんな暇はない。しいて言うならアイコンタクトがあったかもしれないが、そうも見えなかった。一瞬のうちに3人の選手が同じイメージを描きそれを共有している。(感じている)サッカーの醍醐味の1つはこういうプレイを見ることにある。

 さて、我々人類はこのように一つのイメージを瞬時に共有する事ができる。このような能力を人類はどのようにして身につけたのだろう?また、他の動物、例えば人類の大先輩にあたる鯨はどうだろうか?

 鯨を重要なモチーフとした作品に『海獣の子供①~⑤』(五十嵐大介、小学館)がある。いわく~鯨の脳皮質は人間よりはるかに大きく発達しており、体の機能は使われるから発達するという前提に基づくなら、鯨は考えているという事になる。

天敵もなく殺し合いもない鯨はきっと人間とは違う発想をするはずだ。そして人類よりはるかに古い歴史を持っている。彼らは「ソング」と言われる歌をうたう事で何キロも離れた仲間同士でコミュニケイトしている。水の中では音は空気中よりずっと遠くまで伝わるのだ。鯨の歌はとても複雑な情報の波であり、見た風景や感情をそのままの形で伝えあって共有し合っているのかもしれない。言語によらずに。言語は性能の悪い受像機のようなもので、世界の姿を粗すぎたり、ゆがめたり、ぼやかして見えにくくしてしまう。“言語で考える”ってことは決められた型に無理に押し込めて、はみ出した部分は捨ててしまうという事だ。鯨の歌の方がずっと豊かに世界を表現している。こういった彼ら特有のコミュニケーション能力を考えると鯨は非常に高度な知の体系を創り出しているかもしれない。~(以上本文より抜粋、順序・表現を若干変更)

 私は思うのだ。人間だってその昔は海の中にいたわけで、鯨の持つ能力をどこかに多かれ少なかれ残しているのではないかと。もしかするとそれを第6感というのかもしれないし、テレパシーなどと言うのかもしれない。それが強い人もいれば、無論そうでない人もいる。冒頭に述べた川崎フロンターレのゴールシーンではこの「鯨のようなコミュニケーション」(ここではそれを都合上「シンクロ」と呼ぶ)が、行われていたのではないだろうか?この「シンクロ率」が上がっていくプロセスがチームとして成熟していく過程なのだと理解すると面白い。3年生が抜けて新チームになって、初めかみ合わないのが、徐々にお互いを感じて無意識のうちに意気があってくる。(シンクロしてくる)それが高校サッカーなどを見る一つの楽しみ方でもある。

 このシンクロというテーマは『風の谷のナウシカ』(ワイド版コミック、宮崎駿)の中でも「念話」という表現で使われているし、ファーストガンダム(富野由悠季)では「ニュータイプ」という考え方で示されている。宇宙に進出した人類が新たな能力に目覚めるという意味で「new」なのだが、今まで述べてきた流れからすると人間が本来持っていた能力を再び手に入れるという意味で、逆に「オールドタイプ」への回帰と言えるのかもしれない。まあ言葉自体はどうでもよいのだが、私が定めるところの「シンクロ」は確かにある。それを実証する研究はないのだろうか?(ご存知の方は教えてください。)

 『海獣の子供』ではこのテーマについて次のように述べてしめくくっている「かつて人間も《気高いケダモノ》であったのだ。」これはこれで一面の真実を表している。大変興味深いテーマだ。ただ、それは人類が流血の末に獲得してきた近代化の歴史を否定するものともとれる。万人の万人に対する闘争から、自然権・人権・個人という概念の獲得、こういった人類の歴史上に残る功績と「気高いケダモノ」という考え方は矛盾する。近代的自我に対するアンチテーゼとして読んでみるのは良い。だが今更ケダモノに戻るべきでないのも事実だ。さてこの文章をお読みの皆さんはこのテーマについてどうお考えですか?「シンクロ」していますか?この文章自体に「シンクロ」した人は是非ご感想をお聞かせください。お待ちしております。

優しさは何処から

 先日、職場の食堂で私が一人、窓に向かって食べているとある同僚が向かいに腰かけてくれた。「最近どうですか?」と聞いてくる。思わずうれしくなった。私は障がい者枠で雇用されている立場で、正直仕事はできない。にもかかわらずいっぱしにエッセイなど綴っているものだから、当然周囲の評判はよろしくない。自分でも承知している。よって私に近づくことはその同僚にとって損になっても得にはならない。それを承知で向かいに座ってくれた。優しさが身に染みた。社会人になって常々思うのは、いかに多くの人が損得で付き合う相手を選んでいるかという事。

この人と仲良くすることが自分にとって損か得かで付き合う相手を選ぶ。社会人ってそういうものなんだと半ばあきらめかけていた。ところが、この同僚にはそういうところが欠片もない。「優しさっていうのはこういう事を言うんだ。」と思った。そのような判断基準で言うなら、私自身も結構優しい方だ。飲み会などで暇そうにしている人がいると積極的に話しかけに行く。そりゃ自分がそうしていたら寂しいからだ。では、その優しさは何処から来るのだろう?生まれ持ったもの?確かに生まれ持った性格的なものはあるだろう。でもそれだけではない。どんなに性格的に優しい人でも心にゆとりが無ければ人に優しくできない。

では心のゆとりとは何か?時間的・金銭的に余裕があるという事?私自身は時間的にはともかく金銭的にはそうそう余裕のある方ではない。では・・・と考えていたところ、ふと、少し前に読んだ『町田くんの世界』(安藤ゆき)が脳裏をよぎった。すると直感的に答えは出た。そう、愛されてるってことだ。誰かから愛されているという事、それが一番心のゆとり・安心感になるんだ。これを論理的に説明するのは難しい。ただ誰かから愛されていると心が温かくなる。それは私にもよく解る。そしてそれを誰かにおすそ分けしたくなる。それが「優しさ」なのではないだろうか?家族・友人・恋人こういった人を愛するのは極々当たり前の事だが、それが何故、大切なのか今解った気がする。愛は広がっていくものなのだ。

 話は戻るがこの同僚にも家族や恋人や友人がいて、きっと十分に愛されているのだろう。其処から彼の「優しさ」は湧き出てきたのだと思う。今更ですが、ありがとうKさん!