著者プロフィール                

       
長谷川 漣の何処吹く風 〜(その3)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その3)

性(さが)

「まずいお酒だね。」 と母に言われた。言葉には不思議な力が宿る。それ以来、満足して飲んでいたカインズホーム銘柄の350㎖84円の発泡酒がなんだかイヤにまずく感じられるようになった。普段否定的なことは言わない母がめずらしくそんなことを言ったのにはわけがある。それが私にはよく解る。その2~3日ほど前に私が通販で服を買った。それが母には気に食わないのだ。本やマンガを通販で買うのにうちの母はまったく気にしない。しかし、こと服を通販で買うとなると、露骨に嫌な顔をする。服を買う=おしゃれをする=異性の目を気にしている。という図式が彼女の中で出来上がるのだ。そしてそれが面白くない。やれやれと思う。うちの母は実に庶民的な人間で、それでいて抽象的な思考も出来、本もよく読む。私の知性?の大半はこの母から授かったものだと思っている。それはおそらく間違いないだろう。貴重なことだと思っている。その母をして、男が男の性から自由になれないように、彼女も女の性から自由になれないのだ。残念なことに。この母の存在がなかったら今の私?はいないだろうし、こんな文章も記していないだろうと思う。一方で彼女の存在が(言い方は悪いが)私にとってある種の足かせになっているのも事実だ。もし彼女がその意味でもう少しさばけていたなら、私は自分の可能性をもっといかんなく発揮できていたのではないだろうか?彼女は常に言っていた。自分の持っている力の7割でこなせる場所に居なさいと。それは彼女なりの精一杯の親心だったのだろうが、結果は見ての通りだ。彼女に一言「挑戦してご覧」言えるだけの器量があったら私の人生は変わっていたかもしれない。保護するという事と自分の手の中に納まる範囲にとどめておきたいという願望は似て非なるもので、そこまでは彼女の理解が及ばなかったのだ。いや解っていたのかもしれないが、そこが彼女の限界だったのだろう。もしくは私の能力なり存在なりは彼女の想像をはるかに超えてしまったのかもしれない。これまた認めたくは無かったろうが・・・。何にせよ、男が男の性から逃れられないよう、女も女という性から自由になれない。同様に人は人である以上、人という性から逃れられないのかもしれない。人であれば、嫉妬もするだろうし、惨めな気持ちにもなるだろ。逆に見下しもするし、居丈高にもなるだろう。それが人間だ。1つにはそういった性から自由になりたくて、私は宇宙に行ってみたいと思っていた。誰もいないからだ。そう思ったのがかれこれもう20年ほど昔の事だ。今となってはどっかの大国の軍事利用とか資源の獲得競争とかで何やら忙しくなった。もう宇宙でさえも手垢のついた場所になってしまったのだ。うんざりとしていた折、職場の知人から山に登ってみないかという誘いがあった。悪くない話だ。山に登るか、深海に潜るしかもう我々に残された場所はないのかもしれない。と格好をつけてはみたものの、ようは逃げ場所が欲しいだけだ。と、自分では分析している。何にせよ山が楽しみだ。

新釈 蜘蛛の糸

『お釈迦様はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見ました。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけました。カンダタは殺人や放火もした大泥棒でしたが、過去に一度だけ善行を成したことがありました。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことでした。それを思い出したお釈迦様は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろしたのでした。』(ウィキペディアより引用し文末を変えました。)

 暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を昇れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めました。するとそれを見ていた別の罪人たちが「おい、俺たちにも昇らせろ!」と群がってきました。犍陀多は言いました。「ちっ、しょうがねえな。まあ、いいさ。俺は丈夫だから最後でいい。弱っている奴から先に昇れ!細い糸だから切れちまわないように一人ずつ昇れよ。」それを聴いた罪人たちは我先にと昇り始めました。そうして、犍陀多を除いた罪人全員が昇り切った後、ようやく犍陀多は糸を手繰り寄せ昇り始めました。それを蓮池の上から見ていた釈迦は何を思ったのでしょう、犍陀多がずいぶん高くまで昇ったところで蜘蛛の糸を犍陀多の真上でプツリと切ってしまいました・・・・・・・。

 そうです、お釈迦様もまた人の子です。犍陀多の罪人らしからぬ尊い行いに、御心を奪われてしまったのでございます。お釈迦様にとって犍陀多は、自らの気まぐれで地獄から救い出してやろうとした罪人に過ぎません。そのたかが罪人に心を奪われた御自身をこそ、許せなかったのでございます。その思いは犍陀多にも伝わりました。「己は人も殺したし、随分酷いこともやった。でも最後お釈迦様にやっかまれるぐらいなら、十分だ。十分生きた。」今度こそ、地獄も極楽もない永遠の眠りへと落ち行く中で最後に犍陀多は微笑んだのでした。

おわり

※お釈迦様はなぜ蜘蛛の糸を断ち切ったのでしょう?

※極楽へと登った罪人たちはお釈迦様の行為を見て何を思ったでしょう?

※なぜ最後に犍陀多は微笑んだのでしょう?

※極楽とはどんなところでしょう?(本当に往く価値のあるところなのでしょうか?)

◎読者の皆様は是非御一考ください。

~芥川龍之介に敬意をこめて~