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春の雨 〜 Barren love 不毛な恋たち(その8)

藤村綾

風俗嬢歴20年の風俗ライター。風俗媒体に記事を寄稿。趣味は人間観察と眠ること。風俗ジャパン内・俺の旅web『ピンクの小部屋』連載中。

春の雨 〜 Barren love 不毛な恋たち(その8)

 夕方はどうしてこうもたそがれてしまうのだろうと思いつ夕食の支度をしていたらスマホが狂ったようにあばれだしなんかくれといわんばかりに絶妙なタイミングで震えた。

まるであたしのおなかの減りを見透かしているかのように。

   鶏肉を買ってきていたので唐揚げにしようか、照り焼きチキンもいいかなぁなどと空腹の頭で出来あがった料理を思い描いていた。

料理のときや仕事のとき。

あるいは好きな本を読むときや、ひどく疲れていて眠りにつくときだけはそのことだけを考えればよいので涙を浮かべることは顕著に少なくなっていた。

 けれど、ふと気が緩んだときに胸がしめつけられていたたまれなくなりスマホを開いて彼にメールを打ってしまう衝動に駆られることもある。一応メールの画面を開き、打ってみるだけ打ってみる。癖。その単語が一番しっくりくるかもしれない。

《あいたいよ》

 けれどもまあ打つだけだ。打っては消してを3回ほど繰り返して結局は送らない。送らないのではなくて送れないのだ。

 打つだけで気分は幾分か落ち着いた。いわば、自己満足の精神安定剤みたいなものだ。

 そんな金も生み出さなくくだらない作業を気がつけばやっている。メールの宛名の部位に『h』だけ打つと自動的に彼のアドレスが出てきてしまう。

 あたしでさえも記憶をしていないアドレスなのだけれど、パソコンははっきり記憶してしまったようだ。

 今は、このアドレスだけが唯一の彼とのライフライン。彼のアドレスからはあたしは居なくなり、あげく、着信拒否になっている。

 あたしも思わずひょっとして電話をしてしまわぬよう、彼と同じように着信拒否にしてある。

 かかってくるわけなどまるでないのに。みじんたりともないのに。

    彼にあわなくなって2カ月が過ぎようとしている。

 けれどまだあたしのときは止まったままだ。かなり元気そうにヘラヘラとして見えるけれど、それは表面だけで、ひと皮も、ふた皮めくってみれば薄汚れた醜い心を持った容貌のあたし。

 ときに彼を恨み、彼の奥さんを憎み、けれどときにめちゃくちゃにあいたくて愛おしくて苦しくて。気分の浮き沈みが激しくって自分のことなのに、困惑してしまいときどき頭を抱える。

  彼のことを1日たりとも忘れたことなどはない。いや、忘れられるわけなどがない。

 彼は現場監督で、彼の監修した学習塾や喫茶店、コンビニエンスストアがいやでも目に入る。彼、そのものだから。現場には幾度も行き、施工図や、工程表。図面に至るまであたしに見せてくれたのだ。

 現場監督という単語がテレビなどで出るとつい振り向いてしまう。彼なわけなどないのに。

 誰がゆったのだろう。

(そんなのさ、日にちが解決するよ。ほら、時間がたてば忘れられるって)

 そんなうさんくさいせりふはドラマの中のせりふだと強く思う。

 スマホに手を伸ばす。どうせ宅配便のモミヤマさんからと決め込んでいた。なにせ、不在票が入っていたのだから。

 え!

 かかってきた名前を見たせつな、あたしは手が、体が、頭が、足が、唇が震えた。

 まさか、まさかの人の名前が表示されていた。

 彼の名前だった。

 実は今朝、なんとなく、彼から連絡がきそうな気がして、着信拒否を解いたのだった。

 でも、なぜ?このタイミング?なぜ?

