印刷がなかった時代、書籍は「写字生」と呼ばれる人々の手作業で書き写されていました。彼らの写本を眺めると、その文字の美しさにくぎ付けになります。
よく見ると、使われているインクは黒色だけではありません。茶色や藍色など、さまざまな色で文字が書かれています。こうした色の相違は、インクの材料や製法の違いに起因しています。
古代から中世にかけて、インクに関する様々な研究が各地でおこなわれました。より良いインクを求め悪戦苦闘する人々の努力が、写本の文字の色からは窺えます。
本コラムでは、インクの製法が古代から中世にかけてどのように変化したのか、それに伴いどのようにして様々な色のインクが誕生したのかをご紹介しましょう。
古代のインクは、炭を原料としたものが主流でした。例えばエジプトが発祥といわれる炭のインクは、蜂蜜や油、ゴムの樹脂や卵白などを加えて練ったものです。
インクの作り方については、紀元前1世紀の建築家ウィトルウィウスの『建築について』や、紀元前1世紀の博物学者プリニウスの『博物誌』で言及されています。これらの文献には、煤をゴムの樹脂で練ったり、ぶどうのつるや木々を燃やしたものを加えたりといった工程が記されています。また、質のよいワインを加えると藍色に近いトーンのインクができたそうです。古代ローマの詩人ペルシウスやローマ帝政末期の詩人アウソニウスの記述からは、炭のほかイカの墨も原料となっていたことがわかります。
中世初期の7世紀、ヨーロッパでは書籍に使われる紙がパピルスから羊皮紙へと移行しました。この移行の要因となったのが、本の形状の変化です。この当時、本は巻物から現在の書籍に近い綴じ本に変わりました。しかし、古代エジプト発祥のパピルスは片面にしか文字を書くことができなかったため、両面に文字を書く綴じ本には不向きでした。そこで、両面に文字が書ける羊皮紙を使うようになったのです。
パピルスに使用されていたインクは炭をベースにしており、羊皮紙に付着しにくいという性質がありました。そのため、羊皮紙に付着しやすいタンニンを多く含んだ、植物性の「
没食子──カシやナラの木の枝にできる虫瘤──を水やワインで煮込んでつくるこのインクは、後世の研究者泣かせといわれています。というのも、植物性のインクは腐食しやすく、羊皮紙を破損させてしまうためです。年月とともに文献が解読不可能になってしまうケースも、決して少なくありません。
このように、ヨーロッパでは羊皮紙に対応するため、さまざまな原料からインクの製法が試みられました。中世の写本には黒色だけでなく暗褐色や茶色のインクも使用されていますが、こうした色の差異も原料の違いから生じたものです。
例えば6世紀ヨーロッパでは、セイヨウサンザシやスローの木の小枝をふやけるまでワインに浸すことでインクを生成していました。また、色を濃くするために
いっぽうで、中世のアイルランドやアングロサクソン諸国では、黒色やこげ茶色のインクがより多く普及していました。雨水・ワイン・酢とともに、没食子・礬類が主な材料でした。
時代は下って、15世紀に活躍した写字生ジャン・ル・ベークが記したインクのレシピは、以下のようになります。
こうした自家製のインクは、写字生たちの間でも秘伝とされることが多かったそうです。同業者間でのライバル意識から、競合相手に技術が漏洩することを恐れたのかもしれません。
17世紀から18世紀にかけては、インクの主原料はほぼ変わらず受け継がれました。17世紀ヴェネツィアの医師ペトゥルス・マリア・カネパリウスによれば、上記の材料に加えて非常に酸味の強い酢を使用し、できあがったインクはガラスの瓶に保管したとされています。ガラスの瓶に入れるのは、太陽光や空気に触れることを避ける目的があったそうです。
ちなみにカネパリウスのインクのレシピには、白ワイン・酢・没食子を煮てアラブのゴム樹脂と混ぜたあと、再び煮詰める際に「主の祈りを3回」唱えるとあります。分数ではなく、主の祈りの回数で時間を計る点に、中世のエスプリを感じます。
写本の多くは、ページ冒頭の文字を大きく赤いインクで記すのがふつうです。高価な聖書や儀典では金や銀が使用されることもありましたが、それほど高価ではない通常の写本では、冒頭の文字は赤色のものが大半でした。
ちなみに、イタリア語では「項目で分ける」ことをrubricareといいます。これは、写字生たちが見出しに赤色(rubrum)を使ったことに由来しています。
写本を見る機会があったら、紙面を彩る美しいインクの色にもぜひ注目してみてください。その裏には、写字生の苦闘や紙の変化など、果てしない歴史のロマンが広がっているのです。
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