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長谷川 漣の何処吹く風 〜(その4)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その4)

呼び名

「ねえ、何て呼んだらいい?」その昔、私がまだ20代の始め、交際?していた女性が、男女としてある一定の段階を経るごとに聞いてきた。今の私なら「俺の事は殿下って呼んで」とか「俺の事は大佐って呼んで、そしたら俺が『どうしたスネーク』って言うから」(メタルギア ソリッド『プレイステーション:コナミ1998』)と引き出しがたくさんあるのだが、その当時は「なんでもいいよ」と答えるしかなかった。お互いをどう呼び合うかで両者の間柄、難しくいうと関係性が解る。両親との間柄にしても、幼い頃はパパ、ママと呼んでいたのがいつのまにかお父さん、お母さんと呼ぶようになり、それがまたいつの間にか(反抗期?)、母については○○さん、父については名前を呼ばなくなり、そのうちに今度はジョーク的な意味合いを含めておっかさん、オヤジと呼ぶようになった。人と人との関係性って変わっていくものなのだと思う。そのように考えると恋愛とは両者の関係性の変容過程と捉えることができる。その女性は私との関係性を彼女なりに模索していたのだろう。「なんでもいいよ」というのはある意味失礼な返答だったかもしれない。無論その頃はそんなこと解らなかったが・・・。たいして長続きした関係でもなかったが、そういったことは学んだ。何事においてもそうだが人が2人以上集まればそこにドラマ(人間模様)が生まれそのドラマから何かしら学ぶ点がある、というのが私の経験則だ。呼び名という観点から考えるなら相手との関係性が変わるから新たな呼び名が生まれるのか?呼び名を変えるから新たな関係性に変わっていくのか?これまた、卵が先か鶏が先かという話になってしまうが、目の付け所としては面白い。私自身についていえば比較的最近知り合った方々ではハセちゃん、ハセさんと、読んでくれる人達がいて、学生時代からの友人は相手がどんな社会的立場になろうと相変わらず姓で呼び合う仲だし、身近にはお主とか貴方とかお前と呼び合う友人がいる。さしあたってはこういった人達が私の財産かなと思ったりする。意外と幸せな人生かも知れない。ちなみに私が勤めている学童保育では同僚や子供たちからハセッチと呼んでもらっている。長谷川先生ではなく、長谷川さんでもなく、ハセッチというところが絶妙の距離感で面白い。我ながらいい呼び名を思いついた。自分がどう呼ばれたいか?自分と相手との関係性をどう定めたいのか?自分の呼び名を自分でつけるというのはなかなかに興味深い行為だ。一方で私も先輩にあたる同僚の事をニックネーム呼ばせてもらっている。はじめはほんの少しだけ抵抗があった。でもそれを通り越すと何とも絶妙の距離感を保てる。これはいい!呼び名って大切だ。

 さてこの文章をお読みの皆さんはパートナーや近しい人達の事をなんと呼んでいますか?関係に行き詰っている方は互いの「呼び名」を変えてみるのも一つの解決策かも知れませんよ。例えば「大佐!」「どうしたスネーク?」のように(笑)。最後にこの文章をお読みの皆さん、筆者である私の事は「ハセッチ」もしくは「ハセガワ」とお呼びいただければ幸いです!是非ステキな関係を築けるといいですね!

劇薬

 社会生活を営む上で感情を共有することは重要だ。職場、友人、家庭、人付き合いをうまく進めていく為に、それは必要不可欠とも言える。他者に共感することで、お互いが好印象を持ち、ひいてはそれが円滑な人間関係につながるからだ。ただし何でもかんでも共有すればよいというものではない。私自身も感情を共有することが嫌いではない。嫌いではないが、用心はしている。安易に感情を共有しないように。それは何故か?

私がまだ学生時代の1998年。サッカーフランスワールドカップを3戦全敗という結果で帰国した代表選手に、あるサポーターがコップの水をあびせるという事件があった。なぜ彼はあんな馬鹿な真似をしたのか?彼だけが日本代表の結果に不満を抱いていたのならあんなことにはならなかったと思う。「みんなも自分と同じように感じている」という勝手な認識、それが彼の中であのような行為を正当化させる「感情的根拠」になっていたのではないか。でなければ言葉を交わしたこともない他人に対して何故あれほどの怒りを抱くことができるのか、私にはわからない。彼の行為こそ「安易な感情の共有」のなせる業なのではないだろうか。

 もともと人間は「感情を共有すること」が好きだ。ただしそれは喜びや笑いといった正の感情だけではない。憎しみや、怒り、といった負の感情もまた我々は共有する。歴史上、宗教に起因する戦争が残虐なのも、社会に「スケープゴート」とか「いじめ」とか「炎上」といった言葉があるのもこのためではないか。

 思うに「感情の共有」とは劇薬なのだ。効き目は大きいが、副作用もまた大きい。用法と容量を間違えるとまずいことになる。もっとも処方箋なんてはじめからない。自分に合った用法・用量を自分で見つけるしかないのだ。ただ、飲みすぎには注意したい。薬なんてたまに飲むからこそ効き目があるのだから。

 この事件があった頃から私は宇宙空間にそれこそ身1つで放り出されてみたいと思うようになった。その理由の一端は次のフレーズにある。

「宇宙は我々を受け入れもしなければ、拒みもしない。ただただ無視するだけである。」

しびれるフレーズだが何のことはない。要は、宇宙は我々を「ほっといてくれる」のだ。宇宙には比較すべき何者も、感情を共有すべき何者もいない。誰もいなければ孤独すら感じずに済む。そんな思いが無意識のうちに言葉になって口をついた。

「一回宇宙に行ってみてえな。」

隣にいた友人が

「ふん、宇宙には誰もいねえからな。」

と相づちを打った。ごく短いフレーズの会話だったが、おそらく私と友人は分かち合えた。

そう、「分かち合わない事の価値」を。

fin