 いぶかしく思うも、しばらく表示される彼の名前を見ながら、あたしは、震える指でスマホの通話ボタンを押した。

『俺、電話したよ。してくれってメールがきたから』

 あ、そういえば、1週間程まえに、つい我慢出来なくて会社のパソコンから、あいたい、とだけ短文を打ったのだった。指や声が震えてしまう。

 一気に真冬の海原に投げこまれた気分。

 やや間があった。3分くらい? いや30秒だったかもしれない。

『あやちゃん……』

 電話越しの声は確かに彼の声。あいたくて、苦しくて、触れたくて、しょうがない彼の声。

 あたしは、小さく、蚊の鳴くような声で、こたえた。

『あ、う、うん』

『あ、俺、電話するのさ、めちゃくちゃ緊張した』

 秀ちゃんが、なんで緊張するのかが不明瞭であたしは、なんでと語尾をややあげて確認をした。

『電話に出ないかと思ったから』

『出ないわけなんかないじゃない。だってあいたいとメールをしたのはあたしだよ』

 まくしたてるよう、語気をやや強めた口調でいう。

 けれど、実はずっと決めていたことがあった。メールがもしきても無視をしよう、とか、もう、苦しみたくないから、絶対無視しようとか。

 けれど、そんな思考は既に一蹴され、あたしは電話越しに

『秀ちゃん、あいたいよ、あいたい』

 少し鼻声になりながら、ささやきながらつぶやいた。

 声があたしの頭からつま先までを支配する。

 居ても立っても居られず、秀ちゃん、ねえ?

 あたしは矢継ぎ早、彼に問う。

『今日は、実家に泊まるんだよ』

 ここで、いったん言葉が切れる。言葉を選んでいるのがわかる。あたしは続きを待つ。

『あってもいいのかな。ここまで我慢したのに』

『あいたい。やだ、あたし、そっちまで電車で行く』

 ひどく困らせているとはわかっている。秀ちゃんもあたしと同じ気持ち。わかっている。また、ズルズル。それがいやで別れを告げたはずなのに。

『いまからだと、8時には駅に着く。あやちゃんはそれに合わせ電車に乗って』

あたしは短く、うん、だけ告げて、スマホを切り、むぞうさにカバンにつっこみ、パーカーをさっと羽織って玄関を蹴るように開けて自転車にまたがった。

 桜が散り始めて花びらが雨のようだ。あたしは自転車を躍起になりこいだ。桜の花びらが顔にひっつくのは泣いているからだ。

 胸底が異様につまる。自転車で走っていてくるくると景色は変わるのに、あたしの目の前には、彼の顔しか見えなかった。肩で息をしながら立ちこぎをする。明日筋肉痛になるなくらいに必死に。

 いつもならちんたら走ると10分くらいかかる駅なのに、その半分の時間しか要しなく、いつの間にか改札で切符を買っていた。

 秀ちゃんにあえるんだ。切符を買っていてもいまだに現実味がなくて320円のボタンを押す人指し指が震えていた。さっきから震えてばっかりだ。酒飲みじゃああるまいし。てゆうか秀ちゃんとあわなくなってから酒の量がひどく増えた。アル中になりそうな勢いなのだ。

 秀ちゃんの実家近くの駅は、5つ向こうの東海道線だ。

『間違っても名鉄には乗るなよ』

 電車を切ろうとしたタイミングでいわれ

『大丈夫、わかっているから、大丈夫』

 行き方はわかっている。間違えないし、掲示板もきちんと乗り口は表記してある。それにあたしは大人だ。

 大丈夫というのは、秀ちゃんとあったとき泣いてしまわないように自分に言い聞かせた言葉だったかもしれない。

 タイミングが良く車があり、1分たりとも待たずに電車に滑り込みセーフで乗り込んだ。

 電車の窓に映し出されるあたしの顔は、徐々に雲行きが怪しくなりとうとう泣き出してしまった。人がまだらに乗っている。ハンカチを取り出そうとカバンをさばくってもハンカチは見つからず途方にくれる。仕方ないので、来ていたシャツを1枚脱いで、顔を覆った。嗚咽を交え、声を殺し泣いた。うれし涙なのか、なんなのか、意味不明な涙は止まることを知らず、シャツはグッチョリと涙でぬれてしまい、すっかりシャツの役目を成してはいない。

ほどなくして、目的の駅に到着した。

あたしは、ぬれているシャツをむぞうさにしまい電車からホームに飛び降りた。階段を上がり、改札口を出て数本だけ歩いた駅のホームに立ちはだかる。駅前は、スーパーや、コンビニが所々に点在していて、わりと繁華街に思えた。

