著者プロフィール                

       
長谷川 漣の何処吹く風 〜(その8)

長谷川漣

本来なら著者の写真を載せるべきですが、同居する両親が「写真は賞をとるなり何なりしてからにしなさい」と言うため今回は控えさせていただきます。
1976年生まれ。本とマンガをこよなく愛す。
大学卒業後、高校教師を5年間務めた後、会社員生活を経て現在は学童保育に勤務。その傍ら執筆活動にいそしむ。
自称「芸術にその身をささげた元社会科教師」。もしくは「北関東のトム・クルーズ」。

長谷川 漣の何処吹く風 〜(その8)

いくつもの顔をもて

 私のペンネームの下の名前「漣」は先日亡くなられた大杉漣さんから頂いた。その役柄の幅広さから300の顔をもつ男と評された大杉漣さん。300の顔をもつ男、かっこいい!イカシテル!我々も300とはいかないまでもせめて1ダースくらいは顔をもちたいものだ。そんな思いからこの名前を選んだ。300の顔をもつとはどういうことか?それは300の役割を担う、もしくはかつて担ったという事だ。役割を担うとは言い換えればそれだけ居場所があったという事。難しくいうとそれだけの共同体に属したという事だ。(ここでは共同体の定義について深く論じることは避けます。)

 さて、話は移りますが、皆さんは「ひきこもり」についてどのようにお考えですか?そもそも「ひきこもり」とは何でしょう?どのような状態を指すのでしょうか?『大辞泉』によれば「長期間にわたり自宅や自室にこもり社会的な活動に参加しない状態が続くこと。」だそうです。また、友人によれば「hikikomori」とは西欧にない日本特有の概念だとの事。私自身は「ひきこもり」とは共同体から排除された結果、もしくは排除されることを恐れて身動きが取れなくなってしまった状態を指すものと理解しています。西欧で「ひきこもり」の概念がないのは、共同体の意識が日本に比して希薄だからではないでしょうか?裏を返せば日本人は「共同体あっての自分」という意識が強く、共同体から排除されることを極端に恐れます。では、西欧人の様な個人の確立とまではいかなくても、我々日本人が共同体からフリーになる方法はないのでしょうか?あります。それは一人が複数の共同体に属する事です。やさしくいうと複数の居場所を作る事です。AがだめでもBがある。BがだめでもCがある。Cがだめでも・・・という具合に。学校がだめでもクラブチームがある。フリースクールがある。その意味で部活動の役割は今後地域のクラブチームが担ってゆくべきでしょう。また、学校以外の学びの場(インターネットスクール等々)も増やしていくべきでしょう。複数の共同体に属する、複数の居場所を持つことでいわゆる共同体からフリーになることができ、結果として、ひきこもりになる確率は減少するのではないでしょうか?つまり何が言いたいかというと「いくつもの顔をもて!」という事。その意味で300の顔をもつ男、大杉漣さんかっこいい!と言うわけです。そんなこんなで下の名前を「漣」にしました。ご理解いただけると幸いです。仕事とは時間は多くとられてもあくまでone of them に過ぎないというのが私の考えです。また、この「共同体フリー」という概念を現代の日本社会に対して提案します。働き方改革と同様に今後の日本社会にとって大切になるものと考えています。さあ、あなたもなりませんか?共同体フリーに!

