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真剣で斬られる|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 〜(その16)


高校では、体育の授業とは別に、武道の授業が一週間に一時間だけあった。

剣道と柔道から選択するのだが、俺にとってはどちらも嫌だった。

「柔道で畳に投げられたら痛いよな。剣道は防具があるから竹刀しないで打ち合ってもあまり痛くないんじゃないか」

と思い、剣道をやることにした。

剣道の先生は、体育大学の剣道部出身で剣道四段だ。

目つきが鋭く、やせ形で機敏そうな三十代前半の先生で、正面から睨まれたら「参りました」

と言ってしまいそうだった。

これは後で、高校三年で剣道二段になった友人に聞いた話なのだが、剣道初段までは結構、誰でも楽になれるらしいのだが、二段に上がるのは大変な事らしく、先生の剣道四段というのは、恐ろしく努力をしないとなれないらしい。
確かに、そんな努力をしてきている目つきだった。この先生が当校に来て以来、剣道部はどんどんと強くなって、学校に入って来たときは、まだ、段などなかった生徒たちが、めきめきと腕を上げて、三年になるころには、剣道二段という生徒たちまで出てきた。
先生はこの高校の剣道部が、インターハイ(高校総体)の団体、個人でともにベスト4以内になることを目指していた。恐ろしく高い目標だった。
インターハイどころか、県大会を勝ち上がることすらかなり難しいことだった。それでも、剣道部の生徒たちは、めきめきと腕を上げて、一人、二人と県大会を個人戦で勝ち抜き、インターハイに出るところまでにはなったので、先生も益々張り切って指導しているのだ。
剣道部がどんなに強くなっても、俺には何の関係もないことだった。
俺が武道の授業で剣道を選んだのは、柔道を選んで信元和尚に畳に叩きつけられて痛い思いをするよりは、防具をつけている分だけ痛くないと思ったからだった。
ところが、剣道の防具が臭かった。
この防具は、学校の備品で、普段は武道場の用具室にしまってある。
用具室の壁には、高い場所に狭い窓が数か所あるだけで、大きな窓などはないので、日も当たらず、風通しも悪く、剣道の防具のカビ臭さが抜けないのだ。
学校で消臭スプレーを用意しておくべきだと思ったのだが、そんなところにお金をかけてくれるような学校ではなかった。臭いのは生徒たちで、先生ではないので、「授業中だけだから我慢しろ」という答えしか返ってこなかった。
先生は、自分の防具を別の場所にしまっていて、たぶん消臭スプレーを使っているに違いなかった。
「こんなに臭い防具をつけるぐらいなら、柔道にしておけばよかった」
と思ったが、後の祭りだった。この臭くて重い防具を身につけて、動きながら竹刀を振るのだから、体力に自信のない俺には、苦痛以外の何ものでもなかった。素振りを数分間練習して、技の練習に入った。剣道の技は、面、小手、胴、突きの四種類なのだが、高校生の素人には突きは危険なので、面、小手、胴の三種類だけを練習することになった。
先生は、生徒たちを、向かい合うように二列に並ばせて、正面にいる相手と交互に、面を打つように指示したので、みんなは竹刀を上段に構えて、相手の頭の防具に向かって竹刀を振り下ろした。素人たちが振り下ろす竹刀は、大したスピードもなく、「へなちょこ」なので、防具に当たる音も軽い音しかしなかったのだが、俺の相手だけは違っていた。
俺の相手は、身長が俺よりやや低かったので安心していたら、剣道部に所属しているわけでもないのに、なぜか竹刀を持つ体勢が様になっていた。
切れ味鋭い出足で、俺に向かって跳びこんできて、
「メン~」
と大きな声を張り上げて、俺の頭を打ちぬいた。
「いて~、なんだよ。防具をつけてるのに痛いじゃないか」防具の布は厚めにできてはいるのだが、竹刀を上から振り下ろされると、その衝撃はすごかった。「お前は、剣道をやってるんじゃないか」
「剣道初段なんだよ」
「剣道初段ならば、剣道部に入ればいいじゃないか」
「休日に家の近くの道場に通っているから、剣道部に所属しなくてもいいんだよ」面をつけたまま近づいて話をしていたら先生に怒られた。
他の生徒に代わってほしかったのだが、それもかなわず、仕方なく離れて、面を交互に打つ練習をすることになった。
俺の「メン」は「へなちょこ」で相手にとっては痛くも痒くもないのだが、
俺は打たれるたびに脳天に響いた。
「このままでは頭が割れる」と思い、「メン」を打たれる瞬間に少し上を向いてみた。
すると、竹刀が防具の面の金具の所に当たるので、痛さからは解放されたのだが、見た目は格好悪かった。格好などにこだわってはいられない。
頭が割れたらどうするんだ。この格好の悪い面の練習で一回目が終了した。
待ち遠しいと思っていることは、なかなかやって来ないのだが、来なくても良いと思いることは、すぐに来てしまうような気がする。