 7時半。ショートメールをしたけれど、なかなか開封済みにならず、拒否したままなんだなと思ったら、とても哀しくなった。

 なので普通のメール作成を開き、メールを打つ。

《到着しています》

 約束の時間は8時だったので返信がなくても待っていればいい。あたしはただぼうっと駅前のロータリーにしゃがみ込んだ。

 1枚シャツを脱いだばっかりに、肌寒く、桜の花びらが風に舞い散りあたしの頭上から降り注ぐ。奇麗だった。

 ライトアップされた桜の木を見ていたら、またもやくどいほど涙がこみ上げてきた。

 彼にあったら絶対に泣かないと決めている。あたしはこみ上げる涙を半ば強引に制し、お化粧直しをした。

 目が真っ赤で泣きはらしたと一目でわかる。

 あたしは彼のことで、どれだけの涙を流したのだろうか。バケツいっぱいくらいだろうか。いやいやもっとかもしれない。

 こんなに大好きで、こんなにも愛しているのに、彼は一生あたしのものにはならない。けれど、愛してしまったのだ。冷たくされても、壊されても。愛してしまった以上、どうすることもできやしない。なんども別れ、なんどもひっつき、なんども笑い、なんども滂沱し、そしてまた、彼にあおうとしている。

   昼間は暖かいのに、夜はぐっと気温が下がる4月。シャツを1枚脱いだことを後悔しつつ、あたしは、ぼうっと、駅前のローソンに目を向けた。確かあのローソンも秀ちゃんが監督したんだっけ。まつわるところに秀ちゃんがいる。ローソンから目をそらすと、時計があり、頭をもたげ時計を確認した。20時。

 秀ちゃんにメールはしたけれど、返事が来ない。

 けれど電話も拒否になっている。あたしは、せつな不安感におそわれ、その場にうずくまった。

 カバンの中がブルブルと震えぎょっとなる。

 整理のされていないぐちゃぐちゃのカバンから急いでスマホを取り出し通話ボタンを押した。

『どこ?』

 秀ちゃんは?あたしは、くるりと辺りを見回す。

『どこ?』

『まさか、西口にいる?ローソンがあるほう?』

『うん、』

『あ、そっちは、裏だわ。待って。そっちにまわるから』

う、うん、と、こたえたときには、既に電話は切れていた。

 スマホを握りしめ、ロータリーに向かう。

 東口にいるのだから、3分もかからずに来るだろう。口の中がサハラ砂漠状態になっていてついさっき買ったお茶のふたをあけ、口に含んだ。

 胃にぬるい液体が落ちてゆくのがわかる。

 秀ちゃんには缶コーヒーを買った。温かいコーヒーは既に冷めかかっていた。

 ロータリーに黒いビッツが入ってくる。秀ちゃんの車だ。足が笑っている。どうしよう。

 車があたしの前にとまり、秀ちゃんが目を向けた。助手席をあけ車に乗り込む。

「ひ、久しぶり……」

 秀ちゃんの方を見やる。秀ちゃんもまた、久しぶり、とだけいい、悪いなうちでもう飯食ってきちゃったよ、口の端をあげながら、笑いを含ませいいつつ、あ、風呂も入ってきちゃった、ついでを強調し付け足した。

 久しぶりに見た秀ちゃんの横顔。なんだか痩せて見えた。いや、痩せたのだろう。

いいたいことや、ききたいことが、盛りだくさんあった。けれど口を開けば涙が出そうでしばらくは無言の空間が続いた。

「仕事は?どう? 少しは落ち着いたのかな?」

「まだ、ちっともだよ。だから、今日は実家に泊まるんだよね。実家からだと30分は余分に寝られるからさ、あやちゃんは?仕事どう」

 語尾上がりに質問された。なので、

「まあ、変わらずですよ」

 敬語になってしまった。秀ちゃんが、なにぃ〜、敬語ってさぁ〜クスリと笑みを零した。

「あんまり、時間がないなぁー」

 車は山道を走っていた。どこにいくの?きこうかと思っていたら、なぜか、地味でこんなところにまさか! 的な陳腐なホテル街についていた。

「え、ホテルはまずいんじゃあ、ないの?」

 もうあたしのことを抱いてくれないと思っていたので、目を丸くしながら尋ねた。

「は?ホテルだからって抱くわけじゃあないよ」

 本音なのか、うそなのかわからない口調で慣れたように車を停めた。

 部屋は外観とは違いこざっぱりしていて広く小奇麗だった。

 あたしたちはたちまち落ち着かなくなる。だって別れたのにまたホテルにいる。

 秀ちゃんは? あたしのことが嫌いになったわけじゃないの? 奥さんとあたしのはざまで疲れたから奥さんとの生活を自ら選んだんじゃあないの?

