表現とは究極の自己表現だ

表現とは究極の自己表現だ

表現とは究極の自己表現だ

人間にとって表現とは何か? 個人が本を書くことの意味は? 数々のヒット作を世に送り出してきた幻冬舎社長·見城徹が人が本来持つ欲求の根源に焦点を当て、表現の本質について語った。

人は本能的な欲求が十全に満たされても「表現」をしなければ、前へ進むことはできない

kenjosan

表現は「人間の最も本質的な欲求」のひとつであり、人間の生を支えるために不可欠な行為です。それはプロの作家であっても、そうではない人であっても同じ。これまで僕は、そう思いながら多くの作家と編集者として向き合ってきました。

人間には、食べたり寝たりセックスしたりという本能的なものとは別に、「どうしてもそれをしなくては前に進めない」という欲求がいくつかあります。「表現欲求」は、その中でも最も本質的なものです。表現することによって自分の気持ちが整理され、癒され、満たされる……人は表現することによって、救いを得ることができるのです。表現することで前向きに生きていけるようになるのです。

自己と徹底的に対峙し、心の奥底にあるものを書く。作品づくりに不可欠なのは「オリジナリティ」

内容が上手か下手かはあまり関係ありません。作品づくりにおいて重要なのは「自分のオリジナルな世界を作れるかどうか」なのです。だから決して一般論で表現してはいけません。自らの心の奥底から湧き出てくるものを掴み取り、書かなければならないのです。

当たり前のことですが、その人の人生はその人だけのもの。だから自分の人生と正面対峙して書いたものは、おのずとオリジナルな作品になっているはずです。自分の内面に迫った独自性の高い作品でなければ、読み手の心を掴むことはできません。

著者が強い覚悟を持って書いたオリジナルな作品には、何か大きな才能、可能性が潜んでいるものです。それを見逃さずに引き上げていくのが編集者の役割です。

ブログやSNSへの投稿は承認欲求を満たす「表現のきれっぱし」でしかない

SNSやブログがここまで普及したということは、実はみんな「表現したい」ということだと思います。みんなTwitter、Facebook、Instagramなんかで、「自分はこう考えている」「こんな風に生きてきた」などという記事をアップして自己承認欲求を満たしたいのでしょう。

SNSやブログは、いわば「表現のきれっぱし」でしかありません。もちろん「きれっぱし」をアップするだけでも、ある種の表現欲求は満たされるとは思います。しかしそれでは、本当の自己救済を得ることは不可能です。大切なのはSNSやブログで書き散らかした表現のきれっぱしを体系立てていき、しっかりとした自己表現、つまり作品として形に残るものに結実させるということなのです。

作り上げた本は、たとえ書店で爆発的に売れなくてもいいのです。例えば人に配ることができたり、子供に残すことができたり、家族に手渡すことができたりするだけでも、大切な人に自分の思いが伝わり、十分に本にした意味、目的を果たします。

傷つき、血を流し、自己救済を得る…… 本を書くということは「究極の人生表現」である

人は何か欠落していなければ表現をしません。欠落しているから、満たされないからこそ、表現したい、書きたいという強い衝動にかられるのです。「書く」という行為は自分も傷つくし、まわりの人も傷つけます。表現は無傷ではできないのです。表現するからにはみんな、血を流す。血を流さなければ表現にならないし、その覚悟がなければいい作品なんて生み出せません。そのような闘いによって一冊の本を書きあげ、誰かに読まれることによって、ようやく自己救済を得ることができるのです。

本は読者の心を動かし、読者の人生に影響を与えます。本を書くということは、自己救済だけではなく、他者への働きかけという意味で貴重なものでもあるのです。僕は一冊の本を作り上げるという究極の人生表現を、一億何千万人、誰もが挑戦していいことだと思っています。

見城 徹 けんじょう とおる
株式会社幻冬舎 代表取締役社長

慶應義塾大学法学部卒。75年角川書店入社、「月刊カドカワ」編集長などを歴任後、取締役編集部長を最後に93年退社、幻冬舎設立、代表取締役社長に就任。五木寛之『大河の一滴』、石原慎太郎『弟』など創立22年で21本のミリオンセラーを送り出す。著書に『編集者という病い』(集英社文庫)、『異端者の快楽』 (太田出版)、『憂鬱でなければ、仕事じゃない』(藤田晋との共著/講談社文庫)、『たった一人の熱狂』(双葉社)、『過剰な二人』(林真理子との共著/講談社)、など。

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