あっという間に一週間が過ぎ、二回目の剣道の授業の時間がやって来てしまった。またあの臭い防具をつけなくてはならないと思うと憂鬱だった。剣道の防具は洗濯機に入らないので、いつまで経っても臭いままだった。
「本日は小手と胴の練習をするぞ」
と先生に言われて、また、向かい合うように二列に並んだのだが、今日の相手は別の生徒で、剣道は素人らしいので
「今日は安心して、練習ができるな」
と思ったが、大きな間違いだった。まず、小手の練習から行うことになったのだが、相手が初心者なので、うまく小手の防具に当たらず、防具のない腕に竹刀を打ちつけてくるのだ。剣道初段の竹刀の振りよりは、振りが弱いのだが、それでも結構痛い。自分も仕返しとばかりに、思い切り前に踏み込んで、防具のない腕に竹刀を打ち込んだ。
「痛いよ。ちゃんと防具の所に当てろよ」
などと、自分の事は棚に上げて言ってくるではないか。
「御免、ちゃんと防具を狙って打っているんだけど、下手なんだな。今度はちゃんと狙って打つよ」
と言って、また防具のない腕の所をめがけて打ち込んだ。
「下手くそ」
と怒鳴られたが、なぜか気持ちがよかった。小手の後は、胴を打つ練習になったのだが、同じ相手なので、また同じように防具の上の脇腹に竹刀が当たってしまった。
「御免、俺って下手くそだな」
などと言いつつ、脇腹を打ちながら、この日の授業が終わった。
「お前って本当に剣道が下手だな」
と言われたが、俺って本当に剣道がうまいと思った。次の剣道の授業の時に、先生が真剣を持ってきて、みんなに自慢気に見せつけた。もちろん、真剣は誰でもが持てるわけではないのだが、都道府県の教育委員会に届けられた
「銃砲刀剣類登録証」
があれば、日本刀を所持できるのだ。所持できるからといっても、その真剣を人の前で抜いて振り回すと、
「銃砲刀剣類所持等取締法違反」
で警察に捕まることになる。先生は、剣道四段でもあり、都道府県の教育委員会所属なので、簡単に「銃砲刀剣類登録証」を発行してもらい、真剣を所持しているのだ。世の中はそういう具合にすべてが回っているような気がした。真剣が持てるとは言っても、これで悪さをしようなどと考える学校の先生はほとんどいない。やはり、学校の先生は、まじめな人間が多いのだ。間違ったふりをして、胴の防具の上の脇腹を叩くやつなどいない。学校の武道場に真剣を持ち込んだ先生は、真剣を左手に持って、道場の板の間に正座した。生徒たちは、先生と向かい合わせになるように、少し離れた位置に防具をつけずに三列で座らされた。
先生は、「真剣の演武を見せるので、その場で見るように」
と生徒たちに指示をして、真剣を左手に握り、右膝は道場の床につけたまま、左足を前に踏み出して、右手で真剣を鞘から抜いた。真剣がキラリと光った。そして、体の左側の床に鞘を置いて、真剣を両手で握り締めて立ち上がった。仁王立ちで刀を真っ直ぐ前に構えて、
「えい」
と気合いを入れて、右足を前に一歩踏み出して、真っ直ぐ前に、真剣を振り下ろした。さらに、真剣を上段に構え直して、今度は、左斜め前に右足を踏み出して「えい」
と言って真剣を振り下ろした。さすがに剣道四段の気合いはすさまじく、みんな息を飲みながら見守るだけだった。左斜め前に振り下ろした真剣の切っ先の方向には、俺が座っていたので、先生と目が合ってしまった。
「まずい」
と思って目をそらしたが、遅かった。
「緑川、前に出てこい」
と言って、先生は真剣を鞘に収めた。
「先生、足がしびれて動けません」と言いたかったが、あまりの恐ろしさに
「ハイ」と言って立ち上がってしまった。
ほんとうにまずかった。しびれた足で、先生に近づいて行くと、
「俺の前に座れ」
と言われ、先生のいる位置から二メートルぐらい離れて正座した。
「もう少し前に来い」
と言われ、仕方なく五〇センチほど前に出た。先生は、俺の前に正座して座り、左手に真剣を握り締めて俺を睨みつけている。
「蛇に睨まれたカエル」
とはこのことだと思った。額から汗が一筋、頬に向かって流れ落ちたのがわかったが、身体はまったく動かない。先生の目を見ているのが怖かったので、だんだん目線が下がってきて、お腹あたりまで来たときだった。
「えい」
と先生が気合いを入れ、真剣を鞘から抜いて立ち上がり、俺の頭をめがけて真剣を振り下ろした。あまりの恐ろしさに、目をつむって首をすくめた。
「頭が割れた。俺は死んだ」
と思ったが、生きていた。おそるおそる目を開けて、上を見ると、刃が俺の頭の上、ぎりぎりのところで止まっていた。すくめた首を伸ばしたら頭が切れると思い、じっとしていると、先生が真剣を振り上げて、元の位置に戻り鞘にしまった。
「どうだ、緑川、しびれるだろ」
確かに、足はしびれていた。頭の方は、割れたかと思った。良く頭の上、ぎりぎりで刃を止められるものだと思ったが、後で他の生徒たちに聞いたところ、じつは、振り下ろした刃は二〇センチぐらいのところで、一旦止めて、ゆっくりと、頭の上、五センチぐらいのところまで近づけたことがわかった。俺は目をつむってしまっていたから、その動作には全く気づかなかったのだ。さすがに剣道四段の先生だけあって、危ないことはしないが、驚かせることにはたけていた。結局この日の授業は、先生の真剣自慢で終わってしまい、臭い防具をつけることも、竹刀に触ることもなかった。改めて柔道にしとけばよかったと思ったが、遅かった。この後も、臭い防具をつけながら、
「頭が割れる」
「腕を叩くなよ」
などと言いながら、剣道の授業は順調に過ぎていった。時というのは、何となく過ぎて行き、そして、苦しかったことも、何となく終わって行くものだった。

翼がないのにふわふわ浮いて 【全22回】 公開日
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(その2)タラチネ|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年10月2日
(その3)天使も筆の誤り|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年10月31日
(その4)ミトコンド~リア|「翼がないのにふわふわ浮いて」(青春篇) 2019年11月29日
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