WEB小説コンテスト「イチオシ!」

エントリーナンバー3 カップの底に見えたものベリーダンサー・カメリアの物語

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著者名:富澤 規子

 パリに移り、カメリアはユダヤ人の婚礼や割礼式で踊るところから再スタートする。夜の早い時間はユダヤ人のパーティ、深夜はナイトクラブの営業にまわる。ここでまた、一つの転機が訪れる。当時パリにいたユダヤ人はチュニジア系で、チュニジア本土とのパイプを太く持つコミュニティだった。カメリアはそこで、チュニジアのホテルでのディナーショーの契約を持ちかけられた。80年代初めの話だ。

 エジプトから引き上げ、もっと新しい自分独自のスタイルを確立できないかと野心を持ち始めるのもこの頃だ。エジプトは本場と言われてはいても、一流ダンサーは次々と引退し後継者がおらず、ミュージカル映画の新作もない。そんなエジプトのスタイルをそのまま真似ていてはダメだと感じていた。新しい踊りの演出のために、アラブ諸国の民族舞踊を学ぶ一方で、日舞を取りいれるなど試行錯誤の繰り返しだった。アラブ歌謡曲の理解にも努力した。歌に乗せて踊る時、歌詞と表情がちぐはくであってはならない。私達外国人はアラブ歌謡を音楽として聞いてしまうけれど、アラブ人は物語りとして聞いている。この点ではアラビア語ネイティブでないカメリアはやはり不利であった。言葉の壁を凌駕して、アラブ人をうならせ共感させる新しい演出をといつも考えていた。


 この頃にはカメリアはアラブ人との付き合い方を大分心得ていた。

 そもそもイスラームでは歌舞音曲のたぐいは慎むべきものだ。それにも関わらずアラブ人は総じて歌い踊ることに熱狂する。ダンサーは結婚式などの華やかな場で多くの謝礼をもってその技芸を求められたが、社会的地位と評価は極めて低かった。大半の外国人芸能者はアラブのこの本音と建前を理解できず、成功にたどりつくことができない。

 そしてカメリアはダンサーが誤解を受けやすい職業と長年の経験で重々理解できていた。実際、ダンサーとは名ばかりでプライベートに客を取る女達がいくらでもいたし、アジア人売春婦は昔からアラブにもヨーロッパにもストリートにうんざりするほど存在する。

 また80年代になると実業家や上流階級、成金と呼ばれたオイルダラーでさえも世代交代をし、欧米での留学経験をもつ洗練された人々がショービジネスの上客となる。かつてのように札びらを切る遊びを品がないと恥じるようになり、ホテルのディナーショーは夫人同伴で訪れる社交の場となった。そのような時流になると、オリエンタリズム的イメージのステロタイプである性に奔放なダンサーではショーの運営者は困るのだ。

 カメリアはアラブ人社会のこの変化に敏感だった。

 肌も露なステージ衣装で決して客席に近寄らず、ショーの幕間に客席に挨拶にまわる時は必ずゆったりとしたガウンを着込む。出演時間以外にホテルの中を無闇に出歩かない。客席でおしゃべりをする時は、夫人のほうを必ず立てる。時に日本の書道を披露し、教養のある会話を心がける。

 そのような積み重ねのなかで、「カメリアだけは違う」とアラブ人から尊敬を受けるようになる。そうして上流階級夫人達の信用を得たことは大きい。アラブは男性上位社会のようでいて、家内は夫人が取り仕切り男性が口を出せない一面もある。チュニジアのブルギバ大統領夫人のパーティや、サウジ王家のスイス別荘への招待と上げれば切がないほどの彼女のキャリアには夫人達との信用がある。