 秀ちゃんは、なぜか仕事のことを話し始めた。今の現場は過酷で大変だけれど、少しだけ落ち着いてきた。一緒に現場監督をしている、松野さんの話しやら、子どもたちの話しをした。秀ちゃんのバックグラウンドのことをたくさん知っているので、どんな話しをされても楽しく、懐かしくきけていた。

 話が途切れた。

「どうして、秀ちゃんはあたしから離れようとするの?」

 あたしの方に向き直りまっすぐに視線を向ける。

「……その話か、したくない』

 ずるいと思った。あたしはそのまま引きつけられるよう、秀ちゃんに抱きついた。

 ずっと、こうしたかった。抱きしめたかった。

 もう、止められなかった。秀ちゃんの唇を探し、必死で塞いだ。秀ちゃんはあたしをそのままベッドに押し倒し、服をむぞうさに剥ぎ取った。

 シャワーをしたかったけれど、もうどうでも良かった。ただただ裸で抱き合いたかった。温もりを知りたかった。

 秀ちゃんがあたしの首に手をあてる。首が弱いことや、ひどく扱われることを好むことを熟知しているので、ひどく扱われた。涙が出ても秀ちゃんはいや応なしに後ろから突き上げてきた。

 あたしは天井を見やり、嬌声をあげた。たくさんあげた。そして、秀ちゃんもまた、小さく声をあげた。秀ちゃん、秀ちゃん。なんども名前を呼んだ。名前を。お願い。秀ちゃん、あたしから去っていかないで。お願い。

 2人は重なったまましばらく動けず肩で息をしていた。あたしは強く願う。このまま時が止まればいいのにと。あるいは今大地震がこればいいのにと。

 抱き合うこと以外彼の愛を享受することがどうしたってできない。あって彼を感じ触れ合うことがすべてならばそれはそれでいい。もう失いたくない。あたしは依存しているのだろうか。

 先のない2人。先がないのに抱き合う2人。

 好きだという言葉は音には変換ができない。いえばまた苦しめることになるから。

 刹那的な時間は瞬く間に過ぎ、ホテルを後にした。助手席にいるのに、秀ちゃんはやはり手を握ってくれなかった。以前は握ってくれていた右手。あの頃は今さらに考えてみたらなんてぜいたくですてきな出来事だったのだろう。

 あっという間に駅に到着した。

「あ、もう、着いちゃったね」

「だね」

 あたしがドアをあけようとしたとき、後ろから肩を捕まれ、軽くキスをされた。

「あ、」

「じゃあ、また、な」

 秀ちゃんがいう。

「またっていつなの?」

「または、また。すぐに行きな。今、ちょうど電車がきてるから。てゆうかすぐにくるし」

 うなずき、車から降りた。かなり後ろ髪を引かれた。

 振り返らずに切符売り場に足を急かす。

 振り返らずではなく、振り返ることが出来なかった。

 泣いていたから。

 秀ちゃんの前では泣かなかった。

 あたし、少しは成長したのかもしれない。

 ホームに立ちはだかる。秀ちゃんのいった通り、電車がホームに滑り込んできた。

 あたしの頬はぬれている。桜の散るころの、夜の深まるころ。
 せつなさと彼の余韻のはざまで揺れるあたしは電車にも揺られ、帰路に向かう。

Barren love 不毛な恋たち 【全12回】 公開日
(その1)あめのなかのたにん 2020年4月29日
(その2)とししたのおとこ 2020年5月29日
(その3)おかだくん 2020年6月19日
(その4)つよいおんな 2020年7月31日
(その5)舌下錠 2020年8月31日
(その6)サーモン 2020年9月30日
(その7)シャンプー 2020年10月30日
(その8)春の雨 2020年11月30日
(その9)依存症 2020年12月28日
(その10)ワニのマフラー 2021年1月29日
(その11)ヘルスとこい 2021年2月26日
(その12)オトコなんてみんなばか 2021年3月31日