原動力

 任天堂クラシックファミコンを買った。早速、小学生の頃夢中になったスーパーマリオ3をやってみた。リアルタイムではラストステージには行けたものの、最後のボス・クッパ大王まではたどり着けなかった。大人になった今こそクッパを倒してやると意気込んで挑戦してみたが、如何せんクッパどころかファーストステージのボスすら倒せない。こんなはずではなかったのに・・・何が言いたいかというと、使わない能力は低下するという事。大人になってから神経衰弱(トランプのゲーム)をやるようなものだ。使わない能力は低下する。さて私は、そこそこ難関と言われる大学に現役で合格したが、極々客観的に見てその当時の能力が今は影も形も、ない。スーパーマリオと一緒だ。使わなければ落ちる。訓練に訓練を重ねて何とか大学には合格したものの、その当時の頭の回転の速さ、記憶力、同時進行で複数の物事を考える力、そして見直しを厭わない緻密さ、それらは今や欠片も、ない。当然、私は、仕事は、できない。社会人になって常々思うのは大学名なんか関係ない。学び続けるやつが強いという事。だったら、再び訓練しなおして一度は身につけた能力を取り戻せばいいじゃないか、スーパーマリオをまたやりこんだらいいじゃないか、という御意見もあるだろう。だが、如何せんその気になれない。失われてしまったのだ、情熱が。先程、「大学名なんか関係ない。学び続けられる奴が強いのだ」と述べたが、学び続けられる人にはその情熱があるのだろう。そう、情熱もしくは原動力と呼ばれるものだ。ではその原動力って何から生じるのだろうか。いわゆる夢か志か?それとも豊かさや勝利への執念か?そういうのは私にはいまいちピンとこない。なんだかどれもボヤっとしていて興味がない。では昔、私が抱いていた情熱はどこから来ていたのだろう?思うに子供の頃あんなに一生懸命になれたのは単純にそれが楽しかったからだ。スーパーマリオがガンプラがサッカーがそして本がマンガが楽しくて楽しくて仕方なかったのだ。昔タモリさんが言っていた「俺なんて小学生の頃は明日何して遊ぼうかしか考えてなかったからね」そうなのだ、夢とか志とかそんな小難しいものではなくて「楽しい」が原動力だったのだ。「意志あるところに道は生ず。」ならぬ、「楽しみあるところに道は生ず。」だ。つらい事、苦しいことがあるから、楽しみが活きてくるのだという人がいる。それは確かに一理ある。だが比率が問題だ。九割つらくて一割楽しいよりは、一割つらくて九割楽しい方が、私はいい。何なら十割全部楽しくてもいい。楽しいに越したことないじゃないか!と思うのは私だけか?楽しいから一生懸命になれる。少なくとも私はそういう人間だ。極論するならつまらなく長生きするよりは楽しく早死にした方がいい。もちろん楽しく長生きできるに越したことはないが・・・と、ここまで考えてきて、果たして一般論として人生とは楽しいものなのだろうか?強がりでなく心の底から人生って楽しいと言える人は人口の何割くらいいるのだろうか?(世代間で差も出るだろうが)もしくは国別、人生楽しい度(熱中度)調査?をやってみたらどうなるのだろう?また、「楽しい」の必要十分条件は何だろうか?家族なり、友人なり、恋人なり、周囲の人間関係が良好なこと、一生懸命になれる何か、夢中になれる何かがある事。この二つだろうか。「いや、基本的に人生なんて楽しくない。だからこそユーモアが必要なのだ」というニヒルな意見も当然あるだろう・・・。まあ、考え方は様々だろうが、最終的には次の言葉を借りて締めくくりたい。「基本的に人生とは生きるに値するものだ」宮崎駿氏の言葉だ。彼は「その思いを作品に込めている」と述べておられる。その言動の節々から一個人としての彼は、なんて頑固な爺さんだと辟易するが、クリエイターとしては、凄いと言わざるを得ない。いろいろな作品があっていろいろなメッセージがあってよいと思うが、彼の言う「生きる事って楽しいんだ」というメッセージが何よりも大切な気がする。今まで考えてきたことからすれば、それが生きる情熱・原動力そのものだからだ。昔、手塚治虫先生がおっしゃっていた「やはり、子供向けの作品が一番大事だ」と。初めて聞いた当時は解らなかったが今ならわかる。「生きる事って楽しい」というメッセージは子供にこそ必要なものだからだ。(無論、大人にだって必要だが)。マンガでも小説でもアニメでも映画でも、読んだ人、観た人が「明日が来るのが楽しみ」になるような作品だったら本当に素晴らしいと思う。

 話は戻りますが、この文章を読んでいただいている皆さんの原動力は何でしょうか?もしかして私と同じ?同じなら、皆さんが人生をいっそう楽しめるよう祈っています。ちなみに私自身はこのエッセイを綴っているときが一番楽しいです。(笑)